魂の内奥から常にある種の霊的精神的エネルギーが身体外部に放射されているが、そのバイブレーションは内から外に向かって放射されるときに魂に付いた汚れの影響を受けて着色される。それがジャイナ教哲学でいうレーシャという霊的色彩光である。霊的色彩光はカルマ体(アートマンにカルマが結びついて出来た原因体であり、自我意識であり、個我でもある。)のカシャーイ領域を通過するときにカシャーイに影響されて着色される。原因として蓄積されているカルマによってカシャーイ(情欲・パッション)が出来てくるが、カシャーイの領域を通過して着色されたレーシャは、次にカルマ体のアデヴァシャーイの領域に入り、感情が生起する元となるエネルギーを生み出している。この段階(カルマ体の段階)ではレーシャの周波数が高いので我々はまだ霊的色彩光を知覚することはできない。
だからカルマを変えたかったらレーシャを変えればよい
だからカルマを変えたかったらレーシャを変えればよい。それがジャイナ教のカルマを変える瞑想法レーシャ・ディヤーナの理論である。霊的色彩光の知覚を通じてレーシャの色をより良い色彩に変えていく、因果律の負の連鎖を正の連鎖に変えて魂の純粋化を目指すのである。
カルマによって汚れた魂となったパーヴァ・アートマンをもつジーヴァ(生き物、特に人間)が修行によってアカルマ(純粋)になると、モークシャが達成されて輪廻転生しない普遍的なドラヴィア・アートマンになる。このことを解脱と言う。解脱がジャイナ教・仏教・ヒンドゥー教の理想である。それは、今も昔も変わらない。レーシャ・ディヤーナ(霊的色彩光の知覚)は瞑想の目的と目的地とそこに到達する方法を示している。
感情を生み出すホルモンの内分泌線と関係が深いケーンドラ(チャクラともいう)という霊的中心点に善い色彩をイメージし、善い言葉と共に潜在意識であるカルマ体に浸透させる。この瞑想の継続によって我々の潜在意識は変容しカルマも変わり、カシャーイも善きものとなる。
自分自身を知るというのは自己のカルマを知ることである。自己コントロールとは自己の行為の結果であるカルマによって作られたカシャーイをコントロールすることである。また、カルマによって形成された心の癖、願望、傾向、好みであるヴァーサナー・サムスカーラをコントロールすることでもある。
我々は自分自身を肉体としての体だけであると見ていたのでは救われない。常に肉体だけでなく、自分の体を電磁気的な体として、原因の体として、純粋なる魂として見なくてはならない。それが、自分で自分を救う道である。ジュニヤーナの道、智慧のヨガ、論理的思考を好む人の歩む道、プレクシャ・メディテーションがそれである。
コラム:四つの身体と霊的色彩光
コラム:四つの身体と霊的色彩光
ヴェーダンタ哲学とジャイナ教哲学では、人間の身体は目に見える粗雑な物質の肉体と、精妙な物質的身体である電磁気的な体と、最も微細な物質からなる体原因と、物質でない魂が層のように結合したものだと説いている。
ジャイナ教ではその四つを肉体、テジャス体(電磁気的な身体)、カルマ体(原因体、汚れた魂、個我の源)、ドラビヤ・アートマン(純粋な魂)に分けて説明している。
ヴェーダンタ哲学では肉体(粗雑な体・アンナマヤ・コシャ・食物で出来た体)、スークシュマ・シャリーラ(精妙な体)、カーラナ・シャリーラ(原因体・潜在意識)、アートマン(魂)に相当する。
仏教では魂を説明しないので身体の複合性・重層性を説かないが、四つの身体を説くジャイナ教とヴェーダンタ哲学には共通の思想がある。『スワーミー・メーダサーナンダ著「輪廻転生とカルマの法則」参照。』
魂の二面性についても純粋なる魂をヴェーダンタ哲学でシュッダートマンと言い、ジャイナ教ではドラビア・アートマンという。本性が覆い隠された魂をヴェーダンタ哲学ではジヴァートマンと言い、ジャイナ教ではパーヴァ・アートマンと言う。何によって魂が本性を覆い隠されるのか。ヴェーダンタ哲学では、それは無知・マーヤ(迷い)であると説いている。その迷いとは誤解、妄想、迷信である。
ジャイナ教では魂に付いた汚れであるカルマ(業)であるとして、中でもカシャーイが原因であるとしている。カシャーイとは怒り、慢心、虚偽、強欲のことである。ジャイナ教では全ての生き物の魂にはカルマが付着していて、カルマが原因となって輪廻が起こっていると説いている。そして輪廻する魂を持つ生き物全てをジーヴァと呼んでいる。汚れたジーヴァの魂が純粋になることがモークシャ(解脱)であり、モークシャに到達することが全ての輪廻する魂の目標である。人間として肉体を持った状態でモークシャに到達した人をアラハン又はアラハトと言う。アラハトが肉体を捨てて魂だけになるとモークシャに到達しているので、もう輪廻転生が起こらない。その輪廻転生しない肉体を持たない魂をシッダと言う。ジーヴァという言語、シッダという言語はジャイナ教由来のものである。もしかするとヴェーダンタ哲学で説く四つの体は、いつの時代か、ジャイナ教哲学の影響を受けているのかもしれない。
ジャイナ教哲学では純粋なる魂は色彩を超越した まばゆく輝くものであるが、純粋なる魂にカルマが結びつくと輪廻する魂、ジーヴァ、つまり生き物、生命になる。生命の中の魂はある種のバイブレーションを起こしている。その精妙なバイブレーション(ある種の周波数を持った波動)が周囲に存在している様々な微細な物質を引き寄せる。その微細な物質が魂に付着してカルマの材料となる。人間であれば、五つの感覚器官を通じて微細な物質が魂に引き寄せられてくる。色、音、味、匂い、触感として微細な物質が魂に入ってくる。それは外から内への方向性である。
魂の内奥から常にある種の霊的精神的エネルギーが身体外部に放射されているが、そのバイブレーションは内から外に向かって放射されるときに魂に付いた汚れの影響を受けて着色される。それがジャイナ教哲学でいうレーシャという霊的色彩光である。霊的色彩光はカルマ体(アートマンにカルマが結びついて出来た原因体であり、自我意識であり、個我でもある。)のカシャーイ領域を通過するときにカシャーイに影響されて着色される。原因として蓄積されているカルマによってカシャーイ(情欲・パッション)が出来てくるが、カシャーイの領域を通過して着色されたレーシャは、次にカルマ体のアデヴァシャーイの領域に入り、感情が生起する元となるエネルギーを生み出している。この段階(カルマ体の段階)ではレーシャの周波数が高いので我々はまだ霊的色彩光を知覚することはできない。
レーシャがテジャス体に入ると周波数が低くなり、テジャス体に流入したレーシャは生命力や内部感覚に影響し、テジャス体のレーシャの領域(霊的色彩光の見える領域)に到達すると我々はレーシャの色を知覚することが出来るようになる。更にレーシャが肉体のレヴェルに入ると中枢神経に到達し内分泌系に影響を及ぼして、そこで化学物質・ホルモンが分泌され感情が生起する。感情によって思考が生まれ、知性が心で考えたことを分析判断し決定する。決定することで行動となる。行動の源を辿っていくとカシャーイがその根源となっていることが解り、行為の結果であるカルマがそのカシャーイを生み出していると理解できる。
又、カルマはレーシャに引き寄せられていることがわかる。つまりレーシャが我々の行動の全ての根源だということがわかる。レーシャによって我々は行動させられ、そしてその行動が新たなカルマを引き寄せ新たな原因を作っているのである。
だからカルマを変えたかったらレーシャを変えればよい。それがジャイナ教のカルマを変える瞑想法レーシャ・ディヤーナの理論である。霊的色彩光の知覚を通じてレーシャの色をより良い色彩に変えていく、因果律の負の連鎖を正の連鎖に変えて魂の純粋化を目指すのである。
カルマによって汚れた魂となったパーヴァ・アートマンをもつジーヴァ(生き物、特に人間)が修行によってアカルマ(純粋)になると、モークシャが達成されて輪廻転生しない普遍的なドラヴィア・アートマンになる。このことを解脱と言う。解脱がジャイナ教・仏教・ヒンドゥー教の理想である。それは、今も昔も変わらない。レーシャ・ディヤーナ(霊的色彩光の知覚)は瞑想の目的と目的地とそこに到達する方法を示している。
感情を生み出すホルモンの内分泌線と関係が深いケーンドラ(チャクラともいう)という霊的中心点に善い色彩をイメージし、善い言葉と共に潜在意識であるカルマ体に浸透させる。この瞑想の継続によって我々の潜在意識は変容しカルマも変わり、カシャーイも善きものとなる。
自分自身を知るというのは自己のカルマを知ることである。自己コントロールとは自己の行為の結果であるカルマによって作られたカシャーイをコントロールすることである。また、カルマによって形成された心の癖、願望、傾向、好みであるヴァーサナー・サムスカーラをコントロールすることでもある。
我々は自分自身を肉体としての体だけであると見ていたのでは救われない。常に肉体だけでなく、自分の体を電磁気的な体として、原因の体として、純粋なる魂として見なくてはならない。それが、自分で自分を救う道である。ジュニヤーナの道、智慧のヨガ、論理的思考を好む人の歩む道、プレクシャ・メディテーションがそれである。
愛染明王 Aizen Myoo – The Buddha of Love Appearing in the Flames
愛染明王
Aizen Myoo – The Buddha of Love Appearing
in the Flames
赤き炎よ 胸に燃えよ
恐れを焼き 執着を照らせ
三つの眼は わが影を射抜き
六つの腕は わが命を抱く
On Makaragya Bazaroushunisha
BazarasatbaJakuun Bangkok
मकरग्य बजरौशुनिषा बजरसत्बा जकुन बैंकॉक पर
オン・マカラギャ バザロウシュニシャ
バザラサトバ ジャクウン・バンコク
煩悩は光へ 炎は命へ
愛染明王よ 我を照らしたまえ
On Makaragya Bazaroushunisha Bazarasatba Jakuun Bangkok
मकरग्य बजरौशुनिषा बजरसत्बा जकुन बैंकॉक पर
O crimson flame, burn within my chest
Burn away my fear, illuminate attachment
Three eyes pierce the shadows I hide
Six arms embrace the life I hold
On Makaragya Bazaroushunisha
Bazarasatba Jakuun Bangkok
Desire turns to light, the fire into life
O Aizen Myo-o, shine upon me
On Makaragya Bazaroushunisha
BazarasatbaJakuun Bangkok
मकरग्य बजरौशुनिषा बजरसत्बा जकुन बैंकॉक पर
愛染明王 ――炎の中に現れる愛の仏
愛染明王 ――炎の中に現れる愛の仏
東洋にて、恋と欲望を司る神といえば、しばしば愛染明王の名が挙がる。だが、その姿は西洋のキューピッドのような愛らしい少年ではない。全身は紅蓮に染まり、三つの眼で世界を射抜き、六本の腕に弓と矢を携える。燃えさかる炎の中に現れるその姿は、恐ろしさと美しさが同居する、まさに「欲望の化身」であった。
古より仏教は「愛欲」を煩悩のひとつとして教え、人が悟りを得るにはそれを捨て去らねばならぬと説いてきた。だが密教は異なる道を示した。――煩悩を滅ぼすのではなく、そのまま菩提へと転ずる。「煩悩即菩提」。人が欲望に苦しむからこそ、求め、祈り、真実を欲する心が生まれるのだ。
愛染明王はその象徴として顕れる。人の愛欲を、悟りを求める原動力へと変えるために。だからこそ彼は、人々の悩みを救い、災厄を退け、命を延ばし、福を増し、戦いの勝利すら授けると信じられてきた。
戦国の世には、直江兼継という武将がその加護を求めた。彼の兜の前立てには「愛」の一字が掲げられていたという。その「愛」は、恋慕の愛ではなく、愛染明王の力を象徴する、炎のごとき愛だった。
その名を唱える者は多かった。
――オン・マカラギャ・バザロウシュニシャ・バザラサトバ・ジャクウン・バンコク。
真言が響くたび、赤き炎は胸の奥に灯り、欲望は光に変わる。愛染明王は、恐怖をも愛に、愛をも智慧に変える仏として、今もなお人々の心に息づいている。
赤き炎に包まれて
山深き寺の一隅。苔むした石段を登り切ると、小さなお堂が静かに佇んでいた。病に伏し、痩せ細った身を引きずるようにして、一人の男がそこへ辿り着いた。
「……どうか、この命を……」
堂内に入ると、正面には紅蓮の姿をした愛染明王の像が鎮座していた。三つの眼は怒りと慈悲をあわせ持ち、六本の腕が弓矢を携えて宙を切っている。その眼差しに射抜かれると、男の胸の奥に潜んでいた恐れと執着が暴き出されるようだった。
男は震える手を合わせ、唇を震わせながら真言を唱えた。
――オン・マカラギャ・バザロウシュニシャ・バザラサトバ・ジャクウン・バンコク。
幾度も幾度も、声は掠れながらも続いた。やがて堂内の灯明が揺らぎ、赤き炎が虚空から降り立つ。愛染明王の幻影が、燃えさかる火焔に包まれて姿を現したのだ。
「汝の恐れは、愛欲の影。
その欲は滅すべきものではなく、力へと変じるものなり」
声が胸奥に直接響いた。男は己の中に潜む執念――生きたいという渇望が、苦しみでありながらも確かに生の力であることを悟る。
炎は男の体を包み、その苦悩を焼き尽くすかのように熱を与えた。すると不思議なことに、胸の痛みが和らぎ、呼吸が少しずつ深くなっていくのを感じた。
男は涙を流しながら、ひたすらに真言を唱え続けた。
――オン・マカラギャ・バザロウシュニシャ・バザラサトバ・ジャクウン・バンコク。
赤き炎はやがて心の奥底に灯り、彼の眼には静かな光が宿った。病が完全に癒えたわけではない。だが、恐れは消え、力が胸に満ちていた。
愛染明王は再び像へと戻り、堂内は静寂を取り戻す。
男は深く一礼し、痩せた体をまっすぐに伸ばして石段を下りていった。
その心には、炎のように燃え続ける「生きる力」が宿っていた。




