准肌観音の誓い
田園地帯にある古びた工場跡。その静寂に包まれた空間に、一人の男が身を置いていた。彼の名は高木。仕事の失敗が原因で、多額の負債を抱え、人生に絶望していた。何日も眠れぬ夜を過ごし、最終的に辿り着いた結論は「死ぬこと」だった。
「もう、生きるのが面倒だ……」
重く沈む空気の中で、高木は天井を見上げた。すでに心の中では、死への準備が整っていた。方法は首吊り。目の前にある梁に縄をかければ、苦しむことなく逝けるだろう。
だが、その時だった。天井近くの棚の端から、何か小さなものがはみ出しているのが見えた。
「……あれは?」
ふと、好奇心が湧いた。すでに生への執着などないはずなのに、その小さな違和感が彼を動かした。重い身体を起こし、棚に近づく。そこにあったのは、薄汚れた経巻だった。幅二、三センチ、長さ五、六センチほどの小さなもの。
「こんなところに……?」
工場は三年前に閉鎖されたはずだった。誰がここに置いたのか。手に取り、指で表紙をなぞる。ふと、父の言葉を思い出した。
——昔、父の取引先に中村語郎という人がいた。彼もまた人生に絶望し、自殺を考えたことがあった。だが、その時、ある人物からこの経巻を授かり、思いとどまったという。そして、中村はその後、救われた者として、同じように経巻を他者に布施し続けたのだ。
「……まさか」
奇妙な感覚に襲われた。もしかすると、この経巻は中村が布施したものの一つかもしれない。そして今、それが自分の手元にある。この瞬間に。
運命なのか? それとも、何か見えざる力が働いたのか?
考えているうちに、彼の心に小さな変化が生まれた。
「本当に、これが私を救おうとしているのだとしたら……?」
答えは分からない。だが、気づけば彼の目には、朝日が差し込んでいた。
高木はその光に向かい、合掌した。
「もしも、私がこの経巻に救われるならば……私は生涯、この経を百万巻布施しよう」
そう誓った。
それからの三年間、高木は死にもの狂いで働いた。そして、ついに負債を完済した。
あの日、経巻が彼を救ったように、彼もまた、絶望に沈む誰かを救うために、生きていくことを決めたのだった。




