UA-135459055-1

修行の根本となる信 摩訶男白仏。世尊

修行の根本となる信

摩訶男白仏。世尊。云何為満足一切

優婆塞事。仏告摩訶男。若優婆塞有信無成。是则不具。当勤方便具足浄戒具足信戒。

2

いつきいうばそ摩訶男、仏に白さく、「世尊よ、云何が一切優婆塞事を

湖足すと為すや」と。仏、摩訶男に告げたまわく、「若し優婆塞償有りてむ無くば、是れ則ち具せず。単に転が

現代語訳

しんかい使し浄戒を具足し信戒を具足すべし」

マハーナーマは仏さまに申し上げました。

「世尊上、完全な優要塞になるには、どのようにすればよろしいのでしょうか?」

仏さまはマハーナーマに告げられました。

「その者に信があっても成がなければ真の優婆塞とは呼べませんから、精進して浄液を守って、 信と娘の両方を身につけなさい」

1110

解説

さて、マハーナーマはお釈迦さまのお答えをうかがってから、「世尊よ、云何が一切優婆塞事

を満足すと為すや」と再び質問しました。

さきほどのマハーナーマの質問に対して、お釈迦さまは、

「仏の前で、私は死ぬまで仏・法・僧の三宝に帰依いたしますから、優婆塞として私をお認めく

ださい、といえば優要塞になる」

とおっしゃいましたが、これは要するに形式上のことです。深い中身については触れておられ

ません。ですから、マハーナーマは優婆塞事を満足するには、どうすればよいか、つまり、 「完全な優要塞になるには、どのようにすればよろしいのでしょうか?」

と、再び質問したわけです。

すると、お釈迦さまはマハーナーマに、「若し優婆塞信有りて戒無くば、是れ則ち具せず。当に動方便し浄戒を具足し信戒を具足すべし」と答えられました。これは、

「その者に信があっても彼がなければ、満足な優婆塞と呼べないから、精進して浄戒を守って、 信と旅の両方を身につけなさい」

という意味です。

優要塞になった以上、必ず信はあるはずです。もしも、仏さまの教えを信じる気持ちがなければ、なにも仏さまのところへきて、自分は仏・法・僧に一生陽依いたします、と誓うわけがありません。ですから、優婆塞であるからには、仏・法・僧を信じ仰ぐ、という心は必ずあるはずで

宗教においては信がいちばんの根本です。これがなかったならば、どうしようもありません。 信じたい、信じよう、信じる。この気持ちがあって初めて、お釈迦さまの教えを実行しよう、という気になるのです。そこで優婆塞になる。

皆さんはこのお経を読んで、二千数百年前にお釈迦さまがマハーナーマに説法しているお経なのだ、と思うようではいけません。お経というものは、お釈迦さまが今、この自分のために説いてくださっているのだ、と思って読まなければいけないのです。そうして初めて、お経と自分との間に血が通うわけです。

浄土真宗の開祖である親鸞上人(一一七三―一二六二)は、

「仏は親一人がためにこの経(『阿弥陀経」を説き給う」

というようなことを述べておられます。お釈迦さまは自分一人のために『阿弥陀経』をお説きになられたのだと確信しながら、親鸞上人は『阿弥陀経」をお読みになったとされておりますが、

これが本当のお経の読み方です。

「ははあ、二千数百年前にお釈迦さまがマハーナーマに、こういうふうに説教されているのか

というような読み方では、とてもお経の本質を見抜くことはできません。ましてや、そのお経

に書かれていることを現実に生かすことなど、絶対に不可能です。

「お釈迦さまは、この自分に対してお説きくださっている!」

そのように、心の底から感激して読むのが、正しいお経の読み方です。

なるほどたしかに、わたくしは自分が利口で、世の中の人はすべて愚かに見えていましたが、 悪かだと思っている連中がどんどん世の中に出ていって、利口だと思っている自分はうだつが上がらない。運が悪い。まさに「利口で貧乏する」だったのです。

「お前がチャンスに恵まれない理由が分かるか? それは、徳がないからだ。人が成功をつかむには才能だけではだめだ。徳が必要なのだ。徳がなければどれくらい才能にあふれていても、成功をつかむことはできない。では、徳を得るにはどうすればよいのか? 布施をせよ。布施をすれば砲はいくらでも出てくるのだぞ」

まるで、白隠禅師が語りかけてくるようでした。そして、白隠禅師は、三百年後に現われるわたくしのために、この『施行歌」を書いてくださったのだな、と確信しました。

正しく信を育てる戒

あなたがたもこの『一切事経』を、二千数百年前にお釈迦さまがマハーナーマに説いたお経だ、 と考えるようではいけません。「若し優婆塞信有りて戒無くば、是れ則ち具せず。当に勤方便し

浄戒を具足し信戒を具足すべし」とは、

「信があっても戒がなければいけないのだよ。おまえは戒を保っているか?」

とお釈迦さまが、今、自分に直接問いかけてくださっている言葉なのだ、と思わなければいけないのです。

ないのです。

阿含宗信徒諸君は解説宝生行を一生懸命に修行しています。このような修行をするからには、 信は必ずあるはずです。お釈迦さまの法を信じよう、お釈迦さまの成仏法を信じよう、と考えたからこそ入行したわけです。

ところが、信じただけではだめだぞ、とお釈迦さまは諭されていらっしゃる。

入行して三カ月あるいは半年経つと、職員や先達のところにいろいろな不平をいってくる人がいます。

「こんなに信仰しているのに、全然よくならない。こんなに信じていて、一生懸命に修行をしているのに、よいご利益がまったくない」

そういう声を聞きます。

しかし、お釈迦さまは、信じるだけではだめだぞ、とおっしゃっているわけです。たとえば、 阿含宗に入って、毎日、一生懸命にご宝塔に供養を捧げ、お経やご真言を読誦する。これは信です。それらを実行するわけですから、たしかに信はあるわけです。しかし、お釈迦さまは「信」 だけではだめだ、「戒」が必要なのだとおっしゃっています。

「戒」には、二つの意味があります。一つは修行者としてやってはいけないことの取り決め、もう一つは修行者としてやらなければいけないことです。

ところが、これをひっくり返している人が多い。やらなくてはいけないことをまったくしないで、やってはいけないことをせっせ、せっせと行う・・・・・・。それでいて、

「こんなに信じているのに!」

どと文句をいう。これではしかたがありません。信じるだけで、物事がうまくいくわけはありません、そうでしょう。自分は受験に合格するということを信じてさえいれば、勉強しなくても大学あるいは高校の入学試験に合格しますか?

そのようなことはあり得ません。立派な先生について勉強を教わる、そしてその先生を信じて、 先生のいうとおりに勉強し努力する。それで初めてよい結果が出てくるのです。信じるだけではしかたがありません。

もちろん、信じることが一番最初に必要です。ですから、信じなければいけません。しかし、 信じているだけでは足りません。当たり前のことですが、その当たり前のことが、いわれなければ分からないのです。これが凡夫の悲しいところです。

わたくしたちがやらなければいけない彼は、まず第一に、一日一回必ず勤行をするということです、そして、導師から授かった戒行・課行を必ず実行する、ということです。信仰を持つというのは、ただ種をまいただけにすぎません。その種から、すくすくと芽が伸びて、立派な花が咲くようにするには、いろいろな手入れが必要です。肥料も与えなければいけないし、雑草も抜かなければいけません。

この二つがそろってはじめて、「信」という種がすくすくと芽を出し、やがて花を咲かせ、実を結ぶのです。種をまいても、ほうっておけば枯れてしまいます。枯れないまでも健全に育っていきません。

修行も同じです。一生懸命に勤行をし、先祖のご供養をする。これは大切なことですが、それだけでは信仰の種をまいただけにすぎません。その種がすくすくと伸びていくためには、戒がな

ければいけないのです。

それでは、戒を具足すればそれでよいのかと申しますと、それでもまだまだ足りないとお釈迦

さまはおっしゃいます。

それではまだなにが必要なのでしょうか?

徳のもととなる布施の行

而不施者是則不具。以不具故精勤方便。修習布施。令其具足満信戒施満。

「而して悪さざる者は是れ則ち具せざるなり。具せざるを以ての故に精勤方便し布施を修習し、其れをして具足澱ぜしめ、伝むぎ減ならしむ」

現代語訳

「(信と彼がそろっても、)布施を行わなければ真の優婆塞とは呼べません。努力と工夫によって布施行を実践し、信と戒と施(布施)を円満に修めなさい」

ここでお釈迦さまは、布施をしなければ、信と変があっても完全な優婆塞とは呼べない、と説かれております。

なぜならば、布施によって初めて徳が生じるからです。信を持ち戒を保つということは、自分だけのことをやっているにすぎません。自分にとってプラスになることだけをやっているわけです。一方、他の人になにかを施すということは、他の人にブラスを与えることになります。

どのような難行苦行であっても、自分のことばかりを考えていたのでは、徳は生まれません。 他の人になにかを与えてこそ、自分の身に徳が生じるのです。人間というものは、徳がなければなに一つ成功させることはできません。これは、仕事でもなんでも同じです。

わたくしはいつも、

「人の不幸の元凶は因縁である。その因縁を切る成仏法を実践することによってのみ、人は本当

の幸福を得ることができる」

と申し上げております。しかし、不徳の身では、その成仏法でさえやり通すことができないのです。徳があってこそ、修行は順調に進みます。徳がなければ、因縁を切る修行でさえも途中でだめになるのです。修行に嫌気がさしたり、経済的に不如意になったり、あるいは周囲の者が意味もなく反対します。とにかく、うまくいかなくなってしまうわけです。

さきほど、白隠禅師の『施行歌」についてお話ししました。い切さを初めて身に染みて感じま

ために説いたものですが、その中に

 

さきほど、白隠禅師の『施行歌」についてお話ししました。

切さを初めて身に染みて感じました。「施行歌」とは、布施の行の大切さを分かりやすく民衆の

ために説いたものですが、その中に、

「富貴に大小ある事は蒔種大小あるゆへぞ

この世はわづかの物なればよい種ゑらんでまきたまへ

たねを惜みてうへざれば 穀物取たる例なし

田畑に麦神蒔ずして麦ひく取たるためしなしいつとためしむぎひへ壱升まきをけば 五升や壱斗はみのるぞや然れば少しの施しも果報は倍あるものぞ

湯や施し多ければ くわほうも多しと斗りしれ」

という言葉があります。わたくしは、これはまさに真理だと思います。

功徳の種をまかずに、徳の実が実るはずはありません。功徳の種を少しでもまくならば、必ずそれよりも大きな徳の実を得ることができるのです。功徳の種をまく、これこそが布施の行なのです。 より

 

求聞持聡明法 Gumonji Shōmyōhō Sahasrara Chakra

 

求聞持聡明法
Gumonji Shōmyōhō
Sahasrara Chakra

すべてを統べる 小さな領域
梵の座は 頭上にひらく
松果の影を 越えた場所
そこに眠る 真の扉

Namosattanan
sanmyaksanmodaktinan
taniyata
on shaley shurei juntei
sowaka

燃え上がれ 視床下部の火
魂と肉体を ひとつにして
覚醒の光が 脳を走る
いま 私は 目覚める

Namosattanan
sanmyaksanmodaktinan
taniyata
on shaley shurei juntei
sowaka

 

All things are ruled by a tiny domain,
The seat of Brahma opens at the crown.
Beyond the shadow of the pineal light,
There sleeps the true and hidden gate.
Namosattanan
sanmyaksanmodaktinan
taniyata
on shaley shurei juntei
sowaka

 

Ignite, O fire of the hypothalamus,
Unite the soul and flesh as one.
The light of awakening races through the brain—
Now, I awaken.
Namosattanan
sanmyaksanmodaktinan
taniyata
on shaley shurei juntei
sowaka

 

今日の九星盤 2026年1月19日

今日の九星盤

2026119

乙巳 二黒土星 歳
己丑 九紫火星 節
癸巳 三碧木星 日
三碧木星の日
望み事を持った人が来訪する。思い掛けない事が起こる。善因善果。神、親、社会、衆生、物のご恩をかみしめ精神本位で行動すべき日 今まで9日間の行動の善悪によって思いがけない吉凶が生じます。

再生の週 栄の日

困難な事にもチャレンジできる日

気分が晴れ、モチベーションもアップするので、何かを始めるのに適した日です。リスクのあることや、躊躇していたことにも果敢にチャレンジすることで、良い結果が現れます。全く未知の分野であっても積極的に挑戦してください。破壊の週の作用を引きずっているようでは、せっかくの運気が鈍ってしまいます。自分に自信をもって、少しオーバーなくらいの気持ちで臨むとよいでしょう。

 

普賢菩薩

あらゆる場所に現れ、命あるものを救う慈悲を司る菩薩

名サマンタバドラ (Samanta bhadra) の「サマ 「タ」は「く」、「バドラ」は「賢」と漢訳しま す。 「賢」とは具体的には「さとりを求める心か 起こる、成仏しようとする願いと行ない」のこ とです。それが、ときとところを選ばず在して いるということを象徴したのがこの菩薩です。 で すから、菩薩行を実践する者をつねに守護するほ とけでもあります。

白象に乗り、文殊菩薩とともに釈迦如来 の脇侍をつとめます。 文殊菩薩のに対して、 (行)をつかさどります。

なお、密教では、堅固不壊の菩提心を象徴する

金剛薩埵と同体とします。

と巳年生まれの人の守り本尊とされていま

 

普賢菩薩(ふげんぼさつ)とは?

普賢とは「全てにわたって賢い者」という意味で、あらゆるところに現れ命ある者を救う行動力のある菩薩です。

 

文殊菩薩とともに釈迦如来の右脇侍として三尊で並ぶことが多いですが、独尊で祀られる場合もあります。文殊菩薩の智慧とともに修行を司る菩薩として、明晰な智慧で掴み取った仏道の教えを実践していく役割を果たすとされています。また、女性の救済を説く法華経の普及とともに女性に多く信仰を集めました。

 

ちなみに普賢菩薩から派生した仏に延命のご利益のある普賢延命菩薩があります。

ご利益

女性守護、修行者守護、息災延命、幸福を増やす増益のご利益があるとされています。また、辰・巳年の守り本尊です。

普賢菩薩(ふげんぼさつ)の像容

白象に乗っている姿が一般的です。3つや4つの頭の象に乗っている場合は普賢延命菩薩像の可能性が高いです。

 

 

優婆塞

 

優婆塞

 

その日、迦毘羅衛国の空は、どこか柔らかい光を帯びていた。
ニグローダの林――バニヤンの巨樹が幾重にも枝を垂らし、静かな影をつくるその園の奥に、ひとつの精舎があった。風はほとんど音を立てず、葉のざわめきだけが、時の流れをそっと知らせていた。

そこに、お釈迦さまはおられた。
遠く離れた異国の聖地ではない。ここは、かつて王子シッダールタとして過ごした故郷、カピラヴァットゥ。幼き日々の記憶が眠るこの地で、仏は今、静かに人々を迎えていた。
やがて林の奥から、数人の在家信者を伴った一人の男が現れた。
その名はマハーナーマ。釈尊の従兄弟にあたり、在家の弟子として深く教えを信じる人物であった。

彼は仏の前に進み出ると、両膝をつき、深く頭を垂れ、仏足に礼拝した。やがて身を起こし、慎み深く、しかし確かな声で問いを投げかけた。
「世尊。――優婆塞とは、いかなる人に対して名づけられるものなのでしょうか。」
その問いは、ただの言葉の意味を尋ねるものではなかった。
優婆塞――ウパーサカ。

それは在家の男性信者を指す言葉であり、女性であれば優婆夷、ウパーシカーと呼ばれる。そんなことは、マハーナーマほどの人であれば、当然、知っていた。
だが彼は、あえて問うたのだ。
それは、名の背後にある「生き方」を問うためであり、在家にあって仏の弟子として生きるとは、いかなる心構えをもつことなのか――その核心を、あらためて仏の口から聞きたかったからであった。

林の風は止まり、鳥の声も遠のいたように思えた。
すべてが静まり、ただ仏の沈黙だけが、重く、しかし慈しみ深く、場を包んでいた。
その沈黙の中にこそ、マハーナーマの問いの深さが、すでに答えとして響いていたのである。

如是我聞と「阿含経」 婆塞証知我。 如是我聞

如是我聞と「阿含経」

婆塞証知我。 如是我聞。一時仏住迦毘羅衛国尼拘律園中。爾時釈氏摩訶男来詣仏所。 稽首仏足退坐一面。白仏言。世尊。 者在家清白。乃至尽寿帰依三宝為優館

云何名優婆塞。仏告摩訶男。優婆塞

、至『寿尽くるまで三宝に帰依し、優婆塞とんらん是の如く我れ聞きぬ。一時、仏、迦毘羅衛国尼拘律園中に住まりたまえり。爾の時釈氏摩訶男、仏の所に来識し、仏の足に稽首したてまつり退いて一面に坐し、仏に白して言さく、「世敷よ、云館が愛で窓と名づくるや」 ど。仏、摩訶男に告げたまわく、「優婆塞とは在家清我れを証知したまえ」」と。

現代語訳

このように私は聞きました。ある時、仏さまがカビラヴァットゥ(迦毘羅衛国)のニグローダ (尼拘律)園におとどまりになっておられました。そこへ、在家の弟子であり、仏さまの従兄弟でもあるマハーナーマ(摩訶男)が、数人の在家信者を引き連れて現われ、仏足頂礼の礼をして仏さまの前に座り、質問いたしました。

「世尊よ、優婆塞(在家仏教徒)とは、どのような人に対して名づけられたものでありましょう

か?」

仏さまはマハーナーマに、

「在家の者が仏や卵となる僧侣のもとに行き、『自分が生きているかぎり、死ぬまでの今後一生を通して三宝に帰依いたします。私を優要塞としてお認めください』と申し出て、仏や僧侶がそれを認めるならば、その者は優婆塞となります」

と告げられました。

まず、最初に「如是我聞(是の如く我れ聞きぬ)」という言葉があります。ほとんどのお経がこの言葉で始まっておりますが、「私はこのように仏さまからうかがいました」という意味です。 この「私」とはだれか?

記憶力第一といわれたアーナンダ(阿難)であるとこれは、お釈迦さまの十大弟子の一人で、記憶力第一といわれたアーナンダ( されております。アーナンダという方は、二十五年間にわたってお釈迦さまのおそば近くに仕え、 その説法の一言一句を残らず記憶していました。お釈迦さまがお亡くなりになった直後、このアーナンダや大長老のマハーカッサパ(摩訶迦葉)を含めた五百人の仏弟子たちがラージャガハ

(王舎城)の七葉窟に集結し、お釈迦さまの教法の編纂を始めたわけです。

マハーカッサバが座長になり、アーナンダが自分の聞き憶えていたものを口述し、それを弟子

この社員で義論していくという形で、教法はまとめられていきました。

たち全員で議論していくという形で、教法はまとめられていきました。

たとえばアーナンダが、

「私は園精舎でこのような教えを拝聴しました」

と話すと、それに異論のある者は手を挙げて、

「それは私の記憶とは違う・・・・・・」

と自分の記憶している内容を述べたわけです。すると座長のマハーカッサパが、

「みなさんはどのように記憶しておられますか?」

と、他の弟子たちに諮り、それぞれが記憶をたどりながら、正しい答えを導き出してまとめていったわけです(『南伝律』「小品」十一抄)。そのようにして編纂されていった経典が「阿含経」 です。

ですから、「阿含経」に「如是我聞」という言葉が使われているのは当然です。ところが、仏滅後数百年経ってから創作された経典、たとえば『宏華経』や『聖戦」などの大乗経典も、 「阿含経」の形式をまねて「如是我聞」の四文字から始まっています。これは言語道断です。ほとんどの経典がこの「如是我聞」から始まるために、後世の人たちはすべてのお経はお釈迦さま一代の教説である、と思い込んでしまったのです。さらには、間違った教相判釈が立てられ、 「阿含経」は小乗経典という、まったく見当違いの評価を受けるようになってしまいました。

「如是我聞」はたった四文字の言葉ですが、これほど重要な意味を持っています。わたくしたちは、「如是我聞」を使うことのできるお経は「阿含経」だけなのだという真実をよく理解すると

共に、それを世間に広めていかなければなりません。

優婆塞とはなにか

それでは、お経の内容を解説いたしましょう。

ある時、お釈迦さまがカビラヴァットゥ(迦毘羅衛国)のニグローダ(尼拘律)園におられました。カピラヴァットゥというのはお釈迦さまの故郷で、現在のネパールのタライ地方付近であるといわれております。そのカビラヴァットゥにニグローダ(サンスクリット語ではニヤグローダ。 バニヤンの樹)という樹木がたくさん生えている林があり、その中の精舍、つまり道場にお釈迦

た。 さまは滞在されておられました。 そこへ、在家の弟子であり、またお釈迦さまの従兄弟でもあるマハーナーマ(摩訶男)が、数人の在家信者を引き連れて現われ、仏足頂礼の礼をしてお釈迦さまの前に座り、質問いたしまし

しゃくし仏門に帰依した者はすべてお釈迦さまの子であるという考えから、仏教徒を釈子あるいは釈氏といいます。しかし、ここに登場するマハーナーマはお釈迦さまと同じ釈迦族の人ですから、ここでいう釈氏は「仏教徒の」と訳すだけではなく、「釈迦族の」と訳してもよいでしょう。

「仏の足に精首したてまつり」とは仏足頂礼といい、五体を地につけてお釈迦さまのおみ足を額にいただく礼拝のことです。インドではこれがいちばん丁寧で、心からの帰依を表す礼とされております。仏足頂礼は五体を地につけて礼拝するので、五体投地とも呼びます。スリランカなどの南伝仏教の国では、パーリ語で「ブッダム サラナム ガッチャーミ〈われ、仏に帰依したて

自えて仏足頂礼の礼をします。わたくしたちは動行の時に膝をかがめて、

ております。仏足頂礼は五体を地につけて礼拝するので、五体投地とも呼びます。スリランカなどの南伝仏教の国では、パーリ語で「ブッダム サラナム ガッチャーミ(われ、仏に帰依したて

まつる)」と唱えて仏足頂礼の礼をします。わたくしたちは動行の時に膝をかがめて、

「オンザラバタタギャタ ハンナマンナノウ キャロミ」 と花押いたしますが、これは五体投地を簡略化したものです。

しかし、形の上では簡略化してありますが、心の中では五体を地につけてお釈迦さまのおみ足

をいただいてる、と観想して礼拝しなければいけません。

マハーナーマもこの時、仏足を頂礼してお釈迦さまにご挨拶し、

「世尊上、優婆塞とは、どのような人に対して名づけられたものでありましょうか?」

と質問したわけです。

優要塞とはパーリ語・サンスクリット語のウバーサカを漢字に音写したもので、普通は男性の在家信者を指します。これに対して女性の在家信者は優婆夷と呼び、同じくパーリ語・サンスクリット語でウバーシカーといいます。

か? それでは、マハーナーマはそのようなことも知らなかったのか、というとそうではありません。 逆に、彼は優婆塞の深い意味をよく知った上で、質問しているのです。それは、なぜでしょう

たとえば「音」 マハーナーマ自身は優婆塞についてよく知っているけれども、自分が連れてきた者たちはまだよく分かっていない。そこで、優婆塞の心構えを知ってもらうために、わざと自分自身も知らないふりをしてお釈迦さまに質問しているわけです。このような質問の仕方を起櫻間と呼びます。 仏教経典の中には、時々こういう起機問が出てきます。

の時に、無意痛、傷を以て問うて日さく、世尊は紗短期わりたまえり、歌今重ねて彼を問いたてまつる、仏子飲の因縁あってか名づけて観世音とかすや、と)」

と無尽意菩薩が仏さまに、観世音菩薩の名の由来についてお尋ねするところがあります。無尽意菩薩とは、無尽蔵の智慧による功徳と救済を象徴した菩薩ですから、そのくらいのことを知らないはずはない。

しかし、そばにいる者たちは知らないから、それについて仏さまから直接説明をしていただいて、皆に聞かせてあげようということで、無知な人たちになりかわって質問をしているのです。 マハーナーマもこれと同じなのです。

マハーナーマの赴機間に対して、お釈迦さまは「優婆塞とは、在家清白、乃至『寿尽くるまで三宝に帰依し、優婆塞と為らん我れを証知したまえ』」とお答えになられました。

「在家清白」とは、お釈迦さまに帰依して、仏教を信仰しようという清らかな心を持っている在家の人、ということです。「寿尽くるまで三宝に帰依し」とは、自分が生きているかぎり、死ぬまでの今後一生を通じて三宝に帰依いたします、という意味です。三宝とは仏・法・僧、つまり仏さまと仏さまの教法、そしてお釈迦さまの教法を実践する僧伽(教団)のことです。その三宝に対して、自分は死ぬまで帰依いたしますから、私を優婆塞としてお認めください、とお釈迦さまや師となる僧侶に申し上げ、それが認められれば優婆塞になるというわけです。 そうぎゃ

っれると道場にきて、わたくしと一

諸君も、

に対して、自分は死ぬまで帰依いたしますから、私を優婆塞としてお認めください、とお釈迦さまや師となる僧侶に申し上げ、それが認められれば優婆塞になるというわけです。

阿含宗に入行する時も同じですね。誓約書を提出して認められると道場にきて、わたくしと一緒にお護摩を焚く。続いて、ご本尊・真正仏舎利尊との仏縁を結ぶ灌頂を受け、これから一生懸命に仏舎利宝珠尊解脱宝生行(以下、解脱宝生行)をやっていきます、と仏さまにお誓いを立ててからご宝塔をいただきます。これも、このお経に則っているわけです。

そういうと、

「一生涯、修行するのですか?」

と聞く人がいるかもしれない。しかし、ひとたび入行して本当の仏さまの修行を始めたならば、 やはり一生涯にわたって仏さまの教えを守っていく、という気持ちが生ずるのは当然です。もしも、そういう気持ちが起きないならば、解脱宝生行を完全に修行したとはいえません。本当に修行をしたならば、必ずこの修行を持続させようという気持ちが起きるのです。それが起きないならば、本当に修行したとはとても考えられません。

「自分は生涯をかけて修行をする、というつもりで信仰をしているだろうか?」

と、よく考えてごらんなさい。もしもそういう気持ちがなければ、因縁を切ることなどとてもできません。もう一度それについて、自分の心に問いかけてごらんなさい。