UA-135459055-1

七道品経  七種類のシステムと、三十七種類のカリキュラム Shichido Shinkyo  1  Seven types of systems and thirty-seven types of curriculum

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

念力をつよくして 脳バランスをたもつ

 

これはどういう修行法かと申しますと、仏教辞典などを見ますと、「おもいを平らかにする」 うように説明しております。念覚支とは「おもい」つまり念を平安にすることである、とこ ’うように説明しておりますけれども、わたくしは、それだけでは念覚支の修行の説明になっ ないと思います。

わたくし自身の修行体験によりますと、そんな簡単なものではなくて、こころを平安にする、 いは確かにそうでありますけれども、それは結果から出てくるものであって、修行そのもので らいわけです。おもいを平安にするというのは、念覚支を修行した結果、つねにおもいが平安 なる、おもいが平らかになる、ということであって、それ自体が修行ではない。

わたくしは、この修行を二つに分けることができると思うんです。まず 、念の力を強化する。

活力といってしまうと、なにか安っぽくなってしまいますね。自分で『念力』という本を書い おきながら、そういうことをいうのはおかしいけれども、念力、と言でいってしまうと、ち っと安っぼくなってしまう。念の力を強化する、要するに、精神力というものを非常に強化す ということですね。

それをただたんに精神力というと、漠然としますけれども、要するに、意志の力、知能の力。 ういったものを非常に強化する訓練である。

もっというならば、人間の精神作用というものは、知・情・意、この三つから成り立っていま

知性の力、知能の力、そして情緒的なはたらき、それから意志の力です。

要するに念の力を強化するというのは、この三つの部門(知・情・意)のはたらきを強化し、し かも、そのいずれにもかたよらないようにする、ということです。それが、結局、結果的におも いが平安になるということじゃないですか。

 人間の精神力というものは、この知・情・意のはたらきから成り立っています。ところが、こ いがかたよりやすいわけです。

 夏目漱石の『草枕』の書き出しに、

-知にはたらけば角が立つ。情に棹させば流される。とかくこの世は住みにくい」とあるでしょう。

 だから知というものにかたよると、とかく理くつっぽくなって角が立ちやすい。頭が非常 よいと、知能のはたらきがつよいですから、すぐ理くつでものをわりきろうとします。

 情に棹させば流される それはそうでしょう、人情的になりすぎれば流されてしまいます。

意志がつよかったらどうかというと、これは強情で、どうにもしようがないということにな りますね。

 ですから、知・情・意、それぞれのはたらきを強化し、たかめる、そういう修行です。しか

そのいずれにもかたよらないように平均化する、これがいちばん大切なことじゃないです 知的にも非常に高度で、情緒面においても、いわゆる情操がゆたかであるというように、芸術 面などでもよく理解することができる。情操的な情のないひとというのは、無昧乾燥にな力やす いわけです。芸術的なことは、なにもわからない、はなしをしてもちっともおもしろくない、シャレ をいったって、ニコリともしない。今日きいたシレを、三日ぐらいたっ七急に笑,い出じ て、「ああ、そうだ,ったのか」なんて(笑)、それじやあおはなしにならんでしょう。 

 意志がつよいのはけっこうだけれども、それが頑固になってしまうのではいけない。

 だから、知・情・意の精神作用を、非常に強化し、たかめるという訓練をする。そしてそのい ずれにもかたよらないということ。これがまず第一です。

 しかし、それだけじやない。

 念そのものの力を、神秘的にまで強化する。一点に集中したとき、火を発するほどの力を出 す。ですから、この念覚支の修行には、クンダリ’’ー ヨーガの修行が入るわけです。

 つぎに「空観」を体得する。ですから、この七覚支には、「四念処法」の修行が入っている。

この空の体得により、諸法の実相がわかるようになります。つまり、「縁起の法」を如実 にさ とることになるわけです。                                

 この念覚支が、七覚支法の中の、目玉といつてよいでしよう。いや、三十七道晶の中でも

 これは、宗教、信仰、哲学というたくさんの教法、。思想のなかから真実なるものをえらびだす

ということです。

択というのは、「選択」のタクでず。 略ど ない本漢字は「選揮」と書いて、選 えらぶ、「揮」。もえらぶ、という字です。

 つまり、ほんとうに真実なる教法をえらびとる、ということですね。この世の中には、さまざ まな宗教、信仰、思想があびます。そのなかから真実なるものをえらびとる。そうして、まちが ったものや、いつわりのものを捨て石、取捨選択するということです。

 正しい信仰をえらびとって、正しくないものを捨てさるということが修行というのは、どうい うことなんだろう? そう思ったことかありますけれども、考えているうち、やはりそれは修行 なんだなと思うようになった。というのは、それが修行であるというのは、自分自身の勉強、知 能によってそれをなすというところにあるわけです。         、

 

 

Psychokinesis and brain balance

 

As for what kind of training this is, when you look at Buddhist dictionaries, it explains that it “flattens your mind.” I explain that the Seven Factors of Awakening is “the feeling”, that is, the peace of mind, but I don’t think that alone is an explanation of the practice of the Seven Factors of Awakening.

According to my own training experience, it is not such an easy thing, and it makes my heart peaceful, or it is certainly true, but it comes from the result, and it is not the training itself. Making the weight peaceful means that as a result of practicing the Seven Factors of Awakening, the weight is always peaceful and the weight is flattened, and it is not a practice in itself.

I think this training can be divided into two. First, strengthen the power of mind.

When it comes to vitality, it’s kind of cheap. He wrote a book called “Psychokinesis” by himself, and it is strange to say such a thing, but when he says “Psychokinesis”, he feels a little cheap. It means strengthening the power of mind, in short, strengthening the mental power very much.

It is vague to say that it is just mental power, but in short, it is the power of will and the power of intelligence. It is a training that greatly strengthens such things.

In other words, human mental action consists of knowledge, affection, and will.

The power of intelligence, the power of intelligence, the emotional work, and the power of will.

In short, strengthening the power of mind means strengthening the functions of these three divisions (knowledge, affection, and will) so that he does not depend on any of them. Doesn’t that mean that in the end, it will be peaceful in the end?

Human mental power is made up of the functions of this knowledge, affection, and will. However, he is easier than he is.

For writing out Natsume Soseki’s “Kusamakura”,

-If you work in your knowledge, you will get a horn. If you let the emotions flow, you will be swept away. Anyway, this world is hard to live in. ”

Therefore, depending on what you know, it’s just a matter of reason and it’s easy to get horns. If you are very smart, your intelligence will work well, so you will immediately try to get rid of things with your shoes.

He will be swept away if he is sentimental, and he will be swept away if he becomes too humane.

If you have a strong will, this is stubborn and you can’t help it.

Therefore, it is such a practice to strengthen and strengthen each function of knowledge, affection, and will. Deer

It’s not the most important thing to average so that it doesn’t depend on any of them. It’s intellectually very advanced, and it’s well understood in terms of art as well as emotional and so-called emotional. can do. A person with no emotional feelings is the one who is easy to help with innocence. I don’t understand anything about art, it’s not interesting to talk about it, and it doesn’t make me smile. After about three days, I suddenly laughed at the sire I heard today and laughed out, saying, “Oh, that’s right, was it?” (Laughs).

It’s fine to have a strong will, but it shouldn’t be stubborn.

Therefore, we will train to strengthen and strengthen the mental effects of knowledge, affection, and will. And that he doesn’t depend on the gap. This is first and foremost.

However, that is not the case.

Strengthen the power of the mind itself to mystery. When you concentrate on one point, it exerts enough power to make a fire. Therefore, this training of the Awakening includes the training of Kundalini “-Yoga.

Next, learn the “view of the sky”. Therefore, this Seven Factors of Awakening contains the practice of “Satipatthana”.

By learning this sky, you will be able to understand the reality of various laws. In other words, the “law of auspiciousness” is to be taken. ‥

This reminder can be the centerpiece of the Seven Factors of Awakening. No, even among the thirty-seven road crystals

This is a lot of teachings such as religion, faith, and philosophy. Select the truth from the thought

about it.

Choice is not a “choice” tact. The abbreviation of this Chinese character is written as “selection”, and it is selected, “volunteer”. The word “moerabu” is used.

In other words, it means choosing a truly true teaching method. There are various religions, beliefs, and thoughts in this world. Select the truth from them. Then, the town throws away what he has and what he has, and sorts it out.

What does it mean to practice by choosing the right faith and throwing away the wrong ones? Although I had thought so, while thinking about it, I came to think that it was training. For, it is a practice in that it is done by one’s own study and intelligence. ,

 たとえば、つぎのようなことです。

 お釈迦さまが出家されて、自分がさとりをひらくに到るまでには、当時のさまざまな信仰や宗 教、いろいろなことを教える思想家、そういったかたがたに、肘あたりしてぶつかっていってい るわけです。いろいろな仙人にもあって、はなしを聞く、それだけではなくて、それが正しい か、正しくないか、ということをご自分でI生けんめい考えられたということです。

 そうして結局、当時のインドにあったところのあらゆる教え、宗教というものは、みな正しく ないという結論に達したわけです。それには、釈迦ご自身のふかい修行と勉強によってそこに到 達したわけです。

 ですから、わたくしたちも、この択法覚文が修行であるというのは、自分自身の勉強と修行に よって、ほんとうに真実なるものをえらびとり、正しくないものは捨てさる、ということをしな ければいけないんです。

瞑想ひつとっても、日本に、瞑想を教える学校みたいなところや、瞑想 の先生、そういったものがたくさんあるでしょう。そのたくさんの瞑想のなかから、どれが正し い瞑想法なのか? どの先生が、正しい瞑想法を教えているのか? ということを自分自身がは っきりと取捨選択しなければいけないということです。

 たいていの場合は、自分自身の研究や勉強、あるいは修行によって取捨選択するというひとは すくない、たいてい評判を聞くだけです。

「あのニホンーメディテーションセンターというのはどうなの?」

「あれは、桐山さんというひとがやっていて、いいよ」

 といったり、

 「あれはダメだ、インチキだよ」

 なんていう。そうかなあ、どうなんだろうか。T・M(、rranscendental Meditationo超越瞑 想の略語)というのがいいというひともいれば、T・Mというのはダメだというひともいる。そ の評判だけできめてしまう人が多い。

 それをお釈迦さまは、ありとあらゆるいろいろな教法をご自分でぶつかって調べてみる。瞑想 についても、すぐそれがいいとかわるいとか、ひとの評判とか、そういったものにはまどわされ ない。ご自分がその瞑想をやってみて、、これはいかん、これはいい、というように選択される。

 そういう意味で、択法覚支というのが修行になるわけです。自分が修行をして確かめて、そうそういう立場から、いろいろな宗教にぶつかっていってみた。そうすると、なかなか明瞭な答が 出てこないんです。

 天理教にしても、ひとの道にしても、そのほか、わたくしはいろいろな宗教にぶつかってい1つ た。ところがそこで、「この宗教で救われるとは、いったいどういうこ&なんですか?」と聞い てみても、これが明瞭でないんですね。

 ある宗教では、救うというのは「しあわせにするLということ、救われるというのは「しあわ せになる」ということと、こう簡単に答える。では、’「しあわせ」というのはいったいなにかと 追及してみると、その定義がはっきりしない。

 しあわせというのは、要するに、一つの満足感をあじわうことでしょう、そうわたくしは思い

ます。病気で苦しんでいるひとが、病気が治ったら満足しますから、それで救われたと思うでし

ょう。お金がなくて苦しんでいるひとが、お金が入ると満足しますから、よろこびをもって救わ れたと思う。

 しかし考えてみますと、満足なんていう状態はないんです、人間にとって。しあわせとか満足 とかいうことばはありますけれども、実体はない。というのは、しあわせにしても、満足にして も、これは人間のそのときの状態によってあらわれるものです。

 わたしはしあわせだ、予は満足であるぞよ、とこういう。しかし、そのしあわせとか満足とい うのは、人間がある状況下で、ある状態においてあじわうもので、どこまでも主観的なもので す。ところが、人間の状況とか状態というものは、いつも変わる。「無常Lです。はやいはなし、

わたくしがいつも例にとりますけれども、お腹がすいてお腹がすいてどうにもならない。二日も 三日も食べないで、ぷっ倒れるほどお腹がすいている。もうなんでもいいから食べたい。そこへ、 ウナ丼や天丼やカツ丼がワーツと出たら、これは満足ですよ、もうむしゃぶりついて食べるでし ょう。もう満腹する、これはしあわせですね。

 さっきはぶっ倒れるほどお腹がすいていたのが、こんどはぶっ倒れるほど食べる。そうすると 苦しいですよ、なにか消化剤はないか、ということになる。

 江戸小咄のなかに、そういうのがありますね。町かどに乞食がすわっている。そこへ、宴会帰 りの旦那が、いいきげんで鼻うたまじりでフラフラやってきた。そこで乞食が、

 「旦那さま、一文やってくださいませ。わたくしは、もう二日も三日もごはんを食べないで、ぶ っ倒れるほどお腹がすいております

 といったら、旦那が、思わず、

 「それはうらやましい

 といった。旦那は、あんまり飲んだり食べたりしたので、気分がわるい。そうすると、お腹のたいし、ごちそうをうんと食べすぎたひとは、お腹のすいている状態が引らやましくなる。

 お金がほしいお金がほしい。そこでお金がたくさん入ると、泥棒が入るんじゃないか、だれか にだまし取られやせんか、それが気になって夜も眠れない。

 一つの状況下において、満足感をあじわっているというのが、しあわせという状態なのだから、 その状況が変わってしまったら逆になってくるわけです。だから、そんなものはあり得ない。一 時的な現象としてはあるけれども、そういったものはつづかない、あたりまえのことです。

 そういうしあわせをあたえる、あるいは満足をあたえるなんていうことは、決して宗教の目標 ではないはずです。宗教によって救うとか、救われるということは、永遠的なものであり、永続 するものでなければいけない。

 どこかの教団が説くように、この信仰をすれば金か儲かる、大臣になれる、代議士になれる、 金持になれる、そんなものはしあわせでもなんでもない。それは到達した瞬聞からそれを失いた くないという苦しみに変わるものです。 

 では、いったい救うとは、救われるとはどういうことなのか?

 それを追求して わたくしはあらゆる宗教の門をたたいて、どれも満足する答は得られなか

った。結局、仏教へもどっていった。

 どうかというとヽ大乗仏教では「試れんをあたえる」ということをいっています。

仏教では、アッシッをアンジンという。あなたがたが、大乗仏教のお坊さんに、

 「あなたの宗旨では、どのように人を救うんですか?」

 と聞いたら、禅宗だろうが、浄土宗だろうが、なに宗だろうが結局、「安心をあたえる」とこ ういいますよ。                                    

 「安心というのは、いったいなにか? これは儒教のほうで、「安心立命」ということばがあ ります。要するに、心を安んじて、生ぎるいとなみをつづけるということです。人間というもの は、いつもなにかしら不安な心におそわれている、そういった不安感をなくし、心を安らかにし て命を立てる、つま句生活をするということ、それを安心という、その安心をあたえるのだ、と 必ずこういいます。また、死後の不安をとりのぞくという意味で使うこともあり吏す。

 だから、」仏教のいろいろな宗旨・宗派を調べてみますと、みな、いかにして安心をあたえるか ということが、匹テーマになっています。

しかし、では、安心というのはいったいなにか? いつもこころが平安で悩みがないというこ とだ。では、それをどういうようにしてあたえるのが、と問題はそこに行く。

そうしますとこんどは、大乗仏教は、答がみなわかれてしまうんです。禅宗の場合は、坐禅観天台宗。ぱ、「朝題目に夕念仏」といって、朝のおつとめには法華経を誦み、夕方のおつとめに ぽ念仏を唱える。日蓮上人は天台宗出身ですから叡山に行って、彼は生一本な男ですから、それ で疑問をもった。宗教というのは一本でなければいけない、あれもこれもなんていうのはおかし い。。ところが、比叡山の勤行は、「朝題目に夕念仏」といって、朝は「ナムミョウホウレッゲキ ョウ」といって法華経を唱え、夕方の勤行には「ナムアミダブ、ナムアミダブ」といって阿弥陀 仏をおがんでいる。いったいどっちなんだ? ということになる。

 日蓮上人というひとは生一本なひとですから、信仰というものはただひとすじでなければいか ん、といヶことで、かれはいろいろ研究して、結局、法華ひとすじ、法華一乗ということで日蓮 宗を立てたわけです。                                   

 天台宗の場合は、法華経を信仰して「摩詞止観」の修行をする。真言宗へいくと、密教の修法 ―金剛界の法と胎蔵界の法を修行して即身成仏する。そういうようにみんなまちまちなんで

そして、結局、なにをあたえるか? 安心だとこういう。安心をあたえる方法というのが、お なじ大乗仏教でみんなちがうんですよ。いったいどれがほんとうなんだ、ということになるでしょう。

 

 これみんな落第なんです、この答は。仏教の目標というのは「安心」なんかじゃない、「成仏」 することなんです。『葉隠』の表現を借りると、「仏教とは成仏することと見つけたりです。仏 教とは安心をあたえることなりなんて、そんな曖昧模糊なものではない。大乗仏教はもうそこか らおかしいのです。なぜそうなったかと考えてみると、成仏法がないからです。さっきいいまし たように、各宗旨でみんな安心をあたえる方法がちがう。というのは、はっきりした成仏法がな いから、そうなる。そして、「安心をあたえる」というようなはづきりしないことになってしま うのです。

 お釈迦さまはどうおっし『やっているかというと、「成仏することだ」とおっしやっている。涅 槃に入ることだと教えておられる。解説して、涅槃に入って成仏したら、安心も不安心もない。

安心とか不安心とかいう相対的なものを越えた、絶対の境地に入ってしまう。これがほんとうの 仏教なんです。

 わたくしは、あらゆる宗教を遍歴して仏教にもどり、その仏教の中でまたあらゆる宗旨の門を たたき、最後に最もすぐれた釈尊直説の阿含にたどりつくことができた。ここにくるまで三十年 以上かかっています。そのあいだ、択法覚支の連続であった。

 あなたがたは、わたくしよりもよっぽど徳がありますから、わたくしのようにぞんなに時間を かけなくてもすんだ。ぱあっと阿含にきてしまった。よっぽど徳があるんですね。しかし、その ぶん、択法が足りないかも知れん。        

 しかし、そうはいものの、あなたがただって、わたくしほどの勉強はしなくても、現代人と しでの感覚、教養、。常識から、この阿含宗をえらびとうた。宗教上の勉強では、、プロ政宗教家や 坊さんに。かなわないかも知れないが、しなにより右、おそらく、’自分の人生を賭けるという意気ご みで阿含をえらび取った。これぱすばらしい択法覚支であったと思うです。

                          

朝霧高原にやってきて、三泊四日の出家をして、阿含教法の中でもより高度な法をえらんで身にい つけるため伝法をうけている。りっぱな択法覚支です,

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

SNSでもご購読できます。

ntt

コメントを残す

*