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准胝の光 ― 七億の母に祈るとき

 

准胝の光 ― 七億の母に祈るとき

深い山あいに、霧のように漂う香があった。
それは俗世の穢れを払い、道を歩む者の心を静める香。ひとりの修行者が、その香煙の中に静かに座していた。

「ナモ・サッタナン、サンミャク・サンモダクチナン、タニヤタ、オン・シャレイ・シュレイ・ジュンテイ・ソワカ……」

その声は、風のように、また水の流れのように、谷を渡って消えていく。
彼が念じていたのは、「七億の仏の母」――准胝観音。その名を持つ菩薩は、過去無量の仏を生み出した清浄の母とされ、三つの眼と十八の腕を持つ異相の尊容を誇る。

彼女の手には、数々の法具があった。蓮華、法輪、数珠、三鈷杵、そして無明を断ち切る剣。
その十八の腕が意味するのは、どんな困難にも応える慈悲の広さ。
その三つの眼は、過去・現在・未来を貫いて衆生を見つめていた。

彼、修行者は名もなき者だった。だが心に煩悩の嵐を抱え、道に迷っていた。
だからこそ、准胝の名を呼んだ。
そしてその夜、夢の中で彼は見た。
ひとりの母が、七億の子らを抱く姿を。血も涙も超えた、大いなる母性の光を。

その慈光は、病に伏せた者の体をあたため、
その祈りは、命の灯火を永らえさせ、
その手は、新しい命を迎えようとする者の背をそっと撫でる。

――醍醐の帝の子が、この祈りの中に生まれたという。
理源大師・聖宝が、夜毎に准胝に祈りを捧げたという。
そして朱雀、村上という天皇が、母なる観音の慈悲に包まれてこの世に現れたという。

「我が祈り、ただ清浄にあれ」
修行者は再び祈った。

准胝の名は、山に響いた。
やがて彼の心からは、ひとつまたひとつと、重しのような迷いが剥がれていった。
その顔には、微かな笑みが浮かんでいた。

清浄とは、母なるものに包まれること。
母とは、すべての命に道を開く光。

彼は知った。
准胝とは、道の途上で出会う「もうひとつの母」なのだと。

 

 

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