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美土路達雄

 

 

山田 定市(やまだ さだいち、1932年7月31日[1] – 2014年1月21日[2])は、日本の農業経済学者教育学者だった人物。専門は農業経済学生活協同組合論・農業協同組合経営論・農業教育論[3]コープさっぽろの理論的支柱の1人だった。農学博士北海道大学)。北海道大学名誉教授。旭川市出身[1]1955年北海道大学農学部卒業(高倉新一郎ゼミ所属[4])、1961年同大学院農学研究科博士課程修了(恩師:足羽進三郎[4])。論題は「農産物市場と協同組合」で農学博士[5]。1961年北海道立農業研究所研究員。1962年北海道立総合経済研究所研究員。1963年北海道大学農学部助手。1971年北海道大学教育学部助教授。1982年同教授。1992年同教育学部長。1993年同教育学部附属産業教育計画研究施設長。1995年同高等教育機能開発総合センター生涯学習計画研究部長。1996年同停年退官。室蘭工業大学工学部教授。1998年同停年退官。北海学園大学経済学部教授[6]。2003年同大学院経営研究科長。2005年同定年退職[7]。2014年1月21日に肺炎のため逝去[2][8]

このほかに、1980年よりコープさっぽろ理事を長く務め、2000年[9]~2004年までコープさっぽろ会長を兼職[1]。2000年~2003年放送大学客員教授。2003年から2007年まで中国・瀋陽農業大学客員教授も兼任した[10]

主著

編集

  • 『現代の農協理論 : 農協民主化の課題と展望』全農協労連 1973
  • 『農協労働者 : その性格と運動の課題』労農問題研究会編 分担執筆 労農問題研究会 1976
  • 『地域農業と農民教育 : 現代農民教育論序説』日本経済評論社 1980
  • 『北海道の農業』データ・グラフィックス社 1985
  • 『地域農業の発展条件 : 北海道酪農の展開構造』美土路達雄と共編 御茶の水書房 1985
  • 『地域生涯学習の計画化』鈴木敏正と共編 筑波書房 1992
  • 『地域づくりと生涯学習の計画化』編著 北海道大学図書刊行会 1997
  • 『講座 主体形成の社会教育学』山本健慈高倉嗣昌木村純編著 分担執筆 北樹出版 1998
  • 『農と食の経済と協同 : 地域づくりと主体形成』日本経済評論社 1999
  • 『資本主義はどこまできたか : 脱資本主義性と国際公共性』21世紀理論研究会編 分担執筆 日本経済評論社 2005

この他、数多くの生涯学習政策論・協同組合論の共著を執筆。

■2014年1月22日、尊敬する山田定市先生のお通夜の日、大雪の交通事情の中、なんとか日程調整をして青森から空路駆けつけたが、残念ながら最後の方にだけしか参席できなかった。しかし最後部席から「長いこと有り難うございました」と心の中でつぶやくことができた。わが人生の師山田先生に御礼を言いたかった。

 

■私が北大(理類)に入学した1960年代末頃から大学紛争が全国的に起こり、東大・日大紛争が激化していったが、北大では1969年4月の入学式当日から騒がしくなった。私はその頃、風邪をこじらせて半年ほど北大病院で入院生活を送らざるを得ない状況にあり、病床から行方を見守らざるを得なかった。当時、教養部から学部への移行は2年生の後期開始前に行われていたが、私たちの68年組は紛争の長期化により半年遅れて、1970年4月に学部移行となった。大学紛争と入院の中で私の関心事は理系から文系(社会科学)に移りつつあり、農学部農業経済学科は理類から社会科学を学ぶことのできる進路先だったが、農経に進学してもここで何を勉強するのか、少々不安だった。しかし、そんな不安はあっというまに一掃された。当時助手だった山田先生、三國英実先生をはじめ、川村琢、足羽進三郎教授らの大御所がたくさんおられ、私は農業経済学の学問的興味に強く引かれるようになった。同期生には、私と同じ動機の進学者が多かったと思う。

 

■当時、大学改革の中で先輩の運動により助手の山田先生も講義を持てるようになっており、先生はマルクスの『経済学批判』をテキストに授業をされた。授業後研究室を訪問しても今考えれば多忙な身であったのだろうが、いつも親身になって対応してくれた。私はそれまで「先生という呼ぶことのできる多くの師」に教えを受け、それぞれの個性ある先生から多くを学んできたと自負しているが、山田先生からはそれまでの師の教えに加えて生き方の真摯さと学問的情熱を有することの人生哲学を学ぶことができた。若かりし当方は先生に向かって「何故、農業経済学、協同組合論を専攻するようになったのですか」などと愚問した。その時の先生の答えは「勉強した結果こうなりました」といつもの調子で恥ずかしそうに話してくれた。真面目に勉強しようと思ったのはその時だったと記憶している。

 

■当時助手も講義の他にゼミを持てるようになったので、私は山田ゼミと三國ゼミを選んだ。同期は中原豊司、守友裕一、吉田良一さんだった。当時、学部に移行しても大学紛争は続き、毎日が自治会活動と専門科目の勉強に熱中した。充実した学部生活の中で初めて大学生らしい日々を送ることができた。しかし、1年後、山田先生は教育学部の助教授に移ることになり、太田原高昭助手がその後釜に赴任した。私を含めて上記4人のゼミ生は山田先生の最後のゼミ生で、太田原助手の最初のゼミ生という名誉ある世代となった。その日から40年以上の日々が経った。光陰矢の如しである。私は2014年3月に弘前大学を定年退職したが、山田先生に会わなければ大学教員になっていなかったと思う。

 

■数ある山田先生の想い出の内、一つだけ中国旅行について書いておきたい。山田先生は教育学部教授を退職後、室蘭工業大学、北海学園大学に勤務された。その時、北海学園時代の教え子が中国遼寧省農業部の李中華さんである。2000年前後、中国では農工間格差の拡大に直面し、農民の組織化が課題となった。具体的には日本の農協のような合作(協同組合)組織の政策的整備が求められ、李さんは日本語が堪能なこともあって省政府派遣留学生として山田先生のところで学んだ。その後、北大の協同組合論講座で一年間の研究生を終えた後、遼寧省と共通点のある東北地域の農業を学びたいということから、博士課程を弘前大学(岩手大学連合大学院)の私のところで学ぶことになった。山田先生からの指導依頼であったので私は喜んで引き受けた。それ以後、私の中国訪問は頻繁になった。

 

■李中華さんは幸いにも2005年3月、「中国における新型農協に関する研究」で博士の学位(農学)を得て中国に戻り、遼寧省農業部で省農業の発展に尽力するようになった。その第一弾として企画されたのが山田先生の著書の中国語出版(山田定市著・李中華訳『現代合作社論』(中国語)、遼寧人民出版社、1-234頁、2005年11月)である。この本は中国において近年の日本の総合農協の特徴と生協の活動を紹介した書籍としてユニークなものである。

 

■第二弾はこの本の出版に合わせて2005年11月、遼寧省で「農民専業合作組織倍訓班」(研修会)が開かれ、日本から5人の専門家が協同組合の講義を行った。山田先生、小野雅之(神戸大学)、齋藤哲郎(平賀農協元組合長)、小林光浩(青森県農協中央会課長)、それと私の5名だった。同年11月13日から22日までの10日間、遼寧省農業部、中国農業部などを中心に講演会、今後の研究交流について話し合った。その時、満州事変の勃発地に建設された「9.18記念館」、遼寧省農業技術学校農業展覧館、同農業科学院などの見学、そして三日間にわたって省内14市から、農政課長級、合作社組合長、それと研究者が200名ほど参集し、上記研修会が行われた。この研修会では山田先生の上記翻訳著書がテキストして使用され、ビデオにも収録された。講演会終了後、本渓市葡萄協会など新しい合作組織の見学、瀋陽農業大学において学生、院生、教員参加の講演会も行った。丹東市葡萄協会、きのこ協会、リンゴ協会などの視察、北朝鮮国境に接する東港市では鴨緑江川の遊覧。すぐ目の前に北朝鮮の風景が拡がる場所であった。瀋陽では清時代の故宮を見学した。最後は北京に向かい、農業部との懇談会と忙しい旅行であったが省政府の招待であったので、至れり尽くせりであった。

 

■この10日間、山田先生と一緒に同行できたのは私にとって貴重な経験だった。北大農業経済学科で山田ゼミ生であった時期は短いものであったが、この時に協同組合論を学ばなかったら恐らく今回のような国際的な活動をすることはなかったことだろう。中国ではこの後、2006年10月、中国農民専業合作社法が制定され、翌年7月より施行された。そして、中国初めての合作社学院(協同組合学部)が2008年3月、山東省の青島農業大学に設置された。現在、院長(学部長)は李中華教授である。山田先生の教えを受けたことを忘れずに私も同学院の発展に協力している。山田先生の撒いた種である。以上。

写真は、2005年11月、遼寧省での研修会。《2015年1月15日初稿》

普賢の道 The Way of Samantabhadra

普賢の道
The Way of Samantabhadra

深山幽谷にひとり座す
経巻に閉ざす心の迷い
夢に響く白象の嘶き
光の背に菩薩の微笑み

Om Samantha Bhasara

Dhan Sendhamakaroshadaya Sohataya

Untarata Kamman Om Samantha Bhadra Bodhisattva Svaha

ॐ सामन्थ भसर धन सेन्धमकरोषदाय सोहताय उन्तरता कामं

ॐ सामन्थ भद्र बोधिसत्त्व स्वाहा

 

知は行に変わりて照らす
衆生の涙に光宿る
小さき手が差し伸べる先に
永遠の慈悲の道ひらく

Om Samantha Bhasara

Dhan Sendhamakaroshadaya Sohataya

Untarata Kamman Om Samantha Bhadra Bodhisattva Svaha

ॐ सामन्थ भसर धन सेन्धमकरोषदाय सोहताय उन्तरता कामं

ॐ सामन्थ भद्र बोधिसत्त्व स्वाहा

Alone, seated in the deep mountain valleys,
A heart enclosed within the scriptures’ maze,
The roar of a white elephant echoes in dreams,
Upon its back, the Bodhisattva smiles with light.

Om Samantha Bhasara

Dhan Sendhamakaroshadaya Sohataya

Untarata Kamman Om Samantha Bhadra Bodhisattva Svaha

ॐ सामन्थ भसर धन सेन्धमकरोषदाय सोहताय उन्तरता कामं

ॐ सामन्थ भद्र बोधिसत्त्व स्वाहा

Wisdom transforms into action and illuminates,
Light dwells in the tears of all beings,
Where a small hand is extended to help another,
The eternal path of compassion unfolds.

Om Samantha Bhasara

Dhan Sendhamakaroshadaya Sohataya

Untarata Kamman Om Samantha Bhadra Bodhisattva Svaha

ॐ सामन्थ भसर धन सेन्धमकरोषदाय सोहताय उन्तरता कामं

ॐ सामन्थ भद्र बोधिसत्त्व स्वाहा

 

普賢菩薩と修行僧

 

普賢菩薩と修行僧

深山幽谷の寺に、一人の若き修行僧がいた。
彼は毎日、経典を読み解き、仏の教えを頭に刻みつけていた。
だが、彼の心は晴れなかった。

「私はこれほど多くの経を学んだのに、なぜ人々を救えぬのだろう……。」

ある晩、星の冴える夜、僧は夢の中で白象の嘶きを聞いた。
目を開けると、堂内の奥に六牙の象が佇み、その背に普賢菩薩が静かに座していた。

菩薩の声は、風のように柔らかく響いた。
「修行僧よ、お前の学びは確かに尊い。だが、知ることと行うことは異なる。智慧は頭の中に閉じ込めれば枯れる。流れ出してこそ、慈悲となる。」

僧は震える声で答えた。
「では、私はどうすればよいのでしょうか。」

普賢は白象の背から降り立ち、手にした蓮華を差し出した。
「明日、山を下りよ。道端の人に一言、励ましをかけるがよい。困窮する者に一片の食を分けよ。それが小さくとも、行いは心に光を宿す。仏道は経巻にあるのではなく、衆生の涙の中にある。」

その言葉は僧の胸を貫いた。
経の一文字よりも重い真理が、そこにあった。

翌朝、僧は村に下り、道で倒れていた老人に水を与えた。
ただそれだけのことなのに、老人は涙を流して合掌した。
その時、僧は悟った。

――これこそが普賢菩薩の道、智慧を行いに変える慈悲の実践。

以後、彼は経典を胸に抱きつつも、人々の中に身を置いた。
その姿は、普賢菩薩の誓願に導かれた修行僧の、真の仏道の歩みであった。

その後…

かつて若き修行僧であった男は、今や白髪を交えた尊き師となっていた。
彼の名は世に広く知られることはなかった。だが、山里の小さな庵には、日ごと弟子や旅人が訪れ、導きを求めて集まった。

庵の前には、あの日夢で見た普賢菩薩を象徴するかのように、一頭の白き馬が静かに草を食んでいた。人々はそれを「普賢の白象の化身」と信じ、師の庵を訪れるたびに深い安心を覚えた。

ある日、弟子のひとりが師に尋ねた。
「師よ、私たちはいくら経を読み、坐禅を重ねても、悟りに近づけているのか分かりません。何をもって仏道を歩んでいると言えるのでしょうか。」

師は微笑み、静かに答えた。
「弟子よ、仏道とは遠い山の頂にあるのではない。お前が道で倒れている者に手を差し伸べる時、母の涙をぬぐう時、すでにそこに仏道はある。知ることと行うことがひとつになった瞬間、菩薩の道が開かれるのだ。」

その言葉を聞いた弟子は、涙をこぼしながら深く合掌した。

やがて弟子たちは村へ出て、人々に米を分け与え、病を癒すために薬草を学び、孤独な老人の話に耳を傾けた。
行いは小さな灯のように村に広がり、やがて多くの心を照らしていった。

ある夜、師は夢を見る。
白象の背に再び普賢菩薩が現れ、こう告げた。
「汝は知を行いに変え、多くの弟子を導いた。だが忘れるな、行いはまた新たな知を生む。知と行は果てしなく循環し、それが衆生を救う道となるのだ。」

目覚めた師は静かに合掌し、灯火の揺らめきを見つめた。
その炎は弟子たちへ、そしてさらにその先の世代へと受け継がれていく――。

それは普賢菩薩の誓願そのもの、慈悲と行いによって世界を照らす光であった。

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普賢菩薩

普賢菩薩

あらゆる場所に現れ、命あるものを救う慈悲を司る菩薩

普賢菩薩(ふげんぼさつ)とは?

普賢とは「全てにわたって賢い者」という意味で、あらゆるところに現れ命ある者を救う行動力のある菩薩です。

 

文殊菩薩とともに釈迦如来の右脇侍として三尊で並ぶことが多いですが、独尊で祀られる場合もあります。文殊菩薩の智慧とともに修行を司る菩薩として、明晰な智慧で掴み取った仏道の教えを実践していく役割を果たすとされています。また、女性の救済を説く法華経の普及とともに女性に多く信仰を集めました。

 

ちなみに普賢菩薩から派生した仏に延命のご利益のある普賢延命菩薩があります。

ご利益

女性守護、修行者守護、息災延命、幸福を増やす増益のご利益があるとされています。また、辰・巳年の守り本尊です。

普賢菩薩(ふげんぼさつ)の像容

白象に乗っている姿が一般的です。3つや4つの頭の象に乗っている場合は普賢延命菩薩像の可能性が高いです。

有名寺院と像

・京都府:岩船寺

普賢菩薩(ふげんぼさつ)の真言

オン・サンマイヤ・サトバン

普賢菩薩(ふげんぼさつ、 समन्तभद्र [samantabhadra, サマンタバドラ]、: ཀུན་ཏུ་བཟང་པོ་ [kun tu bzang po])は、大乗仏教における崇拝の対象である菩薩の一尊。文殊菩薩とともに釈迦如来脇侍として祀られることが多い[1](参照:釈迦三尊)。法要では四七日の仏とされる。

普賢菩薩(ふげんぼさつ)は、文殊菩薩と共に釈迦如来の脇侍(わきじ)として仕える菩薩であり、「すべてにわたって賢い」という意味を持つ存在です。特に、人々を救済し、実践を重んじる「慈悲と理知」を司り、延命の徳を備えるとされています。仏像では、6本の牙を持つ白い象に乗る姿で表現されることが多く、法華経では特に女性の救済と悟りの道を説いたことから、女性からの信仰も集めています。 
役割と象徴
  • 慈悲と知恵の実践: 普賢菩薩は、仏の慈悲や知恵を実際に人々へ施す役割を持ち、それを実践する菩薩とされます。 
  • 白象に騎乗: 6本の牙を持つ白い象に乗る姿は、清らかな悟りや、あらゆる困難を乗り越えて悟りへ進む精進を表します。 
  • 法華経の守護者: 法華経(ほけきょう)では、普賢菩薩勧発品(かんぱつぼん)に登場し、法華経を護る人々を守護することを誓っています。 
  • 女性の救済: 法華経の教えにおいて、女性も悟りに至れることを説いたことから、女人往生(にょにんおうじょう)や女性の精神的な成長を促す菩薩としても崇拝されています。 
ご利益と信仰
  • 延命・長寿: 延命の徳を備えているとされ、健康運や長寿への願いが込められています。 
  • 開運・厄除け: 総合的な開運、運気上昇、および厄除けの願いも叶えるとされています。 
  • 守り本尊: 辰(たつ)年と巳(み)年の守り本尊とされており、これらの干支生まれの人の信仰を集めます。