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瑠璃光の彼方へ

瑠璃光の彼方へ

第一章:盲目の祈り

雨がしとしとと降る午後、奈良の薬師寺の回廊には静かな足音が響いていた。

少女・紗良は、その足元を手探りしながら進んでいた。彼女の目には光がない。生まれたときからではない。母が病でこの世を去ったその日、紗良の視界は闇に閉ざされた。以来、彼女は一言も泣かず、ただ静かに暮らしていた。

「あなた……迷ってる?」

その声に、紗良は振り向く。そこには、優しい声の青年僧——修円が立っていた。

「お母さんが好きだった場所を、見たくて……でも、私には、もう……」

紗良の声は、糸のように細く消えていった。修円はそっと紗良の手を取り、本堂へと導いた。

薬師如来像の前に座ると、修円は静かに語り始めた。

「薬師如来はね、生きている人間の苦しみを救うために、十二の願いを立てた仏さまなんだ。目が見えない者には光を与え、病の者には癒しを、心迷う者には道を示すと誓った」

「……ほんとうに、そんな仏さまが……いるの?」

「いるとも。君が信じれば、きっと夢の中に来てくださる」

そう言って修円は、紗良の掌にそっと真言を書いた。

オン・コロコロ・センダリ・マトウギ・ソワカ

その夜、紗良は久しぶりに夢を見た。闇の中に、ひとすじの瑠璃色の光が差し込む。そして、光の中から、静かに歩み寄る仏が現れた。左手に小さな薬壺を持ち、右手の薬指をすっと差し出していた。

——「おまえの苦しみを、私に預けなさい」

目覚めた朝、紗良の胸には熱いものが灯っていた。それは、まだ光を見ることはできないけれど、「祈ることの意味」を初めて知った朝だった。

❖ 第二章:瑠璃の記憶

修円には、誰にも語っていない秘密があった。

それは時折訪れる、強烈な既視感。特に薬師如来の真言を唱えるとき、頭の奥で“記憶ではない記憶”がさざ波のように押し寄せるのだった。

ある夜、彼の夢に東の空が瑠璃色に輝く異世界が現れた。そこには七体の薬師如来が座し、周囲には十二神将が立ち並んでいた。

——「修円よ、お前はかつてこの浄瑠璃世界で、我が誓願を記す書記官であった」

目を見開いた修円は、その言葉に打たれる。まさか、自分が……?

翌朝、紗良が寺に現れた。顔色が変わっていた。

「修円さん……私、見たの。昨日の仏さまの夢の続き。東の空が瑠璃に光って……。仏さまが、私を導いていた」

彼女の口から語られた夢の内容は、まさに修円の夢と一致していた。

修円は決意する。「この子は、ただの少女ではない。薬師如来の願いに繋がる魂なのだ」と。

彼は紗良を正式な弟子とし、共に七仏薬師の修法に入る。そして、かつて自分が書き記した“瑠璃の誓願”を、今この世に蘇らせる旅へと歩み始めた。

❖ 最終章:薬壺の光、いまこそ

数年の歳月が流れた。

修行を重ねた紗良は、視力を完全に取り戻すことはなかったが、「見えないものを観る力」を得ていた。人の心の痛み、未来の危機、そして病の根源を見抜く不思議な力。それはまさに薬師如来の「内なる光」であった。

一方、世界は病と災厄に覆われ、希望を失いかけていた。

ある日、薬師寺に病に倒れた子どもたちが運び込まれる。現代医学では治らぬ奇病——だが、紗良はその原因を見抜く。

「この病は、魂の渇き……。人が信じることを失い、祈ることをやめたから」

修円と紗良は、薬師如来の像の前に人々を集め、真言を唱えさせた。

オン・コロコロ・センダリ・マトウギ・ソワカ

その瞬間、仏の手に握られていた薬壺が、柔らかな光を放ち始めた。その光は本堂を包み、やがて子どもたちの顔に笑顔が戻っていった。

薬師如来の十二の大願は、いま再び、人の祈りとともにこの世に蘇ったのだ。

紗良は、修円に告げる。

「もう大丈夫。私も、これからは導く側に立つ。病を癒し、心を照らす、あの瑠璃の光のように」

その背には、日光と月光のように輝く気配があった。
紗良は、薬師如来の願いを受け継ぐ新たな導師として、歩み始める。

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