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如意宝珠を授かる者』 ――祈りの山にて

『如意宝珠を授かる者』

――祈りの山にて

 

深山幽谷。霧が立ちこめるその山の奥、ひとりの行者が、岩座の上に静かに座していた。名を蓮慧(れんえ)という。

風が絶え、鳥も鳴かない。ひたすらに沈黙する大地の上、蓮慧はただ一点を見つめる。そこに祀られたのは、**如意宝珠尊(にょいほうじゅそん)**の小さな石像。無数の巡礼者の祈りを浴びて、表面はすり減りながらも、眼だけがなお鋭く輝いていた。

蓮慧は掌を合わせ、口を開いた。

 

> 「南無 大慈大悲 法身駄都 如意宝珠尊──」
> 「おん さらばたたーがた うしゅにーしゃ だと……」

祈りは、言葉を越え、音そのものとなり、山と一体となって響く。谷の岩肌に、祈りの波紋が走るようだった。

その瞬間、蓮慧の内にあった「迷い」が、まるで霧が晴れるように、音もなく消え去っていった。

> 「むどらに さらばたたーがたん 畝陀羅把薩 轉但他藥單……」

――印を結ぶ手の先に、淡い光がともる。それは誰にも見えぬはずの、心の如意宝珠。蓮慧の胸奥から現れたその光は、微かに揺れながら、呼吸に合わせて脈打っていた。

> 「さだとびぶしゅた あじしっちてい 沙駄靚尾 補悉多地 瑟知底……」

彼の内側に広がる世界が、ゆっくりと反転する。かつて「苦しみ」と思っていたものが、「導き」だったと気づく。
かつて「怒り」と思っていたものが、「護る力」だったと知る。

> 「じゃくうんばんこく うんうん そわか……」

最後の音が消えるとき、蓮慧はそっと目を開いた。何も変わっていないようでいて、すべてが変わっていた。

――石像の前に、ほんの一瞬だけ、宝珠のような光が浮かび、空にとけていった。

 

その日以来、蓮慧の祈りには、不思議と人を癒す力が宿るようになったという。
けれど彼自身は、ただ静かに微笑むばかりだった。

 

> 「如意宝珠は、求めて得るものではない。ただ、真に祈ったとき、我が心に現れるものだ」

 

そう語る蓮慧の言葉は、やがて弟子たちのあいだに「如意宝珠法」として伝わり、時を越えて人々の心を照らし続けた。

第二話「迷いを癒す珠」

山を下りてから七日目の夕暮れ、蓮慧(れんえ)は、かつての友・**周道(しゅうどう)**の住む庵を訪れた。竹林の中にひっそりと建てられたその庵は、風の音だけが通り抜ける静寂に包まれていた。

戸を叩くと、奥からゆっくりとした足音が聞こえた。

「……まさか、お前が来るとはな」

姿を現した周道は、かつて寺で共に学びを受けた修行仲間だった。だが、ある日突然すべてを捨て、山を離れ、人との関わりすら断ったと聞いていた。

その面差しには疲労が濃く刻まれていたが、どこか、憑き物が取れたような透明さもあった。

 

「何をしに来た? 祈りの力でも見せに来たか?」

周道は少し笑ってそう言った。だが、その声には棘よりも深い疲れが滲んでいた。

 

「いいや」
蓮慧は、静かに首を振った。

「ただ、お前の隣で、祈ってみたくなったんだ」

 

その晩、ふたりは囲炉裏の火を囲み、言葉少なに時を過ごした。外では竹が風に軋む音がする。炭がはぜるたびに、周道の瞳が微かに揺れた。

 

「……蓮慧、お前には見えているのか?」
周道がぽつりとつぶやいた。

「この、心のなかの……迷いが。人のために祈ろうとすればするほど、自分が空っぽになる。俺には、何も与えられん」

 

蓮慧は、火の中を見つめながら言った。

「空っぽになるのは、いいことだ」

「……なぜだ」

「空っぽになったその場所に、珠(たま)が現れるからだよ」

 

言って、蓮慧は掌を合わせた。そして、声を低く落とし、山で唱えたあの真言をゆっくりと唱え始めた。

 

「おん さらばたたーがた うしゅにーしゃ だと」
「うん さつば だった はった うさば しゃだと……」

 

周道は最初、それをただ聞いていた。けれど、いつしか声なきままに、その音を心の奥で繰り返している自分に気づいた。

言葉ではなかった。祈りの音そのものが、彼の中に**「珠」**のように灯りはじめた。

ふと、涙が頬を伝った。

 

「……こんな俺でも、光を持てるのか」

「持ってるさ。最初から」

 

その夜から、周道はふたたび人の心に向き合い始めた。
だが、以前のように力づくではなく、ただ耳を澄ませ、ただ共に黙って祈ることを覚えた。

 

数年後、その竹林の庵には、多くの者たちが静かに訪れるようになった。

彼らは言った。

> 「あの人の前に坐ると、なぜか心が澄むんです」

 

そして、いつしか人々は**その庵を「珠庵(じゅあん)」**と呼ぶようになった。

 

第三話「夜の谷に咲く光」

それは、闇が底に満ちた村だった。
山の陰にひっそりと広がる谷間の集落。
今、その地では、子どもたちに奇病が流行していた。
熱を出し、うなされ、名を呼んでも目を開けない。
医者も薬師も手を尽くしたが、原因はつかめず、村人たちは恐れと疲労に沈んでいた。

 

そんなある日、一人の行者が村を訪れた。
――**蓮慧(れんえ)**である。

白衣に身を包み、風の音のように静かに歩くその姿に、誰かが呟いた。

> 「……あれが“珠を授かる者”か……」

 

蓮慧は、誰にも奇跡を約束しなかった。
ただ黙って病床の前に座り、掌を合わせ、目を閉じた。

 

最初の夜。
子を抱いて泣き崩れる母のそばで、彼はただ一言もなく、真言を唱え続けた。

 

「おん さらばたたーがた うしゅにーしゃ だと……」
「むどらに さらばたたーがたん うだらはさつ てんだんた やくたん……」

 

それは声というより音の波だった。
村の空気が、祈りの音に少しずつ共鳴していく。
火のような焦燥が、静かな水面のように鎮まっていく。
人々はただ黙って、彼の祈りを聞いた。

 

――その夜、谷に霧が立ちこめた。

そして、ひとつの病床の子どもが、静かにまぶたを開けた。

 

朝になり、何かが変わっていた。

子どもたちの熱が、少しずつ下がりはじめた。
不思議と、村人たちの顔にも、強張っていた表情の間に言葉の隙間が生まれていた。

 

蓮慧は、何も言わなかった。
病が治ったのは彼の功徳だとは言わなかった。

 

ただひとこと、山を離れる前に呟いた。

 

> 「珠は、夜の谷に咲く」
> 「見えぬだけで、いつもそこにある。
>  ただ、祈りが、その光を見せてくれる」

 

その言葉は、まるで霧の中に消えたが、
それからというもの、村人たちは、誰かが病に倒れたとき、
必ず、共に静かに祈るようになったという。

 

谷の夜には、再び光は見えなかった。
だが、祈りの手が集まるとき、
そこには必ず、珠のような安らぎが満ちていた。

 

第四話「宝珠は誰の中にあるか」

蓮慧(れんえ)が村を離れたあと、谷の人々は語り合った。

> 「蓮慧さま祈りが、子どもたちを救ったのだ」
> 「あの人こそ“珠”を持つ特別な者だ」

誰もが、祈りの力は“彼のもの”だと信じていた。
いつしか村の入口には、小さな祠が建てられ、彼の姿を模した石像が置かれた。

 

あるとき、一人の若者が、祠の前で手を合わせながら呟いた。

> 「自分の中に、そんな珠なんてない。俺はただ、あの人にすがりたいだけだ……」

 

そしてまた、別の声が上がる。

> 「蓮慧さまは、いつ戻ってくるのだろうか」
> 「“祈りのやり方”を教えてくれたら、自分も人を癒せるのに」

 

静かだった村に、**“待つ心”と“すがる心”**が満ちていく。

 

そして、ある日。
蓮慧が、ふたたび村に現れた。

彼は何も言わず、石像の前に立ち、しばらくそれを見つめたあと、背を向けた。
人々が後を追いかけ、彼に問いかけた。

 

> 「蓮慧さま、どうかまた祈りを──」
> 「私たちにも、“その珠”を分けてください!」

 

そのとき、蓮慧は、立ち止まって静かに言った。

 

> 「珠は、誰かからもらうものではない。あなたの中に、すでにある」

 

人々は顔を見合わせた。
誰もが口には出せなかったが、心のどこかでこう思っていた。

> (そんなはずはない。自分の中には何もない。
>  この人が特別なのだ。だから祈れるのだ)

 

蓮慧は、その沈黙を見ていた。
けれど、怒らなかった。ただ、ひとつの話をした。

 

> 「昔、私も空っぽだった。
>  何も与えられない者だと、思い込んでいた。
>  だが、空っぽになったとき、声なき祈りが胸に満ちた。
>  それが、“珠”だった」

 

彼は静かに、村人たちの方へ掌を向けた。

> 「あなたが誰かの痛みを感じたとき、
>  その胸の奥に、かすかな光があるはずだ。
>  それを信じ、手を合わせたとき──
>  それこそが、宝珠の光となる」

 

その言葉に、年老いた一人の女性が、
涙を流しながら合掌した。

彼女のそばにいた娘が、母の手を取って、そっと祈った。

 

そしてその夜、村の祠には光が満ちていたという。
それは、誰かの心の中で灯った珠の反映だったのかもしれない。

 

第五話「声なき祈りが導くもの」

蓮慧(れんえ)は、北の山裾にある集落へと足を向けていた。
そこは霧深く、道も細く、人の声があまり聞こえぬ土地だった。
かつて山崩れで多くを失ったその村には、いまだ笑い声も祭も戻っていなかった。

 

彼が村に入ったとき、誰も歓迎しなかった。
人々は顔を背け、無言で通り過ぎていった。
言葉も、信仰も、信頼も、すべてが失われて久しい村。

 

ただ、一人の少女だけが、彼の背中を見つめていた。

 

名を、**柊(ひいらぎ)**といった。
言葉を発することができず、村の片隅で日々を静かに過ごしていた。
彼女の目だけが、なにより多くを語っていた。

 

蓮慧は柊に気づくと、微笑み、小さな竹笛を取り出した。
音は出さず、ただ笛をそっと握って差し出した。
柊は、それを受け取り、胸に抱いた。

 

その夜、蓮慧は村の広場に坐した。
焚き火も灯さず、経も唱えず、ただ静かに目を閉じていた。

 

村人たちは訝しんだ。
「なぜ祈らぬのか」「なぜ言葉を出さぬのか」

 

しかし、柊だけは分かっていた。
**それは“声なき祈り”**だったのだ。

彼が発する祈りは、耳で聞くものではなかった。
沈黙そのものが、祈りだった。

 

翌朝、柊は笛を吹こうと試みた。
うまく音は出なかったが、村の子どもたちがその様子を見に来た。
やがて彼女の周りに、ぽつぽつと笑顔が戻りはじめた。

 

数日後、村の中央にある小さな祠に、誰かが花を手向けた。
誰が置いたのかは分からない。だが、そのとき村に流れていたのは――

 

言葉にされぬ“感謝”の気配だった。

 

蓮慧は静かに村を離れた。
柊は見送りながら、両手を合わせて祈った。
声は出さず、ただ祈った。

 

その夜、彼女の笛が、初めてかすかに音を鳴らした。

それはまるで、珠が共鳴した音のようだった。

第六話「沈黙の寺、響きの間」

旅の果て、蓮慧(れんえ)はひとつの寺に辿り着いた。
山深く、苔むした石段の奥に佇むその寺の名は――無響院(むきょういん)。

その寺には、ひとつの掟があった。

> 「この寺では、いかなる声も発してはならぬ」
> 「経文も読まず、鐘も鳴らさず、ただ“沈黙”の中に座すのみ」

 

蓮慧は、ためらわず門をくぐった。
そこには修行僧たちが静かに坐し、まるで音すらも封じた時の中に生きていた。

 

だが、その寺には一つの“異音”があった。
夜になると、本堂の奥の間からかすかな音が響いてくるという。
誰が奏でているのかは分からず、誰も近づくことも許されなかった。

 

ある晩、蓮慧はひとり、音を辿って本堂へ向かった。
扉の前に立つと、確かにそこからかすかに響く音があった。

──それは祈りの声でも、楽器の音でもない。
だが、確かに、心を震わせる響きだった。

 

扉の内にいたのは、一人の老僧だった。
名を、**黙念(もくねん)**といった。
かつて寺の長であり、二十年前、声を封じて以来、誰とも口をきかずにこの間に籠もっていたという。

 

老僧は、蓮慧に気づくと、そっと一枚の紙を差し出した。

そこにはこう記されていた。

> 「私は祈ることを、言葉で失った」
> 「祈るとは、“何を言うか”ではなく、“何に耳を澄ませるか”なのだと知った」
> 「だが私は今も、何かが足りぬ。
>  私の沈黙は“閉ざした”沈黙なのだ」

 

蓮慧は目を閉じ、老僧の前で掌を合わせた。
そのまま、ひとことも発さず、ただ静かに祈りの“響き”を流した。
まるで、彼の沈黙を、内側から打ち解くように。

 

夜が更ける中、
老僧の目から、静かに涙がこぼれた。

そして初めて、唇が微かに動いた。

 

> 「……聞こえた……」

 

誰の声でもなかった。
だが、胸の奥に珠の音が鳴ったのだった。

 

翌朝、無響院の鐘が、二十年ぶりに鳴り響いた。

それは誰かが打ったものではなかった。
だが、沈黙を貫いた者たちの胸に、共鳴する音が広がった。

 

 

 

 

 

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