UA-135459055-1

四神足法とは、どんな修行法であろうか?  What kind of training is the Iddhipada method?

 

 

死者を成仏させることができる

 シュダオン、シダゴン、アナゴンは、自分自身のカルマを断ち、悪因縁を解脱した聖者である。ほぼ、成仏をなしとげた聖者といってもよい。完

全解脱は、時間の問題である。

 アルハットと違うところは、死者を成仏させるまでの力を持っていないことである。

 

アルハット、仏陀は、一切万言を解脱する力をそなえている。そこが、アナゴンとアルハットの違いである。

 

ただし、四神足法を修めて、アルハットに近いアナゴンは、死者成仏の力をそなえるようになっているのである。

 だから、冥徳供養も、解脱成仏供養も、四神足法を体得して、アナゴン以上の境界に達した聖者に、供養してもらわなければ、効果がないのである。

 

 では、四神足法とは、どんな修行法であろうか?

 

四神足法

 

そのメカニズム

 四神足法について、私は、著書『仏陀の法』の中で、つぎのようにのべている。

 

 欲神足法

 

人間の生命力の、特に肉体上における根源的条件を、完全なものにする修行法

 

勤神足法

 

 欲神足法で得た能力をペースに、肉体上の基本的諸条件を、さらに飛躍的に向上させる修行法。

 心神足法

 

肉体的能力の向上発達を基に、精神的能力を充実させ、さらに段階的にその能力を飛躍向上させて行く。

  人間の脳は三つの脳から成っている。

とどめて、昶虫類時代の脳(古皮質脳)、。哺乳類時代の脳(旧皮質脳)、後期哺乳類から発達した脳(新皮質脳)

の三つの脳である。

 

 つまり、ヘビーワニの脳、ウマーヒツジの脳、ヒトの脳が、完全に統御されないまま、同居しているわけである。それが人間の脳だ。

 明らかに、人間の脳は「欠陥脳」である。この欠陥脳が、今日の欠陥文明をつくり出してしまった。核の脅威、環境破壊、民族・人種間の対茫、麻薬、エイズ、等、人類はまさに破滅の渕に転落しようとしている。

 

 自分たちが生み出したこれらの問題にたいして、人類自身、なに一つ、解決の道を発見することが出来ない。欠陥脳を改造せぬかぎり、人類は、自分自身の愚行の渦の中に消滅していくほかないのである。

 

 

Can make the dead Buddhahood

Shudaon, Shidango, and Anagon are saints who have cut off their own karma and have liberated their evil ties. It can be said that it is a saint who has achieved the Buddhahood. Complete

Total liberation is a matter of time.

The difference from Alhat is that it does not have the power to make the dead Buddhahood.

 

Alhat and Buddha have the power to liberate all words. That is the difference between Anagon and Alhat.

 

However, after learning the Iddhipada method, Anagon, which is close to Alhat, is now equipped with the power of the dead Buddhahood.

Therefore, neither the Meitoku memorial service nor the liberated Buddhahood memorial service will be effective unless the saint who has reached the boundary above Anagon has learned the Iddhipada method.

 

Then, what kind of training is the Iddhipada method?

 

Iddhipada

 

The mechanism

About the Iddhipada method, I mentioned in my book “The Law of Buddha” as follows.

 

Greedy foot method

 

A practice that perfects the fundamental conditions of human vitality, especially on the body

 

Working God Foot Method

 

A training method that dramatically improves the basic physical conditions at a pace based on the abilities gained by the greed foot method.

Shinshin foot method

 

Improvement of physical ability Based on development, mental ability will be enhanced, and the ability will be dramatically improved step by step.

The human brain consists of three brains.

Stop, the worm-era brain (paleocortical brain) ,. Mammalian brain (old cortical brain), brain developed from late mammals (neocortex brain)

There are three brains.

 

In other words, the heavy crocodile brain, the Umar sheep brain, and the human brain live together without being completely controlled. That is the human brain.

Obviously, the human brain is a “defective brain.” This defective brain has created today’s defective civilization. Humankind is about to fall into ruin, with nuclear threats, environmental destruction, ethnic and racial conflicts, drugs, AIDS, and more.

 

For these problems that we created, human beings themselves cannot find a way to solve them. Unless the defective brain is remodeled, human beings have no choice but to disappear in the whirlpool of their own folly.

  

 

七道品経  Shichido Shinkyo

七道品経

 息の如く我れ聞きぬ・一時仏が殴の町彫りたまえにか即ぞあり・仏のしたてまっり退きて一面に坐に印して詔さくぐ世尊のとは如餓ノ世尊いご所が覚分と冷すや。仏い比丘にげたまわくヽ「所謂七道喜・’狩・定’・捨覚な力じ。(要略)

和 訳

 是の如く我れ聞きぬ。一時、仏、舎衛国の祗樹給孤独園に住まりたまえり。その時世尊、彼の比丘に告げたまわく、「上に説けるが如し。差別せば是の如く七覚分を修習し已らば当に二種の果を得べし。現法に漏尽きて無余涅槃を得、或は阿那含果を得んと。仏此の経を説き已り給いしに、諸の比丘、仏の説かせたまう所を聞きて、歓喜し奉行しき。

雑阿含経「果報経」下

 和 訳

 是の如く我れ聞きぬ。一時、仏、舎衛国の祇樹給孤独園に住まりたまえり。「上に説けるが如し。差別せば是の如く比丘、七覚分を修習し已り、多く修習し已らば、四種の果、四種の福利を得ん。何等をか四と為す。所謂須陀百果・斯陀含果・阿那含果・阿〔現。法〕現世のこと。

〔無余涅槃〕身心ともに解脱して涅槃に入ること。羅漢果なりと。仏、此の経を説き已りたまいしに、異比丘、仏の説かせたまう所を聞きて、歓喜し奉行しき。

 

雑阿含経「七種果経」

 

 和 訳

 是の如く我れ聞きぬ。一時、仏、舎衛国の祇樹給孤独園に住まりたまえり。「上に説けるが如し。差別せば、若し比丘、七覚分を修習するに多く修習し已らば当に七種の果、七種の福利を得べし。何等をか七と為す。是の比丘は、現法の智証の楽、若くは命終時(の智証の楽)を得ん。若し現法の智証の楽、及び命終時(の智証の楽)を得ざらんも、而も五下分結尽くるを得て、中般涅槃せん。若し中般涅槃を得ざらんも而も、生般涅槃を得ん。若し生般涅槃を得ざらんも而も、無行般涅槃を得ん。若し無行般槃を得ざらんも而も、有行般涅槃を得ん。若し有行般涅槃を得ざらんも而も、上流般涅槃を得ん」と。仏、此の経を説き已りたまいしに異比丘、仏の説かせまう所を聞きて、歓喜し奉行しき。

 〔現法の智証の楽〕阿羅漢を得て、現実肉身の上に涅槃の証果を得る。有余涅槃のこと。

 〔命終時の智証の楽〕死の刹那に涅槃を得る。無余涅槃の〔中般涅槃〕欲界(この娑婆世界)に死んで、色界(天界)に生ずる中途に涅槃を得る。

 〔生般涅槃〕色界に生じて、久しからずして涅槃を得る。

 〔無行般涅槃〕色界に生じて修行せず長時間を経て涅槃を得る。

 〔有行般涅槃〕色界に生じて久しく修行して涅槃を得る。

 〔上流般涅槃〕色界に於て、天下より上天に進み、色究竟天に至って涅槃を得る。以上、五種不還を説いたもの。

大意

くあるとき、外道の出家が来て、ヽ釈尊に、成仏のための修行法をおたずねした。 

 釈尊は、「七覚支」土そその成仏法でだるとおっしゃって、1 官支・択法覚支・精進営淮党支・狩覚支丿定覚支・捨覚支の七つの修行法をお説きに

                                     

説ぎれた王で、阿那 果にも五種の涅槃の得かたがあるとくわしくお教えになられたので仙った。                               

そして、この七覚支を修行すれば、阿羅漢果ヽ阿那含果 斯陀合果 須陀似果が得られると解こなられたのであった

七覚支成仏法

 講説        

 釈尊の成仏法は、前にのべましたように、七科三十七道品といって、。七科目、三十七種類のカリキュラムから成り立っています。すなわち、四念処法、四正勤法、四神足法、五根法、五力法、七覚支法、八正道です○                        

このうちの七覚支法について、解説されたものです。

 成仏法について質問した外道の出家に、釈尊がなぜ、七科目の中の一つである七覚支について解説したのかと申しますと、これはわたくしの体験からの推測ですが、この異比丘がもし釈尊のお弟子となって成仏法を修行するとしたら、七覚支の修行が一番よいどお考えになったからだと思います。

 というのは、釈尊の成仏法は、七科目三十七種の修行馳全部やらなければならないというものではないのです。七科目の中の、二科目位をやればいいわけです。というのは、七科目の修行法の中にはでおなじような修行法が、ダブつて入っております。それで、釈尊は、お弟子の因縁を三みてい七科目の中から、おまえはこの修行をせよ、おまえはこれとこれの修行法がよい、というように選別されてあたえたのであろうと思われます。 時には、科目にかまわず、一三十七種の修行法の中から自由にいいくつかえらび出して、修行者に課したものと思われます。 

 そこで、この七覚支の修行法というのが、どんなものであるか、おはなしいたしましょましう。

 

念力をつよくして

ノ一バランスをたもつ

 

これはどういう修行法かと申しますと、仏教辞典などを見ますと、「おもいを平らかにする」うように説明しております。念覚支とは「おもい」つまり念を平安にすることである、とこ’うように説明しておりますけれども、わたくしは、それだけでは念覚支の修行の説明になっないと思います。

わたくし自身の修行体験によりますと、そんな簡単なものではなくて、こころを平安にする、いは確かにそうでありますけれども、それは結果から出てくるものであって、修行そのものでらいわけです。おもいを平安にするというのは、念覚支を修行した結果、つねにおもいが平安なる、おもいが平らかになる、ということであって、それ自体が修行ではない。

わたくしは、この修行を二つに分けることができると思うんです。まず、念の力を強化する。

活力といってしまうと、なにか安っぽくなってしまいますね。自分で『念力』という本を書いおきながら、そういうことをいうのはおかしいけれども、念力、と言でいってしまうと、ちっと安っぼくなってしまう。念の力を強化する、要するに、精神力というものを非常に強化すということですね。

それをただたんに精神力というと、漠然としますけれども、要するに、意志の力、知能の力。ういったものを非常に強化する訓練である。

もっというならば、人間の精神作用というものは、知・情・意、この三つから成り立っていま

知性の力、知能の力、そして情緒的なはたらき、それから意志の力です。

要するに念の力を強化するというのは、この三つの部門(知・情・意)のはたらきを強化し、しかも、そのいずれにもかたよらないようにする、ということです。それが、結局、結果的におもいが平安になるということじゃないですか。

 人間の精神力というものは、この知・情・意のはたらきから成り立っています。ところが、こいがかたよりやすいわけです。

 夏目漱石の『草枕』の書き出しに、

-知にはたらけば角が立つ。情に棹させば流される。とかくこの世は住みにくい」とあるでしょう。

 だから知というものにかたよると、とかく理くつっぽくなって角が立ちやすい。頭が非常よいと、知能のはたらきがつよいですから、すぐ理くつでものをわりきろうとします。

 情に棹させば流される それはそうでしょう、人情的になりすぎれば流されてしまいます。

意志がつよかったらどうかというと、これは強情で、どうにもしようがないということになりますね。

 ですから、知・情・意、それぞれのはたらきを強化し、たかめる、そういう修行です。しか

そのいずれにもかたよらないように平均化する、これがいちばん大切なことじゃないです知的にも非常に高度で、情緒面においても、いわゆる情操がゆたかであるというように、芸術面などでもよく理解することができる。情操的な情のないひとというのは、無昧乾燥にな力やすいわけです。芸術的なことは、なにもわからない、はなしをしてもちっともおもしろくない、シャレをいったって、ニコリともしない。今日きいたシレを、三日ぐらいたっ七急に笑,い出じて、「ああ、そうだ,ったのか」なんて(笑)、それじやあおはなしにならんでしょう。 

 意志がつよいのはけっこうだけれども、それが頑固になってしまうのではいけない。

 だから、知・情・意の精神作用を、非常に強化し、たかめるという訓練をする。そしてそのいずれにもかたよらないということ。これがまず第一です。

 しかし、それだけじやない。

 念そのものの力を、神秘的にまで強化する。一点に集中したとき、火を発するほどの力を出す。ですから、この念覚支の修行には、クンダリ’’ー ヨーガの修行が入るわけです。

 つぎに「空観」を体得する。ですから、この七覚支には、「四念処法」の修行が入っている。

この空の体得により、諸法の実相がわかるようになります。つまり、「縁起の法」を如実 にさとることになるわけです。                                

 この念覚支が、七覚支法の中の、目玉といつてよいでしよう。いや、三十七道晶の中でも

 これは、宗教、信仰、哲学というたくさんの教法、。思想のなかから真実なるものをえらびだす

ということです。

択というのは、「選択」のタクでず。 略どない本漢字は「選揮」と書いて、選 えらぶ、「揮」。もえらぶ、という字です。

 つまり、ほんとうに真実なる教法をえらびとる、ということですね。この世の中には、さまざまな宗教、信仰、思想があびます。そのなかから真実なるものをえらびとる。そうして、まちがったものや、いつわりのものを捨て石、取捨選択するということです。

 正しい信仰をえらびとって、正しくないものを捨てさるということが修行というのは、どういうことなんだろう? そう思ったことかありますけれども、考えているうち、やはりそれは修行なんだなと思うようになった。というのは、それが修行であるというのは、自分自身の勉強、知能によってそれをなすというところにあるわけです。         、

 たとえば、つぎのようなことです。

 お釈迦さまが出家されて、自分がさとりをひらくに到るまでには、当時のさまざまな信仰や宗教、いろいろなことを教える思想家、そういったかたがたに、肘あたりしてぶつかっていっているわけです。いろいろな仙人にもあって、はなしを聞く、それだけではなくて、それが正しいか、正しくないか、ということをご自分でI生けんめい考えられたということです。

 そうして結局、当時のインドにあったところのあらゆる教え、宗教というものは、みな正しくないという結論に達したわけです。それには、釈迦ご自身のふかい修行と勉強によってそこに到達したわけです。

 ですから、わたくしたちも、この択法覚文が修行であるというのは、自分自身の勉強と修行によって、ほんとうに真実なるものをえらびとり、正しくないものは捨てさる、ということをしなければいけないんです。

瞑想ひつとっても、日本に、瞑想を教える学校みたいなところや、瞑想の先生、そういったものがたくさんあるでしょう。そのたくさんの瞑想のなかから、どれが正しい瞑想法なのか? どの先生が、正しい瞑想法を教えているのか? ということを自分自身がはっきりと取捨選択しなければいけないということです。

 たいていの場合は、自分自身の研究や勉強、あるいは修行によって取捨選択するというひとはすくない、たいてい評判を聞くだけです。

「あのニホンーメディテーションセンターというのはどうなの?」

「あれは、桐山さんというひとがやっていて、いいよ」

 といったり、

 「あれはダメだ、インチキだよ」

 なんていう。そうかなあ、どうなんだろうか。T・M(、rranscendental Meditationo超越瞑想の略語)というのがいいというひともいれば、T・Mというのはダメだというひともいる。その評判だけできめてしまう人が多い。

 それをお釈迦さまは、ありとあらゆるいろいろな教法をご自分でぶつかって調べてみる。瞑想についても、すぐそれがいいとかわるいとか、ひとの評判とか、そういったものにはまどわされない。ご自分がその瞑想をやってみて、、これはいかん、これはいい、というように選択される。

 そういう意味で、択法覚支というのが修行になるわけです。自分が修行をして確かめて、そうそういう立場から、いろいろな宗教にぶつかっていってみた。そうすると、なかなか明瞭な答が出てこないんです。

 天理教にしても、ひとの道にしても、そのほか、わたくしはいろいろな宗教にぶつかってい1つた。ところがそこで、「この宗教で救われるとは、いったいどういうこ&なんですか?」と聞いてみても、これが明瞭でないんですね。

 ある宗教では、救うというのは「しあわせにするLということ、救われるというのは「しあわせになる」ということと、こう簡単に答える。では、’「しあわせ」というのはいったいなにかと追及してみると、その定義がはっきりしない。

 しあわせというのは、要するに、一つの満足感をあじわうことでしょう、そうわたくしは思い

ます。病気で苦しんでいるひとが、病気が治ったら満足しますから、それで救われたと思うでし

ょう。お金がなくて苦しんでいるひとが、お金が入ると満足しますから、よろこびをもって救われたと思う。

 しかし考えてみますと、満足なんていう状態はないんです、人間にとって。しあわせとか満足とかいうことばはありますけれども、実体はない。というのは、しあわせにしても、満足にしても、これは人間のそのときの状態によってあらわれるものです。

 わたしはしあわせだ、予は満足であるぞよ、とこういう。しかし、そのしあわせとか満足というのは、人間がある状況下で、ある状態においてあじわうもので、どこまでも主観的なものです。ところが、人間の状況とか状態というものは、いつも変わる。「無常Lです。はやいはなし、

わたくしがいつも例にとりますけれども、お腹がすいてお腹がすいてどうにもならない。二日も三日も食べないで、ぷっ倒れるほどお腹がすいている。もうなんでもいいから食べたい。そこへ、ウナ丼や天丼やカツ丼がワーツと出たら、これは満足ですよ、もうむしゃぶりついて食べるでしょう。もう満腹する、これはしあわせですね。

 さっきはぶっ倒れるほどお腹がすいていたのが、こんどはぶっ倒れるほど食べる。そうすると苦しいですよ、なにか消化剤はないか、ということになる。

 江戸小咄のなかに、そういうのがありますね。町かどに乞食がすわっている。そこへ、宴会帰りの旦那が、いいきげんで鼻うたまじりでフラフラやってきた。そこで乞食が、

 「旦那さま、一文やってくださいませ。わたくしは、もう二日も三日もごはんを食べないで、ぶっ倒れるほどお腹がすいております

 といったら、旦那が、思わず、

 「それはうらやましい

 といった。旦那は、あんまり飲んだり食べたりしたので、気分がわるい。そうすると、お腹のたいし、ごちそうをうんと食べすぎたひとは、お腹のすいている状態が引らやましくなる。

 お金がほしいお金がほしい。そこでお金がたくさん入ると、泥棒が入るんじゃないか、だれかにだまし取られやせんか、それが気になって夜も眠れない。

 一つの状況下において、満足感をあじわっているというのが、しあわせという状態なのだから、その状況が変わってしまったら逆になってくるわけです。だから、そんなものはあり得ない。一時的な現象としてはあるけれども、そういったものはつづかない、あたりまえのことです。

 そういうしあわせをあたえる、あるいは満足をあたえるなんていうことは、決して宗教の目標ではないはずです。宗教によって救うとか、救われるということは、永遠的なものであり、永続するものでなければいけない。

 どこかの教団が説くように、この信仰をすれば金か儲かる、大臣になれる、代議士になれる、金持になれる、そんなものはしあわせでもなんでもない。それは到達した瞬聞からそれを失いたくないという苦しみに変わるものです。 

 では、いったい救うとは、救われるとはどういうことなのか?

 それを追求して わたくしはあらゆる宗教の門をたたいて、どれも満足する答は得られなか

った。結局、仏教へもどっていった。

 どうかというとヽ大乗仏教では「試れんをあたえる」ということをいっています。

仏教では、アッシッをアンジンという。あなたがたが、大乗仏教のお坊さんに、

 「あなたの宗旨では、どのように人を救うんですか?」

 と聞いたら、禅宗だろうが、浄土宗だろうが、なに宗だろうが結局、「安心をあたえる」とこういいますよ。                                    

 「安心というのは、いったいなにか? これは儒教のほうで、「安心立命」ということばがあります。要するに、心を安んじて、生ぎるいとなみをつづけるということです。人間というものは、いつもなにかしら不安な心におそわれている、そういった不安感をなくし、心を安らかにして命を立てる、つま句生活をするということ、それを安心という、その安心をあたえるのだ、と必ずこういいます。また、死後の不安をとりのぞくという意味で使うこともあり吏す。

 だから、」仏教のいろいろな宗旨・宗派を調べてみますと、みな、いかにして安心をあたえるかということが、匹テーマになっています。

しかし、では、安心というのはいったいなにか? いつもこころが平安で悩みがないということだ。では、それをどういうようにしてあたえるのが、と問題はそこに行く。

そうしますとこんどは、大乗仏教は、答がみなわかれてしまうんです。禅宗の場合は、坐禅観天台宗。ぱ、「朝題目に夕念仏」といって、朝のおつとめには法華経を誦み、夕方のおつとめにぽ念仏を唱える。日蓮上人は天台宗出身ですから叡山に行って、彼は生一本な男ですから、それで疑問をもった。宗教というのは一本でなければいけない、あれもこれもなんていうのはおかしい。。ところが、比叡山の勤行は、「朝題目に夕念仏」といって、朝は「ナムミョウホウレッゲキョウ」といって法華経を唱え、夕方の勤行には「ナムアミダブ、ナムアミダブ」といって阿弥陀仏をおがんでいる。いったいどっちなんだ? ということになる。

 日蓮上人というひとは生一本なひとですから、信仰というものはただひとすじでなければいかん、といヶことで、かれはいろいろ研究して、結局、法華ひとすじ、法華一乗ということで日蓮宗を立てたわけです。                                   

 天台宗の場合は、法華経を信仰して「摩詞止観」の修行をする。真言宗へいくと、密教の修法―金剛界の法と胎蔵界の法を修行して即身成仏する。そういうようにみんなまちまちなんで

そして、結局、なにをあたえるか? 安心だとこういう。安心をあたえる方法というのが、おなじ大乗仏教でみんなちがうんですよ。いったいどれがほんとうなんだ、ということになるでしょう。

 

 これみんな落第なんです、この答は。仏教の目標というのは「安心」なんかじゃない、「成仏」することなんです。『葉隠』の表現を借りると、「仏教とは成仏することと見つけたりです。仏教とは安心をあたえることなりなんて、そんな曖昧模糊なものではない。大乗仏教はもうそこからおかしいのです。なぜそうなったかと考えてみると、成仏法がないからです。さっきいいましたように、各宗旨でみんな安心をあたえる方法がちがう。というのは、はっきりした成仏法がないから、そうなる。そして、「安心をあたえる」というようなはづきりしないことになってしまうのです。

 お釈迦さまはどうおっし『やっているかというと、「成仏することだ」とおっしやっている。涅槃に入ることだと教えておられる。解説して、涅槃に入って成仏したら、安心も不安心もない。

安心とか不安心とかいう相対的なものを越えた、絶対の境地に入ってしまう。これがほんとうの仏教なんです。

 わたくしは、あらゆる宗教を遍歴して仏教にもどり、その仏教の中でまたあらゆる宗旨の門をたたき、最後に最もすぐれた釈尊直説の阿含にたどりつくことができた。ここにくるまで三十年以上かかっています。そのあいだ、択法覚支の連続であった。

 あなたがたは、わたくしよりもよっぽど徳がありますから、わたくしのようにぞんなに時間をかけなくてもすんだ。ぱあっと阿含にきてしまった。よっぽど徳があるんですね。しかし、そのぶん、択法が足りないかも知れん。        

 しかし、そうはいものの、あなたがただって、わたくしほどの勉強はしなくても、現代人としでの感覚、教養、。常識から、この阿含宗をえらびとうた。宗教上の勉強では、、プロ政宗教家や坊さんに。かなわないかも知れないが、しなにより右、おそらく、’自分の人生を賭けるという意気ごみで阿含をえらび取った。これぱすばらしい択法覚支であったと思うです。

                          

朝霧高原にやってきて、三泊四日の出家をして、阿含教法の中でもより高度な法をえらんで身にいつけるため伝法をうけている。りっぱな択法覚支です,

 

精進鴬支            

 択法も、ただえらんだだけではなく、えらんだものを一心に努力精進してぃ自分の身につけなければならない。阿含を学んで、知識として、阿含は最高の仏教であるとわかっただけではだめだ 最高のもだとわかった阿含の教法を、全に自分のものにするために、心。不乱の努力精進というものがなければならない。そこに精進営支があるわけです。

 

修行が苦しいというやつは人前になれない

 

喜覚支

 しかし、その精進覚支も、ミいやいやながらにやったのではだめだというのが、つぎの「喜覚支」なんです。喜覚支というのはよろこびに住する修行だ、というのです。その精進が、真実の教法を身につけるよろこびに住するということです。

えろこびに住さなきゃならんという、これはちょっとむずかしいかもしれませんね。よろこびに住せよ。しかし、「それはわかりますけれども、わたしちっともよろこべないんです。ちっともうれしくないんです岬せめてもう、泣きっつらしないだけ、゛泣きごとをいわないでI生けんめいやっているだけ、。いいと思ってぐださい。

まあ、『それくらいでかんべんしてくださいLというひとがあるかも七れないけれども、お釈迦さまは、それではほんとの修行じゃないとおっしずるんです。

一どんなつちい精進も、どんな苦し。い修行も、それがよろこびに住するという境地でなければ、ほんものの修行ではない、身につかんということいんだ。その苦しいのを苦しいながらにがまんして、努力することが、それが修行じゃないですか、精進じゃないですか、それでいいんじゃないんですか、という理屈も成り立つとおもうんです。そうでしょ、。苦しいことは苦しい、つらいことはつらい、’いやなことはいやだ、けれども苦しいとおもいながら、つらいとおもいながら、いやだとおもいながら、『まあ、とにかく」生けんめいにやってるんだから、それが修行というもので、それでいいんじやないですか、とこういうかもしれないけれども、それじゃほんとうの修行ではない、とこうおっしゃる。なぜかというと、いくつかの理由があげられるとおもうんです。ほんとに、最高にして真実なる教法を選択して、それをわがものにするとい。う努力をしているんだったらば、たとえ苦しくともそのなかによろこびがあるはずだということです。

 それは、わたくしは、わたくし自身の体験でわかるんこのまえもおはなししたけれども、桂米朝という、関西の有名な噺家がおります。あの米朝さんが、この間『米朝全集』という

七冊ぐらいの本を出した。昔からのいろいろな落語を、全部集めて、かれ自身それを演じたのを速記にとって本にした。はなし自体もおもしろいが、その「あとがきLがことにおもしろい。その演じたはなしにまつわる出来ごとや思い出がいろいろ書いてある。その中で、米朝さんがこういうことをいっているんです。

 明治時代の、名人といわれた或る噺家があって、その噺家がこういうことをいっているというんです。どういうことかといいますとね。修行がつらいというやつで、いまだかつて一人前の芸人になったためしがない、というんです。修行をつらいつらいといっているやつで一人前の芸人になったためしはない。こういうことを、その名人が言ったというんです。それを読んで、わた

くしは、つくづくその通りだなあと感じた。

 だれだって、苦しいことは苦しいんです。痛いものは痛いし、悲しいことは悲しい。それを、苦しいと感ずるな、痛いと感ずるな、つらいと感ずるな、というのは無理です。しかしながら、自分にとって最高の価値あると思われるものにふれて、それをわがものにしようとI生けんめいになっているものにとっては、苦しいことは苦しいながら、よろこびがその底にあるんです。・充実感がそこにある、ということです。

 そのよろこび、充実感がないものは、原点にもどって、自分にとって最高に価値あるものをわがものにしようとしている姿勢がほんものかどうか、問い尨せ、ということです。ほんものだったら、苦しい中によろこびがある。      

 わたくし自身の修行体験をはなしますと、そうですね、いつもおはなししていますけれども、

京都で滝行をやうていた時代がある。七年間、わたくしは連続して冬の滝行をやった。夏はやらない。

 九月すぎ、十月ごろから滝に入って、翌年の四月いっぱいやるわけです。そして五月になったら滝場をはなれる。なぜかというと、五月から、入梅過ぎ、暑くなってくると、滝場が混んでしようがないんです。夏、暑くてしようがないときに滝浴びるのは修行じゃない、とわたくしは思う。それはレジャー・ですよ。海水浴へ行くのとおなじだ。

 やっぱり寒いときに滝を浴びてこそ修行なんであって、夏、暑くてし乱うがない、ひとつ滝へでな入ろうか、などといったらシャワーを浴びているようなものでしょう。それはもう修行では

ない・ところがヽおかしいことにヽそういう夏場、滝獣混んでしよ5 がないんです。いろいみな信者をつれて、滝へやってくる。いまはもうそうおがみ屋の先生などが、十人、二十人と弟子や信者をつれていう人たちも少なくなったが、あの時代はずいぶん多かった。

 そういうひとたちが、五人、十人、すくないのは三人、四人、多いひとは十人、二十人と連れてきて、お滝へ入れて滝行し、そのあと飲んだり食ったりして、時にはケッカなんかしてヽますよ。飲んだあと(笑)。いったい何のために滝に入っているのか。

 これは、まあレジャーなんですね。そして家を出るときには、みんなに、『わしは、これから行ってお滝をいただいて、修行してくるんじや』

                          S

「ほう、えろうおまんなあ」

 というようなことで来るわけ。来て、お滝がおわると、精進落しで、酒をのんで、ときには取っ組み合いのケンカなんかしている。もうさきに立つ先生がベロッベロッに酔って、   。

「おまえ、いつもお布施ちびって罰当るぞ」

なんてやっている(笑)。もうどうしようもない。うるさぐてしようがないから、夏は行かないんです。だから、ほんとうに真剣な弟子と師匠は、冬、霜が降りるようになってから来る。しかしそれはご。くわずかで、滝場はシーンとしていますよ。

 そういう時季になってから、。わたくし牒行く。それを七年間やっ、た。         j

昭和三十何年でしたかね、そのころは、いまよりも何か寒かったような気がしますけれども、

正月0 七日でした。そのころは、或るお寺を借りて指導をしておった。観音慈恵会は、まだ道場をもっていない時代です。わたくし自身が修行中ですから、朝、暗いうちに起きて滝に行ぐわけです。朝四時半ごろ、まだまっ暗で、世間は寝しずまっている。

 そこで身じたくをすませて、おもてに出ようとすると、雪が降っている。ピュー″と風が吹いて、雪が吹きつけてくる。気が重いですよ。これからどこかへ行って、爛でI杯やるっていうのだったらそれは心もはずむでしょうけれども、これから滝まであるいていっ七、そこで白衣に着がえて、そうして滝に入るということになると、やっぱり心臓もドキドキしてきますし、気が重い。

けれども、いったん思いたって、仏さまに、やりますと誓っているわけですから、いやもおうもない。勢いよくあるき出す。昭和三十年代のはじめですから、クルマなんていまめように多くはない。自家用車持っているひとなんてごくわずかです。タクシーだってすくない。通りはクルマの行き来もなくしIんとしている。もちろん、お滝に行くのに車を乗りつけるなんていうこはしません。精神的にもそんなことできないが、またそんなことやったら、かえって非常に危険なんです。ヒーターを熱くして、パーツと雪の中を飛ばしてきて、そのヒーターの熱い勢いでパーツと着がえて、パーツと飛び込んだら、パアッといっぺんに心臓マヒです(笑)。だから一歩一歩あるいて行くわけです。そのお寺から約三十分くらいかかりました。

 一歩一歩あるきながら、からだにいいきかせているんです。さあ、これからお滝をうけるんだぞ、しっかりせよ、と、心とからだにいいきかせている。それは前の晩からそうなんです。床に入ると、潜在意識に、あしたの朝起きたら、お滝をうけに行くんだぞ、しっかりしなきゃいかんぞ、ぜったいカゼはひかん、だいじょうぶだ、寒くないぞ、たのしいぞ、といいきかせてねむそれで、潜在意識はたのしいと思うか知らんけれども、表面意識は、やっぱり、寒い、冷めたい、これはたまらんぞという気持です。

 着くと『心経』をあげて、真言をとなえて、そして行衣に着がえて、流れで身をきよめ、それから沌に入る。まあ、それはいいんですよ。もう慣れていますから、スムーズに一連の動作としぐやノしトようがヽ殼初にお滝の水がからだにかかった瞬間、それは冷めたいなんてものじゃない。大根おろしでサア″と肌をけずられているような感じです。

 ことに、わたくしは結核をやって、だいたいが腺病質だった男です。今は修行でこういうが″チリした体に見えるかも知れないけれども、これは見かけ倒しで、もともとは結核で死にかかった人間ですから、寒暑に非常に敏感な体質なんです。寒さはひとよりも寒く感じるし、暑さはひとよりも暑く感じる。もっともそのかわり、うまいものはひとよりうまく感じるかも知れんから(笑)、そのぷん損得なしかも知れんが、とにかくそういったことで寒暑を非常に敏感に感じる体質・なんです。要するに結核体質で、風邪などひくと危険なんです。

\七かし、それはもともと覚悟しているわけで、そんなこと気にしていたら滝行などできない。

そしてあがると、五社の滝神社の奥様がちゃんと薪を燃やしておいて下さるから、それにあたって体を温め、食事をして帰ってくるのだけれども、しんからからだが冷えきってしまっている。

毎日ですから。

 だから、わたくしが本気に滝行と取り組んでいた時代には、真夏になっても水の音をきくと、体じゅうがゾクソクとしたものです。水道の水の音を聞いただけで、体じゅうにトリ肌がたったものです。いまから思うと、徹底的に、水でがらだがいためつけられていたのでしょう。汗をかいていても、水の音を聞くと、トリ肌がたった。

 食事がすむと、ぬれた行衣をふろしき包みにつつんで、今はもう人家がずっとならんでいるけれども、日赤の病院のうらのところの細い道を、五社の滝からおりてくる。いまはもう、大分かわってしまっているようですね。

 その日は、まだ雪がだいぶはげしく降っていて、コウモリ傘をさしてあるいてくると、道の両側に人家がつづいている。道がせまいですから、歩きながらふと見ると、窓があいていて、家の中がのぞけるわけです。のぞこうと思わなくてものぞくことになってしまう。

 それで、ひょうと、一軒の家をのぞいた。すると、その家のおやじさんらしいのが、七日正月というわけでしょう、コタツに入って、お銚子が二、三本ならんでいて、ちょうど、おチョコを

口にこう持っていく’ところでず。とたんに、あ、いいなあ、うまそうだなあ、と思った。同時に、人間の人生というものは、じつにさまざまなものだなあと思った。‐こうして朝暗いうちに起きて滝に飛びこんで、カタカタふるえながら雪の中を帰ってくる男もあれば、起きぬけにコタツ

の中に入って、熱爛で一杯お正月を祝っている男もいる。それが窓一重を境にしているのだから、世の中というものはじつにさまざまなものだ。そう、つくづく思った。

 いったい、三自分はなんのためにこんなことをしているんだろうか。べつにひとにいいつけられたわけでもないし、仏さまに命じられたわけでもない。自分自身、修行に行きづまって、こんなことでもしたら道がひらけるかと思って、‐やむにやまれぬ思いで滝にとびこんだ。自分ひとりの考えではじめたんだから、自分自身でやめようと思ったら、明日といわず、今日から滝に入らずにすむ。

 しかし、じゃあやめてしまうか七いうと、それがやめられない。いままでこれだけ苦労し、つらい思いをしのんでやってきたことが、ここでやめてしまったらなんにもならなくなってしまう。そう思うと、とてもやめられない。

 五年なら五年、。七年なら七年、思いたっただけ、なにがなんでもやり抜こう。ここでやめたら、いまま’でつらい思いをしてきたことが、それこそ水の泡になってしまう。何も得るところがなく、やめるのでは、いままでいったいなにをやってきたのかということになる。なんとかなるか、ならぬか、とにかく、とことんまでやろう、そういう気持になる。同時に、そんな寒いつらい思いをしながらでもiそれはつらいと思いますよ、滝へ入る瞬間は、一瞬であるけれども、もうやめちまおうかと思う。けれどもそれは一瞬であって、やはりこころの根底には、こういうつらい行をいま自分はしている。欲も得もない、ただ純粋に精神的ななにかを求めてこういう行をしている。ごれだけの行が、世間一般の連中にできるか、それをいま自分はやっているんだ。そういうひとつの誇りとよろこびが胸の底にあるんです。

 だから、わたくしは、コタツに入って一杯やっているおっつぁんをみて、ああ、うまそうだなあ、いいなあ、と思ったのは一瞬だけです。ほんとうにうらやましいと思っているのかというと、ちっともうらやましくなそない。むしろ軽蔑している。軽蔑というとおかしいが、あれはふつうの人間、おれはぢょっとちがうぞ、という誇りがあるわけです。あのおっつぁんは、いまああして一杯やって楽しいことだろうが、あれだけのものだ。おれはいまこういうつらい思いをし

ているけれども、いまになにかつかむぞ、なにもつかめなくっても、ふつ`うの人間にはできないことをおれはやっているんだ。そして一歩一歩、仏さまに近づきつつあるんだ。これはだれにもできん。おれだけにしかできないことなんだ。そう思うと、ひとつの誇りと満足感、充実感というものが胸の中にあふれてくる。

 わたくしは、行というものはつらいものでなきゃいかん、苦しいものでなければいかんと、つくづく思いますよ。苦しい、つらい、だからこそ、こんな思いをするんだから、なんとしてでも、なにかつかまなきゃつまらん。そう思って真剣になる。精魂こめて、て心不乱に工夫をす

る。命がけでぶつかってゆく。そうすると、つらいも苦しいも、ふっ飛んでしまう瞬間がくる。あ、これだ、これなんだ、と、天に向かって叫びたいような一瞬がくる。これは、喜びなんていうありふれた言葉では表現できない感情です→喜びが自然に湧い

てくる

 米朝さんが本で書いている名人のはなしというのは、それだと思うのです。

 いまとちがって、明治時代の噺家の修業なんていうのは、たいへんなものだったと思います。

師匠から、人間あつかいされないで、仕込まれる。そりゃあそうです。人情かけていたら、芸なんて仕込めやせんのです。

 この仏法の修行だってそうですよ。

 ほんとういったら、あなたがたをほんとうにきたえようと思ったら、人情なんてものを出したら、ぜんぜんだめです。人情なんかかけていたら、ぜったいに人など教えられるものではない。

人間だと思ったら修行なんかさせられませんよ。現に、わたくし自身が前にやってきたようなことを、いま、あなたがたにやらせられるかというと、とてもやらせられない。かわいそうで かわいそうだという気持が先に立ってしまって、やらせることができない。

 しかし、それではいけないんで、ほんとうは心を鬼にして、諸君を人間あつかいにしないで、

滝つぼにでも何にでもたたき込む。泣きべそかいたら、たたきつけ、けとばす。そのくらいのいきおいでなければ、ひとなんてものは教えられないし、ましてひとを救うなんてことはできんのです。

 けれども、わたくしはまだ修行未熟だからそこまでできないんですよ、あなたがたに。もう、

たった三泊四日のこの位のことで、「まあ不自由でしょうが、しんぽうしてL、なんて言っている(笑)。なにを言っているか(笑)。しかし、わたくしは本気でそういっているわけじゃあない。

ことばでは不自由でしょうが、といっているけれども、そんなことあたりまえなんだ。このくらいのことができないで、ほんとうの仏法の修行ができるか。おれのやってきた百分の一にもあたらんじゃないか。そう腹の中ではいっています。けれども、わたくしは、元来、気の弱い、心の

やさしい(笑)人間でありますから、なかなか徹底できない。

 しかし心の中で、つねに、何とかもっと非人情にならなきゃいかん、情というものを捨てなき

ゃいかん。それが弟子にとって最高の情なんだ、そう考えているのだけれど、なかなかそれができないんですね。

 こういうはなしがあるんだね。これも噺家で、このあいだ亡くなった、何とかという名人といわれたひとですが、あるとき、弟子入りして一年か二年の、十六、七か十七、八の弟子を二人連れて、寄席まわりをしていた。今とちがってむかしですから、雪が降って寒い晩だが歩きです

寄席がおわって弟子といっしょに帰ってきた。もう弟子も師匠も、おなかが空いてペコペコ。寒いなか弟子たちは、

顔を見合せて大喜び、これは師匠、ごちそうしてくれる。あったかい天ぷらツバでもごちそうし

さが囃射にしみる・とヽ師匠がその弟子二人を連れてツバ屋のノレッをくぐったてくれるのだと思ってニコニコして入った。 そうしたら師匠の注文が、天ソバーつ。弟子たちは耳をうたがったわけです。三つというのだろうと思ったら、二つだというんだ。一つの天ぶちソバを三人で食うのかしらん、と思っている

内に、天ぷらツバが出てきた。師匠が割りばしを口で割って、ブウブウ吹きながら、ソバをすする。ふと、顔を上げて弟子たちの顔を見ながら、

 「食いたいか」といったという。ヽ片方はヨダレをのみこみながら、

 「そりゃあ師匠、食べたいですよ」

 「そうか、食いたかったら、はやく一人前になれよ」‐         I ノ     ニ

 フそういってツルッルと食べおわると、金をはらって外に出た。こんちきしょう、と思ったとい呑んだね、弟子たちは。こんな鬼のような師匠があるか。絞め殺してやりたいと思った。けれども、いくちなんで心、絞め殺すわけにはいかないし、その。師匠のところを飛び出したらもう噺家の仲間では食ってはいかれないから、腹の中で、こんちきしょう、いまにみていやがれ、おれは早くえらくなって、天ぷらソ八三杯食ってやるぞ(笑)なんて。

‘もうほんとうに腹が立った。それでお正月すぎに、薮入か何かで家へ帰ったときに、父親から、

「どうだ、師匠、よく仕込んでくれるかL

 ごと聞かれたときに、帰り腹ペコペコで一緒にソバ屋に入ったら、自分だけ天ぷらツバーつとって食って、食いたいか、

とこういいやがるんですよ。それは食いたいから、師匠食いたいです、といったら、そうか、食いたかったら早く一人前になれ、そう言いやがって、とっとと表に出てしまいやがった。あんなヶチで不人情な奴はみたことない」

 そう答えたら、そのおやじさん、いきなりぱあんと肘が横ッ面を張り」ばして、こんなおりがたい師匠がこの世に二人とあるか、と叱りつけたという。これがほんとうにひどを仕込む、師たるものの心がまえだね。わたくしにはそれができないんだな。わたくしだったら、もう天ぶちツ八五杯たのんで、  ’

「おれは一杯でいい。おまえたち二杯ずつ食え」

前になれ。これがほんとyつの師匠というもの(笑)です。わたくしもせいぜい修行して、諸君にになんて(笑≒そんなことではダメだねえ。ほんとうに食いたいか、食いたかったら早く一人何も食わさず、ひと句で天ぶちソバを食えるように心がけまして、つらい、苦しい、と思っ七いたら、芸なんて身につくものじゃない。ようし、人より早く一人前になってやるぞ、と発奮して一心に努力すれば、ふ云が身につぐ喜びどいうものが出、て来士

す。そうなったらいもう、じつらいも苦しいもない。そういうつらさ、苦しさが、芸の糧になってごはなしが横みちにそれましたが、この弟子たちにしても、こういうことをいつまでも根にもつくる。それが、自分でもわかるようになってくる。

 そうで力くて、修行が、苦しい、つらい、といっているやつは、とうてい一人前の芸人にはなれん。なったやつはいない、と、こう、米朝さんの書く名人が言ったというんだね。

 それを、わたくしは、ちがう角度からお釈迦さまはおっしゃっていると思うのです。

 修行はつらいものだぞ、ということが前提なのです。「喜覚支」よろこびに住せよ、という。なぜ、わざわざお釈迦さまが、よろこびに住せよとおっしゃっているのか。それは、修行というものは、つらいものだぞ、苦しいものだぞ、悲しいものだぞということを、前提にして、おっしゃっているのです。

 その中で、よろこびを見出せIいや、よろこびを見出すというのだったらまだほんとうではない。住す、というんですから、自然に、よろこびが湧いで出るのでなくてはならない、ひとりでに、よろこびがこみあげてくる。つらい修行が、よろこびにみちた修行になるよう修行せよ、とそうおっしゃっているわけです。だから、修行、精進というものは苦しいものだぞ、ということをお釈迦さまはこの「喜」という字のかげにおっしゃっているのです。仏法の精進、努力というものは悲しいものだぞ、苦しいものだぞ。決してたのしいものではないのだぞ、つらいものだぞ。

 しかし、その中からよろこびに住するようにせよ。よろこびに住さないようでは本物になれんぞ。じゃあ、どうやってよろこべるようにするのですか。それはおまえが工夫するんだ、どいうことです。工夫することが修行なんです。だから、わたくしが、こうすればよろこべるようにな

石なんていった6 、それはあなたがたの修行にはならん。まあ、ここでのこんなていどの修行は苦しくもつらくもないはずなんだけれども、苦しい、つらいと感じているひとがもしあるとするならばにんな苦しいつらいなかからどうやっとならば、どういう心がまえを持ったならば、。よろこびに住せるのだろうか、と一心不乱に考える。工夫する。そしてそのように努力する。それが「喜覚支」ということである。そう、わたくしは解釈しています。          一xI

ごこ今桜 微笑を持て

 碕覚支

 

 この「狩」というのは、ちょっとわかりにくい文字ですが、「軽安」と訳しているお経ります。    

 忙喰覚乞、という。これは、つねに身心を軽やかに快的にする、ということです。修行中、つぬに身心がかろやかでなくてはならない。どんなにつらい修行、苦しい修行をしていても、しかめっ面で、のろのろ鈍重なことをやっていたのではいけない、というのです。チラシまき修行だろうが、お便所掃除だろうが、なんであれ、身心軽快でなくてはならない。

 この反対の言葉があります。というような意味で、人をして煽惰、怠慢ならしめるものです。睡眠蓋という。のは「心くらく身を重からしめるLという心作用で、人をして、ものごとを行なうにあたり、不活発、鈍重ならしめる。ことを行うにあたって心巧みでない。                    十

 これではいけませんね。軽安覚支はその正反対です。

  ということで、煩悩の一種です。幡沈というのは、「心のめいること。ふさぎこむこと。沈億

不活発な気質Lあるいは、「心を暗く沈ませる心作用Lというような意味で、人をして頼労、

げしに回イにづ悩の中にヽ愉漑瞭睨戸という宗あ芯を覆う

 ここの修行中でも、そうでしょう。朝、目をさまして、起床する。ねむいし、もう、体のあちこちが痛むし、とても身心かろやかどころではない。どうにもならん、みんな仏頂面して、ぷす″として、口もきかない。しかし、それは身心かろやかではない。

 身心をかろやかに、ニゴニコして、おはようございます、と声をかけ合う。何十人という人が目をさましてJだれひとり、にこやかな顔をしておはようございますといわない集団なんて、なんとも異様だとわたくしは思う。

 どんなことがあっても、朝、目がさめる、おはようございます、とニコニコ笑って声をかけ合う。そこから、活気というものが出てくる。それがエネルギー・となって盛りあかってくる。だれもかれもしかめっ面をして、黙ってもぞもぞやっている。悟沈睡眠蓋ですよ。いつまでも、暗く沈んだ空気で、活気がない。だれでもいい、だれかひとり卒先してやるんですよ。「おはようございます。いい天気ですね」まあ、この朝霧高原ではあまりいい天気の日というのはないが、それだけにこっちが明るく軽快でなくてはいけない。おはようございます。今日もがんばりましょう。だれかひとり、そう声をかけてごらんなさい。明るい軽快な気分がみんなにひろがってゆく。そこから活気が湧いてくる。その活気が子不ルギーとなって盛りあがり、みんなの活力とな

ってゆく。

 自分が身心をかろやかにするということは、ひとをも身心かろやかにさせてあげなければいけない、ということです。

 これは、自分ひとりのときでもそうです。

 わたくしは、つねに、「心に微笑を持て」といっています。そうして、心でいつもつぶやくのです。

「かろやかに、明るく、楽しく」

 

修行法と梵行

定覚支

 これは、心をひとつのものに集中してみださない修行です。瞑想法で、純然たる修行法ですから、文字や口では説明できない。実地に指導をうけて体得してゆく。「滅尽定L「四禅定」などをふくむ七科三十七道品の中でも、根本的な修行法ですい

 

捨覚支

 あらゆるものごとにたいし、とらわれる心を捨離する。ものごとにとらわれ、執着するところ

から、煩悩が生ずる。、

「煩悩の犬、追えども去らず」

 などということばがありますが、十分わかっていて、こだわってしまう。とらわれてしまう。

 わたくしは、若いころ、’‐そういうとき、心の中で、「サラリ’、サラリ」とつぶや’いたものです。

とちわれた句、こだわりそうになったとき、サラリ、サラリ、とつぶやいて流してしまうのでを横に向けてしまうので、’心をほかのものに転じてしまうのですね。こ柚は案外、効果がありまつい一こ以て、「であるからこれは執着してはいけない。

す。いろいろ、いろいろと心の中で理くつをこねてとらわれの心を剖一にしすべきだ」なんて考えるよりヽサラリヽサラリ、とつぶやいて横を向いてし

まうのが、1番です。

 しかし、根本的には、「定覚支」による瞑想、「念覚支」による縁起観法、、等によって、完全な「捨」の境界に達するわけです。その境界に達すると、一切を捨て切って、心中、微塵の影もなく、こころ明鏡のごとし、ということになるわけです。`そうなったら、いつ、この世を去っても、異陰など生ずる余地がないわけです‥

’以上、ざ『つとJ七覚支についておはなしいたしました。

、そごで、どの、七覚支の講義を終えるにあたってい最も大切なことを一つ、おはなししておきたいと思います。

 それは、この七党支の修行法をずうっと見て、なにか、気がつくことはありませんか? なにか、気のつくことがあると思います。  ―

それは、、この成仏法が、二つのものから成り立っている、ということですJ     上上一つは純然たる修行法。

これは非常に興眸のあることですね。

 どういうように分けられるかというと、修行法では、「念覚支Lそれから「定覚支」それから捨覚支です。この三つは、特殊な技法から成り立っている。たんなる心がまえ、心がけといったようなものではない、純然たる修行法です。

 い梵行にあたるのは、「精進覚支」喜覚支」「軽安覚支」です。

 「択法覚支Lは、修行法と梵行と両方の立場がある        。            ’ゝ

 以上のように分けられますね○ ’              ‐        ‘     j`

 

 で、これは、七覚支だけのことかというと、そうではない。他の六科目の成仏法すべてにあて’

はまるめです。ただいその比率が、修行法と梵行とが、半々の割り合いでできている場合もあれば、、七対三、六対四ノというようになっている場合もあり、一律ではありません。しかし、かならず、成仏法は、純然たる修行法と梵行とがら成り立っています

 

 これはいったいどういうわけか。もっとも、前に出たお経に、 『-一一優婆塞の諸々の梵行を修し、此法律に於て狐疑を度るものありや不や』

とありましたから、成仏法が、法と梵行と、この二つから成り立っていることは、わかっていたことでありますが、これはどういうわけであるか。

 わたくしは、この、梵行を修行法に加えることにより、在家の者も、出家者とおなじく、解脱の成果をあげることができるようになった、釈尊のご配慮だと思うのです。この、釈尊のご工夫Jじように、成仏できるようになったのだ、そう思います。

により、在家者も出家とおなじように行をしながら、衆生を救済する、指導するというのが建て前ですから、これは特に徳を積むといするようになっている.

よりといいますのは、梵行とはなにかというと、それは「徳を積む行」です。出家者は、自分の修う行をする必要がない。出家者の生活そのものが徳を積む行をするようにずるような方向にいきやすい。これを補正するためには、どうしても、徳を積む仕組みをくわえ

なければいけない。それが、梵行です。

 

 念竟支・定覚支、というような、純然たる技術としての修行法をいくらやっても、それだけでは、成仏はできないのです。徳がなければ、どんなに技術としての修行法をマスターしても、成仏はできない。いや、第一、徳がなかったら、その技術としての修行法を、マスターすることができないのです。必ず、中途で挫折してしう。

 時々あるのですが、わたくしのところへ、超能力の修行法を求めてくるひとがあります。求聞持法あるいは念力の護摩法を体得したいということでやってくるわけです。あるいは霊視力、霊感などを持ちたいという。わたくしの門人になって、一、二年法を修めれば、そういう超能力が得られると思っている。

 ところが、そういう人たちにわたくしがやれというのは、「準祗尊干座行」です。そうして、チラシまき、便所掃除、下足番をやれという。それで、ちょっとやってみて、すぐに、なんだバカバカしい。こんなことで超能力なんてものがつくはずない。もっとほかにいい修行法があるにちがいない、ととび出して、あっちこっち、’「秘法」を求めて、転々としてあるく。  j

 いいですか。

 どんな高度の修行法があっても、修行法で成仏するんじゃないんです。’「徳Lで成仏するんです。。修行法で修行して成仏力を身につけるのには、どうしても徳がなければならない。。徳がなかったら、修行法そのものにさえ、縁がいただけない。  

 

「準眠尊千座行」は、釈尊の成仏法、七科三十七道品にのっとって、修行法と梵行から成り立っている。「準眠尊于座行」と梵行で「五下分結」は必ず切れるのです。必ず「阿那合」―にまではゆける。しかしそれには、修行とともIにしっかり梵行をやって徳を積んでゆかなきゃならんのです。

 

 徳なくして、どうして成仏できるか。

 第一、仏さまのことをなんというか      。 一

「万徳円満」というじゃありませんか。すべての徳が完全にそなわっている、というのです。成仏、というのは、その仏に等しくなることです。徳なくして、万どうしてそれができるか。梵行こそ、」それを可能にするただ一つの道です。修行法に梵行をくわえたことにより、釈尊は者にも、・ぴろく成仏の道をひらかれたのであり、大乗仏教のひとたちがよくいうように、決して

釈尊め仏教は「出家仏教」ではないのです。出家、在家を問わず、すべて、解脱へ到達せめる、゛かの婆践出家が讃嘆したように、まさに、それは、

そく うぱい  もし なん もし によ ことごと みなした

塞、優婆夷、若は男、若は女、悉く皆随

ぷっ ぼう そう ぴょうどぅほうりっ

仏・法・僧の平等法律なることや』

 てんおお  あめふ  すいるしたが  くだ  ごと  くどん ほうりつ !たまたかく ごと  びく  ぴくに  うぱ

『天大いに雨りて水流随いて下るが如く、琶曇の法律も亦復是の如し。比丘、比丘尼、優婆

ヽく うぱい  もし なん もし によ ことごと みなしたがなが  ねはん むか ねはん さら はこ  はなはき

邑、茫冬ぼ、、ぼよ君、窃まな、悉く皆随い流れて涅槃に向い涅槃に浚え輸ぶ。甚だ奇なり。なのです。

 

おわりに

原爆坦二度落ちる

 わたくしは、この、日本という国ほど、業のふかい国はないと思うのだ。

 なぜか?

 

 地球上でただ一つの、原爆の被爆国ではないか。

 しかも、一度ならず二度までも    」                \

 ほかに}国もないのである。日本だけなのだ、この惨禍を受けたのは。

 これはいったいどうしたことか。

 もちろん、わたくしは、一日本のほかにも被爆国の道づれがあったらよかったといっそいるのではない。

 

 

おわりに

 この国を以て人類の狂気のみせしめにされた思いである。

 しかも、それで終わるのではないのだ。原爆はこの国にもう1度落ちる。それがわたくしには見えるのだ。

なんという業のふかさか。

 いまや、この国の上空を、破滅のカルマが一面に覆い、それは日に日に、厚く、濃く、なりつつある。

 それが頂点に達したとき、原爆は落ちるのだ 

 カルマを断ち切る方法は、シャカの説いた教法にしかない。 わたくしが、かくもホケトに、現代にシャカをよみがえらせようとしているのは、この国を滅亡から救うために、それしか方法がないからである。

 シャカは、カルマを断つ教法をもとに、個人の成仏を説いた。個人の成仏は、即、国土の成仏にほかならない。それはそのまま、社会の成仏につながる。なぜならば、個人の集団が、国であり、社会であるからだ。

 

 

今日の運勢 3月6日  Today’s fortune March 6

魔術師
正位置・・・希望。創造。巧み。熟練。創業。修行を始める。恋愛や交際の始まり。入学。ものごとの始まり。聖地。聖者。宗教上の本山などへの参詣。結婚式。新婚旅行。
逆位置・・・優柔不断。不適当。弱さ。不安定。神経の不足。創造力の不足。未来の計画に対する臆病さ。無理にすすめられる結婚や結婚式。技量不足で低迷する恋愛。
ウェイト解説
正位置・・・手腕。外交。手際。巧妙。病。苦痛。損失。災害。敵の罠。自信。意志。男性の質問者。
逆位置・・・医者。賢者。精神病。不名誉。不安。

 

五黄土星の日

小さな自我は破れやすい。絶望的な思いの人の来訪を受けたりする。名利を離れ天を相手にの心境を養え。

対人関係が良好な日。
周囲と積極的にコミュニケーションをとることで、課題や問題が解決に向かいます。
ただし相手への余計な干渉や詮索は避けて、同調する姿勢を重視することが大切です。

 

magician
Positive position … Hope. Creation. Skillful. Skilled. Founded. Start training. The beginning of romance and dating. admission. The beginning of things. Sanctuary. Saint. Visit to religious temples. wedding. Honeymoon.
Reverse position: indecisive. Inappropriate. weakness. unstable. Lack of nerves. Lack of creativity. Cowardice for future plans. Marriage and weddings that are forcibly recommended. A romance that is sluggish due to lack of skill.
Weight commentary
Normal position … skill. Diplomacy. Skill. Clever. disease. pain. loss. disaster. Enemy trap. Confidence. will. Male questioner.
Reverse position … Doctor. Sage. Psychosis. Disgrace. anxiety.

 

 

Five Yellow Saturn Day

The small ego is easy to break. We receive visits from people who are desperate. Leave your name and cultivate your feelings toward heaven.

A day with good interpersonal relationships.
By actively communicating with those around you, problems and problems can be resolved.
However, it is important to avoid unnecessary interference and snooping with the other party, and to emphasize the attitude of synchronization.

今日の運勢 3月5日  Today’s fortune March 5th

 


正位置・・・予期されない危険。恋愛上の不運。スキャンダル。欺く。欺かれる。迷い。裏切り。家庭、家族の不和。家族の中に出る病人。死亡した関係者にまつわる事柄。霊感。心霊現象。死者との交霊。信仰。墓地。悪霊が付く。悪魔祓い。不安のある旅立ち。転職。就職。進学。見合い結婚などで未知の世界へ飛び込むこと。先祖。先祖霊。霊界。
逆位置・・・小さな嘘。軽いスリルを味わう。少しの失敗。過去の出来事に影響される。魔女的な女性に影響される。過去の嫌な相手が現れる。恋愛上の口論。
ウェイト解説
正位置・・・隠れた敵。危険。中傷。闇。恐怖。欺き。幻想。オカルト的な力。失敗。
逆位置・・・不安定。続かないこと。沈黙。小さな欺きと失敗。

 

四緑木星の日

縁談、商談の来訪者あり。言動をつつしみ話を進めると良い。いつも良い日、皆良い人。こんな心境を養いたい。

様々な災難に見舞われる日。
物事は上手くいかず、気分も落ち込み、喪失感や不安感に襲われます。
現状を変えようと躍起になっても空回りするだけです。
この日は全て受け身に徹して、周りに流されるくらいの気持ちで過ごしましょう。

 

Moon
Positive position: Unexpected danger. Bad luck in love. scandal. throw dust in eyes. Be deceived. I’m at a loss. betrayal. Home and family discord. A sick person in the family. Matters related to the person who died. inspiration. Psychological phenomenon. Spirituality with the dead. faith. Cemetery. Evil spirits are attached. Devil exorcism. Anxious departure. Change jobs. Employment. Go on to higher education. Jumping into an unknown world by matchmaking marriage. ancestor. Ancestor spirit. The spirit world.
Reverse position … a small lie. Enjoy a light thrill. A little failure. Affected by past events. Influenced by a witchy woman. An unpleasant partner in the past appears. A romantic quarrel.
Weight commentary
Positive position … Hidden enemy. Danger. Slandering. darkness. Fear. Deception. An illusion. Occult power. Failure.
Reverse position: unstable. Don’t continue. silence. Small deception and failure.

今日の運命 3月4日 Today’s fate March 4th

 

剛毅、もしくは力
正位置・・・勇気。自己犠牲。念力。インスピレーション。不可能を成し遂げる力。常識や社会通念の打破。偉大な精神的指導力。忍耐。努力と忍耐による愛の勝利。理想へ向かう。相手の醜い欲望をなくさせる。危険を恐れない勇気をもつなら計画を実行に移すことが出来る。
逆位置・・・獣性や強いものに負ける。常識や法に負ける。力の乱用。忍耐の欠如。弱さ。チャンスを逃がす。
ウェイト解説
正位置・・・力。エネルギー。行動。勇気。寛大。完全な成功と名誉。
逆位置・・・独裁。力の乱用。弱さ。不一致。時には不名誉。
Tsuyoshi or power
Positive position … Courage. Self-sacrifice. Psychokinesis. Inspiration. The power to accomplish the impossible. Breaking down common sense and common sense. Great spiritual leadership. Patience. Victory of love through effort and patience. Go to the ideal. Eliminate the ugly desires of the other party. If you have the courage to not be afraid of danger, you can put the plan into practice.
Reverse position: Loses to beasts and strong ones. Lose to common sense and law. Abuse of force. Lack of patience. weakness. Miss the chance.
Weight commentary
Normal position … force. energy. Action. courage. Generous. Complete success and honor.
Reverse position … dictatorship. Abuse of force. weakness. Mismatch. Sometimes disgraceful.

 

 

三碧木星の日

望み事を持った人が来訪する。思い掛けない事が起こる。善因善果。神、親、社会、衆生、物のご恩をかみしめ精神本位で行動すべき日 今まで9日間の行動の善悪によって思いがけない吉凶が生じます。

万事思い通りに進まない日。
あちこちの地雷を自ら踏んでしまうような日になります。
何をするにも十分な余裕をもって行うことで、傷は浅く、不運からの素早いリカバリーが可能です。
こういう日もあるさ、と割り切るくらいの心の余裕を持つことが大切です

 

Mitsuo Jusei Day

A person with a desire visits. Something unexpected happens. Good cause and good effect. The day when we should act in a spiritual manner with the grace of God, parents, society, sentient beings, and things. The good and evil of our actions for the past nine days will cause unexpected good and evil.

A day when everything doesn’t go as planned.
It will be a day when you will step on land mines here and there.
If you do everything with plenty of room, the wounds will be shallow and you will be able to recover quickly from bad luck.
It’s important to have enough leeway to think that there are days like this.

 チャクラの場所は、すべて、内分泌腺と一致する  All chakra locations coincide with endocrine glands

 

チャクラが、どうして、超人的ともいうべき特殊な力を発生するのか?

 長い間、それは神秘的々謎とされていたが、近代生理学の登場によって、その謎はた。

 チャクラの場所は、すべて、内分泌腺と一致するのである。

 クンダリニー・ヨーガの熟達者は、特殊な修行によって得た力でその場所を刺

激し、ふつうの人間の持たない力を発生させるのである。内分泌腺がそ生源なのである。

 これを、近代医学による内分泌腺と対照すると、表1(七三頁)のようになる。

 ただし、よってわたくしが分類したもので、欧米のヨーガの指導者たち(およびその系統の人たち)の対照分類のしかたと、だいぶちがうところがある。わたくしは、わたくしの修行体験によって、このほうが正しいと信じているが、あるいは、これはリードビーター氏がいっているように、人種、民族別による体格、体質の相違

によるものであるのかもしれぬ。氏はその著書の中で、チャクラの大小、色彩、位置、形状など、有色、白色、東洋、西洋の民族、人種の相違によってかなりちがうものがあり、また、おなじ民族、人種でも、多少の個人差が見られる、とのべている。たしかにそのおりだと、わたくしも思っている。

 

 

チャグラの機能

 

 チャクラは、ホルモンを分泌する内分泌腺と同一の場所にあり、ホルモンが持つ驚異的な力を発現させる場所であることをのべた。

 では、各チャクラは、どのような力を発揮するのであろうか。

 

クンダリニー・ヨーガの秘伝として伝えるところのものを記してみよう。

 

1 ムーラーダーラーチャクラ

 

内分泌腺の性腺、腎臓の部位である。

このチャクラを覚醒すると、体力が異常に増進して、ふつうの人の三~五倍の精力を持つようになる。三日、四日の徹夜くらい平気になる。いっさいの病気を受けつけず、健座作そのものとなる。病弱だった者は、その悪いところが、みななおってしまう。このチャクラに綜制汐弓j∃Qを集中してそのエネルギーが発動したとき、瀕死の病人でも床を蹴って立ち上がるだろう。男女ともにじっさいの年齢より十歳以上若くなる。

 そのかわり、強烈な性欲と生殖力を持つようになるので、その于不ルギーを、オージャスという知能のエネルギーに変える方法をあわせもちいる。

 

 

 2 闘いのホルモン、英雄ホルモンを湧出させる副腎の部位である。

 このチャクラが覚醒して于不ルギーが発動すると、気力が充実し、勇敢になっ

て、積極果敢な行動力を発揮するようになる。なにものをも恐れず、なにごとにも惑わず、大胆不敵、不動の信念を持ってどんな困難にもひるまない。生死を超越した超人的手腕力量を発揮する。

 

3、マニプーラーチャクラ(ナービーチャクラ)

 

ヨーガの奥義書である「ヨーガースートラ」にこうある。

臍輪に綜制をほどこすことによって、体内の組織を知ることができる。

この章について、佐保田鶴治博士は、

臍輪というのは、実際の臍の孔ではなくて、そのあたりにありと想像される神秘な車輪状の部位のことで十六の帽をもっていると言われる。一説では、後世のハターヨーガで説く六つのチャクラの中の下から三番目にあるマニプーラーチャクラのことであるともいう。いずれにせよ、肉眼で見える部

に刄yけ々く、幽体に属するものとされている。臍輪は気体(生命エネルギーかシリグリ休)の中央にあるから、これに綜制を行なうと、身体内の組織がわかる、というのであ。

と解説されておられるが、これは、多少ともちがう。

 

 博士は、「そのあたりにありと想像される神秘な」といわれるが、この部位は、決して空想的な場所ではない。たしかに神秘的とも思われる偉大な力を発揮するけれども、医学的にはっきり確認されているのである。

 

 それは、医学的には、ソーラー・プレクサスと名づけられた「太陽神経叢」のことである。腹腔神経叢、内臓動脈軸叢ともいわれ、腹腔動脈より出る上腸間膜動脈の起始部にある交感神経の大きい神経叢である。胃の裏側にあって、さながら太陽の光線のごとく各臓器に神経を送っているので、この名前がつけられた。

 すなわち、ここから出る神経は、食道、胃、腹部血管、肝臓、輸胆管、卵臓、副腎、腸等に分布している。また、この神経叢は大小内臓神経、迷走神経、第十二胸神経節、第一腰神経節などが集まっており、内臓の神経としては最も重要な叢である。

 

 チャクラというのは、いずれも、いままで、空想的、神秘的場所とのみ考えられてきた。これらの部位は、決してそういうものではなく、さきにのべたように、内分泌腺、神経群、酵素などに深い関係があり、じっさいに、医学的見地から見ても非常に重要な場所であり、大切なはたらきをする場所なのである。

 

「綜制をほどこすことによって、体内の組織を知ることができる」とあるが、この綜制というのは、特別な修行を経た特殊な集中力をいう。この組織を知る、というのは、単に組織を知るだけではなく、組織を自由にコントロールすることができるという意味である。じっさいにこの臍輪に綜制を集中すると、この「太陽神経叢」

に属する内臓器官-それは食道から、胃、肝臓、騨臓、牌臓、副腎、腸にで、すべてを自分の思うようにコントロールできるのである。これらの内臓器

が、どんな状態にあるかをすぐ知り、少しでも異常があるようであれば直ちに正常に戻してしまう。そういう力の訓練が、この臍輪のトレーニンる。

 また、それは、自分の体だけではなく、他人の体も自由にコントロールする力を持つから、人の病気なども即座に癒してしまうのである。

 

 4、アナーハターチャクラ

 

 胸腺・心臓・肺臓の部位である。

 このチャクラの体現により、いちじるしい感覚器官の増幅が見られる。

 究極の力では、不可視光線(赤外線、紫外線)を見ることができ、超音波を聞

くことができる。その結果、天災地変を予知することができるようになる。

 

それは、その超感覚と高度の知能の結合によるものである。それらは、自分の

肉体を思うままに統御する能力から来る。マニプーフーチャクラとの結合である。

 

5、ヴィシュッダーチヤタラ

 

 甲状腺・唾液腺の部位である。

 感覚器官の増幅が、高い次元に向かってなされる。

 

 聖霊と交流し、聖なるものの声を聞くことができるようになる。

 

また、自分にとって不可解な、理解できぬことなどを、天地にみちた、すぐれ

た心、智慧の于不ルギーに同化して、そこから聞くことができる。つまり、人の肉体はほろびても、その人の持っていた心の于不ルギーは、この空間に痕跡をとどめているので、このチャクラでその心の波動と同じになれば、その心が持っていたすべてのもの、意識も知能もみな自分と同化して、自分のものになるという

ことである。

 

つまり、それは、霊界(四次元の世界)との交通の道が開けることを意味する

のである。

 

6、アージュニャー・チャクラ

 

脳下収体の部位である。極度に発達した知能を持つ。

 一度、目にふれ、。度、耳にしたことは、ぜったいに忘れることのない記憶力。

 どのように複雑な構造でも組織でも、瞬間的に分析し、推理し、理解して、本

質を把握してしまう演絆と帰納の力。

 

 コトバという間接思考を経ない純粋思考から発する超飛躍的な創造力。

 究極には、仏教でいう「常楽我浄」の四徳を完成し、仏陀の感性に到達する。

 

7、サハスラーラーチャクラ

 

 松果腺・松果体・視床下部の部位である。

 これを体現すると、仏陀の覚醒に到達する。すなわち、霊性の完成である。

 このチャクラは、「頭の中の光明」(とよばれる。このチャクラが目ざめた刹那、この部位に光明があらわれて、燦然とかがやくからである、という。

 

Why do chakras generate special powers that can be called superhuman?
For a long time, it was a mysterious mystery, but with the advent of modern physiology, that mystery has become.
The location of the chakras all coincide with the endocrine glands.
A kundalini yoga expert stabs the place with the power gained through special training
It is fierce and produces power that ordinary humans do not have. The endocrine gland is the source.
If this is compared with the endocrine glands by modern medicine, it will be as shown in Table 1 (page 73).
However, it was classified by me, and there is a big difference from the contrast classification of Western yoga leaders (and people of that lineage). I believe this is more correct because of my training experience, or, as Mr. Leadbeater says, differences in physique and constitution by race and ethnicity.
It may be due to. In his book, there are some differences in chakra size, color, position, shape, etc., depending on the color, white, oriental, western race, and race, and even the same race and race. It is said that individual differences can be seen. I think it’s true.

Chagra function
The chakra is located in the same place as the endocrine glands that secrete hormones, and it is a place where the amazing power of hormones is expressed.
Then, what kind of power does each chakra exert?

Here’s what I’ll tell you as the secret of Kundalini Yoga.
1 Mueller Darler Chakra

The gonad of the endocrine gland, the site of the kidney.
When you awaken this chakra, your physical strength will increase abnormally and you will have three to five times as much energy as a normal person. I feel fine all night on the 3rd and 4th. It does not accept any illness and becomes a Kenza work itself. Those who are sick will recover from their bad points. When the energy is activated by concentrating the control bow j∃Q on this chakra, even a dying sick person will kick the floor and stand up. Both men and women are ten years younger than their actual age.
Instead, it will have strong libido and fertility, so it also uses a method of converting that innocence into the energy of intelligence called Ojas.

2 It is the part of the adrenal gland where the fighting hormone and hero hormone are released.
When this chakra was awakened and Yufurugi was activated, he became more energetic and brave.
As a result, they will be able to take positive and bold actions. Don’t be afraid of anything, don’t be confused by anything, be fearless, have an immovable belief, and don’t be afraid of any difficulties. Demonstrate superhuman skill that transcends life and death.

3. Manipula chakra (nerby chakra)

The mystery of yoga, “Yoga Sutra,” says:
By applying a control to the umbilicus, it is possible to know the tissues in the body.
About this chapter, Dr. Tsuruji Sahoda
The navel ring is not the actual navel hole, but the mysterious wheel-shaped part that is supposed to be around it, and it is said that it has 16 caps. According to one theory, it is the third manipula chakra from the bottom of the six chakras explained in later Hatter Yoga. In any case, the part that is visible to the naked eye
It is said that it belongs to the ghost body. The umbilical ring is in the center of the gas (life energy or siliguri rest), so if you control it, you can see the tissues inside the body.
It is explained that this is a little different.

The doctor is said to be “a mysterious place that can be imagined around that”, but this part is by no means a fantasy place. It has great power, which seems to be mysterious, but it is clearly medically confirmed.

It is medically the “solar plexus” named Solar Plexus. Also called the celiac plexus or visceral artery plexus, it is a large plexus of sympathetic nerves at the origin of the superior mesenteric artery that emerges from the celiac artery. The name comes from the fact that it is located on the back of the stomach and sends nerves to each organ like the rays of the sun.
That is, the nerves that come out of this area are distributed in the esophagus, stomach, abdominal blood vessels, liver, bile ducts, eggs, adrenal glands, intestines, etc. In addition, this nerve plexus is a collection of large and small visceral nerves, vagus nerves, twelfth thoracic ganglion, first lumbar ganglion, etc., and is the most important plexus as a visceral nerve.

Until now, chakras have only been considered as fantasy and mysterious places. These parts are by no means such things, and as I mentioned earlier, they are deeply related to endocrine glands, nerve groups, enzymes, etc., and in fact, they are very important places from a medical point of view. It is a place where you can play an important role.

“By applying a system, you can know the tissues in your body,” but this system is a special concentration that has undergone special training. Knowing this organization means not only knowing it, but also being able to control it freely. If you really concentrate on this umbilical ring, this “solar plexus”
Internal organs belonging to-it can control everything from the esophagus to the stomach, liver, spleen, spleen, adrenal glands, and intestines as you wish. These internal organs
However, it immediately knows what kind of condition it is in, and if there is any abnormality, it immediately returns to normal. Training of such power is training of this umbilical ring.
Also, because it has the power to freely control not only one’s own body but also the body of another person, it can immediately heal a person’s illness.

4, Anahata chakra

It is the part of the thymus, heart, and lungs.
By embodying this chakra, a remarkable amplification of sensory organs can be seen.
With ultimate power, you can see invisible light (infrared rays, ultraviolet rays) and listen to ultrasonic waves.
Can be As a result, it becomes possible to predict natural disasters.

It is due to the combination of extrasensory perception and high intelligence. They are their own
It comes from the ability to control the body at will. It is a combination with the Manipoo chakra.

5, Vishudda Chiyatara

It is the part of the thyroid gland and salivary glands.
Amplification of sensory organs is done toward a higher dimension.

You will be able to interact with the Holy Spirit and hear the voice of the Holy Spirit.

In addition, it is excellent that you can see things that are incomprehensible or incomprehensible to you.
You can hear from it assimilated into the soul and wisdom. In other words, even if a person’s body is unraveled, the intelligence of the person’s mind remains in this space, so if it becomes the same as the vibration of that mind in this chakra, that mind will have it. Everything that was there, consciousness and intelligence, assimilated with me and became my own
That is.

In other words, it means opening the way for transportation to the spirit world (four-dimensional world).
It is.

6. Ajunya chakra

It is the part of the subbrain body. Has extremely developed intelligence.
Touch your eyes once. What I have heard is a memory that I will never forget.
No matter how complex the structure or organization, instantly analyze, reason, understand, and book
The power of induction and the bond of performance that grasps the quality.

Super dramatic creativity emanating from pure thinking that does not go through indirect thinking called Kotoba.
Ultimately, the four virtues of “Joraku Gajo” in Buddhism will be completed and the sensibility of the Buddha will be reached.

7. Hustler Ra Chakra

It is the part of the pineal gland, pineal gland, and hypothalamus.
When this is embodied, the awakening of the Buddha is reached. That is, the completion of spirituality.
This chakra is called “the light in the head” (called the moment when this chakra awakens, because the light appears in this part and shines brightly.

 

 今日の運勢  3月3日  Today’s fortune March 3

 

正義
正位置・・・正義。裁き。裁判。調停。公正な人物。常識家。均衡をとって生きていく人。バランスのとれた愛情。家庭と仕事の均衡をうまくとる。財政上の均衡がとれる。
逆位置・・・相手を厳しく裁く。裁判上の厳しい裁き(敗北)。無法。暴力。財政上の失敗。公正さを欠く。家庭と仕事のバランスが崩れる。
ウェイト解説
正位置・・・平等。正しさ。高潔。行政。正当な判断。
逆位置・・・あらゆる意味における法。法律問題。頑迷固陋。偏見。過剰な厳しさ。
justice
Right position … justice. judgment. trial. arbitration. A fair person. Common sense person. A person who lives in balance. Balanced affection. Balance home and work well. Financially balanced.
Reverse position: Strictly judge the opponent. Severe judgment in court (defeat). Lawless. violence. Financial failure. Lack of fairness. The balance between home and work is lost.
Weight commentary
Positive position … equality. Correctness. Integrity. Administration. Legitimate judgment.
Reverse position: Law in every sense. Legal issues. Stubborn. prejudice. Excessive rigor.

 

二黒土星の日

仕事の事、旅行の事、病人の事、などが出やすい日。こみいった事が多い。いそがしい割に成果は少ない。 短慮は禁物。いやな仕事も進んで引き受ける位の気持ちが大切。

何かとトラブルに縁のある日。
勘違いや誤算、ちょっとした気の緩みから、人とぶつかることも多く、空回りしてしまいます。
他人への十分な気遣いを忘れずに。
ビジネス面ではこの日の決断は大きな賭けとなりそうです。
十分に検討を重ねたうえで判断してください

 

Nikuro Saturn Day

A day when work, travel, sick people, etc. are easy to come out. There are many things that are complicated. Although it is busy, there are few results. Don’t be short-sighted. It is important that you are willing to take on unpleasant work.

A day when something goes wrong.
Due to misunderstandings, miscalculations, and a little looseness, we often collide with people and spin idle.
Don’t forget to be considerate of others.
On the business side, this day’s decision is likely to be a big bet.
Please make a decision after careful consideration.

仏教 日本における釈尊の真骨  Buddhism The true value of Shaka Nyorai in Japan

 

全日本仏教徒のためにある唯一の寺院「覚王山日泰寺」5つの魅力!

覚王山日泰寺は日本で唯一、どこの宗派にも属さない寺院で、現在のタイ(泰)国、当時の暹羅(シャム)国から拝受した釈尊の真骨を奉安するために開山されました。開山にあたって全国の仏教宗派の代表が集まり寺院建立候補地を協議をしましたが決定に難渋し、名古屋市民が10万坪の敷地を用意したことから当地に開山されることになったそうです。覚王山日泰寺の山号は釈尊を表した覚王山、寺号は日本国と泰国との親善を象徴する日泰寺となっており、開山当時の寺号は日暹寺となっていました。

タイ国宝である御本尊「金銅釈迦如来像」を拝む

覚王山日泰寺の御本尊は、日泰寺開山のために暹羅(シャム)国国宝となっている釈尊金銅佛を、当時の国王から下賜されたものです。本堂内にはタイ語で「釈迦牟尼仏」と記されたタイ国プミポン前国王直筆の勅額が掲げられ、勅額にはプミポン前国王と御本尊を下賜(かし)されたチュラロンコン陛下の紋章がしるされています。本堂内には須弥壇両側に高山辰雄画伯による釈尊の大壁画や、それぞれの国に馴染みの深いタイの「蘭(ラン)」、日本の「菊」を題材にした金子鷗亭師による書一対などがあります。

散策しながら御真骨が収められている「奉安塔」に参拝する

覚王山日泰寺境内の北東方向には、釈尊の真骨が安置された奉安塔のための境内があります。境内奥に位置している奉安塔は高さ15mの花崗岩で造られたガンダーラ様式の塔で、2階部分に釈尊の真骨が収められた真舎利が安置されています。こちらの境内には奉安塔のほかに、奉安塔の礼拝施設となっている舎利殿や奉安塔前の礼拝殿などがあります。広々とした雰囲気のある日泰寺本殿境内から覚王山の町を散策して、市街地の中にありながら緑に囲まれた奉安塔境内への散策はいかがでしょうか?
覚王山日泰寺の境内北側には曹洞宗の認可を受けている日泰寺専門僧堂があります。専門僧堂とは僧として出家したものが修行のために安居する場です。日泰寺専門僧堂は静岡県にある可睡斎専門僧堂の分僧堂として、日泰寺の日常的な寺院の運営を支える奉仕僧が安居・修行するために設けられ現在に至っています。専門僧堂では奉仕僧の修行だけでなく高僧による公開講座が行われていて、僧俗・一般にかかわらず参加することができますので、僧侶の方といっしょに机を並べたり、宿泊したり(要僧堂へ申込時相談)するという体験ができます。
真舎利を拝受したことから超宗派の寺院として開山された覚王山日泰寺、宗派に属している寺院とは違ったどこか開放的な雰囲気を持っています。超宗派による支え合いや釈尊について考えたり、「微笑みの国」と呼ばれているタイを思い浮かべたりしながら参拝や散策をしてみませんか?
日泰寺

愛知県名古屋市千種区法王町1-1

 

 

Nittaiji Temple is the only temple in Japan that does not belong to any denomination, and was opened to enshrine the true value of Shakuson received from the current country of Thailand (Thailand) and the country of Siam at that time. .. At the time of opening the mountain, representatives of Buddhist denominations from all over the country gathered to discuss the candidate site for the construction of the temple, but it was difficult to decide, and it seems that the mountain was opened here because the citizens of Nagoya prepared a site of 100,000 tsubo. The mountain name of Nittaiji Temple is Nittaiji Temple, which represents the Buddhist temple, and the temple name is Nittaiji Temple, which symbolizes the goodwill between Japan and Taikoku. At the time of the opening of the mountain, the temple name was Nittaiji Temple.

Worship the Thai national treasure, the statue of Shaka Nyorai
The principal image of Nittaiji Temple on Mt. Kakuo was given by the king at that time to the Buddha of Sham, which has become a national treasure of Siam for the opening of Nittaiji Temple. Inside the main hall, there is a royal sum written by the former King Bhumibol of Thailand, which is written in Thai as “Shaka Muen Buddha”. It has been marked. Inside the main hall, there are large mural paintings by Tatsuo Takayama on both sides of the Sumidan, a pair of books by Otei Kaneko on the theme of Thai “Ran” and Japanese “Chrysanthemum”, which are familiar to each country. And so on.

..
While strolling, worship at the “Hoan Tower” where the true bones are stored
To the northeast of the precincts of Nittaiji Temple on Mt. Located in the inner part of the precincts, the Buddhist pagoda is a Gandhara-style pagoda made of granite with a height of 15 m, and the Shinsari, which contains the true bones of Shaka Nyorai, is enshrined on the second floor. In addition to the pagoda, there are the shrine and the worship hall in front of the pagoda, which are the worship facilities of the pagoda. Why not take a walk through the town of Kakuozan from the spacious atmosphere of the main shrine of Nittaiji Temple, and then take a walk into the precincts of the Hoan Tower, which is surrounded by greenery while being in the city.
On the north side of the precincts of Nittaiji Temple, there is a Nittaiji temple that is licensed by the Soto sect. A specialized monk is a place where those who have been priests as monks can rest for training. The Nittaiji Temple is a branch of the Kasuisai Temple in Shizuoka Prefecture, and has been established for the purpose of resting and practicing by the service monks who support the daily operation of the temple. In the specialized monastery, not only the training of service monks but also open lectures by high priests are held, and you can participate regardless of priesthood or the general public, so you can line up desks with monks and stay overnight (priests) You can experience the experience of consulting at the time of application.

Nittaiji Temple, which was opened as a super-sectarian temple because it received Shinsari, has an open atmosphere that is different from the temples that belong to the sect. Why don’t you worship and take a walk while thinking about the support and shaka Nyorai of the super-denominations and thinking of Thailand, which is called “The Land of Smiles”?
Nittaiji Temple

1-1 Hoocho, Chikusa-ku, Nagoya-shi, Aichi