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輪廻転生瞑想法  Reincarnation meditation method

生存しつづける人間

前章でのべたように、人間は死んでも生まれ変わる。 しかも一度だけではな く、ちょうど車輪がぐるぐると廻るように、果てしなく生と死をくり返す。そ れで輪廻転生というのである。

人は輪廻転生する。

ことになる。

果てしなく生と死をくり返すのである。

死んで霊的世界にも行くが、そこに永遠にとどまっているのではなく、ある 日気がつくと生まれ変わっている。もちろん、前世の記憶や意識は残っていな い。しかし、感性と運命の上では、前世の自分を引きずっているのである。そ ういう意味で生命は存続しているといえる。

「人間は輪廻転生しつづける」ということは、換言すれば生きつづけるという

もちろん、いまの人生には限りがある。 時期がくればこの世とおさらばして

霊的世界へ行き、そののちにどこかへちがう人間(あるいは動物)として転生す る。いまとはちがう存在にはなるものの、魂が存続されていくのであるから、 永久に死なないといえるのである。

現代人の多くは輪廻転生を否定しているが、古代インドではほとんどの人が 輪廻転生を信じていた。 命あるものが永遠に生まれ変わることを知っていたの である。そして、じつは、古代インドの人々は輪廻転生を恐れていた。来世で 人間に生まれ変われる保証はないので、家畜などに転生して食べられてしま うかもしれない。また、あるいは人間に生まれ変わっても奴隷やそれ以下の階 級に生まれることも考えられる。古代インドには厳格な身分制度があったの で、彼らは来世に対して戦々恐々とした思いを持って生活していたわけである。 そして、

「この苦しみの世に生まれては死に、また生まれては死ぬという定めから脱し たい」

と心から願っていた。

 

いった。

お釈迦さまはそのような時代に登場され、輪廻を断って寂静の境地である涅 (ニルヴァーナ)に入る教法を説かれた。また、すぐに涅槃に入れない者に は、来世で天に生まれる方法を説かれたのである。そして、このお釈迦さまの 教法、つまり仏教はインド中に広まり、さらにはアジア各地へと伝播されて

そのように仏教は輪廻転生から脱することを最終目標にするわけであるが、 わたくしはお釈迦さまの教法をさらに進めて、輪廻転生を利用するということ を思いつき、このほどその方法を完成させた。それがお釈迦さまの成仏法をも とに編んだ瞑想法、「輪廻転生瞑想法」である。これを実践するならば理想的な 来世を迎えることができる。

「阿含経」には、お釈迦さまが弟子たちに、

「よい境界に生まれたければこのような修行をして、悪行をおこなわないよう にしなさい」

と指導されている箇所がいくつもある。 とくに在家の弟子には、よい来世が

得られるように指導されていた。したがって、わたくしの指導する 「輪廻転生 瞑想法」は、そのお釈迦さまのご指導を発展させたものなのである。

輪廻転生を逆利用する方法

システム

わたくしの提唱する 「輪廻転生瞑想法」は、人は解脱しないかぎり輪廻転生 くり返すのだから、その方法を逆に利用していまよりもよい境遇の人間に生 まれ変わろう、というものである。

お釈迦さまの説かれた輪廻を解脱する教法は仏教の根幹であり、絶対にゆる がせにできない。 しかし、その法を保ちつつ、同時に輪廻転生を利用するとい うのも、わたくしはひとつの選択肢だと思うのである。

たしかにこの世には苦しみがあふれているが、同時に喜びもある。たとえ苦 労をしても人間に再び生まれて、思う存分に生きたいという人も多いのではな いか。

それでこの瞑想法を創案したのである。

輪廻を絶つことを選ぶか、よい来世に生まれるほうを選ぶかはあなたしだい なのである。

わたくしも自分の人生を振り返ってみると、あのときはああすればよかっ たと後悔することばかりである。しかし、この瞑想法にもとづけば、理想的 来世の設計図を自分で描き、 それにしたがって思う存分にすばらしい人生を 送ることができるわけであるから、じつに楽しいのである。

来世も人間に生まれて、幸福な一生を送る秘法

人間は輪廻転生をする、 死後も生命はつづくと知ったとき、だれもが関心を 持つのは自分の来世についてである。 来世の自分は果たして幸福であるのか? それとも不幸な人生を歩んでいくのか? その一点が気になると思う。 あなたの周囲にも、生まれつき運がよくてなんの不自由もなく生きている人 もいれば、生まれたときから不幸を背負って生きている人もいるであろう。 来世は幸福なほうがよいか、それとも不幸なほうがよいかときかれれば、い

うまでもなく来世は幸福な人間として生まれることを望むはずである。

「しかし、来世はこのようになりたいといくら願っても、自分が望む来世を創 り出すことなどできないでしょう?」

というかもしれないが、そうではない。 幸せな来世を企画し、創造する秘法 があるのである。それがお釈迦さまの成仏法をもとに編んだ瞑想法なのである。 だれしも、できることならば、幸福な境遇に生まれたいと願うはずである。 それを実現するのが「輪廻転生瞑想法」なのである。

ただし、忘れてはならないのは、来世でも人間としての生を受けられるとい う保証はない、ということである。 生命のあるものならば、なんにでも生まれ 変わる可能性がある。 犬や猫、豚や馬などはもちろんのこと、アナコンダやコ ブラに生まれることさえある。

ある日、ふと目をあけるとコブラになっていた、というのではしようがな い。毒蛇は人に恐れられると同時に、危険な動物として標的になる。 人間に見 つかれば枕で打ち殺されたりするから、常に人目を避けて逃げまわらなければ

11第二章生数想法とは

112

 

 

 

身命経  霊魂と身体: 仏教の視点での考察 The Life Sutra: Soul and Body: Consideration from a Buddhist Perspective

 

 

 

1. 「仏の説法: 執着から解放される道」
2. 「断見と常見: 真理への探求」
3. 「霊魂と身体: 仏教の視点での考察」

時は、お釈迦さまが説法を行っていた時代。ある日、沙門ゴータマさんが所用があると言いながら、お釈迦さまに別れを告げました。仏さまは静かに微笑みながら応えました。その後、ヴァッチャ姓の出家者がやって来て、お釈迦さまの教えを聞き、大いに喜んで立ち去りました。

その後、外道の指導者たちが唱える「断見」と「常見」についての辞書の説明があります。断見は世間や自己の断滅を主張し、因果の理法を否定し、死後の運命を否定する誤った考えを指します。常見は常住を主張し、世界や人の不滅を信じる誤った見解です。

そして、霊魂と身体の関係についての質問に対して、お釈迦さまは「無記である」と答えました。なぜなら、彼らが考える霊魂は、かつての聖者たちが説いたアートマンに基づいており、仏教の理解とは異なるからです。アートマンは生命の本体として解釈され、常に不変であるとされてきましたが、仏教ではこの概念を否定しています。

このように、仏教の教えは常に執着を離れ、真理を求める姿勢を示しています。

「人間は願い求めるものごとに執着するという依りどころがあります。自分を取り巻くものごと に染まって心が囚われて)執着するという依りどころがあります。 ただ世尊(先生・尊い師)に おいてはそのような依りどころはなく、正しい悟りを得ておられます。

それでは) 沙門ゴータマさん、なにかと所用もありますので、これにて失礼したいと存じます」 と申し上げました。 仏さまは、

と答えられました。ヴァッチャ姓の出家は以上の仏の説法を聞き、大いに喜んで立ち去りまし

先にご説明した、お釈迦さまご在世当時の外道(仏教以外の宗教者)の指導者たちが唱えていた 「断見」と「常見」が、辞書にはどう説明されているのかをご紹介します。 引用は「佛教語大辞 典』によります。

【断見】だんけん 1世間および自己の断滅を主張して、因果の理法を認めず また人は 度死ねば断して再度生まれることがないとする誤った考え。断無にとらわれる考え。 断 論生はこの世限りのものとし、死後の運命を否定して善悪とその果報を無視する見解。 常 見の対

【常見】じょうけん 常住を主張する見解。断見の対。 世界は常住不滅であるとともに、 人は死んでも我(アートマン)が永久不滅であると執着する誤った見解。

「意生身」というのは、「心だけの身体」あるいは「死後、次の生命を受けるまでの中身 のこと」で、分かりやすくいえば霊体になります。

「余」とは、本来は残りという意味で、業が残っていることを意味しますが、このお経では

「依りどころ」という意味にも使われております。

「愛」 (tapha、タンハー)とは、砂漠で喉の渇きに苦しむ者がひたすら水を求めてやまな いような激しい欲望をいいますが、漢訳ではたんに「愛」としてしまったので、お釈迦さま 表現しようとしたイメージがまったく変えられてしまいました。 この愛がもとになって 執着が生じ、執着によって、輪廻転生 (迷いの生存)が生じるのです。

「世尊」 とは、 Bhagavat (バガヴァット)の漢訳であり、福徳を具えた者の意です。ヴェー ダ聖典においても、叙事詩においても、弟子が師に対して「先生」と呼びかける時の言葉で すが、仏教ではこれを採用して仏陀の尊称のひとつにしました。

さて、先に、ヴァッチャ姓の出家の「霊魂と身体は同じものか」「霊魂と身体は別々のも

のなのか」という質問に対して、お釈迦さまは、いずれの質問にも「無記である」と答えら れました。「無記」は「無記答」ともいいます。 記すべき答え無し。つまり、その質問には 答えるべき内容がない、あるいは適切な答え方が存在しない、ということでしょう。

それはなぜでしょうか?

ヴァッチャ姓の出家が考えている霊魂(命)とは、仏教の起きる二、三百年前に、ウパニ シャッドとバラモンの聖者たちが考えた「アートマン (ātman)」を下敷きにしたものだから です。このアートマンは、元来は、「気息」を意味しましたが、転じて、生命の本体として 「生気」「生命原理」「霊魂」「自己」「自我」の意味に用いられ、さらに、「万物に内在する霊 「妙な力」を意味するに至ったといいます。 要するに、個々の本体を表す術語と考えたらよい でしょう。 バラモンの聖者たちは、このアートマンを常恒不変の存在であると説いたのです。 そして、絶対者ブラフマンとアートマンの本質を悟り、梵我一如の真理を直観して、このプ ラフマンと合一する時、業は消滅し、アートマンは完全に自由になって、業に束縛されてい 輪廻から解脱するというのです。

1. “Buddha’s sermon: The path to freedom from attachment”
2. “Disclaimer and Common View: Quest for Truth”
3. “Soul and Body: Consideration from a Buddhist Perspective”

This was the time when Buddha was preaching. One day, Samon Gautama said goodbye to Buddha, saying he had something to do. The Buddha responded with a quiet smile. Later, a monk with the surname Vaccha came, listened to the Buddha’s teachings, and left with great joy.

Afterwards, there is a dictionary explanation of “danken” and “joken” advocated by the leaders of the outside world. Danken refers to a false idea that insists on the extinction of the world and self, denies the law of cause and effect, and denies a destiny after death. Common view is a false view that claims permanent residence and believes in the immortality of the world and people.

When asked about the relationship between the soul and the body, the Buddha answered, “There is no record.” This is because their idea of the soul is based on the atman taught by the sages of the past, which is different from the Buddhist understanding. Atman has been interpreted as the essence of life and has always been considered unchanging, but Buddhism rejects this concept.

In this way, Buddhist teachings always demonstrate an attitude of detachment from attachment and the pursuit of truth.

“Human beings have a tendency to become attached to what they desire.There is a tendency to become attached to things that surround us, and our hearts are captured by them. He has no such reliance and has attained correct enlightenment.

Well then) Mr. Samon Gautama, I have something to attend to, so I would like to excuse you.” The Buddha is

was answered. A monk with the surname Vaccha heard the Buddha’s sermon and left with great joy.

I would like to introduce how the dictionary explains the words “danken” and “joken,” which were advocated by leaders of outside Buddhism (religions other than Buddhism) during the time of Buddha’s lifetime, which I explained earlier. Masu. The quotation is from the “Great Dictionary of Buddhist Language.”

[Conclusion] Danken 1. He advocated the annihilation of the world and the self, and did not accept the law of cause and effect. He also erroneously held that once a person dies, they will never be reborn. Thoughts that are held up without permission. Dan: A view that regards life as something that lasts only for this life, denies a destiny after death, and ignores good and evil and their fruits. common pair

[Standard] Jouken A view that advocates permanent residence. A pair of denials. The erroneous view is that the world is eternal and immortal, and that the Atman is eternal even after death.

“Will, life, and body” refers to “a body consisting only of the mind,” or “the contents of the body after death until it receives the next life,” and to put it simply, it is a spiritual body.

“Yu” originally means the rest, meaning that karma remains, but in this sutra,

It is also used to mean “dependence”.

“Love” (tapha, tangha) refers to the intense desire of a thirsty person in the desert who desperately seeks water, but in Chinese translation it is simply “love”. Therefore, the image I was trying to portray of Buddha was completely changed. This love causes attachment, and attachment causes reincarnation (survival of delusion).

“Blessed One” is the Chinese translation of “Bhagavat” and means one who is endowed with good fortune. In both the Vedic scriptures and the epics, the term “he” is used when a disciple addresses his master as “teacher,” but Buddhism adopted this term and made it one of the honorific titles of the Buddha.

First, let’s talk about the questions asked by a monk with the surname Vaccha, “Are the soul and the body the same?” and “The soul and the body are different.”

In response to the question, “Is this true?”, the Buddha answered, “No record” to each question. “No record” is also called “no response.” No answer worth mentioning. In other words, the question may not have any content to answer, or there may not be an appropriate way to answer it.

Why?

The soul (life) that monks with the surname Vaccha are thinking of is based on the “atman” that was conceived by the Upanishads and Brahmin sages two or three hundred years before the rise of Buddhism. Atman originally meant “breath,” but it was later used to mean “vital energy,” “life principle,” “soul,” “self,” and “ego” as the substance of life, and was also used to mean “all things.” It is said that it came to mean “mysterious power”. In short, you can think of it as a term that refers to each individual body. The Brahmin sages taught that this Atman is eternal and unchanging. When one realizes the essence of the Absolute Brahman and Atman, intuiting the truth of the Brahma Oneness, and unites with this Purity Rahman, karma disappears and the Atman becomes completely free and free from karma. It is about getting liberated from the bondage of samsara.

断見と常見: 真理への探求

1. 「仏の説法: 執着から解放される道」
2. 「断見と常見: 真理への探求」
3. 「霊魂と身体: 仏教の視点での考察」

 

 

時は、お釈迦さまが説法を行っていた時代。ある日、沙門ゴータマさんが所用があると言いながら、お釈迦さまに別れを告げました。仏さまは静かに微笑みながら応えました。その後、ヴァッチャ姓の出家者がやって来て、お釈迦さまの教えを聞き、大いに喜んで立ち去りました。

その後、外道の指導者たちが唱える「断見」と「常見」についての辞書の説明があります。断見は世間や自己の断滅を主張し、因果の理法を否定し、死後の運命を否定する誤った考えを指します。常見は常住を主張し、世界や人の不滅を信じる誤った見解です。

そして、霊魂と身体の関係についての質問に対して、お釈迦さまは「無記である」と答えました。なぜなら、彼らが考える霊魂は、かつての聖者たちが説いたアートマンに基づいており、仏教の理解とは異なるからです。アートマンは生命の本体として解釈され、常に不変であるとされてきましたが、仏教ではこの概念を否定しています。

このように、仏教の教えは常に執着を離れ、真理を求める姿勢を示しています。

「人間は願い求めるものごとに執着するという依りどころがあります。自分を取り巻くものごと に染まって心が囚われて)執着するという依りどころがあります。 ただ世尊(先生・尊い師)に おいてはそのような依りどころはなく、正しい悟りを得ておられます。

それでは) 沙門ゴータマさん、なにかと所用もありますので、これにて失礼したいと存じます」 と申し上げました。 仏さまは、

と答えられました。ヴァッチャ姓の出家は以上の仏の説法を聞き、大いに喜んで立ち去りまし

先にご説明した、お釈迦さまご在世当時の外道(仏教以外の宗教者)の指導者たちが唱えていた 「断見」と「常見」が、辞書にはどう説明されているのかをご紹介します。 引用は「佛教語大辞 典』によります。

【断見】だんけん 1世間および自己の断滅を主張して、因果の理法を認めず また人は 度死ねば断して再度生まれることがないとする誤った考え。断無にとらわれる考え。 断 論生はこの世限りのものとし、死後の運命を否定して善悪とその果報を無視する見解。 常 見の対

【常見】じょうけん 常住を主張する見解。断見の対。 世界は常住不滅であるとともに、 人は死んでも我(アートマン)が永久不滅であると執着する誤った見解。

「意生身」というのは、「心だけの身体」あるいは「死後、次の生命を受けるまでの中身 のこと」で、分かりやすくいえば霊体になります。

「余」とは、本来は残りという意味で、業が残っていることを意味しますが、このお経では

「依りどころ」という意味にも使われております。

「愛」 (tapha、タンハー)とは、砂漠で喉の渇きに苦しむ者がひたすら水を求めてやまな いような激しい欲望をいいますが、漢訳ではたんに「愛」としてしまったので、お釈迦さま 表現しようとしたイメージがまったく変えられてしまいました。 この愛がもとになって 執着が生じ、執着によって、輪廻転生 (迷いの生存)が生じるのです。

「世尊」 とは、 Bhagavat (バガヴァット)の漢訳であり、福徳を具えた者の意です。ヴェー ダ聖典においても、叙事詩においても、弟子が師に対して「先生」と呼びかける時の言葉で すが、仏教ではこれを採用して仏陀の尊称のひとつにしました。

さて、先に、ヴァッチャ姓の出家の「霊魂と身体は同じものか」「霊魂と身体は別々のも

のなのか」という質問に対して、お釈迦さまは、いずれの質問にも「無記である」と答えら れました。「無記」は「無記答」ともいいます。 記すべき答え無し。つまり、その質問には 答えるべき内容がない、あるいは適切な答え方が存在しない、ということでしょう。

それはなぜでしょうか?

ヴァッチャ姓の出家が考えている霊魂(命)とは、仏教の起きる二、三百年前に、ウパニ シャッドとバラモンの聖者たちが考えた「アートマン (ātman)」を下敷きにしたものだから です。このアートマンは、元来は、「気息」を意味しましたが、転じて、生命の本体として 「生気」「生命原理」「霊魂」「自己」「自我」の意味に用いられ、さらに、「万物に内在する霊 「妙な力」を意味するに至ったといいます。 要するに、個々の本体を表す術語と考えたらよい でしょう。 バラモンの聖者たちは、このアートマンを常恒不変の存在であると説いたのです。 そして、絶対者ブラフマンとアートマンの本質を悟り、梵我一如の真理を直観して、このプ ラフマンと合一する時、業は消滅し、アートマンは完全に自由になって、業に束縛されてい 輪廻から解脱するというのです。

身命経

ヴァッチャ姓の出家は仏さまに、

しょせつ

仏の所説を聞き、飲喜し随喜し、全従り起ちて去りき。

「ゴータマさんは、常恒不変の)霊魂と身体は同じものかと問われれば『無記である』と答え、 霊魂と身体は別々なのかと問われてもやはり『無記である」と答えられます。ではなぜ、沙門ゴ ータマさんはご自身の弟子の死に際して、『だれそれはあそこへ生まれ、まただれそれはこうい うところへ生まれた。かの諸々の弟子たちはこのように命終わって身を捨て、すなわち意生身 (心だけの身体)に乗じてどこそこに生まれた」とおっしゃるのですか。 これは霊魂と身体は別々 だということではないのですか?」

と申し上げました。仏さまはヴァッチャ姓の出家に

「これは依るところがある者は生まれ変わると説いているのであり、依るところのない者は生ま れ変わらないのです」

と告げられました。そこでヴァッチャ姓の出家が、

「それはどういうことですか?」

と訊ねると、仏さまは、

「たとえば、火は依るところ(薪など)があるから燃えるのであって、依るところがなければ燃

えないように(人間も依るところがある者は生まれ変わるのです)」

と告げられました。するとヴァッチャ姓の出家は、

「いや、私は依るところがないのに燃えている火を見たことがあります」

と答えました。仏さまは、

「それはどういう火ですか?」

と告げられました。ヴァッチャ姓の出家は、

「たとえば大火が炎々と燃えさかっている時に、疾風が吹いて火が空中に飛んでいることがあり

ますが、あれは依るところのない火といえるのではありませんか?」

と答えました。仏さまは、

「風が吹いて空中に飛ぶ火にも依るところはあるのです。 依るところがないのではありません」 と告げられました。ヴァッチャ姓の出家は、

「ではゴータマさん、空中の飛火はなにに依って燃えているのですか?」

と訊ねました。仏さまは、

空中飛火は風に依っているから存在するのです。風に依って燃えているのです。だから依る ところがあるというのです」

と告げられました。ヴァッチャ姓の出家は、

それでは)人間の場合では、命が終わると、意生身に乗じてどこかへ往生(輪廻転生)すると いうのは、どのような依りどころがあってのことでしょうか?」

と訊ねました。仏さまは、

「人間が、命終わって、意生身に乗じてどこかへ生まれるというのは、渇愛(タンハー)が因と なって執着し、渇愛が因となって(輪廻の世界にとどまるからであり、そのために依るところ があると説くのです」

と告げられました。ヴァッチャ姓の出家は、

「よろしいでしょう」

解説

「人間は願い求めるものごとに執着するという依りどころがあります。自分を取り巻くものごと に染まって心が囚われて)執着するという依りどころがあります。 ただ世尊(先生・尊い師)に おいてはそのような依りどころはなく、正しい悟りを得ておられます。

それでは) 沙門ゴータマさん、なにかと所用もありますので、これにて失礼したいと存じます」 と申し上げました。 仏さまは、

と答えられました。ヴァッチャ姓の出家は以上の仏の説法を聞き、大いに喜んで立ち去りまし

先にご説明した、お釈迦さまご在世当時の外道(仏教以外の宗教者)の指導者たちが唱えていた 「断見」と「常見」が、辞書にはどう説明されているのかをご紹介します。 引用は「佛教語大辞 典』によります。

【断見】だんけん 1世間および自己の断滅を主張して、因果の理法を認めず また人は 度死ねば断して再度生まれることがないとする誤った考え。断無にとらわれる考え。 断 論生はこの世限りのものとし、死後の運命を否定して善悪とその果報を無視する見解。 常 見の対

【常見】じょうけん 常住を主張する見解。断見の対。 世界は常住不滅であるとともに、 人は死んでも我(アートマン)が永久不滅であると執着する誤った見解。

「意生身」というのは、「心だけの身体」あるいは「死後、次の生命を受けるまでの中身 のこと」で、分かりやすくいえば霊体になります。

「余」とは、本来は残りという意味で、業が残っていることを意味しますが、このお経では

「依りどころ」という意味にも使われております。

「愛」 (tapha、タンハー)とは、砂漠で喉の渇きに苦しむ者がひたすら水を求めてやまな いような激しい欲望をいいますが、漢訳ではたんに「愛」としてしまったので、お釈迦さま 表現しようとしたイメージがまったく変えられてしまいました。 この愛がもとになって 執着が生じ、執着によって、輪廻転生 (迷いの生存)が生じるのです。

「世尊」 とは、 Bhagavat (バガヴァット)の漢訳であり、福徳を具えた者の意です。ヴェー ダ聖典においても、叙事詩においても、弟子が師に対して「先生」と呼びかける時の言葉で すが、仏教ではこれを採用して仏陀の尊称のひとつにしました。

さて、先に、ヴァッチャ姓の出家の「霊魂と身体は同じものか」「霊魂と身体は別々のも

のなのか」という質問に対して、お釈迦さまは、いずれの質問にも「無記である」と答えら れました。「無記」は「無記答」ともいいます。 記すべき答え無し。つまり、その質問には 答えるべき内容がない、あるいは適切な答え方が存在しない、ということでしょう。

それはなぜでしょうか?

ヴァッチャ姓の出家が考えている霊魂(命)とは、仏教の起きる二、三百年前に、ウパニ シャッドとバラモンの聖者たちが考えた「アートマン (ātman)」を下敷きにしたものだから です。このアートマンは、元来は、「気息」を意味しましたが、転じて、生命の本体として 「生気」「生命原理」「霊魂」「自己」「自我」の意味に用いられ、さらに、「万物に内在する霊 「妙な力」を意味するに至ったといいます。 要するに、個々の本体を表す術語と考えたらよい でしょう。 バラモンの聖者たちは、このアートマンを常恒不変の存在であると説いたのです。 そして、絶対者ブラフマンとアートマンの本質を悟り、梵我一如の真理を直観して、このプ ラフマンと合一する時、業は消滅し、アートマンは完全に自由になって、業に束縛されてい 輪廻から解脱するというのです。

これでは、「縁起論」のお釈迦さまに真っ向から否定されるのは当然です。

お釈迦さまの否定され

すべてのものが無常であって、縁により生じ、縁により消滅するとするお釈迦さまからみると、 絶対者のブラフマンも、常恒不変のアートマン(我・霊魂)も、その存在を認めることはできま せん。

そのように、霊魂あるいは自我に対する誤った概念を先入観・前提として持っている相手から の霊魂と身体に関する質問には、真っ向から答えることはできません。

そのために、『雑阿含経・仙経』では、お釈迦さまは、セーニャに対して、まず、その誤っ 概念(先入観・思い込み)を正すために、人間の存在を「五蘊(五陰)」という「身心のすべて を表す五つの要素」に分けて説明され、そのひとつひとつが無常なる存在であり、自分のどこに も絶対の実在というものはなく、したがってその五蘊が仮に寄り集まって存在する人間のどこに も、本体としての常恒不変の絶対の実在(アートマン)というものはない、ということを理解さ せるように説かれたのです。五つの要素とは、色(物質・肉体)、受(感覚) 想 (表象)、行(意 志 識(意識)の五つです。

自分の身心のどこにも絶対の実在というものがないのに、常恒不変のアートマン(霊魂)など あるはずがありません。 また、仮の存在であるのは人間だけではありません。 この世界のすべて が縁によって生起消滅している仮の存在であって、常恒不変の実在というものはないのです。 

その時、突然、衝撃がやってきた。右斜め前方から、まるで頭上から襲いかかるような感覚だった。白い閃光が目の前を舞い、剣道で面を打たれた時のような光景が頭をよぎった。

息もつけないうちに、衝撃は去り、周囲の景色が再び見えるようになった。しかし、その一瞬の間に、私の心は完全に打ちのめされた。修行や学問の成果など、全てが無意味なものに思えた。

「待ってください」と私は声をあげ、師を制した。「何が起こったのですか?」

「あの池、ミラクルの池です」と師がうなずいた。「仏陀が奇蹟を示した場所です」

「奇蹟?どんな奇蹟ですか?」

師は、仏陀が池の上に立ち、身体を火と水に変えたことを語った。

「それはどういうことですか?」と私は尋ねた。

「仏陀の全身のチャクラが、すさまじいエネルギーを放射したのです。それが火と水のように見えたのです」と師が説明した。

私は手元にあったメモ用紙を取り出し、その思考の流れを書き留めた。一瞬の霊的な体験が、修行や学問よりも価値があることを悟り、使命感が心を満たした。

「この霊的なバイブレーションを、全ての人々にもたらさねばならない」と誓った私は、次なる旅に向かう準備を始めた。

それは突然の衝撃だった。一瞬、目がくらむほどの衝撃だった。修行、学問、そんなものはなんの役にも立たぬものであることを思い知らされた。こころひそかに誇っていたこれまでの自分の修行も教学も、あっというまに消え去ってしまった。叩きのめされてしまった。

「これなんだ、これでなくてはならないのだ。これしかないのだ」と自問する中、この白銀の輝きに満ちたバイブレーションが私の心を捉えた。

「一〇〇年の修行も万巻の教学も、ただ一瞬のこの霊的バイブレーションに如かぬことを思い知らされた」と、私は心の中でつぶやいた。

「これがそれだったのだ。これが究極のそれだったのだ。このためにこそ私はここにやってきたのだ」と、私は心の中で語りかけた。

おお、サイト・マト、聖なる地、あなたはここに待っていてくれた。私が今受けたものを、これから人々に与えねばならない。

「いま、私は聖者であることを強く自覚する」と、私は心の中で宣言した。

「すべての人々がこの聖なるバイブレーションを受けることのできる聖地を、私はひがしの国に築かねばならない。この輝きに満ちたサイト・マトの地を、そのまま、日本の国に移さねばならない。それが私の使命だ」と、私は心に誓った。

「もう一度、この地に来なければならないのだろう。だが、そのとき何が起きるのだろうか?」と、私は心の中で不安に思った。

ああ、あの一瞬の霊的バイブレーション!一〇〇年の苦行も万巻の書物も、このバイブレーションなくしては、路傍の石ころにも劣るのだった。このバイブレーションを与えることのできる聖者こそ、真の導師なのだ。

「理解しました。聖師よ、ありがとう!」と、私は心の中で感謝した。

脳内の明星が開く扉!求聞持法で感じる奇跡の

「明星の秘密解明!求聞持法で身につける驚きの力」

 

1. 弘法大師空海の求聞持法では、結願の日、天気晴朗にして宝剣が現れ、明星が口に入り悉地成就の相を現すと伝えられている。
2. 求聞持聡明法の口伝は秘伝であり、修行者はこれを目標に努力するが、失望することが自然であると述べられている。
3. 明星は実際の天体ではなく、修行者の脳内に現れる閃光であり、それが明星の秘密であると説明されている。
4. 修行者が特殊なトレーニングを通じて大脳の視床下部を刺激すると、眼前に光が浮かび上がり、それが明星となる。
5. 明星の見え方は個人の努力や工夫に依存し、成功する修行者だけがその秘密を理解できると述べられている。
6. 求聞持法の口伝は間違っていなかったが、その秘密は修行者の努力によって解明されるべきであり、導師は直接には教えないことが強調されている。
7. 文中では作者が自らの修行体験を通じて、求聞持聡明法の秘密を理解し、それを技術として編成したことが述べられている。
8. 修行者は生化学と生理学に基づいた正しい指導のもとで訓練を積むことで、必ず効果を得られる技術としている。
9. 最後に、このような技術は本来秘伝として伝えられるべきだが、作者はこれを広く伝えるべきだと示唆している。

 

 

 

 

 

されるのである。弘法大師空海の場合は、結願の日、天気晴朗にして、 宝剣、

いずれからともなく忽然と座の前に落ち、明星飛んで口に入って悉地成就の相を現じたと伝えられる。

以上が、求聞持聡明法成就に関する口伝であり、秘伝なのである。したが って、修行者はこれを目標に必死に修行を重ねる。 そして失望する。当 然なのだ。なぜならば、この秘伝が間違っているのだ。 ケ こういう伝や秘伝を頼りにいくら修行しても、気の毒だが求聞持法は成 就しない。まるっきり違うのだ。どう違うのか?

明星とは、現実の明星ではないのである。 はるか彼方の空間にきらめく明 星ではないのだ。それは、なんと! 修行者自身の脳の内部にまたたく閃光 なのだ。 受

私の体験を語ろう。

夜明け

「ああっ!」

私は三度目の必死の修行に入っていた。

それは、ほぼ一〇〇日目、私の法のシステムでいって百度目のトレーニン

グのときであった。真言宗に伝わる求聞持法の九種の印明、 それに、古代ヨ ガに伝わる特殊な呼吸法、古代ヨーガの秘伝から私が創案した特殊な印契 とポーズ、この三つによるトレーニングで、私のからだと大脳皮質と脳髄は、 微妙な変化を起こしつつあることが感じられていた。 チャクラの開発も順調 にすすんでいた。機が熟しつつあることを、私の六感は感じていた。

まどろんだような感じであった。しかし、ねむりではなかった。 しびれの 感覚であった。かるい失神、めまいに似ていた。忘我の一瞬であった。その 刹那、

私は苦痛の叫びをあげていた。脳髄の一角に電流が流れる感覚が走った。

落雷かと感じ、瞼の裏を紫電が走った。つぎの瞬間、眼前でフラッシュをたかれたように、私の視野は真っ暗になった。失明! という考えがチラリと脳裡をよぎった。 と、そのときであった。頭の内奥、深部に、ポッカリと明かりがともったのだ。そして、それは、私の脈搏とおなじリズムで、 しずか にしずかにまたたきはじめた。ちょうど、この修法をはじめる一〇〇日前、 山にこもって凝っと見つめたあのときの明星 暁けの明星のように、それ はつめたく、黄ばんだ白さでまたたいた。

私は力いっぱい膝をたたいた。

「そうか! これが明星だったのか!」

私は目をみはって叫んだ。私はついに明星の秘密を発見した!

明星とは現実の明星ではなかったのである。

大脳の或る部分を或る方法で刺激すると、目の前に光が見えるようになる のである。その光は、かたちも色も大きさも、いろいろに見えるが、意識を 記憶の座に向けて沈静させると、つめたい、やや黄色みを帯びた白銀色にな って、しずかに眼の奥でまたたく。 それはちょうど明星そっくりに見えるの である。

これが明星なのだ!

或る特殊なトレーニングにより、この部位 大脳の視床下部のあたり)への 刺激が、目のなかに光を浮かばせるのである。目を或る角度に向けると、目 開いていても閉じていても、ポッカリと光が浮かんで見える。

この光が見えるようになると、大脳の記憶の座が自由にあやつれるように なるばかりでなく、さまざまな、奇蹟としか思えぬような力が出てくる。す なわち、求聞持聡明法の成就である。

これが、求聞持法、明星の秘密である。 大空を一〇〇年ながめて空中の明 星を見つめていてもムダだ。 明星はわが大脳の奥にあるのだから。

このことは、密教五〇〇〇年の歴史に、私がはじめてつかんだ秘密である。 私以外にこれを知る者はついになかった。 求聞持法の秘密を私はついにつか んだ。私はそれを誇りに思う。

私は先に、求聞持聡明法の口伝は間違っていると言った。しかし、この口

伝は決して間違っていたのではなかったのである。修行が成就すればたしか

同じことである。

に明星は眼前に現われるのである。ただし、それが頭の深奥に現われるのだ ということは、修行者自身が心血を注ぐ努力、工夫をしてつかまねばならぬ 秘密なのである。その秘密が解けない修行者は、失格なのだ。つまり、天才 にはなれないのだ。

密教の秘伝とか、口伝というものは、つねにこのような表現で真実を現わ (あるいは隠しているのである。その隠されたナゾ解きが、密教の「修 行」というものなのである。 法を成就した導師は、決してそれを素直に表現 して教えようとはしない。 それは決して意地悪や不親切なのではないのであ る。ストレートに密教の秘密の技術を出してしまったのでは、その秘密技術 を弟子は身につけることができないのである。それを身につける力が生じな いからである。

禅宗には、「公案」がある。一つの公案のナゾ解き (悟り)に何年も、時 には何十年も心血を注ぐ。 ナゾを解くことはもちろん大切でありそれが目的 だが、ナゾを解く過程の努力が、その修行者に力をつけるのである。それとそれにしても、明星が眼前を「遊現する」とはなんという巧みな比喩であ ろうか。空海の場合には、「明星が飛んで口の中に入った」という。法が成 就して、その秘密を身を以て体験した者には、「なあんだ」といおうか、「な るほど」といおうか、拍子抜けするような感じであるが、真剣になって、虚 空はるかにまたたく金星をなんとか目の前に遊曵させようと必死になり、時 には口の中に飛びこませようと大きな口をあけて待った無数の修行者を考え ると、おかしくもあり、気の毒でもあるという思いである。私はこれをもと にして、私の「求聞持聡明法」を編成した。これは、今までの「法」などと いうアイマイなものではない。生化学と生理学をもとにした「技術」であり、 システムである。正しい指導のもとに訓練を積めば、必ず、だれでも効果を 得られる技術である。

本来ならば、こういうことは、私の「大極秘伝」として、ごく限られた者 だけに、ひそかに伝えてゆくべきものなのだろう。

 

It will be done. In the case of Kobo Daishi Kukai, on the day of his wish, the weather was clear, the treasured sword,

It is said that out of nowhere, it suddenly fell in front of the throne, flew into the morning star, and entered its mouth, manifesting the aspect of complete fulfillment.

The above is an oral tradition and a secret regarding the fulfillment of the Law of Gumonji and Sage. Therefore, practitioners train desperately to achieve this goal. And disappointed. Of course. Because this secret is wrong. I feel sorry for him, but no matter how much he practices by relying on these traditions and secrets, he will never be able to achieve the practice of gimonjiho. It’s completely different. What’s the difference?

The morning star is not an actual morning star. It is not a bright star twinkling in a faraway space. It’s amazing! It’s a flash of light that flashes inside the brain of the practitioner himself. Receiving

Let me tell you about my experience.

dawn

“Ah!”

I was on my third desperate training.

It was almost the 100th day, the 100th training in my legal system.

It was at the time of I trained using the nine types of inmei of Gyomonjiho passed down in the Shingon sect, special breathing techniques passed down in ancient yoga, and special inji and poses that I created from the secrets of ancient yoga. It was felt that subtle changes were occurring in his body, cerebral cortex and brain spinal cord. Chakra development was also progressing smoothly. My six senses knew that the time was ripe.

It felt like I was dozing off. But it wasn’t sleepy. It was a feeling of numbness. It was similar to faint fainting and dizziness. It was a moment of forgetfulness. That moment,

I was screaming in pain. I felt a current flowing through a corner of my brain.

It felt like lightning, and purple electricity ran behind my eyelids. The next moment, my field of vision went black, as if a flash had been fired right in front of my eyes. A thought flashed through my mind: I’m going blind! That was then. A light suddenly lit up deep inside my head. Then, it began to beat again and again, in the same rhythm as my heartbeat. It twinkled with a cold, yellowish whiteness, just like the dawn star that I had gazed upon while holed up in the mountains 100 days before I began this practice.

I patted my knee as hard as I could.

“I see! This was the morning star!”

I looked up and screamed. I finally discovered the secret of the star!

The morning star was not a real morning star.

If you stimulate a certain part of your brain in a certain way, you will be able to see light in front of your eyes. The light appears to be of various shapes, colors, and sizes, but when you turn your attention to the seat of memory and calm down, it turns into a cold, slightly yellowish silver color, and quietly shines again in the back of your eyes. Taku. It looks exactly like a morning star.

This is the star!

Through some special training, stimulation of this part of the brain (around the hypothalamus) causes light to appear in the eyes. If you turn your eyes at a certain angle, whether your eyes are open or closed, you will see a flash of light floating in your eyes.

When he becomes able to see this light, he not only becomes able to freely manipulate the memory seat of his cerebrum, but also a variety of powers that can only be considered miraculous emerge. In other words, it is the fulfillment of the law of wisdom.

This is the secret of Gumonjiho and Myojo. There is no point in staring at the sky for 100 years, staring at the morning star in the sky. Because the morning star is deep within my cerebrum.

This is the first secret I have discovered in the 5,000 year history of Esoteric Buddhism. In the end, no one else knew this except me. I finally grasped the secret of Gumonjiho. I’m proud of it.

I said earlier that the oral tradition of Gumon Jisomeiho is wrong. But this mouth

The legend was never wrong. It is true if the training is successful

It’s the same thing.

The morning star will appear before your eyes. However, the fact that he appears in the depths of one’s mind is a secret that the practitioner must put his whole heart and soul into and use his ingenuity to grasp. A practitioner who cannot solve the secret is disqualified. In other words, he can’t be a genius.

The secrets and oral traditions of Esoteric Buddhism always reveal (or hide) the truth using expressions like this. Unraveling the hidden mysteries is what is called “training” in Esoteric Buddhism. Fulfilling the Dharma. A master who has done this will never try to express it honestly and teach it. This is not because he is mean or unkind.If he just gives out the secret techniques of esoteric Buddhism straight away, he will never try to teach them by expressing them honestly. Disciples cannot acquire it because they do not have the strength to acquire it.

In Zen Buddhism, there are “koans.” People spend years, even decades, pouring their heart and soul into solving the mystery (enlightenment) of a single koan. Solving the riddles is of course important and the goal, but the effort in the process of solving the riddles gives the practitioner strength. By the way, what a clever metaphor it is to say that the morning star “appears” before our eyes. In Kukai’s case, “Myojo flew into his mouth.” For those who have experienced the Dharma’s fulfillment and its secrets firsthand, they may say, “Wow!” or “I see!”, but when they become serious, they realize that the sky is far away. When I think of the countless practitioners who desperately tried to get the twinkling Venus to float in front of them, sometimes with their mouths wide open in hopes of letting it fly into their mouths, it was both strange and pitiful. I also believe that there is. Based on this, I organized my “Gumonjisōmeiho.” This is not what he calls the “law” of the past. It is a “technology” and a system based on biochemistry and physiology. It is a technique that anyone can benefit from if trained with the right guidance.

Normally, this should be my “big secret” and should be passed on to only a very limited number of people.

1. “仏教と道教:気道修行の奥深さ”
2. “仏陀の呼吸法:内なる自己探求の旅”
3. “気道の秘密:仏陀と道教の共通点を解き明かす”

呼吸法──それはただの呼吸のコントロールに留まらず、チャクラ、プラーナ、そしてクンダリニー・エネルギーなど、様々な技法を統合したものであり、それは仏陀の成仏法の最終段階である。この四つの呼吸法によって、仏陀の成仏法は完成されるのだ。

その呼吸法については、後で詳しく説明する。しかし、仏陀の気道の法についても触れておこう。

仏陀もまた、四神足法において、死道を辿っていた。”行息”、つまり気息を行使するということからも、気道が重要であることがわかる。

ただし、仏陀の気道はクンダリニー・ヨーガのものとは異なる。それは、仏陀の気道がクンダリニー・ヨーガの欠陥を補うものであるからだ。

なぜなら、仏陀の行息法が後に中国で道教の仙道に影響を与え、その基本的な修行法として取り入れられたからだ。

道教の修行には、内気の法や行気の法があり、これらは仏陀の成仏法に由来している。また、道教の気道には泥丸という部位があり、これは仏陀の教えるニルヴァーナに通じるとされる。この泥丸の名称はニルヴァーナから来ており、仏陀の修行法と道教の関連を示している。

こうした関連は興味深く、仏陀の教えと他の宗教や思想とのつながりを考える上で重要である。