UA-135459055-1

縁起の法 

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

 

迦さまの教法によって、当時のインドの人々の心からプレッシャーがなくなりました。これが、

お釈迦さまの教法がもたらした、第一の救いでした。日本人の、それも現代人のわたくしたちに

はなかなか理解できませんが、彼らには最高の獄哉だったのです。

 すべてが縁によって起こる。縁によって生じ、縁によって滅するのであって、常住不滅・常恒

不変のものはなにもない。これは、すばらしい真理です。昔、日本のある名僧が、縁起の法を歌

に詠まれました。

[引き寄せて結べば柴の庵かな 解くれば元の野原なりけり]

 じつに分かりやすい名歌ですね。野原に小屋のような庵が一軒あります。それはいろいろな木

材や茅・柴を、縛ったり組んだりして造られているけれども、それらをばらばらにしてしまった

ら、もとのなにもない野原に戻ってしまう。板きれ、茅、柴が転がっているだけの、ただの野原

です。それらの材料を集めて、家の形にしたならば庵になるけれども、ばらばらにしてしまった

ら、もう庵ではありません。材料、が縁によって集まり、俳示して庵になっているだけですから、

それは常恒不変ではありません。存在はしているけれども、実在てはありません。これを仏教で

は「空」と呼びます。

 人も柴の庵も同じです。わたくしも縁によって桐山靖雄という人間になっているだけで、桐山

靖雄としての縁がなくなったならば、違う存在になってしまいます。まさに空です。縁起という

ことは、すべてのものが条件によって変化し続けることでもありますから、古い訳では縁起の法

を戮聚汁法としております。変易とは変化するという意味です。

 お釈迦さまI40切は空であって(べ球県が)ヽでIトマッはない(識滋虻が)」と説かれまし

 

    た。縁によって生じ、縁によって滅するのだから、常住不滅・常恒不変の自我が実在すると考え

    るのは間違いなのです。

     ところがそれでも、アートマンが実在すると信じている人がたくさんおります。縁起の法が分

    からない、あるいは理解しようとしないという煩悩が身見なのです。前述のようにアートマンは

    「我」と漢訳されますので、身見は別名を我見といいます。

     身見のもう一つの意味は、常住不滅・常恒不変の実在がないということが理解できないために

    生じる、自己中心的な考え方です。凡夫は永遠不滅の自我があると考えるために、自分に執着し、

    「自分のもの」に執着します。これを仏教では我執といいます。この世に「自分のもの」などあ

    りはしません。今、自分が所有していたとしても、それは自分のところに来る縁がたまたま存在

    したから、仮に自分のところにあるだけで、永遠に自分の手もとにあるわけではありません。縁

    がなくなればだれかの手に渡ったり、壊れてなくなったりします。しかし、縁起の道理が分から

 

    ないから、

 

     「自分のものなのに!」

     と執着するのです。これも身見です。

     仏道修行者は、永遠不滅の自我が実在しているという妄執と、なんでも自分中心に考える我執

    を断ち切らなければならないのです。

疑惑

 この場合の疑惑とは、ただ物事を疑って信じないということではありません。仏さまの正しい

教えを疑い惑って、なかなか信じないという意味での疑惑です。お釈迦さまの正法に疑いを持つ

煩悩、これが疑惑です。

戒取

 戒取とは、お釈迦さまの正しい教え以外の宗教、あるいは倫理・道徳・哲学などを信じて、お

釈迦さまの真実の教法を信じようとしない煩悩です。

 以上の身見・疑惑・戒取の三つを完全に切った人が須陀疸です。須陀亘は別名を預流といいま

す。流れに預かる(入る)と書くわけですが、どのような流れに入るのでしょうか?

 これは聖者の流れに入るという意味です。須陀逼になった人は聖者で、須陀逼になっていない

人は凡夫です。それで須陀逼を聖俗の分かれ目とします。須陀逼になると二度と聖者の流れから

堕ちることはなく、必ず成仏に向かいますので、これを「不退転の法を成ずる」というのです。

 もちろん同じ須陀疸でも、須陀逼になってからの修行の具合によって、成仏までの時間は異な

ります。一生懸命に修行をするならば早く成仏しますし、怠けていたならば時間がかかります。

けれどもいずれにしても、必ず最後には成仏します。

「阿含経」には、須陀逼は人間界と天上界を七度往来して成仏する、と記されております。須陀

逼がこの世を去ると、天上界に生じて天になります。仏教の天とは、「運を天に任せる」の「天」

のようなとらえどころのないものではなく、サンスクリット語の「デ~ヴア」を訳したもので、

神の境界のことです。仏界と人間界との間に、天上界という神々の世界があるわけです。天は仏

のように完全な解脱は得ていません。しかし、人間よりは解脱に近づいている存在です。

 一般に、天は一神通を持つとされます。○○天という名前でお祀りされているのはみな天上界

の神々で、成仏はしていないものの一つの神通を身に備えておられます。たとえば大黒天、弁才

天、章駄天などがそうです。章駄天は章駄天走りという言葉があるように、駿足の神さまです。

あっという間に二、三百キロメートルくらい走ってしまいます。ですから了フソン選手などは、

章駄天を信仰するとよいかもしれません。弁才天というのは芸能の神です。芸能面に関する、す

ばらしい神通力を持っておられます。

 須陀逼は寿命が尽きると天になり、一神通を使って人を救います。そのように、天上界におい

ても修行するのです。天での寿命が尽きると、須陀逼は人間界に戻ってきて、ここでも世のため

になるようなことをします。それで人間界での寿命が尽きたならば、再び天界に行くわけです。

合計で七回往来するとされています。

 須陀逼となって天上界へ行った人がこの世に帰ってきた場合--大上界では天として一神通を

持っていたわけですからI普通の人が持たないような、すばらしい力を必ず発揮します。ひょ

っとすると大天才といわれる人物は、天から戻ってきた人なのかもしれません。モ~ツァルト

二七五六-一七九一)などは、三歳のころから神童といわれ、五歳で作曲を手がけたそうです。

 

 

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

SNSでもご購読できます。

ntt

コメントを残す

*