その秘密が『三供養品』に説かれています。仏教の原点ともいえるこのお経をさっそく読んで
聞如是。一時仏在舎衛国祇樹給孤独
園。爾時世尊告阿難。有三善根。不
可窮尽。漸至涅槃界。云何為三。所
謂於如来所而種功徳。此善根不可窮
尽。於正法。而種功徳。此善根不可
窮尽。於聖衆而種功徳。此善根不可
窮尽。是謂阿難。此三善根不可窮尽
得至涅槃界。是故阿難。当求方便獲
此不可窮尽之福。如是阿難。当作是
学。爾時阿難聞仏所説。歓喜奉行
聞くこと是の如し。一時、仏、舎衛国祇樹給孤独園に在
しき。爾の時世尊、阿難に告げたまわく、「三善根(三
福遺)有り、窮尽す可からずして、漸く涅槃界に至る。
云何が三ど為すや。所謂如来の所に於て功徳を種う。此
の善根窮尽す可からず。正法に於て功徳を種う。此の
善根窮尽す可からず。聖衆に於て功徳を種う。此の善
根窮尽す可からず。是れを阿難、此の三善根は窮尽す可
か6 ず、涅槃界に至ることを得と謂うなり。是の故に阿
難、当に方便を求めて、此の窮尽す可からずの福を獲べ
し。是の如く阿難、当に是の学を作すべし」と。爾の時
阿難、仏の所説を聞きて歓喜奉行しぬ。
このように聞きました。仏さまがコーサラ国の祇園精舎にご滞在の時のことです。ある日、世尊は、阿難にこのようにお告げになられました。
「三善根(三福道)というものがありますが、その功徳は無限であり、涅槃界に至ることができ
るものです。なにをもって三つの善根(福)とするのでしょうか。(第一に)いわゆる如来の所に
おいて功徳を種える、この善根(福)の功徳は無限です。(第二に)正法において功徳を種える、
この善根(福)の功徳は無限です。(第三に)聖衆において功徳を種える、この善根(福)の功徳
は無限です。阿難よ、この三善根(三福道)の功徳は無限であり、涅槃界に入ることができるの
です。したがって阿難よ、三善根(三福道)を修行して、この無限の福を得なさい。このように
阿難よ、この三善根(三福道)を学びなさい」
この教えを受けて、阿難は心より喜び、修行に励みました。
三善根を三福道と呼んでいます。このことについて説明し
ます。
『仏教語大辞典』(中村元著、東京書籍)で「三善根」を引くと、
【三善根】さんぜんごん 無貪善根・無限善根・無療善根の三根。一切の善法がこの三つか
ら生まれるからである。それらは具体的には施・慈・慧となって現われる。三毒の対。
と書かれています。しかし、この『三供養品』に説かれる三善根は、その内容がまったく異な
ります。それなのに、これを三善根という名称のままで弟子たちに教えるのは、非常な誤解を生むもとだとわたくしは考えました。
それでは、この修行法は、どのように呼ぶべきなのでしょうか?
経文中に、
「此の窮尽す可からざるの福を獲べし」
とあるように、この修行法は無尽蔵の福を得る三つの道です。したがって、わたくしはこれを「三福道」と命名しました。この名称ならば無貪善根・無職善根・無療善根の三善根と混同する
ことはありません。
三善根を「三福道」と変えて読誦しているのです。
さて、右の経文を一読すれば、涅槃界に至るためには三善根(三福道)が必要なのだ、という
ことをお釈迦さまが説かれているのが分かると思います。
涅槃界とはなんでしょうか?
普通は涅槃の境地・境界の意味で使われます(ただし本経では違う意味を持っておりますが、それについては後述します)。『五戒品』でも触れたように(本書三七頁参照)、涅槃とはサンスクリット語でニルヴァーナといいますが、生死を超越した境界、完全解脱の境地です。完全解説とは業と因縁から完全に解放された状態です。
わたくしたちは業と因縁の塊です。業と因縁によって輪廻転生を続けています。輪廻転生とは生死の流転がやまず、無限に生死の流転を繰り返すことです。まるで車の輪が廻るように絶え間なく、生と死を繰り返していくので輪廻転生といいます。また、生死流転、生々流転とも呼ばれます。直線ならば、いつかは終点にたどり着くでしょう。ところが輪というのは終わりがありません。終点がないわけです。輪が廻るから無限なのです。ただただ、グルグルグルグルと生死を繰り返すのです。
そういいますと、
「はてしなく廻ってもいいんじゃないですか。いろいろなものに生まれ変わって、さまざまな人生を味わうことができるわけでしょう。男になったり、女になったり、偉くなったりというよう
に、いろいろな人生を味わうことができるのだから、むしろ楽しいじゃないですか」そういう人もいるかもしれません。一度限りの人生ではなく、輪廻転生する方が楽しいという人もいるでしょう。
ところが、輪廻転生は決して楽しいことではありません。むしろ苦しいことです。輪廻転生が苦しいことだから、お釈迦さまは輪廻からの解脱を願って修行したわけです。
なぜ、輪廻転生は苦である、とお釈迦さまは説かれるのでしょうか?
それを理解するためには、まず、仏教の人生観を知る必要があります。
仏教では、まず、人生イコール苦であると見ます。人生は、すなわち苦しみであると考えるのです。わたくしもそのとおりだと思います。たしかに人生には楽しみもあります。けれども、一生のうちに体験する苦と楽を一つずつ相殺していくならば、苦しみの方が多く残るでしょう。にある苦しみの中に、ときどき喜びがあるというようなものではありませんか?
さらには、その喜びが、次なる苦しみの原因になることが多いのです。
仏執でロ人問の々[しみな分類してヽ匯即刻帽と呼んでおります。四苦とは人間の基本的な苦しみです。さらに四苦に付随した苦しみが四つ出てきます。これを最初の四苦と合わせて八苦といいます。通常はそれらを総称して四苦八苦というわけです。
仏教の基本教義として大切なことですから、もう一度復習しましょう。
まず、四苦というのは、生・老・病・死の苦です。これが人間の基本的な苦しみです。さらにその四苦に付随した苦しみが出てきます。それが愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦の四つです。これらの苦を総称して、四苦八苦といいます。こうしてみると、人間というのは本当に苦の塊です。
四苦の第一は生の苦です。実際に自分の人生を振り返ってみればよく分かると思いますが、生きていくこと自体が苦しみです。生まれたこと自体が苦しみです。生きているからこそ楽しいこともあるけれども、その楽しいことが次の瞬間に苦の種となっています。ですから生は苦であるというしかありません。
第二は老の苦しみです。生きている以上は、だれもが年をとります。必ず老いていきます。これもやはり愉快なことではありません。老いた人ならではの喜びもありましょう。けれども老いれば体力・気力・智力も落ちていくわけですから、「老い」は決して愉快なことではありません。
朝起きて、ひげを剃るために鏡を見ると、
「ああ、我、老いたり」
という感をしばしば抱きます。自分では若い気でいても、若い時のような強い体力を発揮することはどうしてもできません。老いる苦しみというものは、だれしも味わうものです。
第三は病の苦です。生きているかぎりは、病気をすることもあります。だれが考えても、病気は楽しいものではありません。病気によって得るものもありますが、相対的に見れば病気は苦しいものです。
第四は死の苦しみです。人間だれしも死を迎えます。悟りきった人でないかぎり、死は寂しいし、つらいし、苦しいものです。
以上が四苦です。この四苦に愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦の四つを加えて八苦になります。
愛別離苦とは、自分が愛しているものと離別しなければならない苦しみです。どれほど愛し合っている恋人同士、あるいは夫婦、親子、兄弟、友人であっても、いつかは離別しなければなりません。生き別れもあれば死に別れもあります。いずれにしても愛する人と離別することは、本当に苦しく、つらいことですが、絶対に避けられません。
しかも、それは人間関係だけではありません。愛するものとは、必ずしも人間だけではありまけん。たとえば、お金をこよなく愛している人がいます。
『おわはわ金だりが恋人だ。ほかにはなにもいらない』
また、地位を愛している人もいます。内閣総理大臣、会社の社長、重役、それぞれのポストをこよなく愛しています。
けれども、お金であろうと、地位であろうと、いつかはそれらとおさらばしなければならない時が必ずやってきます。いくら、
「いやだ!」
と叫んでみたところで、どうなるものでもないわけです。
次の怨憎会苦とは、怨んだり憎んだりしている相手と会わなければならない苦しみですが、これもまた愛別離苦に勝るとも劣らない苦しみです。
「憎んだり怨んだりしているような、それほど嫌なヤッならば、会わなきゃいいじゃないか」そういうかもしれませんが、因縁によって離れることができなくなっているから、非常に苦し
いのです。その一つが「夫婦縁障害の因縁」です。最初は愛し合って結婚したとしても、怨憎会苦のもとになる「夫婦縁障害の因縁」があれば、夫婦お互いが憎しみ合うことになります。ま
るで親の仇のように憎み合って、朝から晩までけんかぽかりしています。
「それならば、別れてしまえばいいじゃないですか」
理屈ではそのとおりです。ところが、それが別れられないのです。いろいろな人間関係・経済的理由、その他さまざまな事情があって、とても離婚できません。これが因縁の恐ろしいところです。しかたがないから我慢をしようと思うのだけれども、我慢しきれなくて、毎日けんかを繰り返すのですから、日々地獄です。

その秘密が『三供養品』に説かれています。仏教の原点ともいえるこのお経をさっそく読んで
聞如是。一時仏在舎衛国祇樹給孤独
園。爾時世尊告阿難。有三善根。不
可窮尽。漸至涅槃界。云何為三。所
謂於如来所而種功徳。此善根不可窮
尽。於正法。而種功徳。此善根不可
窮尽。於聖衆而種功徳。此善根不可
窮尽。是謂阿難。此三善根不可窮尽
得至涅槃界。是故阿難。当求方便獲
此不可窮尽之福。如是阿難。当作是
学。爾時阿難聞仏所説。歓喜奉行
聞くこと是の如し。一時、仏、舎衛国祇樹給孤独園に在
しき。爾の時世尊、阿難に告げたまわく、「三善根(三
福遺)有り、窮尽す可からずして、漸く涅槃界に至る。
云何が三ど為すや。所謂如来の所に於て功徳を種う。此
の善根窮尽す可からず。正法に於て功徳を種う。此の
善根窮尽す可からず。聖衆に於て功徳を種う。此の善
根窮尽す可からず。是れを阿難、此の三善根は窮尽す可
か6 ず、涅槃界に至ることを得と謂うなり。是の故に阿
難、当に方便を求めて、此の窮尽す可からずの福を獲べ
し。是の如く阿難、当に是の学を作すべし」と。爾の時
阿難、仏の所説を聞きて歓喜奉行しぬ。
このように聞きました。仏さまがコーサラ国の祇園精舎にご滞在の時のことです。ある日、世尊は、阿難にこのようにお告げになられました。
「三善根(三福道)というものがありますが、その功徳は無限であり、涅槃界に至ることができ
るものです。なにをもって三つの善根(福)とするのでしょうか。(第一に)いわゆる如来の所に
おいて功徳を種える、この善根(福)の功徳は無限です。(第二に)正法において功徳を種える、
この善根(福)の功徳は無限です。(第三に)聖衆において功徳を種える、この善根(福)の功徳
は無限です。阿難よ、この三善根(三福道)の功徳は無限であり、涅槃界に入ることができるの
です。したがって阿難よ、三善根(三福道)を修行して、この無限の福を得なさい。このように
阿難よ、この三善根(三福道)を学びなさい」
この教えを受けて、阿難は心より喜び、修行に励みました。
三善根を三福道と呼んでいます。このことについて説明し
ます。
『仏教語大辞典』(中村元著、東京書籍)で「三善根」を引くと、
【三善根】さんぜんごん 無貪善根・無限善根・無療善根の三根。一切の善法がこの三つから生まれるからである。それらは具体的には施・慈・慧となって現われる。三毒の対。と書かれています。しかし、この『三供養品』に説かれる三善根は、その内容がまったく異なります。それなのに、これを三善根という名称のままで弟子たちに教えるのは、非常な誤解を生むもとだとわたくしは考えました。
それでは、この修行法は、どのように呼ぶべきなのでしょうか?
経文中に、
「此の窮尽す可からざるの福を獲べし」
とあるように、この修行法は無尽蔵の福を得る三つの道です。したがって、わたくしはこれを「三福道」と命名しました。この名称ならば無貪善根・無職善根・無療善根の三善根と混同する
ことはありません。
三善根を「三福道」と変えて読誦しているのです。
さて、右の経文を一読すれば、涅槃界に至るためには三善根(三福道)が必要なのだ、という
ことをお釈迦さまが説かれているのが分かると思います。
涅槃界とはなんでしょうか?
普通は涅槃の境地・境界の意味で使われます(ただし本経では違う意味を持っておりますが、それについては後述します)。『五戒品』でも触れたように(本書三七頁参照)、涅槃とはサンスクリット語でニルヴァーナといいますが、生死を超越した境界、完全解脱の境地です。完全解説とは業と因縁から完全に解放された状態です。
わたくしたちは業と因縁の塊です。業と因縁によって輪廻転生を続けています。輪廻転生とは生死の流転がやまず、無限に生死の流転を繰り返すことです。まるで車の輪が廻るように絶え間なく、生と死を繰り返していくので輪廻転生といいます。また、生死流転、生々流転とも呼ばれます。直線ならば、いつかは終点にたどり着くでしょう。ところが輪というのは終わりがありません。終点がないわけです。輪が廻るから無限なのです。ただただ、グルグルグルグルと生死を繰り返すのです。