釈迦三尊物語 〜光の種をまく者たち〜
プロローグ:風の記憶
風が吹いていた。
インドの乾いた大地を、砂を巻き上げながら渡っていく。
その風に、声が混じっていた。遥か昔、ある男が歩いた跡をなぞるように。
「すべてのものは、生まれ、老い、病み、そして死ぬ……。だが、その先にも道はあるのだ。」
それは、真理を知った者の声。
いまや多くの人々に“釈尊”と呼ばれるその人は、かつてただの一人の王子だった。
物語はそこから始まる。
宮殿の牢獄
かすかに香の香りが漂う。
高くそびえる城壁の奥、広大な庭園と金銀に飾られた宮殿――それがカピラヴァストゥ王国の中心、王族の居城だった。
そこに暮らすひとりの青年。
その名は、シッダールタ・ゴータマ。
聡明でありながら穏やか、そして時折、遠くを見つめるような瞳をしていた。
「父上、なぜ民の暮らしを、私は見てはならぬのですか?」
それは十六の歳、父であるシュッドーダナ王に向けた問いだった。
王は答えず、ただ微笑み、言葉を濁した。
「おまえはこの国の未来を担う者だ。見せる必要のないものを見るべきではない。」
だが、彼の胸には確かに小さな「問い」の種が蒔かれていた。
それはやがて、大きく広がり、彼を王子という“牢獄”から連れ出すこととなる。
第二章:四つの出会い
ある夜、王宮の外へ忍び出したシッダールタは、四つの光景に出会った。
ひとつは、背を曲げて歩く老人。
ふたつ目は、激しい咳に苦しむ病人。
三つ目は、白布にくるまれた亡骸。
そして最後に出会ったのは、穏やかな顔をした修行僧だった。
「なぜ、この者は苦しみを超えたような顔をしているのか……」
その夜、彼の心は大きく揺れた。
宮殿の寝台に戻っても、ぬくもりある絹の布団は冷たく感じられた。
美しき妃ヤショーダラーが寄り添っても、胸の内の空洞は満たされなかった。
「私は、目を閉じて生きることを選べない……」
やがて彼は、すべてを捨てる決意をする。
文殊と普賢 ~智慧と慈悲の誓い~
大地を渡る風が、乾いた葉をさらさらと揺らしていた。
釈尊――かつてシッダールタと呼ばれた者は、晩年の旅の途上で、小さな村に足を止めた。
弟子たちが薪を集め、水を汲み、釈尊の周囲には静かな安らぎがあった。だが、その夜、彼は一人で林に分け入った。月は低く、雲の切れ間から淡い光を落としていた。
「智慧とは、ただ知ることではない。慈悲とは、ただ与えることではない……」
誰に語るでもなく、釈尊は心の奥底で自らに問うていた。
長き旅の果てに、彼の教えは多くの人々の心に根を下ろした。しかし、果たしてその根は、未来へと伸びていくのか――その不安が、老いた胸の奥に微かにあった。
そのときだった。風が止み、あたりの気配がふと変わった。
「釈尊よ、あなたの智慧は、すでにこの地に実っております」
静かに響いた声は、まるで風が言葉を得たようだった。
そこに佇んでいたのは、白い蓮の上に立つ、優雅な青年の姿。
彼は黄金の光をまとう剣を手にしていた。だが、その眼差しはあくまで穏やかで、澄んでいた。
「我は文殊。智慧をもって、人々の闇を照らす者」
釈尊はその姿に、驚きながらも不思議と安堵の色を見せた。
「知識は人を導く剣にも、また誤らせる刃にもなる。だが、おまえの智慧は澄んでいる。裁くためではなく、照らすための剣だ」
文殊は静かにうなずいた。
「されど、智慧だけでは足りぬこともある。人は理を知ってなお、苦しむ。だからこそ――」
今度は、大地が優しく震えた。林の奥から、六牙の白象が現れた。
その背には、しなやかな身をまとう青年。穏やかな微笑とともに、彼は両手を合わせ、釈尊に向かって深く頭を下げた。
「釈尊。慈悲とは、ただ優しさではありません。人の痛みを、我が身のごとく感じ、共に歩む覚悟です」
彼の名は、普賢。
あまねく世界を巡り、仏の慈悲と行いを体現する者。
「人は、知っただけでは変われぬ。されど、誰かが共に歩み、手を取り、倒れた時に支えると知ったとき、初めて歩き続けられる」
釈尊は二人を見つめながら、静かに座った。
老いた背はやや丸まり、呼吸は浅かったが、その表情は静謐に満ちていた。
「文殊よ。おまえに、智慧の松明を託そう。世界が闇に包まれても、真実を見つめる眼差しを灯してくれ」
「普賢よ。おまえに、慈悲の手を託そう。誰もが孤独に沈まずに済むよう、手を差し伸べ続けてくれ」
文殊は剣を大地に突き立て、誓いの印とした。
普賢は白象の背から降り、地に膝をついて頭を垂れた。
「仏陀よ、あなたの光を、我らが受け継ぎましょう。たとえ時が千年を越えようと――」
月がふたたび雲間から顔を出した。
その光の中、釈尊は微笑んだ。
「我が身は、やがて滅びよう。だが、智慧と慈悲の誓いがある限り、法は滅びぬ。
世界の片隅にでも、おまえたちの姿があるならば、それでよいのだ」
こうして、文殊と普賢――
ふたりの菩薩は、人々を導く智慧と慈悲の象徴として、永遠の旅を始めたのであった。




