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念佛三十七菩提分法の研究

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念念従心起①

念佛三十七菩提分法の研究

◎念念 心より起こり

「念念従心起」である。いよいよ第九句まで来た。

念念、一瞬一瞬、観世音菩薩を念ずるんだ。心より起こるんだ。はじめの「観世音 南無佛」

に引っ掛けて、是く言うわけです。ですが、この「心より」というヤツがクセモノだ。

ここは本当に大切なポイントです。ここを理解しないと、何となく観音信仰でやって

心が洗われるだとか、観音様はありがたいとか、抹香臭い信仰・信心になってしまう。

私は抹香臭いの大好きですが、今の時代には即応していない。

「心が大切」という、この「心」が如何なるものか?

肝心なのは、ここです。

◎念仏の聖者山崎弁栄の「念佛三十七菩提分法」

山崎弁栄師は、1859年(安政6年)~1920年に在世した念仏聖者である。

筑波山に篭り、相模原の原当麻にある時宗本山の無量光寺の住職歴任など、様々な

業績を持つ。何といっても、歴史上在世した釈迦牟尼の遺された三十七菩提分法を

念仏で為すことに成功したことは、金字塔である。師の光明主義運動は、修養会に

引き継がれている。他心通などの神通をもっていたことでも知られている。

古代仏教、お釈迦様がお説きになったダルマは「四諦八正道」であるが、これを

様々な形でお説きになった。「戒・定・慧」の三学が仏道修行であることは周知であろう。

この三学を七つの方法に分類し、細かく分けると三十七のダルマになる。

それを後代の仏教で、三十七菩提分法とか、七科三十七道品と名付けた。ともあれ、

釈迦牟尼佛の説いたダルマは此れである。その三十七菩提分法の一科目に、「七覚支法

(しちかくしほう)」がある。七つの覚支、七つの覚りに至る支え(修行)がある。

弁栄聖者は、「念佛三十七菩提分法」「念佛七覚支」というものを確立したのです。

◎大乗仏教は非仏説なのか?

山崎弁栄(やまざきべんねい)聖者が佛法をお説きになったのは、明治~大正の近代です。

八宗兼学で、とにかく広く仏教を研究された。念仏行者でありながら、駒沢大学の前身に

入学し、時宗の本山の住職になっていることからも窺える。

明治初頭に「廃仏毀釈」の風が吹き、西洋の学問による仏教学が入ってきた。

大乗仏教は釈迦牟尼佛の説いた経典(教え)に基づいていないものである。釈迦牟尼の

説いたものではない「大乗仏教非仏説」であると。

さらに神智学の女性覚者H・P・ブラヴァツキー夫人の同志である、神智学協会初代会長の

オルコット大佐などが、南方仏教に帰依し「仏教概論」などが出版され、日本に来日し、

仏教僧を悉く破折した。東京大学でもサンスクリット語研究が進んで、仏教研究の潮流は

原始仏教研究になっていった。

日本人の霊性に根をおろしている、念仏・題目が、危機に瀕した。少なくとも学問の世界

では、大乗仏教は釈迦牟尼が説いたものではないと決定した。だが信仰上は、大乗仏教を

行ない、遥か昔のお祖師たちの教えを出ることはない。100年以上も前から、こういう状態

になっていたのです。これは各僧侶の問題です。ほとんど手付かずである。

だが山崎弁栄聖者は、念仏と釈尊の遺法である「三十七菩提分法」を念仏実践の角度から

理解し、咀嚼して、統合することに成功したのである。

その一に「念仏七覚支」があり、七つの覚支とは、択法覚支・精進覚支・喜覚支・軽安覚支

・定覚支・捨覚支・念覚支である。

◎「念仏七覚支」中の『念覚支』

山崎弁栄聖者は、釈尊のダルマを念仏実践と結合させた。仔細に見ていくと、まさに

「念仏三十七菩提分法」である。このことは、真言宗でも法華宗でも、どの宗旨宗派でも

「三十七菩提分法」との結合・統合ができることを意味している。

チベット仏教ではとっくに昔にこれは解決している。

仏教の様々な修行法は、その人の機根に応じて出てきたもので、釈尊の根本法との

結合は信仰上の問題である。文化の上に宗教もあり、インドと日本では文化だけでなく

風習や環境が違う。すべての仏教というものを統合して、自分の「信」に応じて、

仏果をめざす。生きた信仰は、学問的研究とは別ものである。信仰に学問を取り入れる

ことはできても、学問に信仰は取り入れることはできない。

弁栄聖者は、次のように説く。

「… 念覚支とは、念とは、一人一日の中に八億の念ありと。すでに仏子の核となりしうえ

よりは、寝ても覚めても、念念にその核が中心となりて、あたかも果実がだんだんに長養

するがごとし。これすなわち各自の人格を形成する元素なり。もし悪人にして地獄の性格

となる者の核は、枳の如き果を成熟するために、日々、悪業増上の働きを積んで地獄の種子

を造り、それが熟すれば身は人間に在りながら、すでに地獄の業識が熟するなり。もし

念仏三昧をもって業事成弁(往生の因が完成して必ず極楽浄土に生ずる事が決定)するときは、

身はこの土(娑婆世界)に在りながら、すでに弥陀の種子が、その人の心霊に成熟するを

もってのゆえに、菩薩聖衆といわれ、その中心よりおこる三業(身・口・意)の所作は、

悉く仏子・仏心・仏行となるなり。」

「… 念。念とはすでに如来心中の自我なれば、如来の泉源より流れ出るわが心念である

故に、仏心すなわち自心、自心すなわち仏心、念念仏心と相応す。いな仏心が自己の心を

通じて発す。

『さざなみに すがたはちぢに くだけても 月の光は 映らぬはなし』」

「(念覚支とは) 仏が自分の心に入った状態。仏心仏行、如来心中の自我、度我行を

行じます。」

◎唯一の如来は釈尊だけである

この念仏三昧、念仏七覚支の「念覚支」まで到達すると、「入の境界」となる。

三身四智三昧(大乗仏陀釈迦の三昧)という境地に入る。無生法忍といい、不還という

境界に至る。古くは、浄土教の善導大師、法然上人、甲斐の徳本行者、弁栄聖者は、

皆な、大乗仏陀釈迦の三昧に悟入しておられた。弁栄聖者によれば、これにも浅い深いが

あって、究極の一切智を得て居られたのは、この地球上ではお釈迦様唯一人であると。

「念念」とは、仏心を見たてまつること。その仏心で行ないを為す、仏行を為すことで

ある。「延命十句観音経」でも、ここのところを指して(直指)しているわけである。

弁栄聖者は「念念」とは『見佛』であると言われている。

禅で言うたら『見性』だ。

釈尊の「念覚支」とは、『見佛・見性』の修行であるということです。

摩訶般若波羅蜜多で、照見(正見)して、己が阿耨多羅三藐三菩提心(究極の菩提心)を

『見佛・見性』する。なんといっても、「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多…」ですから、

自分が観自在菩薩に成る。そのためには、観世音大菩薩に祈る。

ここです、大切なのは。では「延命十句観音経」をお唱えしましょう。

延命十句観音経ー
観世音  南無佛
与佛有因  与佛有縁
佛法僧縁  常楽我浄
朝念観世音  暮念観世音
念念従心起  念念不離心ー

では、

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