鴨長明
逸話
- 源家長は『源家長日記』で、「すべて、この長明みなし子になりて、社の交じらひもせず、籠り居て侍りしが、歌の事により、北面に參り、やがて、和歌所の寄人になりて後、常の和歌の会に歌參らせなどすれば、まかり出づることもなく、夜昼奉公怠らず。」と真面目に公事を務めていたと、長明に対して好意的に記している。
- 鴨社で行われた光行賀茂社の歌合で「石川や瀬見(せみ)の小川の 清ければ 月も流れを 尋ねてぞすむ」を出詠し、鴨川の異名であると判者を務めた顕昭に告げている[3]。この後、「せみの小川」(月までが瀬を見にくる川)を使用した歌が多く作られると、敵対していた禰宜の鴨祐兼から「内々の雅名を勝手に吹聴し、聖地を世俗化させた」などの猛烈な非難を浴びる。しかし、この歌を始め『新古今和歌集』に10首が入撰すると、長明は「生死の余執ともなるばかり嬉しく侍るなり」と大変喜んだことが、『無名抄』に記されている。
