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社会システムの発展史

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、そこではなんらかの意味におきまして、いわゆる宗教革命をともなうことになっていく のであります。

そのようにして、社会システムの発展史というものは、社会システムの制御パターンの発展 史 すなわち、管理体制の変革的な脱皮の歴史でもあったことが理解できるのであります。

したがいまして、古代、中世、近代にいたる社会システム上の脱皮過程というものは、これを 巨視的に眺めてみますと、大要以上のように理解していくことが可能になるのであります。 具体的に申しますと、キリスト教とか、仏教とかの創唱的な大宗教活動におきましても、社会 システム上における制御的な役割というものは、以上の解釈で、そんなに大きな見当違いを犯し ていることはないと思っているのであります。

ただ、ここで注目しておいていただきたいことは、近代社会の役割、すなわち、実質はともか くとして、一応、<主権在民をかかげて出現した近代デモクラシーの社会におきまして は、神観念の代行者的な役割を果たしていくための人権思想とか、人民主権思想とかを 別にして考えますと、かまでの長い人の社会システムに強度の役を発揮してきました アブソリューティズム(絶対)としての観念というものは、ふたたびそのシステムな 意味を表わすことは、おそらくないだろうと思います。周知のように今日では、富の生産のた

めだとか、大衆のためだとか、あるいは、あるれに代わっているのやつまりカミホトケという絶対的なもの”もまた、社会システムにおけるパターンの ひとつであったのであり、いうなればJHホルモンであり、そういう意味では、警察権力や行政 施策とそんなに変るものではなかったということである。したがって、ある時期において、 それ らの宗教は、人権思想とか、人民主権思想にとってかわられてしまった。 脱皮した社会 システムに無用のものになってしまったのである。けれども、その敗北と時代の流れを察知でき ない宗教人たちは、もう現代に通用しない古い思想を現代的に装飾して、現代科学の行きづまり を突いて「第三の文明」というようなものを創造すると号したが、それも、富の生産のた めだとか、大衆のためだとか、あるいは、ある種の思想(イデオロギー)とかの新しい権威の 前には、当然、無力であり、そのために、それらの宗教団体は、宗教を捨て に転(せざるを得なくなってしまった。(それもまたひとつの皮であろう。呵々) 第三の文明を創造するといってたちあがった新しい宗教団体が、結局は、政治活動にその大半 のエネルギーを向けざるを得なかったという事実はそれはもはや宗教団体ではない)、まさしく市 川教授が指摘されている通り、従来の、カミホトケというものを礼拝し、ごりやくを期待する というかたちの古い宗教が、もはや現代の社会システムに適応しなくなってしまっているという ことにほかならない。そういう過去の遺物に、いまだに少なからぬ民衆がしがみついているの は、それにかわるべき新しい、且つ、強力なシステムの存在を知らぬからである。目ざめた人た

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