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瞑想に入る前の五つの調和法

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摩訶止観の瞑想法

想法である。

本書では、二種類の瞑想法を解説する。

第一は、通常の瞑想法で、禅宗や、密教系仏教などでひろくおこなわれている瞑 想法である。

第二は、阿含仏教独特の特殊な瞑想法である。

まず第一の瞑想法から解説しよう。

天台系の「摩訶止観」である。

これは、さきにのべた天台智顗の『天台小止観』一巻をもとにしてつくられた瞑

摩訶というのは、大きな偉大な”という意味。 止は、さきにのべたように、 サンスクリット語の Samatha の訳で、心を平静にたもって一つの対象に集中する こと。観は、Vipaśyanā の訳で、 止によって得た正しい智慧により、ものごとを正

しく観察理解することである。 要するに瞑想の根本技法である。 止と観をさまざま 駆使することにより、神秘的な飛躍・転換の体験が得られるのである。

以下、『天台小止観』一巻にもとづいて、解説しよう。

あんみつ

この本は、まことに綿密に書かれていて、たとえば、止観を修していれば身心が 調和して健康であるはずだが、ときに、かえって病患を動かす (持病などが表面に 出てくることがある。 その時には、早くこれをなおさなければいけないと、止観 による治療法までのべている。

瞑想を習うためには最もよい指導書と思われるので、これを紹介しよう。 なお、 原本は漢文なので、関口真大博士の口語訳によったことをおことわりしておく。 (観を修することによって、かえって病患を動かすことがある、ということにつ いて、これは非常に重大なことなので、あとでさらにふれることにする)

瞑想に入る前の五つの調和法

まず五法を調えよとある。

 

五法とは、一に飲食を調節すること。 二に睡眠を調節すること。 三には身を 調えること。四に気息を調えること。 五には心を調えることである。

第一に、食を調えるというのはつぎのようなことである。

食事はほんらいからだをたすけ正しい道にすすましめるためのものである。 それなのに、もし食べすぎているような状態でいると、気はあせり、からだは だるく、心がとぎれがちで、座禅をしても心は安らかになりにくい。

だが、もし食べることが少なすぎて足りないと、からだは疲れ、心は呆け、 思うところも考えることもしっかりとしない。 この二つは、どちらも禅定を得 る道にはならない。

しげきぶっ

また、もしけがれたものやよごれたものを食べていると、ひとの心をく し、迷いやすくする。 もしからだによくない刺激物を食べていると、かねてか の病が動いてくるし 持病が出ること)、からだの調子も悪くなる。だから 禅定を修習しようとするなら、そのはじめにぜひとも深くこれらをつつしまな ければならない。

くらやみ

第二に、睡眠を調えるというのは、眠とはこれ無明が心に覆いかぶさるので あるから、これをほしいままにしてはならないということだ。

眠ることが必要度を過ぎて多いときは、それだけ仏法を修習する時間が 廃されるだけでなく、努力の心も失われがちで、しかも心をくらくしい心 沈没させる。まさに人生が無常であることをさとり、睡眠をよく調伏して、

気分を清白に、心を明るくきよからしめるがよい。

第三には、身を調え、第四には息を調え、第五には心を調えるのであるが、 この三つの条件は、まさに合わせて用うべきなので、べつべつに説明すること はできない。以下これについて述べてみよう。

第一に身を調えるとは、われわれが正しい瞑想をするためには、からだを正 しく調えなければならないということである。

瞑想をはじめる前から、歩くときにも立ち止まるときにも、動くときも静か にしているときも、なにかをしているときでも、いちいちがみな注意深く綿密 でなければいけない。

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