仏教は神々の存在を否定しない(神々は、雨や勝利をもたらすことのできる強力な存在と説明されている)が、苦しみは渇愛から生じるという法則には何の影響力も持たない。もし、ある人の心があらゆる渇愛と無縁であれば、どんな神もその人を苦悩に陥れることはできない。逆に、ある人の心にいったん渇愛が生じたら、宇宙の神々が全員揃っても、その人を苦しみから救うことはできない。 とはいえ、一神教と非常によく似て、仏教のような近代以前の自然法則の宗教は、神々の崇拝を完全に捨て去ることはついになかった。仏教は、経済的繁栄や政治的権力のような途中の地点ではなく、苦しみからの完全な解放という究極の目的地を目指すように人々を促した。だが、仏教徒の九九パーセントは涅槃の境地に達しなかったし、いつか来世でそこに達しようと望んでも、現世の生活のほとんどを平凡な目標の達成に捧げた。そこで彼らは、インドではヒンドゥー教の神々、チベットではボン教の神々、日本では神道の神々というふうに、多様な神を崇拝し続けた。 そのうえ、時がたつうちに、いくつかの仏教の宗派は、さまざまな仏や菩薩を生み出した。これらは、苦しみから
の完全な解脱を達成する能力を持つ人間や、人間以外の存在なのだが、依然として苦悩の環に取りこめられている無数の存在を救うために、憐みからその解脱を慎んでいるのだ。多くの仏教徒は、神々を崇拝する代わりに、悟りを開いたこれらの仏や菩薩を崇拝するようになり、涅槃に入るだけではなく俗世の問題を処理するのも助けてくれるよう祈り始めた。そのため東アジア各地で、祈りや色鮮やかな花、芳しいお香、米やお菓子の供え物と引き換えに、雨を降らしたり、疫病を抑えたり、果ては血なまぐさい戦争に勝ったりさえするために時間を費やす仏や菩薩が多く見られる。人間の崇拝 過去三〇〇年間は、宗教がしだいに重要性を失っていく、世俗主義の高まりの時代として描かれることが多い。もし、有神論の宗教のことを言っているのなら、それはおおむね正しい。だが、自然法則の宗教も考慮に入れれば、近代は強烈な宗教的熱情や前例のない宣教活動、史上最も残虐な戦争の時代ということになる。近代には、自由主義や共産主義、資本主義、国民主義、ナチズムといった、自然法則の新宗教が多数台頭してきた。これらの主義は宗教と呼ばれることを好まず、自らをイデオロギーと称する。だが、これはただの言葉の綾にすぎない。もし宗教が、超人間的な秩序の信奉に基づく人間の規範や価値観の体系であるとすれば、ソヴィエト連邦の共産主義は、イスラム教と比べて何ら遜色のない宗教だった。