UA-135459055-1

延命の光、普賢に祈る

延命の光、普賢に祈る

六牙の象に 乗りて来たまう
白蓮のごとき 慈悲の菩薩
病苦の夜を ひとすじに照らし
命の灯に そっと風を添える

わが命 尽きかけるときも
恐れることなかれと あなたは語る
「命は法の舟、悟りの岸へ」
その言葉に 我が心は癒される

願わくば この寿命、延ばしたまえ
ただ欲のために 生きるにあらず
一念をもって 修行を続け
衆生のために この身を捧げん

普賢よ――
わが願い、慈眼にて聞き届けたまえ
我が歩み、白象の足跡に重ねん
延命の加護よ、いま、ここに

命のほとりにて ― 普賢と少年

山深く、人里離れた小さな庵(いおり)があった。
杉木立の間にひっそりと佇むその庵には、ひとりの少年が暮らしていた。名を慧真(えしん)という。

十にも満たぬその身に、病は容赦なく襲いかかっていた。
医師の言葉は厳しかった。「あと数月が限界でしょう」
だが慧真の目には、恐れよりも静けさが宿っていた。

ある夜、冷えた夜気のなかで、痛みに身を震わせながら、彼は師と仰ぐ老僧にそっと尋ねた。

「もし、命が延びるのなら……ぼくは、仏さまに何ができるんでしょうか」

囲炉裏の火が、ぱち、と弾ける音と共に、老僧はゆっくりと顔を上げた。
その眼差しは、深い山の湖のように澄んでいた。

「修行を続けること。それがすべてじゃ」

そして、続けた。

「命とはな……法を運ぶ舟のようなものじゃ。
その舟があと一里進めば、誰かの心に光が灯るかもしれぬ。
それは、お前の知らぬ誰かかもしれんし、お前自身かもしれん」

慧真は、しばらく何も言わなかった。ただ、涙をこぼさぬように、拳を握りしめていた。

その夜、老僧はひとり道場に入り、静かに香を焚いた。
供物を捧げ、四方に結界を張ると、口を真一文字に結び、祈りを込めて印を結んだ。

「オン サンマヤ サトバン…オン サンマヤ サトバン…」

真言が繰り返されるたび、堂内にわずかな風が生まれた。
灯火がゆらめき、空気が波打つように揺れる。

すると、まるで夢の中の出来事のように――
白象に乗った菩薩の姿が、金剛の光のなかに浮かび上がった。

その菩薩には、四つの顔があった。八本の手は、蓮、剣、法輪、数珠……
それぞれが違う法を宿していた。

普賢延命菩薩。

その慈悲の御手が、やがて慧真の胸にそっと触れたという。

その日を境に、慧真の容態は次第に落ち着きはじめた。
熱は下がり、咳はやみ、顔色に生気が戻っていく。

そして数年後。
かつて病の床で死を待っていた少年は、健やかな青年僧となり、
村々をめぐりながら、人々に仏法の言葉を語る者となっていた。

法話のあと、彼はよくこう語った。

「命が尽きそうだったとき、私は初めて“何のために生きるのか”を考えました。
生きたいと思ったのは、自分のためじゃなく、何かを伝えるためだった。
それを教えてくれたのが、あの夜の普賢さまです」

慧真は微笑んだ。
その瞳の奥には、かつて命のほとりで見た菩薩の光が、今も揺れていた。

普賢の夢と、第二の奇跡》

慧真が青年僧となって、旅をはじめて三年が経った。

夏の日差しが和らいだ頃、ある山間の村にたどり着いた。そこは、土石流の被害からようやく立ち直ろうとしていた小さな集落。家々は傾き、田畑は荒れ、人々の表情にもまだ影が残っていた。

村の隅に、小さな小屋があった。
そこに、ひとりの少女が眠っていた。名は 沙良(さら)。

十歳になるかならぬかの年頃だが、激しい熱病に冒され、意識はもう何日も戻っていないという。
両親は亡くなり、祖母が泣きながら看病をしていた。

慧真は、沙良の小さな手を取り、静かに目を閉じた。
その肌から伝わる微かな鼓動――まるで、命の残り火のように、儚く揺れていた。

その夜、慧真はひとり祈りを捧げた。

かつて自分がそうしてもらったように、今度は自らの手で、普賢延命法を修す番だった。

白象に乗る菩薩の姿を心に観じ、八本の慈悲の御手を念じ、真言を唱える。

「オン・サンマヤ・サトバン……オン・サンマヤ・サトバン……」

その祈りのなかで、不意に慧真は深い夢の世界へと引き込まれていった。

夢のなか

霧の彼方に、ひときわ眩い光が差し込んでいた。
その光の中から、あの御姿が現れる。

――白き象にまたがり、四面八臂の菩薩が、静かに語りかけてくる。

「命とは、川のようなもの。
ある者から次の者へと、仏の光を運ぶ流れである。
お前の舟は、いま次の岸へ向かっている。
その手で、ひとしずくの水を救え。
そのしずくが、また命となろう――」

菩薩の声は、風のように耳を通り、心の奥へと染み込んでいった。

慧真が目を覚ましたのは、夜明けの少し前だった。
小屋の中には、静かな気配があった。

沙良のまぶたが、ゆっくりと震え――

「……お坊さま……」

かすれた声が、微かに彼の名を呼んだ。

慧真は、そっと涙をぬぐった。

その後

沙良は回復し、祖母のもとで再び笑顔を取り戻した。
慧真はその村を去る朝、沙良に言葉を残した。

「君の命には、きっと誰かを照らす力がある。
生きるということは、その光を分けることなんだよ」

少女は頷いた。

その背後に、誰にも見えない白象の影が、朝靄の中をゆっくりと去っていくようだった。

結びの言葉(慧真の記)

「延命とは、奇跡を起こすことではない。
命のなかに、もう一度、生きる意味が芽吹く瞬間――
それを守る力が、普賢菩薩の慈悲なのだ」

第三話

白象の夢と、師の死

山の梢が、冬の風にしなる。
白い吐息のなか、慧真は一通の文を握りしめていた。

「師、危篤」──それだけが、震える筆で記されていた。

かつて命の淵にいた自分を救い、延命の道へと導いてくれたあの老僧が、今や命の終わりに立たされているという。

慧真は旅を切り上げ、急ぎかつての山寺へと戻った。

門をくぐったとき、梢からふわりと雪が落ちた。
その白さは、まるで静かに降る別れの祈りのようだった。

庵の奥、薄明かりのなかに、師の姿があった。
やせ細った体、閉じかけたまぶた、しかしその呼吸はかすかに続いていた。

「慧真……来てくれたか」

その声は、かすれる風のように静かだった。

「……まだ伝えておらぬことが、ある。聞いておくか」

慧真は頷いた。言葉にはならず、ただ手を取ることしかできなかった。

「わしが……お前に延命法を修した夜な、白象が夢に現れた。
四つの顔をもつ普賢さまが、こう言ったのだ――

“この子の命は、ただ一つの灯ではない。
他の命へと燃えうつるための火となるだろう”と」

老僧の目は閉じられたままだったが、その顔はどこか安らかだった。

「その言葉がな、ずっと支えだった。
お前の旅の先に、きっと誰かが救われると……
そう信じられたから、わしは死が怖くなくなったのだ」

慧真は、胸の奥から涙がにじむのを感じた。
自分が与えられた命が、師にとっては死を恐れぬための光になっていた。

その夜、慧真は師の枕元で祈りを捧げ続けた。
白象の背に乗る普賢延命菩薩を、心に観じる。

しかし、今回は延命を祈らなかった。

代わりに彼は、次のように祈った。

「願わくば、師の魂が安らかにその舟を降り、
次の生においても仏法を伝える者として生まれ変わられんことを」

夜明け前、静かに老僧は息を引き取った。

その瞬間、慧真はふと、眠りのなかで夢を見ていた。

雪の野を一頭の白象が歩いていた。
その背には、かつての師が乗っていた。

老僧は振り向き、微笑んで手を振った。

「命はな、続いてゆくのだ。舟が下ろされるとき、また新たに浮かび上がる」

目覚めたとき、夜明けの空には光がさしていた。
梢に積もった雪が音もなく落ち、白き道をつくっていた。

結び

師の死をもって、慧真は知った。
延命とは、死を避けることではなく、命を受け継ぐこと。

自分が受けた灯火は、誰かへと渡され、
そしてまた次の命を照らしてゆく。

慧真はその日、初めてひとりで普賢延命法の壇を築いた。
師なき世界で、生きる者として祈りを捧げるために。

 

 

第四話

命の果てに咲く蓮

**

風が鳴いていた。
それは、食べるものがなくなった村の、声なき嘆きだった。

慧真が訪れたのは、干ばつと疫病に見舞われた寒村。
田畑はひび割れ、井戸は干上がり、子らの顔から笑みが消えていた。

村人たちは生きることで精一杯だった。いや、生き残ることに汲々としていた。

そんな村の片隅に、ひとりの尼僧がいた。
名を**桂雲(けいうん)**という。
年のころは七十を越え、背は曲がり、声は枯れていたが、目だけは深く澄んでいた。

彼女は毎朝、わずかに得た粥を、幼い子らに分けていた。
自らの皿には何も入らずとも、笑ってこう言った。

「咲ける蓮は、泥のなかにこそ宿るのですよ」

慧真は最初、それを愚かだと思った。

「あなたが死ねば、教えを語る者がまた一人いなくなる。
延命の術を知っている者こそ、生きて、支えなければならないのです」

だが桂雲は微笑んで、ゆっくりと首を振った。

「命は、燃え残すためにあるのではありません。
照らすこと――それが尽きたとき、静かに散るのが、仏の法です」

慧真は返す言葉を失った。

それから七日目の朝。
桂雲は、静かに息を引き取った。

傍らにあった木椀には、最後に分けた粥の跡が、冷たく乾いて残っていた。

村の空が泣いた。
ようやく雨が降り、干上がっていた田に水が戻った日、慧真は小さな法要を営んだ。

彼女の遺灰を蓮池にまきながら、ひとつの経を唱える。

「命は、泥より咲き、また泥へ還る。
そのすべてを仏は蓮の花として見ているのだ」

村の子らは、その日初めて、静かに手を合わせた。

慧真は思う。

延命とは、長らえることではなく、花を咲かせること。
たとえ一夜の命であろうとも、誰かの心に蓮が咲けば、それは決して無駄ではない。

結びの言葉(慧真の記)

「桂雲尼は、自らの命を“地”に還した。
その泥から、無数の蓮が咲く日がくるだろう。
法とは、命の“終わり”に宿る美しさを教えるものでもあるのだ」

第五話

水の声、火の道

**

峠を越えたその先に、小さな温泉郷があった。
かつては旅人で賑わった村だったが、今は噴煙と硫黄の匂いに閉ざされ、人もまばらだった。

慧真は、その村外れにある焼け落ちた庵の前で、一人の少年と出会った。
少年は焚き火のそばに坐り、無言で濡れた衣を乾かしていた。
鋭い目をしていたが、どこか哀しみの底で凍りついていた。

「名は?」
慧真が問いかけると、少年は、短く答えた。

「……烈(れつ)」

それ以上は語らなかった。

**

村の者の話によれば、烈の家は火災で全焼し、両親を失ったのだという。
彼は村に残され、誰とも口をきかず、ただ火ばかりを見ていた。

慧真は、その夜、湯治場の離れで烈と火を囲んだ。
火は音もなく揺れ、湯気が軋むように上がっていた。

烈がぽつりと呟いた。

「火が全部を奪った。
でも……火だけが、何も言わずに、僕を照らしてくれる」

慧真は、その言葉の重さに、返す言葉を探した。
そして、静かに語り出した。

「水も火も、仏の現れなのだ。
水は心を癒し、火は闇を照らす。
奪う力を持つが、守る力にもなり得る。
大切なのは、その力に心を燃やされずに、寄り添うことだよ」

烈は目を伏せたまま、じっと火を見ていた。

**

翌日、慧真はかつての庵の跡地に、小さな壇を築いた。
焼けた木の灰に香を焚き、普賢延命法を修した。

少年の魂に灯る怒りが、破壊の炎でなく、祈りの火となるようにと。

その晩、烈は夢を見た。

炎の中を、白い象が歩いていた。
その背にいたのは、誰でもない、自分だった。

象はやがて、炎の海を渡り、水面の蓮の上に立った。
そこには、ひとりの僧が立ち、こう告げた。

「その火を、光として使え。
奪われた命を、照らすために」

目覚めたとき、烈は静かに涙を流していた。

「……ぼくも、旅に出たい」

慧真は頷いた。

「ならば、君の中にある火を、誰かを温めるものに変えよう」

**

それから数年後――

烈は慧真の弟子として旅に出た。
火を恐れず、水を愛し、言葉を少なく、ただ人々の傍に在る僧となった。

そして、ある寺の片隅で、焚き火を囲んだ子どもたちにこう語ったという。

「火は恐ろしいものだ。でも、暗い夜に灯る火は、優しい。
誰かの心の奥にあるその火が、どうか、闇を照らすものでありますように」

結びの言葉(慧真の記)

「水の声に耳を傾けよ。
火の道に足を進めよ。
命はそのあいだに揺らめく光なり」

第六話

普賢の名を継ぐ者

**

風が鳴いていた。
それは、ひとつの旅が終わることを告げる風だった。

慧真は、ふもとの村を見下ろす丘に、ひとつの庵を建てていた。
白木の柱に藁屋根をのせた、質素な庵。
その前には、小さな蓮池があり、春の陽を浴びて青葉が揺れている。

あれから幾年が過ぎたのだろう。
旅を終え、法を説くことも少なくなり、ただ静かに、祈る日々が続いていた。

だが、その静けさを破るように、ある日、ひとりの訪問者があった。

**

「お師匠さま――」

その声に、慧真は振り向く。
そこに立っていたのは、かつて病から救った少女、沙良だった。

あのとき、命の灯がかすかに揺れていたあの小さな少女が、
いまや堂々とした衣をまとい、自らも教えを伝える僧侶になっていた。

「今日から、この庵の隣に、小さな道場を開こうと思います。
ここで、普賢さまの祈りと教えを、子どもたちに伝えていきたいのです」

慧真は、静かに笑った。

「そうか……命は、こうして渡っていくのだな」

沙良は、そっと慧真の膝に座った。

「私にとって、命が延びたあの日からずっと、
生きるということは、“誰かに灯すこと”でした。
だからこそ、今度は私が――」

慧真は頷いた。

**

その夜、慧真は夢を見た。
白象が、雲の上を歩いていた。

その背には、かつての師、桂雲尼、少年烈――
命の途中で出会った多くの面影があった。

やがてその象は、彼のもとに近づき、こう語った。

「名とは、灯の名。
普賢とは、すべての命を照らす者の名。
その名は、お前ひとりのものではない。
歩みし者に、受け継がれる名なのだ」

慧真は、ゆっくりと目を覚ました。

庵の外では、朝日が蓮池に差し、
白い花が、そっとひとつ、咲いていた。

**

数日後――

慧真は、沙良に僧衣の襟を正してもらいながら、静かに語った。

「わしの名は、今日で終わる。
これより先は、お前が“普賢の道”を継ぎなさい。
わしの延命は、お前のなかに生きているのだから」

沙良は涙ぐみながら深く礼をした。

「はい、慧真さま。
私の命がある限り、あの祈りを灯し続けます」

**

結び

慧真の旅は終わった。

だがその灯は、沙良に、烈に、名もなき人々に――
無数の蓮の花のように、静かに広がっていった。

そのすべてを、白象に乗る菩薩は、やさしく見守っていた。

「命とは、渡る火であり、咲く蓮であり、歩みつづける道」

それが、普賢の名であった。

 

 

 

SNSでもご購読できます。

コメントを残す

*