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縁起

愛のために智恵を幅意のために

●縁起の法と成仏法

ちがうのである。 多くの学者や仏教者は、「縁起の法」を以てシャカ究極のさとりであるとしている。したがって、この縁起の法をさとるのが、シャカの示す解脱成仏への道であると説く。

もっと重要な道があるのである。

日本の仏教は大乗仏教であるから、この道の存在を知らないのである。縁起の法しか知らない。 もっとほかに大切な、いや大切どころか、解脱成仏には絶対必要な法のあることを知らないのである。というのは、この法は、シャカの没後すぐシャカの教法を直接学んだ弟子たちが五百人集まって、その教わったことを忠実に編纂した阿含経にしか記されていないのである。(前章、シ +カの生涯、参照)

日本の仏教は、中国仏教をそのまま輸入した大乗仏教で、阿含経を小乗経典とけなしてこれをまったくしりぞけ、手にとろうともしなかった。たいへんなまちがいをしていたわけである。そまたはうして、シャカ没後数百年たって創作された大乗経典と称するお経を信仰してきた。このお経は創作経典でシャカ直説のものでない上に、別な意図をもってつくられたものであるから、この解脱成仏法が記されていないのである。したがって、日本の仏教はこの法を知らないのである。

では、その法とはなにか?

「解脱法」

「成仏法」

と名づける法である。

なぜか?

縁起の法

成仏法

この法を修行しなければ、ぜったいにシャカのいう解脱成仏 (成道)はできないのである。

これは、いまはじめて明かされるものであるから、読者はよく読んでいただきたい。

シャカの教法は、二つの法から成り立つ。

この二つである。

である。 縁起の法は、理の法門成仏法は、実践修行の門

なぜか?

縁起の法は、縁起説、縁起論ともいわれる通り、理論である。理論をいくらさとっても、因縁からの解脱はできない。

縁起の法は、文字の通り、縁によって起こるできごとの動く道すじをこのように動く、と説明したもので、それ以上のものではない。どうしてそのように動くのか? という根本原因につい

てはなにもふれていない。

これあるによりてこれあり

これ生ずればこれ生ず

これなきによりてこれなく

これ読すればこれ滅す

という。その通りである。

それでは、

なぜか?

これあればどうしてこれがあるのか?

これ生ずればどうしてこれが生ずるのか?

これがなければどうしてこれがなく、

これを滅すればどうしてこれが滅するのか?

という、根本的なものに対する「なぜ?」が説明されていないのである。

ただ、動いてゆく道すじが、原理として説明されているだけである。

要するに、起こる現象を起こる現象の法則として上げて説明しただけだ。なぜそういう現象が

起こるのか? という根本的なものについては説明がない。

これ滅すれどもこれ滅せず

これ生ずれどもこれ生ぜず

ジャきはなにを沢き、なにをなしたか?

どうして。

それは、親紀の進とはまた別動じ属するものだからである。

それは「力」に属するものなのである。

どどうして。

これをすればこれをずるのか?

生じさせる「力」があるからである。

これ続すればこれ読するのか?

純せさせる「力」があるからである。

この「力」こそが根本問題なのではないか?

その力を、仏教では「実力」(ごうりき)とよぶのである。

この世界には、ものごとすべてを動かしてゆくひとつの大きな力がある。キリスト教はその力を「神」とよぶのであろう。

シャカはそれを「カルマ」とよぶ

その力はただ然に動くのではなく、一定の法則にしたがって動く。その動く法則を明らかにしたのが、「接起の法」である。

問題は、それを「動かす」ものではないか。それがこの業力である。

この業力を自由に動かすことができたとき、因縁解脱の力を持ったということができるのであ

る。それが「成道」ということであり、「成仏した」ということであり、それをはたすのが、「成仏法」なのである。

これあるによりてこれあり

これ生ずればこれ生ず

これあれどもこれなく

これ生ずれどもこれ生ぜず

これすれどもこれせず

だとする力を持ったとき、そのヒトは解脱成仏して、仏陀になったのである。如来となったわけ

それをなしとげるのが、「成仏法」という修行法である。

だから、この修行法を実践修行しない限り、どんな修行をしてもどんなに教学教理に達しても、 解脱成仏はできないのである。つまり、業の「力」から脱出すること、業の「力」の束縛から離れることが「解脱成仏」なのであって、因縁の道理や縁起の理論をいくらさとっても、それは解脱成仏ではないのである。業の「力」の動く道すじ、道理を理解しただけに過ぎない。ここのところを今までの仏教はまちがえていたのである。頭や心がいくら(道理・真理)をさとっても、 真の解脱ではない。業の「力」を動かす能力を持ってはじめて解脱成仏したといえるのである。

どうしてそんなことが断言できるのか?

アーガマわたくしがいっているのではないのである。シャカ自身が、いくつもの阿含経の中で、はっきり断言しておられるのである。

クル国の Kammāsadhamma (雑色牧牛聚落)というところで、比丘たちに説いた「応説経」というお経を代表にあげよう。この中で、シャカはこう説いておられる。できるのである。 くりかえし説いておられるのである。このことを説いているお経は、いくつでもあげることが

●比丘たちよ、わたしにたいして、いくら成仏を求めてどんな修行をしても、念処・正動

・如意足・根・力・覚・道という修行法を修行しなければ、ぜったいに漏尽解脱(完全成仏)できないぞ。

業力を動かして、因縁、縁起の流れを断ち切る力を修行しなければ、成仏はできないことを仏教徒は知らねばならない。

シャカが、この中でいわれている修行法―成仏法について少し説明しよう。

一、念処――四念処法という修行法である。四つの法から成り立つ。

二、正動――四正勤法という修行法で、四つの法から成り立つ。四正断ともいう。

三、如意足――四如意足法といい、四つの法から成り立つ。四神足ともいう。

四、根――五根法という。五つの法から成り立つ。

五、ガ――五力法といい、五つの法から成り立つ。

六、覚 「七覚支法という修行法で、七つの修行法から成り立つ。

シャカはなにをき、なにをなしたか?

る。 コーサラ国のサーヴァァティーで説かれた阿含経(中阿含経)の中で、シャカはこう説いてい

●業を越える力

七、道八正道といい、八つの実践科目から成り立つ。

以上の七科目、それぞれの法の数を合わせると三十七法になる。それでこれを

七科三十七道品

とよぶ。いうならば、成仏のための七つのシステム、三十七のカリキュラムである。 シャカの説いているこの成仏法について少しのべよう。

成仏法についてのくわしい説明は、わたくしの他の著書を読んでいただくとして、ここではシ +カ自身、成仏法の中の「四神足法」(如意足)を修行した経験談を記そう。

●修行僧らよ。わたしが修行者のとき、このように思った。―「神足(iddhipada)を修

てんぱくこのようにすれば、わが欲はあまりにも萎縮することはないであろう。またあまりにも制圧されることはないであろう。内的に収縮することもないであろう。外的に散乱することもないであろう。前後に想いをはせていて、後は前のごとく、前は後のごとく、上は下のごとく、下は上のごとく、夜は昼のごとく、昼は夜のごとくである。このように広大にして調縛されない心をもって光輝ある心を修練する。それによって、わたしに眼が生じ、智が生じ、智恵が生じ、明知が生じ、光りが生じた。

さまたこのように四神足を修練し、豊かならしめたならば、多様なる神変を身に受ける。一身にして多身となり、多身にして一身となり、或いは現われ、或いは隠れ、艦壁や山岳をよぎって、騒げなく、行くこと空中におけるがごとく、地中に出没すること水中におけるがごとく、水中を行きて壊られざること地上におけるがごとく、虚空においても結跏趺坐してそぞろ歩きすることは飛鳥のごとく、このように大神通・大威徳あるこの日

三シャカはなにを説き、なにをなしたか?

観する原因、緑由は何であるか?」と。そのときわたしはこう思った。

ここで欲の・勤めの・心の・考察の・三昧・勤行の形成をそなえた神足を修練する。

月を手でとらえて揉んでしまい、梵天の世界至るまでも身をもって支配する。

このように四神足を修練し豊かならしめたならば、清浄にして超人的な天の耳の本性をもって、遠近にある天的なまた人間的な声をともに聞く。

このように四神足を修練し豊かならしめたならば、他の生存者、他の人々の心をば心によって了解して知る。貪りある心を貪りある心であると知り、貪りを離れた心を貪り

を離れた心であると知り、また怒りある心を怒りある心であると知り、怒りを離れた心を怒りを離れた心であると知り、迷妄ある心を迷妄ある心であると知り、迷妄を離れた心を迷妄を離れた心であると知り、収縮した心を収縮した心であると知り、散乱した心を散乱した心であると知り、偉大な心を偉大な心であると知り、偉大ならざる心を偉大ならざる心であると知り、上ある心を上ある心であると知り、無上の心を無上の心であしている心であると知る。

ると知り、解脱していない心を解脱していない心であると知り、解脱している心を解脱

このように四神足が修練され豊かにされたときに、種々なる過去の生涯を想い起こした。―――すなわち一つの生涯、二つの生涯、三つの生涯、四つの生涯、五つの生涯、十の生涯、二十の生涯、三十の生涯、四十の生涯、五十の生涯、百の生涯、千の生涯、百

工具差女の宇宙破境期、幾多の宇宙成立破壊期を。「わ

れはそこにおいてこれこれの名であり、これこれの姓(gotta)であり、これこれのカースト(vanna)であり、これこれの食をとり、これこれの苦楽を感受し、これこれの死にかたをした。そこで死んでから、かしこに生まれた」と。このようにかたちや名称とともに種々なる過去の生涯を想い起こしたのである。

このように四神足が修練され豊かにされ諸の生存者が死にまた生まれるのを見た。すなわち卑賤なるものと高貴なるもの、美し

たときに、清浄で超人的な天賦をもって、諸たがっているのを明らかに知った、――「実にこれらの生存者は身に悪行を為し、ことばに悪行を為し、こころに悪行を為し、諸々の聖者をそしり、邪った見解をいだき、邪った見解にもとづく行為をなす。かれらは身体が破壊して死んだあとで、悪しきところ、

いものと醸いもの、幸福なものと不幸なもの、そして諸々の生存者がそれぞれの業にし堕ちたところ、地獄に生まれた。また他のこれらの生存者は、身に善行を為し、ことばに善行を為し、こころに善行を為し、諸々の聖者をそしらず、正しい見解をいだき、正

しい見解にもとづく行為をなす。かれらは身体が破壊して死んだあと、善いところ、の世界に生まれた」と。

このように清浄で超人的な天眼をもって、諸々の生存者が死にまた生まれるのを見た。

すなわち卑賤なるものと高貴なるもの、美しいものと醜いもの、幸福なものと不幸なもの、そして諸々の生存者がそれぞれの薬にしたがっているのを明らかに知った。

このように四神足が修練され豊かにされたときに、諸々の煩悩の汚れがほろぼされることによって、汚れなき心の解脱・智恵の解脱をこの世において、みずから証知し、現証し、具現して住する。

これが、カルマを絶つ成仏法修行の成果なのである。

神足とは自在の力ということで、四神足とは、身体・心(智恵)・目・耳の四つにおいて、業の力の支配を離れて自在である力を持つという意味である。

あるいは、読者は、いうかも知れない。

シャカのことばの前半の部分――多様なる神変を身に受ける・・・・・・虚空においても結跏趺坐してそぞろ歩きすることは飛鳥のごとく・・・・・・・この日月を揉んでしまい・・・・・・という部分など、あり得べ

ことができるのである。 だと知るべきである。こういう力はどこからくるのか? 成仏法を修することによって「………………眼が生じ、智が生じ、智恵が生じ、明知が生じ、光りが生じ」るのである。修行によって、純化され、拡大され、飛躍して次元を超えたホトケの智恵を身につけることにより、この力を獲得する

からざる誇大妄想、狂人のクワ言ではないかといわれるかも知れない。そうではないのである。 この部分は、この世界を動かしている業がの力を超えて自在の境地であることを表現しているの

シャカの道は究極において、ここに到達するのである。これを「成道」ということはさきに述べた通りである。

たにき、なにをなしたか?

 

 

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