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Buddhism

求聞持法

4 =並人誕生
だんじ上うだいしゃく
とうこうざ
火龍は目ざめた。
あかあかとひときわ高く燃えあがった火焰に蘇油をそそごうと、壇上の大杓に手をさしのべた
とたん、私は、背中に、力いっぱい鉄のかたまりでも、たたきつけられたような衝撃を感じて、
声もなく、うしろにのけぞった。つぎの瞬間、私は虚空をつかんで登高座からころげ落ちてい
た。息つくひまもなく苦痛がたてつづけに襲い、私は、胸をかきむしり、身をよじり、息も絶え
絶えにあえぎにあえいだ。いったいなにごとが起きたのか考えるいとまもなく、私の全身は暴風
に吹きさらされる一本の草草のごとくうちふるえ、わななき、崩れた。全身の血管は膨張し、苦
に大きく見ひらかれた腫は血を噴いて飛び出すのかと思われ、息がつまってあえぎにあえぐ私
は、ささくれだった堂内の板敷きを腹ばいっっ拳で乱打し、私の拳は血にまみれた。
「食中」
あしぐさ
こぶし
しかし、私はこの山奥の壁にこもったこの三日間、断食をつづけていた。
「だれかに港を盛られたか?」
しかし、湧き出る泉のきよらかな水以外、ほかのなにものも私は口にしていない。

仏動か?政法!」
のどとをかきむしりながら、頭のなかをきれぎれに声にならない言葉が走った。
私は、深夜の護摩行に入っていたのだった。定に入って、護摩の火を凝視つつ、私はチャクラ
のトレーニングに入っていた。そのころ、私は、定に入ると、自然に手指が動き、あたらしい手
印がつぎつぎと生まれ、いうならば「ムドラー三昧」に入っていた。その夜、三つのあたらしい
ムドラーが生まれていた。パドマ・ムドラー (と今は名づけられている)と、バザラ・ムドラー
を組んだ瞬間、例の「明星」が、ふっと、護摩の火焰の上に浮かんだ。それが、いつもとちがっ
て、2のようにまたたかず、静止したまま、しだいに明るさを増しつつ大きくなってゆくのだ。
ついにそれは学大になった。つぎの瞬間、それはしずかに回転しはじめた。ゆっくりと、それ
は回転する。はやからず、おそからず、おなじテンポ、かわらぬリズムでそれはまわる。それは
いいさ
頭のなかではない。明白に、護摩の火の真上の空間である。ただし、それは、頭の角度によるの
であった。その角度を変えるとそれは消える。消えてから、目を閉じて、閉じたまま眼球をある
角度に向けると、ふたたび明星は目のなかに生ずる。私は、目をひらき、火焰の上の廻転する
「明星」を避視しつづけた。
だんぼく
そのとき、高く組んでいた瓦木が焼け落ち、ひときわ高く火が燃えあがった。蘇油をそそごう
として、私は息上の大判に手をさしのべた。その刹那、私は背中に、鉄のかたまりを力いっぱい
たたきつけられたような衝撃を感じて、うしろにのけぞり倒れていたのである。

 

ました
まう。
「越法罪か!
私は、なんとか姿勢を正そうと、次のような心中 う、懸命に身を立てなおそうとした。
服装を正し、なんとか金高座によじのぼり,越法消滅の行法を修さんものと必死になった。
ようやく登高座に手がかかった瞬間、じーんと強い電流が背骨を走りぬけた。
私はふたたびのけぞった。それは、廣ムの奥から白熱のようにひらめいて、私の不在を下につ
きぬけた。電撃のようであった。日がくらんだ。つぎの瞬間、全身に悪寒が走った。突然、急接
た寒さが全身を襲った。寒い。深山とはいえ四月の上旬であるのに、体じゅう氷づけにされたよ
うな寒さだ。ガチガチと歯の根が合わない。戦標と奏、凍死するぞ、と思った瞬間、展の
底から、かあっと燃えるように熱くなった。助かった!と思う間もなく、ふたたび金なき
がくる。交互に、これが数回おこった。私はもはや死生であった。
「もう死ぬ!」
とに江らない謎多きあげた瞬間であった。居統倍のあたりに、ふいに焼きゴテをあてられた
ようた熱意を感じた。尾監督が、ぐうッと動き、肉ばなれしたようなはげしい痛覚!
そのとき、ばっと頭のなかにひらめいた。
「ダンダリニーだ!」
私は書んだ。
「ダンダリニーの覚だ!」

 

 

そうか、そうだったのか。これがクンダリニーの目ざめなのか!
私は苦痛に顔をゆがめながら、味突した。
それからあと、ただ、私は苦痛に身をまかせた。あえぎながら耐えた。身をよじりつつ静止を
待った。それはおよそ二時間ほどつづいた。
立ち上って堂の戸をあけると、しらじらと夜は明けそめていた。すべてがおわって、われにか
えった私は、ふうっと大きく吐息をついて、すべて夢のなかの出来事のように感じた。しかし、
それはけっして夢のなかの出来事ではなかった明白な証拠が私の全身をとらえていた。
この、いまだかつてない爽快感! 私は生まれかわっていた。私の内なるなにかが目ざめてい
た。すべてのものが、明るいかがやきにみちていた。光がながれていた。木も草も、石ころさ
えもが、私にむかってかがやきながら殺到してきた。私は彼らとはなしが交せそうであった。彼
らの考えが、ひとつひとつ私の魂のなかに流れこんできた。なにもかも、かがやいていた。私自
身の全身からも、うすい青と黄色と白のかがやきが霧のように流れ出、たゆたっていた。ごくう
すいヴェールが風に吹かれて舞うように私のからだをめぐりつつ、それは光らずにかがやいた。
そのとき私の耳は地球の発する巨大な轟音を聞いた。その一瞬、私は時間も空間も超えていた。
いまこの瞬間、私は一冊のうちに万里を飛翔することができる。またたくうちにヒマラヤの奥
地に飛び、つぎの瞬間、身を転じてパリの喧騒のなかに身をおくこともできる。私はそのまま消
することもたかった。私はそのとき欲するならば光に化身することも可能であった。満目、光しこるのかに、無意のある、ル。
私のタンパニー常時あった。
とを明かそう。漢線をチャクラをまとイングに進を教のeme察部)。ク
ンダラー要選。過給た開発の最の原典だったのである。ただし。この漫線は。施気の。類
普察にある。ある本作は透撃。で磁場、オクラの開発を主とした瞬美線,三線があ
類語変義の寒性 死とは
をはきまでいくとし、道しながクンニをまく
なるんであったまま正慶のであった。敵の出演して
いると、下。義
今だにダンプリーツがある動でい発。まず、タンニードなお、応務
ご機のなかめカジュールアーを直して、サバカスタを、き度が年、建築、アク
リーダーランドランに発送して、選定がある。学を出ている。思いが残念、さきに、大
ステティックデ察用されていた。とに非並外出が期で、成、金髪で後、日を
バンダナラーンバスアライアンクカヒ理にして。
でも、バラに関・小城

 

 


常)の『明星』から、クンダリニーにむかって光が一瞬し、その電撃によって、クンダリニーが
よびさまされたという感じであった。たしかに、薬品から脊柱の中心を通って思武骨に光ととも
に指覚が走った。そして足概骨に灼けつくような激痛が生じたのである。
まさに正反対である。
これはいったいどういうわけであろうか。
思うに、これは、私の特殊な修行法によるものではなかろうか?
私の特異なところは、密教からヨーガに入っていったということである。つまり、密教の立場
で古代ヨーガを修行したということである。今まで、クンダリニーを覚醒した偉大なヨーギー
(ローガ修行者のことたちの体験を読むと(日本において、今までにクンダリニーをほんとうに
覚した人はひとりもいない。したがって、その体験を書きしるされたものを読むしかない)す
べて、最初からヨーガに入り、ヨーガを修行した人びとばかりである。そうして、ヨーガの定石
通り、まずクンダリニーの覚醒に力を集中した。
私はちがう。
私は、まず密教に人り、真言宗密教のカベにつきあたり、転じて古代インドのヨーガにむかっ
た。
ヨーガに入っても、私はほかのヨーギーたちのようにクンダリニーの覚醒を求めず、なにより
まず「求聞持惑明法」を完成するための技法を求めた。むしろ、私は、「求聞持法」を完成するために古代ヨーガに道を求めたといったほうがほんとうであった。私は、拙著「変身の原理」
に書いたように、弘法大師空海にならって、真の密教修行は「求聞持法」からはじめられねばな
らぬと思った。すべての秘密を解くカギは、「求聞持法」のなかに秘められていると信じた。そ
うして私の命がけの「求聞持法」修行がはじまったのだが、様式化された真言宗の「求聞持法」
は私の大脳皮質になんの変革もあたえてくれず、私は絶望にうちのめされた。力を失った行法
は、たんなる儀式のひとつに過ぎない。私は、身を転じ、法の源泉をもとめて古代インドのヨー
ガに入っていった。そこで、私は、ヨーガを完成しようなどとはさらさら思わず、ひたすら求め
たのは「求聞持法」の完成と、そこからはじまる密教の法』への探求であった。
そうして私は「求聞持法」を完成した。だれも知らなかった『明星』の秘密を私は解いた。
それがそのままョーガの奥義、クンダリニーの覚醒につながっていようとは-
求聞持法とは、サハスララ・チャクラの開発システムにほかならなかったのである。空海の天
がはたしてそれを意識していたかどうかはべつとして、そこから密教の法』がはじまること
にまちがいはなかったのである。そうして、私が、密教の立場をはなれずに、古代ヨーガの技法
を摂取しようとしたことは、期せずしてその法に合致したのであった。求聞持法こそ、密教
と茶戦の派宗である古代ヨーガとをむすぶ唯一のかけ橋だったのだ。それは何千年ものあかし、
ひそかにわけわたされて、そのままだれからも忘れられてしまった客の橋であった。この橋を
449~超人生

 

かっ
発見してわたるものこそ、密教とヨーガと、その二つの原点にもどってこの二つの秘密の力を体
得することができるのだった。それは、古代のむかし、二つに割符された暗号文であったのだ。
もしも、私が、最初からヨーガに入り、ヨーガの修行のみに終始していたとしたら、はたしてク
ンダリニーの覚醒が得られたかどうかわからぬのである。おそらくは不可能だったのではあるま
いか。もしもにして可能だったとしても、たいへん長い年月を要したことであろうと思われ
る。いやいや、それはやっぱり不可能であったろう。なぜならば、ヨーガはクンダリニーの覚醒
を説くけれども、それをどのようにしてなすのかという技術については、明確な方法を示していな
いのである。結局は天分のある者の、それぞれ独自の修練と工夫によるよりほかないのである。
指導者も、もちろん指導し協力するけれども、行法”としてのシステムは明らかにされていな
い。呼吸法とある種の体操によって得られると説く派もあるが、私の体験によれば、それだけで
は不可能に近い。それだけでクンダリニー覚醒を成就した偉大なヨーギーもたしかにおられる
が、それはけっして一般的な行法とはいい難い。
ヨーガの行法』に欠けたものを埋めるものが真言密教にあった。
たとえば、サハスララ・チャクラの開発技術に、求開持法の九紙の印明がある効果を発揮する
のである。真言密教の求聞持法の九の印明は、ヨーガの技術といっしょになって、大脳皮質の
開発に非常によいはたらきをする。
同録に、軍茶利明王の五種の印明と観想が、クンダリニー覚醒こ、

 

する。
このことは、ヨーガの修行者、指導者のだれも知らず、真言密教の修行者、指導者のだれも知
らなかった。数千年来、この橋はかけられたまま、だれも渡るものがなかったということであ
100
私は、この体験をもとに、古代ョーガの技術を真言密教にとり入れて、(あるいはその反対に、
真言密教の行法を古代ヨーガの技術にとり入れて)独自の密教システムをつくりあげた。そのも
っともいちじるしい例のひとつに「開発護摩」がある。
真言宗密教の護摩法は、いうなれば「祈警護康」である。ホトケ、ボサツ、明王等をまねいて
代表し、つづいて悉地成就(道順の達成)を祈願する。
私はこの護摩法のほかに「超能力(法力開発の護摩法」を創成した。
考えてみれば、諸願達成の護摩の以前に、法力(超能力開発の護摩があるべきはずである。こ
れが無いのはおかしい。もっとも、その前に金剛界、胎蔵界の修行をするから、それで法力がつ
いているはずだというかも知れないが、それだけでは十分でないことくらい、密教の指導者自
身、だれよりもよく知っているはずだ。
とにかく、供養法、祈籍法としての護摩のほかに、能力開発法、修行法としての護摩法がなけ
ればならぬ。
私は、護摩法を以て、チャクラの開発システムを編成した。護摩法は、チャクラの開発、ここ
451人生

仏法とは、仏陀釈尊が生涯かけて 弟子たちに教えた成仏法、七科三十七道品

仏法とは、仏陀釈尊が生涯かけて
弟子たちに教えた成仏法、七科三十七道品

死後も生きつづける幽体(アストラル体)

アメリカ・ジョージア州立大学哲学科のロバート・アルメダー教授は、その著書『死後の生命』(TBSブリタニカ)の「まえがき」と「本文」において、つぎのように述べています。
『私たちは今や、死後にもなんらかの生命が存在するという考え方を強力に裏づける、事実に基づいた一連の証拠を手にしている』
(まえがきより)
『以上のように考えると、あらゆる人間は、“幽体”(すなわち、ある種の状況以外では肉眼には見えない物質類似の希薄な要素からなる第二の体)を持っているという、霊能力者がしばしば行う主張がある程度真実味を帯びてくる。
この第二の体は、形状的には肉体と瓜二つで、肉体の死後も存在を続けるとされている』
(本文より)
では、仏教では、どのように考えているのでしょうか。

人間は死ぬとどうなるのか?

仏教では、人間は、色〈しき〉(物質)・受〈じゅ〉(感覚)・想〈そう〉(表象)・行〈ぎょう〉(意志)・識〈しき〉(意識)の五つの要素からできていると考えます。この五つの要素を「五蘊(ごうん)」と呼び、この五蘊が仮に寄り集まって人間(自我・霊魂)ができあがっているのです。
では、人間が死んだらどうなるのでしょうか?
日本の仏教者の大半は、釈尊が「霊魂」の存在を否定してしまったと考えています。つまり、死んだらすべてが消滅すると考えているのですが、これはまちがいです。
死んだらすべてが消滅してしまうという考え方は仏教ではありません。釈尊直説の経典である『阿含経』を学び修行していないから、このような誤った見解を抱いているのです。
釈尊は決して、霊魂の存在を否定しておられません。むしろ肯定しておられます。ただし、「霊魂」という名称ではなく、「異蘊(いうん)」という表現を用いておられます。

凡夫が死んで「五蘊」が滅しても我執(タンハー)のエネルギーによって「異蘊」(異なる構成要素)を生じて存在をつづけます。

 雑阿含経の中の「仙尼経」において、釈尊は次のように説かれております。
慢〈まん〉(我執〈がしゅう〉)断(だん)ぜざるがゆえに、この蘊〈うん〉を捨て已(おわ〉りて(死んで) 異蘊〈いうん〉相続して生ず。
つまり、異蘊とは生きている人間の構成要素(五蘊=色・受・想・行・識)とは異なった構成要素(蘊=集積)という意味で、現代風にいえば「異次元の薀(存在)」ということです。
また、雑阿含経「身命経」においても、「意生身(いしょうしん)」ということばで、死後の存在を説かれております。意生身とは意識(心)だけで出来た身体をいいます。
このように釈尊は、人間は死んでも、我執煩悩(タンハー)が残るかぎり「なにか(異蘊・意生身)」が存在をつづけると説かれております。この死後の存在こそが霊魂なのです。
そして我執(タンハー)が残った霊魂は、死後の世界を経て再生し、現世で成仏法の縁に逢わなければ、果てしなく輪廻転生を続けます。
また、この我執が非常に強い場合は、不成仏霊や霊障のホトケとなって迷い、その怨念のバイブレーションが子孫の心に強く悪影響をおよぼします。

 


サールナートの仏陀像
 釈尊は、古代インドのバラモンが説いた「永遠に変化することも滅することもない自我(アートマン)(霊魂)」という考えは否定しておられますが、
縁によって生じ、縁によって滅するという「縁起の法」の上での「死後の存在」は認められております。
つまり、「永劫不変の自我(アートマン)」というものは存在しませんが、「無常(変化)の中や縁起において成立する自己(アートマン)」はあるのです。
修行によって向上し、涅槃(ニルヴァーナ)に入る「自我(霊魂)」は存在するのです。
「不変」ではなく縁によって「変化」するために、死んで(その霊魂・霊体が)異蘊となる縁に逢えば、異蘊となって輪廻転生し、成仏法の縁に逢えば、解脱して仏界に生ずるのです。
死んだからといってまったく「無」になって消滅してしまうというのは、仏陀の説かれた縁起の法則に反するものです。

成仏法は、生者、死者を問わず、その霊魂を救済する

チャクラ

1=超能力開発のシステム
チャクラの機能
前の章において、私は、チャクラを、内分泌腺という近代医学、生理学の面からながめてみ
た。それでは、そのチャクラを、密教自身はどのように考え、どのように説明しているか、今度
は密教の立場から見てみよう。
エネルギー
1 ムラダーラ・チャクラ
体力が異常に増進して、普通人の三~五倍の精力を持つようになる。三日、四日の徹夜くらい
平気になる。一切の病気を受けつけず、健康体そのものとなる。病弱だった者は、その悪いとこ
ろがみな譲ってしまうのだ。このチャクラに Samyama を集中したとき瀕死の病人でも床を蹴っ
て立ち上るだろう。男女ともに実際の年令より一〇歳以上若くなる。そのかわり、強烈な性欲と
生殖力を持つようになるので、そのエネルギーを、オージャスという知能のエネルギーに変える
方法をあわせ教える。
2 スヴァジスターナ・チャクラ
このチャクラにエネルギーを集中すれば、気力が充実し、勇敢になって、積極果敢な行動力を

発揮するようになる。なにものをも畏れず、なにごとにも惑わず、不動の信念をもってどんな困
魅にもひるまない。生死を超越した超人的手腕力量を発揮する。
チャクラの位置
(4)
(0)
12-
せいらん
3 マニピューラ・チャクラ
細頁に述べたヨーガ・スートラの「消輪に綜制をほどこすことによって、体内の組織を知るこ
とができる」というのが、このチャクラである。体内の組織を知ることができるというのは、た
だ知るということだけではなく、からだの組織を自由にコントロールすることができるというこ
とである。それも、自分のからだだけではなく、他人のからだも自由にコントロールする力を持
つから、人の病気なども即座に恋してしまうのである。
このチャクラは、五気のうちの「サマーナの気」に属するものである か ら、「サマーナ気を克「じょう
服するならば、身体から火始を発することができる」とあるように、このチャクラを綜制するこ
とにより、火のエネルギーを出せるようになる。念力の護摩の火は、このチャクラと、ヴィシ
ュダー・チャクラを使って出すのである。クンダリニー密教の奥義書には、「定に入って目を閉
じているとき、このチャクラから、黄色味を帯びた白熱の火焰が水蒸気のように立ちのぼるのが
見え、また、道を行くとき、同じ色をした火焰に腰から腹部のあたりがつつまれているのが見え
る。うすい煙が霧のように見えることもある」と記されている。 このチャクラが、ムラダーラ・
チャクラで増強された生殖エネルギーを、別な物質に変化させる。(どうしてそれができるかは
あとで述べる)おなじように、体内に入ってきた毒物、毒素は、このチャクラが分解したり、ベ
つな物質に変えてしまう。だからPCB、DDT、などの毒物も、このチャクラの力で無害のし
のにしてしまうことができる。
はっきり火焰が出せるようになると、物質原素を変化させて、べつな物質に変えてしまう力を
持ちはじめる。
アナハタ・チャクラ
他心通の力があらわれてきて、他人の心が手にとるように分るようになると同時に、他人の心
を自由に動かす力が出てくる。
つづいて、目に見えぬものの高い心(聖霊、神霊、主導霊と表現する)と心を交流することがで
きるようになる。自分にとって不可解な、理解できぬことなどを、天地にみちた、すぐれた心、

シッダー智恵のエネルギーに同化してそこから開くことができる。つまり、人の
人の持っていた心のエネルギーはこの空間に痕跡をとどめているので、このチャクラでその心の
波動と同じ波動になれば、その心が持っていたすべてのもの、意識も、知能もみな自分と同化し
で自分のものになるということである。そういう意味で、このチャクラに十分熟達すると、霊界
(四次元)の世界と交流の道がひらけるのである。
5 ヴィシュグー・チャクラ
超人的な聴力がそなわる。実際に、このチャクラが使えるようになると、それまで全く聞こえ
ていなかったある音響を聞くことができるようになる。これは私自身の体験であるが、その音が
どんな音であるかは、ここでは伏せておく。私が弟子の指導にあたって、その弟子がどんな音響
を聞いたかをしらべることにより、その弟子が本当にこのチャクラを体得したかどうかの判定基
楽になる。そういうものを判定基準にしなくても、指導者には分るが、もし、こういう音だと前
もって知らせておくと、自己暗示でそういう音を聞いてしまうこともあるので、それに類するこ
とは一切伏せておくわけである。法を惜しんで公表しないわけではないのである。ただ、いえる
ことは、人の聴覚は、四〇、〇〇〇~五0、000キロサイクルの振動波しか聞くことができな
いが、このチャクラを修得すると、その倍以上に聴覚の幅がひろがるということである。一〇〇
メートルはなれて人の心臓の鼓動も聞くことができるということである。ちなみに、犬の聴覚
は、八〇、〇〇〇~九〇、〇〇〇キロサイクルとされている。

ヨーガ・スートラにある「あらゆる生きものの叫び声の意味がわかる」
わる。仏教の天耳通である。
んにつ
また、このチャクラは、頭部、上肢(両腕)及び胸部の筋肉運動に深い関係を持つ。
6 アジナー・チャクラ
異常な透視力を持つようになる。ヨーガ・スートラにある「心の発現にそなわる光をあてるこ
とによって、どんなに微細なものでも、人目につかぬところにかくされているものでも、はるか
遠くにあるものでも知ることができる」という能力である。
テレパシー能力が生ずる。ヨーガ・スートラにいう 大脫身』が可能になるのはこのチャクラ
である。
このチャクラは、また、命令のチャクラ、願望成就のチャクラ、自在力のチャクラともいわ
れ、熟達すると、自然に命令してこれを自在に動かし、自由に支配することができるようにな
る。すなわち、八種の自在力をそなえるようになる。八種の自在力とは、前にも述べたように、
の身体を極限まで小さくして、岩などを自由に通り抜ける力のからだを大空にいっぱいになる
は大きくする力の蓮の糸や綿くずよりも軽くなる力 4望みのままに、月にでも指をふれる
とができる力の自分の意志するままに、どんなことがらでも実現できる力 世界を創造
し、する力の方物を自分の意のままに従わせる力る大地のように身を重くすることので392
きる力、あるいは、自分の意欲の対象を必ず手に入れることのできる力、の八種である。
7 サハスララ・チャクラ
頭のなかの光明 Murdha-jyotio といわれるチャクラである。 Brahma-randhra 梵の座、梵の
製け日という頭蓋骨の接合するところの真下に位置する。梵の座、梵の裂け目とは、梵すなわち
聖なるもの、と一体になる場所という意味である。
さんぜん
このチャクラを目ざめさせると、この部位に光明があらわれて、燦然とかがやく。頭のなかの
光明である。
クチョウ
このチャクラはすべてのチャクラを統合してこれを自由に制御する。すべてのチャクラを自由
に制御することができるようになると、彼は次第に変身する。昆虫が全身を覆うかたい表皮を次
第に溶かし、しなやかな、しかし丈夫な羽翼を自然に身につけて、空飛ぶ蝶に変態するごとく、
彼はヒトからべつな生物に変身する。三次元生物のホモ・サピエンスから四次元生物の超・ヒ
ト、ポモ・エクセレンスに変身する。ヨーガでは、これを聖なるものと一体になる、と形容した。
のチャクラを、聖霊が宿り、聖霊と交流するところであるといっている。このチャクラを完成
した音を、超人、大師、救済者と呼ぶ。超人は、物質世界を超越し、時間と空間の制限を受
けない、ヨーガ・スートラにあるように、自由に自分の肉体を消失させ、一瞬のうちにヒマラヤ
の感地から東京に飛来し、一利那のうちにヨーロッパへ去る。彼は、四次元世界の時間と空間の
を意しているのである。二次元(平面)世界の生物にとって、
の行動はナノとしか思えぬように、三次元生物のわれわれには、四次元世界に住む超人の動きは
全く理解できない。インドでは、仏陀が超人であるとして、このチャクラの完成者であること
を、形を以て示している。その形を、おそらく、あなたも必ず目にしているはずなのであるが、
あなたは多分そのことに気づいていないのであろうと思われる。
このことについて、「ザ・チャクラス」の著者、Leadbeater 氏は図を示して解説している。
次頁の下の図は、ジャワの寺院の仏像である。上は東大寺法華堂の仏像である。この二つの像
の頭部がサハスララ・チャクラの、二つの型を示しているのである。下の像は、チャクラによっ
て発達した頭蓋をそのまま示している。この頭頂の盛りあがりは、多くの人びとが考えているよ
とうちょう
うに、マゲではないのである。これは、肉壷といって、仏陀の持つ「三十二相」のひとつで、頭
骨がこのように発達して盛りあがっているのである。なぜ発達したかというと、このチャクラの
にか
修行によるもので、その盛りあがりはこの修行を完成したことをあらわしているのである。
ら、修行中の仏陀の頭骨はこのように盛りあがりを見せず、普通人とおなじ頭蓋をしている。修
行を完成して仏陀に変身したとき、彼の頭骨はこのように変化している。
Loadweater 氏によればこの像の頭部は、「最初に九六〇の花弁のように大きい盛り上り、それ
から、頭きに、それから上っている十二のより小さい盛り上りがある」といっている。巻頭のカ
ラー写真にある通り、このチャクラは、中心の軸が十二、その周囲の輪は、九六〇である。氏
は、このかたちが、仏陀に象徴されるこのチャクラの二つの型のうちのひとつであるといっ

 

 

ヨーガ・スートラ

の筋肉と深い開係があるとされている。ヴィシュダー・チャクラの修得により、私の火のエネル
ギーは、両腕にその通路をひらいたのである。しかし、その完成はまだ先のことであった。それ
は、もうひとつの重要な発見がなされるまで待たなければならなかった。しかし――、五千年の
長い間、だれひとり知るものがなかったムドラ!・チャクラ開発のいとぐちはここにひらけたの
である。私は、日夜、ひたすらその完成に身を焼いた。
クンダリニーの秘密
佐保田鶴治博士のヨーガの分類によると、『インドでヨーガとよばれている行法や思想はあま
りにも多種多様である。それら数十にも及ぶヨーガの流派は、その狙いどころも違っておれば、
その修行方法も違っていて、それらに共通した特色や本質をさがし出すことはたいへんにむずか
しい。いま、それら多くの流派のなかから最も特色のあるものをとり出し、それら各流派の行法
を仮りに現代的な用語をもって特色づけるとするならば、つぎのようなことになる。
一、ラージャ・ヨーガ心理的
ニ、ハタ・ヨーガ 生理的
三、カルマ・ヨーガ 倫理的
四、バクティ・ヨーガ宗教的
五、ラヤ・ヨーガ 心的
39力開発のシステム

六、ジナーナ・ヨーガ哲学的
七、マントラ・ヨーガ呪法的
このほかに特色のあるものとしては、体育を主とするヴィアーヤーマ・ヨーガという一派もめ
る。超心理学的な現象を特色とするクンダリニー・ヨーガを広く世界の注目を浴びている』(解説
・ヨーガ・スートラ)
古代ヨーガの奥に法を求めるにあたって、私は、これら数多くあるヨーガのうち、密教、
直書常攻にもっと深い関係のあるヨーガとして、クンダリニー・ヨーガをえらんで入っていっ
た。
いま、は、クンダリニー・ヨーガが真言密歌にふかい関係があるといったが、実は、ふかい
はどころか、真言密教にとってクンダリニー・ヨーガこそ、その源流であり、本流であったの
だ。真言密教、天台宗密教は、宗派仏教として成立せんがためにその本流をはなれて様式化し、
ついに力を失ってしまったのである。なぜそういうことがいえるか。その論拠は、この項で解説
するつもりであるが、まず、その前に、クンダリニー・ヨーガについて説明することにしよう。
クンダリニー・ヨーガは、佐保田博士のいわれる通り超心理学的現象を主眼とする。超心理学
• Panapsy chology とはなにか? それは、恒常的能力、つまりそれは、常識的な人間能力を
超えた力、超、意的能力(Extresensory Per-ception 略して ESP)、念動 (psycho-kinesio 略してP
だいた能力主研究対象とするもので、 要するに、超心理学的現象とは超能力の発現に注かシステム
ならない。クンダリニー・ヨーガは、その超能力をヒトにあたえようとするのである。
どういう方法で、クンダリニー・ヨーガはヒトに超能力をあたえようとするのであろうか?
クンダリニー・ヨーガの機構について説明しょう。
クンダリニー・ヨーガは、その力の発現を前に述べた七つのチャクラとクンダリニーという特
殊な力の開発によってなしとげようとする。
がたち
クンダリニーとは、脊柱のいちばん下端、尾低骨より約三センチ(人によって多少ちがう)ほど
上部にあるエネルギーの源泉である。クンダリニー・ヨーガは、いろいろな方法で、このクンダ
リニーを制激し、このエネルギーをひき出そうとする。
クンダリニーはいろいろな表現をされている。
ちゆう
クンダリニーが燃え上ったとき人は人になる。それは神聖な火となってすべてを焼きつくし、
ひとつのものだけを残す。(ヴェーダ)
人のなかに眠るコブラ(蛇)が目ざめて走りのぱるとき、人は真に目ざめる。(ヴェーダ)
われは力なり、神なり、クンダリニーなり。(バガヴァット・ギータ)
401 超能力開発のシステム

ヒトを改造する超技術


 

このシステムで訓練すれば、眠れる君のニューロンはたちまち目ざめ、君の知能は三倍になる。

それは、ヒトを全くべつな生物に変えてしまう超技術だ。

その超技術がここにある。

ヒトを改造する超技術

トラブル

ヒトの知能が倍増し、人類の知的水準が現在の二倍ないし三倍になったら、世界はどのように変わるであろうか? おそらく、人類は、いまかかえているあらゆる問題を、すべて解決してしまうであろう。

いやーー、それよりも、全く新しい構造の社会が出現するのではないか?

人類がいまかかえている問題を見てみよう。

――殺し合い、作い合い、憎み合い、傷つけ合い――そして地球上に急速にひろがりつつある

有害物質―――。それらはどこに原因があるのであろうか?わかりきったことである。

それは、ヒトがいかなためである。

人類学者リンネは、人間を分類して「知恵あるヒト」と学名をつけた。

ホモ・ サンビエンス

 

ホモ・スウルチッシムス
生理学者シャルル・リシェは、愚かなヒト、ホモ・スッルッスと名をつけた。ノーベル賞受賞者のリシェは、その著、「人間―この愚かなるもの」の序文で、 人類のかずかず の愚行をつぎつぎとあげ、実にあきれかえったおろかな動物であるとして、超感 人類 と呼びたいところだが、まあ、最上級の形容詞はがまんして、感 人類ぐいでかんべんしておこうと書いている。

 

たしかに、ヒトには、この二つの面がある。賢い知恵ある面と、愚かで弱い面と、二つの面がひとつにまざり合っている矛盾した生物が、まさにヒトであるということなのだが、いま、われ
われの周囲をながめてみると、ホモ・サピエンスは全く影をひそめ、ホモ・スッルチッシムスがのごとく横行している。

殺し合い、奪い合い、憎み合い、傷つけ合いー、それは次第にエスカレートしてゆく。科学と技術はヒトの力を無限に拡大したが、同時に、ヒトの殺戦と搾取と憎悪と闘争をも無限に増大させた。このままでは、間もなく、モ・サピエンスは絶滅する。

 

いま、人類にもっとも必要なものはなにか?

それは高度の知能である


この地上に展開する恐るべき大愚行は、なによりもまず人類の知能が低いところに原因する。

いま、人類に必要なものは、科学でもなければ技術でもない。革命でもなければイデオロギーでもない。人種闘争でもなければ階級闘争でもない。そんなものはなんの役にも立たぬ。

 

きつくさくしぞうとうそう何十回、革命を起こしても、何百回、闘争をくりかえしても、人類の知能がいまの水準にあるかぎり、それはむなしい儀式のくりかえしに過ぎぬ。

歴史をみてみよう。機械と技術、科学と文明と称するものがいくら進歩発達しても、おろかな人間たちの行動パターンは少しも変わっていない。つねに、憎み合い、殺し合い、奪い合う、このパターンのくりかえしではないか。どこに変化が見られるか。

 

若ものよ。エネルギーのむだな燃焼をやめたまえ。革命を思うなら、全人類の知能革命に前にせよ。

ネアンデルタールの昔から、ヒトの知能は一歩も前進していない。なによりもまず人類の知能を高めねばならぬ。

ホE・スツルチッシムスを絶滅せよ。そうせぬかぎりわれわれにもはや未来はない。それはす

でに秒読みの段階に入っている。
このとき、ここに、ヒトを改造し、社会機構を一変させる技術がある。この技術は、ふるき社会体系をすべて解体し、そこから生まれるあたらしい文明は、次元をひとつ超えるだろう。

この技術によってのみ、世界はよみがえり、この革命だけが全人類を破滅から救う。若いのよ。

君たちはなぜこれに視線を向けぬのだ。
次ぎ、出たのは、この、地上いまだかつて比類なき壮大にしてドラマチックな革命に情熱をた

内分泌と力の湧き出る泉

3=内分泌腺と《力の湧き出る泉》
九つのチャクラと九つの内分泌腺
古代ヨーガは、チャクラを、力の湧き出る泉と形容した。私は、チャクラをこのように表現し
た似智に、無条件でシャッポをぬぐ。
内分泌腺をしらべてゆくと、それは、まさに『湧き出る泉,というよりほかはない。そのもの
ズバリの命名なのである。
分泌とはなにか?
むずかしい医学的、生理学的な定義はべつとして、その状態をもっともわかりやすく、しかも
的確にあらわそうとすれば、それは一種の液体状のものが~湧き出る」というよりほかはない。
では、なにが湧き出るのかというと、それは、「ホルモン」である。
「非常に少量の、三つの不思議な物質が、人体の化学作用を支配している」
と、ブルース・ブリベンは、「人体の驚異」のなかで,人体の大切な化学物質』と題して、つ
ぎのように述べている。
『それらについての最も重要な事実の一部分は、近年になってようやく発見されたものである。
内分泌と力の湧き出る泉

3 = Endocrine glands and 《Spring of power》 Nine chakras and nine endocrine glands Ancient yoga described the chakra as a spring of power. I describe the chakra like this Unconditionally wipe the shappo to the same wisdom. Looking at the endocrine glands, it is nothing more than a “spring that springs up.” Itself It is the name of Zubari. What is secretion? The difficult medical and physiological definitions are different, and the condition is the easiest to understand, and moreover. If you try to express it accurately, it is nothing more than a kind of liquid thing ~ springing up. ” Then, what springs up is “hormones”. “Very small amounts of three mysterious substances dominate the chemistry of the human body.” Bruce Briben said, “In the wonders of the human body, important chemical substances in the human body.” It states like a gi. “Some of the most important facts about them have only been discovered in recent years. Endocrine and powerful spring

 

 

の化学物質
は、?御しなければ破壊的な
ているのである」
この三つの化学物質のうち、ビタミンだけは、外からとり入れ
の物質、ホルモンと酵素は、人の体のなかでつくり出される。
内分泌腺の働き」と題する」・D・ラトクリフの文章は、ホルモンのはたらきを、概観的に、
だれにでもわかりやすく述べているので、その一部を引用してみる。
『血液中を循環しているホルモンは、小型の水爆にも比すべきもので、信じ難いほど強力なもの
である。女性は妊娠能力のある三〇年ほどの間、城県からエストロジェンというホルモンを分泌
するが、その総量は郵便切手一枚の重さとほぼ同じくらいのものである。思春期には、この切手
のほんのはしきれくらいの量で驚くべき変化がもたらされ、少女の体は一人前の女の体につくり
かえられるのである。

Chemicals Is it destructive if you don’t control it? ing” Of these three chemicals, only vitamins are taken in from the outside Substances, hormones and enzymes are produced in the human body. “The function of the endocrine glands” “・ D. Ratcliff’s text gives an overview of the function of hormones. It’s easy for anyone to understand, so I’ll quote a part of it. “The hormones that circulate in the blood are incredibly powerful, comparable to a small hydrogen bomb. Is. Women secrete a hormone called estrogen from the castle prefecture for about 30 years of fertility However, the total amount is about the same as the weight of a single postage stamp. In adolescence, this stamp A mere amount of tremendous change is brought about, and the girl’s body is made into a full-fledged woman’s body. It can be returned.

 

 

頭部にある甲状腺が一年間に生成するホルモンの量は、茶さじ一杯ほどにすぎないが、もし茶
さじ一杯に少しでも足りないと、新生児はクレチンー知能のおくれた不格好な人になる
ことがある。
別情も、一生の間に茶さじ一杯くらいのホルモンを生成するにすぎ泣い。しかし、その微妙な
まぶた
平衡がみだれると、数多くの不具魔族同然の病気にかかる。また、副腎の働きが何らかの理由で
止まると、生命のいとなみが目のまわるような早さで進行し、数カ月の間に元気な青年がよぽよ
ぼの老人になりかねない。
人体の驚嘆すべき内分泌腺は、事実上、われわれのあらゆる行為に関与している。かりに城を
ひいたとしよう。眼の筋肉にその開く力をあたえるため、血中に糖を供給するように手配した
のはホルモンである。指を傷つけたとする。ホルモンはすぐに動員されて、炎症を押さえ、感染

 

The amount of hormones that the thyroid gland in the head produces in a year is only about a teaspoon, but if tea If you don’t have enough of a spoonful, your newborn will become a clunky, clever, clever person. Sometimes. Another affair is that he only produces about a teaspoon of hormones in his lifetime and cries. But that subtle eyelid When equilibrium is lost, many illnesses are similar to those of the disabled demons. Also, for some reason the function of the adrenal glands When it stops, the cousin of life progresses at an eye-opening speed, and within a few months, a healthy young man is sick. I could be my old man. The marvelous endocrine glands of the human body are involved in virtually every act of us. Kari ni castle Let’s say you hit it. Arranged to supply sugar to the blood to give the eye muscles its opening power Is a hormone. Suppose you hurt your finger. Hormones are quickly mobilized to reduce inflammation and infect

 

仏陀の成仏法と霊魂

仏陀の成仏法と霊魂

仏法とは、仏陀釈尊が生涯かけて
弟子たちに教えた成仏法、七科三十七道品

死後も生きつづける幽体(アストラル体)

アメリカ・ジョージア州立大学哲学科のロバート・アルメダー教授は、その著書『死後の生命』(TBSブリタニカ)の「まえがき」と「本文」において、つぎのように述べています。
『私たちは今や、死後にもなんらかの生命が存在するという考え方を強力に裏づける、事実に基づいた一連の証拠を手にしている』
(まえがきより)
『以上のように考えると、あらゆる人間は、“幽体”(すなわち、ある種の状況以外では肉眼には見えない物質類似の希薄な要素からなる第二の体)を持っているという、霊能力者がしばしば行う主張がある程度真実味を帯びてくる。
この第二の体は、形状的には肉体と瓜二つで、肉体の死後も存在を続けるとされている』
(本文より)
では、仏教では、どのように考えているのでしょうか。

人間は死ぬとどうなるのか?

仏教では、人間は、色〈しき〉(物質)・受〈じゅ〉(感覚)・想〈そう〉(表象)・行〈ぎょう〉(意志)・識〈しき〉(意識)の五つの要素からできていると考えます。この五つの要素を「五蘊(ごうん)」と呼び、この五蘊が仮に寄り集まって人間(自我・霊魂)ができあがっているのです。
では、人間が死んだらどうなるのでしょうか?
日本の仏教者の大半は、釈尊が「霊魂」の存在を否定してしまったと考えています。つまり、死んだらすべてが消滅すると考えているのですが、これはまちがいです。
死んだらすべてが消滅してしまうという考え方は仏教ではありません。釈尊直説の経典である『阿含経』を学び修行していないから、このような誤った見解を抱いているのです。
釈尊は決して、霊魂の存在を否定しておられません。むしろ肯定しておられます。ただし、「霊魂」という名称ではなく、「異蘊(いうん)」という表現を用いておられます。

凡夫が死んで「五蘊」が滅しても我執(タンハー)のエネルギーによって「異蘊」(異なる構成要素)を生じて存在をつづけます。

 雑阿含経の中の「仙尼経」において、釈尊は次のように説かれております。
慢〈まん〉(我執〈がしゅう〉)断(だん)ぜざるがゆえに、この蘊〈うん〉を捨て已(おわ〉りて(死んで) 異蘊〈いうん〉相続して生ず。
つまり、異蘊とは生きている人間の構成要素(五蘊=色・受・想・行・識)とは異なった構成要素(蘊=集積)という意味で、現代風にいえば「異次元の薀(存在)」ということです。
また、雑阿含経「身命経」においても、「意生身(いしょうしん)」ということばで、死後の存在を説かれております。意生身とは意識(心)だけで出来た身体をいいます。
このように釈尊は、人間は死んでも、我執煩悩(タンハー)が残るかぎり「なにか(異蘊・意生身)」が存在をつづけると説かれております。この死後の存在こそが霊魂なのです。
そして我執(タンハー)が残った霊魂は、死後の世界を経て再生し、現世で成仏法の縁に逢わなければ、果てしなく輪廻転生を続けます。
また、この我執が非常に強い場合は、不成仏霊や霊障のホトケとなって迷い、その怨念のバイブレーションが子孫の心に強く悪影響をおよぼします。

サールナートの仏陀像
 釈尊は、古代インドのバラモンが説いた「永遠に変化することも滅することもない自我(アートマン)(霊魂)」という考えは否定しておられますが、
縁によって生じ、縁によって滅するという「縁起の法」の上での「死後の存在」は認められております。
つまり、「永劫不変の自我(アートマン)」というものは存在しませんが、「無常(変化)の中や縁起において成立する自己(アートマン)」はあるのです。
修行によって向上し、涅槃(ニルヴァーナ)に入る「自我(霊魂)」は存在するのです。
「不変」ではなく縁によって「変化」するために、死んで(その霊魂・霊体が)異蘊となる縁に逢えば、異蘊となって輪廻転生し、成仏法の縁に逢えば、解脱して仏界に生ずるのです。
死んだからといってまったく「無」になって消滅してしまうというのは、仏陀の説かれた縁起の法則に反するものです。

成仏法は、生者、死者を問わず、その霊魂を救済する

 


1983年8月 チベット仏教ニンマ派の法脈を継承された桐山管長猊下
管長猊下は仏陀釈尊の説かれた成仏法のみならず、最高位のラマ僧として受け継がれたチベット密教の秘法「召霊法(しょうれいほう)」を体得しておられます。
この召霊法は、ロバート・アルメダー教授が記述している幽体(アストラル体)だけでなく、その奥にある「霊体」も、自由に見ることができる秘法です。
管長猊下はこの召霊法によって、生者も死者も、ともに霊体から成り立っており、本質的にはあまり違いがないことを霊視されております。
仏陀の成仏法により、霊体は悪因縁、悪業、悪念から解放されます。
完全に解放された霊体は、涅槃(ニルヴァーナ)に入ります。
これを成仏というのです。

しかし、成仏といっても、生者と死者によって、それぞれちがいます。
生者の場合は、自分自身で成仏法・七科三十七道品(しちかさんじゅうしちどうぼん)を修行することができます。
修行によって霊体(生者)は、清められ、高められ、しだいに悪因、悪業から解脱してゆきます。
「シュダオン」「シダゴン」「アナゴン」という聖者の段階を経て、究極の大聖者「アラハン」(仏陀)に到達します。
この世において、仏陀に到達できない場合は、つぎの世においても、ひきつづき成仏法の修行を続け、究極的にはかならず仏陀になるのです。
死者の場合は、自分で修行することはできませんから、成仏法を成就した聖者に、成仏法をもって供養していただきます。
つよい怨念や執念によって不成仏霊となり霊障を発し、迷っているホトケは、聖者の発する悟りのバイブレーションを受けて解脱し成仏します。
ただし、この場合の成仏とは、完全に因縁・業煩悩といったものを解脱したという意味ではありません。
成仏法を成就した聖者( 有余依涅槃(うよえねはん)の聖者)の霊的テレパシー(霊力)によって、聖者の悟りをそのまま受け止めて、迷い執念などを離れて、冥界(死者のほんとうの世界=安らぎの場)へ向かうということです。
これが、仏陀釈尊の教えられた「仏法」です。

 


死者たちの怨念が、すべての人の深層意識を動かす

いま、この世界が壊滅の危機に瀕しているのは、この世界に充ち満ちている死者の怨念、悪念のバイブレーションが、すべての人の深層意識を動かしているためです。
その結果、人類はますます衝動的、闘争的、反道徳的になり、結果的に自分自身を虐殺しようとしつつあります。
まず、家庭が崩壊しはじめています。
これらの苦しみに満ちた死者の霊魂に全き安らぎを与えないかぎり、生きている人間に全き安らぎは訪れません。
仏陀釈尊の成仏法は、これらの苦しみを持ったまま死後生存している存在(霊魂)に安らぎをあたえ救済する力を持っているのです。

■おすすめ書籍

『仏陀の真実の教えを説く 阿含経講義【上巻】』 『輪廻する葦 -阿含経講義』 『人は輪廻転生するか -仏陀の霊魂救済法』

『阿含仏教・超奇蹟の秘密 -奇蹟を起こす力』
『「止観」の源流としての阿含仏教 』
『守護霊が持てる冥徳供養』
『輪廻転生瞑想法Ⅰ ―理想の自分に生まれ変わる如意宝珠敬愛秘法』
『霊障を解く -家運をよくする正しい先祖のまつり方その2』
『守護霊の系譜 -こうして守護霊を持て』
『仏陀の真実の教えを説く 阿含経講義【中巻】』

密教の仏たち 30 三宝荒神

三宝荒神(さんぼうこうじん、さんぽうこうじん)は、日本特有の仏教における信仰対象の1つ。仏法僧の三宝を守護し、不浄を厭離(おんり)する佛神である。

 

荒神は、仏法ならびに伽藍の守護神のことである。

役小角金剛山で祈祷していると、(北東)の方角に赤雲がなびき、荒神が現れ、その地に祠をつくって祀ったという伝説がある。また、荒魂を祀って荒神としたという説もある。後者は、ヒンドゥー教での悪神が仏教に帰依した後に守護神・護法善神とされた風習が、日本の風土でも同じくされたと解釈される。

像容としての荒神は、インド由来の仏教尊像ではなく、日本仏教の信仰の中で独自に発展した尊像であり、三宝荒神はその代表的な物である。日本古来の荒魂(あらみたま)に、古代インドに源泉をもつ夜叉神の形態が取り入れられ、神道密教山岳信仰などのさまざまな要素が混交して成立した。荒神を祀る寺院や神社は日本全国に約300社ある。

三宝荒神の像容は、三面六臂または八面六臂(三面像の頭上に5つの小面を持つ)である。頭髪を逆立てて眼を吊り上げた、暴悪を治罰せんとする慈悲が極まった憤怒の表情を示し、密教の明王像に共通するものがある。

不浄や災難を除去する神とされることから、火との神として信仰され、かまど神として祭られることが多い。これは日本では台所やかまどが最も清浄なる場所であることから俗間で信仰されるようになったものである。仏像としての作例は近世以降のものが多い。

オン ケンバヤ ケンバヤ ソワカ

三宝荒神は、神仏習合を背景としながら、密教経典の『大日経』の注釈書にあたる『大日経疏』巻五に説かれている、日天の眷属である地震を司る神である「剣婆」(けんばや)と同一視された。[要出典]「剣婆」はサンスクリット語のKampa(地震波)を語源に持つ。[要出典]この真言は『大荒神経』に出てくる荒神の真言であり、 荒神の真言はさまざまな真言が『大荒神経』に記されている。

今日の運命

六白金星の日

新しい企画を持った人との接触あり。気が高ぶり争いが起りやすい。負けるは勝ち。怒ったら損、自己を誇るなかれ。心豊かにほのぼのと。

 

文殊菩薩

文殊菩薩

文殊の知恵」と言われるように、諸仏の智慧を司る菩薩。釈迦如来の左側に侍し、右手に知剣、左手に青蓮花を持つ。普遍の悟りと智慧をもたらす。

御真言

オン、ア、ラ、ハ、シャノー

 

延命十句観音経

延命十句観音経】

観世音(かんぜおん)
南無佛(なむぶつ)
與佛有因(よぶつういん)
與佛有縁(よぶつうえん)
佛法僧縁(ぶっほうそうえん)
常楽我浄(じょうらくがじょう)
朝念観世音(ちょうねんかんぜおん)
暮念観世音(ぼねんかんぜおん)
念念従心起(ねんねんじゅうしんき)
念念不離心(ねんねんふりしん)