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四神足法とは、どんな修行法であろうか?  What kind of training is the Iddhipada method?

 

 

死者を成仏させることができる

 シュダオン、シダゴン、アナゴンは、自分自身のカルマを断ち、悪因縁を解脱した聖者である。ほぼ、成仏をなしとげた聖者といってもよい。完

全解脱は、時間の問題である。

 アルハットと違うところは、死者を成仏させるまでの力を持っていないことである。

 

アルハット、仏陀は、一切万言を解脱する力をそなえている。そこが、アナゴンとアルハットの違いである。

 

ただし、四神足法を修めて、アルハットに近いアナゴンは、死者成仏の力をそなえるようになっているのである。

 だから、冥徳供養も、解脱成仏供養も、四神足法を体得して、アナゴン以上の境界に達した聖者に、供養してもらわなければ、効果がないのである。

 

 では、四神足法とは、どんな修行法であろうか?

 

四神足法

 

そのメカニズム

 四神足法について、私は、著書『仏陀の法』の中で、つぎのようにのべている。

 

 欲神足法

 

人間の生命力の、特に肉体上における根源的条件を、完全なものにする修行法

 

勤神足法

 

 欲神足法で得た能力をペースに、肉体上の基本的諸条件を、さらに飛躍的に向上させる修行法。

 心神足法

 

肉体的能力の向上発達を基に、精神的能力を充実させ、さらに段階的にその能力を飛躍向上させて行く。

  人間の脳は三つの脳から成っている。

とどめて、昶虫類時代の脳(古皮質脳)、。哺乳類時代の脳(旧皮質脳)、後期哺乳類から発達した脳(新皮質脳)

の三つの脳である。

 

 つまり、ヘビーワニの脳、ウマーヒツジの脳、ヒトの脳が、完全に統御されないまま、同居しているわけである。それが人間の脳だ。

 明らかに、人間の脳は「欠陥脳」である。この欠陥脳が、今日の欠陥文明をつくり出してしまった。核の脅威、環境破壊、民族・人種間の対茫、麻薬、エイズ、等、人類はまさに破滅の渕に転落しようとしている。

 

 自分たちが生み出したこれらの問題にたいして、人類自身、なに一つ、解決の道を発見することが出来ない。欠陥脳を改造せぬかぎり、人類は、自分自身の愚行の渦の中に消滅していくほかないのである。

 

 

Can make the dead Buddhahood

Shudaon, Shidango, and Anagon are saints who have cut off their own karma and have liberated their evil ties. It can be said that it is a saint who has achieved the Buddhahood. Complete

Total liberation is a matter of time.

The difference from Alhat is that it does not have the power to make the dead Buddhahood.

 

Alhat and Buddha have the power to liberate all words. That is the difference between Anagon and Alhat.

 

However, after learning the Iddhipada method, Anagon, which is close to Alhat, is now equipped with the power of the dead Buddhahood.

Therefore, neither the Meitoku memorial service nor the liberated Buddhahood memorial service will be effective unless the saint who has reached the boundary above Anagon has learned the Iddhipada method.

 

Then, what kind of training is the Iddhipada method?

 

Iddhipada

 

The mechanism

About the Iddhipada method, I mentioned in my book “The Law of Buddha” as follows.

 

Greedy foot method

 

A practice that perfects the fundamental conditions of human vitality, especially on the body

 

Working God Foot Method

 

A training method that dramatically improves the basic physical conditions at a pace based on the abilities gained by the greed foot method.

Shinshin foot method

 

Improvement of physical ability Based on development, mental ability will be enhanced, and the ability will be dramatically improved step by step.

The human brain consists of three brains.

Stop, the worm-era brain (paleocortical brain) ,. Mammalian brain (old cortical brain), brain developed from late mammals (neocortex brain)

There are three brains.

 

In other words, the heavy crocodile brain, the Umar sheep brain, and the human brain live together without being completely controlled. That is the human brain.

Obviously, the human brain is a “defective brain.” This defective brain has created today’s defective civilization. Humankind is about to fall into ruin, with nuclear threats, environmental destruction, ethnic and racial conflicts, drugs, AIDS, and more.

 

For these problems that we created, human beings themselves cannot find a way to solve them. Unless the defective brain is remodeled, human beings have no choice but to disappear in the whirlpool of their own folly.

  

 

七道品経  Shichido Shinkyo

七道品経

 息の如く我れ聞きぬ・一時仏が殴の町彫りたまえにか即ぞあり・仏のしたてまっり退きて一面に坐に印して詔さくぐ世尊のとは如餓ノ世尊いご所が覚分と冷すや。仏い比丘にげたまわくヽ「所謂七道喜・’狩・定’・捨覚な力じ。(要略)

和 訳

 是の如く我れ聞きぬ。一時、仏、舎衛国の祗樹給孤独園に住まりたまえり。その時世尊、彼の比丘に告げたまわく、「上に説けるが如し。差別せば是の如く七覚分を修習し已らば当に二種の果を得べし。現法に漏尽きて無余涅槃を得、或は阿那含果を得んと。仏此の経を説き已り給いしに、諸の比丘、仏の説かせたまう所を聞きて、歓喜し奉行しき。

雑阿含経「果報経」下

 和 訳

 是の如く我れ聞きぬ。一時、仏、舎衛国の祇樹給孤独園に住まりたまえり。「上に説けるが如し。差別せば是の如く比丘、七覚分を修習し已り、多く修習し已らば、四種の果、四種の福利を得ん。何等をか四と為す。所謂須陀百果・斯陀含果・阿那含果・阿〔現。法〕現世のこと。

〔無余涅槃〕身心ともに解脱して涅槃に入ること。羅漢果なりと。仏、此の経を説き已りたまいしに、異比丘、仏の説かせたまう所を聞きて、歓喜し奉行しき。

 

雑阿含経「七種果経」

 

 和 訳

 是の如く我れ聞きぬ。一時、仏、舎衛国の祇樹給孤独園に住まりたまえり。「上に説けるが如し。差別せば、若し比丘、七覚分を修習するに多く修習し已らば当に七種の果、七種の福利を得べし。何等をか七と為す。是の比丘は、現法の智証の楽、若くは命終時(の智証の楽)を得ん。若し現法の智証の楽、及び命終時(の智証の楽)を得ざらんも、而も五下分結尽くるを得て、中般涅槃せん。若し中般涅槃を得ざらんも而も、生般涅槃を得ん。若し生般涅槃を得ざらんも而も、無行般涅槃を得ん。若し無行般槃を得ざらんも而も、有行般涅槃を得ん。若し有行般涅槃を得ざらんも而も、上流般涅槃を得ん」と。仏、此の経を説き已りたまいしに異比丘、仏の説かせまう所を聞きて、歓喜し奉行しき。

 〔現法の智証の楽〕阿羅漢を得て、現実肉身の上に涅槃の証果を得る。有余涅槃のこと。

 〔命終時の智証の楽〕死の刹那に涅槃を得る。無余涅槃の〔中般涅槃〕欲界(この娑婆世界)に死んで、色界(天界)に生ずる中途に涅槃を得る。

 〔生般涅槃〕色界に生じて、久しからずして涅槃を得る。

 〔無行般涅槃〕色界に生じて修行せず長時間を経て涅槃を得る。

 〔有行般涅槃〕色界に生じて久しく修行して涅槃を得る。

 〔上流般涅槃〕色界に於て、天下より上天に進み、色究竟天に至って涅槃を得る。以上、五種不還を説いたもの。

大意

くあるとき、外道の出家が来て、ヽ釈尊に、成仏のための修行法をおたずねした。 

 釈尊は、「七覚支」土そその成仏法でだるとおっしゃって、1 官支・択法覚支・精進営淮党支・狩覚支丿定覚支・捨覚支の七つの修行法をお説きに

                                     

説ぎれた王で、阿那 果にも五種の涅槃の得かたがあるとくわしくお教えになられたので仙った。                               

そして、この七覚支を修行すれば、阿羅漢果ヽ阿那含果 斯陀合果 須陀似果が得られると解こなられたのであった

七覚支成仏法

 講説        

 釈尊の成仏法は、前にのべましたように、七科三十七道品といって、。七科目、三十七種類のカリキュラムから成り立っています。すなわち、四念処法、四正勤法、四神足法、五根法、五力法、七覚支法、八正道です○                        

このうちの七覚支法について、解説されたものです。

 成仏法について質問した外道の出家に、釈尊がなぜ、七科目の中の一つである七覚支について解説したのかと申しますと、これはわたくしの体験からの推測ですが、この異比丘がもし釈尊のお弟子となって成仏法を修行するとしたら、七覚支の修行が一番よいどお考えになったからだと思います。

 というのは、釈尊の成仏法は、七科目三十七種の修行馳全部やらなければならないというものではないのです。七科目の中の、二科目位をやればいいわけです。というのは、七科目の修行法の中にはでおなじような修行法が、ダブつて入っております。それで、釈尊は、お弟子の因縁を三みてい七科目の中から、おまえはこの修行をせよ、おまえはこれとこれの修行法がよい、というように選別されてあたえたのであろうと思われます。 時には、科目にかまわず、一三十七種の修行法の中から自由にいいくつかえらび出して、修行者に課したものと思われます。 

 そこで、この七覚支の修行法というのが、どんなものであるか、おはなしいたしましょましう。

 

念力をつよくして

ノ一バランスをたもつ

 

これはどういう修行法かと申しますと、仏教辞典などを見ますと、「おもいを平らかにする」うように説明しております。念覚支とは「おもい」つまり念を平安にすることである、とこ’うように説明しておりますけれども、わたくしは、それだけでは念覚支の修行の説明になっないと思います。

わたくし自身の修行体験によりますと、そんな簡単なものではなくて、こころを平安にする、いは確かにそうでありますけれども、それは結果から出てくるものであって、修行そのものでらいわけです。おもいを平安にするというのは、念覚支を修行した結果、つねにおもいが平安なる、おもいが平らかになる、ということであって、それ自体が修行ではない。

わたくしは、この修行を二つに分けることができると思うんです。まず、念の力を強化する。

活力といってしまうと、なにか安っぽくなってしまいますね。自分で『念力』という本を書いおきながら、そういうことをいうのはおかしいけれども、念力、と言でいってしまうと、ちっと安っぼくなってしまう。念の力を強化する、要するに、精神力というものを非常に強化すということですね。

それをただたんに精神力というと、漠然としますけれども、要するに、意志の力、知能の力。ういったものを非常に強化する訓練である。

もっというならば、人間の精神作用というものは、知・情・意、この三つから成り立っていま

知性の力、知能の力、そして情緒的なはたらき、それから意志の力です。

要するに念の力を強化するというのは、この三つの部門(知・情・意)のはたらきを強化し、しかも、そのいずれにもかたよらないようにする、ということです。それが、結局、結果的におもいが平安になるということじゃないですか。

 人間の精神力というものは、この知・情・意のはたらきから成り立っています。ところが、こいがかたよりやすいわけです。

 夏目漱石の『草枕』の書き出しに、

-知にはたらけば角が立つ。情に棹させば流される。とかくこの世は住みにくい」とあるでしょう。

 だから知というものにかたよると、とかく理くつっぽくなって角が立ちやすい。頭が非常よいと、知能のはたらきがつよいですから、すぐ理くつでものをわりきろうとします。

 情に棹させば流される それはそうでしょう、人情的になりすぎれば流されてしまいます。

意志がつよかったらどうかというと、これは強情で、どうにもしようがないということになりますね。

 ですから、知・情・意、それぞれのはたらきを強化し、たかめる、そういう修行です。しか

そのいずれにもかたよらないように平均化する、これがいちばん大切なことじゃないです知的にも非常に高度で、情緒面においても、いわゆる情操がゆたかであるというように、芸術面などでもよく理解することができる。情操的な情のないひとというのは、無昧乾燥にな力やすいわけです。芸術的なことは、なにもわからない、はなしをしてもちっともおもしろくない、シャレをいったって、ニコリともしない。今日きいたシレを、三日ぐらいたっ七急に笑,い出じて、「ああ、そうだ,ったのか」なんて(笑)、それじやあおはなしにならんでしょう。 

 意志がつよいのはけっこうだけれども、それが頑固になってしまうのではいけない。

 だから、知・情・意の精神作用を、非常に強化し、たかめるという訓練をする。そしてそのいずれにもかたよらないということ。これがまず第一です。

 しかし、それだけじやない。

 念そのものの力を、神秘的にまで強化する。一点に集中したとき、火を発するほどの力を出す。ですから、この念覚支の修行には、クンダリ’’ー ヨーガの修行が入るわけです。

 つぎに「空観」を体得する。ですから、この七覚支には、「四念処法」の修行が入っている。

この空の体得により、諸法の実相がわかるようになります。つまり、「縁起の法」を如実 にさとることになるわけです。                                

 この念覚支が、七覚支法の中の、目玉といつてよいでしよう。いや、三十七道晶の中でも

 これは、宗教、信仰、哲学というたくさんの教法、。思想のなかから真実なるものをえらびだす

ということです。

択というのは、「選択」のタクでず。 略どない本漢字は「選揮」と書いて、選 えらぶ、「揮」。もえらぶ、という字です。

 つまり、ほんとうに真実なる教法をえらびとる、ということですね。この世の中には、さまざまな宗教、信仰、思想があびます。そのなかから真実なるものをえらびとる。そうして、まちがったものや、いつわりのものを捨て石、取捨選択するということです。

 正しい信仰をえらびとって、正しくないものを捨てさるということが修行というのは、どういうことなんだろう? そう思ったことかありますけれども、考えているうち、やはりそれは修行なんだなと思うようになった。というのは、それが修行であるというのは、自分自身の勉強、知能によってそれをなすというところにあるわけです。         、

 たとえば、つぎのようなことです。

 お釈迦さまが出家されて、自分がさとりをひらくに到るまでには、当時のさまざまな信仰や宗教、いろいろなことを教える思想家、そういったかたがたに、肘あたりしてぶつかっていっているわけです。いろいろな仙人にもあって、はなしを聞く、それだけではなくて、それが正しいか、正しくないか、ということをご自分でI生けんめい考えられたということです。

 そうして結局、当時のインドにあったところのあらゆる教え、宗教というものは、みな正しくないという結論に達したわけです。それには、釈迦ご自身のふかい修行と勉強によってそこに到達したわけです。

 ですから、わたくしたちも、この択法覚文が修行であるというのは、自分自身の勉強と修行によって、ほんとうに真実なるものをえらびとり、正しくないものは捨てさる、ということをしなければいけないんです。

瞑想ひつとっても、日本に、瞑想を教える学校みたいなところや、瞑想の先生、そういったものがたくさんあるでしょう。そのたくさんの瞑想のなかから、どれが正しい瞑想法なのか? どの先生が、正しい瞑想法を教えているのか? ということを自分自身がはっきりと取捨選択しなければいけないということです。

 たいていの場合は、自分自身の研究や勉強、あるいは修行によって取捨選択するというひとはすくない、たいてい評判を聞くだけです。

「あのニホンーメディテーションセンターというのはどうなの?」

「あれは、桐山さんというひとがやっていて、いいよ」

 といったり、

 「あれはダメだ、インチキだよ」

 なんていう。そうかなあ、どうなんだろうか。T・M(、rranscendental Meditationo超越瞑想の略語)というのがいいというひともいれば、T・Mというのはダメだというひともいる。その評判だけできめてしまう人が多い。

 それをお釈迦さまは、ありとあらゆるいろいろな教法をご自分でぶつかって調べてみる。瞑想についても、すぐそれがいいとかわるいとか、ひとの評判とか、そういったものにはまどわされない。ご自分がその瞑想をやってみて、、これはいかん、これはいい、というように選択される。

 そういう意味で、択法覚支というのが修行になるわけです。自分が修行をして確かめて、そうそういう立場から、いろいろな宗教にぶつかっていってみた。そうすると、なかなか明瞭な答が出てこないんです。

 天理教にしても、ひとの道にしても、そのほか、わたくしはいろいろな宗教にぶつかってい1つた。ところがそこで、「この宗教で救われるとは、いったいどういうこ&なんですか?」と聞いてみても、これが明瞭でないんですね。

 ある宗教では、救うというのは「しあわせにするLということ、救われるというのは「しあわせになる」ということと、こう簡単に答える。では、’「しあわせ」というのはいったいなにかと追及してみると、その定義がはっきりしない。

 しあわせというのは、要するに、一つの満足感をあじわうことでしょう、そうわたくしは思い

ます。病気で苦しんでいるひとが、病気が治ったら満足しますから、それで救われたと思うでし

ょう。お金がなくて苦しんでいるひとが、お金が入ると満足しますから、よろこびをもって救われたと思う。

 しかし考えてみますと、満足なんていう状態はないんです、人間にとって。しあわせとか満足とかいうことばはありますけれども、実体はない。というのは、しあわせにしても、満足にしても、これは人間のそのときの状態によってあらわれるものです。

 わたしはしあわせだ、予は満足であるぞよ、とこういう。しかし、そのしあわせとか満足というのは、人間がある状況下で、ある状態においてあじわうもので、どこまでも主観的なものです。ところが、人間の状況とか状態というものは、いつも変わる。「無常Lです。はやいはなし、

わたくしがいつも例にとりますけれども、お腹がすいてお腹がすいてどうにもならない。二日も三日も食べないで、ぷっ倒れるほどお腹がすいている。もうなんでもいいから食べたい。そこへ、ウナ丼や天丼やカツ丼がワーツと出たら、これは満足ですよ、もうむしゃぶりついて食べるでしょう。もう満腹する、これはしあわせですね。

 さっきはぶっ倒れるほどお腹がすいていたのが、こんどはぶっ倒れるほど食べる。そうすると苦しいですよ、なにか消化剤はないか、ということになる。

 江戸小咄のなかに、そういうのがありますね。町かどに乞食がすわっている。そこへ、宴会帰りの旦那が、いいきげんで鼻うたまじりでフラフラやってきた。そこで乞食が、

 「旦那さま、一文やってくださいませ。わたくしは、もう二日も三日もごはんを食べないで、ぶっ倒れるほどお腹がすいております

 といったら、旦那が、思わず、

 「それはうらやましい

 といった。旦那は、あんまり飲んだり食べたりしたので、気分がわるい。そうすると、お腹のたいし、ごちそうをうんと食べすぎたひとは、お腹のすいている状態が引らやましくなる。

 お金がほしいお金がほしい。そこでお金がたくさん入ると、泥棒が入るんじゃないか、だれかにだまし取られやせんか、それが気になって夜も眠れない。

 一つの状況下において、満足感をあじわっているというのが、しあわせという状態なのだから、その状況が変わってしまったら逆になってくるわけです。だから、そんなものはあり得ない。一時的な現象としてはあるけれども、そういったものはつづかない、あたりまえのことです。

 そういうしあわせをあたえる、あるいは満足をあたえるなんていうことは、決して宗教の目標ではないはずです。宗教によって救うとか、救われるということは、永遠的なものであり、永続するものでなければいけない。

 どこかの教団が説くように、この信仰をすれば金か儲かる、大臣になれる、代議士になれる、金持になれる、そんなものはしあわせでもなんでもない。それは到達した瞬聞からそれを失いたくないという苦しみに変わるものです。 

 では、いったい救うとは、救われるとはどういうことなのか?

 それを追求して わたくしはあらゆる宗教の門をたたいて、どれも満足する答は得られなか

った。結局、仏教へもどっていった。

 どうかというとヽ大乗仏教では「試れんをあたえる」ということをいっています。

仏教では、アッシッをアンジンという。あなたがたが、大乗仏教のお坊さんに、

 「あなたの宗旨では、どのように人を救うんですか?」

 と聞いたら、禅宗だろうが、浄土宗だろうが、なに宗だろうが結局、「安心をあたえる」とこういいますよ。                                    

 「安心というのは、いったいなにか? これは儒教のほうで、「安心立命」ということばがあります。要するに、心を安んじて、生ぎるいとなみをつづけるということです。人間というものは、いつもなにかしら不安な心におそわれている、そういった不安感をなくし、心を安らかにして命を立てる、つま句生活をするということ、それを安心という、その安心をあたえるのだ、と必ずこういいます。また、死後の不安をとりのぞくという意味で使うこともあり吏す。

 だから、」仏教のいろいろな宗旨・宗派を調べてみますと、みな、いかにして安心をあたえるかということが、匹テーマになっています。

しかし、では、安心というのはいったいなにか? いつもこころが平安で悩みがないということだ。では、それをどういうようにしてあたえるのが、と問題はそこに行く。

そうしますとこんどは、大乗仏教は、答がみなわかれてしまうんです。禅宗の場合は、坐禅観天台宗。ぱ、「朝題目に夕念仏」といって、朝のおつとめには法華経を誦み、夕方のおつとめにぽ念仏を唱える。日蓮上人は天台宗出身ですから叡山に行って、彼は生一本な男ですから、それで疑問をもった。宗教というのは一本でなければいけない、あれもこれもなんていうのはおかしい。。ところが、比叡山の勤行は、「朝題目に夕念仏」といって、朝は「ナムミョウホウレッゲキョウ」といって法華経を唱え、夕方の勤行には「ナムアミダブ、ナムアミダブ」といって阿弥陀仏をおがんでいる。いったいどっちなんだ? ということになる。

 日蓮上人というひとは生一本なひとですから、信仰というものはただひとすじでなければいかん、といヶことで、かれはいろいろ研究して、結局、法華ひとすじ、法華一乗ということで日蓮宗を立てたわけです。                                   

 天台宗の場合は、法華経を信仰して「摩詞止観」の修行をする。真言宗へいくと、密教の修法―金剛界の法と胎蔵界の法を修行して即身成仏する。そういうようにみんなまちまちなんで

そして、結局、なにをあたえるか? 安心だとこういう。安心をあたえる方法というのが、おなじ大乗仏教でみんなちがうんですよ。いったいどれがほんとうなんだ、ということになるでしょう。

 

 これみんな落第なんです、この答は。仏教の目標というのは「安心」なんかじゃない、「成仏」することなんです。『葉隠』の表現を借りると、「仏教とは成仏することと見つけたりです。仏教とは安心をあたえることなりなんて、そんな曖昧模糊なものではない。大乗仏教はもうそこからおかしいのです。なぜそうなったかと考えてみると、成仏法がないからです。さっきいいましたように、各宗旨でみんな安心をあたえる方法がちがう。というのは、はっきりした成仏法がないから、そうなる。そして、「安心をあたえる」というようなはづきりしないことになってしまうのです。

 お釈迦さまはどうおっし『やっているかというと、「成仏することだ」とおっしやっている。涅槃に入ることだと教えておられる。解説して、涅槃に入って成仏したら、安心も不安心もない。

安心とか不安心とかいう相対的なものを越えた、絶対の境地に入ってしまう。これがほんとうの仏教なんです。

 わたくしは、あらゆる宗教を遍歴して仏教にもどり、その仏教の中でまたあらゆる宗旨の門をたたき、最後に最もすぐれた釈尊直説の阿含にたどりつくことができた。ここにくるまで三十年以上かかっています。そのあいだ、択法覚支の連続であった。

 あなたがたは、わたくしよりもよっぽど徳がありますから、わたくしのようにぞんなに時間をかけなくてもすんだ。ぱあっと阿含にきてしまった。よっぽど徳があるんですね。しかし、そのぶん、択法が足りないかも知れん。        

 しかし、そうはいものの、あなたがただって、わたくしほどの勉強はしなくても、現代人としでの感覚、教養、。常識から、この阿含宗をえらびとうた。宗教上の勉強では、、プロ政宗教家や坊さんに。かなわないかも知れないが、しなにより右、おそらく、’自分の人生を賭けるという意気ごみで阿含をえらび取った。これぱすばらしい択法覚支であったと思うです。

                          

朝霧高原にやってきて、三泊四日の出家をして、阿含教法の中でもより高度な法をえらんで身にいつけるため伝法をうけている。りっぱな択法覚支です,

 

精進鴬支            

 択法も、ただえらんだだけではなく、えらんだものを一心に努力精進してぃ自分の身につけなければならない。阿含を学んで、知識として、阿含は最高の仏教であるとわかっただけではだめだ 最高のもだとわかった阿含の教法を、全に自分のものにするために、心。不乱の努力精進というものがなければならない。そこに精進営支があるわけです。

 

修行が苦しいというやつは人前になれない

 

喜覚支

 しかし、その精進覚支も、ミいやいやながらにやったのではだめだというのが、つぎの「喜覚支」なんです。喜覚支というのはよろこびに住する修行だ、というのです。その精進が、真実の教法を身につけるよろこびに住するということです。

えろこびに住さなきゃならんという、これはちょっとむずかしいかもしれませんね。よろこびに住せよ。しかし、「それはわかりますけれども、わたしちっともよろこべないんです。ちっともうれしくないんです岬せめてもう、泣きっつらしないだけ、゛泣きごとをいわないでI生けんめいやっているだけ、。いいと思ってぐださい。

まあ、『それくらいでかんべんしてくださいLというひとがあるかも七れないけれども、お釈迦さまは、それではほんとの修行じゃないとおっしずるんです。

一どんなつちい精進も、どんな苦し。い修行も、それがよろこびに住するという境地でなければ、ほんものの修行ではない、身につかんということいんだ。その苦しいのを苦しいながらにがまんして、努力することが、それが修行じゃないですか、精進じゃないですか、それでいいんじゃないんですか、という理屈も成り立つとおもうんです。そうでしょ、。苦しいことは苦しい、つらいことはつらい、’いやなことはいやだ、けれども苦しいとおもいながら、つらいとおもいながら、いやだとおもいながら、『まあ、とにかく」生けんめいにやってるんだから、それが修行というもので、それでいいんじやないですか、とこういうかもしれないけれども、それじゃほんとうの修行ではない、とこうおっしゃる。なぜかというと、いくつかの理由があげられるとおもうんです。ほんとに、最高にして真実なる教法を選択して、それをわがものにするとい。う努力をしているんだったらば、たとえ苦しくともそのなかによろこびがあるはずだということです。

 それは、わたくしは、わたくし自身の体験でわかるんこのまえもおはなししたけれども、桂米朝という、関西の有名な噺家がおります。あの米朝さんが、この間『米朝全集』という

七冊ぐらいの本を出した。昔からのいろいろな落語を、全部集めて、かれ自身それを演じたのを速記にとって本にした。はなし自体もおもしろいが、その「あとがきLがことにおもしろい。その演じたはなしにまつわる出来ごとや思い出がいろいろ書いてある。その中で、米朝さんがこういうことをいっているんです。

 明治時代の、名人といわれた或る噺家があって、その噺家がこういうことをいっているというんです。どういうことかといいますとね。修行がつらいというやつで、いまだかつて一人前の芸人になったためしがない、というんです。修行をつらいつらいといっているやつで一人前の芸人になったためしはない。こういうことを、その名人が言ったというんです。それを読んで、わた

くしは、つくづくその通りだなあと感じた。

 だれだって、苦しいことは苦しいんです。痛いものは痛いし、悲しいことは悲しい。それを、苦しいと感ずるな、痛いと感ずるな、つらいと感ずるな、というのは無理です。しかしながら、自分にとって最高の価値あると思われるものにふれて、それをわがものにしようとI生けんめいになっているものにとっては、苦しいことは苦しいながら、よろこびがその底にあるんです。・充実感がそこにある、ということです。

 そのよろこび、充実感がないものは、原点にもどって、自分にとって最高に価値あるものをわがものにしようとしている姿勢がほんものかどうか、問い尨せ、ということです。ほんものだったら、苦しい中によろこびがある。      

 わたくし自身の修行体験をはなしますと、そうですね、いつもおはなししていますけれども、

京都で滝行をやうていた時代がある。七年間、わたくしは連続して冬の滝行をやった。夏はやらない。

 九月すぎ、十月ごろから滝に入って、翌年の四月いっぱいやるわけです。そして五月になったら滝場をはなれる。なぜかというと、五月から、入梅過ぎ、暑くなってくると、滝場が混んでしようがないんです。夏、暑くてしようがないときに滝浴びるのは修行じゃない、とわたくしは思う。それはレジャー・ですよ。海水浴へ行くのとおなじだ。

 やっぱり寒いときに滝を浴びてこそ修行なんであって、夏、暑くてし乱うがない、ひとつ滝へでな入ろうか、などといったらシャワーを浴びているようなものでしょう。それはもう修行では

ない・ところがヽおかしいことにヽそういう夏場、滝獣混んでしよ5 がないんです。いろいみな信者をつれて、滝へやってくる。いまはもうそうおがみ屋の先生などが、十人、二十人と弟子や信者をつれていう人たちも少なくなったが、あの時代はずいぶん多かった。

 そういうひとたちが、五人、十人、すくないのは三人、四人、多いひとは十人、二十人と連れてきて、お滝へ入れて滝行し、そのあと飲んだり食ったりして、時にはケッカなんかしてヽますよ。飲んだあと(笑)。いったい何のために滝に入っているのか。

 これは、まあレジャーなんですね。そして家を出るときには、みんなに、『わしは、これから行ってお滝をいただいて、修行してくるんじや』

                          S

「ほう、えろうおまんなあ」

 というようなことで来るわけ。来て、お滝がおわると、精進落しで、酒をのんで、ときには取っ組み合いのケンカなんかしている。もうさきに立つ先生がベロッベロッに酔って、   。

「おまえ、いつもお布施ちびって罰当るぞ」

なんてやっている(笑)。もうどうしようもない。うるさぐてしようがないから、夏は行かないんです。だから、ほんとうに真剣な弟子と師匠は、冬、霜が降りるようになってから来る。しかしそれはご。くわずかで、滝場はシーンとしていますよ。

 そういう時季になってから、。わたくし牒行く。それを七年間やっ、た。         j

昭和三十何年でしたかね、そのころは、いまよりも何か寒かったような気がしますけれども、

正月0 七日でした。そのころは、或るお寺を借りて指導をしておった。観音慈恵会は、まだ道場をもっていない時代です。わたくし自身が修行中ですから、朝、暗いうちに起きて滝に行ぐわけです。朝四時半ごろ、まだまっ暗で、世間は寝しずまっている。

 そこで身じたくをすませて、おもてに出ようとすると、雪が降っている。ピュー″と風が吹いて、雪が吹きつけてくる。気が重いですよ。これからどこかへ行って、爛でI杯やるっていうのだったらそれは心もはずむでしょうけれども、これから滝まであるいていっ七、そこで白衣に着がえて、そうして滝に入るということになると、やっぱり心臓もドキドキしてきますし、気が重い。

けれども、いったん思いたって、仏さまに、やりますと誓っているわけですから、いやもおうもない。勢いよくあるき出す。昭和三十年代のはじめですから、クルマなんていまめように多くはない。自家用車持っているひとなんてごくわずかです。タクシーだってすくない。通りはクルマの行き来もなくしIんとしている。もちろん、お滝に行くのに車を乗りつけるなんていうこはしません。精神的にもそんなことできないが、またそんなことやったら、かえって非常に危険なんです。ヒーターを熱くして、パーツと雪の中を飛ばしてきて、そのヒーターの熱い勢いでパーツと着がえて、パーツと飛び込んだら、パアッといっぺんに心臓マヒです(笑)。だから一歩一歩あるいて行くわけです。そのお寺から約三十分くらいかかりました。

 一歩一歩あるきながら、からだにいいきかせているんです。さあ、これからお滝をうけるんだぞ、しっかりせよ、と、心とからだにいいきかせている。それは前の晩からそうなんです。床に入ると、潜在意識に、あしたの朝起きたら、お滝をうけに行くんだぞ、しっかりしなきゃいかんぞ、ぜったいカゼはひかん、だいじょうぶだ、寒くないぞ、たのしいぞ、といいきかせてねむそれで、潜在意識はたのしいと思うか知らんけれども、表面意識は、やっぱり、寒い、冷めたい、これはたまらんぞという気持です。

 着くと『心経』をあげて、真言をとなえて、そして行衣に着がえて、流れで身をきよめ、それから沌に入る。まあ、それはいいんですよ。もう慣れていますから、スムーズに一連の動作としぐやノしトようがヽ殼初にお滝の水がからだにかかった瞬間、それは冷めたいなんてものじゃない。大根おろしでサア″と肌をけずられているような感じです。

 ことに、わたくしは結核をやって、だいたいが腺病質だった男です。今は修行でこういうが″チリした体に見えるかも知れないけれども、これは見かけ倒しで、もともとは結核で死にかかった人間ですから、寒暑に非常に敏感な体質なんです。寒さはひとよりも寒く感じるし、暑さはひとよりも暑く感じる。もっともそのかわり、うまいものはひとよりうまく感じるかも知れんから(笑)、そのぷん損得なしかも知れんが、とにかくそういったことで寒暑を非常に敏感に感じる体質・なんです。要するに結核体質で、風邪などひくと危険なんです。

\七かし、それはもともと覚悟しているわけで、そんなこと気にしていたら滝行などできない。

そしてあがると、五社の滝神社の奥様がちゃんと薪を燃やしておいて下さるから、それにあたって体を温め、食事をして帰ってくるのだけれども、しんからからだが冷えきってしまっている。

毎日ですから。

 だから、わたくしが本気に滝行と取り組んでいた時代には、真夏になっても水の音をきくと、体じゅうがゾクソクとしたものです。水道の水の音を聞いただけで、体じゅうにトリ肌がたったものです。いまから思うと、徹底的に、水でがらだがいためつけられていたのでしょう。汗をかいていても、水の音を聞くと、トリ肌がたった。

 食事がすむと、ぬれた行衣をふろしき包みにつつんで、今はもう人家がずっとならんでいるけれども、日赤の病院のうらのところの細い道を、五社の滝からおりてくる。いまはもう、大分かわってしまっているようですね。

 その日は、まだ雪がだいぶはげしく降っていて、コウモリ傘をさしてあるいてくると、道の両側に人家がつづいている。道がせまいですから、歩きながらふと見ると、窓があいていて、家の中がのぞけるわけです。のぞこうと思わなくてものぞくことになってしまう。

 それで、ひょうと、一軒の家をのぞいた。すると、その家のおやじさんらしいのが、七日正月というわけでしょう、コタツに入って、お銚子が二、三本ならんでいて、ちょうど、おチョコを

口にこう持っていく’ところでず。とたんに、あ、いいなあ、うまそうだなあ、と思った。同時に、人間の人生というものは、じつにさまざまなものだなあと思った。‐こうして朝暗いうちに起きて滝に飛びこんで、カタカタふるえながら雪の中を帰ってくる男もあれば、起きぬけにコタツ

の中に入って、熱爛で一杯お正月を祝っている男もいる。それが窓一重を境にしているのだから、世の中というものはじつにさまざまなものだ。そう、つくづく思った。

 いったい、三自分はなんのためにこんなことをしているんだろうか。べつにひとにいいつけられたわけでもないし、仏さまに命じられたわけでもない。自分自身、修行に行きづまって、こんなことでもしたら道がひらけるかと思って、‐やむにやまれぬ思いで滝にとびこんだ。自分ひとりの考えではじめたんだから、自分自身でやめようと思ったら、明日といわず、今日から滝に入らずにすむ。

 しかし、じゃあやめてしまうか七いうと、それがやめられない。いままでこれだけ苦労し、つらい思いをしのんでやってきたことが、ここでやめてしまったらなんにもならなくなってしまう。そう思うと、とてもやめられない。

 五年なら五年、。七年なら七年、思いたっただけ、なにがなんでもやり抜こう。ここでやめたら、いまま’でつらい思いをしてきたことが、それこそ水の泡になってしまう。何も得るところがなく、やめるのでは、いままでいったいなにをやってきたのかということになる。なんとかなるか、ならぬか、とにかく、とことんまでやろう、そういう気持になる。同時に、そんな寒いつらい思いをしながらでもiそれはつらいと思いますよ、滝へ入る瞬間は、一瞬であるけれども、もうやめちまおうかと思う。けれどもそれは一瞬であって、やはりこころの根底には、こういうつらい行をいま自分はしている。欲も得もない、ただ純粋に精神的ななにかを求めてこういう行をしている。ごれだけの行が、世間一般の連中にできるか、それをいま自分はやっているんだ。そういうひとつの誇りとよろこびが胸の底にあるんです。

 だから、わたくしは、コタツに入って一杯やっているおっつぁんをみて、ああ、うまそうだなあ、いいなあ、と思ったのは一瞬だけです。ほんとうにうらやましいと思っているのかというと、ちっともうらやましくなそない。むしろ軽蔑している。軽蔑というとおかしいが、あれはふつうの人間、おれはぢょっとちがうぞ、という誇りがあるわけです。あのおっつぁんは、いまああして一杯やって楽しいことだろうが、あれだけのものだ。おれはいまこういうつらい思いをし

ているけれども、いまになにかつかむぞ、なにもつかめなくっても、ふつ`うの人間にはできないことをおれはやっているんだ。そして一歩一歩、仏さまに近づきつつあるんだ。これはだれにもできん。おれだけにしかできないことなんだ。そう思うと、ひとつの誇りと満足感、充実感というものが胸の中にあふれてくる。

 わたくしは、行というものはつらいものでなきゃいかん、苦しいものでなければいかんと、つくづく思いますよ。苦しい、つらい、だからこそ、こんな思いをするんだから、なんとしてでも、なにかつかまなきゃつまらん。そう思って真剣になる。精魂こめて、て心不乱に工夫をす

る。命がけでぶつかってゆく。そうすると、つらいも苦しいも、ふっ飛んでしまう瞬間がくる。あ、これだ、これなんだ、と、天に向かって叫びたいような一瞬がくる。これは、喜びなんていうありふれた言葉では表現できない感情です→喜びが自然に湧い

てくる

 米朝さんが本で書いている名人のはなしというのは、それだと思うのです。

 いまとちがって、明治時代の噺家の修業なんていうのは、たいへんなものだったと思います。

師匠から、人間あつかいされないで、仕込まれる。そりゃあそうです。人情かけていたら、芸なんて仕込めやせんのです。

 この仏法の修行だってそうですよ。

 ほんとういったら、あなたがたをほんとうにきたえようと思ったら、人情なんてものを出したら、ぜんぜんだめです。人情なんかかけていたら、ぜったいに人など教えられるものではない。

人間だと思ったら修行なんかさせられませんよ。現に、わたくし自身が前にやってきたようなことを、いま、あなたがたにやらせられるかというと、とてもやらせられない。かわいそうで かわいそうだという気持が先に立ってしまって、やらせることができない。

 しかし、それではいけないんで、ほんとうは心を鬼にして、諸君を人間あつかいにしないで、

滝つぼにでも何にでもたたき込む。泣きべそかいたら、たたきつけ、けとばす。そのくらいのいきおいでなければ、ひとなんてものは教えられないし、ましてひとを救うなんてことはできんのです。

 けれども、わたくしはまだ修行未熟だからそこまでできないんですよ、あなたがたに。もう、

たった三泊四日のこの位のことで、「まあ不自由でしょうが、しんぽうしてL、なんて言っている(笑)。なにを言っているか(笑)。しかし、わたくしは本気でそういっているわけじゃあない。

ことばでは不自由でしょうが、といっているけれども、そんなことあたりまえなんだ。このくらいのことができないで、ほんとうの仏法の修行ができるか。おれのやってきた百分の一にもあたらんじゃないか。そう腹の中ではいっています。けれども、わたくしは、元来、気の弱い、心の

やさしい(笑)人間でありますから、なかなか徹底できない。

 しかし心の中で、つねに、何とかもっと非人情にならなきゃいかん、情というものを捨てなき

ゃいかん。それが弟子にとって最高の情なんだ、そう考えているのだけれど、なかなかそれができないんですね。

 こういうはなしがあるんだね。これも噺家で、このあいだ亡くなった、何とかという名人といわれたひとですが、あるとき、弟子入りして一年か二年の、十六、七か十七、八の弟子を二人連れて、寄席まわりをしていた。今とちがってむかしですから、雪が降って寒い晩だが歩きです

寄席がおわって弟子といっしょに帰ってきた。もう弟子も師匠も、おなかが空いてペコペコ。寒いなか弟子たちは、

顔を見合せて大喜び、これは師匠、ごちそうしてくれる。あったかい天ぷらツバでもごちそうし

さが囃射にしみる・とヽ師匠がその弟子二人を連れてツバ屋のノレッをくぐったてくれるのだと思ってニコニコして入った。 そうしたら師匠の注文が、天ソバーつ。弟子たちは耳をうたがったわけです。三つというのだろうと思ったら、二つだというんだ。一つの天ぶちソバを三人で食うのかしらん、と思っている

内に、天ぷらツバが出てきた。師匠が割りばしを口で割って、ブウブウ吹きながら、ソバをすする。ふと、顔を上げて弟子たちの顔を見ながら、

 「食いたいか」といったという。ヽ片方はヨダレをのみこみながら、

 「そりゃあ師匠、食べたいですよ」

 「そうか、食いたかったら、はやく一人前になれよ」‐         I ノ     ニ

 フそういってツルッルと食べおわると、金をはらって外に出た。こんちきしょう、と思ったとい呑んだね、弟子たちは。こんな鬼のような師匠があるか。絞め殺してやりたいと思った。けれども、いくちなんで心、絞め殺すわけにはいかないし、その。師匠のところを飛び出したらもう噺家の仲間では食ってはいかれないから、腹の中で、こんちきしょう、いまにみていやがれ、おれは早くえらくなって、天ぷらソ八三杯食ってやるぞ(笑)なんて。

‘もうほんとうに腹が立った。それでお正月すぎに、薮入か何かで家へ帰ったときに、父親から、

「どうだ、師匠、よく仕込んでくれるかL

 ごと聞かれたときに、帰り腹ペコペコで一緒にソバ屋に入ったら、自分だけ天ぷらツバーつとって食って、食いたいか、

とこういいやがるんですよ。それは食いたいから、師匠食いたいです、といったら、そうか、食いたかったら早く一人前になれ、そう言いやがって、とっとと表に出てしまいやがった。あんなヶチで不人情な奴はみたことない」

 そう答えたら、そのおやじさん、いきなりぱあんと肘が横ッ面を張り」ばして、こんなおりがたい師匠がこの世に二人とあるか、と叱りつけたという。これがほんとうにひどを仕込む、師たるものの心がまえだね。わたくしにはそれができないんだな。わたくしだったら、もう天ぶちツ八五杯たのんで、  ’

「おれは一杯でいい。おまえたち二杯ずつ食え」

前になれ。これがほんとyつの師匠というもの(笑)です。わたくしもせいぜい修行して、諸君にになんて(笑≒そんなことではダメだねえ。ほんとうに食いたいか、食いたかったら早く一人何も食わさず、ひと句で天ぶちソバを食えるように心がけまして、つらい、苦しい、と思っ七いたら、芸なんて身につくものじゃない。ようし、人より早く一人前になってやるぞ、と発奮して一心に努力すれば、ふ云が身につぐ喜びどいうものが出、て来士

す。そうなったらいもう、じつらいも苦しいもない。そういうつらさ、苦しさが、芸の糧になってごはなしが横みちにそれましたが、この弟子たちにしても、こういうことをいつまでも根にもつくる。それが、自分でもわかるようになってくる。

 そうで力くて、修行が、苦しい、つらい、といっているやつは、とうてい一人前の芸人にはなれん。なったやつはいない、と、こう、米朝さんの書く名人が言ったというんだね。

 それを、わたくしは、ちがう角度からお釈迦さまはおっしゃっていると思うのです。

 修行はつらいものだぞ、ということが前提なのです。「喜覚支」よろこびに住せよ、という。なぜ、わざわざお釈迦さまが、よろこびに住せよとおっしゃっているのか。それは、修行というものは、つらいものだぞ、苦しいものだぞ、悲しいものだぞということを、前提にして、おっしゃっているのです。

 その中で、よろこびを見出せIいや、よろこびを見出すというのだったらまだほんとうではない。住す、というんですから、自然に、よろこびが湧いで出るのでなくてはならない、ひとりでに、よろこびがこみあげてくる。つらい修行が、よろこびにみちた修行になるよう修行せよ、とそうおっしゃっているわけです。だから、修行、精進というものは苦しいものだぞ、ということをお釈迦さまはこの「喜」という字のかげにおっしゃっているのです。仏法の精進、努力というものは悲しいものだぞ、苦しいものだぞ。決してたのしいものではないのだぞ、つらいものだぞ。

 しかし、その中からよろこびに住するようにせよ。よろこびに住さないようでは本物になれんぞ。じゃあ、どうやってよろこべるようにするのですか。それはおまえが工夫するんだ、どいうことです。工夫することが修行なんです。だから、わたくしが、こうすればよろこべるようにな

石なんていった6 、それはあなたがたの修行にはならん。まあ、ここでのこんなていどの修行は苦しくもつらくもないはずなんだけれども、苦しい、つらいと感じているひとがもしあるとするならばにんな苦しいつらいなかからどうやっとならば、どういう心がまえを持ったならば、。よろこびに住せるのだろうか、と一心不乱に考える。工夫する。そしてそのように努力する。それが「喜覚支」ということである。そう、わたくしは解釈しています。          一xI

ごこ今桜 微笑を持て

 碕覚支

 

 この「狩」というのは、ちょっとわかりにくい文字ですが、「軽安」と訳しているお経ります。    

 忙喰覚乞、という。これは、つねに身心を軽やかに快的にする、ということです。修行中、つぬに身心がかろやかでなくてはならない。どんなにつらい修行、苦しい修行をしていても、しかめっ面で、のろのろ鈍重なことをやっていたのではいけない、というのです。チラシまき修行だろうが、お便所掃除だろうが、なんであれ、身心軽快でなくてはならない。

 この反対の言葉があります。というような意味で、人をして煽惰、怠慢ならしめるものです。睡眠蓋という。のは「心くらく身を重からしめるLという心作用で、人をして、ものごとを行なうにあたり、不活発、鈍重ならしめる。ことを行うにあたって心巧みでない。                    十

 これではいけませんね。軽安覚支はその正反対です。

  ということで、煩悩の一種です。幡沈というのは、「心のめいること。ふさぎこむこと。沈億

不活発な気質Lあるいは、「心を暗く沈ませる心作用Lというような意味で、人をして頼労、

げしに回イにづ悩の中にヽ愉漑瞭睨戸という宗あ芯を覆う

 ここの修行中でも、そうでしょう。朝、目をさまして、起床する。ねむいし、もう、体のあちこちが痛むし、とても身心かろやかどころではない。どうにもならん、みんな仏頂面して、ぷす″として、口もきかない。しかし、それは身心かろやかではない。

 身心をかろやかに、ニゴニコして、おはようございます、と声をかけ合う。何十人という人が目をさましてJだれひとり、にこやかな顔をしておはようございますといわない集団なんて、なんとも異様だとわたくしは思う。

 どんなことがあっても、朝、目がさめる、おはようございます、とニコニコ笑って声をかけ合う。そこから、活気というものが出てくる。それがエネルギー・となって盛りあかってくる。だれもかれもしかめっ面をして、黙ってもぞもぞやっている。悟沈睡眠蓋ですよ。いつまでも、暗く沈んだ空気で、活気がない。だれでもいい、だれかひとり卒先してやるんですよ。「おはようございます。いい天気ですね」まあ、この朝霧高原ではあまりいい天気の日というのはないが、それだけにこっちが明るく軽快でなくてはいけない。おはようございます。今日もがんばりましょう。だれかひとり、そう声をかけてごらんなさい。明るい軽快な気分がみんなにひろがってゆく。そこから活気が湧いてくる。その活気が子不ルギーとなって盛りあがり、みんなの活力とな

ってゆく。

 自分が身心をかろやかにするということは、ひとをも身心かろやかにさせてあげなければいけない、ということです。

 これは、自分ひとりのときでもそうです。

 わたくしは、つねに、「心に微笑を持て」といっています。そうして、心でいつもつぶやくのです。

「かろやかに、明るく、楽しく」

 

修行法と梵行

定覚支

 これは、心をひとつのものに集中してみださない修行です。瞑想法で、純然たる修行法ですから、文字や口では説明できない。実地に指導をうけて体得してゆく。「滅尽定L「四禅定」などをふくむ七科三十七道品の中でも、根本的な修行法ですい

 

捨覚支

 あらゆるものごとにたいし、とらわれる心を捨離する。ものごとにとらわれ、執着するところ

から、煩悩が生ずる。、

「煩悩の犬、追えども去らず」

 などということばがありますが、十分わかっていて、こだわってしまう。とらわれてしまう。

 わたくしは、若いころ、’‐そういうとき、心の中で、「サラリ’、サラリ」とつぶや’いたものです。

とちわれた句、こだわりそうになったとき、サラリ、サラリ、とつぶやいて流してしまうのでを横に向けてしまうので、’心をほかのものに転じてしまうのですね。こ柚は案外、効果がありまつい一こ以て、「であるからこれは執着してはいけない。

す。いろいろ、いろいろと心の中で理くつをこねてとらわれの心を剖一にしすべきだ」なんて考えるよりヽサラリヽサラリ、とつぶやいて横を向いてし

まうのが、1番です。

 しかし、根本的には、「定覚支」による瞑想、「念覚支」による縁起観法、、等によって、完全な「捨」の境界に達するわけです。その境界に達すると、一切を捨て切って、心中、微塵の影もなく、こころ明鏡のごとし、ということになるわけです。`そうなったら、いつ、この世を去っても、異陰など生ずる余地がないわけです‥

’以上、ざ『つとJ七覚支についておはなしいたしました。

、そごで、どの、七覚支の講義を終えるにあたってい最も大切なことを一つ、おはなししておきたいと思います。

 それは、この七党支の修行法をずうっと見て、なにか、気がつくことはありませんか? なにか、気のつくことがあると思います。  ―

それは、、この成仏法が、二つのものから成り立っている、ということですJ     上上一つは純然たる修行法。

これは非常に興眸のあることですね。

 どういうように分けられるかというと、修行法では、「念覚支Lそれから「定覚支」それから捨覚支です。この三つは、特殊な技法から成り立っている。たんなる心がまえ、心がけといったようなものではない、純然たる修行法です。

 い梵行にあたるのは、「精進覚支」喜覚支」「軽安覚支」です。

 「択法覚支Lは、修行法と梵行と両方の立場がある        。            ’ゝ

 以上のように分けられますね○ ’              ‐        ‘     j`

 

 で、これは、七覚支だけのことかというと、そうではない。他の六科目の成仏法すべてにあて’

はまるめです。ただいその比率が、修行法と梵行とが、半々の割り合いでできている場合もあれば、、七対三、六対四ノというようになっている場合もあり、一律ではありません。しかし、かならず、成仏法は、純然たる修行法と梵行とがら成り立っています

 

 これはいったいどういうわけか。もっとも、前に出たお経に、 『-一一優婆塞の諸々の梵行を修し、此法律に於て狐疑を度るものありや不や』

とありましたから、成仏法が、法と梵行と、この二つから成り立っていることは、わかっていたことでありますが、これはどういうわけであるか。

 わたくしは、この、梵行を修行法に加えることにより、在家の者も、出家者とおなじく、解脱の成果をあげることができるようになった、釈尊のご配慮だと思うのです。この、釈尊のご工夫Jじように、成仏できるようになったのだ、そう思います。

により、在家者も出家とおなじように行をしながら、衆生を救済する、指導するというのが建て前ですから、これは特に徳を積むといするようになっている.

よりといいますのは、梵行とはなにかというと、それは「徳を積む行」です。出家者は、自分の修う行をする必要がない。出家者の生活そのものが徳を積む行をするようにずるような方向にいきやすい。これを補正するためには、どうしても、徳を積む仕組みをくわえ

なければいけない。それが、梵行です。

 

 念竟支・定覚支、というような、純然たる技術としての修行法をいくらやっても、それだけでは、成仏はできないのです。徳がなければ、どんなに技術としての修行法をマスターしても、成仏はできない。いや、第一、徳がなかったら、その技術としての修行法を、マスターすることができないのです。必ず、中途で挫折してしう。

 時々あるのですが、わたくしのところへ、超能力の修行法を求めてくるひとがあります。求聞持法あるいは念力の護摩法を体得したいということでやってくるわけです。あるいは霊視力、霊感などを持ちたいという。わたくしの門人になって、一、二年法を修めれば、そういう超能力が得られると思っている。

 ところが、そういう人たちにわたくしがやれというのは、「準祗尊干座行」です。そうして、チラシまき、便所掃除、下足番をやれという。それで、ちょっとやってみて、すぐに、なんだバカバカしい。こんなことで超能力なんてものがつくはずない。もっとほかにいい修行法があるにちがいない、ととび出して、あっちこっち、’「秘法」を求めて、転々としてあるく。  j

 いいですか。

 どんな高度の修行法があっても、修行法で成仏するんじゃないんです。’「徳Lで成仏するんです。。修行法で修行して成仏力を身につけるのには、どうしても徳がなければならない。。徳がなかったら、修行法そのものにさえ、縁がいただけない。  

 

「準眠尊千座行」は、釈尊の成仏法、七科三十七道品にのっとって、修行法と梵行から成り立っている。「準眠尊于座行」と梵行で「五下分結」は必ず切れるのです。必ず「阿那合」―にまではゆける。しかしそれには、修行とともIにしっかり梵行をやって徳を積んでゆかなきゃならんのです。

 

 徳なくして、どうして成仏できるか。

 第一、仏さまのことをなんというか      。 一

「万徳円満」というじゃありませんか。すべての徳が完全にそなわっている、というのです。成仏、というのは、その仏に等しくなることです。徳なくして、万どうしてそれができるか。梵行こそ、」それを可能にするただ一つの道です。修行法に梵行をくわえたことにより、釈尊は者にも、・ぴろく成仏の道をひらかれたのであり、大乗仏教のひとたちがよくいうように、決して

釈尊め仏教は「出家仏教」ではないのです。出家、在家を問わず、すべて、解脱へ到達せめる、゛かの婆践出家が讃嘆したように、まさに、それは、

そく うぱい  もし なん もし によ ことごと みなした

塞、優婆夷、若は男、若は女、悉く皆随

ぷっ ぼう そう ぴょうどぅほうりっ

仏・法・僧の平等法律なることや』

 てんおお  あめふ  すいるしたが  くだ  ごと  くどん ほうりつ !たまたかく ごと  びく  ぴくに  うぱ

『天大いに雨りて水流随いて下るが如く、琶曇の法律も亦復是の如し。比丘、比丘尼、優婆

ヽく うぱい  もし なん もし によ ことごと みなしたがなが  ねはん むか ねはん さら はこ  はなはき

邑、茫冬ぼ、、ぼよ君、窃まな、悉く皆随い流れて涅槃に向い涅槃に浚え輸ぶ。甚だ奇なり。なのです。

 

おわりに

原爆坦二度落ちる

 わたくしは、この、日本という国ほど、業のふかい国はないと思うのだ。

 なぜか?

 

 地球上でただ一つの、原爆の被爆国ではないか。

 しかも、一度ならず二度までも    」                \

 ほかに}国もないのである。日本だけなのだ、この惨禍を受けたのは。

 これはいったいどうしたことか。

 もちろん、わたくしは、一日本のほかにも被爆国の道づれがあったらよかったといっそいるのではない。

 

 

おわりに

 この国を以て人類の狂気のみせしめにされた思いである。

 しかも、それで終わるのではないのだ。原爆はこの国にもう1度落ちる。それがわたくしには見えるのだ。

なんという業のふかさか。

 いまや、この国の上空を、破滅のカルマが一面に覆い、それは日に日に、厚く、濃く、なりつつある。

 それが頂点に達したとき、原爆は落ちるのだ 

 カルマを断ち切る方法は、シャカの説いた教法にしかない。 わたくしが、かくもホケトに、現代にシャカをよみがえらせようとしているのは、この国を滅亡から救うために、それしか方法がないからである。

 シャカは、カルマを断つ教法をもとに、個人の成仏を説いた。個人の成仏は、即、国土の成仏にほかならない。それはそのまま、社会の成仏につながる。なぜならば、個人の集団が、国であり、社会であるからだ。

 

 

釈尊の成仏法  霊性とはじつにそれを知る趨性  Shaka Nyorai’s Buddhahood method: Spirituality and the tendency to know it


釈尊     それからわたしの心は、あらゆる衆生の相に向けられてきた。わたしは超人的な眼力でその相を見た。そこには貴いもの、賤しいもの、美しいも
の、醜いもの、幸福なもの、不幸なものの、それぞれの宿業が渦巻いていた。これが第二の智慧である。

それからわたしは、苦・集・滅・道の四諦(四つの真理)をありのままに知り、わたしの心は、あらゆる存在の相から、全く解放され、ふたたびそれ
に執着することはなくなった。これが第三の智慧である。

釈尊は瞑想によって、自分の前生の、二生、三生、十生、二十生、さらには無
限の生涯の、生き変わり死に変わりしてきた光景を見ているのである。それは自分だけではなく、あらゆる人間の前生と、さらに後有(このっぎの人生)を見て
いるのである。

釈尊はここで、決しておとぎ話や、たとえ話、寓話をのべているのではない。釈尊の成仏法を修行すれば、その真実であることがすぐわかる。その修行によ
り、わたくし白身、人の三、四世代前、そしてつぎの世代における存在までは透視できるようになっているのである。

人間の生命は、多くの人たちが考えているように、決してひとつの生涯だけで終わるものではないのである。ある生涯が終わったら、またひきつづき、つぎの
生命形態に移っていくのである。

多くの人たちはその認識がなく、ひとつの生涯のみで、人の生命は終わるものと思っている。ここに、決定的な、そして致命的な生命観の欠陥があるのであ
る。

霊性とはじつにそれを知る趨性なのだ。

人の依って来たるところを知り、去るところ、往くところを知る能力である。いわゆる来所を知り、往所を知る智慧である。これを得れば、人はおのずから、
なにをなすべきか、なにをなさざるべきかがわかってくる、そこから人間の真の進歩、発展がスタートするのである。それがないから、人間は、霊的に少しも進
歩せず、発展せず、いつまでも低いところを輪廻して、無限にさまよい歩いてい
るのである。いや、それだけではない。その果てに、人間は、自分の住む大切な世界を、自らの手で壊滅させてしまうことになるのであるこの無知を、釈尊は、「無明」(乙忿ごと名づけたのである。

ショウジョケバエの論理

この「無明」という言葉には、二つの意味がある。

まったくの無知と、完全な闇である。

「明」には明知(智慧)と、光明、の二つの意味がある。

 真実を悟る智慧を持たず、真っ暗闇の中を、手さぐりで歩いている状態である。まことに人間はそのとおりではないか。来たるところを知らず、往くところを知らず、ただ現在(現生)あるのみである。その現在を、ひたすら目先の利益追求に狂奔する。その結果、いかなるところに往くのか、いかなる世界に、いかお先真っ暗である。
なる生命形態として存在することになるのか、まったくお先真

「第三の目」は、このお先真つ暗な闇の世界を見通すのである。「第三の目」に問はない。真昼のごとく明らかに見ることができるのである。

 奇妙なことに思われるかもしれないが、わたくしは、釈尊の十生、二十生を見通す力を思うごとに、ショウジョウバエを想い起こすのである。

 ショウジョウバエは、その世代が極端に短い。ふつう、一世代がわずかに約一ヵ月である。だから、何十世代もの変遷を短時間で見ることができる。

 そこで、生物学者や、遺伝学者は、ショウジョウバエを使って、その変化を実験する。ひとつの遺伝子の変化が、何十世代のうちに、どういう結果を生ずるか、目のあたりに知ることができるのである。

 釈尊の叡智もそれである。

 彼のように、何十世代もの人間の移り変わりを如実に見ることのできる力をそなえていれば、ひとつの原因が、どのような経過を経て、どのような結果をもたらしたか、つぶさに知ることができる。彼がじっさいに語っているように、その人間がなんという名前で、いつ、どこに生まれて、どういう人生を送ったか、またその人生を終わって、つぎにまたどういう人生を迎えたか、ある生涯のどんな行為が、つぎの生涯にどんな結果としてあらわれたか、すべての人間にわたって
知ることができる。これがほんとうの叡智なのである。

仏陀の瞑想から輪廻転生瞑想法へ

瞑想のすべてがここに表現されているといってよい。
二十一世紀という時空のへだたりを飛び越えて、読者よ、じつに、瞑想とはかくのごときものなのだ。
ここには瞑想のすべてがある。
この釈尊の体験を、もう少し掘り下げてみょう。

釈尊の瞑想体験には五つの段階がある

ここには、瞑想の深まりとその結果が、じつにあざやかに語られている。
第一の段階
わたしは、
1、つねに一つの目的にむかって精進をつづけることができ、
2、想念が確立してみだれず、
3、からだは安楽で動揺しない。
4、心はいつも定に入って静かである。
-第二の段階
第一禅定から第二、第三、第四禅定までしだいに深まっていって、
1、心に想い浮かぶなにものもなくなり、
2、喜びや楽しみだけとなり、
3、ついにはただ清浄な想いだけにみたされ、
4、一点のけがれもなく、清く明るく、絶対不動となった。

―、自分の前世における光景が展開しはじめる。
2、それは一生だけでなく、二生、三生、十生、二十生、とかぎりなくさか
のぼり、無限の生涯の、生き変わり死に変わりした光景が展開する。
それは生命の根源への遡及であり、第一の智慧の獲得であった。

第四の段階
心の眼はさらに広く深くひろがり、ひとの持つ能力の限界を越えて、過去、現
在、そして未来へと流れていくあらゆるひとびとのすがたが透視される。
それは、存在を規制する宿業の実体の把握であった。
これが第二の智慧の獲得である。

第五の段階
つづいてわたしは、
1、宿業から解説する四つの真理を如実に知り、
2、あらゆる存在からの解脱と超越を完成した。
それは第三の智慧の獲得であり、「解脱の瞑想」であった。
いかがであろうか? すばらしい体験だとあなたは思わないだろうか?・ こ
れが仏陀の瞑想なのである。そうしてだれでも、仏陀の瞑想をすればこういう境
地に達することができるのだ。
だが、そういうと、あなたはいうかもしれない。釈尊のような大天才と、凡人
であるわれわれと、どうしていっしょになるものか、釈尊がそういうすばらしい
体験をしたからといって、それがそのままわれわれに通ずるとはかぎらないの
だ。むしろ、鵜のまねをするガラスで、けっきょく、骨折り損のくたびれもうけ
ということになるのではないか、と。
そうではないのである。
釈尊とおなじ瞑想をすることにより、われわれもまた彼とおなじ結果に到達す
ることが可能なのである。最初の道を切り開くものは天才でなければならぬ。し
かし、すでに天才の開いた道は、だれでも歩むことができるのである。

 

 


Shason, then my heart has been directed to all sentient beings. I saw that phase with superhuman eyes. There are precious things, worthy things, beautiful things
Although ugly, happy, and unhappy, each camp was swirling. This is the second wisdom.

Then I knew the four noble truths (four truths) of suffering, gathering, extinction, and the way as they were, and my heart was completely freed from all aspects of being, and it was again.
I’m no longer obsessed with. This is the third wisdom.

Through his meditation, Shason is his predecessor, second, third, tenth, twenty, and even nothing.
I am seeing the spectacle of life and death that has changed to life. It’s not just about myself, but looking at all human predecessors and even human beings (this life)
He is there.

Shason is by no means telling fairy tales, parables, or parables here. If you practice Shakyamuni’s Buddhahood law, you will soon find out the truth. By that training
It is possible to see through my white meat, three or four generations before human beings, and even the existence in the next generation.

Human life, as many people think, does not end with just one life. After a certain life, continue again, the next
It shifts to the form of life.

Many people are unaware of it and believe that a person’s life will end in just one life. Here is a decisive and deadly flaw in the view of life.
To.

Spirituality is the tendency to know it.

It is the ability to know where people come and go, and where they leave and where they go. It is the wisdom to know the so-called visit and the outbound. If you get this, people will naturally
The true progress and development of human beings starts from the understanding of what to do and what to do. Without it, humans advance a little spiritually
I can’t walk, I can’t develop, I’m wandering around infinitely low places
It is. No, that’s not all. At the end of the day, Shason named this ignorance, which human beings would destroy the precious world in which he lives, with his own hands.

The logic of Bibionidae

The word “avidy” has two meanings.

Total ignorance and complete darkness.
“Ming” has two meanings, Akechi (wisdom) and Komei.
Without wisdom to realize the truth, he was walking in total darkness by groping. Isn’t that true for humans? He doesn’t know where to come, he doesn’t know where to go, he’s just present (present). The present is enthusiastic about pursuing immediate profits. As a result, where he goes, what world he is in, and how dark he is.
Will it exist as a form of life?

The “third eye” sees through this dark world. There is no question about the “third eye”. It can be seen clearly like noon.

It may seem strange, but every time I think of the power to see through the tenth and twenty life of Shason, I remember Drosophila.
The generation of Drosophila is extremely short. Usually, one generation is only about one month. Therefore, you can see the transition of dozens of generations in a short time.
Therefore, biologists and geneticists use Drosophila to experiment with the changes. You can see what the consequences of a single genetic change will be in dozens of generations.
That is also the wisdom of Shaka Nyorai.
If you have the power to see the transition of human beings for dozens of generations like him, you can know in detail what kind of process and what kind of result one cause brought about. it can. As he says, what the name of the person was, when, where he was born, what kind of life he lived, what kind of life he ended, what kind of life he had, what kind of life he had. The consequences of the act in the next life, across all human beings
You can know. This is true wisdom.

From Buddha’s meditation to reincarnation meditation
..
It can be said that all of meditation is expressed here.
Jumping over the space-time stagnation of the 21st century, readers, meditation is really like that.
Here is all about meditation.
Let’s dig a little deeper into this experience of Shaka Nyorai.

Shaka Nyorai’s meditation experience has five stages

Here, the depth of meditation and its consequences are spoken vividly.
First stage
I,
1. You can always continue to devote yourself to one purpose,
2. The idea is not established,
3. The body is comfortable and not upset.
4. My heart is always constant and quiet.
-Second stage
Gradually deepening from the first meditation to the second, third, and fourth meditations,
1. There is nothing that comes to my mind,
2. Only joy and fun
3. Finally, I was only satisfied with my clean feelings,
4. There was no injury, it was clean and bright, and it was absolutely immovable.

―, The scene in my previous life begins to develop.
2. It’s not just a lifetime, but a second life, a third life, a ten life, a twenty life, and so on.
Climbing, an infinite life, a life-changing and deadly scene unfolds.
It was a retrospective to the source of life and the first acquisition of wisdom.

Fourth stage
The eyes of the mind spread wider and deeper, beyond the limits of human ability, past and present
All the people who are present and flow into the future can be seen through.
It was a grasp of the substance of the lodging business that regulates its existence.
This is the acquisition of second wisdom.

Fifth stage
Then I
1. Knowing the four truths explained from the lodging business,
2. Completed liberation and transcendence from all beings.
It was the acquisition of the third wisdom, the “meditation of liberation.”
How is it? Don’t you think it’s a great experience?・ This
This is Buddha’s meditation. Anyone can meditate on the Buddha like this.
You can reach the ground.
But then you might say. A great genius like Shaka Nyorai and an ordinary person
Shaka Nyorai is such a wonderful thing, why we are together with us.
Just because you have an experience doesn’t mean that it goes straight to us
It is. Rather, it is a glass that imitates a cormorant, and it makes me tired of breaking my bones.
I wonder if that will be the case.
That is not the case.
By doing the same meditation as Shaka Nyorai, we also reach the same result as him.
It is possible. The one who opens the first path must be a genius. Shi
However, anyone can walk the path already open to geniuses.

思念の相承と四神足法

 

 

思念の相承と四神足法

 

 いよいよ、釈尊の成仏法の中心の法である、四神足法の解説に入る。これが

「輪廻転生瞑想法」の根幹となる法である。

 

釈尊の成仏法の中でも、最高難度の法である。

 

 いままでの訓練をこなしてきた修行者であれば、なんとか歯が立つのではないかとは思うが、決して容易ではない。いままでの訓練でさえ、むずかしいのに、これ以上の訓練はできるだろうかと、不安に思う方も多いのではないだろうか?

 

霊界の法の世界において、法の完成者タターガタ(如来)が常恒に法を説いている。

「思念による王者の相承」とは、この法身タターガタが、言葉や象徴という媒介なしに、直接相手の心に自分の心を伝達するものである。

 

この場合、心、というのは単なる思念の心ではなく、パワーを主としたものと思うべきである。これによって、相手はたちどころに仏陀として完成するのである。

 

 これは最高であり、理想的なものであること、もちろんである。「王者の」、という所以である。

 

 とのべた。つまり、仏陀となって成仏するためには、この「思念による王者の相承」を受けることが、理想とされているのである。

 

 しかし、これには条件があるのだ。

 

どのような条件か?

 

 わたくしは、つぎのようにのべている。

だが、そういうと、一 (「思念による王者の相承」)は最高理想のものなのであるから、他のなにものも必要ないのではないかといわれるかもしれない。そうではないのである。その最高理想のものを受けるために、tapasは必要なのである。

 

 また、同章で、インドのサヘートーマヘートにおける強烈な霊的バイブレーションについて、つぎのようにものべている。

 

 賢明な読者はすでにお気づきであったろう。これが、チベット密教のいう「思念による王者の相承」であることをI―。思念による王者の相承とは、じつに、霊的バイブレーションによる伝達だったのである。

 

 わたくしは、これによって、解脱に至る四つの階梯のうちの、第三の境地に達したことを自覚したのであるが、これは、間脳開発の練行taPasを成就していなかったら、絶対に得られなかったものである。丙なる受容の態勢がととのって初めて、外よりの王者の相承が発せられるのである。

 

 つまり、仏陀となる、あるいは仏陀の境界に近づくためには、「思念による王者の相承」が必要なのであるが、その王者の相承を受けるためには、間脳開発の練行taPasを成就していることが必須なのである。

 

 わたくしは、この王者の相承を受けて、阿那含の境地に達し、このとき、死ぬまでにかならず仏陀になると強く自覚したが、それはわたくしが、tapasを成就した上で、インドのサヘートーマヘート、ミラクルの池に行ったからこそ、白銀のバイブレーションを受けることができたのである。

 

 したがって、「思念による王者の相承」を受けるためには、tapasを成就していることが、絶対条件なのである。

 

 では、その練行tapasとはなにか?

 

このこそが、四神足法なのである。

 

いい換えれば、四神足法を成就していなければ、仏陀になるために必要な「思念による王者の相承」を受けられないのである。しかしながら、四神足法は、釈尊の成仏法の中でも最高度にむずかしい法である。だれでも容易に修行できる内容ではない。

 釈尊のむずかしい成仏法を修行しなければ、いつまでたっても思念の相承を受けられず、間脳が開かず、霊性開顕が不可能であるならば、いったいどれは

どの人が、霊性開顕をすることができるであろうか?

 

 ごく限られた、わずかなエリートしか、到達することができないであろう。

当然のことながら、釈尊の成仏法を発展させた輪廻転生瞑想法も成就できないことになるのだ。

 

 だが、そうではないのである。

 わたくしは、永年の修行により、この問題点を解決し、だれでも比較的容易

に成仏法の修行を進めていける法を完成することができたからである。

 

 それは、「水晶龍神瞑想法」という法である。

 この瞑想法は単なる瞑想法ではない。

 じつは、この水晶龍神瞑想法は、釈尊の成仏法の真髄である、

「四神足法そのもの」 なのである。

 そして、この水晶龍神瞑想法の最大の特長は、

「瞑想法自体が思念の相承である。」

 ということなのである。

 修行者は、この法にのっとって修行を進めていくことにより、本来であれ

ば、tapasである四神足法を成就しないかぎり、絶対に受けられない思念の相承を、修行をはじめる最初の段階から受けながら、四神足法に必要な、チャクラの開発訓練を進めていくことができるのである。

ことに、クンダリニー・ヨーガでは、最も危険とされる脳内のチャクラの開発を、安全に、おだやかに進めていくことができるのだ。

 

あなたは、この水晶龍神瞑想法(四神足法)を修行することによって、神通力

を得ることができるであろう。

 ただし、この法は、最極秘伝に属する法なので、すべてを筆にすることはでない。

 

Kechimyaku and Iddhipada

 

Finally, we will begin to explain the Iddhipada method, which is the central law of Shaka Nyorai’s Buddhahood method. This is

It is the basis of the “reincarnation meditation method”.

 

It is the most difficult law in Shakyamuni’s Buddhahood law.

 

If you are a practitioner who has done the training so far, I think that you will somehow get a tooth, but it is not easy at all. Even though the training so far is difficult, many people may be worried that more training will be possible.

 

In the world of law in the spirit world, the perfector of law, Tatagata (Nyorai), constantly preaches the law.

“Kechimyaku of the King by Thought” means that this Dharmakaya Tatagata directly conveys one’s heart to the other person’s heart without the mediation of words or symbols.

 

In this case, the mind should be thought of as power, not just a mind of thought. As a result, the opponent is immediately completed as a Buddha.

 

This is the best and ideal, of course. That is why it is “the king”.

 

It was said that. In other words, in order to become a Buddha and become a Buddha, it is ideal to receive this “consensus of the king by thought”.

 

However, there are conditions for this.

 

What are the conditions?

 

I wrote as follows.

However, in that case, it may be said that one (“the consensus of the king by thought”) is the highest ideal, so nothing else is needed. That is not the case. Tapas is necessary to receive the highest ideal.

 

Also, in the same chapter, the intense spiritual vibration in Saheto-Maheto, India is described as follows.

 

The wise reader would have already noticed. I- that this is what Tibetan Buddhism calls “the consensus of the king by thought.” The thoughtful consensus of the king was, in fact, a transmission by spiritual vibration.

 

I realized that I had reached the third of the four steps leading up to liberation, but this would definitely be the case if I had not fulfilled the diencephalon development practice tapas. It was not obtained. Only when the system of acceptance is established will the consensus of the king from the outside be issued.

 

In other words, in order to become a Buddha or approach the boundary of the Buddha, “the consensus of the king by thought” is necessary, but in order to receive the consensus of the king, the diencephalon development practice tapas is achieved. It is essential that you do.

 

With the consent of this king, I reached the border of Ana, and at this time I strongly realized that I would become a Buddha by the time I died, but after fulfilling tapas, I was in Sahe, India. It was because I went to Tohmahet and Miracle Pond that I was able to receive the silver vibration.

 

Therefore, in order to receive the “consensus of the king by thought”, it is an absolute requirement that tapas be fulfilled.

 

Then, what is the training tapas?

 

This is the Iddhipada method.

 

In other words, if you do not fulfill the Iddhipada method, you will not be able to receive the “consideration of the king by thought” necessary to become a Buddha. However, the Iddhipada method is the most difficult method among the Buddhahood methods of Shason. It is not something that anyone can easily practice.

If you do not practice Shaka Nyorai’s difficult Buddhahood method, you will never be able to accept your thoughts, your diencephalon will not open, and spiritual manifestation will not be possible.

Who can do spiritual manifestation?

 

Only a very limited number of elites will be able to reach it.

As a matter of course, the reincarnation meditation method, which is a development of Shaka Nyorai’s Buddhahood method, cannot be achieved.

 

However, that is not the case.

I have solved this problem through many years of training, and it is relatively easy for anyone to do it.

This is because we were able to complete a law that would allow us to practice the Buddhahood law.

 

It is a method called “Crystal Dragon God Meditation Method”.

This meditation method is not just a meditation method.

In fact, this crystal dragon god meditation method is the essence of Shason’s Buddhahood method.

It is “Iddhipada itself”.

And the biggest feature of this crystal dragon god meditation method is

“The meditation method itself is a consensus of thought.”

That is to say.

The practitioner should be able to proceed with the training in accordance with this law.

For example, if you do not fulfill the tapas Iddhipada method, you will receive the consensus of thoughts that you will never receive from the first stage of training, and proceed with the development training of the chakra necessary for the Iddhipada method. Can be done.

In particular, Kundalini Yoga can safely and gently proceed with the development of the most dangerous chakras in the brain.

 

By practicing this crystal dragon god meditation method (Iddhipada method), you have the power of magic.

Will be able to be obtained.

However, since this law belongs to the most secret, it is not possible to write everything.

高度なマルウェア対策をどう考えるか イランの核施設を狙った「Stuxnet」を振り返る

ニュース

高度なマルウェア対策をどう考えるか イランの核施設を狙った「Stuxnet」を振り返る

技術の進歩に伴い、サイバー攻撃も巧妙化してきた。高度化して知的に振る舞うマルウェアに対して、どのような対策を施せばいいのか。2010年代にイランの核施設を狙ったマルウェア「Stuxnet」の例を考える。

 技術の進歩に伴い、サイバー攻撃も巧妙化してきています。2010年代の代表的なマルウェアの一つに「Stuxnet」(スタックスネット)があります。Stuxnetは、米国とイスラエルが共同で、イランの核施設にある遠心分離器を制御するシステムを攻撃する目的で作ったとされるマルウェアで、2010年頃に話題になりました。この極めて高度なマルウェアを使ったコンピュータ・ウイルス計画は「Olympic Games」と呼ばれていたそうです。

イランのナタンズにあるウラン濃縮施設の産業用制御システムはインターネットには接続されていませんでした。セキュリティを高める方法の一つに「エアギャップ」と呼ばれる手法があります。これはインターネットなどのネットワークから物理的に隔離された状態でネットワークを利用することで、外部のネットワークからのサイバー攻撃などから重要な情報を守る効果が期待できます。外部ネットワークとつながっていないシステムや端末に侵入するには、USBメモリなど外部メディアとの物理的な接続が必要になります。ナタンズのウラン濃縮施設でもエアギャップが徹底されていましたが、USBメモリを介して産業用制御システムが感染してしまったのです。

Stuxnetは核施設にどう侵入したか

Stuxnetの主な目的は、施設内でウラン濃縮に利用される遠心分離機のコントロールを奪取し、イランの核実験・核開発を無効化することでした。StuxnetはWindows OSの脆弱性を悪用し、ドイツのSiemens社のシステム制御ソフトの脆弱性を標的とした攻撃をするなど、動作する条件は限定的でしたが、その自律性の高さに特徴がありました。自律性はAIの性質の一つですが、Stuxnetはマルウェアの中でも自律性が飛び抜けており、実質的に高度なAIと呼んでいいといえます。

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例えば以下のようなものです。

  • USB経由でコンピュータに装着された時点で、コンピュータにゼロデイ脆弱(ぜいじゃく)性(まだ対策が取られていないセキュリティ上の欠陥)がないか自動的にチェックする
  • 感染後、ネットワーク上のコンピュータに、遠心分離機を制御するPLC(プログラマブルロジックコントローラ、産業用の自動制御装置)がないか自動的に探査する
  • 遠心分離機の設定を不正に操作し、回転機器を故障させ、濃縮ウランの産出量を激減させる
  • 管理者と遠心分離機の間で、圧力、回転、振動などのセンサーデータを改ざんして、施設の技術者に異常を知らせないようにする
  • 標的となった装置のセンサーが出す警告信号をとめる指令を出し、管理者が誤作動に気付かないようにする

このように高度な処理手順(アルゴリズム)が実装されているマルウェアも、エアギャップがあれば問題ないように思えますが、実際はUSBメモリを施設内のコンピュータに差すという人的ミスによって簡単にセキュリティを突破されてしまったのです。実際のところ、誰がUSBを差し込んだかは現在もよく分かっていませんが、施設の特徴やセキュリティ上の視点から、内部の人間である可能性が高いといえるでしょう。

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星まつりに行っました。  I went to the star festival.

阿含の星まつり

2021年2月7日(日)午前9時30分より 京都市山科区北花山(阿含宗総本殿境内地)にて

神仏両界大柴燈護摩供(しんぶつりょうかいだいさいとうごまく)
「阿含の星まつり」は、正式には「火の祭典・阿含の星まつり神仏両界大柴燈護摩供」と呼び、本山(京都市山科区北花山大峰)境内地において厳修される、阿含宗最大の行事です。約40年以上の歴史を持つ、この行事は、参拝者が例年50万人を超え、京都の冬の風物詩として、その名が知られています。
この護摩供は、仏教の総本尊「真正仏舎利尊」および、神界の主神として素佐之男命を奉安し、大導師を務められる桐山管長が長年の修行の中で体得された、「神仏両界の秘法」によって奉修されます。
神界壇・金剛界壇では「宝生護摩」(運気を転換して宝を生み出す)が、仏界壇・胎蔵界壇では「解脱供養護摩」(先祖をご供養して運を開く)がお焚き上げされます。

 

 

 

 

星まつりに、いっていましち。

本年がこのすいていました。

お守りをもらった。

今日の運勢 2月24日 Today’s fortune February 24

恋人
正位置・・・恋愛。女性側からの誘惑で成功した恋愛。無邪気な十代や若者の恋愛関係。セックス。嫉妬。美しさ。情熱。好きで打ち込む趣味。重要な事件の発生による選択の時期。
逆位置・・・よろめき。誘惑。遊びだけの関係。気まぐれ。結婚生活の危機。痴話げんか。道徳心の欠如による危険。ジェラシー。希望に関して重要な道が選べない。
ウェイト解説
正位置・・・魅力。愛。美。克服される試練。
逆位置・・・失敗。愚かな計画。別の意味では、不満のある結婚とあらゆる意味での不一致をあらわす。

 

 

 

四緑木星の日

縁談、商談の来訪者あり。言動をつつしみ話を進めると良い。いつも良い日、皆良い人。こんな心境を養いたい

災難が多く、感情も不安定な日。
何かとトラブルに発展しがちです。
何事も冷静に落ち着いて物事に対処することで運気の衰退は免れます。
ただし良い意味での「破壊」を行うには最適な日です。
借金の精算や不要な物の断捨離を進んで行いましょう。

Four green Jupiter day

There are visitors for marriage and business negotiations. It is good to proceed with the story while saying and acting. Always good days, good people. I want to cultivate such a feeling

A day with many disasters and unstable emotions.
It tends to lead to trouble.
Keeping calm and dealing with things will prevent your luck from declining.
However, it is the best day to do “destruction” in a good way.
Let’s be willing to settle debts and cut off unnecessary things

今日の運勢  2月18日 Today’s fortune February 18

 


正位置・・・大火。噴火。地震。落雷。災難。事故。負傷。発病(火傷、高熱を伴う病)。熱。爆発物。暴力。破壊。消防自動車。闘争。衝突。悲劇。破産。信用の失墜。古い概念をくつがえす。精神の堕落。失望。経営者の交替。
逆位置・・・不当な圧迫。苦悩。投獄。罠にはまる。窮地。誤った告発。愛情面の誤算。熱しやすいがさめやすい態度。ボヤ。ちょっとしたスリルを味わう。
ウェイト解説
正位置・・・悲嘆。困窮。逆境。災難。不名誉。破壊。詐欺。
逆位置・・・意味は弱まるが、正位置と同じ意味。抑圧。投獄。暴政。

 

七赤金星の日

人より協力の依頼を受けたりする日。金運、喜び事あるも調子に乗って酒色に乱れぬよう心すべき日。小利に迷わず自他喜びを共にする心掛けも大切。

自らの宿命の日。
落ち着きがなくなり、物事に集中できない日です。
この日に決断したことや実行したことは、良くも悪くも後々になって大きな影響を与えます。
衝動的な言動は避けて、控えめに慎重に行動することが大切です,

 

Seven Red Venus Day

The day when a request for cooperation is received from a person. Fortune and joy, but it’s a day when you should be careful not to get disturbed by the color of sake. It is also important to try to share the joy of yourself and others without hesitation.

The day of my destiny.
It’s a day when I feel restless and can’t concentrate on things.
What you decide and do on this day will have a big impact later on, for better or for worse.
It is important to avoid impulsive behavior and act sparingly and cautiously.