UA-135459055-1

タンハー

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

釈迦は四諦の二番目において、苦の中核的原因として渇愛を特定した[9]

Idaṃ kho pana bhikkhave dukkhasamudayaṃ ariyasaccaṃ: yā’yaṃ taṇhā ponobhavikā nandirāgasahagatā tatra tatrābhīnandanī, yeyyathīdaṃ: kāmataṇhā bhavataṇhā vibhavataṇhā

比丘等よ、苦集聖諦とは此の如し、後有を齎し、喜貪倶行にして随處に歓喜する渇愛なり、
謂く、欲愛、有愛、無有愛なり。

ワルポラ・ラーフラ英語版によれば、渇愛とは、苦と再生として現れるものである[3]。しかしそれは苦や輪廻の原因というだけではない、なぜならば、すべての生じるものは相対的であり、何かに依存しているためである[3]。パーリ仏典では苦の原因として、渇愛のほかにも、煩悩を述べている。しかし渇愛は常に冒頭で取り上げられ、中核的なものとして認識され、苦の「もっとも明確で直接的な原因」だとワルポラ・ラーフラは述べている[3]

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

SNSでもご購読できます。

ntt

コメントを残す

*