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信仰の系譜

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逆境に生きる

信仰の系譜

結婚する時だって、あなたから、自分は作家になるんだ、貧乏生活は覚悟 していてほしいといわれて、それでいいと思って結婚しました。 おれは必ず芥川賞をと それがあなたのログセでした。あなたが事業をやっている間じゅう、失敗した時はも とより、成功している時だって、ハラハラし通しでした。自分にないものを一生懸命やっ ているあなたが気の毒に思えたり、腹が立ったりでしたが、あなたの性格で、やるだけや らなければ気がすまないのだから、いつか気がつくだろうと思って見ていました。お父さ んとお母さん、それに子どもたちの面倒はわたくしがみますから、悪いことでない限り、 あなたの思う通りに何んでもおやりなさい。ただし、わたくしの収入は当てにしないでく 「ださいね」

そこで、わたくしは、もっていた本や背広などを売り、四万八千円余つくった。そうし 横浜の生麦の裏長屋を一軒借りた。 六畳と三畳とお勝手という間取りであった。いま はもうこの家は残っていないと思うが、もしまだ存在しているのなら、阿含宗の発祥の地 として保存しておきたい気持である。

この長屋は、表通りから入るのに、肩幅ぐらいの狭い路地を通らねばならないから、雨 が降っても傘がさせなかったほどである。

とにかく、そこでわたくしは、それまで趣味としてやってきた運命学、それに改めて本 格的に取り組み、人びとのために役立てようと決意した。

因縁解脱の基本は何かといえば、人のためになる、人に喜んでもらう、世の中のためになる、いうならば、自分が徳を積むということであると思った。 いまの自分に人のために 何ができるかと考えると、何もない。 しかし、ただ一つあるとすれば、運命学の知識があ る。これだけは絶対に人に負けないだけの自信があった。一つ、この力を発揮して、人び とに因縁の何たるかを教えてあげて、悪い因縁を切るための信仰へ道を開いてあげよう。 人に尽す道はこれしかないと思った。

その当時のわたくしの信仰というと、準胝観音をご本尊とする観音信仰であった。 なぜ、この信仰をもつにいたったかといえば、仕事に大失敗した時、わたくしは、自殺 を決意したことがあった。

道楽したり、怠けたりしたわけではないのに、トラブルが重なり、大きな負債を背負っ てしまった。債権者に連日責められる羽目となった。

そこで、二、三日、自分の行く末をじっくり考えてみたいと思い、父が戦争中に据えて いた田圃の中の工場跡へバッグ一つ提げて出かけていった。

二、三日考えているうちに、もう生きているのが面倒になり、いっそ死んでしまえ、と いう心境に陥ってしまった。いわば、死神がついたということであろう。

死神がつくということがどういうことなのか、この時わたくしははじめてわかったような気がした。 だんだん視野が狭くなってきて、目の前が暗くなる。 そのうちに、目の前十 センチくらいしか見えなくなってしまって、死ぬこと以外は何も考えなくなってしまう。 どうやって問題を解決するか、などというようなことには、もう頭が回らないというか、 考える気力もなくなって、死ぬしかないという気分に陥り、あとは、どうやって死のうか と、そればかりを考えるようになる。 そうなると、もう死ぬ方法も鉄道自殺など面倒にな り、とにかく手近にあるもので、パッと死にたくなる。

そんな状態になっているうちに、明け方になり、いよいよ首を吊ろうという気になった。 そして、寝ころがったまま、あのあたりに縄をかけて、などと考えながら天井を見上げ ていたところ、棚が目につき、その棚から何か小さなものがちょいとはみ出しているのが 見えた。ふと好奇心がわいて、 「あれ、何んだろうな」と思って、ひょいと立ってみた。 これが転機となって、死神がはなれたのであろう。このことがなかったら、わたくしは確 実に首を吊っていたと思う。それまでは、思考が完全に停止し、死んだ後、誰が困るかと か、そういった死ぬこと以外の、ほかのことは何んにも考えなくなっていた。

とにかく、立ち上がってそこに見たのは真新しい小さな経巻であった。幅二、三センチ、 長さ五、六センチ、厚み一センチ弱の小さなものであった。

この工場を引き払って、もう三年にもなるのに、どうしてこの棚に経巻が置き去りにな っていたのかと、 いぶかしく思いながら、ふと父から以前聞いたある話を思い出した。 父の取引先に中村語郎さんという方がおられた。父は陸軍から引き取った払下げ品の一部を製紙原料として、この中村さんの会社に納めていた。

中村さんは製紙原料問屋としては当時日本一といわれた人であったが、道楽もだいぶし たらしく、若い頃から苦労がたえず、一時は「おけらの語郎」とさえいわれた人であった。 そのどん底の時に、前途に希望を失った中村さんは「いっそ死んでしまおう」と、冬の木 枯しが吹き荒ぶ時季に、洗い晒しの浴衣一枚を着て、近くの川へ出かけた。橋の上から身 投げしようとしたところ、いまや飛び込もうとした寸前に、通りかかった人に、「お待ち なさい」と呼びとめられ、

「あなたは死ぬつもりでしょう」

といわれた。

「いや、死ぬつもりじゃない」

「ウソをいいなさい」

「いやあ、実はお察しの通りです。しかし、お情けだから黙ってこのまま死なせて下さい」 といった押し問答の末、

とにかく、わたくしのところへまずいらっしゃい。それから死んでも遅くないでしょう」 と、その場はひとまずその人の勧めにしたがい、立派な家に連れてゆかれた。ご飯を食 べさせてもらいながら、事情を話したところ、その人は、

「実はわたくしもその昔、自殺しようと思ったことがあった。 その時、やはりある人に

呼び止められて、「あなたは神仏に対する正しい理解がないから、そういうことになるのです」と諭され、少しのお金とともにお経をくれた。それで自分も死ぬのを止め、信仰を もって一生懸命に働いた結果、こうしていっぱしの商売人になった」 と、自分の過去を、中村さんに話して聞かせた。

それ以来、その人は、自分を救ってくれた人への恩返しのつもりで、その時手渡された ものと同じ経巻をたくさんつくって、多くの人に布施しているということであった。

この話を聞かされた中村さんは、大いに勇気づけられ、その経巻と、とりあえず飢えを しのげる程度のお金をいただいて、その人の家を去った。 その後、一生懸命に働いて、つ いには、日本一といわれる製紙原料問屋を築いたというのである。

そして、その中村さんもまた、助けてくれた人と同じ道を歩みたいと、一生に何十万巻 かの観音経を布施することを念願された。

ある時、中村さんは父に向かって、

「あなたは何百人もの人を使って陸軍の大きな機械相手の仕事をされているが、非常に危 険な仕事でしょうから、一つこれをお守り代わりにみなさんに差し上げてください」

ということで、この観音経を父に一千巻布施してくださったとのことである。先に述べ た通り、父は、自分の入れた臨時人夫を指揮して二十四時間作業の機械相手の仕事をして いたのである。

父は特に信仰というものはなかったが、尊敬している人格者の中村さんのお話であった から、素直にありがたくいただき、全員に配った。それが少し余っていたと思われる。 不

思議なことに、その一巻が偶然棚にころがっていたわけである。どう考えてもそんなとこ ろにあるわけはないのだが、事実あったのである。いまでも不思議に思っている。

このお経には考えてみると、一つの系譜というものがある。 この巻の布によって、 中村さん、中村さんを助けた人、そしてまたその人を救った人等々、みな自殺を思いとど まらせている。いままた、自殺寸前のわたくしがこれを手にした。 これは本当にただ事で はない。これは自分を救おうという何か大きな目に見えない意志が働いているのではない この意志に従うべきではないか、その時そう思った。

その刹那、パーッと考えが変わった。ちょうど太陽が昇る瞬間に、間に光が射すかのよ うに、あるいは夜が朝に変わるかのように、心が生き生きと晴れやかになっていった。 「死ぬのをやめよう」 「生きよう」と、わたくしは自分自身に誓った。そして、この観音経 によって、わたくしが本当に救われたならば、中村語郎さんと同様に、わたくしもこのお 布施しようと決心した。

ちょうどその時、山の向こうに朝日が昇ろうとしていた。わたくしは、その太陽に向か って合掌した。そして、声を出して誓ったのである。「どうか私に再起の力をあたえて下 さい。もしも、このお経の中に書いてある通り、私が救われたならば、私は生涯にこのお 経を百万巻布施いたします」と。

その後、三年間、わたくしは死にもの狂いで働き、当時の借金は全部返済してしまった のである。

観音慈恵会の設立

そこで、このお経の功徳が大変なものであることがわかったので、どのようにして、そ れを多くの人びとに布施するかということを考えた。 要するに、この時考えたことは、う んと儲けてお寺に寄付するとか、この観音経をもとにして何かのグループを結成し、自分 がスポンサーになって、有能な有徳の士に中心になってもらい、その功徳を広めようとい うことであった。

観音経に感謝し、誓願も立てていたが、まさか自分自身が宗教家になろうとは、その頃 は夢にも思っていなかった。

いま、阿含宗の信徒に授けている勤行式は、その経巻をそのまま模したものである。

ぎょう

そうした諸々の経緯を経て、 生麦に出てきたわけであるが、その前後から、完全に治っ ていたと思っていた身体がまた悪くなり、要注意の状態になったが、行で死ぬなら本望だ という気持もあって、どんどん荒行を実行した。

一方、運命学のほうは、アマチュアではあったが、相当勉強もし、多くの人たちの運命 を実際に見るという経験も積んだ。 したがってすごく当たると、一部ではかなり評判にな っていたので、ちょっと宣伝でもすれば、昔の友人や仕事の関係者などいくらでも集まっ てきたと思う。しかし、そういう生き方、やり方では、過去の因縁を切ることにはならな

いと考え、徹底して誰にも知らせなかった。過去とまったく絶縁することが因縁を切る第 一歩であると思った。 過去の引っかかりで収入を得たり、飯を食っていたのでは過去の業 消えぬと思ったのだ。

このような次第で、わたくしは、生まれ変わったつもりで、自分自身が救われた観音経 にもとづき、準胝観世音菩薩をご本尊として、観音慈恵会をはじめた次第である。

それまでにわたくしは、仏教の本格的な勉強をしたことがない。だから、自分自身でも 坊主になったつもりもなければ、宗教家になったつもりもなく、一介の求道者として歩み はじめたのである。この求道生活によって、一人でも多くの人が救われることが、わたく 自身の罪障消滅になり、因縁解脱につながるのだ、という固い信念があった。 わたくしは、自分の力で、人を救うなどという大それた気持をもったことは一度もない。 自分が救われ、 中村語郎さんが救われ、そのまた前の人が救われたという、この救われる 一つの系譜というか、その救いの流れの中に、人を入れてあげることによって、人を救う ことができるのではないか、あるいはその救いの流れに入るきっかけをつくってあげるだ けでも、わたくしの役割を果たすことができるのではないか、それで、人が救われるとし たら、その功徳がわたくしにきて、因縁が一つ一つ切れていくであろう。そう思って、昭

和二十九年の秋口に観音慈恵会をはじめたわけである。

きっかけが、観音の慈しみと恵みであったから、会の名称を観音慈恵会とし、至極簡単

に名前をつけたわけである。

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