『観音の名を呼ぶ時』
東京のビル街、ビジネスホテルの一室。
夜中の2時、無尽意と名乗る男はベッドの上に正座していた。
薄暗い部屋の中、ただ一つの灯だけが彼の瞳を照らしている。
彼の手には、一冊の古い仏典が開かれていた。
「世尊、観世音菩薩は何の因縁で観世音と名づけられたのでしょうか…」
彼は自らに問うように、そっと呟く。
外では、誰かが叫んでいた。
暴走族か、誰かが喧嘩しているのか。
この都市はいつも、苦と恐れで満ちている。
彼は目を閉じた。
「観音菩薩…観じて音を聞く者よ。あなたは本当に、我らの声を聞いてくださるのですか」
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そのころ、海の向こう、インド洋を渡る貨物船の中。
ひとりの青年、スバンは小さな仏像を首にかけていた。
それは彼の祖母が「守り仏」として渡してくれたものだった。
夜、突然の嵐が船を襲い、コンテナが倒れ、甲板では怒号が響いた。
「羅刹の国にたどり着くぞ!」
誰かが冗談めかして叫んだ。
その言葉に、彼の背筋が凍る。
小さいころ、祖母が話してくれた“人を喰らう鬼の国”の伝承が脳裏をよぎった。
咄嗟に彼は、祖母に教えられた真言を唱え始めた。
「ナム カンゼオン ボサツ…ナム カンゼオン…」
その瞬間、船の揺れが不思議と静まり、突風はおさまった。
目を開けたスバンは、空に浮かぶ月と、どこか遠くから響く鈴の音を聞いた気がした。
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東京の無尽意は、その瞬間、何かを感じた。
心の中に、無数の声が響いてくる。
「火に焼かれようとも、名を唱えれば火は触れない」
「水に流されようとも、名を唱えれば岸に至る」
「罪に縛られても、名を唱えれば解き放たれる」
「悪鬼に囲まれても、名を唱えれば害されない」
それは祈りでもあり、誓いでもあった。
仏は確かに、こう告げたのだ。
――「その音を観じて、彼は来る。観世音菩薩は、必ず来る。」
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三日後、無尽意はある拘置所を訪れていた。
彼のかつての教え子が、無実の罪で捕まっていたのだ。
警備の目を盗んで、彼はそっと仏典の一節を書き写した紙を渡した。
「怖れるな。観音の名を唱えよ」
数週間後、裁判は一転した。
監視カメラの映像が発見され、無罪が証明された。
彼の教え子は泣きながら言った。
「牢の中で、ずっと観音様の名を唱えてました。そうしたら、夢に光の女性が現れて…」
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その夜、無尽意はまた仏典を開いた。
そして、そっと呟いた。
「観世音とは――世の声を観じて救う者。
誰かが名を呼ぶ限り、その力は尽きることがないのだ…」
灯火のような静けさが、彼の部屋を包んだ。
都市の騒音の向こう、確かにどこかで、誰かがその名を呼んでいる。




