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仏道修行は因縁の法則を理解し、自己中心の心癖を取り除くことから始まるのです。

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預流とはサンスクリットのスロータアーパンナ(須陀洹[しゅだおん])の訳で、無漏(煩悩のない状態)の聖者の流れに初めて預り入るとの意。②一来とはサクリッドアーガーミン(斯陀含[しだごん])の訳で、一度天界に生まれ再び人界に生まれて覚りを得るとの意。③不還とはアナーガーミン(阿那含[あなごん])の訳で、再び欲界に還ってこないとの意。④阿羅漢とはアルハトの主格アルハンの音写、尊敬に値するものという意で、「応供[おうぐ]」などと訳す。

 

預流 – 聖者の流れに入ることで、最大7回欲界の人と天の間を生れかわれば悟りを開く位。須陀洹 (シュダオン) を指す。

悟りの段階 -3

純粋な心-2. 預流果 (ヨルカ)-2

心 (マインド、潜在意識) は、記憶の束です。個我は、記憶の創造物です。

精神的習慣が、その人 (個我) の環境を作っています。その人 (個我) の環境は、すべてが記憶の投影です。
預流果は、三結 (3つの束縛) が絶たれている。預流果は、有身見 (うしんけん:五蘊を自己とみなす見解) が錯覚だと理解したのです。

悟りの段階 -6

純粋な心-4. 一来果 (イチライカ)-2

一来果でなくなるのは、「欲と怒り」です。一来果は、「執着と険悪がとれたもの」です。自分の「執着と険悪」の動機を探ります。

預流果では、有身見 (うしんけん:五蘊を自己とみなす見解) が錯覚だと知ります。
一来果でなくなるのは、「欲と怒り」です。一来果は、「執着と険悪がとれたもの」です。自分の「執着と険悪」の動機を探ります。

純粋な心-6. 不還果 (フゲンカ)
不還果 (フゲンカ) は、五下分結 (三結 + 貪《トン》・瞋《シン》) が絶たれている。
五下分結とは、欲界 (人の世界) へと縛り付ける「5つの束縛」です。

このような方法で、無意識にある前提や思い込み (執着や険悪の感情や考え) を、書き換えます。この方法では、小さな成功体験を繰り返すことで、自信になり確信を持つようになります。

 

 

三界とは欲界・色界・無色界の三つの世界のことです。人は因縁解説して成仏しないかぎり、三界のどこかに生まれ変わります。

 欲界とは三界の中で最も下にあり、婬欲や食欲、それから睡眠欲などの欲望を持つ者たちが住む世界です。ここには地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界の住人と、欲天(欲界に属する天)がおります。

 色界とは欲界の上にあり、欲を離れた清らかな物質からできている世界です。ここには色天(色界に属する天)がおります。

 無色界は三界では最上の世界で、物質を超えた精神だけの高度な世界になります。ここには無色天(無色界に属する天)がおります。

 この三界を超えて涅槃に入らないかぎり、必ずなにかしらの苦しみがつきまといます。お釈迦さまは、

 「三界に自らを縛りつけている煩悩と因縁を断ち切って涅槃に入りなさい」

 と、成仏するための教法を説いて歩かれました。それが仏法であり、仏教です。その仏教と仏

法を実践した、何百、何千もの比丘や比丘尼が実際に涅槃を得て、二度と三界に生まれることがたい、とお釈迦さまはおっしゃっておられるわけです。

お釈迦さまは、二人や二人や三人というような少ない人数ではなく、五百人よりなお多くの優婆塞がもろもろの梵行を修行し、私の説く法と律を実践して五下分結を断じつくし、阿那含になって二度と欲界に生じることがなくなっています」と答えられました。

 お釈迦さまは、比丘と比丘尼のところでは仏法と戒律しかおっしゃっていないのに、優婆塞のところでは、仏法と戒律の他に、梵行を説いていらっしゃいます。これは、在家の修行者にとって梵行が非常に大切であることを示していますが、これについては後で詳しく説明いたします。

 さて、お釈迦さまは、いろいろな梵行を行ない、仏法と戒律を実践する優婆塞は五下分結を断じ、阿那含となって二度と欲界に戻ってこないとおっしゃっております。この五下分結が分からないと、このお経、いやお釈迦さまの教えは理解できません。それほど重要なものです。

 それでは五下分結とはなにか?

 結局のところ、人が因縁解説して完全成仏するためには、因縁の元になる煩悩を断滅しなければなりません。人間には百八の煩悩があるといわれますが、そのだくさんある煩悩の中で根本に

なる煩悩(根本煩悩)を渇愛(ダンパー)と呼びます。これは、三界への執着を、喉が渇いて水を欲しがるようすにたとえたものです。

 根本煩悩の渇愛から、さらに、①身見、②疑惑、③戒取、④欲貪、⑤瞰恚、⑥色貪、⑦無色貪、⑧慢、⑨棹悔、⑩無明の十種類の煩悩が漏れ出てきます。これを「十随煩悩」あるいは「十結」と呼びます。なぜ「結」というのか? というと、これらの煩悩は人間の心と魂を固く結束し、束縛して自由にさせないからです。

 

わたくしは法話でしばしば、

 「人間は因縁のあやつり人形である」

 と話しますが、運命をあやつる因縁の糸は十結煩悩から生じているのです。

 したがって、十結をすべて切ってしまうことにより、すべての煩悩と因縁が切れる、つまり成仏できるわけです。

 十結は切れやすい順番に並んでおり、さらに五つずつ二組のグループに分けられます。最初の身見から眼恚までを五下分結と呼び、色貪から最後の無明までを五上分結といいます。

  五下分結……身見、疑惑、戒取、欲貪、瞰恚

  五上分結……色貪、無色貪、慢、棹悔、無明

 なぜ身見から瞰恚までを五下分結と呼ぶのか?

 この五つの煩悩は、人々を下位の世界に結びつけているためです。下位の世界とは欲界です。

欲界に人々を結びつけて苦しめる煩悩ですから、五下分結というわけです。

 それでは、十結のそれぞれの意味について説明しましょう。

  一つは、アートマッ(我)という常住不変の自我が実在している、と考えることです。インドのバラモッ教では、永遠不滅のアートマンという自我が実在し、そのアートマンが輪廻転生すると考えていました。しかし、お釈迦さまは永遠不滅の「我」などはなく、五陰(五菰)が因縁によって仮合することによって、現在の自分が存在するのであると説かれました。

 もしも、永遠不滅の実体があるとするならば、苦も実在となります。したがって、誰も苦しみから逃れることなどできません。すべてが因縁仮合の存在だからこそ、運命を変え、因縁を断ち、

苦しみを除くことができるのです。要するに、身見とは因縁の道理、因縁仮合の法則を理解しない煩悩です。

 

 そのように身見は因縁の道理や因縁板合の法則を理解しない煩悩ですが、この煩悩があるために、人間はなにかにつけてわが身を中心に考えて行動します。この自己中心的な考え、仏教の述語でいえば「我執」「我慢」の心が、もう一つの身見なのです。

 「我が強い」という言葉がありますが、

 「おれが、おれが……」            `

 という利己的な気持ちが強くては、どのようなよいことを聞いたり学んだりしても、まったく身につきません。謙虚に素直に聞く態度が大切なのです。

 わたくしは常々から「我は因縁の現われ」といっております。その人がどのような心癖を持っているかを見れば、その人の因縁はすぐに分かります。その性癖の中で特に悪いのが自己中心の

考え方です。

仏道修行は因縁の法則を理解し、自己中心の心癖を取り除くことから始まるのです。

二、疑惑

 なににでも疑い迷う人がいますが、これは、世間的なことへの疑惑ではなく、お釈迦さまの正

しい教法に対して疑い惑うことです。

三、戒取

 戒取とは、仏陀の正しい教法を理解せず、あるいは理解しようとせず、それ以外の道徳や仏教

以外の宗教を「絶対に正しい」と信じて固執することです。因縁を解脱して涅槃に至る、というお釈迦さまの教法に勝る宗教は絶対にない。それを知らず、知ろうとせず、低級な宗教や信仰・道徳に固執する態度、これが戒取です。

四、欲貪

 色・声・香・味・触の五欲を元にした、婬欲・食欲・睡眠欲(怠惰)など、卑しい低級な本能に基づく、欲の貪りです。

五、眼恚

 これは、怒りです。しかし、単に腹を立てるといった感情的なものではなく、思いどおりにならないことすべてに怒りを発する、「愚療」の心です。因縁果報の道理が理解できたならば、むやみに腹を立てることはできません。たとえば、こういうことがありました。

 「ひどい目に遭った。あれは詐欺だ!」

 ヤ、騒いCいる人がいるので事情を聞いてみると、たしかに相手が悪く、それは詐欺まがいの入間の口車に乗ったのか?、と欲な出したからです。欲を離れて冷静に考えてみれば、絶対に怪

しいと思う話です。そんなうまい話などあるはずがない、とすぐに分かります。ところが欲に目がくらんだために、簡単にだまされてしまったのです。そして、

 「あいつは悪いヤッだ」

 と騒いでいるのです。

 けれども、欲を出した自分も悪いのです。それが分かったならば反省する心が先に立ち、腹を立てるのは二の次になります。ところが、そのような人にかぎって絶対に反省をしないで、

 「自分が損をしたのは相手のせいだ。世の中のせいだ」

 といい、最終的には、

 「神も仏もあるものか!」

 というところまで発展してしまいます。まさに愚か縦です。要するに瞰恚とは、因縁果報の道理に暗い、愚療の心から生じる「いかり」なのです。

 以上の五つの煩悩が五下分結です。したがってぺ「五下分結を断じ阿那含を成ずるを得て復た還りて此に生ぜず」というのは、梵行と成仏法によって身見、疑惑、戒取、欲貪、眼恚の五つの煩悩を断ずると、阿那含という聖者になって欲界には戻らない、という意味になります。そこで阿那含のことを「還ら不」と書いて、「不還」とも呼びます。還らないでどこへ行くのか?

 この世での寿命が尽きたのち、色天となって色界へ生じるのです。

 

The three worlds are the three worlds of lust, color, and colorless. A person will be reborn somewhere in the Three Worlds unless he explains to him about his affiliation.

The world of greed is the lowest of the three worlds, and is the world in which people with desires such as jealousy, appetite, and sleep desire live. There are inhabitants of the hell world, hungry world, livestock world, shura world, human world, and greed (heaven belonging to greed).

The color world is the world above the world of lust, made of pure substances that have separated from greed. There is a color heaven (heaven belonging to the color world) here.

The colorless world is the best of the three worlds and will be an advanced world with a spirit that transcends substances. There is a colorless heaven (heaven belonging to the colorless world) here.

Unless you go into nirvana beyond these three worlds, there will always be some kind of suffering. Buddha,

”Cut off the anxieties and ties that bind you to the Three Worlds and enter Nirvana”

Then, I walked on to teach the doctrine to achieve Buddhism. That is Buddhism and Buddhism. Buddhism and Buddha

Buddha says that it is difficult for hundreds or thousands of pikes and peasants who practiced the law to actually get nirvana and be born in the third world again.

The Buddha is not a small number of people like two, two, or three, but more than 500 Yuba fortresses practice various kinds of training, practice the law and the law that I preach. I’ve stopped consolidating, and I’m no longer in the greed world once I become anan.”

The Buddha only speaks Buddhist law and commandments at Hikyoku and Hibiki Nunnery, but at the Yuba Fortress, he is preaching in addition to Buddhist law and commandment. This shows that Brahma training is very important for home practitioners, and we will discuss this in more detail later.

By the way, Buddha says that he is going to do various kinds of beasts, and that Yuba fortresses who practice Buddhist law and precepts have refused to go under Gojo and will never return to greed as Anan. If you don’t understand this Gojoshi, you can’t understand this Sutra, No Buddha’s teaching. It’s that important.

Then, what is Goshita Yui?

After all, in order for a person to explain the relationship and complete the Buddha, it is necessary to destroy the anxiety that is the cause of the relationship. It is said that humans have hundreds of anxieties, but in the vast amount of anxiety,

This anxiety (fundamental anxiety) is called thirst (damper). It’s an analogy of obsession with the Three Worlds with the thirst for water.

From the thirst for root anxiety, there are 10 additional anxieties: 1) self-examination, 2) suspicion, 3) courage, 4) greed, 5) perspective, 6) greed, 7) colorless greed, 8) pride, 9) regret, and 10 It will leak out. This is referred to as the “10 woes and worries” or “10 ties.” Why do you say “Yui”? This is because these anxieties tightly bind the human heart and soul, and do not bind and free them.

I am a folklore person,

”Human is a fateful puppet doll”

As I said, the thread of fate that controls fate is caused by the tenth of anguish.

Thus, by cutting all the ten knots, all the anxieties and ties are cut off, that is, it is possible to reach Buddha.

-10 jugs are arranged in an order that is easy to cut, and further divided into two groups of five. The process from the first appearance to the eyes is called Gogo-Kunetsu, and the process from Shiga to the last Makumei is called Gojo-Kunetsu.

Goshita Yui…Familiarity, suspicion, requisition, greed, perspective
传Gougami …… color greed, colorless greed, pride, regret, invisible

Why do you call yourself from the look to the view?

These five anxieties are connecting people to the lower world. The lower world is the world of greed.

It’s an anguish that connects people to the world of greed and suffers, so it’s called Goshita.

Then, let’s explain the meaning of each of the ten Yui.

One is to think that there is a permanent ego called Atuma (I). In Baramotism in India, there was a real ego, an eternally immortal Atman, and I thought that the Atman would reincarnate. However, Buddha was not said to have an eternal immortal “I”, and it was presumed that the present self exists due to the fact that the five Yin (temporary gods) were temporarily combined.

If there is an eternal immortal substance, then the suffering becomes a reality. Therefore, no one can escape suffering. Because everything is related to fate, we change our destiny, cut off our fate,

You can get rid of your suffering. In short, mitami is an annoyance that does not understand the reason for relationship and the law of relationship.

In this way, the appearance is an annoyance that does not understand the reason of the cause and the law of the relationship plate, but because of this anxiety, human beings attach themselves to something and think about themselves. This self-centered idea, in terms of Buddhist predicates, is the one of “giving” and “patience”.

There is a word “I am strong”,

“Ore, I…” ”

I have a strong selfish feeling, so no matter what good things I hear or learn, I can’t learn at all. It is important to be humble and honest.

I have always said that I am the cause of my relationship. If you look at what kind of mindset the person has, you can easily see the person’s affiliation. Of those propensities, the one that is especially bad is the self-centered

It is a way of thinking.

Buddhist practice begins with understanding the laws of causation and removing self-centered habits.
Second, suspicion

There are people who are skeptical about anything, but this is not a suspicion of the world,

It is suspicious of new teaching methods.

Three, catching

Kaitori does not understand or tries to understand the correct teaching method of Buddha, and other morals and Buddhism

Believe in other religions as “absolutely correct” and stick. There is absolutely no religion that surpasses the Buddha’s teachings, which is to get rid of the cause and lead to Nirvana. This is the attitude of not knowing it, not trying to know it, and sticking to lower religion, faith, and morality.

Four, greedy

Greed greed based on low-ranking, low-rank instinct, such as greed, appetite, sleep desire (laziness), based on the five desires of color, voice, incense, taste, and touch.

Five, eyes

This is anger. However, it’s not a sentimental thing that just makes you angry, it’s a heart of foolishness that makes you angry at everything that you don’t want to do. If you can understand the reason for the causation, you cannot get angry. For example, this happened.

“I had a terrible experience. That was a scam!”

YA, there are people who are noisy, so when I asked about the situation, it was true that the other party was bad, and was it a scam that was a scam? , Because I wanted it. If you take your greed away and think calmly,

It is a story that I think is appropriate. It’s easy to see that there can never be such a good story. However, I was easily deceived because I was blinded by my desire. And

“He’s a bad guy”

I am making a lot of noise.

However, the self who gave up the desire is also bad. If you understand it, the remorse will come first, and the anger will be secondary. However, never reflect on such a person,

“I lost it because of the other party. It is because of the world.”

Finally, in the end,

”Are there God and Buddha!”

It will develop to such a place. It’s just stupid. In short, the perspective is an “anchor” that arises from the heart of foolishness, which is dark in the cause and effect.

The above five anxieties are the five subordinates. Therefore, the phrase, “I will not be born here by recovering from the Goshita division and returning to the state of Anana, and returning to this place,” means that there is a presence, suspicion, reprimand, greed If you refuse the five anxieties, it means that you will not become a saint named Ana and return to the greed. Therefore, the name of Ana is written as “non-returnable” and is also called “non-returnable”. Where are you going without returning?

After the end of life in this world, it will become a colored sky and it will occur in the color world.

五下分結の内容は以下の通り[1]

  1. 有身見(うしんけん、satkāya-dṛṣṭisakkāya-diṭṭhi) – 五蘊自己とみなす見解[1]
  2. (ぎ、vicikitsāvicikicchā) – 疑い
  3. 戒禁取(かいごんしゅ、śīlavrata-parāmārśasīlabbata-parāmāsa) – 誤った戒律・禁制への執着
  4. 貪欲(とんよく、kāma-rāga)- 五欲への執着[1]
  5. 瞋恚(しんに、pratighapaṭigha) – 怒り

五蓋とは2及び4-5が共通。三結とは1-3が共通しており包括した関係になっている。

 

 

その秘密が『三供養品』に説かれています。仏教の原点ともいえるこのお経をさっそく読んで

聞如是。一時仏在舎衛国祇樹給孤独

園。爾時世尊告阿難。有三善根。不

可窮尽。漸至涅槃界。云何為三。所

謂於如来所而種功徳。此善根不可窮

尽。於正法。而種功徳。此善根不可

窮尽。於聖衆而種功徳。此善根不可

窮尽。是謂阿難。此三善根不可窮尽

得至涅槃界。是故阿難。当求方便獲

此不可窮尽之福。如是阿難。当作是

学。爾時阿難聞仏所説。歓喜奉行

 

聞くこと是の如し。一時、仏、舎衛国祇樹給孤独園に在

しき。爾の時世尊、阿難に告げたまわく、「三善根(三

福遺)有り、窮尽す可からずして、漸く涅槃界に至る。

云何が三ど為すや。所謂如来の所に於て功徳を種う。此

の善根窮尽す可からず。正法に於て功徳を種う。此の

善根窮尽す可からず。聖衆に於て功徳を種う。此の善

根窮尽す可からず。是れを阿難、此の三善根は窮尽す可

か6 ず、涅槃界に至ることを得と謂うなり。是の故に阿

難、当に方便を求めて、此の窮尽す可からずの福を獲べ

し。是の如く阿難、当に是の学を作すべし」と。爾の時

阿難、仏の所説を聞きて歓喜奉行しぬ。

このように聞きました。仏さまがコーサラ国の祇園精舎にご滞在の時のことです。ある日、世尊は、阿難にこのようにお告げになられました。

「三善根(三福道)というものがありますが、その功徳は無限であり、涅槃界に至ることができ

るものです。なにをもって三つの善根(福)とするのでしょうか。(第一に)いわゆる如来の所に

おいて功徳を種える、この善根(福)の功徳は無限です。(第二に)正法において功徳を種える、

この善根(福)の功徳は無限です。(第三に)聖衆において功徳を種える、この善根(福)の功徳

は無限です。阿難よ、この三善根(三福道)の功徳は無限であり、涅槃界に入ることができるの

です。したがって阿難よ、三善根(三福道)を修行して、この無限の福を得なさい。このように

阿難よ、この三善根(三福道)を学びなさい」

この教えを受けて、阿難は心より喜び、修行に励みました。

三善根を三福道と呼んでいます。このことについて説明し

ます。

『仏教語大辞典』(中村元著、東京書籍)で「三善根」を引くと、

【三善根】さんぜんごん 無貪善根・無限善根・無療善根の三根。一切の善法がこの三つか

ら生まれるからである。それらは具体的には施・慈・慧となって現われる。三毒の対。

と書かれています。しかし、この『三供養品』に説かれる三善根は、その内容がまったく異な

ります。それなのに、これを三善根という名称のままで弟子たちに教えるのは、非常な誤解を生むもとだとわたくしは考えました。

それでは、この修行法は、どのように呼ぶべきなのでしょうか?

経文中に、

「此の窮尽す可からざるの福を獲べし」

とあるように、この修行法は無尽蔵の福を得る三つの道です。したがって、わたくしはこれを「三福道」と命名しました。この名称ならば無貪善根・無職善根・無療善根の三善根と混同する

ことはありません。

 

三善根を「三福道」と変えて読誦しているのです。

さて、右の経文を一読すれば、涅槃界に至るためには三善根(三福道)が必要なのだ、という

ことをお釈迦さまが説かれているのが分かると思います。

涅槃界とはなんでしょうか?

普通は涅槃の境地・境界の意味で使われます(ただし本経では違う意味を持っておりますが、それについては後述します)。『五戒品』でも触れたように(本書三七頁参照)、涅槃とはサンスクリット語でニルヴァーナといいますが、生死を超越した境界、完全解脱の境地です。完全解説とは業と因縁から完全に解放された状態です。

わたくしたちは業と因縁の塊です。業と因縁によって輪廻転生を続けています。輪廻転生とは生死の流転がやまず、無限に生死の流転を繰り返すことです。まるで車の輪が廻るように絶え間なく、生と死を繰り返していくので輪廻転生といいます。また、生死流転、生々流転とも呼ばれます。直線ならば、いつかは終点にたどり着くでしょう。ところが輪というのは終わりがありません。終点がないわけです。輪が廻るから無限なのです。ただただ、グルグルグルグルと生死を繰り返すのです。

そういいますと、

「はてしなく廻ってもいいんじゃないですか。いろいろなものに生まれ変わって、さまざまな人生を味わうことができるわけでしょう。男になったり、女になったり、偉くなったりというよう

に、いろいろな人生を味わうことができるのだから、むしろ楽しいじゃないですか」そういう人もいるかもしれません。一度限りの人生ではなく、輪廻転生する方が楽しいという人もいるでしょう。

ところが、輪廻転生は決して楽しいことではありません。むしろ苦しいことです。輪廻転生が苦しいことだから、お釈迦さまは輪廻からの解脱を願って修行したわけです。

なぜ、輪廻転生は苦である、とお釈迦さまは説かれるのでしょうか?

それを理解するためには、まず、仏教の人生観を知る必要があります。

仏教では、まず、人生イコール苦であると見ます。人生は、すなわち苦しみであると考えるのです。わたくしもそのとおりだと思います。たしかに人生には楽しみもあります。けれども、一生のうちに体験する苦と楽を一つずつ相殺していくならば、苦しみの方が多く残るでしょう。にある苦しみの中に、ときどき喜びがあるというようなものではありませんか?

さらには、その喜びが、次なる苦しみの原因になることが多いのです。

仏執でロ人問の々[しみな分類してヽ匯即刻帽と呼んでおります。四苦とは人間の基本的な苦しみです。さらに四苦に付随した苦しみが四つ出てきます。これを最初の四苦と合わせて八苦といいます。通常はそれらを総称して四苦八苦というわけです。

仏教の基本教義として大切なことですから、もう一度復習しましょう。

まず、四苦というのは、生・老・病・死の苦です。これが人間の基本的な苦しみです。さらにその四苦に付随した苦しみが出てきます。それが愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦の四つです。これらの苦を総称して、四苦八苦といいます。こうしてみると、人間というのは本当に苦の塊です。

四苦の第一は生の苦です。実際に自分の人生を振り返ってみればよく分かると思いますが、生きていくこと自体が苦しみです。生まれたこと自体が苦しみです。生きているからこそ楽しいこともあるけれども、その楽しいことが次の瞬間に苦の種となっています。ですから生は苦であるというしかありません。

第二は老の苦しみです。生きている以上は、だれもが年をとります。必ず老いていきます。これもやはり愉快なことではありません。老いた人ならではの喜びもありましょう。けれども老いれば体力・気力・智力も落ちていくわけですから、「老い」は決して愉快なことではありません。

朝起きて、ひげを剃るために鏡を見ると、

「ああ、我、老いたり」

という感をしばしば抱きます。自分では若い気でいても、若い時のような強い体力を発揮することはどうしてもできません。老いる苦しみというものは、だれしも味わうものです。

第三は病の苦です。生きているかぎりは、病気をすることもあります。だれが考えても、病気は楽しいものではありません。病気によって得るものもありますが、相対的に見れば病気は苦しいものです。

第四は死の苦しみです。人間だれしも死を迎えます。悟りきった人でないかぎり、死は寂しいし、つらいし、苦しいものです。

以上が四苦です。この四苦に愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦の四つを加えて八苦になります。

愛別離苦とは、自分が愛しているものと離別しなければならない苦しみです。どれほど愛し合っている恋人同士、あるいは夫婦、親子、兄弟、友人であっても、いつかは離別しなければなりません。生き別れもあれば死に別れもあります。いずれにしても愛する人と離別することは、本当に苦しく、つらいことですが、絶対に避けられません。

しかも、それは人間関係だけではありません。愛するものとは、必ずしも人間だけではありまけん。たとえば、お金をこよなく愛している人がいます。

『おわはわ金だりが恋人だ。ほかにはなにもいらない』

また、地位を愛している人もいます。内閣総理大臣、会社の社長、重役、それぞれのポストをこよなく愛しています。

けれども、お金であろうと、地位であろうと、いつかはそれらとおさらばしなければならない時が必ずやってきます。いくら、

「いやだ!」

と叫んでみたところで、どうなるものでもないわけです。

次の怨憎会苦とは、怨んだり憎んだりしている相手と会わなければならない苦しみですが、これもまた愛別離苦に勝るとも劣らない苦しみです。

「憎んだり怨んだりしているような、それほど嫌なヤッならば、会わなきゃいいじゃないか」そういうかもしれませんが、因縁によって離れることができなくなっているから、非常に苦し

いのです。その一つが「夫婦縁障害の因縁」です。最初は愛し合って結婚したとしても、怨憎会苦のもとになる「夫婦縁障害の因縁」があれば、夫婦お互いが憎しみ合うことになります。ま

るで親の仇のように憎み合って、朝から晩までけんかぽかりしています。

「それならば、別れてしまえばいいじゃないですか」

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