まう。そしてそこから、究極の境地、ニルヴァーナヘの道がひらかれるのである。
この解脱門と求聞持門とのかかわりについては、仏陀が、仏教の修行にぜったい欠かしてはならぬ
と教示された「三学」から説明していかねばならない。
「三学Lとはなにか? (三学乱頴鮪丿昌)
戒学・定学・慧学
三学とは、さきにも少しふれたが、「戒学・定学・慧学」の三つをいうのである。
まず戒学であるが、これは、修道の中でとくに情意的習慣的な悪業を矯正して、よい方に向かわし
めるものである。戒(RQ)という言葉には、習性・習慣の意味があるというが、つまり、善にせよ、
悪にせよ、習慣的行為をすべて「戒Lというのである。しかし、ふつうには、わるい面にたいしては
「破戒」(芭?1罵庄毀戒)とか「悪戒」(IS回)というように呼ばれ、単に「戒Lというときには、
よい習慣的行為をさすのである。だから、一般的な意味では、戒とは道徳的行為ということになる。
Rpは英語のmoralとかethicにあたるものだからである。
実践的な修行の面で戒金定義するとしたら、それは定のための「身心・環境の調整と制御Lという
ことになるであろう。
ではなぜそれをするのかというと、「定Lと「慧Lを獲得するためである。
第四章
定とは、「等持」とも「三昧」とも訳されるように、瞑想して精神を集中し統一して散
乱しないように等しく持ち、専心した三昧の状態におくことである。ではなぜ定か必要であるかというと、もちろん、どんなことでも統一し集中したこころを以てしなければ、完全に遂行するということができないからである。
ところで、精神を集中し統一するためになにが一番必要かということ、まず、それをするにあたって、その人の心身と環境がそれを完全に果たせるように、よく調整されているということであろう。
それがさまたげられるようなこと、たとえば、睡眠不足とか、過労とか、過食暴飲とか、病気、負傷、あるいはノイローゼなどで身体の調子をわるくしていたり、なにか不道徳なことや不義理のことをして心配ごとや不安なことがあって精神が安定しなかったり、また、家庭その他の環境上、非常に不安定な状態におかれたりしていると、当然、精神を集中したり統一したりすることは困難である。
もちろん、そういった不利な状態を克服して高い境地に入ることこそが大切なのであるが、最初からそういう状態であっては進歩することができない。まず、そういう悪条件をとりのぞくところから
はじめなければならない。仏教的にいえば、悪因縁からの解脱を考えねばならないのる。
要するに、戒というのは、必ずしも倫理道徳的な善のみをいうのではなく、よく習慣づけられた健全な肉体および安定した精神と環境、それをいうのである。戒がととのってはじめて定が順調かつ完全に得られるのである。
つぎに「定Lであるが、定は、定それ自体が目的ではないのである。ここをまちがえないようにしなくてはならない。定すなわち瞑想であるが、瞑想というとただ単にだまってものを考えたりなにかの目標に精神を集中したりしさえすればよいことのように考え、そう指導しているひとびとが多いようだが、そうではないのである。仏教における定(ふかい瞑想)の目的は、それによって高度で正しい慧(智慧)を得ることなのである。
つまり、それはこういうことなのだ。
仏陀当時の外教(仏教以外の教え)の人々の中には、定をもって修行の究極の目標とし、定を得さえすればそれがつまりニルヴァーナの理想境に達したものであるとする、いわゆる「主定主義者Lが少なくなかった。いや、瞑想を以て主たる修行法とする人たちは、ほとんどがそうであったといって
いいであろう。仏陀が修行時代に師事したアーラーラーカーラーマおよびウ″ダカーラーマプごの二人の仙人(ぞ)や、また、六十二見のなかにある初禅ないし第四禅の禅定をもってそれがそのままニルヴァーナであるとする主張など、それである。
しかし、禅定は、定に入って精神統一が得られている間だけは、いっさいの不安や苦悩がなくなっても、いったん定の統一状態から出ると、やはり一般人とおなじく不安や苦悩が起こるのである。したがって、「主定主義者」によれば、不安苦悩のまったくない絶対の理想境は、肉体のほろびた死後でなければ得られないことになってしまう。しかし、死後においてはじめて理想が達せられるという
ことでは、結局、それは永遠に達せられないということにほかならない。われわれが理想を達成し、理想的な人生を持つということは、この世においてでなければ意味がない。死後の来世においてはじ
めて理想を達成するというのでは、それは逃避かあきらめでしかない。この世において自分も周囲のひとびとも、すべてが理想の社会を形成していくということこそ、宗教の目的でなくてはならないはずである。それにまた、よしんば一人の主定主義者がすべての不安苦悩を絶滅することに成功したとしても、それだけでは、それはその人だけの問題であり、それがどれだけ周囲に影響を及ぼすことか、疑問である。
仏陀が、二人の仙人のすぐれた禅定をも、いまだ十分ではないとして、かれらのもとを去られたのも、このような主定主義者の欠陥をさとられたからにほかならないのである。
仏陀によってさとられた理想の状態は、定という特別な精神統一が得られている間だけでなく、日常ふつうの生活においてもぜったいに不安苦悩のないものでなければならないのである。そうしてそ
れがそのままそのひとのはたらきとなって、そのひとの日常活動の上に発揮されるものでなければならない。では、それはどのようなものであるか? 仏陀はそれを「慧Lすなわち智慧によるはたらきであるとされたのである。
ではその智慧とはどんなものか?
それはまずこの世の中の実相、すなわち存在の理法である縁起や四諦の法を如実にさとり、その上に立っていかなる場合にも窮することなく自由自在に活動して、高い理想をの世の中に現実に実現していく「力Lである。実に智慧とは力でなければならぬのである。すなわち、その智慧は「三明」
という三種の智慧から成り、そこから六種の超人的な力が発揮されるという。三明六通について解説水野弘元博士は、その著『原始仏教』のなかで、三明六通につき、つぎのように述べておられる。
『今日の合理主義的な考え方からすれば、仏陀及び原始仏教が、三明六通というような奇蹟的神通力を説いたことは、いかにも仏教の合理性を没却したものであり、恐らく原始仏教では説かれてなかったものを、部派仏教あたりで新たに加えられた鼠入の不純物にすぎないと考える学者もあるのであるけれども、然し仏教を単なる科学や倫理や修養ではなくして、宗教であると考える
限り、このような神通奇蹟の存在は、仏教の宗教的要素として極めて価値あり、且つ必要なものである。
仏教は二千五百年の昔において、今日の科学時代にも劣らない合理性や倫理性を有したのであるが、然し単なる合理性や倫理性だけでは、それは宗教とはなり得ないであ。』
宗教であるかぎり、自らの実践だけではなく、他をも。絶対信”に導き入れなければならない。
『これを他の人々に信ぜしめ、他を教化救済する利他的な宗教面は、三明六通というような神通奇蹟によって得られるのである。宗教が多くの人々に信ぜられ、広く弘まって行くのは、神通奇蹟による場合が極めて多い。感応道交という宗教的奇蹟によって、盲{の魂の救済があるからである。神通奇蹟はほとんどすべての宗教が用いる教化の手段であり、今日の新興宗教でも、そこにはいかがわしい迷信的要素をもったものもあるかも知れないが、とにかく常人に得られない不思議な霊力が行使される場合が少なくない。仏教もその例外ではなかった。釈尊に関する神通奇蹟には、甚だしい誇張や後世の創作も混じているのであろうが、それでも仏陀に具わっていた三変神変通ともいう。六通のなかで、この神足通だけは、反自然的な不思議な奇蹟力をふくんでいるようである。それは、空中を飛行したり、水上を歩いたり、六通というような智慧の力はこれを否定することは出来ない。また仏教各宗の祖師といわれる、ような人々も、多かれ少なかれ、常人を超えた不思議の力をもった人であったに相違ない』
三明六通についての適正な論評であろうと思われる。
それでは、仏教で神通奇蹟といわれる三明六通とはどのようなものであろうか?
神 足 通
大地のなかにもぐったり、壁や岩を突き抜いたり、身体を大きくしたり小さくしたり、一身を多身としたり、多身を一身としたり、すがたを消してしまったりするような、不可思議な力であるとされて
いる。『長阿含経』には、仏陀が、マガダ国から北方ワズンー国に向かわれる際、満水のガンジス河を、多くの弟子たちとともに、舟や筏を用いることなく、飛行して渡ったと述べられている。また、パーリ律大品受戒篇のなかに、耶舎の父がかれをたずねて仏陀のもとに来たとき、仏陀は耶舎を父に
見えないように姿を消して父のために説法したとしるされている。
いずれもとうてい信じがたく思われる奇蹟であるが、しかし、やや後代の『ヨーガースートラ』などにも、ヨーガの習熟者が自在に身をかくしたり、身体を大きくしたり小さくしたり、また壁や岩を突き抜いて向こうがわに身体を移動してしまう力の獲得のことが書かれている。現代のわれわれができないからといってぜったいにだれにもできないとはいえないのであって、。絶対定”に入った聖者の身心はすでに人間ではない存在になっており、三次元の世界に関路している凡夫にはとうていうかが
い知ることのできない世界があるのである。凡夫のわれわれは、できるとかできないとかなどというべきではなく、ただすなおにうけとっておくべき次元であろう。
ふつうの耳では聞くことのできないような遠い声、または微小な声を聞く異常
天 耳 通 な聴力をさす。
わたくしは、密教の求聞持聡明法の成就に際して得られる通力(能力)の一つが、この天耳通とふかい関連があるものと確信している。それは、求聞持法の修行により、ふつうのひとの耳では聞くことのできない低い振動数の音を聞きわけることができるようになるのである。もちろん、自分でもその振動数の声で言葉を発することができるのであるが、ふつうの人の耳ではその声を聞くことができないのである。この能力を待った者同士の間では、多くの人の前で、それらの人たちに聞かれずに、会話を交わすことができるのである。くわしいことは、拙著(角川選書『密教入門・求間持法の秘密』およ
び、雑誌rTne lxleditatlonJ創刊号所載。プエブロ族の少年乙を読んでいただきたい。
また、この能力は、単に微細な声を聞くことだけではなく、声の意味内容をふかく洞察することをも意味するのである。世の中の評判や民衆の声を聞いて、社会の動向をいちはやく事前に察知してしまうことなども、それである。そして、こういう状勢判断の智慧は、ふつうの社会人にとっても必要であろうが、ことに、社会をリードし、民衆を救済しなければならぬ宗教家にとっては、最も必要欠くべからざる能力というべきであろう。修行によってすでに超人的な能力を持つ聖者が、そういう方
面にその力を発揮したとき、天耳通としか表現できぬ非凡な神通力となってあらわれるのである。
他 ひと 通 他人の心を知る力である。他人の態度や言葉や顔つきなどで相手の考えなり気持なりを察知してしまうことは、ふつう一般でもおこなわれている。が、これは、相手と会わず、相手に接触しなくても、相手の性格・性質はもちろん、その考えていることや思っていることをすべて知ってしまう力である。遠距離にいる人でも、じっと定に入ってその人の顔を思い浮かべるだけで、その人がいまなにを考えているか、なにをしようと思っているかくらいのことを知ることができなければ、聖者とはいえないのである。
宿 命 通 自分および他人の過去の運命や状態を知る智慧である。経典では、この世に生まれる前の、過去幾代におけるすべての運命を知る智慧であるとされている。
『われは五百劫の時期を一夜の間に追憶した』(長老の詩165)
あるいは、『三十一劫以前の自分を想い起こした』(長老の詩217)
などと聖典に述べられている。定に入った聖者は、自分、他人の別なく、前生のいかなる時期における状態をも知る能力を持つのである。
天 眼 通 有情死生通ともいう。人びとの未来を察知する智慧のことである。
仏陀が、在家や出家の弟子たちの未来の運命についていろいろ予言されたこと
を述べた経典があるが、それはすべて天眼通によるものである。聖者が定に入ってこの通力を発揮すると、その者の未来がどのような展開をするか、すべて鏡にかけるように(現代だったらテレビで見るように、と言おうか)知ることができるのである。『長阿含経』では、弟子たちが自分の死後の運命についてあまりにしばしば仏陀に質問するので、仏陀は、これこれの修行をなした者はこれこれの結果を死後に得ることができるということを法則的に説いて、これを「法鏡Lとなし、今後は一々自分に訊くことなく、この法鏡に照らしてみて、各自に察知せよといわれたと述べている。
漏 通 尽
すべての「漏Lをことごとく尽滅してしまう智慧のことである。
では、「漏Lとはなにか? それは、漏れ出るもの、のことである。どこから
漏れ出るものなのか? こころの奥ふかい底から、ひと知れず漏れ出てくるものである。そんなもの
があるのか? ある。つまり、それは「煩悩Lなのである。無意識の意識層の奥底から漏れ出てきて、あなたを強力に動かすもの、煩悩、である。実に「漏Lとは煩悩の異名の一つなのである。
その煩悩を完全に消滅させてしまう智慧がこの漏尽通である。
すなわちこの智慧によって「業Lが全く消え去り、修行者はニルヴァーナに入るのである。したがって、この智慧は、仏教修行者の究極の智慧であるとされている。そうしてそれはどこまでも仏教修行者のみが到達できる境地であり、仏教修行によってのみ獲得できる智慧であるとされているのである。
前に述べた五種の神通奇蹟の力は、たしかに非凡な力ではあるけれども、それは仏教以外の人びとでも、また鬼神や畜類に入る類の者でも獲得できない力ではない。しかし、漏尽通だけは仏教独特のものであって、仏教修行により、諸法の実相、すなわち、縁起や四諦の理法を如実に身につけ、さらに仏教修行独特の心身錬磨の結果、はじめて得られる通力であるとされるのである。
前の五種の神通力は、世人を教化指導する者にとってすべて必要なものであり、最高のさとりを得
た聖者阿羅漢が必ず具備しているとされるのは当然のことである。しかしそれは要するに指導者として必要な智慧であるに過ぎず、それのみでニルヴァーナに入るということはできない。要するに修行の過程において自然に身についた力を世人救済のために活用した方便的智慧である。仏教修行者の目ざすところは、どこまでもこの漏尽智の獲得でなければならないのである。と、仏陀はくりかえしつよく教示されておられるのである。
それでは、そこにいたる一つの道を解説しよう。
