『大舶の譬喩』──応説経より
海辺に、ひときわ大きな船があった。
藤づるで岸に結びつけられ、その甲板には幾人もの僧が、潮の香りを胸いっぱいに吸い込みながら、静かに座していた。
師は、その中央に立っていた。
風に揺れる袈裟が、海光を受けて淡く金色に輝いている。
彼の眼差しは遠く沖を越え、さらにその向こうの果てしない光の彼方を見据えていた。
「弟子たちよ」
師の声は、潮騒をもやさしく押し返すように響いた。
「いくら巧みに方法を尽くして修行したつもりでも、心の根にある結び目を断たねば、解脱は得られぬ。
煩悩の縄は見えぬほどに絡みつき、おまえたちを縛り、自由を奪う。
それを解く鍵は──七科三十七道品の修行にある」
僧たちは深く頭を垂れた。
しかし、師はなお続ける。
「この船を見よ。藤づるは堅固だ。だが──夏の六月、海は荒れる。
嵐が来れば、藤づるは少しずつほつれ、やがて断ち切られる。
そうなれば船は沖へ流され、やがて波に砕かれ、形を失うだろう」
一人の若い僧が、はっと息をのんだ。
師はその瞳をまっすぐに見つめる。
「煩悩も同じだ。どれほど強く、おまえたちを縛るものであろうと、精進を重ね、修行を成就するならば──
やがてその縄も断たれ、心は解き放たれる」
潮風が一瞬止み、ただ波のきらめきが甲板に映った。
「四念処、四正勤、四如意足、五根、五力、七覚支、八正道──
これらを修めよ。
これこそが、あらゆる結び目を断つ剣であり、おまえたちを彼岸へ導く大舶の帆だ」
その言葉が終わると、沈黙の中、六十の僧の胸に灯がともった。
長く暗かった心の海に、ひとすじの道が開けるのを、誰もが確かに感じたのだ。
師は穏やかに頷き、再び遠い光の方角を見た。
弟子たちは立ち上がり、波の音を背に、修行の道を歩み始めた──。
夜。
海は凪ぎ、星々が甲板に降り注いでいた。
若い僧は眠れず、一人で船の舷に立っていた。
潮の香が鼻をくすぐり、遠くの波が暗闇の中で白く泡立つ。
──藤づるが切れる時、船は沖へ。
師の言葉が、何度も心の奥で反響する。
彼は自分の中の藤づるを思った。
慢心、怒り、欲望、そして幼い頃から背負ってきた孤独。
それらが自分を岸に縛りつけ、動けなくしている。
「四念処……」
彼は小さくつぶやいた。
息をゆっくり整え、今ここにある身を観じる。
潮風の冷たさ、胸の鼓動、足裏に伝わる船のかすかな揺れ──
それらをただ、ありのままに見つめた。
やがて夜が明け、朝の修行が始まった。
彼は師のもとで座し、四正勤を心に刻む。
「
その言葉を繰り返すたび、心に一本の道が描かれていくようだった。
日々は静かに流れた。
彼は歩くときも、食べるときも、座るときも、八正道の一歩一歩を踏みしめた。
ある夕暮れ、ふと気づく。
胸を締めつけていた藤づるが、わずかに緩んでいる。
それは嵐による断絶ではなく、自らの手で少しずつ解きほぐした手応えだった。
師はそんな彼を見て、静かに頷いた。
「よい。
大舶はもう沖へ漕ぎ出せるだろう。
だが沖はまだ遠い。
帆を揚げるのは、これからだ」
若い僧は深く礼をし、海の果てを見た。
その先に、解き放たれた魂の光が、確かに輝いていた。
その夜、海は急に荒れた。
黒い雲が月を覆い、波は船の舷を打ち、潮が甲板に吹き上がる。
船は軋み、藤づるは悲鳴をあげるようにきしんだ。
僧たちは甲板に集まり、必死に船を押さえた。
若い僧も両手で藤づるを握りしめたが、そのとき師の声が、嵐の轟きの中でふと耳に届いた。
「藤づるを切るのは嵐ではない。
おまえ自身の心だ」
彼ははっとした。
嵐の中、目を閉じた。
そこには別の嵐があった──欲の風、怒りの雷、愚痴の波。
それらが何度も何度も彼を打ちつける。
「四念処……四正勤……八正道……」
心の中で唱えるたび、呼吸が整い、嵐が少しずつ遠のく。
波間に、一筋の光が差した。
その瞬間、彼は内なる藤づるがすでに解けていることに気づいた。
握っていた手を放すと、海風が船を沖へ押し出す。
甲板の上、師がゆっくりと頷いた。
嵐は次第におさまり、東の空が白んでいく。
沖合には、朝日を受けて輝く水平線が広がっていた。
若い僧はその光をまっすぐに見つめた。
もはや彼を縛るものはなかった。
大舶は、静かに、しかし確かに、彼岸へ向けて進みはじめていた。
嵐が過ぎた海は、鏡のように静まっていた。
波は穏やかに船底を撫で、陽は水面に金の道を敷く。
若い僧は甲板に座し、ただその光を見つめていた。
胸の奥にあった重みはもうない。
風も波も、己の心も、すべてが同じひとつの流れに溶けている。
師が隣に歩み寄る。
何も言わない。ただ、その沈黙がすべてを語っていた。
遠くで海鳥が一声鳴き、白い翼が朝日に溶けていく。
若い僧は静かに合掌し、心の中で一言だけつぶやいた。
──もう、着いた。
船は進み続ける。
だが、その行き先はもはや、彼の内にも外にも、隔てなく広がっていた。




