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愛染明王・金剛薩埵一体の口決について

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愛染明王・金剛薩埵一体の口決について

愛染明王は金胎両部大経すなわち『大日経』『金剛頂経』に所説を見ないがその本説たる『瑜祇経』は金剛頂系の経典ですから、同明王の本身を金剛界曼荼羅の主要尊たる三十七尊中の一尊に求める種々の口決があります。今その詳細を論じる事はできませんが此の事に関しては真言小野流の場合、鳥羽僧正範俊(1038-1112)による如法(にょほう)愛染王法の創修が一つの画期を成したと云えます。

醍醐の三宝院大僧正定海(1074-1149)の口決を松橋(無量寿院)大僧都元海(1093―1156)が記した『厚造紙』には、

白河上皇が一院として政治を執っておられた時、その御所である六条殿に於いて鳥羽僧正範俊が(初めて)如法愛染王法を修した。天蓋に八色幡を懸け、修法を行なう大壇には理趣会曼荼羅を敷いたのである。

と云い、また金剛薩埵の替わりに愛染明王を中尊とする十七尊曼荼羅の図を載せています。即ち範俊は愛染明王を金剛薩埵の変化身と考えていた事が分かります。その上更に、「理趣会を以て愛染曼荼羅と為す事は高野後僧正(真然)の御伝である云々」と述べている事も非常に注目されます。

中院僧正とも称された真然(しんぜん 804―891)は弘法大師空海から高野山の附嘱を受けた高弟であり、又た大師より愛染明王の秘印を授けられたと云う伝承もありますから、その真偽を確かめる事は困難であるとしても愛染・金薩一体の口決は既に平安初期の真言宗に存在していた可能性があります。

前章で述べたように『理趣経』初段の曼荼羅は金剛薩埵を中尊とする理趣会曼荼羅に同じであり、また最後の第十七段の五秘密曼荼羅も金剛薩埵の曼荼羅ですから、愛染法の修法に理趣会曼荼羅を使用するのであれば五秘密曼荼羅を用いる事も理に適っている筈です。実際、元海大僧都の写瓶(しゃびょう)の弟子であり松橋流の開祖とされる一海阿闍梨(1116―79)の次のような口説が伝えられています。

亡くなられた元海大僧都は、五秘密法と愛染法とは突き詰めれば一つであると心得るように命じられた。  自分が此の事を考えるに、それも理由があると思う。愛染明王の曼荼羅には二様がある。一つは理趣会曼荼羅十七尊の中心に愛染王を置く。又の様は五秘密曼荼羅の金剛薩埵を改めて愛染王と為すのである。元海大僧都によれば、故定海大僧正は後説を以て特別に秘密の説としておられた。

此の一海の口伝は、一海の弟子の中でも松橋四天王と称された弁入道生西(しょうさい―1158―72―)が諸尊法に関する師の口説を書き記した『雑抄』の中に見えます。

一方、尊像の面から此の愛染・金薩一体の口決に付いて考えると、愛染明王は六臂(ろっぴ)すなわち六本の腕を有していますがその第一の左手に金剛鈴、右手に五股金剛杵を取持していますから、此の事から明王が金剛薩埵の変化身であろう事が容易に推察されます。『瑜祇経』の「愛染王品」に、

左手に金剛鈴を持ち 右は五峰(ごぶ)の金剛杵を執る その儀形(ぎぎょう/威儀と形色)は金剛薩埵の如くであり 衆生の世界を利楽している

と説かれている通りです。

又た醍醐寺座主の実運僧都(1105―1160)作『玄秘抄』には、愛染明王の形貌は金剛界曼荼羅の東方阿閦如来の四親近(ししんごん)菩薩を総じて表しているとする説が「秘伝」として紹介されています。即ち金剛薩埵の他にも、明王の獅子冠にある五股鉤は自在に衆生を鉤召(こうちょう)して帰伏せしめる金剛王菩薩を表し、第二の左右の手に執る弓箭は一切衆生を愛念するが故にその悪心を射害する金剛愛菩薩、又た「首(こうべ)を低(た)れる」事は金剛喜菩薩を表していると言います。最後の首を低れるとは頭部を左(向かって右)に傾(かし)げる事を云い喜悦の標示とされます。彫刻や彩色の愛染明王像では是が表現されていませんが、今の円仁・宗叡請来の曼荼羅集では見事に描かれています。従って愛染明王の形像は東方四親近菩薩の働きを総摂(そうしょう)した上で、「(瑜祇)経に左の下の手(第三手)に彼を持せしめよ、右の蓮(はちす)をもって打つ勢いの如くせよと者(い)うは別して明王の徳を顕す」と結論し、更に此の明王の「勇猛なる菩提心」は金剛薩埵そのものであると述べています。

実運は晩年に至るまで明海(みょうかい)と称していましたが、醍醐寺座主で三宝院を建立した勝覚権僧正(ごんそうじょう)の弟です。勝覚の滅後に勧修寺(かじゅじ)長吏(ちょうり)の寛信法務の弟子となってその法流(勧修寺流)を相承し、後には元海より醍醐の座主職と三宝院の経蔵を譲られその正嫡(しょうちゃく)の弟子と成りました。ここで注意すべきは実運が元海から委細の伝授を受けていない事で、元海が定海より相承した三宝院流の正統はむしろ一海に受け継がれて松橋流の名を以て後世に伝えられたと考える事ができます。

(5)大楽思想と愛染明王

以上に述べ来った事から、第一章で言及した『理趣経十八会曼荼羅十八幀』末部の四種図像は理趣経曼荼羅に漫然と付加されものでは無く、むしろ最初から明確な意図を持って此の曼荼羅集は編集されていると考えるべきでしょう。その意図とは、一つには『理趣経』は一字真言を別にすれば理趣すなわち教理のみを説いているからその理趣を修行実践する経典が別にある筈であり、それが実に『瑜祇経』である事を示さんとしたのであり、二つには金剛薩埵の飽くなき利他行の究極の実践が愛染明王に転化する事を訴えんとしたのでしょう。此の事に付いて更に考えてみます。

先に第三章に於いて両部大経では金剛手菩薩と金剛薩埵の間に明確な概念上の相違は認められないと言いましたが、『理趣経』にあっては両菩薩の位置付けは明らかに異なっています。即ち金剛薩埵は『理趣経』の中心思想である大楽思想を体現する菩薩として初段と最後の第十七段でその法門が説かれているのに対して、金剛手菩薩は第三段で般若思想の根幹を成すとはいえ一切法平等の法門を代表しているに過ぎません。〔但し実際には『理趣経』では金剛薩埵なる名称は使われず、初段に於いても「持金剛の勝薩埵」なる語は見られるものの金剛手菩薩と「執(しゅう)金剛」という語しか用いていません。それでも不空三蔵の『理趣釈』等に依って初段と第十七段を金剛薩埵の法門とする事に異議を唱えた真言学僧はいないと思います。〕

『理趣経』の経題(正式名称)である『大楽金剛不空真実三摩耶経』の大楽金剛とは金剛薩埵のことですが、大楽に付いては初段の十七清浄句の「妙適清浄句」に対する不空三蔵の解釈が要を得て非常に分かりやすいので再出すると、

金剛薩埵は妙適の境地を楽しんでいる。それは無縁の大悲を以て際限のない衆生世界の救済の為に奮闘して飽きる事が無いからである。

と述べています(『理趣釈』の意訳)。妙適は最高の肉体的快楽ですから比喩の対象として亦た最適と考えられたのでしょう。大楽法門に限らず密教に於いては性的表現を多用する事は周知の通りです。次に金剛とは決して壊れることが無い、即ち永遠不滅なるものを表していますから、「大楽金剛」とは大楽を自らの体性(たいしょう/本質)とするものの意で具体的には金剛薩埵を言うと考えられるのです。次に「不空真実三摩耶」とは言葉や教理だけの空論では無く真実自らの生存を賭して実践すると云う三摩耶(誓願)の意ですから、『理趣経』の経題は極略すれば「金剛薩埵の真実の誓願」と云う意味です。

両部大経が成立して密教儀礼と教理が整理され一大体系が生み出されるに至った時、こうした理論的あるいは儀礼重視の密教に飽き足らず、むしろ現実の喜怒哀楽が渦巻く世界の中で世尊毗盧遮那(大日如来)の大生命を生きるべきあると考える一派が現れ、自分達が理想とする修行者像として従来の金剛手菩薩に優れて実践的な性格を付与した新しい金剛薩埵の概念を成立させたのでしょう。

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