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霊性とはなにか 

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1. 「釈尊の深遠なる叡智:霊性と過去生の謎」
2. 「第三の目で見る人間の移り変わり:ショウジョウバエと釈尊の比喩」
3. 「無明からの覚醒:釈尊の成仏法と人間の真の進歩」

 

 

1. 釈尊は瞑想によって、前世や未来の生命形態を透視し、成仏法を修行することでその真実を理解することができると説いている。
2. 人の生命は一つの生涯だけで終わるのではなく、前生や後有(未来の人生)までを含む輪廻として続くと述べている。
3. 釈尊が得た三つの智慧:前生の光景を知る第一の智慧、衆生の宿業を見る第二の智慧、四諦を知り解放される第三の智慧。
4. 人が霊的に進歩し発展するためには、「来所を知り、往所を知る」霊性の智慧が必要である。
5. 「無明」には完全な無知と真っ暗闇の状態を指し、釈尊の「第三の目」はこの無明を超えて真実を見通す力を象徴している。
6. 釈尊の十生や二十生を見通す力を持つことに対し、著者はショウジョウバエの短い世代交代を例に挙げ、釈尊の叡智が原因と結果を短時間で知ることに似ていると指摘している。

 

 

 

霊性とはなにか

 

 わたくしは、人間は霊的存在だと考えている。

 なぜならば、人間が、特殊な生命形態を持っているからである。

 特殊な生命形態とはどういうものか?

 釈尊の「成仏法」を修行すると、それがよくわかるようになるのであるが、ここは、瞑想によって悟りを完成し、仏陀になられた大霊覚者ゴータマーブッダ、釈尊の語るところによって、それを知っていただこう。

 中阿含経という釈尊直説の経典で、釈尊はこう語るのである。

中阿含経「黄蘆園経」

 しょうじょう   ぇ   ぼん   にゅうなん    よ じゅう

……我已に是の如き定心を得、清浄にして機無く煩無く柔軟にして善く住

し不動心を得、憶宿命智通を覚りて作証しぬ。我行有り相貌有り、本

無量の昔経歴せる所を憶うに、謂く一生・二生・百生・千生・成劫・敗

劫・無量の成敗劫なり。彼の衆生某と名づけ、彼昔更に歴ぬ。我曾て彼に生じ、是の如き姓、是の如き字にして、是の如く生じ是の如く飲食し、是の如く苦楽を受け、是の如く長寿し是の如く久しく住し是の如く寿詑り、此に死して彼に生じ、彼に死して此に生じ、我生じて此に在り、是の如き姓、是の如き字にして是の如く生じ是の如く飲食し、是の如く苦楽を受け、是の如く長寿し是の如く久しく住し是の如く寿詑りぬと。これを我その時初夜にこの第一明達を得と謂い、本放逸無きを以て遠離に楽住し、修行し精勤し、謂く無智滅して而も智生じ、闇壊れて而も明成り、無明滅して而も明生じ、謂く憶宿命智を作証し明達しぬ。また次に梵志、我已に是の如き定心を得、清浄にして機無く煩無く、柔軟にして善く住し不動心を得、生死智通を学び作証し、我清浄の天眼の人〔眼〕を出過せるを以て、この衆生の死時生時、好色悪色、妙と不妙と、善処及び不善処に往来するを見、この衆生の所作業に随いてその如真を見、若しこの衆生身悪〔行〕、口・意悪行を成就し聖人を誹誇し、邪見にして邪見業を成就すれば、彼これに因縁して身壊れ、命終りて必ず悪処に至り地獄の中に生ぜん。若しこの衆生身妙行、口・意妙行を成就し、聖人を誹膀せず、正見にして正見業を成就すれば、彼これに因縁して身壊れ、命終りて必ず善処に昇り天中に上生せんと〔見亘。これを我その時中夜にこの第二明達を得と謂い、本放逸無きを以て遠

離に楽住し修行精勤し、謂く無智滅して而も智生じ、闇壊れて而も明成り、無明滅して而も明生じ、謂く生死智を作証し明達しぬ。また次に梵志、我已に是の如き定心を得、清浄にして機無く煩無く、柔軟にして善く住し不動心を得、漏尽智通を学び作証し、我この苦の如真を知り、この苦の習を知り、この苦の滅を知り、この苦滅遣の如真を知り、この漏の如真を知り、この漏の習を知り、この漏の滅を知り、この漏滅遣の如真を知り、我是の如く知り、是の如く見、欲漏心解脱し、有漏・無明漏心解脱し、解脱し已りてすなわち解説を知り、生已に尽き梵行已に立ち所作已に弁じ、更に有を受けずと如真を知る。これを我その時後夜にこの第三明達を得と謂い、本放逸無きを以て遠離に楽住し修行精勤し、謂く無智滅して而も智生じ、闇壊れて而も明成り、無明滅して而も明生じ、謂く漏尽智を作証し明達しぬ。……

(読下しは「国訳一切経」を参照させていただいた)

[大意]

 わたし(釈尊)は、つねに努力精進し、その想いは確立してすこしもみだれず、体は安楽で動揺せず、心は禅定に入って静かである。そのわたしがあるとき、瞑想に入ってしだいに禅定が深まってきた。第一禅定から第二、第三、第四禅定まで深まるにつれて、心に想い浮かぶなにものもなくなり、喜びや楽しみだけとなり、そして遂にはそれもなくなって、ただ清浄な想いだけとなった。

 そのとき、わたしの心は、一点のけがれもなく、清く明るく、絶対不動であった。そしてわたしの心の眼はおのずから前世の光景に向けられていった。それは一生だけではなく、二生、三生、十生、二十生、そして無限の生涯の、生きかわり死にかおりした光景が展開してきた。これが第一の智慧である。

それからわたしの心は、あらゆる衆生の相に向けられてきた。わたしぱ超人的な眼力でその相を見た。そこには貰いもの、賤しいもの、美しいもの、醜いもの、幸福なもの、不幸なものの、それぞれの宿業が渦巻いていた。これが第二の智慧である。

 それからわたしは、苦・集・滅・道の四諦(四つの真理)をありのままに知り、わたしの心は、あらゆる存在の相から、全く解放され、ふたたびそれに執着することはなくなった。これが第三の智慧である。

 釈尊は瞑想によって、自分の前生の、二生、三生、十生、二十生、さらには無限の生涯の、生き変わり死に変わりしてきた光景を見ているのである。それは自分だけではなく、あらゆる人間の前生と、さらに後有(このっぎの人生)を見ているのである。

 釈尊はここで、決しておとぎ話や、たとえ話、寓話をのべているのではない。

釈尊の成仏法を修行すれば、その真実であることがすぐわかる。その修行により、わたくし自身、人の三、四世代前、そしてつぎの世代における存在までは透視できるようになっているのである。

 人間の生命は、多くの人たちが考えているように、決してひとつの生涯だけで終わるものではないのである。ある生涯が終わったら、またひきつづき、つぎの生命形態に移っていくのである。

 多くの人たちはその認識がなく、ひとつの生涯のみで、人の生命は終わるものと思っている。ここに、決定的な、そして致命的な生命観の欠陥があるのである。

霊性とはじつにそれを知る趨性なのだ。

 人の依って来たるところを知り、去るところ、往くところを知る能力である。

いわゆる来所を知り、往所を知る智慧である。これを得れば、人はおのずから、なにをなすべきか、なにをなさざるべきかがわかってくる、そこから人間の真の進歩、発展がスタートするのである。それがないから、人間は、霊的に少しも進歩せず、発展せず、いつまでも低いところを輪廻して、無限にさまよい歩いてい

るのである。いや、それだけではない。その果てに、人間は、自分の住む人切な世界を、自らの手で壊滅させてしまうことになるのである。

 この無知を、釈尊は、「無明」(自民罵)と名づけたのである。

 

ショウジョウバエの論理

 この「無明」という言葉には、二つの意味がある。

 まったくの無知と、完全な闇である。

 「明」には明知(智慧)と、光明、の二つの意味がある。

 真実を悟る智慧を持たず、真っ暗闇の中を、手さぐりで歩いている状態である。まことに人間はそのとおりではないか。来たるところを知らず、往くところを知らず、ただ現在(現生)あるのみである。その現在を、ひたすら目先の利益追求に狂奔する。その結果、いかなるところに往くのか、いかなる世界に、いかなる生命形態として存在することになるのか、まったくお先真っ暗である。

 「第三の目」は、このお先真っ暗な闇の世界を見通すのである。「第三の目」に闇はない。真昼のごとく明らかに見ることができるのである。

 奇妙なことに思われるかもしれないが、わたくしは、釈尊の十生、二十生を見通す力を思うごとに、ショウジョウバエを想い起こすのである。

 ショウジョウバエは、その世代が極端に短い。ふつう、一世代がわずかに約一ヵ月である。だから、何十世代もの変遷を短時間で見ることができる。

 そこで、生物学者や、遺伝学者は、ショウジョウバエを使って、その変化を実

験する。ひとつの遺伝子の変化が、何十世代のうちに、どういう結果を生ずる

か、目のあたりに知ることができるのである。

 釈尊の叡智もそれである。

 彼のように、何十世代もの人間の移り変わりを如実に見ることのできる力をそなえていれば、ひとつの原因が、どのような経過を経て、どのような結果をもたらしたか、つぶさに知ることができる。彼がじっさいに語っているように、その人間がなんという名前で、いつ、どこに生まれて、どういう人生を送ったか、またその人生を終わって、つぎにまたどういう人生を迎えたか、ある生涯のどんな

 

 

 

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