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阿弥陀如来の「三尊」 一光のもとに、三つの影

 

 

阿弥陀如来の「三尊」
一光のもとに、三つの影

一光三尊

堂の奥は、昼であっても薄暗かった。
灯明の揺らぎが、金色の光背に吸い込まれてゆく。

その光の中心に、阿弥陀如来は坐していた。

目を閉じているようで、すべてを見通している。
手は静かに結ばれ、救いを“与える”というより、
すでに在る救済を思い出させるかのようだった。

その両脇に、二つの影が立つ。

向かって右、観音菩薩。
やわらかな立ち姿は、風に揺れる水面のようで、
その眼差しは、悲しみを責めることを知らない。

「恐れるな」

そう語りかける声は聞こえない。
けれど胸の奥で、誰もが確かにそれを受け取る。

向かって左には、勢至菩薩。
鋭さを秘めた沈黙が、空気を引き締めていた。

慈悲が抱くなら、
智慧は照らす。

迷いの理由、執着の正体、
自分自身が見ようとしなかった真実を、
静かに、しかし確実に示す存在だった。

三尊は、それぞれ別の姿でありながら、
一つの光背の中に収まっている。

一光三尊――
それは三体の仏が並んでいるという意味ではない。
慈悲と智慧と救済が、本来は分かれていないということの象徴だった。

雲が湧き上がる。

絵師たちは、それを「来迎」と呼んだ。
死の間際、阿弥陀三尊が極楽から迎えに来る姿。

だが、老人はこう言った。

「迎えに来るのではない。
気づいた者が、すでにその場に立っているのだ」

観音は、手を差し伸べる。
勢至は、道を指し示す。
阿弥陀は、動かない。

動かない中心こそが、
すべてを動かしている。

善光寺の本尊も、
快慶が刻んだ三尊も、
姿や配置は違えど、語るものは同じだった。

人は独りでは、光を信じきれない。
だから、慈悲と智慧が並び立つ。

そして、そのすべてを包み込むものとして、
阿弥陀は、今日も沈黙のまま坐している。

極楽は遠くない。
それは雲の彼方ではなく、
今、ここで、心がほどけた瞬間にひらく。

一つの光の中に、
三つのはたらきが息づいているように。

えびす様と大黒天 Gods of Fortune and Prosperous Trade

 

 

えびす様と大黒天

Gods of Fortune and Prosperous Trade

― 財運と商売繁盛の神 ―

夕焼け町に 赤提灯
古い祠で 神が笑う
潮の香りと 土の息
今日も静かに 日が暮れる

Namu Ebisu Taijin
Ong Makakyalaya Sowaka

 

取ってくる福と 育てる福が
肩を並べて 見守ってる
網を投げ 田を耕し
福はいつも この手の中

Namu Ebisu Taijin
Ong Makakyalaya Sowaka

At sunset, red lanterns glow in town
In an old shrine, the gods softly smile
The scent of the sea, the breath of the earth
Another quiet day comes to rest

Namu Ebisu Taijin
Ong Makakyalaya Sowaka

The fortune that’s gathered, the fortune that’s grown
Standing together, watching us all
Casting the net, turning the soil
Blessing is always within these hands

Namu Ebisu Taijin
Ong Makakyalaya Sowaka

 

 

えびす様(恵比寿)と大黒天様

 

 

えびす様(恵比寿)と大黒天様
財運と商売繁盛の神

 

夕暮れの商店街に、赤提灯が一つ、また一つと灯りはじめる頃だった。

古い木造の店先に、小さな祠がある。
その中で並んで微笑んでいるのが、恵比寿と大黒――二柱の福の神である。

恵比寿は、片手に釣竿、もう片方に鯛を抱え、少し不器用そうな笑顔を浮かべている。
海の匂いをまとったその姿は、もともと漁師たちの祈りの中から生まれた神だった。
網を投げ、潮を読み、今日の糧を願う――その素朴な願いが、やがて市へ、町へと広がり、
いつしか「商いの神」として人々の暮らしに根を下ろしていった。

彼は、日本の土と海から生まれた、ただ一柱の国産の福神だと言われている。
異国の神々が海を越えてきた中で、恵比寿だけは最初からこの島国にいた。
失敗しても笑われ、遅れても怒られず、それでも最後に福をもたらす――
そんな“人間くささ”が、人々の心を離さなかった。

その隣で、どっしりと座るのが大黒天である。

大きな袋を背負い、打ち出の小槌を手にしたその姿は、
いかにも財福の神らしいが、彼の来歴は静かではない。

遠くインドで「マハーカーラ」と呼ばれた破壊と守護の神。
闇と時間を司り、すべてを壊し、すべてを生み出す存在。
その厳しい神格は、中国を経て、日本に渡るうち、
この国の大地神・大国主命と重なり合い、姿を変えていった。

破壊は再生となり、恐怖は恵みへと姿を変えた。
米俵の上に立つ大黒天は、五穀の実りと、働く者の努力を祝福する神となったのだ。

やがて町が生まれ、市が立ち、商いが人々の命を支えるようになると、
海の恵みをもたらす恵比寿と、土と財を司る大黒は、
自然と並んで祀られるようになった。

「取ってくる福」と「育てる福」
「流れの中の幸運」と「積み重ねの豊かさ」

二柱は、競うことなく、役割を分け合うように微笑んでいる。

祠の前を通る人々は、深くは考えない。
ただ手を合わせ、商売の無事を、家族の安寧を、明日の暮らしを願う。

その素朴な願いこそが、
恵比寿と大黒を、七福神の中心に据え続けてきた。

福とは、突然降ってくる奇跡ではない。
海に網を投げ、田を耕し、店の暖簾を毎朝かける――
その日々の営みの中に、そっと宿るものなのだ。

だから今日も、二柱は並んでいる。
変わらぬ笑顔で、人の暮らしのすぐそばに。

 

夜明け前の精舎は、まだ闇をまとっていた。

石畳に座す比丘たちの前で、世尊は静かに目を閉じておられた。風が一本の菩提樹を揺らし、葉の擦れる音だけが、時間の流れを告げている。

やがて世尊は目を開き、低く、しかし揺るぎない声で語りはじめた。

――比丘たちよ、法とは、五つの確かに見えるものを、確かではないと観る智慧である。

世尊はそう言って、ひとつずつ言葉を置いていかれた。

「これは色である。これは色の生起である。これは色の滅である」

肉体と形あるもの。老い、崩れ、消えゆくもの。

「これは受である。これは受の生起である。これは受の滅である」

快も、不快も、やがて去る感覚。

「これは想である。これは想の生起である。これは想の滅である」

名づけ、意味づけ、思い込み。

「これは行である。これは行の生起である。これは行の滅である」

意志、衝動、心の癖。

「これは識である。これは識の生起である。これは識の滅である」

知るという働きさえ、条件によって起こり、条件によって消える。

比丘たちは沈黙の中で、それらがすべて無常であり、空であり、我ではないことを、胸の奥で感じ始めていた。

世尊は続けられた。

――わたしは、この五蘊をこのように観じ、真の知見を得た。

知見とは、概念ではない。見ることそのものだ。見誤らぬ智慧である。その智慧が生じたとき、心から漏れ出ていたすべての煩悩は、自然に尽きた。

煩悩とは、福とも呼ばれる。満たされぬ欲、執着、恐れ。それらは、気づかぬうちに心から漏れ出てくる。ゆえに「漏」という。

しばし沈黙が流れたあと、世尊は、鋭くも慈悲深い問いを投げかけられた。

――さまざまな苦行を重ねても、解脱を得られぬ者がいる。それはなぜか。

比丘たちは息を呑んだ。

――彼らは修行していないのだ。

ざわめきが走る。

――では、何を修行していないのか。

世尊は一つひとつ、指折るように語られた。

――四念処を修行していない。四正断を修行していない。四如意足を修行していない。五根、五力、七覚支、八正道を修行していない。

その場の空気が、はっきりと変わった。

――たとえ僧侶であっても、この成仏の法を修めぬ者は、いかに成仏を願おうとも、決して漏尽解脱に至ることはない。

それは厳しい言葉だった。しかし、嘘のない言葉だった。

やがて世尊の声は、再び柔らかさを帯びた。

――だが、正しく修行する者には、努力の果は必ず熟す。

世尊は、親鶏と卵の譬えを語られた。

――親鶏が卵を大切に温め、冷やし、世話を怠らなければ、雛は自ら望まずとも殻を破って生まれてくる。

――同じように、正しい修行を積み重ねた者は、解脱を求めずとも、自然に心の殻が破れる。

比丘たちは、その譬えを胸に深く刻んだ。

――四念処、四正断、四如意足、五根、五力、七覚支、八正道。

――この七つの科目、三十七の修行法こそが、成仏へ至る道である。

夜が明けはじめ、精舎の床に淡い光が差し込む。

その光の中で、比丘たちは静かに理解していた。

成仏とは、遠い未来の約束ではない。

正しい修行が満ちたとき、願わずとも、自然に開く――

心の解脱そのものなのだと。

小説風に再構成しました。
教義の骨格(五蘊観・漏尽解脱・七科三十七道品)は崩さず、説法の場の空気・比丘たちの心理・譬喩の生きた感触が伝わるようにしています。

 

五蘊の瞑想法 ながら解説

五蘊の瞑想法

ながら解説します。 「学金」(以下、「応説」)の講義を行います。まずは経文を読み、現代語に訳し

如是我聞。一時仏住拘留国雑色牧牛

聚落。爾時仏告諸比丘。我以知見故。

得諸漏尽。非不知見。云何以知見故。

得諸漏尽。非不知見。

此色滅。此受想行識。此識集此識滅。

髪の如くれ聞きぬ。一時、仏、拘留国の着色牧牛聚

しょぴく蒙に住まりたまえり。踊の時、仏、諸比丘に告げたまわく、「我れ知見を以ての数に諸漏の尽きることを得たり。

不知見に非ざるなり。云何が知見を以ての故に諸漏の尽

謂此色此色集

きることを得、不知見に非ざるや。調ゆる此れは色なり、

此れは色の集なり、此れは色の滅なり、此れは麩・想・

行・識なり、此れは識の集なり、此れは識の滅なりと」

現代語訳

このように私は聞きました。ある時、仏さまはクル(拘留)国の雑色牧牛聚落におとどまりになっておられました。その時、仏さまはもろもろの比丘に、次のようにお話しされました。

 

ある。

である」 と。 それはどういうことかというと、これは色である、これは色の集である、これは色の滅である、 これは受・想・行・識である、(これは受の集である、これは受の滅である、これは想の集である、これは想の滅である、これは行の集である、これは行の滅である)これは識の集である、これは識の滅

す。 知見とは、真の智慧によって物事を見ることで、換言すれば悟りを得たということです。この悟りの力によってすべての煩悩をなくすことができた、とお釈迦さまはここでおっしゃっておられます。福とは煩悩の異名です。煩悩は心の中にいつの間にか漏れ出てきますから、漏と呼びま

解說

ごうんかん 「此れは色なり、此れは色の集なり、此れは色の滅なり、此れは受・想・行・識なり、此れは (受・想・行・)誰の集なり、此れは(受・想・行・)識の滅なり」は、五蔵観法という瞑想です。 人間は色(物質的現象)・受(感覚)・想(表象)・行(意志)・識(意識)の五つの構成要素からできている、と仏教では考えますが、この五つの構成要素のことを五蘊(玉獣)と呼びます。五蓮観

〇六六

法とは、この五確のそれぞれが無常・空・無我であると観想していく瞑想法のことです。

お釈迦さまはここで、自分は五蘊観法を修行して悟りを得、完全解脱したのだとおっしゃって

おられます。

続きを見ましょう。

成仏できない僧侶たち

不修方便随顺成就。而用心求令我諸漏尽解脱。所以者何。不修習故。不

漏尽心得解脱。当知被比丘終不能得

根力覚道。 修習何等。謂不修習念処正勤如意足

「いじゅんじようにゆ 「方便を修し随順成就せずして而も心を用いて、我れをして諸漏尽き、心に解脱するを得せしめんと求むるもず。所以は何ん。修習せざるがめなり。何等か修習せざ割に知るべし、彼の比丘は終に濡尽解肥を得ること能わる。濡ゆる然剣・正、転・城意足・概・が・覚・道を修習せざるなり」

現代語訳

「いろいろな方法を駆使して修行を行っても成就しない者が、もろもろの煩悩が尽き、心に解脱を得たいと思っても、あの僧侶(修行者)たちは、ついに漏尽解脱を得ることはできません。 それはなぜでしょうか?

修行していないからです。

なにを修行していないのでしょうか?

それは、いわゆる四念処法(世創短歌)・四正、斷法(四正断法)・四如意足法(四神思出),五根

法・五力法・七覚支潔・心正、道を修行していないのです」

解説

ここは、「応説経」の中でも特に重要なことが、説かれているところです。

たいへんなことが書かれているわけですが、諸君はそれに気づいたでしょうか?

福尽解説とは、(悩) がすべて尽きた状態ですから、完全解脱、つまり成仏したというこ

とです。その完全成仏を心から願って修行しているのに、それができない僧侶たちがいる、とお釈迦さまがおっしゃっておられるわけです。これは大問題です。

なぜ、その僧侶たちは成仏できないのか? それは、四念処法・四正動法・四如意足法,五根法,五力法・七覺支法・八正道を修行しないからだ、とお釈迦さまは説かれているわけです。

〇六八

・この四念処法・四正動法・四如意是法・五根法・五力法・七覚支法・八正道というのが、わたくしがいつもお話ししているお釈迦さまの成仏法、「七科三十七道品」です。わたくしはこれを、 成仏のための七つの科目(システム)、三十七の修行法(カリキュラム)であると申し上げております。念処・正動・如意足・根・力・覚・道で七科目。そして、それぞれが四・四・四・五・

五・七・八からなる修行によって成り立っておりますから、全部を合わせて三十七になるわけで

お釈迦さまは、この修行を行わない者はたとえそれが僧侶であっても、その人がどのように成仏を望んでも、絶対に成仏することはできない、とおっしゃっています。

わたくしは法話でしばしば、

「仏教の伝来以来、大乗仏教のお坊さんは、誰一人として成仏していない」

と、お話ししています。みなさんの中には、

「管長はずいぶん思い切ったことをいうなあ」

と考えている人がいるでしょう。しかし、それはわたくしの独断や偏見ではありません。仏教の開祖のお釈迦さまご自身が、七科三十七道品を修行しない者はいくら他の修行をしても、絶対に成仏しないと説かれているわけです。

日本にも数々の名僧知識が登場しましたが、この七科三十七道品を修行した人は皆無といってもよいでしょう。

しかし、お釈迦さまは、

「彼の出丘はついに成仏することができない」

 

と、おっしゃっておられます。「夜比丘」というこの三文字の中に、日本の大乗仏教の僧侶が全部入っているわけです。きっと、「阿含経」以外のお経を信仰し、それを広める僧侶たちが出現することを、予見しておられたのでしょう。

ですから、わたくしはこのお釈迦さまのお言葉に基づいて、

「仏教の伝来以来、大乗仏教のお坊さんは誰一人として、成仏していない」

と説いているのです。

ただし、わたくしは、曹洞禄の祖である道元師(一二〇〇―一二五三)と真言宗の開祖弘樹大

師空海(七七四一八三五)だけは、ひょっとするとこの成仏法をご存知だったのかもしれない、 と考えております。と申しますのは、道元禅師は『正蔵」の第七十三で、

「この三十、七品書据分法(七科三十七道品の別名著者注)、すなわち仏習の眼睛、鼻孔、皮肉作館、科則武目なり。仏祖一枚、これを三十七品菩提分法と参学しきたれり」

と成仏法を讚嘆しておられます。また、弘法大師空海は『二教「記』で、

「第一の宝とは思ぢ是れ『解脱出射なり。第二の法宝とは講く恋定、管理の階のめ、 ガ徳なり。いわゆる三十七菩提分法なり」

と記しておられます。ですから、このお二人が成仏法を知識として知っているだけでなく、実

Ort

際にそれを修行しておられたとしたならば、このお二人だけは、ひょっとすると成仏しているかもしれません。しかし、それ以外の僧侶は絶対に成仏していない。僧侶が成仏していなかったならば、それに導かれる弟子も在家信者も成仏していないのは当然でしょう。また、自分を成仏させることができないのだから、先祖のお霊たちも成仏するはずはありません。

仏教を信仰する人は皆、その宗旨の教えや修行で成仏できると思うから、そこで一生懸命に信仰・修行に励むわけです。成仏できると信じればこそ、布教して歩きます。

昔の日本の僧侶たちは、お釈迦さまの教法を知ることができるのは「阿含経」だけだ、という真実を知りませんでした。しかし、今の僧侶たちは、みな知っているのです。

しかし、伝統的仏教は従来の教説の上に立ったままです。

わたくしは、少なくとも宗教家だけはこの世の中がどんなに悪くなっても、真実をいわなければいけないと考えます。だからこそ、宗教家は尊敬に値する存在なのです。もちろん、宗教家といえども、たまには方便を使うこともあるでしょう。しかし、ここ一番、これこそ大切なことなのだということについては、たとえ八つ裂きにされても、本当のことをいわなければならないとわたくしは思うのです。その宗教家が嘘であることを重々承知の上で、信者に真実ではないこと

を真実であるかのように説教をする。これは絶対に許されないことです。 続きを説明いたしましょう。

成仏法便簿

舞的海生子樂多。不能随時啟館前息冷暖。而放分子以街以爪啄卵自生安穩出般。当知被子無有自力堪能方便以秀以爪安穩出殼。所以者何。以彼母不能随時蔭餾冷暖長養子故。 如是比丘。不勤修習励順成就。而欲不修習故。不修何等。謂不修念処正

令得福尽解脱。無有是処。所以者何。

勤如意足根力覚道。

対戦すること旅わずして、雨も子をして始を以て心を 「替えは伏の生める子創多にして、随時に消息るも、当に知るべし、彼の子自力もだく方便して質を以以て卵を響き、自ら生まれ安想に数を出てしめんと欲すて爪を以て安想に数を出づるに堪ゆること有ること無きが如し。所以は何ん。彼の寡母随時に番館冷暖して子を長奏すること能わざるを以ての故なり。是の如く比丘、 始めて修習し随順成就せずして、而も漏尽解説を得せしめんと欲するも是の恋有ること無し。所以は何ん。修習せざるが故なり。何等をか修せざる。調ゆる念処・正

動・如意足・根・力・覚・進を修せざるなり」

うな世話が十分にできなかった卵があれば、その(世話が十分に行き届かなかった)卵の中のヒナが時代をしようと、くちばしや爪で卵の殻を内側からつついたとしても、そのヒナは自力で殻を破って断化することができません。

なぜでしょうか?

親が随時に卵を温めたり、風を送って冷やしたりするというような世話が、十分にできなかったからです。

それと同じように、仏道修行者が(七科三十七道品以外の)さまざまな修行に励んだとしても、 仏道修行は成就しませんし、福尽解脱は得られません。

なぜでしょうか?

修行しないからです。

なにを修行しないのでしょうか?

いわゆる、四念処法、四正動法、四如意足法、五根法、五力法、七覚支法、八正道を修行しないのです」

解説

ここでお釈迦さまは、成仏法と修行の関係を、鶏のヒナが孵化することにたとえておられます。 親鶏がいくつかの卵を産んだ後、親鶏は藤直冷暖、つまり温めたり、冷ましたり、あるいは空気の直通をよくしたりというような努力を一生懸命に行います。一方、ヒナの方を見てみると、

ナ自身もくちばしや爪で一生懸命に殻を破ろうとする努力を行います。親鶏の努力とヒナの努力

「たとえば鶏が卵を産みすぎて、親が随時に温めたり、風を送って冷やしたりする、というよ

第鶏に海館冷暖まり温めたり、冷ましたり、あるいは空気の流通をよくしたりというような努力を一生懸命に行います。一方、ヒナの方を見てみると、ヒ

自身もくちばしゃ馬で一生懸命に数を破ろうとする努力を行います。親鶏の努力とヒナの努力が相まって初めて、ヒナは殻を破って生まれることができるのです。

お釈さまは、この親類の努力とヒナの努力の関係は、ちょうど成仏法と修行者の関係と同じである、とおっしゃっているわけです。

たとえば、親鶏があまりにも卵を多く産み過ぎると、当然のことながら全部の卵に目が行き届きません。そうすると、風を送ってもらったり、温めてもらったりできない卵も出てきます。そのように十分に面倒を見てもらえない卵は、中でヒナがいくら外に出ようとくちばしでつついたり、足の爪で引っ掻いたりしても、絶対に生まれることはできません。

それと同じで、七科三十七道品の成仏法が得られなかったならば、どれほど他の修行を死にものぐるいで行ったとしても、決して成仏することはできないのだ、とお釈迦さまはおっしゃっておられるわけです。

成仏するには、正しい成仏法と修行者の努力、この二つが絶対に必要なのです。

続きを読みます。 わたくしはいつも思うのですが、お釈迦さまという方は、本当に比喩が巧みです。誰にでも分かるようにお話をされる、希有の名説法家だといえるでしょう。

 

若比丘修習随顺成就者。雖不欲令漏

尽解脱。而被比丘自然漏尽。心得解

脱。所以者何。以修習故。何所修習。

謂修念処正勤如意足根力覚道。如彼

伏鶏善養其子。随時蔭餾。冷暖得所。

正復不欲令子方便自啄卵出。然其諸

子自能方便安穩出殼。所以者何。以

彼伏鶏随時蔭餾冷暖得所故。如是比

丘。善修方便。正復不欲漏尽解脱。

而被比丘自然漏尽。心得解脱。所以

者何。以勤修習故。何所修習。謂修

念処正勤如意足根力覚道。

現代語訳

「若し比丘、修習し随順成就する者は漏尽解脱せしめんとごせずと雖も雨も彼の比丘、自然に漏尽し心に解説を

得ん。所以は何ん。修習するを以ての故なり。何をか修

習する所なる。調ゆる念処・正動・如意足・根・力・

党・道を修すること、彼の伏鶏の善く其の子を養い、随

時に羨帽冷暖所を得、正しく復た子をして方便して自ら

卵を呼きて出てしめんと欲せざるも、然かも其の諸の子

自ら能く方便して安穏に殻を出づるが如し。所以は何ん、

彼の伏鶏随時に蒸餾冷暖所を得るを以ての故なり。是の

如く比丘よ、善く方便を修すれば正しく復た漏尽解脱を

欲せざるも而も彼の比丘、自然に漏尽し心に解脱を得ん。

所以は何ん。勤めて修習するを以ての故なり。何をか修

習する所なる。調ゆる念処・正勤・如意足・根・カ・

覚・道を修するなり」

「弟子たちよ。(七月三十七道品の成仏法を移行し、成就する者がいたならば

、その修行者が

「弟子たちよ、(七科三十七道品の成仏法を)修行し、成就する者がいたならば、その修行者が漏

思をしたいと思っていなくても、自然に心に解説を得て福尽解脱を得るのです。

それは、なぜでしょうか?

修行したからです。

なにを修行したのでしょうか?

いわゆる、四念処法、四正動法、四如意足法、五根法、五力法、七覚支法、八正道を修行したからです。それはちょうど、親鶏が卵を温めたり冷やしたりと十分に世話をしたならば、そのヒナが卵の外に出たいと思っていなくても、自然に殻を破り孵化してしまうのと同じです。

なぜ野化することができたのでしょうか?

親鶏の世話が十分で、温冷の温度調節がうまくいったからです。

弟子たちよ、同様に(成仏法に則った)正しい修行をするならば、漏尽解脱を願っていなくて

も、自然に心に解脱を得て、福尽解説を得るのです。

なぜでしょうか?

修行したからです。

なにを修行したのでしょうか?

いわゆる、四念処法、四正動法、四如意足法、五根法、五力法、七覚支法、八正道を修行したからです」

 

七六

お釈迦さまはここで、非常におもしろい表現を取っておられます。

です。 親がきちんと卵の面倒を見ていれば、たとえ卵の中のヒナが卵の外に出たいと思っていなくても、自然に殻を破って出てきてしまうというわけです。それと同様に、成仏を願っていない僧侶であっても、この成仏法を修行するならば成仏してしまうのです。じつにおもしろいたとえ話

解説

おもしろいお話ですが、それと同時に、お釈迦さまはとても大切なことをここでおっしゃっておられます。それは、なにか?

三証そろった阿含宗

く説明します。 「応説経」のこの部分が、成仏できるという「文証」なのです。「文証」について、ここで詳し

仏教では、「文証」「聖誕」「悪証」の三話がそろわなければ、その教団の教法は正法ではないとします。文証とは、お経に文字として書かれている「成仏の証」です。要するに、仏さまがお経の中で成仏できるとおっしゃっているかどうか、ということです。

『応経』の「若し比丘、修習」願成就する者は福尽解脱せしめんと欲せずと雖も而も彼丘、自然に番号し心に

「応説」の「若し比丘,修習成就する者は解説せしめんと訳せずとも彼の丘、自然に編尽し心に解説を得ん。所以は何ん。修習するを以ての故なり。何をか修習する所なる。調ゆる念処・正動・如意足・根・力・覚・道を修する」という部分、これが「文証」なのです。たったこれだけの文章ですが、本当に大切なことが説かれています。この部分が『応説経」 の、いや「阿含経」全部の中心になるとわたくしは思います。

よい機会ですから、「理証」と「現証」についても、お話ししておきましょう。 まず、「理証」。これは、その「文証」が理論的に正しいという裏付けです。

しばしば「法華経」の信者が、「四、余天真実 <初転法輪より〉四十余年の間、いまだ真実を明かさず)」という「文証」を振りかざします。「四十余年未顕真実」という言葉は、『法華経』 の開経とされる「無量義経」の一文です。したがって「四十余年未顕真実」とは、あくまでも 「無量義経」に基づいての「文証」です。しかし、「法華経」は、お釈迦さまが入滅されて数百年も経ってから創作された経典です。また、現代の経典研究では、『無量義経』は『法華経』の権感を確固たるものにするために、中国で撰述されたいわゆる営経であろうとされております。要するに、「無量義経」の「四十余年未顕真実」という経文は、正しい「文証」にはならないわけです。

ですから、「文証」「文証」といくら叫んだところで、それを記す経典が仏さまの説いたものでなければ、まったくお話になりません。「理証」があって初めて、「文証」が生きてくるわけです。 しかし、「文証」と「理証」の二つがそろっても、まだ完全とはいえません。最後に「現証」 が必要です。「現証」とは、仏さまがその教団の正統性を認められ、撞護してくださっていると

いう証です。ですから、

「この信仰で病気が治った。商売がうまくいった」

などという程度では、本当の「現証」ではない。仏さまのお力でなければ、決して起きないようなことでないと、「現証」とはいえません。

阿含宗には、最高の「現証」が起きております。その一つが、証明、掩護仏の現形です。証明護仏とは、その教団が持つ法の正統性を証明されるために、また、その正しい教団を擁護されるために、ご出現される仏さまのことです。

阿含宗には、お釈迦さまを筆頭に数々の仏さまが、毎年二月に京都の阿含宗本山総本殿境内地で奉修される、「星まつり大柴燈護摩供」の浄火を借りて、ご出現されておられます。しかも、 その現形の様子は、はっきりと写真に収められております。人の手で造られた仏像や仏画ではなく、自然真実のお姿の仏さまのことを「法爾無作の仏」とお呼びいたしますが、この「法爾無作の仏」が護摩にご出現されたのです。これは、とうてい人間業では起こせない奇蹟です。まさに、 これこそ「現証」です。 わざ

ですから、阿含宗は三証がことごとくそろった、本当に正しい仏教教団なのです。

因縁の鎖を断ち切る成仏法

中略譬如大舶在於海辺。経六月風飄日暴。藤綴漸断。如是比丘。精勤修習。随順成就。一切結縛

「中略譬えば大舶の海辺に在り夏六月を経て風べ、日に暴れなば藤綴ぐ転ずるが如く、是の如く比丘

使煩悩纏。漸得解脱。所以者何。善

修習故。何所修習。謂修習念処正勤

如意足根力覚道。說是法時六十比丘。

不起諸漏。心得解脫仏説此経已。諸

比丘開仏所說。歓喜奉行。

現代語訳

「たとえば夏の六月ごろ、海辺に浮かぶ大きな船が嵐に遭ううちに、船を結んでいる藤蔓がやがて断ち切られるように、弟子たちよ、精進して修行し、その修行を成就するならば、一切の結縛・使・煩悩・纏から解脱することができるのです。

・精勤して修習し、随順成就せば一切の結縛・使・煩悩・織より漸く解脱することを得ん。所以は何ん。善く修習するが故なり。何をか修習する所なる。謂ゆる念処・正勤・如意足・根・力・覚・道を修習するなり」と。 是の法を説きたまえる時、六十の比丘、諸漏を起こさず心に解脱を得たり。仏、此の経を説き已りたまえるに諸の比丘、仏の説かせたまえる所を聞きて、歓喜し奉行しき。

なぜでしょうか?

正しく修行するからです。

なにを修行するのでしょうか?

です」 いわゆる四念処法、四正勤法、四如意足法、五根法、五力法、七覚支法、八正道を修行するの

解説

と、仏さまはお説きになられました。この説法を受けて、六十人の僧侶がもろもろの煩悩を起こさず、心に解説を得ることができました。仏さまがこのお経を説き終えられると、聴聞していた弟子たちは心から喜び、修行に励みました。

ここに説かれているたとえ話は、「大船の響喩」として有名です。原文では、この「大舶の管喚」の前に「巧師の斧祠の雪喩」がありますが、その意味するところは「大舶の醤喩」とほとんど変わりませんので、ここでは割愛いたします。

まず、大きな船が海辺に停泊しているわけです。その船は藤綴、つまり藤蔓のようなもので係留されていました。二千数百年も昔のインドのことですから、ローブなどはなかったのでしょう。 しかし、藤蔓はたいへん堅固です。

ところが夏の六月になると海が荒れます。したがって、台風のような嵐が起きるのでしょう。 そうすると、波に僕まれているうちにその夢夢が切れて船は沖に流され、やがてねそのものら

い風や波によってこなごなになってしまうわけです。

いや彼によってこなごなになってしまうわけです。

それと同じように、どのような煩悩でも、どのように強い悪因縁でも、何度も何度も成仏法を繰り返して修行しているならば、最後にはわたくしたちを縛りつけている因縁の糸も断ち切れ、 ついに成仏するぞ、とお釈迦さまはおっしゃっているのです。

結界・使・勝、これらはすべて煩悩の異名です。煩悩は、人間に纏いついて離れません。ですから磯と呼びます。また、煩悩は人間を結んで縛り、自由にさせませんから結縛といいます。さらに、人間は煩悩の思うままに使われてしまいますから、煩悩を使というわけです。

す。 ところが、この成仏法を一生懸命に修行していると、どのような強い悪因縁でも、煩悩でも、 ばらばらにしてしまって、最後は成仏するわけです。ですから、ここもやはり「文証」になりま

この短いお経の中で、お釈迦さまは何回も繰り返し繰り返し、七科三十七道品の成仏法を説いていらっしゃいます。これを修行しなければ成仏できない、と繰り返し、繰り返し、懇切丁寧に、 わたくしたちに教えてくださっているのです。

それなのに、日本の仏教はこの成仏法を取り入れませんでした。そして成仏法のない、創作されたお経を、なにも知らない純真な信者たちに押しつけてきたのです。

その結果、自分も信者も弟子も、みな成仏しないで苦しんでいます。ある有名な霊能者が以前、 「宗組といわれる偉い高僧、名僧たちが、みな地獄に落ちて、火の車に乗せられて苦しんでいるところを霊視した。あまりの恐ろしさと、あまりの意外さにびっくりした。これはどういうわけだろうか?」

と語っておりました。日本の仏教界の人たちは、そんなバカなことがあるかと一笑に付したよ

うですが、わたくしは、

「そうかもしれないなあ」

と思いました。

曜日(一二三二八二)などはなにもしらず、『法華経」を、「これが最高のお経だ」 と一心不乱に、命がけで広めたわけです。日蓮上人の布教に対する信念は、本当にわたくしたちのお手本とすべきところであると、わたくしは尊敬しております。しかし、広めたのがほんとうの経典ではなかった。真実を知らなかったことは、じつにお気の毒ですが、それを信じて帰依した信者からすれば、お気の毒ではすみません。そのために、成仏ができないのですから。

世界を救う唯一の仏法

わたくしは今、日本がこれほど悪い状態になってきたのは、カルマを断つという正しい仏教を信仰しなかったからだと考えております。成仏法のない仏教を信仰してきたために、先祖を成仏させることができず、不成仏置・置障のホトケが急増してしまったのです。

不成仏置や置障のホトケが急増したため、多くの人が「横変死の因縁」「刑獄の因縁」「肉親血相の因縁をともなう家運衰退の因縁」の三大悪因縁をはじめとした、さまざまな悪く苦

しんでいます。だからこそ、急速度でこの世の中は、これほど悪くなってきているのです。

三大悪因縁の中でも、「横変死の因縁」を持つ人が近年急増しております。四十年ほど前は、 この因縁を持つ人は百人中二、三人でしたが、現在はその比率ははるかに高くなっております。 このまま増えていくと、いったいどういうことになってしまうのでしょうか?

たとえば四、五十パーセントの人が「横変死の因縁」を持ったならば、大変な惨事が起きると思います。人口の半数近くが横変死するのですから、大きな戦争が起きるかもしれませんし、原子力発電所で大事故が起きるかもしれません。あるいは、大地震が発生する可能性もあります。

この危機を救うには、お釈迦さまの成仏法しかありません。一人一人がお釈迦さまの成仏法を実践して、自分および家庭の悪因縁を断ち切り、不成仏霊・霊障のホトケを成仏させなければならないのです。

わたくしたちは、この日本列島、いや、この地球上を覆っている破滅のカルマを断ち切るために、お釈迦さまの成仏法を一人でも多くの人に伝えなければいけません。この世を救うことができるのは、お釈迦さまの成仏法・七科三十七道品しかありません。

お釈迦さまがインドで説法を開始された時も、お釈迦さまお一人だけでしたが、ご自身の悟られた内容を五人の比丘に伝えられて、仏教教団の原型ができました。さらに、そこから少しずつ法の輪は広がっていき、ついにはインド社会を動かす大きな力になったのです。それから考えれば、阿含宗は決して小さな動きではありません。人数は少なくても、実に巨大な燃え上がるようなエネルギーで世界に働きかけています。

このエネルギーをもっと大きく育て上げて、どうしてもこの世界を変えなければいけません。

〇八四

一分一秒といえどもうかうかしていられないぞ、という思いにわたくしは駆り立てられます。

みなさんも、毎日の勤行の際、このことを考えながら勤行しなさい。お釈迦さまはどれほどたいへんなことを、わたくしたちに呼びかけていらっしゃるのか? どれほど重要なことを、わたくしたちに説いてくださっているのか? それを考えて修行に励みなさい。

このお経を読めば、お釈迦さまのお心が分かるはずです。

*2

開本経を説く前にあらかじめ序説として説かれる経

仏教学の学術語で、インド以外の地域、中国や日本などで撰述された経典をいう

巧師の何の曲の使っている糸の太い何は、一日や二日で擦り切れることはないが、毎日使用しているうちにやがて手

指の形に擦れて難くなり、最後には折れてしまう。修行もそれと同じである、というたとえ話