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ヒトを改造する技術 求閒持聪明法秘伝 1  駄如求聞持明法 memorization ability and intelligent system 1

ヒトを改造する技術

求閒持聪明法秘伝

これを、

 

「求聞持聡明法」  ぐもんじ そういう

という。

超人間を、脱文明を、精神動物王国を、超ヒトを、ホモ・エクセレンスを、 ほんとうに生み出し、ほんとうにつくり出す技術体系がここにある。

古代密教、道教、ヨーガを複合した秘密技術である。

それがどのような力をヒトにあたえるものか、その実例を一つみていただこ う。

運命への挑戦

ここに一人の男がいる。

一九二年生まれであるから、今年六八歳である。

かれは、生まれつき特に強健でもなく、また、虚弱でもなく、普通人なみの 健康であった。知能も同様、特に人にすぐれたところもなく、また、特に愚劣 というのでもなかった。普通人なみの知能といえよう。

五歳のとき、サムライであった祖父から剣術の手ほどきを受け、小学校三年 の時に、講道館柔道の町道場に入門した。 一七歳の時、これらの武術にあまり熱中したため、肋膜炎になった。しかしなおも、武術の練習を止めなかった ため、翌年、大喀血をし、結核となった。かれは療養所に入ったが、当時、どこの程度の病状であったかは、ちょうどその頃勃発した太平洋戦争中、遂に一度 も召集令、徴用令が来なかったということで、大体わかるであろう。その当 時、四〇歳半ばの男性まで、戦場に駆り出されたものである。

つぎつぎと戦地に出て行く級友たちからの手紙を病床で読みながら、祖国に何も報いることのできぬ不甲斐ない自分に、かれは涙を流した。 軍務に関して、 かれは、「丙種」という最下位のランクであった。これは、当時にあっては非国民扱いされるものであった。

医師は、かれの母に、あと二、三年の生命であろうと告げた。母はそのこと かれに告げはしなかったが、かれは大体それを察していた。(この時期と、 のちに仕事に失敗した時と、合計三度、かれは自殺をはかった)

死への恐怖をまぎらすために、かれは手あたりしだいに、宗教書や哲学書を むさぼり読んだ。また、人間の運命というものに深い興味を持ち、手に入るか ぎり、運命学の書物を読んだ。

敗戦を病床でむかえたかれは、不思議に、といおうか、幸いに、といおうか、 敗戦の混乱の中で、少しずつ健康を回復していった。もっとも、のんびりと療 養生活などしていられる社会状勢ではなかったのである。飢え死にしないため に、だれもかれも、必死に働かなければならない時代であった。働くといって も、ヤミ商売でもするしかない時代であった。 今の人たちには信じ難いことで あろうが、その頃は、大学教授が、サッカリンや地下足袋を売り歩いていたも のである。

二七歳の時、かれは、酒税法違反という罪を犯し、一年間、刑獄の人となっこのことはかれに強烈な衝撃をあたえた。もちろん、だれだって刑務所に入 ることになったら平気でいられるはずはない。 しかし、かれには、特別な理由 が一つあったのである。

かれは、前に述べたように、療養中、かず多くの運命学の本を読んだ。古代 から東洋に伝わる『易経』をはじめ、西洋の占星術に至るまで、広範に及んだ。 医師の目を盗んで、熱中したものであった。数年のちには、実際に人の運命を 視る力も、かなり高度のものになっていた。自分の運命を視て、自分に「刑獄

あることを知った。刑獄の星とは、刑法にふれて刑務所に入る運命を

示す星である。かれはそれまでの経験で、運命を視る自分の力が高度のもので あり、かつ、非常に正確であることを知っていた。従って、それ以来、かれは

その事について十分に注意していたはずである。もっとも、その反面、自分が刑法にふれるようなバカなことなどぜったいにするはずがない、と信じる気持

があった。しかし、そう信じながら、かれは常にそのことに注意をはらっていた。にもかかわらず、気がついたら、かれは酒税法違反という刑罰を宣告され る身となっていたのである。ピング 対気がついたら”などと、他人ごとのように聞こえるであろうが、それがかれ の実感であった。いいわけのようにとられるであろうが、どこからそうなって しまったのか、グループで仕事をしていたのだったが、最初はだれもそういう つもりではなかったのに、いつのまにかそうなってしまったのである。 ルーズ なかれの性格にも大きな原因があった。 その自分の欠点についても自覚はして いたのだが、大体、欠点とか癖というものは、それが出ている時には、本人は 気のつかぬことが多いのである。あとから気がついて後悔するのだ。 この事で れが痛感したのは、「いくら注意していても、人間の力は運命には勝てない のか」ということであった。「運命というものは、予知していてもそれを変え ることは出来ないのだろうか」ということであった。 残 かれが運命学に興味を持った動機は、最初、人間に運命はあるのかどうか、 という疑問を持ったからであった。 人間の運命は生まれてから死ぬまで決定し

てしまっているのか、決定していないのか、つまり、人生とは偶然なのか、必 然なのかという問題の答を知りたいと思ったのである。運命学はそれにたいし 答を出すだろうと思った。

はじめ、かれは、運命が生まれつき決定してしまっているとは思わなかった。 自分の努力しだいで人生はどのようにでも変えられるものだと思っていた。と ころが結核で入院中) 運命学を研究し、その方法で自分の運命を視たところ、 自分が若くして呼吸器疾患にかかる率が九〇%以上あることを示す星を発見し

て愕然となったのである。それからかれは手あたりしだいに人の運命を視それが一〇〇〇人を越した時点で、やはり人間の運命は生まれつき決定しているのだと信ぜざるを得ぬことになったのである。

そこでかれはこう考えた。

高度の運命学を学んで自分の運命を予知し、それによってすべての不幸な出来事を避け、幸運の道だけを選んで歩んで行ったら、ぜったいに成功し、幸福人生を得られるであろう、と。それはいとも幼稚な考えである。しかし、若くして死に直面するほどの病気になるという不運に遭い、さらにこれからもい くつかの不幸に見舞われるであろうと予測されるかれにとって、これは笑えぬ真剣な考えだったのである。

この考えの一番のポイントは、予知した運命の中から、あらゆる不幸な出来 事を巧みにすり抜けて、幸運だけを見事につかみ取るという大変な能力を、い かにして持つかということであろう。そういう能力をほとんどの人は生まれつ き持っていない。ということは、そのこと自体その人間の運命なのではあるま いか。そういう能力なり素質なりを持ち得たという人は、そのこと自体がすで に運命であって、そういう運命の人は、自分の運命を変えようなどという考え など持つことなく、すばらしい人生を易々と歩んでいくのではなかろうか? つまり、運命を予知してそれを変えたとしたら、その変えたということ自体 はじめから決定されていた運命なのではないのか? だから、論理的に、運命 とは変えられないものなのだということになるのではないか? とすると、運 命を予知するなどということは無駄なことになる。いや、無駄だけではなく、

それはかえって悩みのもとになるだろう。たとえば、明日、死ぬような事故に 遭うと予知したとして、それを防ぐことがぜったいに不可能だとしたら、それ を知った男の苦悩はどんなものであろうか? いや、事故に遭うというような ことであったらまだよい(よいことはないが!)。もしも自分が殺人を犯すと 予告されたら、そしてそれはぜったいに避けることが出来ないと知らされたら いったいどうするか?

かれにはもう一つの悩みがあった。

かれは、「ガンの星」を持っており、四八歳から四九歳にかけて、「天命殺」 という凶運期に発病する恐れがあったのである。現にかれの妹が、二六歳の若 さて、「膵臓ガンで亡くなっていた。彼女の発病直後、医師の診断以前に、 かれは、彼女にガンの星のあることを知って、母に告げていたのである。しかまさか二六歳の若さでガンになるとは考えられなかったので、一〇年後の、

次の「天命殺」がその時期と考え、いずれ三〇歳になったらそれを本人に告げ、

定期検診や食事のとり方など、教えてやろうと思っていたのである。

それが間に合わなかった。そこにもかれは運命の絶対的な力を感じたのであ ったが、その妹と同じ星を、かれは持っているのである。かれは、それを予知 したことにより、これを十分に防ぐことが出来ると考えていたのであるが、も しもそれが出来ないとすると、 かれは、頭をかかえた。

一〇歳代で結核という難病にかかり、二〇歳代で前科を持ち、四〇歳代でガ になって生涯を終わる、ということになったら、一体、おれの人生とは何ん なんだ。そうかれは叫びたかった。

どうあっても、人間は運命に勝つことは出来ないのか?

かつて読んだギリシア悲劇をかれは思い浮かべた。

ソフォクレスの「オイディプス』をはじめ、ギリシア悲劇のテーマは、すべ て、過酷な運命の力とたたかって敗北する人間の宿命の悲劇であった。意 すると、古代の天才たちもおなじことを考え、正しい答を出していたのであ

長い苦悩の末、かれはついに決意した。 運命へ挑戦することにしたのである。 かれは、これからの自分の人生のテーマを、これ一つにしぼることにした。 運命を変える!

たとえ敗北したにせよ、それは壮烈かつ華々しいたたかいになるであろう。 金銭や名声に挑戦して敗北するよりも、それはすくなくともすがすがしい。 そ れにまた、考えてみると、一人の人間の運命を変えることは、人類すべての運 命を変えることであり、人類すべての運命を変えることは世界の歴史を変え ることである。すでに予測されたこれから先のかれのあまりぞっとしない人生 のことを考えると、そこには、壮大きわまりないユメがある。かれは、すでに 前科を持った瞬間から、世俗的な出世とか成功というものを、一切あきらめてしまっていたのである。

運命を変える方法があるとしたら、それは、宗教にしかないであろうとかれは考えた。かれはそれまでにかず多くの宗教書を読んでいたが、いくつかある宗教の中で、仏教にそれがあると思った。仏教の目標は「解」であるが、

 

 

Technology to modify humans

The secret of how to gain understanding

this,

 

“Gumonji Somyoho” Gumonji That’s it.

That’s what it means.

Here is a technological system that will truly produce and truly create superhumans, post-civilization, the spirit animal kingdom, superhumans, and homo excellence.

It is a secret technique that combines ancient esoteric Buddhism, Taoism, and yoga.

He would like to see an example of what kind of power it gives to humans.

Challenge to destiny

There’s a man here.

He was born in 192, so he is 68 years old this year.

He was not born particularly strong or frail, and was in good health on par with the average person. He was neither intelligent nor particularly good at people, nor was he especially stupid. It can be said that he is as intelligent as a normal person.

At the age of five, he received instruction in swordsmanship from his grandfather, who was a samurai, and in the third year of elementary school, he entered the local Kodokan Judo dojo. When he was seventeen years old, he became so enthusiastic about these martial arts that he developed pleurisy. However, he still did not stop practicing martial arts, and the following year he coughed up a lot of blood and developed tuberculosis. He entered a sanitarium, but the extent of his illness at the time can be roughly gauged by the fact that during the Pacific War, which was just around the time that the Pacific War broke out, he never received a draft or conscription order. At that time, even men in their mid-40s were sent to the battlefield.

As he read letters on his sickbed from his classmates, who were going off to war one after another, he shed tears at how worthless he was, unable to give anything back to his homeland. In terms of military service, he held the lowest rank of “Class C”. This was considered unpatriotic at the time.

Doctors told his mother that he likely had two or three years to live. Her mother didn’t tell her boyfriend about it, but he pretty much figured it out. (He attempted suicide three times, during this period and later when he failed in his work.)

To allay his fear of death, he devoured whatever religious and philosophical books he could get his hands on. He also had a deep interest in human destiny and read as many books on fate as he could get his hands on.

He faced the defeat in his hospital bed, but miraculously, or should I say fortunately, amidst the chaos of defeat, he gradually recovered his health. However, the social situation was not one in which he could live a leisurely life of medical treatment. It was a time when everyone had to work hard to avoid starving to death. There was a time when he had no choice but to work or engage in black market business. It may be hard for people today to believe that he was a man, but back then he was a university professor who was peddling saccharin and jikatabi.

At the age of twenty-seven, he committed the crime of violating the Liquor Tax Law and was imprisoned for a year, which had a strong impact on him. Of course, no one can stay calm if they end up in prison. However, he had one special reason.

During his recuperation, he read many books on fate, as mentioned above. It covers a wide range of subjects, from the I Ching, which has been passed down to the East since ancient times, to astrology in the West. I was so passionate about it that I didn’t notice the doctor. After a few years, his ability to actually see people’s fate had become quite advanced. Look at your own fate and say to yourself, “Prison.”

I learned something. The Prison Star is a symbol of one’s destiny of going to prison by violating the criminal law.

It is a star that indicates He knew from his previous experience that his power to see destiny was both highly advanced and extremely accurate. Therefore, since then he

He should have been careful about that. However, on the other hand, he believes that he would never do something stupid that would bring him into violation of the criminal law.

was there. However, even though he believed this, he was always careful about it. Nevertheless, before he knew it, he had been sentenced to prison for violating the Liquor Tax Law and was on his way. It may sound like someone else is talking about it, but that’s how he really felt.It may be taken as a good excuse, but I don’t know where it came from. At first, no one had intended it to be that way, but before they knew it, it had become what it was.Luz’s personality was also a major cause.He was not aware of his own shortcomings. However, in most cases, people are not aware of their flaws or habits when they appear.They only realize it later and regret it.This made me keenly aware. The question was, “No matter how careful we are, human strength cannot overcome fate.” The question was, “Even if we have predicted fate, is it still possible for us to change it?” The reason he became interested in fate was that he initially wondered whether humans had a destiny. A person’s fate is determined from birth to death.

He wanted to know the answer to the question of whether he is determined or undecided; in other words, is life a coincidence or a necessity? I thought fate science would provide an answer to that question.

At first he did not believe that his destiny was determined by birth. He believed that his life could change in any way depending on his efforts. (He was hospitalized with tuberculosis when he was younger) He studied fate, and when he used that method to view his own destiny, he discovered a star that showed that he had a 90% or more chance of contracting a respiratory disease at a young age. discovered

He was shocked. From then on, he began to see the fates of people at random, and when he saw more than 1,000 people, he was forced to believe that the fate of each person was determined by birth. be.

So he thought this way.

If you study advanced fate and predict your own destiny, thereby avoiding all unfortunate events and choosing only the path of good fortune, you will definitely succeed and live a happy life. and. That is a very childish idea. However, for someone who had the misfortune of falling ill at a young age and who was predicted to have many more misfortunes in the future, this was a ridiculously serious thought.

The main point of this idea is that he has the extraordinary ability to deftly bypass all kinds of unfortunate events and seize only the lucky ones out of the predicted fate. Probably. Most people are not born with such abilities. So, that in itself is the fate of that person, so what about him? People who have such abilities and qualities are already destined to live a wonderful life without thinking of changing their fate. In other words, if you predict your fate and change it, isn’t that change itself a fate that was determined from the beginning?So, logically, fate is different from fate. Doesn’t this mean that it is impossible to predict one’s fate? In that case, it would be pointless to try to predict one’s fate. No, it’s not just wasteful,

That would be a source of trouble. For example, if a man predicted that he was going to have a fatal accident tomorrow, but it was absolutely impossible to prevent it, what would be the agony he would feel if he knew that? It would be better if it was about him (though it’s not a good thing!). What would he do if he was told that he was going to commit murder, and that it was completely inevitable?

He had another problem.

He had the “Star of Cancer” and was at risk of developing the disease during the bad luck period of “Death’s Death” from the age of 48 to 49. In fact, his younger sister had died of pancreatic cancer at the young age of twenty-six. Immediately after her onset of the disease, and before the doctor’s diagnosis, he learned that she had cancer and told his mother. However, I never thought that I would get cancer at the young age of 26, so 10 years later,

Thinking that the next “Death of Destiny” will be the time, I will tell him about it when I turn 30.

He wanted to teach her about things like regular check-ups and how to eat.

It didn’t arrive in time. He went there because he felt the absolute power of destiny, and he has the same star as his sister. He thought that he could sufficiently prevent this by foreknowing it, but if he could not, he was puzzled.

If I were to contract an incurable disease called tuberculosis in my 10s, have a criminal record in my 20s, and end my life by becoming a moth in my 40s, what would my life be like? What is he? He wanted to scream.

No matter what happens, can humans never win against fate?

He thought of a Greek tragedy he had read.

The theme of all Greek tragedies, including Sophocles’ Oedipus, was the tragedy of the fate of humans who struggle against the harsh forces of fate and are defeated. I thought about it and came up with the correct answer.

After a long struggle, he finally made up his mind. He decided to challenge fate. He decided to narrow down the theme of his life from now on to this one thing. Change your destiny!

Even if we lose, it will be a fierce and spectacular struggle. It’s at least more refreshing than trying for money or fame and losing. Also, if you think about it, changing the fate of one person means changing the fate of all humankind, and changing the fate of all humankind means changing the history of the world. When I think about the not-so-horrible life he will have in the future, which has already been predicted, there is a dream of the utmost grandeur. From the moment he had a criminal record, he had given up all hope of worldly advancement or success.

He thought that if there was a way to change one’s destiny, it would be through religion. He had read many religious books up until then, and among the several religions he thought Buddhism had it. The goal of Buddhism is “solution”, but

大日如来 すべての生き物の根本となる仏

大日如来

すべての生き物の根本となる仏

 

 

大日如来(だいにちにょらい)とは?

大日とは「大いなる日輪」という意味です。太陽を司る毘盧舎那如来がさらに進化した仏です。密教では大日如来は宇宙の真理を現し、宇宙そのものを指します。また、すべての命あるものは大日如来から生まれたとされ、釈迦如来も含めて他の仏は大日如来の化身と考えられています。

 

大日如来には悟りを得る為に必要な智慧を象徴する金剛界大日如来と、無限の慈悲の広がりを象徴する胎蔵界大日如来という2つの異なる捉え方があります。金剛とはダイヤモンドのことを指し、智慧がとても堅く絶対に傷がつくことがないことを意味しています。また、胎蔵とは母親の母胎のようにすべての森羅万象が大日如来の中に包み込まれている様を意味しています。この2つが揃って大日如来を本尊とする密教の世界観が出来上がるのです。

ご利益

現世安穏、所願成就。また、未・申年生まれ守り本尊です。

大日如来(だいにちにょらい)の像容

本来、如来は出家後の釈迦の姿をモデルとしているため装飾品は身に付けていませんが、大日如来だけは別格で豪華な装飾品や宝冠を付けています。また、螺髪(らほつ)ではなく、髪を結い上げています。

 

金剛界、胎蔵界の姿でそれぞれ印の形が違います。金剛界の大日如来は、左手の人差し指を立て、その人差し指を右手で包みこむ智拳印の印相をしています。一方、胎蔵界の大日如来は、腹の前で両手の全指を伸ばして組み合わせる定印です。

勢至菩薩 偉大な智慧の光を持つ菩薩

勢至菩薩(せいしぼさつ)、梵名マハースターマプラープタ (महास्थामप्राप्त [mahāsthāmaprāpta])は、仏教における菩薩の一尊。「大勢至菩薩」、「大精進菩薩」、「得大勢菩薩」の別名がある。現在日本では年の守り本尊、十三仏一周忌本尊として知られている。三昧耶形は未敷蓮華(ハスの蕾)。種子(種子字)はサク(सः saḥ)。

 

 

勢至菩薩

偉大な智慧の光を持つ菩薩

勢至菩薩(せいしぼさつ)とは?

正しくは大勢至菩薩といいます。智慧の光ですべてのものを照らし、人々を迷いや苦しみから救うとされています。大勢至菩薩と表記されることもあります。智慧とは物事のあり方を正しく見極める力・判断力を意味します。

 

阿弥陀如来の右脇侍として観音菩薩と共に三尊で表され、独尊で祀られることはほとんどありません。

 

浄土信仰の高まりとともに流行する来迎形式の阿弥陀三尊の場合、観音菩薩が死者の霊をのせる蓮台を持ち、勢至菩薩が合掌をする姿でつくられます。その姿勢は、立像・坐像のほかにひざまずいた姿の跪像もみられます。

ご利益

智慧明瞭、家内安全、除災招福のご利益があるとされています。午年の人々を守る守護本尊であり、午年に生まれた人々の開運、厄除け、祈願成就を助けるともいわれています。

勢至菩薩(せいしぼさつ)の像容

手を合わせているか水が入っている水瓶(すいびょう)を持っている姿が一般的です。

 駄如求聞持明法 memorization ability and intelligent system

ヒトを天才にする求聞持聡明法

 

駄如求聞持明法 memorization ability and intelligent system

ヒトを天才にする求聞持聡明法
求間持聡明法は、ヒトを聡明にし、天才にするという真言密教に伝わる秘法である。
弘法大師空海が、若くしてこれを修し、大天才となったということで、夙に知られてい
る。また、新義真言宗の開祖、興教大師覚鏝(一〇九五1一一四二)が、七度、この法を
修して成功せず、八度目に悉地を成じ、成功したと伝えられる。覚鏝上人ののこされた業
績をみれば、上人もまた天才でめったことは疑いない。ただ残念なことに、四十八歳で亡
くりれている。
真言密教の求聞持聡明法には、三種の法がある。
虚空蔵求聞持
観音求聞持
如意輪求聞持
であるが、ふつう、求間持法といえば、空海が修して有名な虚空蔵求間持をさす。この
つぶさ    ぶつせつこくうぞうほさつのうまんしよがんさいしようしんだら・にぐもんじほう
法を、具には「仏説虚空蔵菩薩能満諸願最勝心陀羅尼求聞持法」という。
しかし、わたくしがこのたびこの本で発表する求聞持聡明法は、これらのいずれでもない。わたくしが独白に創成した求聞持法で、わたくしはこれに、だとによい
駄都如意求聞持聡明法と名づけた。
この駄都如意求聞持聡明法は、真言密教につたわる求聞持法とはまったくちがうものである。
二つの特徴がある。
それは、
一、クンダリニー・ヨーガのチャクラを覚醒して、超人的千不ルギーを発生させる。
二、その超人的干1 ルギーを、中国・道教につたわる導引・気功の持つ生気ルートに
のせて、体の各要所、要部にめぐらせ、行きわたらせる。殊に、大脳の中枢である間脳・視床下部に送りこむ。
この二つの方法を、独特の方法で完成したのである。これは、前人未踏の領域であるといってよいであろう。わたくしは、半生を、というより、一生をこの法の完成に注いだ。いまから約二〇年前に発行した『変身の原理』以来、わたくしの著書はこの本で四〇冊になるが、それらの著書のすべてが、この法の完成に至る道のりをあらわしたものであるといってよい。
わたくしは、この本で、わたくしの得たほとんどのものを、出来るかぎり、明らかにした。クンダリュー・ヨーガも、道教の導引・気功も、いずれも超人的能力を獲得するための
最高の法である。この世界にこれ以上の超能力開発法ぱない。この二つの法の欠陥を補正して融合させ、さらにあらたな創案をくわえて完成したこの駄都如意求聞持聡明法は、ヒ
トにおける究極の超能力開発法であると自負するのである。
もちろん、。後世おそる、べし”という諺の通り、今後、これ以上の超能力開発法も出るかも知れないが、しかし、それも、クンダリュー・ヨーガと導引・気功を融合させたこの駄
都如意求間持聡明法のライン以外のものではないであろうと確信している。
この法を、指導通りに修行するならば、確実に、ヒトの知能は二倍に、体力は三倍に飛躍強化されるであろうことを断言する。

天才は不老長寿でなければならない

求聞持聡明法は、たしかにヒトを天才にする。
しかし、いくら天才になっても、そのために、病弱になったり、若死にしたりしたのでは、なんにもならない。天才は、いつまでも若々しく、健康で、世のため、人のため、その才能を発揮するもの
でなくてはならない。(寝たっきりの天才など、まっぴらである)
求聞持聡明法修得をこころざしたわたくしは、つねに、四十八歳という惜しむべき短命に終わった興教大師党員上人が念頭にあった。上人は、おそらく、過酷な求間持法修行のため、法は成就したものの、体を痛め、寿命を損じたのにちがいなかった。
このことは、年少、結核を病んで何年も病床に伏した苦しい経験を持つわたくしにとり、その恐れの念が特に深刻であった。
しかし、この憂慮は、幸いにして杷憂におわった。
道教の導引・気功の秘法をとり入れたことが、この心配を吹きとばしてくれたのである。
すなわち、道教の導引・気功は、仙道の流れを汲むものである。そして仙道の理想は、不老長寿、生きながら神仙に化することを目標とする。
駄都如意求聞持聡明法は、特に不老長寿を目ざすものではなかったのだが、結果はそうなってしまったのである。
期せずして、仙道の理想が実現されることになったのだ。
神仙に化することだけはちょっとむずかしいが、不老長寿はかならず達成される。 わたくしぱ断言してよい。仙選の秘法がとり入れられているこの駄都如意求聞持聡明法
は、二十歳代の人ならば、三歳から五歳、中年以上の人ならば、十歳から十五歳、若返ることができるであろう。

あなたが高年者として修行に入り、年齢のために天才になれなかったとしても、いつまでも若々しい肉体と、そして決してボヶることのない求聞持脳だけは獲得できるであろう。
『求聞持聡明法秘伝』平河出版社刊。まえがき”より

「等価変換展開理論」

そんなことがほんとうにできるのか? いったいどうやってそんなことができるのだ、と。
それもたしかにもっともなことで、私自身、身をもってこの密教の秘密に挑戦し、自分でこの
技術を解明するまでは、ぜったいに信ずることができなかった。私は単身、五〇〇〇年の間秘密
のヴェールにつっまれてきたこの不思議な技術にいどみ、その秘密を解いた。それは、信ずるこ
とのできないほど精緻微妙な生化学に立脚したおどろくべき技術の応用であった。
たとえば、
さきにもちょっとふれたが、市川亀久弥博士は、最近の著作のなかマ(≒柚計器)お得意の
「等価変換展開理論」にもとづき、イモ虫からサナギヘの変化を例にして未来社会への脱皮を説
いておられる。この理論はまことにみごとで、まさにほれぼれするほどあざやかである。こと
に、イモ虫がサナギに変身する理論的うらづけは、近来しきりに輩出する未来論のなかで、まさ
に出 色のものであるというべきである。
ただ、まことに残念なことに、それは理論と説明と期待にとどまり、それをいかにヒトに応用
して実現させるかという方法を示していない。それは、もちろん、氏自身、同書のはしがきのな
かで、これは、″単に人類のあるべき未来社会に関するソフトーウェアの主張の範囲にとどまる
ものである”とことわり、この。ソフトーウェアに対するハードーウェアの具体的な提唱″は
″旺い将七に公長する~定である″ということであるから、われわれはまさに刮目してそれを待、ぐに、その″ソフトーウにアに対するハード・
ウェアの具体的な技術″を持っているのである。密教は、その持つ技術のひとつに、この市川理
論の「イモ虫からサナギヘの脱皮」技術を持っていて、数千年も前から、それをヒトの変身技術
に応用、実践していたのである。
密教は、現代の創造理論の大家が提唱する未来に関する花形理論を、とうに実践していたので
ある。五〇〇〇年も前にI。
地を這いまわることしか知らぬ生物であるイモ虫が、サナギになり、そして、空を舞う生物に
変身することは、二次元の世界に生きる生物が三次元生物に変化したことを意味するものだ。密
教がおなじ技術をもってヒトを変身させることは、三次元生物であるヒトをそれより上の次元に
飛躍させることを意味する。密教の変身技術はそれなのである。その生物の次元を変えてしまう
のだ。
しかも、それは、今までいわれてきたように、ただ神秘的、神がかり的なアイマイな方法でな
く、適確な生化学の技術をもっておこなうのだ。そうしてそれは密教の持ついくつかの技術のな
かのひとつに過ぎない。
いったい、どんな智恵がそれをなしとげていたというのであろうか? 密教の技術を神秘とい
うのなら、その点をこそ神秘というべきだろう。しかし、それは、それこそまさに数千年生え出
現した超・ヒトが、孤独にたえつつ、その持つ人類最高の智恵「照明智」を駆使してつくり上げ
た未来人のためのカリキュラムにほかならぬのだというよりはかないであろう。

さて、それでは、密教の技術に関係のある市川理論「等価変換展開理論」とはどんな理論か?
それがどのように密教の技術と関連があるのか?
それを説くまえに、もう少し知っておいていただかねばならぬことがある。
ここで、私は、密教とヨーガという二つのことばについて述べておかねばならぬと思うのだ。
拙著「変身の原理」で、私は、密教についてっぎのように述べた。少し長いが引用してみる。
『真言宗という宗派仏教と、密教すなわち秘密仏教とは、ふかいつながりかおる。だが、それは
どこまでもふかいつながりという関係であって、普通考えられているように、密教即真言宗、真
言宗即密教というものではないのである。
真言宗とは、インドにおいて発生し、大成した密教を、ああいう独白の形に体系化し、組織化
したものであって、密教そのものではないのである。密教のひとつの体系ではあるけれども、密
教そのものではない。
それは、それまでにほぼ完成していたけれども、分派し、多様化していたインド密教を日本密
教の開祖空海が、独自の見識と叡智によって、ひとつの体系につくりあげたということである。
おなじように、天台宗においても、天台密教というひとつの密教体系を組織完成しており、こ
れもまた、密教のひとつの流れということである。
そういうわけで、密教というものを正しく理解するためには、どうしても、]度、密教の原点
に立ちもどって考えてみなければならないのである。
密教は、最初、ひとつの手法(技術)であった。
けっして、最初から密教というひとつの宗教があったわけではない。
ゴータマーブッダがあらわれて、仏教というあたらしい教えを説きはじめるはるか以前、バラ
モンの時代から、インドには、入に超能力をあたえるひとつの手法があった。そういう手法が完
成されて、一部の人たちの間につたえられていた。それは、精神と肉体のきびしい錬磨から得ら
れる神秘的な力で、彼らは、それを、ひとつの技術にまでっくりあげていた。
われわれは、その流れのひとつを、現在、ヨーガのなかに見ることができる。(ただしそれは、
いまの日本で行なわれているアクロバティックな体操のヨーガではない。ヒマラヤの奥地の聖者
たちの間に伝承されている正統ヨーガである)
ヨーガは、その手法のひとつの流れである。この超能力を開発する技術は、仏教があらわれる
以前においてはバラモンにとり入れられ、仏教があらわれると、仏教もまたこれをとり入れた。
ゴータマーブッダは、かれ自身、この手法をまなんで、これにより超能力を持ったが、弟子た
ちにはこれを学ぶことを禁じた。なぜかというと、この技法によって多少の力がつくと、かれら
はすぐにそれがブッダのいう「ホトケ」という境地に達したものと考えてしまい、修行のさまた

げになるからであった。
ただし一部の、素質のきわめてすぐれた弟子たちには、ひそかにこれを許した。
ゴータマーブッダは、普通、神秘的な力を信じたり、修行者がそういう力を持つことを願った
りするのを全く禁じたというように、仏教学者や仏教者は信じているようであるが、それは間違
いで、ブッダ自身、神足({乱石の教理、すなわち、仏道を完全に成就するためには超自然的な
力が必要であるとし、超人間的な能力開発の訓練法を説いているのである。これは、パーリ文献
によって容易に証明することができるのである。(略)
それによると、それは、″四神足“または、″四如意足″ともいわれる超能力開発法である。
ブッダは、菩提を成就するためには、単に、知性や理性をみがくだけでは不十分であると考
え、知性や理性の限界をうち破る力が必要であると考えた。
そのために、彼は、そういう力を開発するための行法をつくりあげた。それは、彼が学んだ超
能力開発法を加えて編成したものと見てよいであろう。
それは、三十七種の技法から成り立つもので、四神足というのは、その中心になる技術であ
る。神通、如意を得るための定を、四種類の手法に分けて説明している。
欲神足(願望、理想、創造のためのアプローチ)
勤神足(体と心のトレーニング法)
心神足(潜在意識のトレーニング法)
観神足(深層意識のトレーニング法)
きづまりを打破するために、大乗仏教のなかにとり入れられて体系化され、密教と呼ばれになったのである。いうわけで、密教は二つの面を持っている。
一つは、超能力の開発技術
一つは、大乗仏教の教義
この二つである。
この二つのものがむすばれることにより、大乗仏教よりさらに高度の教義が完成されて、「金
剛大乗」と呼ばれる新しい仏教が誕生した。これが密教である』
-との引用の文章でわかるように、「変身の原理Lにおいて語られている「密教」というコ
トバは、「秘密仏教」という意味での「密教」である。仏教のなかにとり入れられた、いわゆる
真言密教、あるいは真言宗密教の密教である。
しかし、本書において私がいう「密教」は、それらの密教、「変身の原理」のなかで使われて
いる密教とは全くちがうものであることを、読者はご承知ありたいのである。

本書における「密教」とは、真言密教以前、いうならば仏教にとり入れられる以前の、いや、
バラモンにさえもとり入れられる以前の、引用文でいえば4  R教は最初、ひとつの手法(技術)であった。ゴータマーブッダがあらわれて、仏教というあたらしい教えを説きはじめるはる
か以前、バラモン時代から、インドには、入に超能力をあたえるひとつの手法があった。そういう手法が完成されて、一部の人たちの間につたえられていた。それは、精神と肉体のきびしい錬磨から得られる神秘的な力で、彼らは、それを、ひとつの技術にまでっくりあげていた。と
あるその「技術」、つまり、いうならば、″古代マーガ″と″真言密教″と、この二つを結合したものであると承知していただきたいのである。即ち本書でいう密教とは、ヨーガと真言密教と、
この二つをむすびつけて生まれた新しい技術であるということである。
なぜ、そういうことをしなければならなかったのか、というその理由を語ることはそのまま、密教の法を解説することにもなるので、読者はここのところをよく知っておいていただきたいのである。
引用文のなかにしるされているごとく、行きづまった大乗仏教は、ヨーガの技術にその打開の道を求めた。さきの頃で述べたごとく、精神の高度の飛躍は、その前提に、感覚器官の高度の増幅がなければならぬ。しかし、大乗仏教には教えだけあって、なんの技術もない。大乗仏教という教えであり、教えをあきらかにするだけのもので、技術というべきものはなんにもない。つい
に行きづまることは当然であり、やがてヨーガの技術に救いをもとめるのはさらに当然というべ
きことであった。
かくして、金剛大乗、真言密教が生まれた。ヨーガには、さきにあげた通り、ジョルジューオリヴィエ教授の表現を借りていえば、五つの能力開発技術がある。それは、①第四次元の理解、合複雑な全体をとっさに把握する能力、③第六感の獲得、④無限に発展した道徳意識、⑤とくに
われわれの悟性には不可解な精神的特質、というものであるが、これらの能力開発の技術は、それがそのまま大乗仏教にとり入れられたわけではない。おのずから、ひとつの偏向傾斜があった。
それは当然のことで、大乗仏教の指導者たちは、この技術を彼らの信奉する仏教教義とその目的に沿って取り入れた。一般的でないと思われる技術は捨てられ、あるいはごく一部の指導者にだけつたえられ、あるいは変形された。こうして秘密仏教というあたらしい教義と体系が完成した。しかし、多くのすぐれた開発技術は、この仏教教義を完成させるための補助的技術に変容さ
せられてしまった。あるいは形骸だけがとどめられた。これが、秘密仏教の「行法」であった。
これを究極的に完成したのは、日本密教、すなわち真言宗の開祖空海であった。秘密仏教がインドから中国につたえられ、そのころ中国にわたった空海がそれに接した時点において、秘密仏教はまだ完全にはできあかっていなかった。その混沌たる素材を取捨選択して、これをいま見る
真言宗というかたちにまとめ上げ、整然たる宗教にしたのは空海であった。それはまさに大天才のみがなしとげることのできる偉業であったが、同時に、秘密仏教はあまりにも整然と様式化された日本的なものになってしまった。それまでかなり残っていた密教的な部分はほとんどかげにかくれ、一-法」は、様式化された宗教儀式になってしまった。
しかし、それは、当時の目本の国情や、文化水準を背景にしたとき、やむを得ないことであったのである。というよりもむしろ当然であったというべきだろう。そうしなければ宗教として存
立することができなかったのである。
だが、そのために、いまいった通り「法」はその力を失った。宗教的に様式化され、儀式化されてしまった「法」では、真の能力開発は困難である。というよりもそれは絶望に近い しかし、それはそれでいいのだ。真言密教というものが、宗教であって能力関発の技術ではな
く、仏教という信仰のワクのなかで教えを説き礼拝をつづけているだけでよいなら、それはそれでいいだろう。それに、ほとんど儀式化された「法」であっても、天分のある才能が懸命の努力を集中するなら、「法」の成就も不可能ではない。やってやれないことはないのである。けれども、それは何世紀にひとりというような稀有の才能を必要とするのではないのか。そういうすぐれた頭脳によれば、様式化された法のあとをたどって、ついにその源泉に到達し、そのなかに秘められた法の技術を発見し、体得することもできよう。あるいはまた、頭脳ではなく、熱烈な信仰が、そこへ導いていってくれることもあるかも知れぬ。だが、それは、万人に期待できることではない。
要するに、真言密教成立の当時と全く時代が変ってしまった現在、真言密教が、他の宗教と根本的にちがうその本来の任務をほんとうに果たそうと思うならば、真言密教は大吝く変わらねばならぬ。真言密教はナみやかにその原点に立ちもどり、「法」を技術としてシステム化しなければならぬ。そうして、だれでもが平易にまなべる体系を編成ナることである。
それは決して「法」を解体し、「法」を壊滅してしまうことではない。むしろ、そうすることによって法が生きるのである。また、それは決して宗教の解体ではない。
法によって高い知的能力を得たならば、人はおのずから高い道徳意識、倫理観を持つものである。

人が宗教的教えを必要とナるのは、知的能力が低いからである。要するに、愚かだからである。人の道徳意識が低いのは、知能、精神能力が低いからだ。ほんとうに知能が高くなれば、人は、いま人類の持っている程度の宗教意識などけるかに超えたもっと高い倫理観を持つ。オリヴイエ教授のいう「無限に発展した道徳意識の保有」である。
教え(宗教)による人類の道徳意識の開発は、すでに限界に達してしまっている。
見よ。

地上にあまねくくりひろげられている人類のこの大愚行を。殺し合い、奪い合い、罵り合い。
どこに「知恵あるヒト」のおもかげがあるか? 「大愚人類」そのものではないか?
要するに、バカにいくら結構な教えを説いてもだめなのだということだ。
もっと忌憚なくいわしてもらうならば、(これは私がいうのではない。みんな密教の神サマが
おっしやるのであります)ちっとましなバカが、しょうのないバカに一心に教えを説いているというのが、いまの宗教のすがたというものではないのか?
宗教だけではない。科学と技術だってそうではないか。見さかいなくいい気になっていろんなものをつくり出し、あとで公害だ有害物質だと困っている。こういうおろかなことは、もう少し人類の知能が高くなったら、そんなバカなことはたのまれなくともしなくなる。要するに知能が低いからだ。
政治も、経済、思想も、みんなそうだと、あなたは真実思わないか?
要するに、すべて、″ヒトの知能が低い″ことに原因があるのである。
この世界を住みよく、たのしいものにするのには、革命ごっこよりもなによりもまず、ヒトの知能を高めることだ。そう、あなたは思わないか?
さて、話をもとにもどそう。
教えの限界とはヒトの知能の限界だ。
密教はその限界をうち破るのである。
技術によって超能力をあたえ、いっきょにヒトを改造して、宗教などという低い次元をいっぺんに飛び越し、想像を絶する叡智を持った、高い倫理的生物をつくり出そうというのだ。
それが、密教だ。
求闘持法《明星》の秘密

私はこのことを念力の護摩の修得に際してさとった。
先年、私は、念力の護摩法の伝授を受け、悉地成就の修行に入った。けれども、その行法の次
第を、何十ぺん何百。へんくり返しても、念力の火は出なかった。煙さえたちのぼる気配はなかっ
た。私かそのままその法の次第を忠実にくりかえしていたら、永久に念力の火は出なかったであ
ろう。出るはずがないのである。念力の護摩法の次第を、いくらくりかえしたって火は出ない。
そんなことで出るのだったら、今日までに、何百人、何千人の阿闇梨が念力の護摩を焚いていた
だろう。真言密教の念力の護摩法だけでは、ぜったいに火は出ない、それは、密教の技術によっ
て、サマーナ気を克服したとき(274頁参照)、はじめて肉体から火焔を発することができ、念力の
護摩は完成するのである。絶望した私は真言密教をはなれ、身を転じて古代インドの秘密経典に
むかった。
私はそこでインドの聖典、バガヴァットーギータを続み、そこに念力の護摩の秘法がかたられ
ていることを知った(口絵写真参照)。そこから、ギータと不二の関係にあるヨーガに入った。ヨ
ーガに本当の念力の護摩があることを知った。ヨーガにおける私のいのちがけの修行がはじまっ
た。ヨーガの技術でなければ念力の火は出ないことがわかったからである。真言密教の念力の護摩法次第は、ほんの心おぼえ程度のものに過ぎず、これでは、だれがどうしたって火の出るはずがなかった。いや、この肉体が火となるための「法」としては心おぼえ程度のものですらなく、むしろ、バガヴァツトーギータの聖句のほうが、はるかに示唆に富んでいるといえた。ヨーガの念力の護摩は、ただ単なる観想の羅列ではなく、どの生理器官をどのように統御しどのように動かすという現実的具体的な「技術」があった。この技術によってトレーニングすれば、多少なりと素質のある者だったら、必死の修行によって念力の火を出すことは不可能ではない。真言密教の念力護摩法次第だけでは、大天才といえども不可能にちかい難事である。この秘密を知らずして、古来、いく人の密教修行者が、念力の護摩の次第と秘伝を前に、血と汗の絶望をくりかえしたことであったろう。思えばツミな″次第″である。
これと全くおなじことが、真言密教につたえる「求聞持聡明法」についてもいうことができる。求闘持とは、古書に、『見聞覚知のことを憶持して長く忘れず、師なくして天地の感応を待つ、これを″求″といい、教なくして真如妙理を覚る。これを″聞″といい、一度覚るとながく忘れない、
これを″持″という』とあるように、求闘持法とは、ヒトの大脳を強化して、博覧強
卸、比類なき記憶力と聡明さをあたえる秘法であるが、これをなん十。へんなん百ぺん行法の次第通りに修行したところで、その結果は、おそらく念力の護摩とたいしてかわらない結果におわるであろう。生命を賭して修法すれば、多少の効果はあろうが、宗祖が体験を以て示したような霊験を得ることはまず難い。なぜならば、真言密教の「虚空蔵菩薩求聞持法」には印信観想による
精神集中の「法」はあるけれども、現実に生理器官である大脳皮質そのものを動かす「技術」を持っていないのである。ヨーガの「聡明法」は、どの器官をどう使ってどのように大脳皮質を動かすかという「技術」がある。また、それだけではない。根本的にちがうものがあるのである。
’それは、まったく根本的にちがう。
拙著「変身の原理」で求闘持聡明法についてかたって以来、私は、十指を越える真言僧侶、阿閉梨がたから、手紙あるいは直接、この法の修行について相談をうけた。そのほとんどは、自分も一度ないし数度にわたって求聞持法を修したが、いっさい効験がみられなかった。修法の行じかた、あるいは心構えに越法のところがあったのであろうかというのであった。また、何度か修してみて、あの行法にそんな神秘的な力がひそんでいようとは思われぬというものがあった。なかにはお気の毒にも健康を害してしまって、再起不能になったと訴えてきた阿閉梨もおられた。
お気の毒であるが、当然なのである。
真言密教の阿開梨がたが、いくら求闘持法をくりかえしても、成就できないのは当然なのである。もちろん、絶対に、とはいわない。万人に秀いでる天才、英才であったら、その極に達することができるかも知れぬ。しかしまず、不可能にちかいというべきだろう。
私か発見した密教の「求闘持法」でなければ、まず不可能にちかいといってよいであろう。こ
の法については章をあらためてくわしく書くが、ここで、求聞持法の秘密の一端を明かそう。まず、最初、真言密教の求聞持法を述べてみる。
『比の法を修するには、東南西三方の晴れたるところを最上とする。東方のみでも悪くはない。

道場の東壁に小窓をつくる。これは虚空蔵の似沢である明星の光を道場にさし入れるためである。また、朝日夕月の光を本尊にあてる意もあり、あるいは小窓に絹を張り、黄色の種字の字を書いて、そこから、明星の光をとおして本尊にあてるためでもある』
とまず場所を制定し、つぎに、さだめられた本尊の印明を百万べん、五十目あるいは百日に読誦するのであるが、日蝕または月蝕の時に結願するよう開白(はじめること)しなければならぬとある。
けれども、密教の求聞持法では、べつに場所はえらばぬのである。静かな場所でありさえすればよい。また、いつはじめてもよいのである。明星を拝するのも、行のはじめに際して、あるひととき、星と月に対すればよいのである。
また、これこそが密教のもっとも奥義とするところなのだが、弘法大師空海は、求聞持法の成就の体験を、
『―阿国大滝の岳にのぼりよじ、土州室戸の崎に勤念ナ。谷響を惜しまず、明星来影す。
言々』
と語っている。すなわち、阿波の大滝にのぼり、土佐の室戸岬でこの法の修行にはげんだところ、谷はこだまし、明星があらわれるなど、法にいわれている通り現証があり、法が成就した、
というのであるが、これは、空海のひとつの表現であって、これをそのまま鵜呑みにしてしまうからいけないのである。これはどこまでもひとつの表現なのだ。
伝にいわく、
『明星来影す、とは、結願のときに、香に火を置き、明星を拝するに、四方が暗く明星が見えねば悉地就成ではない。暗くても星が現ずれば下品の成就であり、四方が少々晴れて星が現ずれば中品、天に暗なく、ことごとく晴れて星現ずれば成就、四方が晴れても星現ぜざれば悉地成せざるなり』
とあるが、これがちがうのである。まるっきりちがう。
こういう口伝や奥伝をたよりにいくら修行しても、気の毒だが、求聞持法は成就しない。
明星とは現実の明星ではないのである。
大脳のある部分をある方法で刺激すると、目の前に光が見えるのである。
その光は、かたちも色も大きさも、いろいろに見えるが、意識を記憶の座に向けて沈静させる
と、つめたい、やや黄色みを帯びた白銀色になって、しずかに目のなかでまたたく。それはちょうど明星そっくりに見えるのである。
これが明星なのだ!
268頁をもう一度、読みかえしていただこう。
″頭のかかの光明に日を向けるならば″
とある。これがそれなのである。
ある特殊なトレーニングにより、この部位(大脳の視床下部のあたり)の刺激が、目のなかに光を浮かばせるのである。目をある角度に向けると、目を開けていても閉じていても、ポッカリと光が浮かんで見える。
この光が見えるようになると、記憶の座が自由にあやっれるようになるばかりでなく、さまざまな、奇蹟としか思えぬような力がついてくる。
これが、「求聞持法」の明星の秘密である。大空を百年ながめて空中の明星を見つめていても、ムダだ。明星はわが大脳のなかにあるのだからI。
このことは、密教五〇〇〇年の歴史に、私がはじめてっかんだ秘密である。私以外にこれを知る者はついになかった。求闘持法の秘密を私はついにつかんだ。私はそれを誇りに思う。
これをもとにして、私は、私の「求闘持聡明法」を編成した。これは、今までの「法」などというアイマイなものではない。生化学と生理学をもとにした「技術」である。正しい指導のもとに訓練を積めば、必ず、だれでもできるようになる技術である。
本来ならば、こういうことは私の、「太極秘伝」として、ごくかぎられた者だけにひそかにつたえてゆくべきものなのだろう。だが、私はこれをひろく公開する。なぜならば、私は、世界中の人びとがこの法によって知能を高め、いっさいの愚行-殺し合い、奪い合い、罵り合い、にくみ合いから遠ざかってほしいのである。
求聞持聡明法は、人の知能を三倍にナる。
しかし、その半分でもよい。人類の知能が今の水準より平均一・五倍飛躍したら、この世
から、犯罪も戦争もいっさいなくなる。そういうものがあるのは、人間が愚かだからだ。求闘持法によって知能指数が倍加したら、そういうものがいかに愚かで馬鹿々々しいことか、大人が子
供のヶンカが馬鹿々々しくて見ていられないように、いっさい、しなくなる。
私や、私の周囲のごく一部の者が、この法によっていくら賢くなろうとも、それがなにになろう。世界の大勢にどれはどの影響があろう。よしんば、私か、この法によって、古今無比の大聖者と仰がれるほどの力を持とうとも、世界のどこかで、権力を握っている馬鹿が、核バクダンのボタンをひとつ押したら、それっきりなのである。世界中はふっ飛んでしまう、古今無比の大聖
者もいっしよに!
まあ、古今無比の大聖者ともなれば、事前にそれくらい察知して、安全な所に待避してしまうであろうが、世界中が壊滅して、助かった者も核の灰に汚染されて半死半生ばかりという世のなかに、自分とごく少数の一族だけが生き残ってなにになろう。ノアの方舟の時とは状況が全くちがうのである。
このままでゆけば、核戦争がはじまるのはぜったい確実である。私にははっきりそれがわかる。この大愚行だけはやめさせなければならぬ。
革命よりも、階級闘争よりも、人種闘争よりも、なによりも、いま、人類に必要なのはこれだ。これが根本的に人類を救う道だ、とそう私は思う。ヒトの知能が二倍になったら、いま、人類がかかえているあらゆる問題はすべて解決してしまう。そう、あなたも思わないか?
私か、この求聞持法を惜しげもなく公開し、ひとりでも多く、一目でも早く、修得してほしいとねがうのは、そのためなのだ。
さて、はなしが少々よこにそれたが、この大脳の部位のことは、インドのヨーガの指導者も知っており、ヨーガのほうでは、この部位のことを、
「頭のなかの光座の座」
とか、
「梵の座、梵の裂け目」(brahma randhro
とか、
「サハスララーチャクラ」
と名づけ、頭の中の光明がかがやいている部分であると考えている。しかし、これも解釈がちがっている。
頭のなかに光明がかがやいているのではない。私の発見した求闘持法とおなじ原理である。大脳のある部位を、あるエネルギーで刺激すると、あるひとつの物質が分泌され、それが脳の神経組織を刺激して、目に光を感じさせる。                  『- それが、頭と目の微妙な角度のちがい、刺激の相違で、目のなか、目の前、および、頭のなか、というように、光の浮かぶ場所がちがうのである。
求聞特法の湯合は、目の前の、やや上方、ニメートルから三メートルくらいのところに浮かんでみえる。目の角度と、瞳孔の絞りかたによっては、はるか遠くの空に小さくかがやくように
(ちょうど明星のように)見えないこともない。もし、人里はなれた山のなかであったら、明けの明星のように見えることもできるだろう。私の経験では、目のななめ上方一メートル内外のところに見えるようにするのが、一番、″上品″のようである。
目を閉じて、目の奥の上方、つまり、ヨーガでいう”梵の座”のあたりに、光明を感じさせる
技術は、頭の角度と、脳の刺激する揚所が、求聞特法と少しちがう。したがって、これは、求聞持法ではなく、ちがう力を発現する。また別な法である。この法については、またあとで別に章をもうけて説明しよう。

(サマーナ気統御の技術》と《護摩法》の合体
おなじような例がいくっもある。
たとえば″五相成身観”である。
これは、真言宗徒がかならずおさめねばならぬ金剛界法という法のなかにあり、密教門でもと
くに重要な観法とされる行法である。
凡夫がホトヶという超能力者になるまでの過程を五つに分け、修行者は、ひとつひとつその境界を体験してゆくのであるが、これが、いずれも密教の重要な修行課目になっており、あきらか
に密教から出たものであることがわかる。
しかも、真言密教では、印と観想の二つからなる”観法″であるが、密教においては、観法だ
けではなく、特殊な技術による鍛 練によって生理的器官を動かし、実際に五つの境界に対応す
る力をつける訓練となっている。
また、真言密教においてもっとも重要とされる金剛界九会マンダラもそうである。金剛界九会
マンダラは、凡夫がホトケになる九つの段階と、ホトケというものの力、ホトケのはたらきを図
像にえがきあらわしたものであるが、要するに、ホトケの説明である。
もっとも、真言密教は、このマンダラにもとづいて、前記した金剛界法という行法を編成し、
。観法″によってこれを修行者に体得させようとする。これは、一般仏教、顕教が、その修行方
法として、ただ、経典の読誦と、念仏、唱名題目しか持だないのに対し、一段と進歩したすぐれ
た修行方法であるというべきだが、しかし、これも、真言密教が″観法”だけであるのに対し、
密教は、九会マンダラにあらわされた九つの力を実際に体得させる訓練技術を持っている。
例をあげれば、微細会マンダラがそうである。これは九会マンダラのなかの東南方に位するマ
ンダラで、ホトケの微妙幽玄にして不可思議なる智恵の力とはたらきをあらわすものである。
密教には、実際にこの力を生ぜしめる訓練がある。
真言密教では、ただ、。観想″による″観法″しかない。現実にそういう″力″を持たせると
ころの″技術″がない。
276頁を見ていただこう。
。あきらかに、微細会マンダラは、ヨーガのこの訓練から出ている。ナくなくとも、この訓練に
よって得られる力を背景にしたものであることは間違いない。
これは、密教の技術で、胸の部分の或る部位に力を集中することによって得られる力である。
-こうしてみてくると、真言密教がとるべき道は、おのずから明らかであるといわねばなるまい。真言密教の行法は、密教の技法をとり入れることにより、本当の力が生ずるのではないのか?
そういうと、密教がそんなにすぐれたものであるというなら、密教は真言密教をはなれて、密教独自の道を歩んだらよいではないかという意見が出るかも知れない。その通りである。それでもよいのだ。そういう道もあると私も思う。
しかし、それにもかかわらず、私か真言密教にある価値を見出すのは、その表現様式である。おもしろいことだと思う。
様式だけになってしまっている(と私が思う)真言密教の、その様式が、なかなか貴重なのだ。
私が体得した密教の秘奥の技術を、さて、どのように表現しようかと、その様式を考えてゆくと、結局、真言密教の様式がいちばん便利なのである。たとえば、私の体得創案した「求聞持法」は、ヨーガの技術から発見したもので、真言密教の「求聞持法」とは全然ちがう。そのことは、前の項でおわかりになったことと思う。

より 「等価変換展開理論」

求聞持聡明法秘伝』平河出版社刊。まえがき”より

「等価変換展開理論」

そんなことがほんとうにできるのか? いったいどうやってそんなことができるのだ、と。
それもたしかにもっともなことで、私自身、身をもってこの密教の秘密に挑戦し、自分でこの
技術を解明するまでは、ぜったいに信ずることができなかった。私は単身、五〇〇〇年の間秘密
のヴェールにつっまれてきたこの不思議な技術にいどみ、その秘密を解いた。それは、信ずるこ
とのできないほど精緻微妙な生化学に立脚したおどろくべき技術の応用であった。
たとえば、
さきにもちょっとふれたが、市川亀久弥博士は、最近の著作のなかマ(≒柚計器)お得意の
「等価変換展開理論」にもとづき、イモ虫からサナギヘの変化を例にして未来社会への脱皮を説
いておられる。この理論はまことにみごとで、まさにほれぼれするほどあざやかである。こと
に、イモ虫がサナギに変身する理論的うらづけは、近来しきりに輩出する未来論のなかで、まさ
に出 色のものであるというべきである。
ただ、まことに残念なことに、それは理論と説明と期待にとどまり、それをいかにヒトに応用
して実現させるかという方法を示していない。それは、もちろん、氏自身、同書のはしがきのな
かで、これは、″単に人類のあるべき未来社会に関するソフトーウェアの主張の範囲にとどまる
ものである”とことわり、この。ソフトーウェアに対するハードーウェアの具体的な提唱″は
″旺い将七に公長する~定である″ということであるから、われわれはまさに刮目してそれを待、ぐに、その″ソフトーウにアに対するハード・
ウェアの具体的な技術″を持っているのである。密教は、その持つ技術のひとつに、この市川理
論の「イモ虫からサナギヘの脱皮」技術を持っていて、数千年も前から、それをヒトの変身技術
に応用、実践していたのである。
密教は、現代の創造理論の大家が提唱する未来に関する花形理論を、とうに実践していたので
ある。五〇〇〇年も前にI。
地を這いまわることしか知らぬ生物であるイモ虫が、サナギになり、そして、空を舞う生物に
変身することは、二次元の世界に生きる生物が三次元生物に変化したことを意味するものだ。密
教がおなじ技術をもってヒトを変身させることは、三次元生物であるヒトをそれより上の次元に
飛躍させることを意味する。密教の変身技術はそれなのである。その生物の次元を変えてしまう
のだ。
しかも、それは、今までいわれてきたように、ただ神秘的、神がかり的なアイマイな方法でな
く、適確な生化学の技術をもっておこなうのだ。そうしてそれは密教の持ついくつかの技術のな
かのひとつに過ぎない。
いったい、どんな智恵がそれをなしとげていたというのであろうか? 密教の技術を神秘とい
うのなら、その点をこそ神秘というべきだろう。しかし、それは、それこそまさに数千年生え出
現した超・ヒトが、孤独にたえつつ、その持つ人類最高の智恵「照明智」を駆使してつくり上げ
た未来人のためのカリキュラムにほかならぬのだというよりはかないであろう。

さて、それでは、密教の技術に関係のある市川理論「等価変換展開理論」とはどんな理論か?
それがどのように密教の技術と関連があるのか?
それを説くまえに、もう少し知っておいていただかねばならぬことがある。
ここで、私は、密教とヨーガという二つのことばについて述べておかねばならぬと思うのだ。
拙著「変身の原理」で、私は、密教についてっぎのように述べた。少し長いが引用してみる。
『真言宗という宗派仏教と、密教すなわち秘密仏教とは、ふかいつながりかおる。だが、それは
どこまでもふかいつながりという関係であって、普通考えられているように、密教即真言宗、真
言宗即密教というものではないのである。
真言宗とは、インドにおいて発生し、大成した密教を、ああいう独白の形に体系化し、組織化
したものであって、密教そのものではないのである。密教のひとつの体系ではあるけれども、密
教そのものではない。
それは、それまでにほぼ完成していたけれども、分派し、多様化していたインド密教を日本密
教の開祖空海が、独自の見識と叡智によって、ひとつの体系につくりあげたということである。
おなじように、天台宗においても、天台密教というひとつの密教体系を組織完成しており、こ
れもまた、密教のひとつの流れということである。
そういうわけで、密教というものを正しく理解するためには、どうしても、]度、密教の原点
に立ちもどって考えてみなければならないのである。
密教は、最初、ひとつの手法(技術)であった。
けっして、最初から密教というひとつの宗教があったわけではない。
ゴータマーブッダがあらわれて、仏教というあたらしい教えを説きはじめるはるか以前、バラ
モンの時代から、インドには、入に超能力をあたえるひとつの手法があった。そういう手法が完
成されて、一部の人たちの間につたえられていた。それは、精神と肉体のきびしい錬磨から得ら
れる神秘的な力で、彼らは、それを、ひとつの技術にまでっくりあげていた。
われわれは、その流れのひとつを、現在、ヨーガのなかに見ることができる。(ただしそれは、
いまの日本で行なわれているアクロバティックな体操のヨーガではない。ヒマラヤの奥地の聖者
たちの間に伝承されている正統ヨーガである)
ヨーガは、その手法のひとつの流れである。この超能力を開発する技術は、仏教があらわれる
以前においてはバラモンにとり入れられ、仏教があらわれると、仏教もまたこれをとり入れた。
ゴータマーブッダは、かれ自身、この手法をまなんで、これにより超能力を持ったが、弟子た
ちにはこれを学ぶことを禁じた。なぜかというと、この技法によって多少の力がつくと、かれら
はすぐにそれがブッダのいう「ホトケ」という境地に達したものと考えてしまい、修行のさまた

げになるからであった。
ただし一部の、素質のきわめてすぐれた弟子たちには、ひそかにこれを許した。
ゴータマーブッダは、普通、神秘的な力を信じたり、修行者がそういう力を持つことを願った
りするのを全く禁じたというように、仏教学者や仏教者は信じているようであるが、それは間違
いで、ブッダ自身、神足({乱石の教理、すなわち、仏道を完全に成就するためには超自然的な
力が必要であるとし、超人間的な能力開発の訓練法を説いているのである。これは、パーリ文献
によって容易に証明することができるのである。(略)
それによると、それは、″四神足“または、″四如意足″ともいわれる超能力開発法である。
ブッダは、菩提を成就するためには、単に、知性や理性をみがくだけでは不十分であると考
え、知性や理性の限界をうち破る力が必要であると考えた。
そのために、彼は、そういう力を開発するための行法をつくりあげた。それは、彼が学んだ超
能力開発法を加えて編成したものと見てよいであろう。
それは、三十七種の技法から成り立つもので、四神足というのは、その中心になる技術であ
る。神通、如意を得るための定を、四種類の手法に分けて説明している。
欲神足(願望、理想、創造のためのアプローチ)
勤神足(体と心のトレーニング法)
心神足(潜在意識のトレーニング法)
観神足(深層意識のトレーニング法)
きづまりを打破するために、大乗仏教のなかにとり入れられて体系化され、密教と呼ばれになったのである。いうわけで、密教は二つの面を持っている。
一つは、超能力の開発技術
一つは、大乗仏教の教義
この二つである。
この二つのものがむすばれることにより、大乗仏教よりさらに高度の教義が完成されて、「金
剛大乗」と呼ばれる新しい仏教が誕生した。これが密教である』
-との引用の文章でわかるように、「変身の原理Lにおいて語られている「密教」というコ
トバは、「秘密仏教」という意味での「密教」である。仏教のなかにとり入れられた、いわゆる
真言密教、あるいは真言宗密教の密教である。
しかし、本書において私がいう「密教」は、それらの密教、「変身の原理」のなかで使われて
いる密教とは全くちがうものであることを、読者はご承知ありたいのである。

本書における「密教」とは、真言密教以前、いうならば仏教にとり入れられる以前の、いや、
バラモンにさえもとり入れられる以前の、引用文でいえば4  R教は最初、ひとつの手法(技術)であった。ゴータマーブッダがあらわれて、仏教というあたらしい教えを説きはじめるはる
か以前、バラモン時代から、インドには、入に超能力をあたえるひとつの手法があった。そういう手法が完成されて、一部の人たちの間につたえられていた。それは、精神と肉体のきびしい錬磨から得られる神秘的な力で、彼らは、それを、ひとつの技術にまでっくりあげていた。と
あるその「技術」、つまり、いうならば、″古代マーガ″と″真言密教″と、この二つを結合したものであると承知していただきたいのである。即ち本書でいう密教とは、ヨーガと真言密教と、
この二つをむすびつけて生まれた新しい技術であるということである。
なぜ、そういうことをしなければならなかったのか、というその理由を語ることはそのまま、密教の法を解説することにもなるので、読者はここのところをよく知っておいていただきたいのである。
引用文のなかにしるされているごとく、行きづまった大乗仏教は、ヨーガの技術にその打開の道を求めた。さきの頃で述べたごとく、精神の高度の飛躍は、その前提に、感覚器官の高度の増幅がなければならぬ。しかし、大乗仏教には教えだけあって、なんの技術もない。大乗仏教という教えであり、教えをあきらかにするだけのもので、技術というべきものはなんにもない。つい
に行きづまることは当然であり、やがてヨーガの技術に救いをもとめるのはさらに当然というべ
きことであった。
かくして、金剛大乗、真言密教が生まれた。ヨーガには、さきにあげた通り、ジョルジューオリヴィエ教授の表現を借りていえば、五つの能力開発技術がある。それは、①第四次元の理解、合複雑な全体をとっさに把握する能力、③第六感の獲得、④無限に発展した道徳意識、⑤とくに
われわれの悟性には不可解な精神的特質、というものであるが、これらの能力開発の技術は、それがそのまま大乗仏教にとり入れられたわけではない。おのずから、ひとつの偏向傾斜があった。
それは当然のことで、大乗仏教の指導者たちは、この技術を彼らの信奉する仏教教義とその目的に沿って取り入れた。一般的でないと思われる技術は捨てられ、あるいはごく一部の指導者にだけつたえられ、あるいは変形された。こうして秘密仏教というあたらしい教義と体系が完成した。しかし、多くのすぐれた開発技術は、この仏教教義を完成させるための補助的技術に変容さ
せられてしまった。あるいは形骸だけがとどめられた。これが、秘密仏教の「行法」であった。
これを究極的に完成したのは、日本密教、すなわち真言宗の開祖空海であった。秘密仏教がインドから中国につたえられ、そのころ中国にわたった空海がそれに接した時点において、秘密仏教はまだ完全にはできあかっていなかった。その混沌たる素材を取捨選択して、これをいま見る
真言宗というかたちにまとめ上げ、整然たる宗教にしたのは空海であった。それはまさに大天才のみがなしとげることのできる偉業であったが、同時に、秘密仏教はあまりにも整然と様式化された日本的なものになってしまった。それまでかなり残っていた密教的な部分はほとんどかげにかくれ、一-法」は、様式化された宗教儀式になってしまった。
しかし、それは、当時の目本の国情や、文化水準を背景にしたとき、やむを得ないことであったのである。というよりもむしろ当然であったというべきだろう。そうしなければ宗教として存
立することができなかったのである。
だが、そのために、いまいった通り「法」はその力を失った。宗教的に様式化され、儀式化されてしまった「法」では、真の能力開発は困難である。というよりもそれは絶望に近い しかし、それはそれでいいのだ。真言密教というものが、宗教であって能力関発の技術ではな
く、仏教という信仰のワクのなかで教えを説き礼拝をつづけているだけでよいなら、それはそれでいいだろう。それに、ほとんど儀式化された「法」であっても、天分のある才能が懸命の努力を集中するなら、「法」の成就も不可能ではない。やってやれないことはないのである。けれども、それは何世紀にひとりというような稀有の才能を必要とするのではないのか。そういうすぐれた頭脳によれば、様式化された法のあとをたどって、ついにその源泉に到達し、そのなかに秘められた法の技術を発見し、体得することもできよう。あるいはまた、頭脳ではなく、熱烈な信仰が、そこへ導いていってくれることもあるかも知れぬ。だが、それは、万人に期待できることではない。
要するに、真言密教成立の当時と全く時代が変ってしまった現在、真言密教が、他の宗教と根本的にちがうその本来の任務をほんとうに果たそうと思うならば、真言密教は大吝く変わらねばならぬ。真言密教はナみやかにその原点に立ちもどり、「法」を技術としてシステム化しなければならぬ。そうして、だれでもが平易にまなべる体系を編成ナることである。
それは決して「法」を解体し、「法」を壊滅してしまうことではない。むしろ、そうすることによって法が生きるのである。また、それは決して宗教の解体ではない。
法によって高い知的能力を得たならば、人はおのずから高い道徳意識、倫理観を持つものである。

人が宗教的教えを必要とナるのは、知的能力が低いからである。要するに、愚かだからである。人の道徳意識が低いのは、知能、精神能力が低いからだ。ほんとうに知能が高くなれば、人は、いま人類の持っている程度の宗教意識などけるかに超えたもっと高い倫理観を持つ。オリヴイエ教授のいう「無限に発展した道徳意識の保有」である。
教え(宗教)による人類の道徳意識の開発は、すでに限界に達してしまっている。
見よ。

地上にあまねくくりひろげられている人類のこの大愚行を。殺し合い、奪い合い、罵り合い。
どこに「知恵あるヒト」のおもかげがあるか? 「大愚人類」そのものではないか?
要するに、バカにいくら結構な教えを説いてもだめなのだということだ。
もっと忌憚なくいわしてもらうならば、(これは私がいうのではない。みんな密教の神サマが
おっしやるのであります)ちっとましなバカが、しょうのないバカに一心に教えを説いているというのが、いまの宗教のすがたというものではないのか?
宗教だけではない。科学と技術だってそうではないか。見さかいなくいい気になっていろんなものをつくり出し、あとで公害だ有害物質だと困っている。こういうおろかなことは、もう少し人類の知能が高くなったら、そんなバカなことはたのまれなくともしなくなる。要するに知能が低いからだ。
政治も、経済、思想も、みんなそうだと、あなたは真実思わないか?
要するに、すべて、″ヒトの知能が低い″ことに原因があるのである。
この世界を住みよく、たのしいものにするのには、革命ごっこよりもなによりもまず、ヒトの知能を高めることだ。そう、あなたは思わないか?
さて、話をもとにもどそう。
教えの限界とはヒトの知能の限界だ。
密教はその限界をうち破るのである。
技術によって超能力をあたえ、いっきょにヒトを改造して、宗教などという低い次元をいっぺんに飛び越し、想像を絶する叡智を持った、高い倫理的生物をつくり出そうというのだ。
それが、密教だ。
求闘持法《明星》の秘密

私はこのことを念力の護摩の修得に際してさとった。
先年、私は、念力の護摩法の伝授を受け、悉地成就の修行に入った。けれども、その行法の次
第を、何十ぺん何百。へんくり返しても、念力の火は出なかった。煙さえたちのぼる気配はなかっ
た。私かそのままその法の次第を忠実にくりかえしていたら、永久に念力の火は出なかったであ
ろう。出るはずがないのである。念力の護摩法の次第を、いくらくりかえしたって火は出ない。
そんなことで出るのだったら、今日までに、何百人、何千人の阿闇梨が念力の護摩を焚いていた
だろう。真言密教の念力の護摩法だけでは、ぜったいに火は出ない、それは、密教の技術によっ
て、サマーナ気を克服したとき(274頁参照)、はじめて肉体から火焔を発することができ、念力の
護摩は完成するのである。絶望した私は真言密教をはなれ、身を転じて古代インドの秘密経典に
むかった。
私はそこでインドの聖典、バガヴァットーギータを続み、そこに念力の護摩の秘法がかたられ
ていることを知った(口絵写真参照)。そこから、ギータと不二の関係にあるヨーガに入った。ヨ
ーガに本当の念力の護摩があることを知った。ヨーガにおける私のいのちがけの修行がはじまっ
た。ヨーガの技術でなければ念力の火は出ないことがわかったからである。真言密教の念力の護摩法次第は、ほんの心おぼえ程度のものに過ぎず、これでは、だれがどうしたって火の出るはずがなかった。いや、この肉体が火となるための「法」としては心おぼえ程度のものですらなく、むしろ、バガヴァツトーギータの聖句のほうが、はるかに示唆に富んでいるといえた。ヨーガの念力の護摩は、ただ単なる観想の羅列ではなく、どの生理器官をどのように統御しどのように動かすという現実的具体的な「技術」があった。この技術によってトレーニングすれば、多少なりと素質のある者だったら、必死の修行によって念力の火を出すことは不可能ではない。真言密教の念力護摩法次第だけでは、大天才といえども不可能にちかい難事である。この秘密を知らずして、古来、いく人の密教修行者が、念力の護摩の次第と秘伝を前に、血と汗の絶望をくりかえしたことであったろう。思えばツミな″次第″である。
これと全くおなじことが、真言密教につたえる「求聞持聡明法」についてもいうことができる。求闘持とは、古書に、『見聞覚知のことを憶持して長く忘れず、師なくして天地の感応を待つ、これを″求″といい、教なくして真如妙理を覚る。これを″聞″といい、一度覚るとながく忘れない、
これを″持″という』とあるように、求闘持法とは、ヒトの大脳を強化して、博覧強
卸、比類なき記憶力と聡明さをあたえる秘法であるが、これをなん十。へんなん百ぺん行法の次第通りに修行したところで、その結果は、おそらく念力の護摩とたいしてかわらない結果におわるであろう。生命を賭して修法すれば、多少の効果はあろうが、宗祖が体験を以て示したような霊験を得ることはまず難い。なぜならば、真言密教の「虚空蔵菩薩求聞持法」には印信観想による
精神集中の「法」はあるけれども、現実に生理器官である大脳皮質そのものを動かす「技術」を持っていないのである。ヨーガの「聡明法」は、どの器官をどう使ってどのように大脳皮質を動かすかという「技術」がある。また、それだけではない。根本的にちがうものがあるのである。
’それは、まったく根本的にちがう。
拙著「変身の原理」で求闘持聡明法についてかたって以来、私は、十指を越える真言僧侶、阿閉梨がたから、手紙あるいは直接、この法の修行について相談をうけた。そのほとんどは、自分も一度ないし数度にわたって求聞持法を修したが、いっさい効験がみられなかった。修法の行じかた、あるいは心構えに越法のところがあったのであろうかというのであった。また、何度か修してみて、あの行法にそんな神秘的な力がひそんでいようとは思われぬというものがあった。なかにはお気の毒にも健康を害してしまって、再起不能になったと訴えてきた阿閉梨もおられた。
お気の毒であるが、当然なのである。
真言密教の阿開梨がたが、いくら求闘持法をくりかえしても、成就できないのは当然なのである。もちろん、絶対に、とはいわない。万人に秀いでる天才、英才であったら、その極に達することができるかも知れぬ。しかしまず、不可能にちかいというべきだろう。
私か発見した密教の「求闘持法」でなければ、まず不可能にちかいといってよいであろう。こ
の法については章をあらためてくわしく書くが、ここで、求聞持法の秘密の一端を明かそう。まず、最初、真言密教の求聞持法を述べてみる。
『比の法を修するには、東南西三方の晴れたるところを最上とする。東方のみでも悪くはない。

道場の東壁に小窓をつくる。これは虚空蔵の似沢である明星の光を道場にさし入れるためである。また、朝日夕月の光を本尊にあてる意もあり、あるいは小窓に絹を張り、黄色の種字の字を書いて、そこから、明星の光をとおして本尊にあてるためでもある』
とまず場所を制定し、つぎに、さだめられた本尊の印明を百万べん、五十目あるいは百日に読誦するのであるが、日蝕または月蝕の時に結願するよう開白(はじめること)しなければならぬとある。
けれども、密教の求聞持法では、べつに場所はえらばぬのである。静かな場所でありさえすればよい。また、いつはじめてもよいのである。明星を拝するのも、行のはじめに際して、あるひととき、星と月に対すればよいのである。
また、これこそが密教のもっとも奥義とするところなのだが、弘法大師空海は、求聞持法の成就の体験を、
『―阿国大滝の岳にのぼりよじ、土州室戸の崎に勤念ナ。谷響を惜しまず、明星来影す。
言々』
と語っている。すなわち、阿波の大滝にのぼり、土佐の室戸岬でこの法の修行にはげんだところ、谷はこだまし、明星があらわれるなど、法にいわれている通り現証があり、法が成就した、
というのであるが、これは、空海のひとつの表現であって、これをそのまま鵜呑みにしてしまうからいけないのである。これはどこまでもひとつの表現なのだ。
伝にいわく、
『明星来影す、とは、結願のときに、香に火を置き、明星を拝するに、四方が暗く明星が見えねば悉地就成ではない。暗くても星が現ずれば下品の成就であり、四方が少々晴れて星が現ずれば中品、天に暗なく、ことごとく晴れて星現ずれば成就、四方が晴れても星現ぜざれば悉地成せざるなり』
とあるが、これがちがうのである。まるっきりちがう。
こういう口伝や奥伝をたよりにいくら修行しても、気の毒だが、求聞持法は成就しない。
明星とは現実の明星ではないのである。
大脳のある部分をある方法で刺激すると、目の前に光が見えるのである。
その光は、かたちも色も大きさも、いろいろに見えるが、意識を記憶の座に向けて沈静させる
と、つめたい、やや黄色みを帯びた白銀色になって、しずかに目のなかでまたたく。それはちょうど明星そっくりに見えるのである。
これが明星なのだ!
268頁をもう一度、読みかえしていただこう。
″頭のかかの光明に日を向けるならば″
とある。これがそれなのである。
ある特殊なトレーニングにより、この部位(大脳の視床下部のあたり)の刺激が、目のなかに光を浮かばせるのである。目をある角度に向けると、目を開けていても閉じていても、ポッカリと光が浮かんで見える。
この光が見えるようになると、記憶の座が自由にあやっれるようになるばかりでなく、さまざまな、奇蹟としか思えぬような力がついてくる。
これが、「求聞持法」の明星の秘密である。大空を百年ながめて空中の明星を見つめていても、ムダだ。明星はわが大脳のなかにあるのだからI。
このことは、密教五〇〇〇年の歴史に、私がはじめてっかんだ秘密である。私以外にこれを知る者はついになかった。求闘持法の秘密を私はついにつかんだ。私はそれを誇りに思う。
これをもとにして、私は、私の「求闘持聡明法」を編成した。これは、今までの「法」などというアイマイなものではない。生化学と生理学をもとにした「技術」である。正しい指導のもとに訓練を積めば、必ず、だれでもできるようになる技術である。
本来ならば、こういうことは私の、「太極秘伝」として、ごくかぎられた者だけにひそかにつたえてゆくべきものなのだろう。だが、私はこれをひろく公開する。なぜならば、私は、世界中の人びとがこの法によって知能を高め、いっさいの愚行-殺し合い、奪い合い、罵り合い、にくみ合いから遠ざかってほしいのである。
求聞持聡明法は、人の知能を三倍にナる。
しかし、その半分でもよい。人類の知能が今の水準より平均一・五倍飛躍したら、この世
から、犯罪も戦争もいっさいなくなる。そういうものがあるのは、人間が愚かだからだ。求闘持法によって知能指数が倍加したら、そういうものがいかに愚かで馬鹿々々しいことか、大人が子
供のヶンカが馬鹿々々しくて見ていられないように、いっさい、しなくなる。
私や、私の周囲のごく一部の者が、この法によっていくら賢くなろうとも、それがなにになろう。世界の大勢にどれはどの影響があろう。よしんば、私か、この法によって、古今無比の大聖者と仰がれるほどの力を持とうとも、世界のどこかで、権力を握っている馬鹿が、核バクダンのボタンをひとつ押したら、それっきりなのである。世界中はふっ飛んでしまう、古今無比の大聖
者もいっしよに!
まあ、古今無比の大聖者ともなれば、事前にそれくらい察知して、安全な所に待避してしまうであろうが、世界中が壊滅して、助かった者も核の灰に汚染されて半死半生ばかりという世のなかに、自分とごく少数の一族だけが生き残ってなにになろう。ノアの方舟の時とは状況が全くちがうのである。
このままでゆけば、核戦争がはじまるのはぜったい確実である。私にははっきりそれがわかる。この大愚行だけはやめさせなければならぬ。
革命よりも、階級闘争よりも、人種闘争よりも、なによりも、いま、人類に必要なのはこれだ。これが根本的に人類を救う道だ、とそう私は思う。ヒトの知能が二倍になったら、いま、人類がかかえているあらゆる問題はすべて解決してしまう。そう、あなたも思わないか?
私か、この求聞持法を惜しげもなく公開し、ひとりでも多く、一目でも早く、修得してほしいとねがうのは、そのためなのだ。
さて、はなしが少々よこにそれたが、この大脳の部位のことは、インドのヨーガの指導者も知っており、ヨーガのほうでは、この部位のことを、
「頭のなかの光座の座」
とか、
「梵の座、梵の裂け目」(brahma randhro
とか、
「サハスララーチャクラ」
と名づけ、頭の中の光明がかがやいている部分であると考えている。しかし、これも解釈がちがっている。
頭のなかに光明がかがやいているのではない。私の発見した求闘持法とおなじ原理である。大脳のある部位を、あるエネルギーで刺激すると、あるひとつの物質が分泌され、それが脳の神経組織を刺激して、目に光を感じさせる。                  『- それが、頭と目の微妙な角度のちがい、刺激の相違で、目のなか、目の前、および、頭のなか、というように、光の浮かぶ場所がちがうのである。
求聞特法の湯合は、目の前の、やや上方、ニメートルから三メートルくらいのところに浮かんでみえる。目の角度と、瞳孔の絞りかたによっては、はるか遠くの空に小さくかがやくように
(ちょうど明星のように)見えないこともない。もし、人里はなれた山のなかであったら、明けの明星のように見えることもできるだろう。私の経験では、目のななめ上方一メートル内外のところに見えるようにするのが、一番、″上品″のようである。
目を閉じて、目の奥の上方、つまり、ヨーガでいう”梵の座”のあたりに、光明を感じさせる
技術は、頭の角度と、脳の刺激する揚所が、求聞特法と少しちがう。したがって、これは、求聞持法ではなく、ちがう力を発現する。また別な法である。この法については、またあとで別に章をもうけて説明しよう。

(サマーナ気統御の技術》と《護摩法》の合体
おなじような例がいくっもある。
たとえば″五相成身観”である。
これは、真言宗徒がかならずおさめねばならぬ金剛界法という法のなかにあり、密教門でもと
くに重要な観法とされる行法である。
凡夫がホトヶという超能力者になるまでの過程を五つに分け、修行者は、ひとつひとつその境界を体験してゆくのであるが、これが、いずれも密教の重要な修行課目になっており、あきらか
に密教から出たものであることがわかる。
しかも、真言密教では、印と観想の二つからなる”観法″であるが、密教においては、観法だ
けではなく、特殊な技術による鍛 練によって生理的器官を動かし、実際に五つの境界に対応す
る力をつける訓練となっている。
また、真言密教においてもっとも重要とされる金剛界九会マンダラもそうである。金剛界九会
マンダラは、凡夫がホトケになる九つの段階と、ホトケというものの力、ホトケのはたらきを図
像にえがきあらわしたものであるが、要するに、ホトケの説明である。
もっとも、真言密教は、このマンダラにもとづいて、前記した金剛界法という行法を編成し、
。観法″によってこれを修行者に体得させようとする。これは、一般仏教、顕教が、その修行方
法として、ただ、経典の読誦と、念仏、唱名題目しか持だないのに対し、一段と進歩したすぐれ
た修行方法であるというべきだが、しかし、これも、真言密教が″観法”だけであるのに対し、
密教は、九会マンダラにあらわされた九つの力を実際に体得させる訓練技術を持っている。
例をあげれば、微細会マンダラがそうである。これは九会マンダラのなかの東南方に位するマ
ンダラで、ホトケの微妙幽玄にして不可思議なる智恵の力とはたらきをあらわすものである。
密教には、実際にこの力を生ぜしめる訓練がある。
真言密教では、ただ、。観想″による″観法″しかない。現実にそういう″力″を持たせると
ころの″技術″がない。
276頁を見ていただこう。
。あきらかに、微細会マンダラは、ヨーガのこの訓練から出ている。ナくなくとも、この訓練に
よって得られる力を背景にしたものであることは間違いない。
これは、密教の技術で、胸の部分の或る部位に力を集中することによって得られる力である。
-こうしてみてくると、真言密教がとるべき道は、おのずから明らかであるといわねばなるまい。真言密教の行法は、密教の技法をとり入れることにより、本当の力が生ずるのではないのか?
そういうと、密教がそんなにすぐれたものであるというなら、密教は真言密教をはなれて、密教独自の道を歩んだらよいではないかという意見が出るかも知れない。その通りである。それでもよいのだ。そういう道もあると私も思う。
しかし、それにもかかわらず、私か真言密教にある価値を見出すのは、その表現様式である。おもしろいことだと思う。
様式だけになってしまっている(と私が思う)真言密教の、その様式が、なかなか貴重なのだ。
私が体得した密教の秘奥の技術を、さて、どのように表現しようかと、その様式を考えてゆくと、結局、真言密教の様式がいちばん便利なのである。たとえば、私の体得創案した「求聞持法」は、ヨーガの技術から発見したもので、真言密教の「求聞持法」とは全然ちがう。そのことは、前の項でおわかりになったことと思う。

 

Hirakawa Publishing Co., Ltd. From “Foreword”

“Equivalent transformation expansion theory”

Can you really do that? How can you do that?
That’s certainly true, and I myself challenged the secrets of this esoteric Buddhism myself, and this myself.
Until I clarified the technology, I couldn’t believe it at all. I’m alone, a secret for 500 years
I stumbled upon this mysterious technique that had been caught in the veil of the world, and unraveled its secret. It’s a belief
It was a surprising application of technology based on the delicate biochemistry that could not be achieved.
for example,
As I mentioned earlier, Dr. Kikuya Ichikawa is good at Ma (≒ Yuzu Keiki) in his recent writings.
Based on the “equivalent transformation expansion theory”, the theory of molting to the future society is explained by taking the change from hornworm to sanagi as an example.
I’m here. This theory is truly spectacular and just as brilliant as it should be. matter
In addition, the theoretical envy that the hornworm transforms into a pupa is truly in the future theory that is constantly being produced.
It should be said that it is a color that appears in.
But, unfortunately, it remains a theory, explanation and expectation, and how to apply it to humans.
It does not show how to make it happen. That is, of course, the preface of the book himself.
So, this is “just within the scope of software’s claims about the future society that humanity should be.
“This is a concrete advocacy of hardware for software.”
Since it is “to be the chief of the savage Shoshichi-it is fixed”, we just take a look at it and wait for it.
Esoteric Buddhism has one of the techniques of esoteric Buddhism.
We have the technology of “molting from hornworms to sanagi”, and we have been using it for thousands of years as a human transformation technology.
It was applied and practiced in.
Esoteric Buddhism was finally practicing the flower-shaped theory of the future advocated by the landlord of modern creative theory.
be. I. 500 years ago.
The hornworm, a creature that only knows to crawl on the ground, becomes a pupa and becomes a creature flying in the sky.
Transforming means that the creatures living in the two-dimensional world have transformed into three-dimensional creatures. Dense
Transforming humans with the same technology by teaching brings human beings, which are three-dimensional creatures, to a higher dimension.
It means to make a leap. That is the transformation technique of esoteric Buddhism. Change the dimension of the creature
It is.
What’s more, it’s just a mysterious, divine, and mysterious way, as it has been said.
It is done with appropriate biochemical technology. And that’s some of the techniques of esoteric Buddhism
It’s just one of them.
What kind of wisdom did it do? The technique of esoteric Buddhism is called mystery
If so, that point should be called mystery. But that’s exactly what happened for thousands of years.
The super-human beings who have emerged are lonely and created by making full use of the best wisdom of humankind, “lighting wisdom”.
It is more than a curriculum for future people.

By the way, what kind of theory is the Ichikawa theory “equivalent transformation expansion theory” related to esoteric Buddhism technology?
How does it relate to esoteric techniques?
Before I preach it, there is something I need to know a little more.
Here, I think I have to mention two words, esoteric Buddhism and yoga.
In my book, The Principles of Transformation, I described esoteric Buddhism like a sword. It’s a little long, but I’ll quote it.
“There is a connection between Shingon Buddhism, a denominational Buddhism, and esoteric Buddhism, that is, secret Buddhism. But that’s
It is a relationship of forever fluffy connection, and as is usually thought, esoteric Buddhism Immediate Shingon Buddhism, Shin
It is not a esoteric Buddhism.
Shingon Buddhism is the systematization and organization of esoteric Buddhism that originated in India and was completed in the form of such a monologue.
It is not the esoteric Buddhism itself. Although it is a system of esoteric Buddhism, it is esoteric
It is not the teaching itself.
It was almost completed by then, but it was split and diversified from Indian esoteric Buddhism to Japanese esoteric Buddhism.
It is said that Kukai, the founder of the religion, created a system by his own insight and wisdom.
Similarly, in the Tendai sect, one esoteric Buddhist esoteric Buddhism system called Tendai Esoteric Buddhism has been completed.
This is also a flow of esoteric Buddhism.
Therefore, in order to understand esoteric Buddhism correctly, it is absolutely necessary to] degree, the origin of esoteric Buddhism.
You have to go back and think about it.
Esoteric Buddhism was initially a technique.
By no means, there was no single religion called esoteric Buddhism from the beginning.
Roses long before the Gotamer Buddha appeared and began to preach the new teaching of Buddhism.
Since the days of Mon, India has had one method of giving psychic powers. Such a method is complete
It was made and was sung among some people. It comes from the rigorous training of the mind and body
With mysterious power, they turned it into a technique.
We can now see one of those trends in yoga. (However, it is
It is not the yoga of acrobatic gymnastics that is practiced in Japan today. Himalayan hinterland saint
It is an orthodox yoga that has been handed down among us)
Yoga is one of the methods. Buddhism appears in the technology to develop this supernatural power
Previously it was incorporated into the Brahmin, and when Buddhism appeared, Buddhism also incorporated it.
Gotamer Buddha himself was a disciple, although he himself had supernatural powers by following this technique.
He forbade learning this. The reason is that when this technique gives some power, they
Immediately thought that it had reached the state of “hotoke” that Buddha called, and he was trained.

It was because it was a mess.
However, he secretly allowed this to some of the most talented disciples.
The Gotama Buddha usually believed in mysterious powers and wished that the practitioners would have such powers.
Buddhist scholars and Buddhists seem to believe that they have forbidden to do anything, but that is a mistake.
Then, Buddha himself, Godfoot ({Random stone doctrine, that is, supernatural to fully fulfill Buddhism)
He says that power is needed and preaches a training method for superhuman skill development. This is the Pali literature
Can be easily proved by. (Omitted)
According to it, it is a supernatural power development method also called “Iddhipada” or “Iddhipada”.
Buddha thinks that simply brushing intellect and reason is not enough to fulfill the bodhi.
Well, he thought he needed the power to break the limits of intellect and reason.
To that end, he created a method for developing such powers. It’s the super he learned
It can be seen that it was organized by adding the capacity development method.
It consists of thirty-seven kinds of techniques, and Iddhipada is the central technique.
NS. Jintou explains how to get the decency by dividing it into four types of methods.
Desire foot (desire, ideal, approach for creation)
Work God’s foot (body and mind training method)
Mind god foot (subconscious training method)
Kanjin foot (deep consciousness training method)
In order to break the stalemate, it was incorporated into Mahayana Buddhism and systematized, and became known as esoteric Buddhism. So esoteric Buddhism has two sides.
One is the development technology of supernatural powers.
One is the doctrine of Mahayana Buddhism
These two.
By combining these two things, a higher doctrine than Mahayana Buddhism was completed, and “Kim”
A new Buddhism called “Go Mahayana” was born. This is esoteric Buddhism. ”
As you can see in the text quoted as “-“, “Esoteric Buddhism” spoken in the principle of transformation L
Toba is “esoteric Buddhism” in the sense of “secret Buddhism.” The so-called incorporated into Buddhism
Shingon Esoteric Buddhism, or Shingon Buddhist Esoteric Buddhism.
However, in this book, “esoteric Buddhism” as I say is used in those esoteric Buddhism, the “principle of transformation”.
Readers want to know that it is completely different from the esoteric Buddhism that exists.

“Esoteric Buddhism” in this book means before Shingon Esoteric Buddhism, so to speak, before it was incorporated into Buddhism.
Before even being incorporated into Brahmin, in terms of quotation, 4R religion was initially a method (technology). Gotama Buddha appears and begins to preach a new teaching called Buddhism
Earlier, from the Brahmin era, India had one method of giving psychic powers. Such a method was completed and was sought after by some people. It is a mysterious power that comes from the rigorous training of the mind and body, and they have turned it into a technique. When
Please be aware that a certain “technology”, that is, “Ancient Marga” and “Shingon Esoteric Buddhism”, is a combination of the two. That is, the esoteric Buddhism in this book is yoga, Shingon esoteric Buddhism, and
It is a new technology created by connecting these two.
Readers should be familiar with this point, as it also explains the law of esoteric Buddhism, as it is to explain the reason why we had to do such a thing.
As the quote says, Mahayana Buddhism, which had come to a standstill, sought a way out of yoga technology. As I mentioned earlier, the high leap of the mind must be premised on the high amplification of the sensory organs. However, Mahayana Buddhism has only teaching and no technique. It is a teaching of Mahayana Buddhism, it only makes the teaching clear, and there is nothing that should be called technology. unintentionally
It is natural to get stuck in, and it is even more natural to seek salvation from yoga technology in due course.
It was a big deal.
Thus, Kongo Mahayana and Shingon Esoteric Buddhism were born. As I mentioned earlier, yoga has five skill development techniques, in the words of Professor Georges Olivier. It is (1) understanding of the fourth dimension, ability to grasp the complicated whole at once, (3) acquisition of the sixth sense, (4) infinitely developed moral consciousness, (5) especially.
It is a spiritual characteristic that is incomprehensible to our enlightenment, but these skills of skill development were not directly incorporated into Mahayana Buddhism. Naturally, there was one deflection slope.
Not surprisingly, Mahayana Buddhist leaders adopted this technique in line with their belief in Buddhist doctrine and its purpose. Techniques that appear to be uncommon have been abandoned, or have been addressed or transformed by only a few leaders. In this way, a new doctrine and system called secret Buddhism was completed. However, many good development techniques have been transformed into auxiliary techniques to complete this Buddhist doctrine.
I was forced to do it. Or only the skeleton was kept. This was the “law” of secret Buddhism.
The ultimate completion of this was Japanese esoteric Buddhism, the founder of the Shingon sect, Kukai. By the time Secret Buddhism was sung from India to China, when Kukai, which spanned China, came into contact with it, Secret Buddhism was not yet complete. Select the chaotic material and see this now
It was Kukai who put together the Shingon sect and made it an orderly religion. It was a feat that only a great genius could accomplish, but at the same time, secret Buddhism became too orderly and stylized Japanese. Most of the esoteric part that remained until then was almost hidden, and the “one-law” became a stylized religious ritual.
However, it was unavoidable in the context of the national situation and cultural standards of the book at that time. Rather, it should have been natural. Otherwise it exists as a religion
I couldn’t stand.
However, because of that, the “law” has lost its power as it is now. True capacity development is difficult in the religiously stylized and ritualized “law.” I say

 駄如求聞持明法 memorization ability and intelligent system

 

 

駄如求聞持明法 memorization ability and intelligent system

それによると、それは、″四神足“または、″四如意足″ともいわれる超能力開発法である。

ブッダは、菩提を成就するためには、単に、知性や理性をみがくだけでは不十分であると考え、知性や理性の限界をうち破る力が必要であると考えた。

そのために、彼は、そういう力を開発するための行法をつくりあげた。それは、彼が学んだ超能力開発法を加えて編成したものと見てよいであろう。
それは、三十七種の技法から成り立つもので、四神足というのは、その中心になる技術である。

神通、如意を得るための定を、四種類の手法に分けて説明している。

欲神足(願望、理想、創造のためのアプローチ)

勤神足(体と心のトレーニング法)

心神足(潜在意識のトレーニング法)

観神足(深層意識のトレーニング法)

きづまりを打破するために、大乗仏教のなかにとり入れられて体系化され、密教と呼ばれになったのである。いうわけで、密教は二つの面を持っている。

一つは、超能力の開発技術
一つは、大乗仏教の教義この二つである。

 

 

人が宗教的教えを必要とナるのは、知的能力が低いからである。要するに、愚かだからである。人の道徳意識が低いのは、知能、精神能力が低いからだ。ほんとうに知能が高くなれば、人は、いま人類の持っている程度の宗教意識などけるかに超えたもっと高い倫理観を持つ。

オリヴイエ教授のいう「無限に発展した道徳意識の保有」である。

教え(宗教)による人類の道徳意識の開発は、すでに限界に達してしまっている。

見よ。

 

地上にあまねくくりひろげられている人類のこの大愚行を。殺し合い、奪い合い、罵り合い。どこに「知恵あるヒト」のおもかげがあるか? 「大愚人類」そのものではないか?

要するに、バカにいくら結構な教えを説いてもだめなのだということだ。

もっと忌憚なくいわしてもらうならば、(これは私がいうのではない。みんな密教の神サマがおっしやるのであります)ちっとましなバカが、しょうのないバカに一心に教えを説いているというのが、いまの宗教のすがたというものではないのか?

宗教だけではない。科学と技術だってそうではないか。見さかいなくいい気になっていろんなものをつくり出し、あとで公害だ有害物質だと困っている。こういうおろかなことは、もう少し人類の知能が高くなったら、そんなバカなことはたのまれなくともしなくなる。要するに知能が低いからだ。

政治も、経済、思想も、みんなそうだと、あなたは真実思わないか?

要するに、すべて、″ヒトの知能が低い″ことに原因があるのである。

この世界を住みよく、たのしいものにするのには、革命ごっこよりもなによりもまず、ヒトの知能を高めることだ。そう、あなたは思わないか?

さて、話をもとにもどそう。
教えの限界とはヒトの知能の限界だ。
密教はその限界をうち破るのである。
技術によって超能力をあたえ、いっきょにヒトを改造して、宗教などという低い次元をいっぺんに飛び越し、想像を絶する叡智を持った、高い倫理的生物をつくり出そうというのだ。
それが、密教だ。求闘持法《明星》

 

According to it, it is a supernatural power development method also called “Iddhipada” or “Iddhipada”.

Buddha thought that simply brushing intellect and reason was not enough to fulfill the bodhi, and that he needed the power to break the limits of intellect and reason.

To that end, he created a method for developing such powers. It can be seen as an addition to the psychic development methods he learned.
It consists of thirty-seven kinds of techniques, and Iddhipada is the central technique.

He explains Shinto, the rule for getting the will, by dividing it into four types of methods.

Desire foot (desire, ideal, approach for creation)

Work God’s foot (body and mind training method)

Mind god foot (subconscious training method)

Kanjin foot (deep consciousness training method)

In order to break the stalemate, it was incorporated into Mahayana Buddhism and systematized, and became known as esoteric Buddhism. So esoteric Buddhism has two sides.

One is the development technology of supernatural powers.
One is the doctrine of Mahayana Buddhism.

 

 

 

People need religious teaching because of their low intellectual ability. In short, it’s stupid. People’s moral awareness is low because their intelligence and mental abilities are low. If the intelligence is really high, one will have a higher ethical sense that goes beyond the religious consciousness that human beings have now.

This is what Professor Oliveyer calls “the possession of an infinitely developed moral consciousness.”

The development of human moral awareness through teaching (religion) has already reached its limit.

Behold.

 

This great folly of mankind that is spread all over the earth. Killing, scrambling, and swearing. Where is the essence of “wisdom humans”? Isn’t it the “great fool” itself?

In short, no matter how much you teach a fool, you can’t.

To be more frank, (I’m not saying this, everyone is esoteric god Sama), a sardine idiot is preaching to a sardine idiot. But isn’t it the shape of the current religion?

It’s not just religion. Isn’t it the case with science and technology? I feel good about it and create various things, and later I am in trouble that it is a toxic substance that is a pollution. Such stupid things will not be uncommon if human intelligence becomes a little higher. In short, it has low intelligence.

Don’t you think it’s true that politics, economy, and thought are all the same?

In short, it’s all due to “low human intelligence”.

To make this world livable and enjoyable, first and foremost, to enhance human intelligence, rather than playing a revolution. Yeah, don’t you think?

Well, let’s get back to the story.
The limit of teaching is the limit of human intelligence.
Esoteric Buddhism breaks that limit.
They are trying to give supernatural powers by technology, remodel human beings together, jump over the low dimensions such as religion at once, and create highly ethical creatures with unimaginable wisdom.
That is esoteric Buddhism. Fighting possession method “Meisei”

 駄如求聞持明法 memorization ability and intelligent system

 

駄如求聞持明法 memorization ability and intelligent system

 

 

求聞持聡明法の秘密

空海と覚と私

私は定に入っていた。

ひたすらふかい制に入っていた。

修するは求聞持聡明法。 三度目の修法であった。

最初は真言宗密教の行法に掘った。完全な失敗であった。それは集中力を高めるという効果は あったが、それ以上のものではなかった。 つぶさにこの行法を検討して、私は、しょせん、真言 宗教の求聞持明法に、大脳皮質の構造を一変するごときシステムはないとの結論を得た。す くなくとも、従来のままの行法に、それだけの力はない。求聞持明法を成就して、悉地を得た 弘法大師空海は、あとにのこしたこの行法以外に、必ず、 なんらかの秘密技術を体得して いるのに相違なかった。彼ののこした求聞持法の行法は、その秘密技術のヒントになるべきもの のみをつらねたに過ぎず、その秘密技術はおそらく、自分自身の訓練努力によってみずから 見せよとつきはなしているのにちがいなかった。 それを発見するだけの努力をし、発見でき るだけの質のあるもののみがそれをわがものとする資格があるのだ、と、つめたく未来を見すている不世出の知性の目を、私は行法次第のなかに感じた。それゆえにこそ、宗教者としてゆ たかな天分を持つ興教大師覚が、七たびこれを修して失敗し、八度目にしてようやく悉地成就 を得たという解の行法となっているのである。そうでなければ、覚ほどの才能が、なんで七 たびも失敗しようか。

しかも、これを成就したという覚は四十歳代にして没している。 これを体得した私の経験 からいえば、この法を成就した者は、自分のからだを自由自在にコントロールして、欲するなら ば、百歳、二百歳の長寿もけっして不可能ではなくなるのである。しかるに、どうして求聞持法 を体得した覚が四十歳代という短命に終ったのか。覚が求聞持法を体得したというのはウソ であったのか?私は、彼がこの法を成就したことは真実であったと思う。 では、覚が夭折し たのはなぜであるか? 私は、求聞持明法の行法次第のなかにかくされた秘密をさぐり出すた めの血のにじみ出るような、いや、私をしていわしむれば五体から血の吹き出すような辛苦 が、彼のいのちをちぢめたのであろうと思う。 彼は八度目にしてついにこの秘密の技術を体得し たが、その時までに彼の生命力は消費しつくされ、再起できなかったのであろう。私は、この三 一度目の修法で持法の秘密を解き、悉地の成就を得るのであるが、それでは、私は、興教大師 覚上人よりも密教者としてすぐれているというのであろうか? そうではないのである。私 は、非常にしあわせなことに、弘法大師空海とおなじ立場にあったのだ。

それはどういう意味か?

空海と覚愛の相違、それは、空海は海外からのナマの技術に接したのであり、

こしたヒントのみによった、ということである。私は、空海が持法の最後の跡を体得した 海外に出て、外地の技術に接してからであると確信する。 その資料と思われるものも二、三 持っているが、彼は最初、外からもたらされたナマの技術(それは幼稚なものであったが) 自分でして半ば完成し、のち、外地にわたってすべての秘密を解いた、と私は考え

空海は彼の地でサンスクリット語を自由にあやつった。彼は、古代ヨーガの超技術を知って いたのに相違なかった。 彼ほどの天才がサンスクリット語を読み、書き、語りながら、密教の原 点であるヨーガにふれなかったとしたら不思議である。 彼の求聞持明法には、古代ヨーガの技 がひそんでいるのに相違なかった。けれども、野や来の山奥で、ひとり法を修する覚に はかなしいことに、古代ヨーガの技術はまったく無縁であった。 わずかに真言宗の行法のなか に見えかくれするものを必死に追いもとめ、自分の頭脳でこれを綴り合わせてゆくという至難以 上の作業に没頭せねばならなかった。彼の頭脳はついにこれを解いた。しかし、 その極に達していたであろう、と私は心から同情にたえない。

私は空海とおなじ立場に立つ。いや、千年の時代の流れは、私に空海以上の便宜をあたえてく れている。彼の何倍もの資料を私は居ながらにして手に入れている。 二度目の修法に、私は、古 代ヨーガの技術をとり入れた。 ひしひしと感待するものがあった。五〇日のその行で、持法成就はみられなかったが、私の考えのまちがいでなかったことがよくわかった。 この方法で、 持法はかならず成就する。 つよい確信を得た。この技法を積みかさね、延長してゆけばよ い。 これしかない。 ぜったいの自信を得た。

この、私の技法によれば、従来のごとく、山にこもって五〇日ないし一〇〇日、明星を拝しつ づける必要がなかった。 常住座、閑寂の部屋ならば、時ところをえらばなくてもよいのであ った。ただ、最初の三日ないし七日間、して明とあい対し、これをふかく脳裡にとどめて おけばよかった。あとは、三〇日、五〇日、一〇〇日、よしんば一〇〇〇日かかろうとも、日常 生活 のうちにトレーニングを積みかさねてゆけばよいのであった。この発見はすばらし いものであった。これでなくては、法はついに民衆と無縁のものになってしまう。五〇日、10 〇日、特定の山にこもらねば成就しないというのでは、ごくかぎられた人たちのみしか参加する ことはできない。民衆と無縁になってどこに法の存在価値があろう。私は、このシステムによっ この法を完成せねばならぬ。 法のために、民衆のために、どうしても。

そして、三度目の必死の修法に私は入っていた。

それは、ほぼ一〇〇日目、私の法のシステムでいって百度目のトレーニングのときであった。 真言宗に伝わる求聞持法の種の印明、それに、古代ヨーガに伝わる特殊な呼吸法 古代ヨーガ の秘法から私が創案した特殊な手印とポーズ、この三つによるトレーニングで、私のからだと大 脳皮質と脳髄は、微妙な変化をおこしつつあることが感じられていた。 チャクラの開発も順調に

すすんでいた。機が熟しつつあることを、私の六感は感じていた。

まろんだような感じであった。しかし、ねむりではなかった。 いかの感覚であった。かる 心、めまいに似ていた。忘我の一瞬であった。その私は苦痛の叫びをあげていた。脳の一角に電流がながれた感覚が走った。落雷があったと 感じた。目の前を電が走った、つぎの瞬間、駅前でフラッシュをたかれたように、私の視野は 真っ暗になった。失明! という考えが、チラリと脳裡をよぎった。と、そのときであった。 頭の内、深部にポッカリとあかりがともったのだ。そして、それは、私のとおなじリズ ムで、しずかに、しずかにまたたきはじめた。ちょうど、この修法をはじめる数十日まえ、山に こもって見つめたあのときのけの明星のようにそれはつめたく、黄ばんだ白さでまたたい た。

私は力いっぱいをたたいた。

「そうか! これが明星だったのか!」

私は目をみはって叫んだ。私はついに明星の秘密を発見した!

 

ている。

ている不世出の知性の目を、私は行法次第のなかに感じた。それゆえにこそ、宗教者としてゆ たかな天分を持つ興教大師覚が、七たびこれを修して失敗し、八度目にしてようやく悉地成就 を得たという解の行法となっているのである。そうでなければ、覚ほどの才能が、なんで七 たびも失敗しようか。

しかも、これを成就したという覚は四十歳代にして没している。 これを体得した私の経験 からいえば、この法を成就した者は、自分のからだを自由自在にコントロールして、欲するなら ば、百歳、二百歳の長寿もけっして不可能ではなくなるのである。しかるに、どうして求聞持法 を体得した覚が四十歳代という短命に終ったのか。覚が求聞持法を体得したというのはウソ であったのか?私は、彼がこの法を成就したことは真実であったと思う。 では、覚が夭折し たのはなぜであるか? 私は、求聞持明法の行法次第のなかにかくされた秘密をさぐり出すた めの血のにじみ出るような、いや、私をしていわしむれば五体から血の吹き出すような辛苦 が、彼のいのちをちぢめたのであろうと思う。 彼は八度目にしてついにこの秘密の技術を体得し たが、その時までに彼の生命力は消費しつくされ、再起できなかったのであろう。私は、この三 一度目の修法で持法の秘密を解き、悉地の成就を得るのであるが、それでは、私は、興教大師 覚上人よりも密教者としてすぐれているというのであろうか? そうではないのである。私 は、非常にしあわせなことに、弘法大師空海とおなじ立場にあったのだ。

それはどういう意味か?

空海と覚愛の相違、それは、空海は海外からのナマの技術に接したのであり、

こしたヒントのみによった、ということである。私は、空海が持法の最後の跡を体得した 海外に出て、外地の技術に接してからであると確信する。 その資料と思われるものも二、三 持っているが、彼は最初、外からもたらされたナマの技術(それは幼稚なものであったが) 自分でして半ば完成し、のち、外地にわたってすべての秘密を解いた、と私は考え

空海は彼の地でサンスクリット語を自由にあやつった。彼は、古代ヨーガの超技術を知って いたのに相違なかった。 彼ほどの天才がサンスクリット語を読み、書き、語りながら、密教の原 点であるヨーガにふれなかったとしたら不思議である。 彼の求聞持明法には、古代ヨーガの技 がひそんでいるのに相違なかった。けれども、野や来の山奥で、ひとり法を修する覚に はかなしいことに、古代ヨーガの技術はまったく無縁であった。 わずかに真言宗の行法のなか に見えかくれするものを必死に追いもとめ、自分の頭脳でこれを綴り合わせてゆくという至難以 上の作業に没頭せねばならなかった。彼の頭脳はついにこれを解いた。しかし、 その極

に達していたであろう、と私は心から同情にたえない。

私は空海とおなじ立場に立つ。いや、千年の時代の流れは、私に空海以上の便宜をあたえてく れている。彼の何倍もの資料を私は居ながらにして手に入れている。 二度目の修法に、私は、古 代ヨーガの技術をとり入れた。 ひしひしと感待するものがあった。

 

The Secret of the Inquisition and Knowledge

Kukai, Satoru and I

I was in.

I was in a deep system.

To fix is to seek wisdom. It was the third repair.

At first, I dug into the practices of Shingon sect Esoteric Buddhism. It was a complete failure. It helped me concentrate, but nothing more. After examining this practice in detail, I have come to the conclusion that there is no system in the Shingon Religious Gumonjimyoho that would completely change the structure of the cerebral cortex. Even without him, the conventional method of conduct does not have that much power. Kobo Daishi Kukai, who had attained all the land by fulfilling the Gumon Ji Ming Law, must have mastered some secret technique other than this practice that he left behind. The practice of the Kumon Niho that he left behind was nothing more than a hint of his secret technique, and the secret technique was probably to be shown by himself through his own training efforts. They must have been talking. The eyes of an unparalleled intellect staring into the cold future, that only those who make the effort to discover it, and whose quality is sufficient to discover it, are entitled to possess it. , I felt in the course of action. It is for this very reason that Kogyo Daishikaku, who possesses a high degree of genius as a religious person, has failed in this practice seven times, and finally attained perfection on the eighth attempt. There is. Otherwise, how could someone as talented as Satoru fail seven times?

Moreover, the fact that he had achieved this goal passed away when he was in his forties. From my own experience of this, I can say that a person who has attained this Dharma can control his or her body at will, and if he wishes, he will live a long life of 100 or 200 years. of. However, why did Satoru, who mastered the Gumonjiho, live so short a period of his forties? Was it a lie that Satori mastered the Kumonji Dharma? I think it was true that he achieved this Dharma. Then, why did Satoru die so young? If I may say so, I think that the hardships that caused blood to spurt from all of his bodies must have shortened his life. He finally mastered this secret technique on the eighth time, but by then his life force would have been exhausted and he would not be able to recover. In this thirtieth practice, I will unravel the secrets of the Dharma and achieve perfection in all areas, but am I a better esoteric Buddhism than Kakushonin? It is not so. I was very fortunate to be in the same position as Kobo Daishi Kukai.

what does that mean?

The difference between Kukai and Kakuai is that Kukai came into contact with raw technology from overseas,

It is said that it was based only on the hints that were given. I believe that it was only after Kukai learned the last traces of the law that he went abroad and came into contact with foreign technology. I have two or three materials that I believe to be the materials for this, but at first he did it by himself and semi-completed the raw techniques brought in from outside (although they were childish), and later transferred them to other countries. I think I’ve unlocked all the secrets

Kukai freely manipulated Sanskrit in his land. He must have known the super-techniques of ancient yoga. It would be strange if a genius like him read, wrote, and spoke Sanskrit, but did not come into contact with yoga, the origin of esoteric Buddhism. There was no doubt that ancient yogic techniques were hidden in his teachings. However, in the remote mountains of Noyarai, he sadly had no connection to the techniques of ancient yoga. I had to devote myself to the extremely difficult task of desperately searching for what he could see and hide in the Shingon Buddhism practice and putting it together with my own brain. His brain finally figured this out. But he would have reached that extreme, and I sincerely sympathize with him.

I stand in the same position as Kukai. No, the passage of a thousand years has given me more convenience than Kukai. I have many times more materials than he does while I am here. In my second practice, I adopted ancient yoga techniques. There was something I was really looking forward to. In that practice on the 50th, I didn’t see any fulfillment of the Dharma, but I understood well that I was not mistaken in my thinking. In this way, the Dharma is sure to be fulfilled. I got a strong conviction. If you accumulate this technique and extend it, he is. only this one. I gained a lot of confidence.

According to my technique, there was no need to stay in the mountains and watch the morning star for 50 or 100 days, as in the past. If it was the Jojuza, a quiet room, then there was no need to choose a time and place. All he had to do was meet Ming for the first three to seven days, and keep this in his mind. After that, even if it took 30 days, 50 days, 100 days, or even 1,000 days, all I had to do was accumulate training in my daily life. This discovery was a wonderful thing for him. Without this, the law would eventually become irrelevant to the people. If only a very limited number of people participated in the project, it would be impossible for him to achieve success if he stayed in a specific mountain for 50 or 100 days. What is the value of the existence of the law when it has nothing to do with the people? I believe that by means of this system he must complete this law. For the law, for the people, by all means.

And I was in the third desperate ritual.

It was almost the 100th day, the 100th training in my legal system. Indications of the seeds of Gumonjiho passed down in Shingon Buddhism, special breathing methods passed down in ancient yoga, and special hand marks and poses that I created from the secrets of ancient yoga; It was felt that the cerebral cortex and spinal cord were undergoing subtle changes. Good chakra development

I was progressing. My senses sensed that the time was ripe.

I felt like I was mellowing. But it wasn’t sleep. What a feeling it was. The heart was like dizziness. It was a moment of forgetfulness. I was screaming in pain. I felt an electric current run through one corner of my brain. I felt that there was a lightning strike. Electricity ran in front of me, and the next moment, my field of vision became pitch black, as if a flash had been fired in front of the station. The thought of blindness flashed through my mind. It was then. A light suddenly lit up deep inside my head. And it began to blink softly, softly, in the same rhythm as mine. Just a few dozen days before starting this ritual, it was cold and yellowed white, like the morning star that he stared at in the mountains.

I hit with all my might.

“I see! Was this the morning star!”

I opened my eyes and cried. I finally discovered the secret of the morning star!

 

ing.

I could sense the unparalleled intellect that was watching me. It is for this very reason that Kogyo Daishikaku, who possesses a high degree of genius as a religious person, has failed in this practice seven times, and finally attained perfection on the eighth attempt. There is. Otherwise, how could someone as talented as Satoru fail seven times?

Moreover, the fact that he had achieved this goal passed away when he was in his forties. From my own experience of this, I can say that a person who has attained this Dharma can control his or her body at will, and if he wishes, he will live a long life of 100 or 200 years. of. However, why did Satoru, who mastered the Gumonjiho, live so short a period of his forties? Was it a lie that Satori mastered the Kumonji Dharma? I think it was true that he achieved this Dharma. Then, why did Satoru die so young? If I may say so, I think that the hardships that caused blood to spurt from all of his bodies must have shortened his life. He finally mastered this secret technique on the eighth time, but by then his life force would have been exhausted and he would not be able to recover. In this thirtieth practice, I will unravel the secrets of the Dharma and achieve perfection in all areas, but am I a better esoteric Buddhism than Kakushonin? It is not so. I was very fortunate to be in the same position as Kobo Daishi Kukai.

what does that mean?

The difference between Kukai and Kakuai is that Kukai came into contact with raw technology from overseas,

It is said that it was based only on the hints that were given. I believe that it was only after Kukai learned the last traces of the law that he went abroad and came into contact with foreign technology. I have two or three materials that I believe to be the materials for this, but at first he did it by himself and semi-completed the raw techniques brought in from outside (although they were childish), and later transferred them to other countries. I think I’ve unlocked all the secrets

Kukai freely manipulated Sanskrit in his land. He must have known the super-techniques of ancient yoga. It would be strange if a genius like him read, wrote, and spoke Sanskrit, but did not come into contact with yoga, the origin of esoteric Buddhism. There was no doubt that ancient yogic techniques were hidden in his teachings. However, in the remote mountains of Noyarai, he sadly had no connection to the techniques of ancient yoga. I had to devote myself to the extremely difficult task of desperately searching for what he could see and hide in the Shingon Buddhism practice and putting it together with my own brain. His brain finally figured this out. However, the extreme

I have full sympathy.

I stand in the same position as Kukai. No, the passage of a thousand years has given me more convenience than Kukai. I have many times more materials than he does while I am here. In my second practice, I adopted ancient yoga techniques. There was something I was really looking forward to.

 駄如求聞持明法 memorization ability and intelligent system

 

駄如求聞持明法 memorization ability and intelligent system

 

 

 

天才にする求聞持聡明法

求聞持聡明法は、ヒトを聡明にし、天才にするという真言密教に伝わる秘法である。 弘法大師空海が、若くしてこれを修し、大天才となったということで、肌に知られ ている。また、新義真言宗の開祖、興教大師覚義(一〇九五一一四三)が、 七度、 この法をして成功せず、八度目に悉地を 覚上人の 成功したと伝えられる。 のこされた業績をみれば、上人もまた天才であったことは疑いない。ただ残念なに、四十八歳で亡くなられている。

 

 

真言密教の求聞持聡明法には、三種の法がある。

 

虚空蔵求聞持

観音求聞持

如意輪寺 であるが、

ふつう、求聞持法といえば、空海が修して有名な虚空求聞持をさす。 この法を具には「仏説虚空蔵菩薩能満諸願最勝心陀羅尼求聞持法」という。 しかし、わたくしがこのたびこの本で発表する求聞持明法は、これらのいずれでもない。わたくし名づけた。

 

、わたくしはこれに

駄如意求聞持明法

この都如意求聞持聡明法は、真言密教につたわる求聞持法とはまったくちがうも のである。

二つの特徴がある。

それは、

クンダリニー・ヨーガのチャクラを覚醒して、超人的エネルギーを発生させる。 その超人的エネルギーを、中国・道教につたわる導引・気功の持つ生気ルー にのせて、体の各要所要部にめぐらせ、行きわたらせる。殊に大脳の中 である視床下部に送りこむ。

この二つの方法を、独特の方法で完成したのである。これは、前人未踏の領域であ るといってよいであろう。

わたくしは、半生を、というより、一生をこの法の完成に注いだ。 いまから約三〇 年前に発行した「変身の原理」以来、わたくしの著書はこの本で四〇になるが、そ これらの著書のすべてが、この法の完成に至る道のりをあらわしたものであるといって

わたくしは、この本で、わたくしの得たほとんどのものを、出来るかぎり、明らか にした。

クンダリニー・ヨーガも、道教の導引・気功、いずれも超人的能力を獲得するた めの最高の法である。この世界にこれ以上の超能力開発法はない。この二つの法の欠 を補正して融合させ、さらにあらたな創案をくわえて完成したこの都如意求聞持 明法は、ヒトにおける究極の超能力開発法であると自負するのである。

もちろん、後世おそるべし”という諺の通り、今後これ以上の超能力開発法も出 るかも知れないが、しかし、それも、クンダリニー・ヨーガと導引・気功を融合させ たこの駄都如意求聞持明法のライン以外のものではないであろうと確信している。 この法を指導通りに修行するならば、確実に、ヒトの知能は二倍に、体力は三倍 飛躍強化されるであろうことを断言する。

天才は不老長寿でなければならない

求聞持聡明法は、たしかにヒトを天才にする。

しかし、いくら天才になっても、そのために、病弱になったり、若死にしたりした では、なんにもならない。

天才は、いつまでも若々しく、健康で、世のため人のため、その才能を発揮する ものでなくてはならない。(寝たっきりの天才など、まっぴらである)

求聞持明法修得をこころざしたわたくしは、つねに、四十八歳という惜しむべき 短命に終わった興教大師覚上人が念頭にあった。 上人は、おそらく、過酷な求聞持 法修行のため法は成就したものの、体を痛め、寿命を損じたのにちがいなかった。 このことは、年少 結核を病んで何年も病床に伏した苦しい経験を持つわたくしに とり、その恐れの念が特に深刻であった。

しかし、この憂慮は、幸いにして憂におわった。

道の導引・気功の秘法をとり入れたことが、この心配を吹きとばしてくれたので

すなわち、道教の導・気功は、仙道の流れを汲むものである。 そして仙道の理想 は、不老長寿、生きながら神仙に化することを目標とする。

都如意求聞持聡明法は、特に不老長寿を目ざすものではなかったのだが、結果は そうなってしまったのである。

期せずして、仙道の理想が実現されることになったのだ。

神に化することだけはちょっとむずかしいが、不老長寿はかならず達成される。

わたくしは断言してよい。 仙道の秘法がとり入れられているこの都如意求聞持聡 明法は、二十歳代の人ならば、三歳から五歳、中年以上の人ならば、十歳から十五歳、 返ることができるであろう。

だから、もしもー。

もしも、である。

あなたが高年者として修行に入り、年齢のために天才になれなかったとしても、い つまでも若々しい肉体と、そして決してボケることのない未聞だけは獲得できる であろう。

のか。

求聞持聡明法があたえる不思議な知

さいごに、都如意求聞持明法という名称の由来をのべておこう。

真言密教の胎蔵界マンダラ第三重南面に、除障院というマンダラがえがかれてい

障というのは、人間と人間社会におけるすべての直隆(文字の通り、のよう 覆っている障害)をとりのぞくという意味で、その障をとり除く仏たちがまつら れているのが、除障院である。

この院の主尊、すなわち中心の仏を「不思議慧」という。

そのおすがたは、左手に蓮華を持ち、蓮華上に摩尼宝珠(如意宝珠)を置き、右の 手は無印を組んで、胸の前に上げている。 このおすがたはなにを表現している

仏のさずける不思議をしているのである。

というのは、一切の災禍をとり除いて、いかなる不安もない平穏無事の世界 を実現するということで、それを実現するのが、不思議な仏のであるというの である。

不思議というのは、人間の思慮ではおしはかることのできない次元のことをいい

不思議慧菩薩は、その不思議な智慧を象徴した仏である。 では、その不思議な仏の智慧はどこから来るのか?

それは左の手の蓮華の上に奉安された、摩尼宝珠から来るのである。

持法のあたえる智慧は、この不思議な仏の智慧なのである。この仏の智慧

不思議なはたらきによって、

この地上の一切の笑

核戦争・環境破壊・貧困

という。

等を減除して、無異なる世界を実現するのである。

都如意求聞持明法の奥の修行に入ると、この摩尼宝珠が、特殊な観法の中心 となる。これなくしてこの法の成就はない。(如意宝珠法に関係があるのである) 宝珠というのは、仏陀シャカの御聖真身舎利のことで、真身を「駄都」

これを以て、都如意求聞持聡明法と名づけたのである。

真身舎利を本尊としてまつる阿含宗が、この都知求聞持明法を完成したのは、 決して偶然ではなかったのだと、つくづく思わざるを得ないのである。

 

 

How to become a genius

Gumonji Shumeiho is a secret method passed down in Shingon Esoteric Buddhism that makes people smart and geniuses. It is well known that Kobo Daishi Kukai practiced this at a young age and became a great genius. It is also said that Kokyo Daishi Kakugi (1095-1143), the founder of the Shingi Shingon sect, practiced this method seven times without success, but on the eighth time he gave it up and succeeded. . Looking at his accomplishments, there is no doubt that Shonin was also a genius. Unfortunately, he passed away at the age of 48.

 

 

 

There are three types of methods in Shingon Esoteric Buddhism:

 

Kokuzo Gumonmochi

Kannon Gumonmochi

Although it is Nyoirinji Temple,

Usually, when we talk about Gumonjiho, we mean Koku Gumonji, which was famously practiced by Kukai. This method is called “Buddhist theory of Kokuzo Bodhisattva, Noman, Man, and All Vows, Most Winning Mind Darani, Gumonji,”. However, the method I am presenting in this book is none of these. I named it.

 

, I do this

Danyoinkyomonjimeiho ​

This Miyako Nyoi Gomonji Somyoho is completely different from the Gomonjiho that is related to Shingon Esoteric Buddhism.

There are two characteristics.

it is,

Awaken the Kundalini Yoga chakra and generate superhuman energy. That superhuman energy is circulated and distributed to each important part of the body by placing it on the vitality lu of Qigong, a guiding technique that has been passed down to China and Taoism. In particular, it is sent to the hypothalamus in the cerebrum.

These two methods were completed using a unique method. It can be said that this is unexplored territory.

I have devoted half my life, or rather, my whole life, to perfecting this law. This is the 40th book I have written since “The Principle of Transformation,” which I published about 30 years ago, and all of his books express the path to perfection of this law. to say that it is a thing

I have made it as clear as possible that most of what I got from this book.

Kundalini yoga, Taoist guidance, and Qigong are all the best methods for him to acquire superhuman abilities. There is no better way to develop superpowers in this world. We are proud to say that this method, which has been completed by correcting and merging the deficiencies of these two methods and adding new ideas, is the ultimate method for developing psychic abilities for humans.

Of course, as the proverb says, “I am afraid of future generations,” there may be other methods of developing psychic abilities in the future, but that is not the case with this Dato Nyoi-shu, which combines Kundalini Yoga with Guidance and Qigong. I am convinced that it is nothing other than the line of Kikiji Myoho. If you practice this method as instructed, your intelligence will definitely double and your physical strength will be tripled. Assert what will happen.

A genius must be eternally young and long-lived.

It is true that the method of learning to be intelligent makes a person a genius.

However, no matter how much of a genius he becomes, if he becomes sickly or dies young as a result of that, it will never amount to anything.

A genius must be forever young, healthy, and able to demonstrate his talent for the good of the world and people. (A bedridden genius is a complete stranger.)

When I set out to acquire Gumon Jimyoho, I always had in mind Kokyo Daishi Kaku Shonin, whose life was unfortunately short at the age of 48. The priest probably achieved the Dharma due to the harsh practice of Gumonjiho, but it must have hurt his body and shortened his lifespan. This fear was especially acute for me, who had the painful experience of being hospitalized for many years with tuberculosis as a young child.

However, this concern was fortunately put to rest.

By adopting the secret techniques of Tao Guidance and Qigong, I was able to dispel this worry.

In other words, Taoist guidance and qigong are descended from Xiando. The ideal of Sendo is to achieve eternal youth and longevity, and to become a divine being while still alive.

Although his “Do Nyoi Gumon Jisomeiho” did not specifically aim for eternal life and longevity, that is what he ended up achieving.

Unexpectedly, the ideal of Sendo was realized.

It is a little difficult to become a god, but eternal youth and longevity can definitely be achieved.

I can definitely say that. This method, which incorporates the secret method of Sendo, is recommended for people in their 20s between the ages of 3 and 5, and for middle-aged and older people between the ages of 10 and 15. You will be able to do it.

So, what if?

What if?

Even if you enter training as an old man and are unable to become a genius because of your age, you will always have a youthful body and a new knowledge that will never fade. Dew.

Is it?

Mysterious knowledge provided by Gumonjisomeiho

Finally, let me explain the origin of the name “Tonyoi Gumon Jimyoho.”

On the south side of the third layer of the Womb World Mandala of Shingon Esoteric Buddhism, there is a mandala called Jōshōin.

“Disability” means removing all the obstacles that exist in humans and human society, and the Buddhas who remove these obstacles are enshrined at the Disabled Temple. .

The main deity of this temple, the central Buddha, is called “Mysterious Kei”.

The figure holds a lotus flower in his left hand, places the Mani Jewel (Nyoi Jewel) on top of the lotus, and his right hand is folded in a muji pattern and raised in front of his chest. What does this figure represent?

They are doing the wonders of the Buddha.

He says that by eliminating all disasters, we can create a peaceful and safe world free of any anxiety, and that the person who will make this happen is the mysterious Buddha.

Mystery refers to dimensions that cannot be measured by human thought.

Bodhisattva Mysterious Wisdom is a Buddha who symbolizes this mysterious wisdom. So where does this mysterious Buddha’s wisdom come from?

It comes from the Mani Jewel, which was enshrined on the lotus in his left hand.

The wisdom imparted by the Dharma is the wisdom of this mysterious Buddha. This wisdom of Buddha

Due to its mysterious workings,

All the laughter on this earth

Nuclear war, environmental destruction, poverty

That’s what it means.

By subtracting and dividing etc., we can realize a world without differences.

When one enters into the deep training of Dunyo Gumon Jimyoho, this Mani Jewel becomes the center of a special way of viewing. Without this, this law cannot be fulfilled. (It is related to the Nyoi Hoju Dharma.) The Hoju refers to Buddha Shaka’s Holy True Body Shari, and the True Body is “Dato”.

This is why he named it “Du Nyoi Gumon Jishimeiho.”

I can’t help but think that it was no coincidence that the Agon sect, which enshrines the Shinshin Shari as its principal object of worship, perfected Tochigumon Jimyoho.

 駄如求聞持明法 memorization ability and intelligent system

駄如求聞持明法 memorization ability and intelligent system

 

求闘持聡明法一一一変身のカリキュラム

 

 

求聞持聡明法秘伝

 

チャクラを開発する三つの武器

 

求聞持聡明法による超能力開発は、ひと口にいうと、これまでくり返してのべてきたように、チャクラを開発して、そこから生ずる超人的子不ルギーを体の要所に送りこみ、それによって超人的な体力、超人的な精神力を獲得し、いごに、総合的な千不ルギーを脳に送って脳細胞を改造し、天才的な頭脳に変えてしまうというものである。

 

 では、いったい、人間の持つ何かそういう力を発揮するのであろうか?

 

次の三つの武器を使うのである。

  ―、意 念

  2、呼 吸

  3、筋 肉

 である。

 

 この三つを武器にして、チャクラを覚醒させ、また、チャクラェルギーを体の各所に送りこむのである。

 だが  、考えてみると、呼吸も、筋肉も、結局は、意念にょって操作されるものである。(潜在意識・深層意識をふくめこしたがって、究極的には、こころが主体となるわけである。

 

 じっさい、その通りであって、チャクラを開発するのも、チャクラにおいて発生させた超人的子ルギーを体の要点・要所に送りこみ、これを活動させるのも、すべてその原動力は、。こころ”なのである。こころがすべてなのだ。

 

こころとは、じつに偉大な力を持っているものなのである。

 

 だがそういうと、いったい心なんていうものにそんな力があるのだろうかと疑う人がいるかも知れない。それももっともなことと思われるが、しかし、人間の心というものはじつに不思議な力を持っているのである

意念むが持つ不思議な力

 多くの人びとは気がついていないが、適切な方法をもって訓練すると、人間の心は信じられないような不思議な力を発揮する。その例はいくらでもあげることが出来る。たとえば、『スーパーネイチュアLの著者、L・ワトスンは、

 

つぎのように述べている。

-もう一つの実用的なチペットの風習はツモである。この技能は風邪をひかないためのもので、大部分の上地が標高一万フィート以上の国では、非常に尊重される能力である。入門者はまず、呼吸と瞑想を組合わせた方法を学び、遠く人里離れた土地へ行って修行する。

毎日、氷のはった渓流で水浴し、体内に燃える火を想像しながら雪の土にはだかで座る。修行が完了すると、風の吹く冬の夜に試験が行われる。入門者は布にくるまれ、渓流にはった氷に穴をあけて、そこにつけられるのであるが、体温でその布を少なくともその夜の間に三回、完全に乾かさなければならない。この試験に合格すると、修行者は、四季を通じて、どんな高所でも、単衣の木綿の衣服しか身にまとわないようになる。いくつかのエベレスト登山隊は、万年雪におおわれた山地で、完全にはだかの隠者がちゃんと生活しているのを見たとさえ報告している。

 

 

 密教には、もっともっと高度の、人間を変えてしまう秘法がいくつもある。

しかし、その原理は一つである。心を使うのである。ただ、その使い方が問題である。L・ワトスンは、いともかんたんに、「体内に燃える火を想像しながら」と書いているが、それはそう単純なものではない。その修行者は、法に従って、深く微妙な心の使い方をしているのである。そしてまた、この修行は、

単に寒さにたえる能力だけを修行者にあたえるのではなく、寒さにたえる力は表面にあらわれただけのものであって、内面においてかれはもっともっと価値あるものを得ているはずなのである。そのことは、あなたも、これからしだいに理解されるようになるであろう。

 

 ところで、その「心」を、わたくしは、そのはたらきの上から、つぎのよう

に分類している。

 

  心・念・気

 である。

 意とは、意志、というように、心が一定の方向に向かって動いている状態を

さす。

念とは、意の動きが集中し高まって、ひとつの力を持つにいたった状態で、念力、という名がこれをよく表現している。

 

 気とは、念が或る方向に向かって身体の中を流れて行く状態である。ただし、この「気」には、意識的につくり出されたものと、無意識的・生理的に、自然に身体の中を流れているものと、二種類ある。たとえば、「元気だというような言葉で表現されるものである。そこで、見かたによっては、気を集中したものが念なのだ、ということも出来るであろう。もともと、心という一つのものを分けて考えているのであるから、そこのところはどうともいえるわけである。ここでは、便宜上このように分類して、「気」という場合は主として意識的につくり出されたものをいっていると考えていただきたい。

養…………ヽむをどのように使うのか?

 さて、それでは、その「心」をいったいどのように使うのであろうか?

心とは元来、この上なくとらえ難いものである。コロコロと常に動いてとどまらぬところから、これを約めてこころということになったのだといわれる位、

それは把握し難いものである。いったいどうやってこれを思う通りに駆使するのか?

 

 一つ、方法があるのである。

なにか?

 

呼吸である。

 

 心と呼吸とは、非常に密接な関係がある。

 心の状態がそのまま呼吸にあらわれ、呼吸の状態がそのまま心を映し出す。

心が静まれば、呼吸も静まり、呼吸を静めれば心も静まる。心と呼吸は一体なのだ。

 そこでI-、呼吸をコントロールすることにより、心をコントロールするという、高度のテクニックを使うのである。ここからスタートして、しだいに熟達し、ついには自分の思うように心を使うことができるようになるのである。

 

 いや、それだけではない。一歩すすんで、体(筋肉)をも、思う通りに使いこなすことができるようになるのである。というのは、呼吸は心と一体であるが、それだけではなく、体とも一体であるからだ。修行が進むと、今度は、呼吸と心が一体になって、心がえがくイメージ通り、不随意筋をも動かすようになるのである。

 

Curriculum of transformation

 

 

 

Gumonji Satoshi Hou Hidden

 

Three weapons to develop chakras

 

In a nutshell, the development of psychic powers by the Gumonji Satoshi method develops chakras and sends the resulting superhuman childhood irritability to key points of the body, as we have repeatedly mentioned. By doing so, it acquires superhuman physical strength and superhuman mental power, and in the meantime, it sends a comprehensive thousand chakras to the brain to remodel brain cells and turn them into genius brains. ..

 

Then, does it exert any kind of human power?

 

Use the following three weapons.

-, Intention

2, call sucking

3, muscle meat

It is.

 

Using these three weapons, awaken the chakras and also the chakra child irrugies

It is sent to various parts of the body.

However, when you think about it, breathing and muscles are, after all, manipulated by will. (Including the subconscious and deep consciousness, therefore, ultimately, the mind becomes the subject.

 

That’s right, the driving force is to develop the chakras, to send the superhuman child energy generated in the chakras to the main points and key points of the body, and to activate them. “Kokoro”. Kokoro is everything.

 

The heart is the one that has great power.

 

However, there may be some who wonder if the mind has such power. That seems reasonable, but the human mind has a mysterious power.

The mysterious power of will

Many people are unaware, but when trained in an appropriate way, the human mind exerts an incredible and mysterious power. You can give as many examples as you like. For example, “The author of Super Nature L, L. Watson,

 

It states as follows.

-Another practical tippet custom is Tsumo. This skill is to avoid catching colds and is a highly respected ability in most countries where the land is above 10,000 feet above sea level. Beginners first learn how to combine breathing and meditation, and then go to remote areas to practice.

Every day, I bathe in an icy mountain stream and sit naked in the snow, imagining the fire burning inside my body. Once the training is complete, the test will take place on a windy winter night. Beginners are wrapped in a cloth, pierced with ice in a mountain stream, and put on it, but at body temperature the cloth must be completely dried at least three times during the night. After passing this exam, the practitioner will only wear a single cotton garment at any height throughout the four seasons. Some Everest climbers have even reported seeing a completely naked hermit living in a snow-capped mountain range.

 

 

 

Esoteric Buddhism has a number of more advanced and human-changing secrets.

However, the principle is one. Use your heart. However, how to use it is a problem. L. Watson simply wrote, “Imagine a fire burning in your body,” but it’s not that simple. The practitioner uses the deep and delicate mind according to the law. And again, this training is

Rather than simply giving the practitioner the ability to withstand the cold, the ability to withstand the cold is only manifested on the surface, and he must have gained much more value on the inside. That will be understood by you as well.

 

By the way, from the top of its function, I would like to express that “heart” as follows.

It is classified into.

 

Mind, mind, and qi

It is.

The will is the state in which the mind is moving in a certain direction, such as the will.

As expected.

Psychokinesis is a state in which the movements of mind are concentrated and heightened to have one power, and the name psychokinesis often expresses this.

 

Qi is a state in which the mind flows through the body in a certain direction. However, there are two types of “ki”, one that is created consciously and the other that flows naturally in the body unconsciously and physiologically. For example, it is expressed by words such as “I’m fine.” Therefore, depending on how you look at it, you may be able to say that you should focus on what you are looking for. Originally, one thing called the mind is considered separately, so that can be said to be insignificant. Here, for convenience, we classify them in this way, and when we say “ki”, we would like you to think of it as something that was mainly consciously created.

Nourishment ………… How do you use ヽ?

Then, how do you use that “heart”?

The mind is, by nature, the most elusive. It is said that it was decided to reduce this from the place where it always moves and does not stop.

It’s hard to grasp. How do you make full use of this as you wish?

 

There is one way.

Something?

 

Breathing.

 

The mind and breathing are very closely related.

The state of mind appears in breathing as it is, and the state of breathing reflects the mind as it is.

If the mind calms down, the breathing calms down, and if the breathing calms down, the mind calms down. The mind and breath are one.

Therefore, I-, an advanced technique of controlling the mind by controlling breathing is used. Starting from here, you will gradually become proficient and eventually you will be able to use your mind as you wish.

 

No, that’s not all. You will be able to take a step forward and use your body (muscles) as you wish. Because breathing is one with the mind, but not only with the body. As the training progresses, the breathing and the mind become one, and the involuntary muscles move as the image of the mind evokes.

 

文殊菩薩 智慧を司る学問の神様として有名な菩薩

文殊菩薩(もんじゅぼさつ、mañjuśrī〈マンジュシュリー〉、mañjughoṣa[1]〈マンジュゴーシャ〉、‘jam dpal〈ジャンペル〉)は、大乗仏教の崇拝の対象である菩薩の一尊。一般に智慧を司る仏とされる[2]。その他、非人救済などの慈善事業を司るほか、日本真言律宗では慈母供養の象徴としての一面も重視された。

 

 

文殊菩薩

智慧を司る学問の神様として有名な菩薩

文殊菩薩(もんじゅぼさつ)とは?

正式名称は文殊師利菩薩(もんじゅしりぼさつ)といいます。「三人よれば文殊の知恵」という格言があるように、知恵の神様として学業向上や合格祈願に有名な菩薩です。モデルとなった人物が存在し、古代インドにあるコーサラ国の首都・舎衛国(しゃえこく)のバラモン階級の者だったといわれています。仏教の経典を書物にまとめる作業などに関わったといわれていますよ。ただし、本来は学問などの知恵を司るのは虚空蔵菩薩であり、文殊菩薩は物事のあり方を正しく見極める力・判断力を意味する「智慧」を司っています。

 

釈迦如来の左脇侍として普賢菩薩と共に三尊で並ぶことが多いですが、独尊で祀られることもあります。

ご利益

智慧明瞭、学業成就のご利益があるとされています。また、卯年の守り本尊です。卯年に生まれた人々の開運、厄除け、祈願成就を助けるといわれています。

文殊菩薩(もんじゅぼさつ)の像容

左手に剣と右手に経巻を持ち、獅子の上に置かれた蓮華台の上に座るのが一般的です。梵篋、金剛杵を立てた蓮台などを持つこともあります。