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ヒトを天才にする求聞持聡明法 2

求聞持 ― 天才を生む珠の物語

 

夜明け前、山の庵はまだ闇に沈んでいた。
若い修行者・蓮真(れんしん)は、灯明の前に端坐し、ただ呼吸の音だけを聞いていた。
学べども覚えられず、考えども言葉にならぬ。
知は積もるのに、智慧にならない。
その壁の前で、人は自らを凡庸と呼ぶ。
だが、師は静かに言った。
「知が足りぬのではない。
覆われているのだ」
蓮真は顔を上げた。
「人の心と世には、蓋がある。
恐れ、疑い、執着、疲弊。
それらが智慧を覆っている」
その夜、師は古い名を口にした。
求聞持聡明法。
聞いたことを忘れず、
観たものを曇らせず、
思考を越えて、智慧が自ら働きだす法。
虚空蔵の座
修行は、言葉よりも静かだった。
山の洞で、蓮真はただ真言を繰り返す。
呼吸は深まり、脊柱の奥に、かすかな熱が灯る。
それは力ではなかった。
意思でもなかった。
ただ、目覚めだった。
熱は昇り、胸を抜け、喉を越え、
やがて頭蓋の中心――
思考の奥、名づけられぬ場所へと注がれていく。
そのとき、虚空が開いた。
無限の夜空に、ひとりの菩薩が坐していた。
童子の姿、だが老いも若さも超えた眼。
虚空蔵菩薩。
その胸には、数えきれぬ記憶が眠っている。
人の祈り、失われた言葉、
まだ生まれていない智慧。
「求めるな」
声は、直接、心に届いた。
「思い出せ」
除盖障院
夢か、覚醒か。
蓮真は曼荼羅の中に立っていた。
そこは除盖障院。
人と世界を覆う、すべての蓋を取り除く場。
その中心に坐すのは、
不思議慧菩薩。
左手には蓮華。
蓮華の上には、ひとつの珠――
摩尼宝珠。
右手は施無畏の印。
恐れを終わらせるかたち。
「智慧とは、考え抜いた末に得るものではない」
菩薩は語った。
「覆いが外れたとき、
すでに在ったものが、働きだす」
その瞬間、蓮真は悟った。
天才とは、特別な人間ではない。
智慧が、遮られていない人間のことなのだ。
駄都 ― 珠の正体
修行が深まるにつれ、
摩尼宝珠は単なる象徴ではなくなった。
それは、光であり、
震えであり、
身体そのものだった。
師は言った。
「その珠は、駄都。
仏陀の真身舎利――
生命そのものの凝縮だ」
生命が、生命を照らす。
だからこそ、この法は人を壊さない。
智慧は、身体を衰えさせず、
むしろ若返らせる。
老いは、智慧の不足ではなく、
生命循環の滞りなのだ。
天才とは何か
やがて、蓮真は山を下りた。
記憶は澄み、
言葉は自然に湧き、
人の苦しみが、理屈ではなく感覚として分かる。
だが、彼は奇跡を誇らなかった。
「寝たきりの天才など、意味はない」
師の言葉が、今も胸にある。
智慧は、
世のため、人のために働いてこそ、
真に智慧となる。
核も、戦争も、環境破壊も、
すべては人の心にかかった蓋から始まる。
それを外すのが、
不思議慧のはたらきなのだ。
夜明け。
庵の前で、風が静かに木々を揺らす。
蓮真は微笑み、歩き出した。
天才になるためではない。
ただ、覆われていない心で生きるために。
虚空は、今日もすべてを記憶している。

ヒトを天才にする求聞持聡明法

ヒトを天才にする求聞持聡明法

求向持整可法は、とトを聡明にし、天才にするという真言密教に伝わる秘法である。 悲法大師空海が、若くしてこれを修し、大天才となったということで、風に知られかくはんている。また、新義真言宗の開祖、興教大師覚賃(一○九五―一一四三)が、七度、 この法を修して成功せず、八度目に悉地を成し、成功したと伝えられる。覚毀上人ののこされた業績をみれば、上人もまた天才であったことは疑いない。ただ残念なことつと

に、四十八歳で亡くなられている。

虚空蔵求聞持

真言密教の求聞持聡明法には、三種の法がある。

観音求聞持

如意輪求聞持

であるが、ふつう、求聞持法といえば、空海が修して有名な虚空蔵求聞持をさす。 この法を、具には「仏説虚空蔵菩薩能满諸願最勝心陀羅尼求聞持法」という。

駄都如意求聞持聡明法

と名づけた。

この駄都如意求聞持聡明法は、真言密教につたわる求聞持法とはまったくちがうも

のである。

とくらよう。 二つの特徴がある。

それは、

一、クンダリニー・ヨーガのチャクラを覚醒して、超人的エネルギーを発生させる。

とうきよどうきこう二、その超人的エネルギーを、中国・道教につたわる導引・気功の持つ生気ルートにのせて、体の各要所、要部にめぐらせ、行きわたらせる。殊に、大脳の中

枢である間脳・視床下部に送りこむ。

 

 

もちろん、後世おそるべし」という諺の通り、今後、これ以上の超能力開発法も出るから知れないが、しかし、それも、クンダリニー・ヨーガと導引・気功を融合させたこの駄都如意求聞持聡明法のライン以外のものではないであろうと確信している。

求聞持聡明法は、たしかにヒトを天才にする。

しかし、いくら天才になっても、そのために、病弱になったり、若死にしたりしたのでは、なんにもならない。

天才は、いつまでも若々しく、健康で、世のため、人のため、その才能を発揮するものでなくてはならない。(寝たっきりの天才など、まっぴらである)

 

駄都如意求聞持聡明法は、特に不老長寿を目ざすものではなかったのだが、結果はそうなってしまったのである。

期せずして、仙道の理想が実現されることになったのだ。

神仙に化することだけはちょっとむずかしいが、不老長寿はかならず達成される。

わたくしは断言してよい。仙道の秘法がとり入れられているこの駄都如意求聞持聡明法は、二十歳代の人ならば、三歳から五歳、中年以上の人ならば、十歳から十五歳、

若返ることができるであろう。

求聞持聡明法があたえる不思議な知慧

さいごに、駄都如意求聞持聡明法という、名称の由来をのべておこう。

る。 かいしようい真言密教の胎藏界マンダラ第三重南面に、除盖障院というマンダラがえがかれてい

 

除資障というのは、人間と人間社会におけるすべての蓋障(文字の通り、蓋のように覆っている障害)をとりのぞくという意味で、その蓋障をとり除く仏たちがまつられているのが、除盖障院である。

ふしぎえこの院の主尊、すなわち中心の仏を、「不思議慧菩薩」という。

のか。 まにほうじゅそのおすがたは、左手に蓮華を持ち、蓮華上に摩尼宝珠(如意宝珠)を置き、右の手は施無畏の印を組んで、胸の前に上げている。このおすがたはなにを表現している

仏のさずける不思議な智慧を象徴しているのである。

である。 わざわい施無畏というのは、一切の災禍をとり除いて、いかなる不安もない平穏無事の世界を実現するということで、それを実現するのが、不思議な仏の智慧である、というの

不思議、というのは、人間の思慮ではおしはかることのできない次元のことをいい、 不思議慧菩薩は、その不思議な智慧を象徴した仏である。

では、その不思議な仏の智慧はどこから来るのか?

それは、左の手の蓮華の上に奉安された、摩尼宝珠から来るのである。

求聞持聡明法のあたえる智慧は、この不思議な仏の智慧なのである。この仏の智慧

の不思議なはたらきによって、この地上の一切の災禍 ――を滅除して、無異なる平和世界を実現するのである。 核・戦争・環境破壊・貧困

駄都知章求聞持聪明法の奥儀の修行に入ると、この摩尼宝珠が、特殊な観法の中心となる。これなくしてこの法の成就はない。(如意宝珠法に関係があるのである)

じんしゃ摩尼宝珠というのは、仏陀シャカの御聖骨、真身舍利のことで、真身舍利を、「駄都」 だと

という。

これを以て、駄都如意求聞持聡明法と名づけたのである。

ヒトを天才にする求聞持聡明法

  1. ヒトを天才にする求聞持聡明法

求向持整可法は、とトを聡明にし、天才にするという真言密教に伝わる秘法である。 悲法大師空海が、若くしてこれを修し、大天才となったということで、風に知られかくはんている。また、新義真言宗の開祖、興教大師覚賃(一○九五―一一四三)が、七度、 この法を修して成功せず、八度目に悉地を成し、成功したと伝えられる。覚毀上人ののこされた業績をみれば、上人もまた天才であったことは疑いない。ただ残念なことつと

に、四十八歳で亡くなられている。

虚空蔵求聞持

真言密教の求聞持聡明法には、三種の法がある。

観音求聞持

如意輪求聞持

であるが、ふつう、求聞持法といえば、空海が修して有名な虚空蔵求聞持をさす。 この法を、具には「仏説虚空蔵菩薩能满諸願最勝心陀羅尼求聞持法」という。

しかし、わたくしがこのたびこの本で発表する求聞持聡明法は、これらのいずれで

ない。わたくしが独自に創成した求聞持法で、わたくしはこれに、

駄都如意求聞持聡明法

と名づけた。

この駄都如意求聞持聡明法は、真言密教につたわる求聞持法とはまったくちがうも

のである。

とくらよう。 二つの特徴がある。

それは、

一、クンダリニー・ヨーガのチャクラを覚醒して、超人的エネルギーを発生させる。

とうきよどうきこう二、その超人的エネルギーを、中国・道教につたわる導引・気功の持つ生気ルートにのせて、体の各要所、要部にめぐらせ、行きわたらせる。殊に、大脳の中

枢である間脳・視床下部に送りこむ。

イントロダクシ

この二つの方法を、独特の方法で完成したのである。これは、前人未踏の領域であるといってよいであろう。

わたくしは、半生を、というより、一生をこの法の完成に注いだ。いまから約二〇年前に発行した「変身の原理」以来、わたくしの著書はこの本で四○冊になるが、そ

れらの著書のすべてが

にした。 わたくしは、この本で、わたくしの得たほとんどのものを、出来るかぎり、明らか

クンダリニー・ヨーガも、道教の導引・気功も、いずれも超人的能力を獲得するための最高の法である。この世界にこれ以上の超能力開発法はない。この二つの法の欠陥を補正して融合させ、さらにあらたな創案をくわえて完成したこの駄都如意求聞持鬆用法は、ヒトにおける究極の超能力開発法であると自負するのである。

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もちろん、後世おそるべし」という諺の通り、今後、これ以上の超能力開発法も出るから知れないが、しかし、それも、クンダリニー・ヨーガと導引・気功を融合させたこの駄都如意求聞持聡明法のライン以外のものではないであろうと確信している。

この法を、指導通りに修行するならば、確実に、ヒトの知能は二倍に、体力は三倍に飛躍強化されるであろうことを断言する。

天才は不老長寿でなければならない

求聞持聡明法は、たしかにヒトを天才にする。

しかし、いくら天才になっても、そのために、病弱になったり、若死にしたりしたのでは、なんにもならない。

天才は、いつまでも若々しく、健康で、世のため、人のため、その才能を発揮するものでなくてはならない。(寝たっきりの天才など、まっぴらである)

イントロダクション

求聞持聡明法修得をこころざしたわたくしは、つねに、四十八歳という惜しむべき短命に終わった興教大師覚錢上人が念頭にあった。上人は、おそらく、過酷な求聞持法修行のため、法は成就したものの、体を痛め、寿命を損じたのにちがいなかった。 このことは、年少、結核を病んで何年も病床に伏した苦しい経験を持つわたくしに

とり、その恐れの念が特に深刻であった。

しかし、この憂慮は、幸いにして札憂におわった。

道教の導引・気功の秘法をとり入れたことが、この心配を吹きとばしてくれたのである。

すなわち、道教の導引・気功は、仙道の流れを汲むものである。そして仙道の理想は、不老長寿、生きながら神仙に化することを目標とする。

駄都如意求聞持聡明法は、特に不老長寿を目ざすものではなかったのだが、結果はそうなってしまったのである。

期せずして、仙道の理想が実現されることになったのだ。

神仙に化することだけはちょっとむずかしいが、不老長寿はかならず達成される。

わたくしは断言してよい。仙道の秘法がとり入れられているこの駄都如意求聞持聡明法は、二十歳代の人ならば、三歳から五歳、中年以上の人ならば、十歳から十五歳、

若返ることができるであろう。

だから、もしも

もしも、である。

あなたが高年者として修行に入り、年齢のために天才になれなかったとしても、いつまでも若々しい肉体と、そして決してボケることのない求聞持脳だけは獲得できるであろう。

求聞持聡明法があたえる不思議な知慧

さいごに、駄都如意求聞持聡明法という、名称の由来をのべておこう。

る。 かいしようい真言密教の胎藏界マンダラ第三重南面に、除盖障院というマンダラがえがかれてい

イントロダクション

除資障というのは、人間と人間社会におけるすべての蓋障(文字の通り、蓋のように覆っている障害)をとりのぞくという意味で、その蓋障をとり除く仏たちがまつられているのが、除盖障院である。

ふしぎえこの院の主尊、すなわち中心の仏を、「不思議慧菩薩」という。

のか。 まにほうじゅそのおすがたは、左手に蓮華を持ち、蓮華上に摩尼宝珠(如意宝珠)を置き、右の手は施無畏の印を組んで、胸の前に上げている。このおすがたはなにを表現している

仏のさずける不思議な智慧を象徴しているのである。

である。 わざわい施無畏というのは、一切の災禍をとり除いて、いかなる不安もない平穏無事の世界を実現するということで、それを実現するのが、不思議な仏の智慧である、というの

不思議、というのは、人間の思慮ではおしはかることのできない次元のことをいい、 不思議慧菩薩は、その不思議な智慧を象徴した仏である。

では、その不思議な仏の智慧はどこから来るのか?

それは、左の手の蓮華の上に奉安された、摩尼宝珠から来るのである。

求聞持聡明法のあたえる智慧は、この不思議な仏の智慧なのである。この仏の智慧

の不思議なはたらきによって、この地上の一切の災禍 ――を滅除して、無異なる平和世界を実現するのである。 核・戦争・環境破壊・貧困

駄都知章求聞持聪明法の奥儀の修行に入ると、この摩尼宝珠が、特殊な観法の中心となる。これなくしてこの法の成就はない。(如意宝珠法に関係があるのである)

じんしゃ摩尼宝珠というのは、仏陀シャカの御聖骨、真身舍利のことで、真身舍利を、「駄都」 だと

という。

これを以て、駄都如意求聞持聡明法と名づけたのである。

真身令行を本尊としてまつる阿含宗が、この駄都如意求聞持聡明法を完成したのは、 決して偶然ではなかったのだと、つくづく思わざるを得ないのである。

一九八九年九月十七日

桐山靖雄

文殊 ― Mañjuśrī — The Young Wisdom Upon the Lion

 

文殊 ―
Mañjuśrī —
The Young Wisdom Upon the Lion

 

 

夜明け前の霧に 筆を置いたまま
答えを探して 立ち尽くす影
獅子の足音が 胸を揺らして
若き智慧が 静かに現れる

oṃ arapacana

oṃ अरपचना

斬るのは敵じゃない 迷いの輪郭
集めた知識より 見極める勇気
オン・アラハシャ・ノウ 問いは光となり
いまここで 道はひらく

oṃ arapacana

oṃ अरपचना

 

 

In the mist before the dawn, my pen lies still
Searching for answers, I stand in silence
The lion’s footsteps echo inside my chest
And youthful wisdom softly appears
oṃ arapacana
oṃ अरपचना

I do not cut my enemies, I cut the shape of doubt
More than gathered knowledge, I choose the courage to see
On arahasha nou — the question turns to light
Here and now, the path unfolds
oṃ arapacana
oṃ अरपचना

 

智慧と記憶 ― 文殊と虚空蔵のあいだ

智慧と記憶 ― 文殊と虚空蔵のあいだ
夜と夜のあいだ。
星がまだ名前を持たなかったころ、虚空は深く息をしていた。
無限の闇ではない。
満ちきった空(そら)――
そこに、ひとりの菩薩が坐していた。
虚空蔵。
その胸には、数えきれぬ記憶が眠っている。
人の祈り、忘れられた誓い、
成仏できなかった願いさえも。
彼はすべてを拒まない。
記憶は、ただ預けられ、抱かれる。
そこへ、獅子の足音が重なった。
若き童子の姿をした文殊が、静かに現れる。
剣は抜かれていない。
経巻も閉じられたままだ。
二尊は言葉を交わさない。
必要がないからだ。
やがて、虚空蔵が問う。
「なぜ、人は苦しむと思う?」
その声は、空間そのものの揺らぎだった。
文殊は即答しない。
剣に手をかけることもない。
「覚えすぎるからだ」
静かに、しかし断定的に答える。
「傷も、後悔も、他人の言葉も。
本来、手放すべきものまで抱え込み、
自分が何者かを見失う」
虚空蔵は微笑む。
それは否定ではない。
「だが、忘れすぎても、人は迷う。
どこから来たのか
何を願ったのか
なぜ生きているのか」
彼の掌に、無数の光が浮かぶ。
それは記憶。
だが、過去ではない。
「記憶とは、縁だ。
人と人、心と心を結び直すための糸」
文殊は一歩、前に出る。
「だから、剣が要る」
剣先が、空を指す。
「切るためではない。
選ぶためだ。
思い出すべき縁と、
終わらせるべき執着を」
一瞬、虚空が静止する。
やがて、虚空蔵は深くうなずいた。
「記憶は、無限であるがゆえに、
智慧を持たねば人を溺れさせる」
文殊もまた、頷く。
「智慧は、鋭すぎれば孤独になる。
記憶という慈悲がなければ、
人は冷たい正しさに傷つく」
二尊のあいだに、光が生まれる。
それは剣でも経典でもない。
思い出すという行為そのもの。
虚空蔵が告げる。
「成仏とは、忘れることではない」
文殊が応える。
「思い出しすぎないことでもない」
二つの声が、ひとつに重なる。
「いま必要な真実だけを、
いまここで思い出すこと」
その瞬間、
名もなき人間の胸に、小さな気づきが灯る。
それは悟りではない。
救済でもない。
ただ、次の一歩を踏み出せるだけの
――十分な智慧と、十分な記憶。
獅子は振り返り、
虚空蔵は再び沈黙に戻る。
空は、すでに満ちていた。