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含経に到達したのです。阿含経は、日本において小乗経典と軽蔑され、だれも手にとる者はいませんでした。しかし、わたくしは、それは大きな間違いであって、阿含経こそ、ブッダが教説した唯一の尊い経典であることを発見したのです。

なぜ、阿含経が尊いのかというと、その中に、ブッダが「成仏法」を説いているからです。

成仏法については、さきにちょっとふれましたが、それは、ブッダになるための方法です。よろしいですか? 方法ですよ。ブッダになるための教えではない。方法なのです。

大乗仏教は、ブッダになるための教えは説いているが、ブッダになるための方法は説いてない。ブッダになるための方法を記した経典は、あとにもさきにも阿含経しかないのです。それをわたくしは発見して、それを世に弘めるため

に、阿含宗を立宗したのです。

阿含経に記されている成仏法は、「七科三十七道品」といって、七科目、三十七種の修行法です。わたくしは、これを、「聖なる智慧を獲得するための七つのシステム・三十七種のカリキュラム」と呼んでいます。

それは、ひと口にいうと、ブッダの智慧を完全に体得する方法です。ブッダの智慧を余すところなく自分のものにすることができたら、その人はまちがいなく、ブッダその人になるわけじゃないですか。

わたくしは、この成仏法を習得しています。まだ完全に、というわけにはいきませんが、それに近いところまで行っていると自負しています。

結論をいいましょう。わたくしは、このブッダの成仏法を以て、護摩の火を焚くことを考えたのです。これは成功しました。

ブッダの智慧を体得する法を以て護摩を焚いたら、その火はまちがいなく、

魂との対話・精神との格闘・叡智の獲得

ブッダの智慧の火となります。しかも、よいことには、ブッダの智慧の火の護摩を焚くことにより、より確実に、ブッダの智慧は身につくのです。

わたくしは、だれにでも、このブッダの智慧の護摩を教えたいと思います。 そのためにわたくしは、ニューヨークに来たのです。

この世の中に、ブッダの智慧をそなえた賢人たちが、つぎつぎと出現したら、この世の中はどんなにすばらしいものになるでしょうか。

わたくしは、智慧こそ、無上のものと思います。智慧こそ最高のものと思います。いま、人類にとって最も必要なものは叡智であります。

慈悲も、愛も、すばらしいものです。世の中に無くてはならぬものです。しかし、慈悲と愛の中に、必ずしも智慧があるとはいえませんが、最高の智慧の中には、必ず愛と慈悲はあるのです。

道はひらかれているのです。だれでもブッダになれるのだ。あなたも、あな

たも、そして、あなたも。

御静聴ありがとうございました。

 

は思いません、宗教が

いのです。 常に説いている愛と想意が、人間に欠けているとは、わたくしには思え

愛と慈悲は、本来、人間が生まれつき持っている特質です。その特質を持った人間どうしが、憎み合い、傷つけ合い、殺し合い、奪い合うという行動をするのはなぜでしょうか?

それは、愛と慈悲が欠けているのではなく、叡智が欠けているからだとわたくしは考えます。人間が本来持っている特質である愛と慈悲を目ざめさせ、発現させ、正しく伸展させて行くのは叡智であるとわたくしは思います。そしてその叡智も、愛と慈悲と同様、人間が本来持っている特質であります。ですから、わたくしは、この特質を、人類はもっと重く考え、 大切にすべきであると主張します。

いま、わたくしは、わたくしの主張という言葉を使いましたが、実は、

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するため、とか。まさに誇大妄想といわれてもしかたない。

どう思って、ああいう発言をしたのか?

おねえしよう。

わたくしは、 志をのべたのである。

世界の中心ともいうべきニューヨークに出かけていって、護摩を焚き、講演会をひらくということは、わたくしにとって一大決意を要することであり、聖生の事業である。

その出発にあたり、わたくしは、 決意を語り、志をのべたのである。

志は詩であるという。古人は、詩に託して”志をのべた。詩とはロマンであり、夢である。志も詩も、できるかぎり高く、大きく、華やかに、キラキラ輝いているほどよいのである。

それを解せぬ人の目には、大風呂敷と映り、誇大妄想狂と思われても、わた

ーナ」である。 宗教の究極は、「魂の安息」を得ることであろう。ブッダのいう「ニルヴァ

それは、智慧によって得られるものと思う。

愛と慈悲はどうであろうか。

うか? 愛と慈悲は、他にたいするものである。魂の安息は、自分自身にたいするものである。他にたいする慈悲と愛によって、自己の救済がなし得るものであろ

自己を救済するためには、当然、(今までにない、なんらかのあたらしい) 力量なり、才能が自分に加わる必要がある。それをなすものは、智慧か、愛

か、慈悲かという問題である。

神の絶対の「愛」、仏の絶対の「慈悲」を信ずることにより、「魂の安息」が得られ、自己の「救済」が完成するという考えかたもある。

「智」と「信」との対極の構図となる。

の「智の探求」には、肉体は邪魔であり、哲学こそ、「死の演習」でなければならぬというプラトンの考えは、厳粛、かつ壮絶きわまるものであり、 この構図にたいし深く示唆するものがあろう。

二十世紀最の歳、十二月二十八日

桐山靖雄

 

。 🐘「群盲の象」と三大宗教

とても良いテーマですね。
寓話「群盲象を評す(ぐんもうぞうをひす)」を「宗教(キリスト教・イスラム教・仏教)」に当てはめて説明すると、以下のように深い意味が見えてきます。

🐘「群盲の象」と三大宗教

■ 物語の意味(再確認)

インドの寓話では、数人の盲人が一頭の象に触れ、

牙に触れた人は「象は槍のようだ」

足に触れた人は「象は柱のようだ」

尾に触れた人は「象は縄のようだ」

耳に触れた人は「象は団扇のようだ」
と、それぞれ部分だけを見て全体を論じ、互いに争う――という話です。

この寓話は、「部分的理解を絶対視する愚かさ」と、「真理の全体像を見失う人間の限界」を示しています。

✝ キリスト教の視点

キリスト教では「真理は神のみぞ知る」とされ、人間はその一端を信仰を通して受け取る存在です。
つまり、盲人が象の一部しか知らないように、人間も神の創造の全体像を知ることはできません。

🔹 教訓として:
神の御心は無限であり、人間の理解は有限。だからこそ「謙虚な信仰」が求められる。
イエスは「裁くなかれ」と言いましたが、それも他者の信仰や考えを部分的理解で決めつけないようにという戒めです。

☪ イスラム教の視点

イスラムでは「アッラーこそ唯一の真理」であり、人間はその真理を完全には測りえません。
クルアーンにも「あなたがたは知識のわずかしか与えられていない(17:85)」とあります。

🔹 教訓として:
人間の理性や感覚で神の全貌を測ろうとすることは、盲人が象を語るようなもの。
だからこそ「全託(タウヒード)」――アッラーにすべてを委ね、部分的理解に執着しない姿勢が重んじられます。

🕉 仏教の視点

仏教では、この寓話の発祥地でもあり、より哲学的に解釈されます。
ブッダは「多くの論者たちは真理の一部を見て、それをすべてと見なす」と説きました。
つまり、人は自分の見た「一つの側面」から世界を判断し、そこに「我見(がけん)」=偏った見方を生じさせてしまうのです。

🔹 教訓として:
真理(法)は多面的で、部分を絶対視すると「我執」が生まれる。
智慧とは、部分と全体の関係を見抜き、「縁起」によって全体を理解する力のこと。
これが仏教における「中道」の実践にもつながります。

🌏 総合的なまとめ

宗教部分を超えて真理を観る方法キリスト教謙虚な信仰と愛により、他者の立場を受け入れるイスラム教人間の限界を認め、神の全知に委ねる仏教偏見を離れ、縁起と中道によって全体を観る

💡 結論

「群盲の象」は、
どの宗教も「真理は一つ、だが人間の理解は部分的」という共通の洞察を持つことを示しています。

それぞれの宗教は象の異なる部位を触っているかのようですが、
もし互いの理解を持ち寄り、補い合うなら――
はじめて「真の象(真理)」の全体像が見えてくるのかもしれません。

ご希望があれば、
この内容を小説風(宗教対話形式)や講話原稿風に再構成することもできます。
どちらの形式で発展させますか?