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人はどんな因縁を持つか 

人はどんな因縁を持つか

 これから、人の持つ因縁について解説するが、それでは、そういう因縁というものが、

どうして人間にあるのか、ここでは、あるからある、というよりほかない。強いて聞かれ

るならば、それならあなたはどうしてそういう顔をしているのであるかと聞かれた場合、

あなたは何と答えるか? こういう顔をして生れてきたのだから、こういう顔をしている

のである、とでも答えるはかないではないか。原因はともあれ、人間は、それぞれ様々な

因縁を持って生れて来、様々な因縁を持って生きているのである。その因縁という現象を

分析、解説してみよう。理屈は抜きにして、一読するならば、必ず、思いあたることがあ

ろう。卵が先に生じたのか、鶏が先に生じたのか、それを知らなくても、卵を食べ、鶏肉

を賞味するにはこと欠かぬのである。詳しくはあとの方で説明する。ここでは、まず、人

間が誰でも持っている「因縁」の種類についてのべよう。

      かうんすいたい

0  家運衰退の因縁

 この因縁は、家運、つまり家の運気が次第におとろえてきている家系に生まれている人

が持つ因縁である。

 こういう人は、父、あるいは祖父の代までは、かなりの生活をした家に生れている人が

多い。祖父か父の代あたりから、次第に家運が傾いてきている。そうして、自分の代にな

ってからぱ、なお一層はっきりと運が悪くなっている。相当の力量、才能、手腕があるの

だが、それを発揮する場を持つことが出来ない。そういうチャンスを持つことが出来ない。

そうして、自分よりも劣った者が追い越してゆくのを、みすみす歯ぎしりしながら見送る

ことになる。

 たまにチャンスがめぐって来そうになると、人の妨害、邪魔に遭ったり、或いは自分の

思わぬミスや病気などで、せっかくのチャンスを失ってしまう。要するに、一言でいうと

運が悪いのである。実力がありながら、妙にめぐり合わせが悪く、ウダツがあがらない。

年をとるほど運気がおとろえ、生活が悪くなっていく。

 

の因縁から出てくるのが、次に掲げる

     ちゅうと ざせつ

@   中途挫折の因縁

 という因縁である。

 この因縁を持つ人は、何をやっても、一応、七、八分通りまでは順調に進むが、あとも

うI、二分というところで必ずダメになる。決して実らないのである。この因縁を、一

名、「虚花の命」というのは、「七重八重、花は咲けども山吹の、実のひとつだになきぞ悲

しき」という古歌の山吹の花と同様、花咲けども実らず、すべてムダ花であるというとこ

ろからきているのである。よそ目には華やかに見えて、内実は空しいのである。苦労した

あげく、さいごの収穫はごっそりと人に持ってゆかれてしまう。

 この因縁を持つ人は、わりあい運気(生命力)の強い人が多く、中途で挫折しては、ま

た立ち上って仕事をし、また七、八分通りで挫折して、そのままになるかと思うとまた立

ち上って、また挫折する、というように、七転八起の起伏のはげしい人生を送る人が多い。

そうして、結局は、挫折したままで終るのである。

 大体、因縁のあらわれ方には二通りあるのであって、その囚縁が、そのままその人の恍

格にあらわれている場合と、性格には全然あらわれない場合とがある。

 この中途挫折の因縁の場合も、この因縁がそのまま性格にあらわれて、非常に気の弱い

意志薄弱の型と、逆に、非常に気のつよい意志強固の型がある。

 意志薄弱のタイプは、何をやってもすぐにあきてしまって、ながつづきしない。気うつ

りがぱげしい。学業、職業、すべてがそうで、転々とする。文字通りの中途挫折、薄志弱

行の型である。

 もう一つのほうは、これと全く反対で、性格もつよく、意志も強固で、努力家でもある。

然るに、かえってその強さが人と相容れず、上の者と衝突したり、同僚と円満に協調出来

なかったりして、失敗し、挫折する。あるいは、ここ一番という大事なところで、きまっ

てつまらぬミスをしたり、人の誤解をうけたり、妨害をうけたりする。また、病気や怪我

などで手違いが生ずる、というように、必ずなにかしら障害が発生して、チャンスをつぶ

すのである。

 先日、わたくしを訪ねて来た人に、そういう人がめった。

 四十七、八歳の会社員で、立派な人物であったが、この人に、この因縁があったのであ

 

る。聞いてみると、今までに八回も勤め先を変えているという。意志強固の努力家型だが、

と思って聞いてみると、この人は、一流の財閥会社に勤めているのだが、系列の子会社に

出向させられると、その会社は、きまって、他に合併したり、業績不振で閉鎖させられて

しまうのである。本社にもどると、同期の社員で本社に居たままの者はかなり上の方に進

んでおり、処遇に困るので、また傍系の会社に出向重役として出される。するとまた、そ

の会社がおかしくなる、というわけで、今までがその繰り返しだったというのだ。

 念のためにいうが、それは、この人の経営の腕が悪いために、この人が行った会社がみ

んなダメになるというのではないのである(手腕という点からいえば、むしろ人並み以上

の手腕を持っているのである)。この人が行っても行かなくても、その会社はダメになるの

である。そういう会社に、この人は行かねばならぬような廻り合わせになってしまうのだ。

今度の会社もおかしくなってきているので、相談に来たのです、というのだが、典型的な

中途挫折の因縁のあらわれかたであった。

 薄志弱行タイプの場合は、すぐにあきたり、気移りしたりして白分から会社を転々とす

るが、意志強固タイプの場合は、自分でぱ一心に努力をして会社を変わるつもりはさらさ

らないのだが、他動的に転々と変わらざるを得ないようになってしまうのである。その人

のか字心、思劣、心構えなどに関係なく、結果は結尚おなじことになが、

因縁というものの、こわいところである。精神一到何小か成さざ‘ら人や、と気胆劣てみた

ところで、この因縁を持っていては、所詮、ダメなのだ。外的条件が許さないのである。

つねに転々として挫折する。

 昔から、よく、「人間には誰でも一生に三度はチャンスがある」といわれているが、運のないでも三度はチャンスがあるかわり、運のある者でも、三度以上そう何回もあるもの

ではない。人生ここ一番というチャンスを二、三度この因縁でつぶされてしまったら、も

うその人間は一生芽が出ないものと思わねばなるまい。そうして、この因縁のこわいとこ

ろは、この因縁は必ずその子に遺伝し、その場合、きまって親よりその子のほうが一段と

因縁の度を深めて悪くなってゆくことにあるのだ。

 この中途挫折の因縁が、そのようにして一段と強くなった場合、

 

 

運気不定・浮沈の因縁

という因縁になる。

 これは、運気に根が生じないので、そのため、浮沈変転してとどまらないのである。

 いわば、根無し草の人生である。居住、職業が定まらず、転々とする。一時的に幸運を

得ることがあっても、永続しない。一生、ホームレスか、それに近い境界となる。

 女性の場合、ちゃんとした結婚生活をつづけることが出来ない。再婚、三婚し、しかし

いくら結婚を繰り返しても、決して安定した夫婦生活を持つことは出来ない。

 「色情の因縁」のある場合は、不倫の関係に陥ったり、あるいは売春をする悲惨な因縁で

ある。

 

o  肉親血縁相剋の因縁

 これも、根本は、家運衰退の因縁から出てきているものである。

 この因縁は、肉親の者同士、血縁の者同士が、たがいに運気生命力を損ねあい、傷つけ

あって分散してゆくのである。

 毛利元就の「三本の矢」の教訓を逆にいって、おたがいに助けあい、協力しあってゆく

べき肉親血縁の者が、離散し、孤立して、次第に没落してゆく。

 まさに、家運衰退のあらわれである。

この因縁があると、同居している親子、兄弟など、血縁の噺が、年中不和で詐が絶えな

い。これは、血縁の者同士でお互いの運気(生命力)を損ねあい、傷つけあっているので、

無意識のうちに反発しあって争うのである。この場合、運気を傷つけあうといっても、必

ずしも表面立って争いをするとは限らない。ただ同じ屋根の下に住んでいるというだけで、

相手の運気(生命力)を損ねるのである。それはちょうど、何か目に見えない光線のよう

なものを放射しあって、相手の生命力を傷つけるように思われる。人間の生命というもの

は、自分を守るという自衛本能を持っているから、その本能がはたらいて、無意識のうち

に生命力を結集して相手に反発する。その結果として、相手の何でもないような動作や一

言一句が非常に気にさわる(神経が立っているので)。そこで静が始まるのである。肉親同

士で異常に仲が悪いのぱこのためである。それに加えて財産などの利害関係がからむと、

非常に深刻な争いに進展してゆく。

 この因縁のある家庭で、もし、同居の肉親同士が不和でなければ、家族の中に誰か一人、年中病気で苦しむ者か、極端に不運で運の開かぬ不遇の者が必ず出る。

 相当の才能、手腕がありながら、常にチャンスを逸したり、チャンスに恵まれない不遇

の人、あるいは長年病弱の人は、前記の「中途挫折の因縁」か、または、この「肉親血縁

相剋の因縁」によって運気(生命力)を剋害されているのではないかを疑ってみるべきで

ある。どちらかの因縁があったら、それを断ち切らぬ限り、いくら努力しても一生空転す

るばかりなのだ。

 この因縁を持つ人、(あるいはこの因縁のある家系)には、必ず、といっていいほど、霊

的な障害がある。つまり、三代か四代前に、その家(またぱ人)を強く恨んで亡くなった

怨念のホトヶがいるのである。

 また、横変死した人の霊障を受けている場食がほとんどである。

 前に述べた「家運衰退の因縁」、「中途挫折の因縁」、「運気不定・浮沈の因縁」は、いず

れも霊障のホトヶより生じていることが多い。

 この霊障を解かぬかぎり、この因縁は、何代でもつづく。

 成仏法によって、霊障のホトヶを解脱成仏させる以外に方法がないのである。

梵字  不動明王

不動明王

梵名はアールヤアチャラナータビジャヤラージ
ブヤ』どどといい、正式には聖不動威怒明王と呼びます。
諸仏は、つねにさ圭ざまな手段をとって、わたしたち衆生をさとりの道へ歩ませようとします。
しかし、なかには、やさしさだけの慈悲では心を変えない、強情な衆生もいます。
こうした尋常な方法ではとうてい救済できないかたくなな衆生に対して、大日如来は叱りつける
という慈悲のかたちをとって教え導きます。’』、大日如来は不動明王に変化し、忿怒の相を
もってあらわれます。忿怒は実は慈悲のきわみなのです。
酉年生まれの守り本尊とされています。

運命学  家運衰退の因縁  Destiny of fate

運衰退の因縁 この因縁は、家運、つまり家の運気が次第におとろえてきている家系に生まれている人が持つ因縁である。 こういう人は、父、あるいは祖父の代までは、かなりの生活をした家に生れている人が多い。祖父か父の代あたりから、次第に家運が傾いてきている。そうして、自分の代になってからぱ、なお一層はっきりと運が悪くなっている。相当の力量、才能、手腕があるのだが、それを発揮する場を持つことが出来ない。そういうチャンスを持つことが出来ない。そうして、自分よりも劣った者が追い越してゆくのを、みすみす歯ぎしりしながら見送ることになる。 たまにチャンスがめぐって来そうになると、人の妨害、邪魔に遭ったり、或いは自分の思わぬミスや病気などで、せっかくのチャンスを失ってしまう。要するに、一言でいうと運が悪いのである。実力がありながら、妙にめぐり合わせが悪く、ウダツがあがらない。年をとるほど運気がおとろえ、生活が悪くなっていく。 の因縁から出てくるのが、次に掲げる     ちゅうと ざせつ@   中途挫折の因縁 という因縁である。 この因縁を持つ人は、何をやっても、一応、七、八分通りまでは順調に進むが、あともうI、二分というところで必ずダメになる。決して実らないのである。この因縁を、一名、「虚花の命」というのは、「七重八重、花は咲けども山吹の、実のひとつだになきぞ悲しき」という古歌の山吹の花と同様、花咲けども実らず、すべてムダ花であるというところからきているのである。よそ目には華やかに見えて、内実は空しいのである。苦労したあげく、さいごの収穫はごっそりと人に持ってゆかれてしまう。 この因縁を持つ人は、わりあい運気(生命力)の強い人が多く、中途で挫折しては、また立ち上って仕事をし、また七、八分通りで挫折して、そのままになるかと思うとまた立ち上って、また挫折する、というように、七転八起の起伏のはげしい人生を送る人が多い。そうして、結局は、挫折したままで終るのである。 大体、因縁のあらわれ方には二通りあるのであって、その囚縁が、そのままその人の恍格にあらわれている場合と、性格には全然あらわれない場合とがある。 この中途挫折の因縁の場合も、この因縁がそのまま性格にあらわれて、非常に気の弱い意志薄弱の型と、逆に、非常に気のつよい意志強固の型がある。 意志薄弱のタイプは、何をやってもすぐにあきてしまって、ながつづきしない。気うつりがぱげしい。学業、職業、すべてがそうで、転々とする。文字通りの中途挫折、薄志弱行の型である。 もう一つのほうは、これと全く反対で、性格もつよく、意志も強固で、努力家でもある。然るに、かえってその強さが人と相容れず、上の者と衝突したり、同僚と円満に協調出来なかったりして、失敗し、挫折する。あるいは、ここ一番という大事なところで、きまってつまらぬミスをしたり、人の誤解をうけたり、妨害をうけたりする。また、病気や怪我などで手違いが生ずる、というように、必ずなにかしら障害が発生して、チャンスをつぶすのである。 先日、わたくしを訪ねて来た人に、そういう人がめった

 

The cause of fortune decline This cause is fortune, that is, the cause of a person born to a family whose home’s fortune is gradually getting lost. Many of these people are born in homes that have lived a considerable amount of time, up to their fathers or grandfathers. From the time of my grandfather or my father, I am gradually inclined to find good luck. And then, after I became my own, I have become even more clearly unlucky. There is considerable ability, talent, skill, but I can not have a place to demonstrate it. I can not have such a chance. Then, I will see Misa-su-gi-shiri and see that inferior ones overtake me. Occasionally when chances come in, you will lose your chances due to people being disturbed, getting in the way, or having unexpected mistakes or illnesses. In short, in a word, luck is bad. Despite having the ability, it is strange that the meeting is bad and the udadatsu does not rise. As you get older, you will lose your luck and your life will be worse. The reason behind this is that there is the following relationship between China and China. No matter what you do, people who have this connection go well until you get up to 7 or 8 minutes, but I’m sure I can’t do anything in 2 minutes. It never comes true. One of the reasons for this is that “life of a false flower” is “flowered flower” as well as the old flowering flower “Nanabei Yae, flowers are blooming but Yamabuki’s, one of the real sad things”. It all comes from the point of being a waste flower. They look glamorous to the eye, and empty in their own words. After all the hard work, the harvest of the harvest is carried by the people. Many people with this connection have strong luck (life power), and if they get up in the middle, they get up and work again, and if they think that they will get stuck in 7 or 8 minutes and stay as they are. Many rise and fall again and again, and many people live a life of ups and downs of the 7th anniversary. And in the end, it ends with frustration. In general, there are two ways in which the relation appears, and there are cases in which the relation is shown in the standard of the person as it is or in the case where it does not appear at all in the character. Also in the case of the cause of this frustration, the cause of the failure appears as it is, and there is a very weak will and weak type, and conversely, a very vicious and strong type. The type of will weakness does not last much after giving up immediately after doing anything. I feel so upset. Academics, occupations, everything is so, it turns around. It is literally a confusing, weak and weak type. The other one is completely opposite to this one, well-charactered, well-willed, and a hard worker. However, their strength is not compatible with people, they collide with their superiors, and they can not coordinate well with their colleagues, and they fail and frustrate. Or, in the most important places here, I make sloppy mistakes, get misunderstood by people, or get disturbed. In addition, there is always some kind of failure, such as a failure caused by a disease or injury, and the chance is broken. The other day, to the person who visited me, such a person met

運命学 

人はどんな因縁を持つか これから、人の持つ因縁について解説するが、それでは、そういう因縁というものが、どうして人間にあるのか、ここでは、あるからある、というよりほかない。強いて聞かれるならば、それならあなたはどうしてそういう顔をしているのであるかと聞かれた場合、あなたは何と答えるか? こういう顔をして生れてきたのだから、こういう顔をしているのである、とでも答えるはかないではないか。原因はともあれ、人間は、それぞれ様々な因縁を持って生れて来、様々な因縁を持って生きているのである。その因縁という現象を分析、解説してみよう。理屈は抜きにして、一読するならば、必ず、思いあたることがあろう。卵が先に生じたのか、鶏が先に生じたのか、それを知らなくても、卵を食べ、鶏肉を賞味するにはこと欠かぬのである。詳しくはあとの方で説明する。ここでは、まず、人間が誰でも持っている「因縁」の種類についてのべよう。      かうんすいたい0  家運衰退の因縁 この因縁は、家運、つまり家の運気が次第におとろえてきている家系に生まれている人が持つ因縁である。 こういう人は、父、あるいは祖父の代までは、かなりの生活をした家に生れている人が多い。祖父か父の代あたりから、次第に家運が傾いてきている。そうして、自分の代になってからぱ、なお一層はっきりと運が悪くなっている。相当の力量、才能、手腕があるのだが、それを発揮する場を持つことが出来ない。そういうチャンスを持つことが出来ない。そうして、自分よりも劣った者が追い越してゆくのを、みすみす歯ぎしりしながら見送ることになる。 たまにチャンスがめぐって来そうになると、人の妨害、邪魔に遭ったり、或いは自分の思わぬミスや病気などで、せっかくのチャンスを失ってしまう。要するに、一言でいうと運が悪いのである。実力がありながら、妙にめぐり合わせが悪く、ウダツがあがらない。年をとるほど運気がおとろえ、生活が悪くなっていく。 の因縁から出てくるのが、次に掲げる     ちゅうと ざせつ@   中途挫折の因縁 という因縁である。 この因縁を持つ人は、何をやっても、一応、七、八分通りまでは順調に進むが、あともうI、二分というところで必ずダメになる。決して実らないのである。この因縁を、一名、「虚花の命」というのは、「七重八重、花は咲けども山吹の、実のひとつだになきぞ悲しき」という古歌の山吹の花と同様、花咲けども実らず、すべてムダ花であるというところからきているのである。よそ目には華やかに見えて、内実は空しいのである。苦労したあげく、さいごの収穫はごっそりと人に持ってゆかれてしまう。 この因縁を持つ人は、わりあい運気(生命力)の強い人が多く、中途で挫折しては、また立ち上って仕事をし、また七、八分通りで挫折して、そのままになるかと思うとまた立ち上って、また挫折する、というように、七転八起の起伏のはげしい人生を送る人が多い。そうして、結局は、挫折したままで終るのである。 大体、因縁のあらわれ方には二通りあるのであって、その囚縁が、そのままその人の恍格にあらわれている場合と、性格には全然あらわれない場合とがある。 この中途挫折の因縁の場合も、この因縁がそのまま性格にあらわれて、非常に気の弱い意志薄弱の型と、逆に、非常に気のつよい意志強固の型がある。 意志薄弱のタイプは、何をやってもすぐにあきてしまって、ながつづきしない。気うつりがぱげしい。学業、職業、すべてがそうで、転々とする。文字通りの中途挫折、薄志弱行の型である。 もう一つのほうは、これと全く反対で、性格もつよく、意志も強固で、努力家でもある。然るに、かえってその強さが人と相容れず、上の者と衝突したり、同僚と円満に協調出来なかったりして、失敗し、挫折する。あるいは、ここ一番という大事なところで、きまってつまらぬミスをしたり、人の誤解をうけたり、妨害をうけたりする。また、病気や怪我などで手違いが生ずる、というように、必ずなにかしら障害が発生して、チャンスをつぶすのである。 先日、わたくしを訪ねて来た人に、そういう人がめった。 四十七、八歳の会社員で、立派な人物であったが、この人に、この因縁があったのであ る。聞いてみると、今までに八回も勤め先を変えているという。意志強固の努力家型だが、と思って聞いてみると、この人は、一流の財閥会社に勤めているのだが、系列の子会社に出向させられると、その会社は、きまって、他に合併したり、業績不振で閉鎖させられてしまうのである。本社にもどると、同期の社員で本社に居たままの者はかなり上の方に進んでおり、処遇に困るので、また傍系の会社に出向重役として出される。するとまた、その会社がおかしくなる、というわけで、今までがその繰り返しだったというのだ。 念のためにいうが、それは、この人の経営の腕が悪いために、この人が行った会社がみんなダメになるというのではないのである(手腕という点からいえば、むしろ人並み以上の手腕を持っているのである)。この人が行っても行かなくても、その会社はダメになるのである。そういう会社に、この人は行かねばならぬような廻り合わせになってしまうのだ。今度の会社もおかしくなってきているので、相談に来たのです、というのだが、典型的な中途挫折の因縁のあらわれかたであった。 薄志弱行タイプの場合は、すぐにあきたり、気移りしたりして白分から会社を転々とするが、意志強固タイプの場合は、自分でぱ一心に努力をして会社を変わるつもりはさらさらないのだが、他動的に転々と変わらざるを得ないようになってしまうのである。その人のか字心、思劣、心構えなどに関係なく、結果は結尚おなじことになが、因縁というものの、こわいところである。精神一到何小か成さざ‘ら人や、と気胆劣てみたところで、この因縁を持っていては、所詮、ダメなのだ。外的条件が許さないのである。つねに転々として挫折する。 昔から、よく、「人間には誰でも一生に三度はチャンスがある」といわれているが、運のないでも三度はチャンスがあるかわり、運のある者でも、三度以上そう何回もあるものではない。人生ここ一番というチャンスを二、三度この因縁でつぶされてしまったら、もうその人間は一生芽が出ないものと思わねばなるまい。そうして、この因縁のこわいところは、この因縁は必ずその子に遺伝し、その場合、きまって親よりその子のほうが一段と因縁の度を深めて悪くなってゆくことにあるのだ。 この中途挫折の因縁が、そのようにして一段と強くなった場合、 運気不定・浮沈の因縁という因縁になる。 これは、運気に根が生じないので、そのため、浮沈変転してとどまらないのである。 いわば、根無し草の人生である。居住、職業が定まらず、転々とする。一時的に幸運を得ることがあっても、永続しない。一生、ホームレスか、それに近い境界となる。 女性の場合、ちゃんとした結婚生活をつづけることが出来ない。再婚、三婚し、しかしいくら結婚を繰り返しても、決して安定した夫婦生活を持つことは出来ない。 「色情の因縁」のある場合は、不倫の関係に陥ったり、あるいは売春をする悲惨な因縁である。 o  肉親血縁相剋の因縁 これも、根本は、家運衰退の因縁から出てきているものである。 この因縁は、肉親の者同士、血縁の者同士が、たがいに運気生命力を損ねあい、傷つけあって分散してゆくのである。 毛利元就の「三本の矢」の教訓を逆にいって、おたがいに助けあい、協力しあってゆくべき肉親血縁の者が、離散し、孤立して、次第に没落してゆく。 まさに、家運衰退のあらわれである。この因縁があると、同居している親子、兄弟など、血縁の噺が、年中不和で詐が絶えない。これは、血縁の者同士でお互いの運気(生命力)を損ねあい、傷つけあっているので、無意識のうちに反発しあって争うのである。この場合、運気を傷つけあうといっても、必ずしも表面立って争いをするとは限らない。ただ同じ屋根の下に住んでいるというだけで、相手の運気(生命力)を損ねるのである。それはちょうど、何か目に見えない光線のようなものを放射しあって、相手の生命力を傷つけるように思われる。人間の生命というものは、自分を守るという自衛本能を持っているから、その本能がはたらいて、無意識のうちに生命力を結集して相手に反発する。その結果として、相手の何でもないような動作や一言一句が非常に気にさわる(神経が立っているので)。そこで静が始まるのである。肉親同士で異常に仲が悪いのぱこのためである。それに加えて財産などの利害関係がからむと、非常に深刻な争いに進展してゆく。 この因縁のある家庭で、もし、同居の肉親同士が不和でなければ、家族の中に誰か一人、年中病気で苦しむ者か、極端に不運で運の開かぬ不遇の者が必ず出る。 相当の才能、手腕がありながら、常にチャンスを逸したり、チャンスに恵まれない不遇の人、あるいは長年病弱の人は、前記の「中途挫折の因縁」か、または、この「肉親血縁相剋の因縁」によって運気(生命力)を剋害されているのではないかを疑ってみるべきである。どちらかの因縁があったら、それを断ち切らぬ限り、いくら努力しても一生空転するばかりなのだ。 この因縁を持つ人、(あるいはこの因縁のある家系)には、必ず、といっていいほど、霊的な障害がある。つまり、三代か四代前に、その家(またぱ人)を強く恨んで亡くなった怨念のホトヶがいるのである。 また、横変死した人の霊障を受けている場食がほとんどである。 前に述べた「家運衰退の因縁」、「中途挫折の因縁」、「運気不定・浮沈の因縁」は、いずれも霊障のホトヶより生じていることが多い。 この霊障を解かぬかぎり、この因縁は、何代でもつづく。 成仏法によって、霊障のホトヶを解脱成仏させる以外に方法がないのである。 子の運気剋する因縁 これは、肉親血縁相剋の因緑ので、親がわが子の命力のである。そのなめ、子供は年中病弱となる。あるいは不具として生まれたり、不具者となったりすたいていは十歳くらいまでに死亡する。 もし、その子が非常に生命力が強ければ、素行が生命れるようになって、幼少にして、家を飛び出す。これは親のそばにいると生命力を削られて、危険なので親のもとを飛び出すようになるのである(もちろん、本人はそのことを知らないがI)。 最近、少年少女の非行問題についていろいろと対策が練られようとしているが、世の親は、こういう因縁のあることに気がついて欲しい。 因縁なんて迷信じやないかなどとバカげたことをいっていないで、自分白身にそういうものがないかどうか、よくよく考えてもらいたい。 父親にしても母親にしても、この因縁があると、子供が必ず異常に反抗する。もちろん、子供の成長期間中に反抗期という期があることは事実だが、この因縁による反抗は異常なのである。これは、前記の肉親血縁相剋の因縁の場合と同じように、自分の生命力を侵害してくるものに対して自衛本能がはたらき、我が生命力を結集して反撃しようとするゆえに一言一句、ことごとく反抗反発するのだ。わが身を守るかわいそうな姿なのである。 私は、いつも、この因縁をもつ親と子を見ると、毛をさか立てキバをむき出して、敵に噛みつこうと必死になっている仔犬の姿を思い出す。 成功者の家庭に素行不良の子がわりに多いのは、他に原因はあるけれども、運気のつよい親はえてしてその運気のつよさが同時に子を剋する因縁をも伴ないやすいため、そういう結果を生じやすいのである。 素行不良の子を持つ親、異常に親の言うことをきかぬ子を持つ親は、根本的な対策の一つとしてこの因縁の有無をまず調べてみよ。この因縁がなければ比較的容易に直るが、この因縁あるかぎり、絶対に直らぬのである。 この因縁は水子の霊障から生じていることが多い。 逆恩の因縁  これは恩を倣で返す因縁である。 これも家運衰退の因縁に根ざすものである。 要するに恩を受けた人(主人,師,上長,取引先、先輩など)をだましだに傷つけたり、とにかく相小に何かしらもその出が刑獄の囚縁を併せ持っていたなら)殺して金品を奪らたりする。そこまでいかなくとも必ず恩義のある人を裏切りそむく。 因縁というものは、必ずしも性格的なものとは限っておらぬので、「恩を仇で返す因縁」を待った者が必ずしも恩を仇で返すような性格を持っているとぱ限らない。中途挫折の因縁を持っている者が必ずしも薄志弱行型の性格を持っているとは限らぬ、と先に書いた通りである(もちろん、持っている因縁がそのままその人の性格になっている人もかず多いが)。 この逆恩の因縁の場合も、性格としては、恩を仇で返すというようなものと反対に、一心に恩義にむくいようとする心がけを持っていて、そのように努力をしながら、かえって結果的には、その恩義を仇にして返すようなことになってしまうことがよくある。例えば、主人(会社)に忠実で一心に尽くすのだが、それがかえって主人(会社)のためにならぬような結果を生む。努力してお得意や取引先をつくると、その取引先が何千万、何億円という不渡り手形を出したり、倒産してしまったりして、主人(会社)に大きな迷惑をかけてしまう、というようなことになる。 女性が持つ因縁である。 という句があ乙が、感心させられる。 大体、自分にとって恩義のある人というのは、自分に好意を待ち、あるいは信用して、自分を引き立て、力になってくれる人である。こういう相手に、無意識とはいえそういう損害をあたえたり、そむいたりするということは、自分で自分の手足をもぐことである。自分の有力な味方を失うことになる。そこで孤立無援となり、人生の失敗者となってゆく。 人を使う人、使われる人も、ともにこの因縁には注意が必要である。 夫の運気を剋害する因縁 夫の運気(生命力)を目に見えぬ力で損ね、削る。といっても、必ずしも、日常生活において夫を尻の下に敷いたり、夫を虐待するというのではない。もちろん、そういう場合もないことはないが、前にも書いたように、因縁というものは性格にあらわれる場合と性格にまったくあらわれぬ場合とがある。この因縁の場合もその通りで、むしろこの因縁を持つ女性はマメマメしく夫につかえる良妻賢母型に多いので始末に困る。江戸川柳に、 「次の間で毒が薬を煎じてる」 この句の意味は、亭主が年中病弱で寝ている、その家をたずねてみると、亭主の寝ている次の部屋で、若い美しい妻君が、甲斐々々しく薬を煎じている。しかし実際は、この美しい妻君が病身の亭主にとっては毒なのだ、というところから、妻君が薬を煎じているのを、毒が薬を、と皮肉っているわけである。 この因縁を持つ女性を妻に持つと、その夫は年中病弱となるか、または仕事がうまくいかず、年中失敗したり、渋潜しがちとなる。生命力を削られるところから、運が非常に悪くなるのである。いかに才能、手腕があろうとも、必ず何か一つの不運につきまとわれる。妻君が一心につかえればつかえるほど、夫の運気が悪くなるのであるから厄介である。 世間によくあることだが、立派な妻君を待った夫が、他に女性を作り、その女性よりも妻君のほうがはるかに容色も頭もすぐれているので人が不思議がる例がある。これは、妻君のほうに、この、夫の運気を剋する因縁があるために、夫が、生命力自衛の本能から、無意識に妻君に反発して、そういう因縁のない運気のおだやかな女性を求め、逃避するためなのである。  中年になってそういうことがよく起こるのは、もちろん、中年代で経済的に余裕が出来たり、妻君の容色が衰えてきたということも理由の一つにはなるが、根本的には、若いうちは、夫のほうも生命力がつよいので妻の運気剋害にも平気で耐えられているから、それほど感じないが、年をとるにつれて生命力が弱り、憩いの場が欲しくなってくるのである。 この因縁の強いものをもつ女性が、いわゆる「後家運」と呼ばれるもので、色情の因縁のある夫は、前記したように他の女性に逃避し、色情の因縁のない夫は、趣味に逃避したり、仕事に没頭したりして、冷たい家庭となる。 もし、生命力の弱い夫であったら、死んでしまう。すなわち、後家運と呼ばれる所以である。女性としてしあわせな家庭を持とうと思ったら、まず切らねばならぬ因縁である。   夫婦縁障害の因縁 夫婦縁、結婚生活に障害が起きる因縁である。 なんとなくお互いに性格が合わず、年中不満を待ちあってゴタゴタが絶えず、冷たい家庭になる。 または、お斤いに愛情はあるのだが、どちらかが病気になって別川をよぎなくされる、とか、什事の関係で別れ別れに住むことになる。シュウトなどの関係で夫婦仲がうまくいかぬ、など、とにかく、愛情の有無にかかわらず、結果的に夫婦仲がうまくいかない。離婚してしまうというところまではいかぬが、とにかく、年中その一歩手前までいってゴタゴタしているのである。 ‐夫婦縁破れる因縁 この因縁を持っている人は、男女とも、必ず生別か死別をまぬがれない。生別となるか死別となるか、は、相手方の生命力の強弱による。 けいごく刑獄の因縁凶運の時に、必ず刑事事件を起こして、刑務所につながれることになる因縁である。たいてい他の悪い因縁をあわせ持っていて、それらの悪い因縁とからみ合って起きるのせなければ、必ずこの因縁の結果通りとなる。縁者でなく、他人のホトヶであることも少なからずある。 脳障害の因縁 この因縁は、精神病の場合と、精神病でない頭部の障害、の二種に分けられる。 すなわち、精神病(ノイローゼ、脳梅毒など)と、頭部の怪我、または脳溢血、脳軟化症等の病気で、程度の0 い因縁の人ぱ年中、頭痛、肩こり、不眠症などに悩まされる。 肉体障害の因縁をあわせ持つ人は、脳溢血から中気になったり、頭の負傷で手足がきかなくなったりする。脳性小児マヒなどもこの因縁のあらわれである。 二重人格の因縁前記の脳障害の因縁の系列に入る因縁に、この二重人格の因縁がある。酒を呑むと、ガラリと人が変わってしまって、全く別人のようになってしまう。 酒乱はこの円縁である。表而意識がアルコールで麻玲すると、遺伝している潜在意識や深層意識が浮かび出て、別の性格が入れかわって出て来るのである。異常性格・同性愛などもこの因縁である。 この因縁は、家運衰退の因縁にも深い関連があり、二、三代前の縁者で、非常に不幸な、恵まれない死に方をした人か、あるいは、他人で、その家に非常な怨念を抱いて死んだ者のいることが特徴である。 癌の因縁胃ガン、子宮ガンなど、この因縁を持つ人は必ず癌になる。循環器系統障害の因縁心臓、腎臓、肝臓等の循環器系に故障を起こす因縁である。 色情の因縁 男女が、異性(同性の場合もある)によって苦しんだり傷ついたりする因縁である。これは、家運衰退の因縁のもととなる因縁である。 また、夫、妻が、その配偶者の色情のトラブルで苦しめられる場合も、色情の因縁があるということになる。 へんぎよう偏業の因縁 職業の上にあらわれる因縁である。 この因縁を持つ人は、宗教家、芸術家、芸能人、裁判官、水商売などが適する。そのどれがよいかは、別の因縁とも照らしあわせてみる必要があるが、とにかくこの因縁のある人は、これらの職業以外につくと絶対に芽が出ない。つまり、適性ということに関係してくるわけだが、そういうことをふくんだ上で、運命的にその職業以外では伸びない、ということである。 職業の適性ということは非常に重大なことで、それゆえに、いろいろな適性検査などが考案されているわけだが、適業、適性、というものは、因縁的に決定されているのである。 人の職業は、大づかみにいって、技術系(生産事業、技術者)、営業系(販売事業、営業、商人)、組織系(官公吏、政治家)の三種に分けられるが、人はみな、それぞれの系列に向く因縁と向かぬ因縁を持っており、向かぬ職業に就いた場合、絶対に芽が出ぬものであるから、注意して選択しないと生涯の不幸となる。 財運・水の因縁  財運がめって、お金は人より何倍も多く入ってくるが、水のように流れ出してしまって、身にっかない。 無理に溜めようとすると、自分が病気になったり、家族が病気になったりする。これは、水の財運で、水というものは、流動しているかぎり腐敗せず、きれいである。溜まり水ぱ必ず濁り、腐敗する。それと同じで、この因縁を持つ人は、常にお金が流れ動いて身につ かぬのである。無理にお金を溜めると、腐敗現象が起きて、家族に病人やヶが人が出たり人にだまされたりして、全部、お金が出て行ってしまう。  頭領運の因縁人の上に立つ因縁である。この因縁をもつ人は、必ず、大なり小なり人の上に立って、人の頭領となる。但し、この頭領運に二種類めって、純然たる頭領運と、組織内の頭領運とに分けられる、純然たる頭領運は、だいたい創業者として成功する。組織内の頭領運は、専務、部長という一分野の首長で終わる。 頭領運はよい因縁の部類に入るが、反面、孤独運を待ち、晩年は家庭的に不幸になりやすい。 頭領運のない人は、自ら頭領になると必ず失敗する。よき頭領運の人をえらんで、次位に甘んじ、よく補佐をすることに専念するがよい。それが、自分の才能、手腕を十二分に発揮し得る最良の道である。野心を持って自分がその位置に就くと、物事渋滞して苦労ばかり多く、必ず失敗するのである。  子縁うすい因縁 子供との縁がうすい因縁である。 この因縁があると、子供が生れないか、生れても、五、六歳になるまでに死んでしまう。また、自分の実子と縁がうすいだけではなく、養子をもらっても、この因縁ある限りうまくいかない。その養子の運気(生命力)が強ければ衝突して出て行ってしまうし、生命力が弱ければ死んでしまうのである。   産厄の因縁 出産に際して、難産で苦しむ因縁である。衰運の時期で生命力が弱っている時にあたると、死ぬ恐れがある。水子の霊障や、難産で死んだ縁者の霊障のあることが多い。

最高度の智慧を持つに至った人間

二種類の経典には、それぞれ、まったく違った別の特徴がある

からなのです。内容的に見ても、まったく別種の経典なのです。これを、同一人の

釈迦が説いたと見る方がおかしいのです。内容がまったく違う。

 

 だから、さきに述べた智顎は、そこのところを合理的に説明するために、苦心し

て、いろいろな説を立てています。それが有名な「五時教判」という説で、それが

誤りであることが、最近、学問的に明らかになりましたが、それは、本日、省略し

ます。

 要するに、釈迦真説の経典と、そうでない経典とは、まったく別種の経典だとい

 そこで、お話を進める上で、釈迦真説の経典による仏教を、「阿合仏教」と呼ぶこ

とにいたします。というのは、釈迦の真説ぱ、すべて、『阿合経』という経典におさ

められているからです

 その『阿合9 』というのは、「漢訳四阿含」といって、インドから中国に伝来し、

中国に於て翻訳されたもので、長阿合、中阿合、雑阿含、増一阿含、四部合わせて、

大小二千八十余巻の経典群から成り立っています。この阿合経典群を、わたくしは、

 「阿介仏教Lと呼びます。

・うして、そうでない仏教を、従来通り、「大乗仏教」と呼ぶことにいたします

       阿合仏教と、大乗仏教は、どこが違うか?

       端的にいうと、大乗仏教は、

慈.悲

を説きます。

阿含仏教は、

智 慧

 を説きます。

 もっと説明すると、大乗仏教は、仏の慈悲による救済を説きます。仏の慈悲に依

って、仏の慈悲を受けることによって、自分が救われる、ということです。

 

 これに対し、阿合仏教は、自分が智慧を獲得し、智慧を磨いて、自分自身を救済

するという方法を教えます。

 阿合仏教の特徴は、「方法を持っている」ということです。その方法を自分が実践

することにより、自分を救うということです。ですから、その点は、「教育」と同じ

であ・るといえましょう。

 もっとも、阿含仏教も宗教でありますから、仏の慈悲による救済も説きますが、

主体は、どこまでも、智慧の獲得による「自己救済」です。そうして、その智慧の

lよって与えられるのではなく、自分が学んで修得するのです。

獲得ぱヽ仏の慈悲によ

そのために、阿含仏教は、特殊なシステムを持っています。

  これは、宗教としては、非常に際立った特質であるといえましょう。おそらく

世界の如何なる宗教にも見られぬ特徴であろうと思います。

 たとえば、キリスト教は、「愛」を説きます。神の愛による救いです。

ごしよう。そして、大乗仏教の仏

 しかし、神の愛右ソステム化することは不可能でし

わりくし実践の系化のでないものは、科学い。たり得ないと考えます。

 わたくしは今、大乗仏教は慈悲を説き、キリスト教は愛を説き、阿含仏教は智慧

を説く、と申しました。

 それでは、阿含仏教は、愛も慈悲も不要だと考えるのでしょうか?

 いいえ、そうではありません。愛も、慈悲も、倫理も、道徳も、みんな必要だと

考えます。

 しかし、阿含仏教は、こう考えるのです。

 最高度の智慧を持つに至った人間は、当然の帰結として、正しい愛の心と、深い

慈悲の心、高い道徳性を持つものであると考えるのです。

 最高度の智慧を持つに至った人間に、今さら、愛や、慈悲や、道徳などを教える

必要はないではありませんか。

 正しい愛の心と、深い慈悲の心が、必ずしも最高度の智慧をもたらすとは限らな

Holon Revolution page.

Suyu  Kiriyama Talk

“Now, let’s get in to this thesis. Kewler says:” Mr. K opened the Holon Revolution page.

“Homo-Sapiens is an abnormal species affected by a disease that is not compatible with the theory of evolution, and even if we look at the human records of the past, and from the perspective of modern brain science, homo-Sapience is at the last explosion stage. The fact that something went wrong at a certain point in time, and that the human body was originally (in a more specific sense, in the neural circuit) was mistakenly incorporated with a fatal engineering flaw, There is no denying that humanity’s delusional tendency is flowing through history. This is a horrible but natural assumption, and if we try to pursue human conditions seriously, we can not look away from this. ”

“Therefore, they say that they are extinct as” species “.

What do you think about Mr. Sasayama?

Do you think that humans, like Kewler, are abnormal species with fatal design errors in their brains? ”

“No, I don’t think so. I think the design was almost perfect.”

“So, did the design come close to perfection, but did not progress as designed?”

“That’s right, so, as Köstler himself says, one more reasoning is saying,” There was something wrong at some point when Homo sapiens had reached the last explosive stage. ” It was not a design mistake, but the design was almost complete, but the direction went wrong during the evolution, and I have already pointed it out in Secrets of Esoteric Powers. ”

“Please indicate specifically”

“Humans have a spiritual site in their brains. This is so designed. So, if this site is working as it is designed, humanity is like a custoler. The river of “madness” would not have appeared, so it was not possible to face the current ruin, and this part was shut down in the middle of evolution. Humanity has become a super-fool. ”

“Well, this is an amazing idea.”

“It is not an idea. It is a fact L

“Where is the site of spirituality?”

“It is the hypothalamus of the most central part of the cerebrum, the brain. The deepest part of this is the site.

And for this to work, you need a special function of the endocrine gland called the pineal gland, which is right next to it. ”

“Is it the brain physiologist’s theory?”

“No, not. This is a discovery from my training experience. I learned from India’s Kundalini Yoga, the practice of Tibetan secular religion, etc. Brain physiology has not reached it yet. However, a scholar named JD Radcliffe, who is the authority on hormone secretion in the United States, says interesting things in his book “The Wonders of the Human Body” (Shogakukan).

“The pineal gland, whose function has finally been understood, is a small scaly gland attached to the lower side of the brain, and is presumed to be the third eye mark that humans have received from primitive ancestors. It is said that.

Do you know the third eye? ”

“I had read a book with that title in the past. Some Englishman, Chippe. The first chapter” The Holon Revolution “and the” Secret of Priesthood and Power “-1 1 1 11-

At the same time, he became a best seller with the fact that he taught in rituals about the Lamas and had a third eye that could see the four-dimensional world and the spirit world between the coffins. I do not remember most of the contents any more, but there are notes I read.

“Yes, but I will quote the text of Ratcliff in” Secret of secularism and psychic, “in the chapter” The Third Eye and the Hormone, ”

“Perhaps, one might think of the” third eye “as something fancy, stupid. However, human beings certainly had the third eye. No, I have a lot of money. It becomes clearer when we go over the endocrine glands, which are the most important functions in the human body.

Humans have the very third eye, and it is not “scramble” as J. D. Latcliffe says, but it is actually if it is used even now. It is even possible to “see”. Recent scientific experiments prove it. Before introducing the recent experiment, let’s examine one of the mysterious endocrine glands in more detail. Is not it? ”

And, it is all about you. “

『ホロン革命』

 

桐山靖雄 対談

「では、いよいよ本論に入りましょう。ケストラーはこう言っています」 とK氏は『ホロン革命』のページをひらいた。

『……ホモーサピエンスは進化論に適合しない病に冒された異常な生物種で、……人類の過去の記録をみても、また現代の脳科学からいっても、ホモーサピエンスが最後の爆発段階に達したある時点で何かに狂いが生じたことは、そしてもともと人間の体には(もっと具体的に言えば、神経回路には)致命的な工学上の欠陥が誤って組み込まれ、それがために人類の妄想傾向が歴史を通して脈々と流れていることは、否定すべくもない。これは恐ろしくも当然の仮定であり、人間の条件を真摯に追求しようとすれば、これから目をそらすことはできない』

「ゆえに、『種』として絶滅するのだ、といっております。

 桐山先生は、これにたいしてどうお考えですか?

 人間はケストラーのいうように、脳に致命的な設計ミスを持った異常な生物種であるとお考えになりますか?」

「いや、わたくしはそう思いません。設計はほとんど完全に近かったと思います」

「すると、設計は完全に近かったが、設計通りに進行しなかったということですか?」

「そうです。ですから、ケストラー自身もいっているように、もう一つのほうの推理、『ホモーサピエンスが最後の爆発的段階に達したある時点で何かに狂いが生じたことは』といっているのが正しいのです。設計ミスではなかった。設計はほとんど完全だったが、進化の途中で方向が狂ってしまったのです。わたくしは、すでに、それを『密教・超能力の秘密』で指摘しています」

 「具体的にお示しください」

 「人間は脳に霊性の部位を持っているのです。これはそのように設計されているのです。だから、この部位がその設計の通りに活動していたら、人類は、ケストラーのいうように『狂気』の川状をあらわさなかったでしょう。したがって、いまのような破滅に直面するようなことにはならなかったのです。この部位が進化の途中で閉鎖されてしまった。そのために、人類は、超 愚人 にたってしまったのです」

「ふうむ、これはおどろくべき発想ですね」

「発想じゃないのです。事実なのですL

「その霊性の部位とはどこですか?」

「大脳の最も中心である間脳の、視床下部です。このいちばん奥に、その部位があります。ただ

し、これがはたらくためには、そのすぐそばにある松果腺という内分泌腺の特殊なはたらきが必要です」

 「それは大脳生理学者の説ですか?」

 「いいえ、そうじゃありません。わたくしの修行体験による発見です。インドのクンダリニー・ヨーガ、チベット密教の修行などを参考に、わたくしが把握したものです。脳生理学はまだそこまで到達しておりません。ただし、アメリカのホルモン分泌学の権威J・D・ラドクリフという学者は、その著書『人体の驚異』(小学館)の中で、おもしろいことを言っております。

  『その機能がようやくわかりかけてきた松果腺は、脳の下側にくっついている小さな毬果形の腺で、人間が原始時代の祖先から受けついできた第三の目の残跡と推定されている』というのです。

 第三の目というのをご存じですか?」

 「ずうっと以前に、そういう題名の本を読んだことがあります。なんとかいう英国人が、チペ。第一章『ホロン革命』と『密教・超能力の秘密』の対論–一一一一一一-

トでラマ僧について密教の修行をし、眉間のあいだに、四次元世界や霊界を見ることのできる第三の目を持つたという内容で、ベストセラーになりましたね。もうほとんど内容を記憶しておりませんが、読んだおぼえがあります。

「そうですが、わたくしは、『密教・超能力の秘密』で、このラトクリフの文章を引用して、こうのべております、『第三の目とホルモン』という章で、

『おそらく、ひとは、「第三の目」などというと、いかにも空想的な、馬鹿々々しいことのように思うかも知れない。しかし、ヒトは、たしかに第三の目を持っていたのである。い や、げんに持っているのだ。人間のからだのなかで最も重要なはたらきをする内分泌腺をく わしくしらべてゆくと、それがはっきりしてくるのである。

ヒトはまさしく第三の目を持ち、しかもそれは、J・D・ラトクリフのいうように”残跡”ではなく、いまでも、活用すれば、実際に。見る”ことすら可能なのである。最近の科学の実験がそれを証明している。その最近の実験を紹介する前に、ひとつ、この不思議なはたらきをする内分泌腺というものを、もう少しくわしく調べてみようではないか』

 と、こうのべております」

「その第三の目が、つまり、先生のおっしゃる霊性の部位というわけですか?」

「いや、ちょっとちがいます。密接な関係はあるが、ちょっとちがいます。第三の目は、ラトクリフのいうように、松果腺です。わたくしのいう霊性の場は、それよりすこし深部の視床下部です」

「それはどうちがうのですか?」

「それは、ひと口でいうと、第三の目というのは、霊的次元のさまざまな現象を知覚し、見聞する能力を持つ目、といったらよいでしょう。視床下部のほうはそれを動かす『場』です。それはつまり、いまわれわれが持つ普通の目と脳との関係にあると思ったしょう」

 「なるほど」

「視床下部がなぜ霊性の『場』であるかについて、わたくしは、『密教・超能力の秘密』で、生理学と、ホルモン分泌学と、酵素薬理学の三つの面から解明しています。この視床下部が第三の目と連繋して活動するとき、人間は霊性を顕現するのです。その究極において、『密教・超能力の秘密』でいっているように、カミ、ホトケにまで到達するのです。人間は、知性・理性の場である新皮質と、本能の座である辺縁系の中間にある『間脳』に、霊性の場を持っていたのです。これにより、人間はバランスがとれるのです。ところが、この間脳にある霊性の場を、人間は失ってしまった」

 「ふうむ」

 「しかし、それを知っているひとたちがいた。その代表が、シャカです。シャカは、『成仏法』という名で、この霊性の場を再開発するシステムを完成した。古代密教が、それを受けついだL第一章『ホロン革命』と,『密教・超能力の秘密』の対論—7

「古代密教、とおっしやるのはどういうわけですか?」

「後世の密教は、大乗仏教の影響をうけて、シャカがつたえたシステムを様式化してしまったのです。まったくちがったものにしてしまった」

「なるほど」

「しかし、仏像とか、仏画とかは、古代密教の表象をそのままつたえています。密教の仏像の多くが、第三の目を持っているのはこのためです」

 「あの、眉間のところにある目ですね?」

 「そうです。その密教の代表ともいうべき仏像が、摩醗首羅です。これは、梵語の

(マヘーシュバラ)を音写したもので、これを『大自在天』と漢訳し、宇宙の大主宰神とされております。眉間に第三の目があって、合計、三つの目を持っています。われわれは、目が二つです。その二つの目の一つは、辺緑系の脳に通ずる目であり、もう一つは新皮質の脳に通ずる目で、この二つが一対になって、現象世界(物質世界)を見るのです。このほかに、じつはもう一つの目があった。それは間脳の視床下部の脳に通ずる霊性の目で、霊的世界を見る目です。これが、第三のとよばれるものなのです」

 「で、その第三の目が、『残跡』となると同時に、先生のおっしゃる霊性の『場』もはたらかなくなってしまったということですか?」

「そうですね、しかし、それは、霊性の『場』が閉ざされてはたらかなくなってしまったから、第三の目もはたらかなくなって、たんなる『残痕』になってしまったのだともいえるでしょう。要するに、密接な相関関係にあるものですからIL

 「ふうむ」

 とK氏はしばらく考えこんでいたが、

 「しかし」

 と小首をかしげた。

 「なぜ、人間は、その霊性の『場』を失ってしまったのですか? 退化、とは考えられませんね

え。人間の精神活動は原始時代から非常なスピードで進化し、進歩しているわけですから、退化などとは考えられない」

 「その理由ですか?」とわたくしは言った。

「第三の目」はなぜ消えてしまったか?

 「第三の目が閉じられてしまったのには、もちろん、大きな理由があります。わたくしのいう霊性の『場』は、間脳の視床下部にありますが、それは、要するに、物質的な欲望や本能を制御し、時には否淀して、より崇高なるものにあこがれる精神領域です。そういうと、それは新皮質系の領域じゃないかといわれるかも知れません。そうじゃないのです。

 新皮質系の知性は、神を考え(分析し演釈する)、仏を理解しようとするものですが、霊性は、神と一体になり、仏と同化しようとする趨性です。明らかに新皮質系のものとはちがうのです。

 新皮質が生か知性は、時実博士の表現によれば『より良く生きる』ことと、『より高く生きる』(六四ページ挿図参照)ことを目ざします。そのための創造行動をいとなみます。その結果、どういうものが生み出されたかといいますと、精神的には、哲学(および倫理・道徳)、物質的には科学(と技術)です。ことばを変えていうと、『より良く生きる』が科学と技術を生み出し、『より高く生きる』が哲学・倫理を生み出した。ところが、哲学・倫理はいままったく行きづまって、

人類がいまかかえる問題に、大声で1 告は発するけれども、なんの答も出すことができない。

一方、新皮質の『より良く生きる』という目標は、『より便利に』『より速く』の追求なりでしまった。ごらんなさい。現代社会は、新皮質文明であり、新皮質の産物ですが、現代社会の目標は、『より便利に』『より速く』がモ。トーでしょう。地球上のすべての企業が、それを目ざして狂父のごとく活動しています。それが結局は自分の首をしめることを新皮質は知りながら、止めることができない。なぜならば、それをおしとどめる間脳のはたらき、霊性の『場』を、はるか以前に、新皮質自身が押さえこんでしまっていたのです」「そんなことがあり得るのですか?」

「こういう現象は、大脳においてつねにおこなわれるものです。たとえば、動物が高等になるにつれて新皮質が発達してくるために、旧皮質はしだいに大脳半球の底面へ押しやられ、古皮質は大脳半球内部へ押しこまれるようになります。これは大脳生理学の定説で、これとおなじ現象が、人間の大脳においておこなわれたのです。

 新皮質は、それが人類の進歩と進化であり、平和と繁栄につながるのだという大義名分のもとに、間脳を押さえこんでしまったのです。そういう理くつを考え出すのは、新皮質の得意ちゅうの得意ですから

 霊性とは物質的な欲望や本能を制御し、時には否定さえして、より崇高なるものにあこがれる精神領域だと、さきにわたくしは中しましたが、そういうものは、新皮質の生み出す物質文化にブレーキをかけるものです。考えようによっては、新皮質の敵といっていい。だから、新皮質は全力をあげて、霊性の場を押しつぶしにかかった。人間のすべての欲望(大脳辺緑系)がこれにくわわった。これが、人間の『業』というものでしょう。

 だから、知性と称するものは、霊性、霊的なものを、いまでも、迷信といって敵視するでし。う。知性の持ちぬしだと自称するひとたちが、『霊』ということばを聞くと、たちまち歯をむき

出して噛みついてくるのは、そのためです」

 「はゝはゝはゝ、なるほど、なるほど」

 とK氏は大声で笑ったが、

「それはつまり、新皮質脳が間脳を押しつぶしてしまったのは、人類の歴史で、いつごろのことでしょうか?」と聞いた。

知性(新皮質脳)と霊性面脳)が一時に花ひらいた時代わたくしは、逆にK氏に質問し。

「K先生は、さきほど、人間の精神活動は原始時代から非常なスピードをもって、進化し、進歩してきたとおっしゃいましたが、はたしてそうでしょうか?」

「といいますと?一

「わたくしは、ずうっと古いある時代から、すこしも進歩していないのじゃないかと思うのです。むしろ、退化しているのじゃないかと考えます」

「どういう意味ですか?」

「わたくしは、人類の精神文化は、いまから数千年前に、その進歩がおわってしまって、その後は、なんらあたらしいものを生み出すことなく、ただ先人のあとをなぞっているのにすぎないのではないかと思うのです。高い精神文化は、すべて紀元前に完成されてしまっている。ことに、霊性にもとづいた叡智の文化がそうです」

 「ふうむL

 「たとえば、人類の知的産物としての古典を考えてみるとき、ごくおおざっぱにいって、三つのグループに分けられるでしょう。中国の古典、ギリシャの古典、インドの古典です。いま、手もとに参考とするものがありませんから、ごくおおざっぱないいかたですが、中国においては、西紀前五世紀に孔子が生まれて儒教を説き、以後、ざっと、墨子、荘子、から、孟子、萄子、司馬遷にいたるまで、すべて紀元前のひとたちです。

 ギリシャでは、紀元前八世紀に、ホメロスが、『イリアス』『オデッセイア』を書き、前七世紀には、イソップが生まれ、前五世紀には数学のピタゴラス、哲学者のヘラクレイトス、悲劇作家のアイスキュロス、ソフォクレス、前四世紀ごろには、有名なソクラテス、プラトン、ついでアリストテレスが活動しています。このひとたちが、のちのヨーロッパ知的文化のもとをなしたことはご承知の通りです。いまの西洋文明の知的産物は、これらのひとたちの芸術や思想を抜きにしては考えられず、さらには、後世から現代まで、はたしてこれら世紀前のひとたちを凌駕するだけのあたらしい知性的産物を生み出しているといえるかどうか」

 「なるほど」

 「インドではもっと古く、紀元前一〇〇〇年、すなわち、前十世紀にすでに『リグヴェーダ』が成立しています。前八世紀にはバラモン教が活動しはじめています。前七世紀には『ウパニシャッド』が完成し、前五五六年にはシャカが生まれていますL

 「ふうむ」

 「西アジアでは、モーゼの出エジプトが紀元前十三世紀ですし、前八世紀には、預言者イザヤが活動し、前七世紀にはゾロアスター教が成立、同時に預言者エレミアが活躍している。そして、中央アジアでキリストが生まれ、紀元元年をむかえるわけです」

 K氏は無言のままうなずいた。

「じつに、百花捺乱ともいうべき華やかさではありませんか。人類の精神文明の頂点だったのです。これは、見かたによれば、知性‥‥新皮質と、霊性=間脳が一時に花ひらいた時代とみてよいでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

仏舎利というのは、おシャカさまの御遺骨のことなので     す

 

――守護霊を持つには、何か特別な行法が必要なのでしょうか。

桐山  守護霊は、霊格の高い霊になってもらうのですが、いきなりはできません。

            ″悪貨は

というのも、世の人みんなが、何らかの悪い霊、霊障を持っています

良貨を駆逐する”と言いますね。良貨を流通させるには、まず悪貨をなくさな

げればいけません。つまり悪い霊をなくすのが先で、霊障を断ち切れば、守護

霊はおのずと現れてくるのですよ。

 私自身、一生を霊障をなくすことにかけてきて、やっと守護霊を得たわけで

霊障を断つには″千座行″をはじめ大変な修行が必要だったのです。

 ところが61年、スリランカから私どもに。真正仏舎利”というおシャカさま

の御真骨をいただき、真の守護霊が持てるようになったのです。真正仏舎利を

いただき信心すれば、霊障を断ち、福徳を与えてくれる、まるでそれ自身が守

護霊といっていい、すごいパワーがあるのです。

 仏舎利というのは、それほど強いパワーを持っているのですか?

桐山  そうです。そもそも仏舎利というのは、おシャカさまの御遺骨のことなので

   すが、本当の御遺骨というのは簡単に得られるものではありません。みんな間

   に合わせの仏舎利を使っているし、私どももそうでした。ところが縁があって、

   本当のシ十力の御遺骨習万正仏舎利”を手にすることができたのです。

    この「真正仏舎利」は「生きているシャカ」として尊崇されています。これ

   を「生身如来」、「法身如来」と言います。

    密教では、シャカの御遺骨、御遺身を「変化法身の釈迦」といって、生身の

   シャカの本体とするのです。御遺骨、御遺身が、生きているシャカの本体です。

    私の著書「守護仏の奇蹟」でこの点を詳しく書いていますが、その密教では

   シャカに三重あることを説き、これを「三重の釈迦」と言います。

    第一重のシャカはシ十力の説いた教法。第二重のシャカは生身のシ十力の本

   体である御遺骨、御遺身。第三重のシャカは生身のシャカです。第三重のシャ

   カはすでにおられないので、第二垂のシャカを生身の釈迦如来としています。

    シャカというのは言うまでもなく仏教の開祖であり、仏教そのものの総本尊

   です。実在の仏はシャカだげで、私どもはそのシャカをご本尊としています。

桐山名言集◆この世の中のものすべて、どんなものでも、原因となるものがなくて生するものはなく、また因あって

生じても、これを助長する縁がなくては存在しない。因と縁か重なって、経過をたどり、結果か現れる。

差別はないのです。

のです。

  実在の仏である本尊としてのシャカは法のうえでオールマイティーであり、

   教えのうえでオールマイティーであり、救済者としてオールマイティーです。

   それら三つの力を持つシャカの法身舎利を私たちは「守護仏」とお呼びするの

です。

 真正仏舎利のおシャカさまが、夫婦ゲソカをやめさせるなんておかしいよう

だけれど、救世者としての力は、世界の危機を救うのも夫婦の危機を救うのも 

「守護仏」が、この世のあらゆる悩みや苦しみから、私たちを救ってくださる

   というわげですね。

桐山  すでにこの「守護仏」がもたらす奇跡がたくさん現れているのですよ。そし

   てこの「守護仏」こそが、ほんとうに力のある「守護霊」をもたらしてくれる

 

*如意宝珠法

  仏舎利を本尊として

法を修すること。

 この法は、ことに末

法の世の衆生を益する

ものとされている。物

質的に衆生の願望をか

なえるだけでなく、霊

障のホトヶを救い、三

界困苦の衆生を解脱さ

せる。

 

 

 

あなたも霊能者の仲間になれる

雲言囮ベストがだめならベターでゆけ。千座行で悪い運気を取れば9 達も得る

真正仏舎利という大パワーを得て、千座行をする必要がなくなったと言えるのですね。

 桐山  そうですね。修行の話をし孝すと、私が密教に入ったとき、ます考えたのは、

    一生を通じて自分の行としてどういう行法をしようか、ということです。これ

    は、密教の修行をする時、みんな考えることですがね。

     いろいろな行法の中から、より自分を高めてくれ、自分の方向に合った行法

を選ぶわけです。

 で、私のそりたいのが、。如意宝珠法”だったのです。

 仏舎利を本尊として、この法で祈るとき、自分の悪因縁を断ち切り、そのう

 願いが点のごとくかなりIオルマイティーな 高昨のわ法で。

    ところが問題は本尊とする仏舎利です。本物なんてあるわけない。大きな米

   粒を一つ清めて法を修すると本物と同等の仏舎利になるということになってい

   るのです。だからお米のことをシャリというんでしょう。霊石を使う場合もあ

   りますよ。

    で、お米の仏舎利で祈るのですが、心の片隅に「これは米粒じやないかな」

   という思いが少しでもあると、とても願いなんてかないません。それで行法を変えたんですね。

桐山  そう。要するに、「私にはまだ。如意宝珠法”なんてやる徳がないんだ、もっ

   と徳を積んだら、あるいは本当の仏舎利が手に入ることがあるかもしれない。

   そうしたら、如意宝珠法をやる資格ができたということだろう」と思いまして、

   ペストがだめならベターだというので選んだのが、。因縁解脱の千座行”だったのです。

    これは悪い因縁を切るだげの行法でしたが、悪い因縁を切ればおのずから福

   徳も生ずるだろうと思ったわけです。

 

 

霊言国人の悩みを聞き、アドバイスできる

   指導者を育てたい

 Z千座行から移行したことで、内容的にはどんな変化がありましたか。

 桐山  たいへんな飛躍です。

    今までは準紙如来という概念上の仏を通じてシャカを拝んでいた。つまり

他の大衆仏教と同じだったわけです。

 ところが、今度は、生きたシャカ如来を本尊として法を修することになった。

これは、今までとまるっきり違う。次元が違ってしまったわけです。

 前にお話ししたように、法のうえでオールマイティーであり、教えのうえで

オールマイティーであり、救済者としてオールマイティーである三つのスーパ

ーパワレ‘。これが、ほんとうの仏教だという

   つた。今まて思いです。そしてまた、実際に奇跡的霊験があいついで現れています。

具体的に、信者の修行のしかたはどう変わりましたか。つた。今までとまるっきり比較にならない

。結論から~うと、今我での、瞑想と拝むことが主体であった行から、非常に

実践的な信仰になったと思います。私のところの和讃をお読みになればわかる

とおり、″悩める人の杖となれ”とあります。これが実践行ですね。自分が救わ

れようと思ったら、まず他人を救え、と。おシャカさまのこの教えを梵行と言

うんです、が、阿含経の道場では、もともとこの梵行と所作、つまり修行の二本

立てなわけです。人を救うことと、仏を礼拝供養することですね。

 今までの千座行では、勤行に一目四十~五十分かかりましたから、これだけ

で精一杯というAが多かったんです。ところがこれからは、拝んでいた時間を

梵行に当て、人を助けることができるわけです。そこが実践的であり、また、

それこそがおシャカさまの阿合の道場のあり方だったということです。

   梵行というのは布教伝道のことだと思うんですが、具体的にはどのようにされ

   ていくのでしょうか。

桐山  人の悩みを聞いてあげて、アドバイスをするということも含みますが、そう

   いう人生相談のできる人をこれからどんどん増やそうと思っています。それに

   は指導的な霊能者を最終的に百人作ればいい。百人いれば世界を動かせると思

   うんです。

 

 

人はどんな因縁を持つか

人はどんな因縁を持つか

 

人はどんな因縁を持つか

人はどんな因縁を持つか
これから、人の持つ因縁について解説するが、それでは、そういう因縁というものが、どうして人間にあるのか、ここでは、あるからある、というよりほかない。強いて聞かれるならば、それならあなたはどうしてそういう顔をしているのであるかと聞かれた場合、あなたは何と答えるか? こういう顔をして生れてきたのだから、こういう顔をしているのである、とでも答えるはかないではないか。原因はともあれ、人間は、それぞれ様々な
因縁を持って生れて来、様々な因縁を持って生きているのである。その因縁という現象を分析、解説してみよう。理屈は抜きにして、一読するならば、必ず、思いあたることがあ
ろう。卵が先に生じたのか、鶏が先に生じたのか、それを知らなくても、卵を食べ、鶏肉を賞味するにはこと欠かぬのである。詳しくはあとの方で説明する。ここでは、まず、人間が誰でも持っている「因縁」の種類についてのべよう。

かうんすいたい

 家運衰退の因縁
この因縁は、家運、つまり家の運気が次第におとろえてきている家系に生まれている人が持つ因縁である。
こういう人は、父、あるいは祖父の代までは、かなりの生活をした家に生れている人が多い。祖父か父の代あたりから、次第に家運が傾いてきている。そうして、自分の代になってからぱ、なお一層はっきりと運が悪くなっている。相当の力量、才能、手腕があるのだが、それを発揮する場を持つことが出来ない。そういうチャンスを持つことが出来ない。そうして、自分よりも劣った者が追い越してゆくのを、みすみす歯ぎしりしながら見送ることになる。
たまにチャンスがめぐって来そうになると、人の妨害、邪魔に遭ったり、或いは自分の思わぬミスや病気などで、せっかくのチャンスを失ってしまう。要するに、一言でいうと運が悪いのである。実力がありながら、妙にめぐり合わせが悪く、ウダツがあがらない。年をとるほど運気がおとろえ、生活が悪くなっていく。の因縁から出てくるのが、次に掲げる
ちゅうと ざせつ
中途挫折の因縁
という因縁である。
この因縁を持つ人は、何をやっても、一応、七、八分通りまでは順調に進むが、あともう一、二分というところで必ずダメになる。決して実らないのである。この因縁を、一名、「虚花の命」というのは、「七重八重、花は咲けども山吹の、実のひとつだになきぞ悲しき」という古歌の山吹の花と同様、花咲けども実らず、すべてムダ花であるというところからきているのである。よそ目には華やかに見えて、内実は空しいのである。苦労したあげく、さいごの収穫はごっそりと人に持ってゆかれてしまう。
この因縁を持つ人は、わりあい運気(生命力)の強い人が多く、中途で挫折しては、また立ち上って仕事をし、また七、八分通りで挫折して、そのままになるかと思うとまた立ち上って、また挫折する、というように、七転八起の起伏のはげしい人生を送る人が多い。
そうして、結局は、挫折したままで終るのである。大体、因縁のあらわれ方には二通りあるのであって、その囚縁が、そのままその人の恍格にあらわれている場合と、性格には全然あらわれない場合とがある。
この中途挫折の因縁の場合も、この因縁がそのまま性格にあらわれて、非常に気の弱い意志薄弱の型と、逆に、非常に気のつよい意志強固の型がある。
意志薄弱のタイプは、何をやってもすぐにあきてしまって、ながつづきしない。気うつりがぱげしい。学業、職業、すべてがそうで、転々とする。文字通りの中途挫折、薄志弱行の型である。
もう一つのほうは、これと全く反対で、性格もつよく、意志も強固で、努力家でもある。
然るに、かえってその強さが人と相容れず、上の者と衝突したり、同僚と円満に協調出来なかったりして、失敗し、挫折する。あるいは、ここ一番という大事なところで、きまっ
てつまらぬミスをしたり、人の誤解をうけたり、妨害をうけたりする。また、病気や怪我などで手違いが生ずる、というように、必ずなにかしら障害が発生して、チャンスをつぶすのである。
先日、わたくしを訪ねて来た人に、そういう人がめった。
四十七、八歳の会社員で、立派な人物であったが、この人に、この因縁があったのである。聞いてみると、今までに八回も勤め先を変えているという。意志強固の努力型だが、と思って聞いてみると、この人は、一流の財閥会社に勤めているのだが、系列の子会社に出向させられると、その会社は、きまって、他に合併したり、業績不振で閉鎖させられてしまうのである。本社にもどると、同期の社員で本社に居たままの者はかなり上の方に進んでおり、処遇に困るので、また傍系の会社に出向重役として出される。するとまた、その会社がおかしくなる、というわけで、今までがその繰り返しだったというのだ。
念のためにいうが、それは、この人の経営の腕が悪いために、この人が行った会社がみんなダメになるというのではないのである(手腕という点からいえば、むしろ人並み以上の手腕を持っているのである)。この人が行っても行かなくても、その会社はダメになるのである。そういう会社に、この人は行かねばならぬような廻り合わせになってしまうのだ。
今度の会社もおかしくなってきているので、相談に来たのです、というのだが、典型的な中途挫折の因縁のあらわれかたであった。薄志弱行タイプの場合は、すぐにあきたり、気移りしたりして白分から会社を転々とするが、意志強固タイプの場合は、自分でぱ一心に努力をして会社を変わるつもりはさらさらないのだが、他動的に転々と変わらざるを得ないようになってしまうのである。その人のか字心、思劣、心構えなどに関係なく、結果は結尚おなじことになが、因縁というものの、こわいところである。精神一到何小か成さざ‘ら人や、と気胆劣てみたところで、この因縁を持っていては、所詮、ダメなのだ。外的条件が許さないのである。つねに転々として挫折する。
昔から、よく、「人間には誰でも一生に三度はチャンスがある」といわれているが、運のないでも三度はチャンスがあるかわり、運のある者でも、三度以上そう何回もあるものではない。人生ここ一番というチャンスを二、三度この因縁でつぶされてしまったら、もうその人間は一生芽が出ないものと思わねばなるまい。そうして、この因縁のこわいところは、この因縁は必ずその子に遺伝し、その場合、きまって親よりその子のほうが一段と因縁の度を深めて悪くなってゆくことにあるのだ。
この中途挫折の因縁が、そのようにして一段と強くなった場合、

運気不定・浮沈の因縁
という因縁になる。
これは、運気に根が生じないので、そのため、浮沈変転してとどまらないのである。
いわば、根無し草の人生である。居住、職業が定まらず、転々とする。一時的に幸運を得ることがあっても、永続しない。一生、ホームレスか、それに近い境界となる。
女性の場合、ちゃんとした結婚生活をつづけることが出来ない。再婚、三婚し、しかしいくら結婚を繰り返しても、決して安定した夫婦生活を持つことは出来ない。
「色情の因縁」のある場合は、不倫の関係に陥ったり、あるいは売春をする悲惨な因縁である。

肉親血縁相剋の因縁
これも、根本は、家運衰退の因縁から出てきているものである。
この因縁は、肉親の者同士、血縁の者同士が、たがいに運気生命力を損ねあい、傷つけあって分散してゆくのである。
毛利元就の「三本の矢」の教訓を逆にいって、おたがいに助けあい、協力しあってゆくべき肉親血縁の者が、離散し、孤立して、次第に没落してゆく。
まさに、家運衰退のあらわれである。
この因縁があると、同居している親子、兄弟など、血縁の噺が、年中不和で詐が絶えない。これは、血縁の者同士でお互いの運気(生命力)を損ねあい、傷つけあっているので、無意識のうちに反発しあって争うのである。この場合、運気を傷つけあうといっても、必ずしも表面立って争いをするとは限らない。ただ同じ屋根の下に住んでいるというだけで、
相手の運気(生命力)を損ねるのである。それはちょうど、何か目に見えない光線のようなものを放射しあって、相手の生命力を傷つけるように思われる。人間の生命というものは、自分を守るという自衛本能を持っているから、その本能がはたらいて、無意識のうちに生命力を結集して相手に反発する。その結果として、相手の何でもないような動作や一言一句が非常に気にさわる(神経が立っているので)。そこで静が始まるのである。肉親同士で異常に仲が悪いのぱこのためである。それに加えて財産などの利害関係がからむと、
非常に深刻な争いに進展してゆく。
この因縁のある家庭で、もし、同居の肉親同士が不和でなければ、家族の中に誰か一人、年中病気で苦しむ者か、極端に不運で運の開かぬ不遇の者が必ず出る。
相当の才能、手腕がありながら、常にチャンスを逸したり、チャンスに恵まれない不遇の人、あるいは長年病弱の人は、前記の「中途挫折の因縁」か、または、この「肉親血縁相剋の因縁」によって運気(生命力)を剋害されているのではないかを疑ってみるべきで
ある。どちらかの因縁があったら、それを断ち切らぬ限り、いくら努力しても一生空転するばかりなのだ。この因縁を持つ人、(あるいはこの因縁のある家系)には、必ず、といっていいほど、霊
的な障害がある。つまり、三代か四代前に、その家(またぱ人)を強く恨んで亡くなった怨念のホトヶがいるのである。
また、横変死した人の霊障を受けている場食がほとんどである。
前に述べた「家運衰退の因縁」、「中途挫折の因縁」、「運気不定・浮沈の因縁」は、いず
れも霊障のホトヶより生じていることが多い。
この霊障を解かぬかぎり、この因縁は、何代でもつづく。
成仏法によって、霊障のホトヶを解脱成仏させる以外に方法がないのである。

子の運気剋する因縁
これは、肉親血縁相剋の因緑ので、親がわが子の命力のである。そのな
め、子供は年中病弱となる。あるいは不具として生まれたり、不具者となったりす
たいていは十歳くらいまでに死亡する。
もし、その子が非常に生命力が強ければ、素行が生命れるようになって、幼少にして、家を飛び出す。これは親のそばにいると生命力を削られて、危険なので親のもとを飛び出す
ようになるのである(もちろん、本人はそのことを知らないがI)。
最近、少年少女の非行問題についていろいろと対策が練られようとしているが、世の親
は、こういう因縁のあることに気がついて欲しい。
因縁なんて迷信じやないかなどとバカげたことをいっていないで、自分白身にそういうものがないかどうか、よくよく考えてもらいたい。
父親にしても母親にしても、この因縁があると、子供が必ず異常に反抗する。もちろん、子供の成長期間中に反抗期という期があることは事実だが、この因縁による反抗は異常なのである。これは、前記の肉親血縁相剋の因縁の場合と同じように、自分の生命力を
侵害してくるものに対して自衛本能がはたらき、我が生命力を結集して反撃しようとする
ゆえに一言一句、ことごとく反抗反発するのだ。わが身を守るかわいそうな姿なのである。
私は、いつも、この因縁をもつ親と子を見ると、毛をさか立てキバをむき出して、敵に噛みつこうと必死になっている仔犬の姿を思い出す。
成功者の家庭に素行不良の子がわりに多いのは、他に原因はあるけれども、運気のつよい親はえてしてその運気のつよさが同時に子を剋する因縁をも伴ないやすいため、そういう結果を生じやすいのである。
素行不良の子を持つ親、異常に親の言うことをきかぬ子を持つ親は、根本的な対策の一つとしてこの因縁の有無をまず調べてみよ。この因縁がなければ比較的容易に直るが、この因縁あるかぎり、絶対に直らぬのである。この因縁は水子の霊障から生じていることが多い。

逆恩の因縁

これは恩を倣で返す因縁である。
これも家運衰退の因縁に根ざすものである。
要するに恩を受けた人(主人,師,上長,取引先、先輩など)をだましだに傷つけ
たり、とにかく相小に何かしらもその出が刑獄の囚縁
を併せ持っていたなら)殺して金品を奪らたりする。そこまでいかなくとも必ず恩義のある人を裏切りそむく。
因縁というものは、必ずしも性格的なものとは限っておらぬので、「恩を仇で返す因縁」を待った者が必ずしも恩を仇で返すような性格を持っているとぱ限らない。中途挫折の因縁を持っている者が必ずしも薄志弱行型の性格を持っているとは限らぬ、と先に書いた通
りである(もちろん、持っている因縁がそのままその人の性格になっている人もかず多いが)。
この逆恩の因縁の場合も、性格としては、恩を仇で返すというようなものと反対に、一
心に恩義にむくいようとする心がけを持っていて、そのように努力をしながら、かえって結果的には、その恩義を仇にして返すようなことになってしまうことがよくある。例えば、
主人(会社)に忠実で一心に尽くすのだが、それがかえって主人(会社)のためにならぬような結果を生む。努力してお得意や取引先をつくると、その取引先が何千万、何億円という不渡り手形を出したり、倒産してしまったりして、主人(会社)に大きな迷惑をかけてしまう、というようなことになる。
大体、自分にとって恩義のある人というのは、自分に好意を待ち、あるいは信用して、
自分を引き立て、力になってくれる人である。こういう相手に、無意識とはいえそういう損害をあたえたり、そむいたりするということは、自分で自分の手足をもぐことである。
自分の有力な味方を失うことになる。そこで孤立無援となり、人生の失敗者となってゆく。
人を使う人、使われる人も、ともにこの因縁には注意が必要である。

夫の運気を剋害する因縁
夫の運気(生命力)を目に見えぬ力で損ね、削る。といっても、必ずしも、日常生活において夫を尻の下に敷いたり、夫を虐待するというのではない。もちろん、そういう場合もないことはないが、前にも書いたように、因縁というものは性格にあらわれる場合と性格にまったくあらわれぬ場合とがある。この因縁の場合もその通りで、むしろこの因縁を
持つ女性はマメマメしく夫につかえる良妻賢母型に多いので始末に困る。江戸川柳に、
「次の間で毒が薬を煎じてる」
この句の意味は、亭主が年中病弱で寝ている、その家をたずねてみると、亭主の寝ている次の部屋で、若い美しい妻君が、甲斐々々しく薬を煎じている。しかし実際は、この美しい妻君が病身の亭主にとっては毒なのだ、というところから、妻君が薬を煎じているのを、毒が薬を、と皮肉っているわけである。
この因縁を持つ女性を妻に持つと、その夫は年中病弱となるか、または仕事がうまくい
かず、年中失敗したり、渋潜しがちとなる。生命力を削られるところから、運が非常に悪くなるのである。いかに才能、手腕があろうとも、必ず何か一つの不運につきまとわれる。
妻君が一心につかえればつかえるほど、夫の運気が悪くなるのであるから厄介である。
世間によくあることだが、立派な妻君を待った夫が、他に女性を作り、その女性よりも妻君のほうがはるかに容色も頭もすぐれているので人が不思議がる例がある。これは、妻君のほうに、この、夫の運気を剋する因縁があるために、夫が、生命力自衛の本能から、無意識に妻君に反発して、そういう因縁のない運気のおだやかな女性を求め、逃避するためなのである。

中年になってそういうことがよく起こるのは、もちろん、中年代で経済的に余裕が出来たり、妻君の容色が衰えてきたということも理由の一つにはなるが、根本的には、若いうちは、夫のほうも生命力がつよいので妻の運気剋害にも平気で耐えられているから、それほど感じないが、年をとるにつれて生命力が弱り、憩いの場が欲しくなってくるのである。
この因縁の強いものをもつ女性が、いわゆる「後家運」と呼ばれるもので、色情の因縁のある夫は、前記したように他の女性に逃避し、色情の因縁のない夫は、趣味に逃避したり、仕事に没頭したりして、冷たい家庭となる。
もし、生命力の弱い夫であったら、死んでしまう。すなわち、後家運と呼ばれる所以である。女性としてしあわせな家庭を持とうと思ったら、まず切らねばならぬ因縁である。

夫婦縁障害の因縁
夫婦縁、結婚生活に障害が起きる因縁である。
なんとなくお互いに性格が合わず、年中不満を待ちあってゴタゴタが絶えず、冷たい家庭になる。
または、お斤いに愛情はあるのだが、どちらかが病気になって別川をよぎなくされる、とか、什事の関係で別れ別れに住むことになる。シュウトなどの関係で夫婦仲がうまくいかぬ、など、とにかく、愛情の有無にかかわらず、結果的に夫婦仲がうまくいかない。離婚してしまうというところまではいかぬが、とにかく、年中その一歩手前までいってゴタゴタしているのである。

‐夫婦縁破れる因縁
この因縁を持っている人は、男女とも、必ず生別か死別をまぬがれない。生別となるか
死別となるか、は、相手方の生命力の強弱による。

けいごく
刑獄の因縁
凶運の時に、必ず刑事事件を起こして、刑務所につながれることになる因縁である。
たいてい他の悪い因縁をあわせ持っていて、それらの悪い因縁とからみ合って起きるの
せなければ、必ずこの因縁の結果通りとなる。縁者でなく、他人のホトヶであることも少なからずある。

脳障害の因縁
この因縁は、精神病の場合と、精神病でない頭部の障害、の二種に分けられる。
すなわち、精神病(ノイローゼ、脳梅毒など)と、頭部の怪我、または脳溢血、脳軟化症等の病気で、程度の0 い因縁の人ぱ年中、頭痛、肩こり、不眠症などに悩まされる。
肉体障害の因縁をあわせ持つ人は、脳溢血から中気になったり、頭の負傷で手足がきか
なくなったりする。脳性小児マヒなどもこの因縁のあらわれである。

二重人格の因縁
前記の脳障害の因縁の系列に入る因縁に、この二重人格の因縁がある。
酒を呑むと、ガラリと人が変わってしまって、全く別人のようになってしまう。
酒乱はこの円縁である。表而意識がアルコールで麻玲すると、遺伝している潜在意識や
深層意識が浮かび出て、別の性格が入れかわって出て来るのである。異常性格・同性愛な
どもこの因縁である。
この因縁は、家運衰退の因縁にも深い関連があり、二、三代前の縁者で、非常に不幸な、恵まれない死に方をした人か、あるいは、他人で、その家に非常な怨念を抱いて死んだ者
のいることが特徴である。

癌の因縁
胃ガン、子宮ガンなど、この因縁を持つ人は必ず癌になる。
循環器系統障害の因縁
心臓、腎臓、肝臓等の循環器系に故障を起こす因縁である。
色情の因縁
男女が、異性(同性の場合もある)によって苦しんだり傷ついたりする因縁である。こ
れは、家運衰退の因縁のもととなる因縁である。
また、夫、妻が、その配偶者の色情のトラブルで苦しめられる場合も、色情の因縁があるということになる。

へんぎよう
偏業の因縁
職業の上にあらわれる因縁である。
この因縁を持つ人は、宗教家、芸術家、芸能人、裁判官、水商売などが適する。そのど
れがよいかは、別の因縁とも照らしあわせてみる必要があるが、とにかくこの因縁のある
人は、これらの職業以外につくと絶対に芽が出ない。つまり、適性ということに関係して
くるわけだが、そういうことをふくんだ上で、運命的にその職業以外では伸びない、とい
うことである。
職業の適性ということは非常に重大なことで、それゆえに、いろいろな適性検査などが考案されているわけだが、適業、適性、というものは、因縁的に決定されているのである。
人の職業は、大づかみにいって、技術系(生産事業、技術者)、営業系(販売事業、営
業、商人)、組織系(官公吏、政治家)の三種に分けられるが、人はみな、それぞれの系列
に向く因縁と向かぬ因縁を持っており、向かぬ職業に就いた場合、絶対に芽が出ぬもので
あるから、注意して選択しないと生涯の不幸となる。

財運・水の因縁

財運がめって、お金は人より何倍も多く入ってくるが、水のように流れ出してしまって、身にっかない。
無理に溜めようとすると、自分が病気になったり、家族が病気になったりする。これは、水の財運で、水というものは、流動しているかぎり腐敗せず、きれいである。溜まり水ぱ必ず濁り、腐敗する。それと同じで、この因縁を持つ人は、常にお金が流れ動いて身につ

かぬのである。無理にお金を溜めると、腐敗現象が起きて、家族に病人やヶが人が出たり人にだまされたりして、全部、お金が出て行ってしまう。

頭領運の因縁
人の上に立つ因縁である。この因縁をもつ人は、必ず、大なり小なり人の上に立って、
人の頭領となる。但し、この頭領運に二種類めって、純然たる頭領運と、組織内の頭領運とに分けられる、純然たる頭領運は、だいたい創業者として成功する。組織内の頭領運は、専務、部長という一分野の首長で終わる。
頭領運はよい因縁の部類に入るが、反面、孤独運を待ち、晩年は家庭的に不幸になりやすい。
頭領運のない人は、自ら頭領になると必ず失敗する。よき頭領運の人をえらんで、次位に甘んじ、よく補佐をすることに専念するがよい。それが、自分の才能、手腕を十二分に発揮し得る最良の道である。野心を持って自分がその位置に就くと、物事渋滞して苦労ばかり多く、必ず失敗するのである。

子縁うすい因縁
子供との縁がうすい因縁である。
この因縁があると、子供が生れないか、生れても、五、六歳になるまでに死んでしまう。
また、自分の実子と縁がうすいだけではなく、養子をもらっても、この因縁ある限りうまくいかない。その養子の運気(生命力)が強ければ衝突して出て行ってしまうし、生命力が弱ければ死んでしまうのである。

産厄の因縁
出産に際して、難産で苦しむ因縁である。衰運の時期で生命力が弱っている時にあたる
と、死ぬ恐れがある。水子の霊障や、難産で死んだ縁者の霊障のあることが多い。

無意識の意識

 

フロイトによって、
1、無意識の意識は、自分の知らない他人の意志によって動かされる。
という事実が明らかにされた。そして・フロイトは、

、人間の誕生以後の数年間を一種の催眠状態と見、その数年間に受ける子供
の、無意識の意識への抑圧・葛藤・精神外傷が、成人後(成人前も)の、いろ
いろな不幸や災害の原因となる。

と決論する。
要するに、フロイトの説は、ヒトの幼少期の無意識の意識への影響を、テーマとす
るものである。
とすると、明らかに、かれの幼少期以前の出来ごとに起因するもの
であるから、フロイトの、2、の説はあてはまらないことになる。
ただし、1、の、「無意識の意識が他人の意志によって動かされる」という部分は
適用できるであろう。明らかに、自分の意志に反して、自損行為をくり返すの
だから1.(かれは精神病者ではない)
だから、問題は、どのようにして、他人の意志が、かれの無意識の意識を動かすのか、という点にしぼられることになろう。
もっとも、そういうと、こういわれるかもしれない。
「フロイトの、2、の説も適用されないことはない。幼少期に、祖父と××とのはなしを耳にしたことがあるのかもしれない。それが、かれの無意識の意識に、
他人の川らないうらに紀憶されて、精冲外傷となり、一種の恐怖観念となる。それが、成人後に発作となって起こった。フロイトの表現でいう。神経症的行動となって
はげしくほとばしり出た”のである」

たしかにそういう解釈も成り立つ。
しかし、そうすると、わたくしがN氏の仏間で体験した異変は、どう説明するのか。それについての説明ができないのである。
わたくしは、祖父について、前もってなにも聞いていなかった。にもかかわらず、わたくしの身に、前にのべたような異変が生じたのである。この点について、
フロイトの学説は説明できない。!、と、2、の説のほかに、第3の説がなければな
らないのである。
われわれは、フロイト以外の学説をさがさなければならないであろう。

ユングの集合的無意識
この、自分の中に自分の知らない自分がいて、それが自分の行動を決定する、というフロイトの考えは、近代心理学がすすむにつれて、ますます顕著になってきた。
フロイトのこの考えにつづいて、カールーグスタフーユング(一八七五1一九六一)があらわれて、フロイトの無意識概念を拡大し、遡及したのである。
かれは、無意識の意識の根源を、人類共通の太古時代に求ぬるのである。いうならば、フロイトは、人間の幼少期にその根源を見出すが、ユングは、人類の幼少期にそ
れを求めるのである。かれによれば、無意識は、人類の太古時代にその源を発しているという。
これはたいへん興味ぶかい。フロイトは、どこまでも「個」に原因を求めるが、ユングは「多」であり、「集団」にそれを求めようとする。
これは、フロイトにない領域をひろめようとするものである。わたくしの求めるものも、そのなかにあるのではなかろうか? わたくしはひたすら、ユングを追求した
のである。
ユッグによると、人類が、その欲望と期待を挫折させるだけだったその当時の自然と社会では、人類はつねに本源的不安に直面して悩まされてきた。その源初的不安と
葛藤の痕跡が、無意識層にふかくきざみこまれており、この集合的無意識の葛藤は、各人の意識のみならず、ユングが太古類型とよんだイメージや象徴にもあらわれてい
るとする。
この太古類型は、人類の大きなコンプレックスを表現しており、そのもろもろの形態とテーマは、あらゆる宗教、あらゆる民話に見いだされるというのである。たしかにこのユングの説は、フロイトの説が点だとすると、面にまで拡大したもの
であり、無意識の意識層において人類は共通の場を持つという指摘は、偉大な業績といえる。
けれども、これは、人類共通の無意識(の葛藤・抑圧)を論じているのであって、その人類という集団の中の個(たとえばN氏やリード氏)の抑圧・葛藤について、太

古時代のそれと、どうかかわりを見いだしたらよいのか、そこのところが説明できないのである。そこを、どう考えるべきか?
われわれは、さらにべつな学説に目を転ぜねばならない。

第三の無意識層の発見
そうしてついにわたくしは、リポ″トーソンディの「運命心理分析学」にたどりついたのである。
それは、「家族的無意識」とも名づくべきあたらしい無意識層の発見であった。。
かれは、個人の無意識層のなかに特殊な祖先の抑圧された欲望・葛藤が秘められて
おり、それが、子孫の運命の選択行動となってあらわれると考えるのである。
さきにのべた、無意識の意識の抑圧・葛藤を太古時代に求めるユングの考えかた
は、いうならば、人類共通の祖先にその根源を見いだそうとするわけである。
これにたいし、ソンディの「家族的無意識」は、特定の個人の祖先にそれを求めようとするわけである。
要するに、それまで深層心理学は、おおづかみに分けて、フロイトの個人の無意識
層と、ユングの集合的無意識層(群衆心理学)と、この二つの「層」が研究対象とさ
れていたのである。ところが、ソンディの運命分析心理学は、それらの層の中間にあ
る「家族的無意識」という無意識の第三番目の傾域を、研究対象として把握したのである。
つまり、「個人」と「群衆」の中間に、「家族」を発見したわけだ。これは無意識の特別な領域である。
この家族的無意識というのは、ソンディによると、
個人の無意識層のなかに抑圧されている特殊な祖先の欲求が、子孫の、恋愛・友情・職業・疾病・および死亡の型式における無意識的選択行動となって、その運
命を決定する。
というのである。専門的で、ちょっとむずかしい表現になっているが、要するに、特な
された欲望や葛藤が、子孫の無意識の意識にはたらきかけて、子孫の、恋愛(結婚)・友情・職業・病気・死にかたまで決定してしまう、というのである。
これはたいへんなことである。
われわれはだれでも、自分の理性・知性でものを考え、自分の意志で決定し、行動していると信じている。しかるに、恋愛(結婚も!)友情・職業・病気・そして死に
かたにいたるまで、特殊な祖先の欲望・葛藤に決定されてしまったのでは、まるっきり「自分」の出るマクがないじゃないか、ということになる。
わたくしは、さきに、自分のなかのアカの他人といったが、ここでは、自分のなかの祖先が、自分の運命のほとんどを決定してしまうというのである。
ほんとうに、そんなことってあるのだろうか?