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第一章 正見 ―― 見るべきものを見る

 

第一章 正見 ―― 見るべきものを見る

– 第一節:静寂の裂け目 –

 

月曜日の朝。
東京の地下鉄、日比谷線。
蒼(あおい)は吊革を握ったまま、視線をスマートフォンの画面に固定していた。
画面の中の短い動画と、広告と、炎上気味のコメント欄。
指を動かしては止め、また動かし、繰り返しているうちに、自分が何を見ていたのかも忘れてしまう。

電車が地上に出ると、まばゆい光が車窓から差し込み、蒼は目を細めた。
ふと隣のビジネスマンの肩が触れた。
その瞬間、彼の内側で何かが「ぷつっ」と音を立てて切れた。

――何やってるんだ、俺は。
生きてる感じが、しない。

 

*

その日も同じ会議、同じ顔ぶれ、同じ資料の焼き直し。
「時間の無駄だよね」と同期の三浦は言った。だが誰も席を立たない。
蒼もまた、誰よりも早く首を縦に振るタイプだった。

 

夕方。仕事を終えてオフィスを出た足は、自然と地下鉄の駅とは逆の方向へ向いていた。
大通りを抜け、薄暗い並木道に入ると、ひっそりとした小さな公園があった。
その中央のベンチに腰を下ろし、彼はネクタイをゆるめて、空を見上げた。

 

木々の隙間から見える空は、濁った白だった。

風もなく、音もない。時間がどこかで止まったような感覚――
そのとき、足音が一つ。
老人が一人、杖を手にして近づいてきた。
僧衣をまとっていた。だが普通の坊さんとは違う。都会の雑踏にも似つかわしくない、不思議な存在感があった。

 

「君、今日はよく見えているな」
老僧は、まるで旧知のように言った。
「こんな街の片隅で、黙って空を見上げている者は、珍しい」

蒼は返事をしなかった。
だが、なぜか逃げようとも思わなかった。

 

「君は、なぜここにいる?」
「……ただ、疲れてるだけです」
「何に?」
「わかりません。ただ、生きるのが重くて」

 

老僧はゆっくりとベンチの反対側に腰を下ろした。
目を閉じ、手を膝に置いて、静かに言った。

 

「人の苦しみには、根があります。
それを知らずに生きるのは、盲目のまま歩くのと同じ。
君は、自分の“苦しみの根”を、見たことがあるかね?」

 

その言葉は、蒼の中に沈んでいた何かを、じわりと浮かび上がらせた。
“苦しみの根”――それは、今まで考えたこともない概念だった。

 

「……あなた、誰ですか?」
「私は、見えるものを教える者。
仏法の道を少しばかり歩んでおる、ただの旅人だよ。
名を、凌山(りょうざん)という」

 

老人はそう言って微笑んだ。
その目には、どこかで見たことのあるような、けれど思い出せない、深く静かな光が宿っていた。

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