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密教の技術に関係のある市川理論「等価変換展開理論」Ichikawa theory related to esoteric Buddhism technique “Equivalent conversion expansion theory” 2

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密教の技術に関係のある市川理論「等価変換展開理論」Ichikawa theory related to esoteric Buddhism technique “Equivalent conversion expansion theory”

 

る。

見よ。

かくれ、「法」は、様式化された宗教儀式になってしまった。

しかし、それは、当時の日本の国情や、文化水準を背景にしたとき、やむを得ないことであっ たのである。 というよりもむしろ当然であったというべきだろう。そうしなければ宗教として存 立することができなかったのである。

だが、そのために、いまいった通り「法」はその力を失った。宗教的に様式化され、儀式化さ れてしまった「法」では、真の能力開発は困難である。というよりもそれは絶望に近い。

しかし、それはそれでいいのだ。真言密教というものが、宗教であって能力開発の技術ではな く、仏教という信仰のワクのなかで教えを説き礼拝をつづけているだけでよいなら、それはそれ でいいだろう。それに、ほとんど儀式化された「法」であっても、 天分のある才能が懸命の努力 を集中するなら、「法」の成就も不可能ではない。 やってやれないことはないのである。けれどそれは何世紀にひとりというような稀有の才能を必要とするのではないのか。そういうすぐ れた頭脳によれば、様式化された法のあとをたどって、ついにその源泉に到達し、そのなかに秘 められた法の技術を発見し、体得することもできよう。あるいはまた、頭脳ではなく、熱烈な信 が、そこへ導いていってくれることもあるかも知れぬ。だが、それは、万人に期待できること ではない。

要するに、真言密教成立の当時と全く時代が変ってしまった現在の田横 本的にちぷりその ほん

ばならぬ。そうして、だれでもか

それは決して「法」を解体し、「法」をしてしまうことではない。むしろ、ありすること によって法が生きるのである。 また、それは決して宗教の解体ではない。

法によって高い知的能力を得たならば、人はおのずから高い道徳意識、倫理観を持つものであ

人が宗教的教えを必要とするのは、知的能力が低いからである。要するに、愚かだからであ る。人の意識が低いのは、知能、精神能力が低いからだ。ほんとうに知能が高くなれば、 人 いま人類の持っている程度の宗教意識などはるかに超えたもっと高い倫理観を持つ。 オリヴ イエ教授のいう「無限に発展した道徳意識の保有」である。

教え(宗教)による人類の道徳意識の開発は、すでに限界に達してしまっている。

地上にあまねくくりひろげられている人類のこの大愚行を。

殺し合い、奪い合い、罵り合い。

どこに「あるヒト」のおもかげがあるか? 「大人」そのものではないか?

要するに、バカにいくら結構な教えを説いてもだめなのだということだ。

もっと忌憚なくいわしてもらうならば、(これは私がいうのではない。みんな密教の神サマが

おっしゃるのであります)ちっとましなパカが、 しょうのないパカに一心に教えを説いていると いうのが、いまの宗教のすがたというものではないのか?

宗教だけではない。科学と技術だってそうではないか。見さかいなくいい気になっていろんな ものをつくり出し、あとで公害だ有害物質だと困っている。こういうおろかなことは、もう少し 人類の知能が高くなったら、そんなバカなことはたのまれなくともしなくなる。 要するに知能が 低いからだ。

政治も、経済思想も、みんなそうだと、あなたは真実思わないか?

要するに、すべて、ヒトの知能が低いことに原因があるのである。

この世界を住みよく、たのしいものにするのには、革命ごっこよりもなによりもまず、ヒトの 知能を高めることだ。そう、あなたは思わないか?

さて、話をもとにもどそう。

教えの限界とはヒトの知能の限界だ。

教はその限界をうち破るのである。

技術によって超能力をあたえ、いっきょにヒトを改造して、宗教などという低い次元をいっぺ んに飛び越し、想像を絶する智を持った、高い倫理的生物をつくり出そうというのだ。 それが、だ。

求聞持法《明星》の秘密

私はこのことを力の護摩の修得に際してさとった。

先年、私は、念力の護摩法の伝授を受け、悉地成就の修行に入った。けれども、その行法の次 第を何十ぺん何百べんくり返しても、念力の火は出なかった。さえたちのぼる気配はなかっ た。 私がそのままその法の次第を忠実にくりかえしていたら、永久に念力の火は出なかったであ ろう。 出るはずがないのである。 念力の護摩法次第、いくらくりかえしたって火は出ない。 そんなことで出るのだったら、今日までに、何百人、何千人の阿闍梨が念力の護摩を焚いていた だろう。真言密教の念力の護摩法だけでは、ぜったいに火は出ない。それは、密教の技術によっ で、サマーナ気を克服したとき(参照)、はじめて肉体から火焔を発することができ、念力の 護摩は完成するのである。絶望した私は真言密教をはなれ、身を転じて古代インドの秘密経典に むかった。

私はそこでインドの聖典、パガヴァット・ギータを読み、そこに念力の護摩の秘法がかたられ ていることを知った(口絵写真参照)。そこから、 ギータと不二の関係にあるヨーガに入った。ヨ ガに本当の力 があることを知った。ヨーガにおける私のいのちがけの修行がはじまっ ヨーガの技術でなければ念力の火は出ないことがわかったからである。真言密教の念力の

法次第はほんの心おぼえ程度のものに過ぎず、これでは、だれがどうしたって火の出るはず

道場の東に小窓をつくる。 これは虚空蔵の現である明星の光を道場にさし入れるためであ る。また、朝日夕月の光を本尊にあてる意もあり、あるいは小窓に網を張り、黄色の字の字を 書いて、そこから、明星の光をとおして本尊にあてるためでもある」

とまず場所を制定し、つぎに、さだめられた本尊の印を百万べん、五十日あるいは百日に読 するのであるが、日蝕または月の時に結願するよう開白(はじめること)しなければならぬ とある。

けれども、密教の求聞持法では、べつに場所はえらばぬのである。静かな場所でありさえすれ ばよい。 また、いつはじめてもよいのである。 明星を拝するのも、行のはじめに際して、あるひ ととき、星と月に対すればよいのである。

また、これこそが密教のもっとも奥義とするところなのだが、弘法大師空海は、求聞持法の成 就の体験を

国大滝のにのぼりよじ、戸のに。撃を惜しまず、明星来す。

と語っている。すなわち、阿波の大滝にのぼり、土佐の室戸岬でこの法の修行にはげんだとこ こだまし、明星があらわれるなど、法にいわれている通り現証があり、 が成した というのであるが、これは、 ひとつのであって、これもその

からいけないのである。

いわく

星来すとは、結願のときに、香を押するに、見

成ではない。暗くても星が現れば下品の成就であり、四方が少々晴れて星が現れば 天になく、ことごとく晴れて星現ずれば成就、四方が晴れても星現さればぜ 「るなり」

とあるが、これがちがうのである。

まるっきりちがう。

こういう伝や奥伝をたよりにいくら修行しても、気の毒だが、求聞持法は成就しない。 明星とは現実の明星ではないのである。

大脳のある部分をある方法で刺激すると、目の前に光が見えるのである。

その光はかたちも色も大きさも、いろいろに見えるが、意識を記憶の座に向けて沈させる

と、つめたい、やや黄色みを帯びた白銀色になって、 しずかに目のなかでまたたく。 それはちょ そっくりに見えるのである。

これが明星なのだ!

とある。

頁をもう一度読みかえしていただこう。

頭のなかの光明に Samyama を向けるならば

299数によるヒトの

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