小説 大日如来
夜の山道を、若き修行者・蓮真は歩いていた。谷底から吹き上げる風は冷たく、心の中の迷いを映すかのように揺れていた。
「私は、本当に正しい道を歩んでいるのだろうか……」
彼の胸には常に問いがあった。人を救いたいという思いと、自らの弱さへの疑念。そのはざまで、進むべき方向を見失いかけていたのである。
その時、雲間から月の光が差し込み、眼前の岩壁を照らした。そこには、大日如来の尊容を刻んだ石仏があった。光を受けたその顔は、静かに、しかし確かに微笑んでいるように見えた。
蓮真は思わず膝を折り、その前に座した。
胸の奥に、師から授かった言葉が響いてくる。
――「大日如来は、迷いや悩みの時に正しい方向を示し、人を真理へと導く。お前の三密――身・口・意を、仏の三密と一つにせよ。そこに即身成仏の道がある。」
静かに印を結び、真言を唱える。
声は風に溶け、山々に響いた。
やがて、彼の心にひとつの確信が芽生える。
「仏は遠い彼方にいるのではない。私の身心そのものが、大日如来の光を映す場なのだ。」
その瞬間、蓮真の迷いは霧のように晴れ、歩むべき道が眼前に浮かび上がった。
彼は立ち上がり、夜明けへと続く山道を再び歩き出した。
山を越えた先、蓮真は師の庵に戻った。
だが、そこで彼を待っていたのはさらなる問いであった。
「蓮真よ、迷いが晴れたとて、それは始まりにすぎぬ。真に即身成仏を目指すならば、三つの試練を越えねばならぬ。」
師はそう告げ、火の灯る道場に導いた。
第一の試練は「身」の修行。
蓮真は数日間、炎天下の中で不動の姿勢を保つ行を課された。汗は滝のように流れ、体は痺れ、倒れそうになる。だが、心を一点に集中し続けることで、肉体の苦痛が次第に溶け、ただ「静かな座」が残っていった。
――「身は仏の身と同じである」
その言葉が、彼の中で真実となった。
第二の試練は「口」の修行。
師は無数の真言を与え、一日千遍、途切れることなく唱えよと命じた。初めは口先だけの音だった。しかし次第に声は心と響き合い、音が光となって道場を満たす感覚が生まれた。
――「言葉は空しくはない。真言は大日如来そのものだ。」
その理解が蓮真を支えた。
第三の試練は「意」の修行。
これはもっとも困難であった。師は蓮真を暗い洞窟に閉じ込め、灯りもなく、音もない世界で七日を過ごさせた。孤独と恐怖、心に浮かぶ幻影に押し潰されそうになる。過去の過ち、未来への不安、あらゆる妄念が波のように押し寄せた。
「私は弱い。仏と一体になるなど、不可能ではないか……」
そう思ったとき、闇の奥から、あの夜に見た大日如来の石仏の顔が浮かび上がった。
――「法界の体は、そなたの身心に他ならぬ」
師の言葉と如来の光が重なり、蓮真は深い静寂の中で、自らの意識が溶け、宇宙そのものと一体になる体験を得た。
洞窟を出たとき、夜明けの空は朱に染まり、蓮真の目には世界が新たに映っていた。
彼は静かに合掌した。
「身・口・意を仏と一つにする。これが即身成仏の道……。私は今、ようやくその入り口に立ったのだ。」