UA-135459055-1

怪心とは自利だけの心

OBIO
お釈迦さまは、
「それくらい肝心な一法を、おまえたちはやっていない」
とご指導してくださっているのです。お釈迦さまは昔の弟子たちをっているのではありませ
ん。わたくしたちを叱ってくださっているのです。おそらくこのお経が説かれた時も、お釈迦さ
まはかなり強い口調で、弟子たちをお叱りになられたのでしょう。
次に、
「若し人有って広く布施を行ぜば、現世の中に於て、色を得、力を得、衆得具足し、天上、人中
の食福無量なり」
とあります。「色」とは物質のことです。それから「衆徳具足し、天上、人中の食福無量なり」
とありますが、これはもろもろの徳が備わり、無量の福を受けるという意味です。広く布施を施
すならば、そのような福徳が生じるのです。
怪心とは自利だけの心
文書比氏、当に神秘を行し、心有ること勿るべし。是の如く諸比丘、当に是の学を作すべし」
かわいかな
つっけん
とあります。
怪心とは、「もの惜しみ」する心です。いわゆる怪食とほぼ同じ意味です。怪は「もの惜しみ」
することで、真は「むさぼり」のことです。だいたい精神的な「もの惜しみ」のことを怪といい、
物質的な「むさぼり」のことを含といいます。精神的にも物質的にも「むさぼる」ことが怪質で
す。よく「突怪負」などというでしょう。
「あの人は突怪貪だ!」
といいます。突というのは、語気を強めることです。怪含の心が外に突き出て、語気荒く人に
接することが突怪食です。
お釈迦さまは、怪食の心を捨てて広く布施をせよ、とおっしゃっています。お釈迦さまは弟子
たちに、
「おまえたちは自分のことばかり考えているではないか。怪真の心があるぞ。その心を捨てて、
広く布施を行いなさい。それがないと、いくら修行をしても成仏できない。因縁解脱できない
「水
とおっしゃったわけです。
宗教というもの、ことに仏法というものは、利他心がなければ、どれほどの修行をしても、ど
れほどの法を行じても意味がありません。利他の心が絶対に必要です。人間には、利他心と自利
(我利) 心の二つがあります。利他心とは他を利益するという気持ちで、自利心とは自分を利益
するという心です。人にはこの二つの心があります。どれほどの修行をしても利他心がなかった
ならば、それは仏法にはなりません。宗教にはならないのです。
一阿含経・五品・有職品

 

わたくしは若いころに京都のおたのです。中の流行をしていましたが、そこで、自
なにりった行番に出会ったことがあります。四十、三原の発性した。自分でいうの
もなんですが、五社の強さのわたくしの荒行というのは、それはすさまじいものでした。しかし、
その行者は、わたくしっとするような。すごい流行していたのです。
一、二月ごろの五経の後の後は、強だってくる間に冷えに冷えきっています。流れて
いるから凍らないだけです。水ならばとうの音に凝っているでしょう、音水を受けると、おろし
金で駅を明られるような気がしました。わたくしはその後十一月から四月ごろまで修行をして
いました。さらに話を無さの強い大の時には、一週層、食を通っておくけました。新し
て寒中の席に入るなどというのは危険高まりないので、楽なら絶対にやってはいけないこと
ですけれども、わたくしはそれをやり通しました。
「四線を解放しようと思ったならば、人並みの修行では意味がないだろう。この行をやり通せ
ば、なにかがつかめるかもしれない」
そう考えて、思い切ってやったわけです。
それはつらいです。演度で流に入って無いのですから、断食していたならばなおさらです。
ただでさえなにも食べないわけですから。落に入る前から体はガタガタと震えます。それが二日、
三日、2日と続いて五日目を過ぎると、生きているのれど死んでいるのか、自分自身でも
分からないような状態になってます。
「の多い人なら死んだろうな。自分も
発売しない。しかし、これででたようならば、いしたことはできないだろう。生きるか死ぬかやってみようじゃな
いか!」
そのように考えていましたから、たいていの行者には荒行の度合いで負けたことがなかったの
以前は五社の滝とか鞍馬の奥山の滝などには、いろいろな行者が集まって来たものです。今で
はそのような行者もずいぶんと少なくなりました。わたくしが荒行をしていた当時が、行者場が
脱わった最後のころではないでしょうか。
お滝場では前の人が滝に入っている時は、その人が終わるまで焚き火にあたったりしながら、
おおはら3の
じいっと見て待っているわけです。神道の行者は、大校や祝詞などを唱えながらお滝を受けます
し、仏教系の行者は『般若心経』やご真言、それから『法華経』の「方便品」や『観音経』など
をお唱えします。なにをお唱えするかで、お滝に入っている時間がだいたい分かるわけです。
「ああ、あの人は「般若心経』一巻だから、一分三十秒やったな。たいしたものだな。こっちの
人は十秒で出てきてしまった。これじゃあ、しょうがないなあ」
などと考えながら見ておりました。
そのすごい荒行をする行者は、あまり背が高くなく、中肉で精悍な顔つきでした。ちょっと品
の悪い顔でしたが、すごくがっちりとしていました。この人は、五、六分はお滝を受けていたわ
けです。一月末から二月にかけての大寒のころ、五社の滝で五分間もお滝に入っているというの
は大変なことです。三分入っていたならば、非常に立派な修行者といってよいでしょう。さらに、
朗々と真言やお経が唱えられたならば、これは一流の修行者です。
おおよその人は、滝に入った瞬間に声が出なくなります。

09-

仏法とは、仏陀釈尊が生涯かけて 弟子たちに教えた成仏法、七科三十七道品

仏法とは、仏陀釈尊が生涯かけて
弟子たちに教えた成仏法、七科三十七道品

死後も生きつづける幽体(アストラル体)

アメリカ・ジョージア州立大学哲学科のロバート・アルメダー教授は、その著書『死後の生命』(TBSブリタニカ)の「まえがき」と「本文」において、つぎのように述べています。
『私たちは今や、死後にもなんらかの生命が存在するという考え方を強力に裏づける、事実に基づいた一連の証拠を手にしている』
(まえがきより)
『以上のように考えると、あらゆる人間は、“幽体”(すなわち、ある種の状況以外では肉眼には見えない物質類似の希薄な要素からなる第二の体)を持っているという、霊能力者がしばしば行う主張がある程度真実味を帯びてくる。
この第二の体は、形状的には肉体と瓜二つで、肉体の死後も存在を続けるとされている』
(本文より)
では、仏教では、どのように考えているのでしょうか。

人間は死ぬとどうなるのか?

仏教では、人間は、色〈しき〉(物質)・受〈じゅ〉(感覚)・想〈そう〉(表象)・行〈ぎょう〉(意志)・識〈しき〉(意識)の五つの要素からできていると考えます。この五つの要素を「五蘊(ごうん)」と呼び、この五蘊が仮に寄り集まって人間(自我・霊魂)ができあがっているのです。
では、人間が死んだらどうなるのでしょうか?
日本の仏教者の大半は、釈尊が「霊魂」の存在を否定してしまったと考えています。つまり、死んだらすべてが消滅すると考えているのですが、これはまちがいです。
死んだらすべてが消滅してしまうという考え方は仏教ではありません。釈尊直説の経典である『阿含経』を学び修行していないから、このような誤った見解を抱いているのです。
釈尊は決して、霊魂の存在を否定しておられません。むしろ肯定しておられます。ただし、「霊魂」という名称ではなく、「異蘊(いうん)」という表現を用いておられます。

凡夫が死んで「五蘊」が滅しても我執(タンハー)のエネルギーによって「異蘊」(異なる構成要素)を生じて存在をつづけます。

 雑阿含経の中の「仙尼経」において、釈尊は次のように説かれております。
慢〈まん〉(我執〈がしゅう〉)断(だん)ぜざるがゆえに、この蘊〈うん〉を捨て已(おわ〉りて(死んで) 異蘊〈いうん〉相続して生ず。
つまり、異蘊とは生きている人間の構成要素(五蘊=色・受・想・行・識)とは異なった構成要素(蘊=集積)という意味で、現代風にいえば「異次元の薀(存在)」ということです。
また、雑阿含経「身命経」においても、「意生身(いしょうしん)」ということばで、死後の存在を説かれております。意生身とは意識(心)だけで出来た身体をいいます。
このように釈尊は、人間は死んでも、我執煩悩(タンハー)が残るかぎり「なにか(異蘊・意生身)」が存在をつづけると説かれております。この死後の存在こそが霊魂なのです。
そして我執(タンハー)が残った霊魂は、死後の世界を経て再生し、現世で成仏法の縁に逢わなければ、果てしなく輪廻転生を続けます。
また、この我執が非常に強い場合は、不成仏霊や霊障のホトケとなって迷い、その怨念のバイブレーションが子孫の心に強く悪影響をおよぼします。

 


サールナートの仏陀像
 釈尊は、古代インドのバラモンが説いた「永遠に変化することも滅することもない自我(アートマン)(霊魂)」という考えは否定しておられますが、
縁によって生じ、縁によって滅するという「縁起の法」の上での「死後の存在」は認められております。
つまり、「永劫不変の自我(アートマン)」というものは存在しませんが、「無常(変化)の中や縁起において成立する自己(アートマン)」はあるのです。
修行によって向上し、涅槃(ニルヴァーナ)に入る「自我(霊魂)」は存在するのです。
「不変」ではなく縁によって「変化」するために、死んで(その霊魂・霊体が)異蘊となる縁に逢えば、異蘊となって輪廻転生し、成仏法の縁に逢えば、解脱して仏界に生ずるのです。
死んだからといってまったく「無」になって消滅してしまうというのは、仏陀の説かれた縁起の法則に反するものです。

成仏法は、生者、死者を問わず、その霊魂を救済する

仏が感応する利他心

仏が感応する利他心
阿含宗には護摩木勧進というものがありますが、これも同じです。
『護摩木を一本百円で売って、そのお金でお護摩を焚いて、いくらか儲けが残るだろう。その残
った分が教団の利益だ」
というようなバカなことを考えていては、お釈迦さまの弟子として仏法は説けません。たとえ
赤字になろうとも護摩木を勧進し、それをお焚き上げするのは托鉢の修行だからです。護摩木勧
進は護摩木托鉢なのです。多くの人から護摩木を勧進し、お釈迦さまの真の仏法がこの世の中に
あることを教えるためのものです。そのような心によって勧進して集めた護摩木を、お釈迦さま
の成仏法に基づいてお焚き上げするからこそ、お釈迦さまは感応してわたくしたちを救ってくだ
さるのです。
また護摩木勧進は、
「この尊いお護摩にお参りしなさい。来られなかったならば、星まつりの日に家で手を合わせて
拝みなさい。必ず功徳が得られるのです」
と教えるためのものでもあります。
利他心がなかったならば、仏法の修行というものは成り立ちません。
ですから、わたくしは、
「林のがり下がりをピタッと当ててお金を儲けて、それで人を救うのだ」
という経の行者の言葉を聞いて、あきれ返ってしまっ二つ
だのは、普の人が詠んだ。

 

という件の行者の言葉を聞いて、あきれ返ってしまったのです。そして、その時に頭に浮かん
だのは、昔の人が詠んだ有名な一首の道歌でした。
「富士の山ほどお金を積んで利息で慈善をしてみたい」
富士の山ほどお金を積んで(貯めて)も、その積んだ元金は出したくない。しかし、お金を積
んでおけば利息が出るから、その利息を慈善に回して、それで人助けをするという意味の歌です。
けれども、そんなものは人助けではありません。そういう人間にかぎって利息まで元金に乗せて、
さらにもっと儲けてから慈善をしましょう、ということになるのです。おそらくはさらに欲をか
いて、結局は慈善などしません。損などしたくないという気持ちでやるのならば、そんなものは
慈善でもなければ、利他の行でもないのです。
貧しくてその日の食べ物もない中から、たとえ一粒の米でも仏法のために供養をする。あるい
は、困っている人に差し上げる。その供養の心が自分自身を救う徳につながるのです。 自利を離
れた利他の行が、他人だけではなく自分をも救うわけです。利他行をやらなかったならば、餓鬼
界からは永久に解脱できません。
「食なき者に食をとう」ということは、考えようによれば首吊りの足を引っ張るようなものです。
しかし、布施をさせなければ、彼らは永久に餓鬼界から脱却することはできません。苦しい中か
ら布施をしてこそ、い業から逃れることができるのです。それを勧めるのが、それを教えるの
が仏道を歩む者の使命です。つまり、わたくしたちの役目なのです。
利他心がなければ、どれほど苦しい行をやったとしても、仏さまは感応してくださいません。
人間だって感心しないでしょう。わたくしも最初は、その行者の荒行に感心しました。けれども
食器・洋品
●五五

彼の順を聞いた途端に渡気が差しました。
人間が感心しないのに、仏さまが感心しますか?
おそらく感心するはずがありません。そのような心構えでは、彼が命落とすほどの滝行かし
ても、彼の順は仏さまに届かないでしょう。利他いがない人間がどれほど荒い行きしようと、ど
れはど戦しい性行をしようと、それは仏法ではないのですから。
しかし、彼にそういうことといってもしかたがないから、わたしは、
「はあ、そうですか」
といって引き下がったのです。
お求さまが『五戒品・四』において、
『広く施すという修行がおまえたちには欠けているぞ、広始の行をおまえたちはやっていないで
はないか」
とじっにしくおっしゃっているのは、わたくしたちのためなのです。この言葉はいたくした。
ちに対する、お釈迦さまのお叱りの言葉であると思わなければいけません。
もいいますが、わたくしたちがおとな時は、このお経は自分のために、自分一人のた
心に、さまがしてくださっているのだ、という気持ちでまなければいけません。そ
のような心をしいてんでいくことによって、おさまのおっしゃる言葉
自分一人のために、さまはこの法をかれたのだ」
そのよう持ちでんでいくと、おさまが好きになっている言葉、ひしひしとこち
「開き」では「五」の次の「有線品」で、その具体的な内容を示しております。
「領の市編

 

 

 

五戒 品・四》および「増一阿含経・有無品第十五・三、

Ons
同線五島・有品
正しいお経の読み方
いちみかんよう*1 はいぱん
布施に関する重要なことが説かれたお経、『輔、含経 五品第十四・四』(以下『五戒
品・四》および「増一阿含経・有無品第十五・三、五』(以下『有無品・に『有無品・五)の講義
を行います。これらの二つの品にまたがった三つのお経は、いずれも非常に短いお経であり、ま
た一見すると、まことに分かりきったことが説かれているように思われるかもしれません。しか
し、その意味するところは非常に重大ですから、しっかりと勉強してください。
まず、『五戒品・四』から読んでいきましょう。
こしちゅう。
せんずく
いつは
しらべよう
ないおん
にんちゅう
(四)聞如是。一時仏在舎衛国祇樹 – 聞くこと是の畑し。一時、個、合衛国祇徴給孤独戯に在
給孤独園。爾時世尊告諸比丘。於此 しき。雨の時世尊、諸比丘に告げたまわく、「此の衆中
に於て我一法を見ず。修行し已り、多く修行し已れば、
果中我不見一法修行已多修行已。受
人中の福を受け、天上の福を受けて泥道の証りを得ん。
人中福受天上福得泥泣証。所謂広施
所謂広地なり」。仏、諸比丘に告げたまわく、「若し人有
息。仏告比丘。若有人広行布施。
って広く市施を行ぜば、現世の中に於て、色を得、力を
現世中得也得力榮得具足。天上人


黒き異定し、天上、ん中の信量をす。是の故に
TAT
勿有怪む。如是諸比丘当作是学。爾
如く影北三、Mに是の学をすべし」と。の時諸比丘、

 

於現世中得色得力架得具足。天上人
中食袖無量。是故諸比丘。当行布施
得、來得具足
諸比丘、当に布施を行し、心有ることかるべし。是の
勿有心。如是諸比丘当作是学。爾
時諸比丘開仏所説。低宮奉行
如く諸比丘、雪に是の学を保すべし」と。講の時諸比丘,
仏の所説を開さて秋わ行しね。
「現代暗快
このように聞きました。仏さまがコーサラ国の祇園精舎にご滞在の時のことです。ある日、世
尊は比丘たちにお告げになられました。
「ここにはたくさんの修行者たちが集まっているものの、その修行者たちのいずれもが、一つの
法を修行していません。
その一つの)法を多く修行するならば、人間界の福を受け、天上界の福を受けて、ニルヴァ
ーナ(涅槃)の悟りを得ることができるのです。その(一つの)法とは、いわゆる広施です」
仏さまは、さらにお告げになられました。
「もしか、広く布施の行を実践する修行者がいるならば、その者は現世の中において物質的な徳
を得て、また力を得て、さらにはその他もろもろの徳を身に備えて、天上界と人間界の福を無量
に享受します。したがって、比丘たちよ、おまえたちはこの布施行を行って、もの惜しみや貪り
の心を捨てなさい。比丘たちよ、この布施行を必ず行わなければなりません」
この説法を拝聴した比丘たちは大いに喜び、修行を実践しました。

この「五戒品・四は、お釈迦さまがコーサラ(舎衛)国の祇園精舎にご滞在されていた時の
お話です。
熊園精舎はまことに広い修行場で、物の本には敷地は三万坪ぐらいあったと書かれています。
ですから、そこにはたくさんの修行者が集まっていたわけです。お釈迦さまはその大勢の修行者
を買めて、
「此の栄中に於て我一法を見ず」
とおっしゃいました。読み下し文ではピンとこないかもしれませんが、これはお釈迦さまのお
此りの言葉です。
お釈迦さまは、
「これだけたくさんの修行者がいて、それぞれに修行しているようだが、どの修行者にも一つだ
けべけている修行があるぞ」
と蜂されたわけです。一法とは、一つの修行法です。成仏するための修行法、これをここで
は法と呼んでおられます。
この番楽は。
お釈迦
「どの行者にも欠けている修行法が一つあるぞ」
どっしゃっているわけですが、ここで注意しなければならないのは,

 

は常に、
「お釈迦さまが、今、自分に説法してくださっているのだ」
という気持ちで読まなければなりません。ただ単に、字面を追って、
「お釈迦さまが祇園精舎にいて、比丘たちに、『此の衆中に於て我一法を見ず』とおっしゃった
のか。ヘー、そうか..…」
という読み方ではいけません。「此の衆中」とはお釈迦さまの弟子を指すわけですから、当時
の仏弟子はもちろんのこと、現代においてお釈迦さまの教法を学んでいるわたくしや諸君も含ま
れているのです。いや、含まれているどころではなく、お釈迦さまはわたくしたちを叱ってくだ
さっているのだ、と考えなければなりません。
「これだけたくさんの修行者がいるけれども、一つ足りない修行があるではないか。修行法の中
で一つ欠けているものがあるぞ。大切な修行を忘れている。この修行を行うならば、人間界の福
を受け、天上界の福を受け、ニルヴァーナの悟りを得られるのだ。それなのになぜこれを修行し
ないのか!そんなことでどうするのか!」
しく指導してくださっているわけです。今まさに、お釈迦さまから直接のご指導を賜って
いる、と考えながら読むのが、本当に正しいお経の読み方です。
人中とは人間界のことで、天上は天上界のことです。お釈迦さまは、お釈迦さまがおっしゃ
行法実践するならば、人間界と天上界の福を受けて、ニルヴァーナの悟りを得ることがで
きる、とおっしゃっているのです。泥道とはサンスクリット語(発信))
会でミニッパー)を漢字に写したら、

それでは、足りない修行とはなんでしょうか?
法とは広施のこと
お釈迦さまは、広施が足りないとおっしゃっています。広施という法が欠けているぞと、お叱
りになっておられるのです。
いずれの弟子もお釈迦さまのみもとで修行しているのですから、みんな一生懸命にやっている
のは間違いありません。戒を保ち、教学を学び、瞑想・禅定の修行をしているのだと思います。
しかし、いろいろな修行を一生懸命に実践してはいるのだけれども、肝心な一法が欠けていたわ
けです。
その肝心要の一法こそが、広施の行です。
わたくしたちも阿含宗の修行者として、最低でも毎日の勤行だけはしているはずです。けれど
も、一つやっていない修行があるのではないでしょうか?
それが広施です。
「おまえたちは広魔の行が欠けているではないか!」
、お選さはわたくしたちに向かって、北隆されているのです。
のおっしゃる一実演するなら。
界と天上
うまくい界の福を受けて、ニルヴァーナの悟りを得ることができる、と説明しました。人間界の福とは、
人間としてこの世界で受ける福のことです。それから天上界の福とは天上界に生まれること及び、
そこで受ける福のことですが、これにも深い意味があります。
すでに講義をしたように、一生懸命にお釈迦さまの成仏法を修行すると、まず須陀疸という聖
あなた
者になり、次に斯陀含、阿那含と進んで、最終的には阿羅漢(仏陀)となってニルヴァーナに入
ります(上巻・出家経一五一一一九七頁参照)。仏道修行者はこのように聖者の階梯を一歩ずつ
上がって行くわけです。
しだおん
しだん
あらかんようだ。
覚えているでしょう? これさえも覚えていなければ、「一法を見ず」どころか、「二法も三法
も見ず」ということになります。習ったことはしっかり復習して、よく理解しておくことが肝心
です。
須陀互になると、人間界での寿命が尽きたのちに、天上界という高度の霊界に生じます。天(天
上)とは神の境地です。天という一神通を持った存在になるわけです。須陀道は天での寿命が尽
きたのちに、また人間界に生まれてきます。結局、須陀逗は人間界と天上界を七度往来します。
したがって「天上の福を受ける」というのは、必ず須陀湿になるということです。必ず須陀
になって、人間としての寿命が尽きたのちに天上界に生じ、そこで天としての福を受け、それか
らまた人間界に生まれることを七たび繰り返すわけです。
須陀温は天上界へ行っては天の福を受けて、人間界に戻っては人間の福を受けます。そして斯
定合、阿那含と進んで阿羅漢となり、泥道= ニルヴァーナ=涅槃に必ず到達します。わずか三十
※文字の中に、これほど深い意味が含まれています。
一食品・有品

 

OEO
お釈迦さまは、
『それくらい肝心な一法を、おまえたちはやっていない」
とご指導してくださっているのです。お釈迦さまは昔の弟子たちを叱っているのではありませ
ん。わたくしたちを叱ってくださっているのです。おそらくこのお経が説かれた時も、お釈迦さ
まはかなり強い口調で、弟子たちをお叱りになられたのでしょう。
『若し人有って広く布施を行ぜば、現世の中に於て、色を得、力を得、衆得具足し、天上、人中
の食福無量なり」
とあります。「色」とは物質のことです。それから「衆徳具足し、天上、人中の食福無量なり」
とありますが、これはもろもろの徳が備わり、無量の福を受けるという意味です。広く布施を施
ならば、そのような福徳が生じるのです。
心とは目利だけの心
「ま、まるし、心得ることるべし。その着地点
当に是のを作いどん
とあります。
怪心とは、「もの惜しみ」する心です。いわゆる性質とほぼ同じ意味です。怪は「もの惜しみ」
することで、真は「むさぼり」のことです。だいたい精神的な「もの惜しみ」のことを怪といい、
物質的な「むさぼり」のことを真といいます。精神的にも物質的にも「むさぼる」ことが怪真で
す。よく「突氏」などというでしょう。
「あの人は突怪貢だ!」
「どん
といいます。突というのは、語気を強めることです。怪の心が外に突き出て、語気荒く人に
接することが突怪真です。
お釈迦さまは、怪真の心を捨てて広く布施をせよ、とおっしゃっています。お釈迦さまは弟子
たちに、
「おまえたちは自分のことばかり考えているではないか。怪真の心があるぞ。その心を捨てて、
広く布施を行いなさい。それがないと、いくら修行をしても成仏できない。因縁解脱できない

とおっしゃったわけです。
宗教というもの、ことに仏法というものは、利他心がなければ、どれほどの修行をしても、ど
れほどの法を行じても意味がありません。利他の心が絶対に必要です。人間には、利他心と自利
(我利)心の二つがあります。利他心とは他を利益するという気持ちで、自利心とは自分を利益
するという心です。人にはこの二つの心があります。どれほどの修行をしても利他心がなかった
ならば、それは仏法にはなりません。宗教にはならないのです。
一品品

O211
わたくしは若いころに京都伏見の五社の電で毎年、寒中の流行をしていましたが、そこで、自
利心に凝り固まった行者に出会ったことがあります。四十二、三歳の男性でした。自分でいうの
るなんですが、五社の滝でのわたくしの荒行というのは、それはすさまじいものでした。しかし、
その行者は、わたくしでさえぞっとするような、すごい荒行をしていたのです。
一、二月ろの五社の滝の危水は、谷を流れ下ってくる間に冷えに冷えきっています。流れて
いるから凍らないだけで、止水ならばとうの昔に凍っているでしょう。滝水を受けると、おろし
金で肌を削られるような気がしました。わたくしはその滝で十一月から四月ごろまで修行をして
いました。さらに最も寒さの強い大寒の時には、一週間、食を断ってお滝を受けました。断食し
て寒中の滝に入るなどというのは危険極まりないので、本来ならば絶対にやってはいけないこと
です。けれども、わたくしはそれをやり通しました。
「因縁を解脱しようと思ったならば、人並みの修行では意味がないだろう。この寒行をやり通せ
は、なにかがつかめるかもしれない」
そう考えて、思い切ってやったわけです。
それはつらいです。満腹で滝に入っても寒いのですから、断食していたならばなおさらです。
ただでさえなにも食べないわけですから、滝に入る前から体はガタガタと震えます。それが二日、
三日、四日と続いて五日目を過ぎると、生きているのかそれとも死んでいるのか、自分自身でも
からないような状腰になってきます。
「のい人ならば死ぬだろうな。自分も死ぬかもしれない。しかし、これで死ぬようならば、
もできしてもたいしたことはできないだろう。生きるか死んかやってみようじゃな行をしないで長生きしてもた
いか!」
そのように考えていましたから、たいていの行者には荒行の度合いで負けたことがなかったの
おおはらえた3かりと。
以前は五社の電とか被馬の央山の滝などには、いろいろな行者が集まって来たものです。今で
はそのような行者もずいぶんと少なくなりました。わたくしが荒行をしていた当時が、行者場が
賑わった最後のころではないでしょうか。
清滝場では前の人が滝に入っている時は、その人が終わるまで焚き火にあたったりしながら、
じいっと見て待っているわけです。神道の行者は、大祓や祝詞などを唱えながらお滝を受けます
も、仏教系の行者は『般若心経』やご真言、それから『法華経』の「方便品」や『観音経』など
をお唱えします。なにをお唱えするかで、お滝に入っている時間がだいたい分かるわけです。
「あら、あの人は『般若心経』一巻だから、一分三十秒やったな。たいしたものだな。こっちの
人は十秒で出てきてしまった。これじゃあ、しょうがないなあ」
などと考えながら見ておりました。
そのすごい荒行をする行者は、あまり背が高くなく、中肉で精悍な顔つきでした。ちょっと品
の悪い顔でしたが、すごくがっちりとしていました。この人は、五、六分はお滝を受けていたわ
けです。一月末から1月にかけての大寒のころ、五社の滝で五分間もお滝に入っているというの
は大変なことです。三分入っていたならば、非常に立派な修行者といってよいでしょう。さらに、
朗と真言やお経が唱えられたならば、これは一流の修行者です。
おおよその人は、滝に入った瞬間に声が出なくなります。
といったきり、なに言葉が出なくなります。以所、わたくしはある知人から、
「は何十年間も信仰をしているのですが、一度も行をやったことがありません。ぜひ滝行を
やってみたいので指導をお願いしたい」
と頼まれました。それで、初めての滝行ではあまり寒い時には無理だろうと考えて、十二月の
初めごろに井高場に連れて行きました。通行の作法を一通り教えて、
「障に入ったら『般若心経」を唱えなさい」
といったのですが、いざお席に入ったとたん、その知人はウンともスンともいわなくなったの
です。しかたなくわたくしが『般若心経』を代わりに唱えて、その人を滝から出しました。
「般若心経」とご真言を唱えろといったのに、どうして唱えないの?」
と訊くと、その人は、
「面に入って水が体に当たった瞬間、なにもかも忘れてしまったんです。どうしていいか分から
なくて、ただ呆然としていました」
と答えました。
そのように、荒行の経験のない人がいきなり冬場のお滝に入っても、とても声など出るもので
はありません。初めてお滝を受けて、朗々と「般若心経』やご真言が唱えられたならば、それは
立派なものです。
時々、寒行の際にお滝場まで車で行く人がいますが、それは邪道であって、心を統一しながら
歩いていくのが本当です。そのお滝場までの道のりを歩いて行く途中、お滝場まであと百メートルと迫ったところで、滝の音に混じって、朗々とご真言や大祓・祝詞を唱える声が聞こえてくる
ことがあります。そうすると行歴の長い行者ならば、とっさに、
「これは、相当な行を積んでいる人だな。今日はなかなかの行者が来ているな」
と察したものです。行を積んだ行者は滝の音を圧倒するような朗々たる声が出ますから、声を
開いただけで分かるわけです。ところが初心の行者は声が出ません。出ても蚊の鳴くような声で
すから、なにをいっているのか、泣いているのか、まったく分かりません。
滝行で声が朗々と出せるようになるには、約三年はかかります。わたくしも滝行で四、五回は
声をつぶしました。滝の音に負けまいと大きい声を出すと、声がつぶれてしまいます。昔、浄瑠
用や長唄などの芸人さんは寒中に大川などへ行って、のどから血を出しながら声を絞って歌った
そうです。そのようにして声をつぶし、その上で出てくる声が本物の声だということです。
わたくしも四、五回ほど声をつぶしましたが、一回声をつぶすと半月くらいは声が出なくなり
ました。まったく声が出ないのです。蚊の鳴くような声さえ出ません。まさに無言の行です。そ
れを経験して以来、わたくしは、何時間ぶっ続けに法話をしても、まったく声がつぶれなくな
りました。それまでは一時間半も法話をすれば、声がかすれて出なくなったものです。しかし、
滝行で声をつぶしてからはぶっ税けに法話や講演をしても、全然、声がかれなくなりました。
ですから、滝行や寒行をした人でなければ本当の説教はできない、とわたくしは考えています。
お坊さんが長時間お説教したからといって、声が少しでも衰えたり、かれるようならば、これは
一人前ではありません。わたくしはそのようなお坊さんは認めません。行に行を重ねてこそ、腹
の底から本当の声が出るのです。
OS

貧窮経

お釈迦さまと世間智
中町話籍・首納経』(以下『貧窮経」)を講義いたします。
しやえ
とさせてんもろもろびく
つこくんわ
聞州是。一時仏遊舎衛国在勝林給
低域用,爾時世尊告諸比丘。世有欲
人為大告耶。諸比丘白日。爾也
山博,世導復告諸比丘日。若有欲人
査制他家財物。世中挙貸他家財
物為大苫耶,諸比丘日目。爾也世尊。
世尊復告諸比丘日。若有欲人挙貸財
我が聞きしこと是の如し。一時、、舎衛国に遊び勝林
給孤独園に在しぬ。雨の時世尊 諸の比丘に告げたまわ
、「世の有欲の人、賀窮なるは大苦と為すや」。諸の比
丘白して曰く、「爾なり世尊」。世尊復諸の比立に告げて
また
たけ
いつ こたい
日く、「若し有欲の人、貧窮なれば他家の財物を挙貸す。
世中他家の財物を挙貸すは大苦と為すや」。諸の比丘白
して曰く、「爾なり世尊」。世尊復諸の比丘に告げて曰く、
物。不得時還日目長息。世中長息為 「若し有欲の人、財物を挙貸して時に還すを得ず、日日
人形。諸比目日。爾也世尊。世 に息。世中息長ずるは大苦と為すや」。諸の比丘白
諸日,若有欲人長息不還。
して曰く、「餌なり世専」。世尊復諸の比丘に告げて日く、
索。世中前主貴楽為大苦耶。
「若し有欲の人、息長して還せず、
主食するは大名とイ?
かえ
にちにち
*1そちよう
いしゅしゃくさく
す。
世中財
NE

 

 

の比立白して日く、「爾
ことさ」
すなわ
世導復告諸
なり七草」。車復活の比に告げ、日く、「若しの
比日。若有欲人財主責索。不能得
人、財主責めするも慣うを得ること能わず。世主数は定

償。斯主数往至彼求索。世中財主数
きて彼に至りて求索す。世中期主数ば往きて、彼に至り
往至彼求索為大苦耶。諸比丘白日。 て求索するは大苦と為すや」。諸の比立白して曰く、「顔
爾也世尊。世尊復告諸比丘日。若有 なり世尊」。世尊複諸の比丘に告げて曰く、「若し有欲の
欲人。財主数往至彼。求索彼故不還。 人、財主数ば往きて彼に至りて求索するも彼故らに還さ
ず。便ち財主の収斜する所と為る。世中財主の為に収縛
便為財主之所收縛。世中為財主收轉
せらるるは大苦と為すや」。諸の比丘白して日く、「調な
為大苦耶。諸比丘白日。爾也世尊。
り世尊」。「是れを世中有欲の人、貧窮するはこれ大苦な
是為世中有欲人貧窮是大苦。世中有
り。世中有欲の人、財物を挙するは是れ大苦なり。世
欲人举貨財物是大苦。世中有欲人举
中有欲の人、挙貸し息長ずるは是れ大苦なり。世中有欲
位長息是大苦。世中有欲人財主責索 の人、財主責索するは是れ大苦なり。世中有欲の人、財
是大苦。世中有欲人財主数往至彼求 主数ば往きて彼に至りて求索するは是れ大苦なり。世中
紫是大苦。世中有欲人為財主取籍是 有欲の人、財主の為に収縛せらるるは是れ大苦なりとん
大苦。如是若有於此聖法之中無信於
す。是の如く若し此の聖法の中に於て善法を信ずること
語法。無禁戒無博開。無布施無智慧
無く無く博識無く、布施無く善法に智慰無き有れば、
於善法。被睡多有金銀琉璃水精摩尼
被多く金・銀・琉璃・水精・摩尼・白・環壁・’・
みを
しようばう
すいしょうまに
Olu

三八
「・中含様」
たく

りさせい
白珂螺壁珊瑚琥珀碼璋谓碑渠碧玉
赤石死球。然彼故貧窮無有力勢。是
我聖法中説不善貧窮也。
琥珀・碼煙・環葉・神楽・碧玉・赤石・茨珠有りと雖
も、彼故らに貧窮して力勢有ること無し。是れ我が聖法
中不幸の貧窮と説くなり」
●現代語訳
私はこのようにお聞きしました。仏さまがコーサラ国の低園精舎にご滞在の時のことです。あ
る時世尊は、比丘たちに告げられました。
「世間の人にとって貧乏であるということは、大きな苦しみでしょうか?」
比丘たちが申しました。
「世尊よ、そのとおりでございます」
世尊がまた比丘たちに告げられました。
「もしも世間の人が質このために、他人から借金をすることになったならば、それはやはり大き
な苦しみでしょうか?」
比丘たちが申しました。
「もしも世間の人が全をしても期日までに返せなければ、日々の利息がかさんでしまいます。
利息がかきめば、それはやはり大きな苦しみでしょうか?」

もしも世間の人が會金をしても期日までに返せなければ、日々の利息がかさんでしまいます。
利息がかさめば、それはやはり大きな苦しみでしょうか?」
比丘たちが申しました。
「世尊よ、そのとおりでございます」
世尊がまた比丘たちに告げられました。
『もしも、その世間の人の利息がかさみ、借金を返すことができないならば、貸し主は借金の利
息を返済せよと責め立てます。この世において、貸し主に借金の利息を返済せよと責め立てられ
るのは、大きな苦しみでしょうか?」
比丘たちが申しました。
「世尊よ、そのとおりでございます」
世尊がまた比丘たちに告げられました。
「もしか、住し主が責め立てても利息を返すことができないと、貸し主はしばしば借り手の家ま
で押しかけて、利息の代わりになる物品を取り立てます。貸し主がしばしば来ては、利息の代わ
りになる物品を取り立てるのは、大きな苦しみでしょうか?」
比丘たちが申しました。
「世尊よ、そのとおりでございます」
世尊がまた比丘たちに告げられました。
「主がしばしばやってきては利息の代わりになる物品を取り立てて、それでもまだ借金を返
はないと、貸し主は借り手を捕らえて奴隷として働かせたり、売却したりします。貸し主に奴隷1111 0
・中西保育
として働かされたり、売却されたりするのは大きな苦しみでしょうか?」
比丘たちは申しました。
「世尊よ、そのとおりでございます」
「このように世間の人にとって、貧窮するのは大きな苦しみです。他人からお金や物を借りるの
も大きな苦しみです。借りたお金が返済できず、利息がかさむのも大きな苦しみです。貸し主に
利息の返済を迫られるのも大きな苦しみです。貸し主が利息の代わりになる物品を取り立てるの
も大きな苦しみです。それでも借金を返済できないために捕らえられて奴隷として働かされたり、
売却されたりするのも、大きな苦しみです。もしもこの聖法の中にいながら、私の善法を信じる
ことなく、戒を保つことなく、私の法を広く聞いて学ぶことなく、布施をすることもなく、私の
説く善法を聞いて智慧を得ることがないならば、彼は多くの金・銀・ルリ・水晶・珠玉・白メノ
ウ・ほら貝の設でできた平らな玉・サンゴ玉・コハク・メノウ・ベッコウ・シャコ貝・サファイ
ヤ・ルビーなどの赤い石・貴玉があるにもかかわらず、それを活用できずに、貧乏をして苦しん
でいるのと同じことです!
まずは前半部分を解説いたします。
この『食』の頭防お話ししますと、悪い因縁にられている人の言しみを、貧乏のため

グモンジ法 求聞持聡明法

第三の発見—視床下部の秘密

私は幼少のときから剣道をしこまれた。藩の剣術師範の家柄に生まれ、若年の折、江戸お玉ヶ地の千葉門で北辰一刀流を学んだという祖父に、はじめて木剣を持たされたのは三歳ごろであったろうか?そのとき私は、祖父の顔をゆびさして「目ン目がこわい!」といって泣いたそうである。

 

そのころ八〇歳を過ぎていた祖父は、ほんとうの好々爺になりきっており、私はふだん、少よりも母よりもなついていたが、そのときばかりは、木剣のむこうに光った剣士鳥羽源三郎洲之祖父の名)の目に、ひとたまりもなくちぢみあがってしまったものらしい。

 

めったに泣いたことのない私が一時間ちかくも泣いていたという。それでもあんたは木剣だけははなさなかったーりと、いまでも老母がほこらしげに語ってくれるのだが――、私は、のち三段にまでり、休康を害してやめたが、剣の天分があるといわれ、少年時代そのころ盛んであった各地の側道大会に出場してかぞえきれぬほどの優勝をしたのは、この祖父の血を受けたものであろう。

私道が好きであった。防具のはずれの肘を打たれて腕がなえ、思わず竹刀をとり落したりするときはつらいとは思ったが、苦にはならなかった。面金を越えて深くあざやかに面をとられたときは、目からパッと火が出て、プーンときなくさいにおいを嗅いだ。ほんとうに目から火が出るのである。

 

けっして形容詞ではないのだ。これは剣道修行の体験者ならばみなご存知のはめんねせんこうその火なのだ。そのとき私の視野をすめた閃光はー。

 

しばらくしてわれにかえった私はそれに気がついたのだった。そうだ。あの人はあのときの火とおなじだ。

そして目から火が出ると同時に面金のなかでかいだあのなつかしいキナくさいにおいもいっしょにかいだような気がしたのだが――、

しかし、目から火が出る」ほどのこの衝撃は、いったいどうしたということであろうか? 外部から私の頭部を打ったものはなにひとつない。

すると、私の頭の内部でなにごとがおこったというのであろうか。それともあれはなにかの錯覚であったのか?

私は、ふたたび一定のポーズをとり、頭をある角度からある角度にしずかに移しつつ特殊な呼法をおこなって、定にはいっていった。

と、なんの予告も感覚もなしに、さっきとおなじ場所に火をするのである。同時に頭の深部にある音響が聞こえはじめた。

私は、またさっきの電撃に似た覚を頭の一角に感じるのかとひそかにおそれつつ、少々、「おっかなびっくり」にそれ立やったのであったが、今度はぜんぜん痛みもなにも感じなかった。

そうして頭の内奥の上部に開星がふたたび出たたいた。

 

まさにーー、私の胸の内部に一大異変が生じていることにまちがいはなかった。

しかし、それはどういう異変であろうか?
それは一種の化学反応によるショックであったのだ。

の深英、「視床下部」に異変が起きたのである。すべての秘密は、間脳の内部の視床下部あった。とこ秘密の原点だったのである。

 

見ればわかる通り、すべての内分泌腺を統御しているのは視床下部である。
そしてここが、ヨーガでいうブラーマ・ランドラ (梵の座)であり、サハスララ・チャクラなのである。

 

今までのヨーガの指導者のいうように、それは、松果腺、松果体ではない。視床下部が、リハスワラ・チャクラなのである。

もっとも、視床下部のすぐそばに松果体があるので、それをまったのであろう。

もっとも、松果体自身もある重要な役わりを受けもつ。けれども、サハスラー・チャクラそのものは松果体ではなく、視床下部であった。

 

視床下部はいまいったように、下垂体系を通じて全内分泌器官を統御する。それでは、なにをいって統御するのかというと、もちろんそれは神経である。

したがって視床下部には重要な神経がたくさん集まっている。

私は、古代ヨーガのなかから、この部分を動かすポーズとムドラーを創案してここにつよい圧力をくわえ、同時に、強烈な思念(念力)を集中していた。

百日のかいだ、たえまなく、私はここに、物質的、精神的、両面にわたるつよいエネルギーを集中した。

その結果、この神経終雑に一大異変が生じたのだ。

その異変により、神経線維が異常したが、それもそこにある分泌液、神経波に変化がおきたのか、そのいずれであるかはわからぬが、それらの分泌液が複雑に混合し合って、化学反応をおこしたのだ。

その化学反応による衝撃が、視床の神経をはげしく打って、網膜に閃光を走らせたのだ。

その時撃はここの神経線維にシナプスをむすび、その火はいつでも私の思うまま私の脳の内奥に明星を出たたかせることとなった。

同時に私の脳の構造も一変した。求聞持聡明法の成就である。

求聞持聡明法とは、脳の内部の化学反応による脳組織の変革であったのだ。
初ハーの生理学的機構では、相川下部の機構を生理学的にみてみよう。(図説・内分泌病への手引・土屋雅春、他籍による)の一部で、視床の腹側にある。

間脳は体温、備県、新陳代村、外分泌、平滑筋などの諸機能の調節をつかさどるほかに、
分小限の継脚の場として重視されている。

内分泌腺調節機序としては、心神経性調節(交感がある。
下のバンプレシン、オキシトシンが視床下部の視索上校や室労核の神経分泌により支れていることが示され、最近は下座体前葉が次に記すような各種の分泌促進因子 releaingtag of下にあることが知られてきた

アスタキサンチン

No.2015-51
2015年12月21日~2015年12月27日

トピックス

天然色素アスタキサンチンに記憶・学習向上効果
―記憶司る海馬の神経新生を促進する作用判明
:筑波大学(2015年12月22日発表)

 筑波大学は12月22日、サケやイクラなどに含まれる天然色素で強い抗酸化力を持つ「アスタキサンチン(ASX)」を長期間摂取すると、記憶を司っている海馬の神経新生が促進され、学習記憶能力が向上することが明らかになったと発表した。アンチエイジングに効果的なサプリメントとしての利用が進むだけではなく、今回の研究成果をもとに関連の新薬の開発も期待できるという。

 

■サプリメントの利用促進や新薬開発も

 

赤い色素のアスタキサンチンは、老化や病気の元となる活性酸素を消去する抗酸化作用や、眼精疲労の回復効果などさまざまな作用があるとされ、サプリメントや健康食品、化粧品などに用いられている。

 また、動物実験でアスタキサンチンに急性の脳損傷に伴う神経の炎症や死滅を防ぐ神経保護効果があることや、脳虚血に伴う記憶の低下を抑制する効果があることなどが報告されている。しかし、海馬機能に与える効果についてはこれまで明らかでなかった。

 研究チームはアスタキサンチンが海馬機能にもたらす影響に的を絞り、さまざまな側面から調査、研究した。

 実験ではまず、アスタキサンチンの濃度が異なる飼料(0.02%、0.1%、0.5%)と、プラセボ(偽薬)の混ざった飼料を大人のマウスに4週間与えた。海馬の神経新生は、細胞増殖の数(Ki67陽性細胞)と新生した細胞のうち神経細胞へと成熟した数(BrdU/NeuN陽性細胞)の数で評価を行った。

 その結果、0.1%と0.5%濃度の飼料を与えたグループで海馬の細胞増殖数の有意な増加が認められ、そのうち0.5%濃度の摂取グループでは、新生細胞のうち神経細胞に成熟した数(新生成熟細胞数)の有意な増加が認められた。つまりアスタキサンチンの効果は濃度依存的であり、0.5%が神経新生を高める有効な濃度であることが分かった。

因縁がカルマをかたちづくる

482
けたのだ。
また、だれでもがそういう最上階の超能力者になれるということは断言できない。最上階のアデ
プトに到達することのできる修行者は、特別な人たちにかぎるとされている。そういう人たちは
生まれながらにひとつの資格と素質を持っているのだと信じられている。その資格とは、前世、
前々世からひきつづきこの修行をしてきているということである。何度も生まれかわってくりか
え人生において、かれは絶えずヨーギーとして修行をつづけてきているのである。しかし、だ
れがその有資格者なのかは、実際に修行に入ってみるまではだれにもわからぬことである。もし
もあなたが密教の修行に熱心な思とあこがれをよせるようであるならば、あるいはあなたがそ
の人であるかも知れない。しかし、また、よしんばあなたがその有資格者ではなかったにせよ、
これだけは断言することができる。あなたがごくあたりまえの人間であっても、すぐれた力を持
つグル(師匠)について、一定の訓練を受けるならば、普通人にはとうてい考えられないような
すぐれた力と能力を持つ優秀人に変化することができるだろう、と。
私はくりかえし断言しよう。
ふつうしん
たとえなんのとりえもない平凡な人間でも、この密教の訓練をうけるならば、その人は、その
人の属する社会の本かで、欲すると欲せざるとにかかわらず、かならずそこのリーダーとなって
そのグループを支配し指導することになるだろう。なぜならば、かれは、だれでもがよろこんで
その支配をうけ、指導をあおがざるを得たいはど、きわだった能力と人格を持つようになるからだ。これからいよいよ苛烈の度を加えるこの世界において、それはますます顕著になるだろ
う。あたらしい世紀をむかえる前に、この世界はひどい混乱におちいって、社会は無数のグルー
プにわかれ、そのグループはいったいどうしてよいのかわからない人たちであふれるようになる
からだ。その人たちは、常人にない能力を持つリーダーを求めて右往左往するだろう。自分たち
を新しい世界につれていってくれる人を求めて世界はわきたつ。そのとき、それらの人が求める
リーダーに君はならねばならない。そういう人をつくり出すのが密教だ。そのために密教の技術
は温存されてきた。これはそういう技術なのだ。それだけに、それはかなりきびしい訓練である
ことを知っておかねばならない。
業からの脱出
いくつかの訓練の段階におけるその第一の課程は、自分の持つ業からの脱出である。
人は生まれながらにさまざまな条件によってしばられている。そのものからだれも自由であり
得ない。考えてみれば、人間という名でよばれる存在そのものが束縛である。存在することがす
でに奴隷である。だから、存在であらざるものになることが完全な解脱なのであって、密教はそ
れを目ざすのであるが、それはもっとずっと先になって君の追求すべきテーマになるだろう。こ
こでは存在するものの江かでの解説である。それを業の解脱という。業は因縁によって殺され
る。因縁がカルマをかたちづくる。この、カルマの解脱の行と並行して密教の修行がはじまる。
そくばく
48能力発のカルマの解脱をしない修行者は、修行がにとんとすすまたん
されず、不浄なものにみたされ、『法』という清浄なるものに帰一同化することができないから
だとされている。
だから、修行の第一歩において、グル(師匠)は、修行者にカルマの解虎の法をさずける。
リーガ・スートラに「ヨーギーの薬は白くも悪くもない。その他の人々の業は三様である」と
いっているのは、グルが、修行者に、修行の最初の段階で、かれに解脱の法をさずけて、業から
やまちこう)さとう。
離脱させるようにするからである。(業には普通、白業、農業、黒白薬の三種がある。白業とは
よい結果を生ずる原因、いわゆるよい因縁で、黒葉とは悪い結果を生手る原因、いわゆるわるい
因縁で、黒自業とは同方が混合している業である。通常の人はほとんどこの紙の業に属してい
る。ローギーはこれらのいずれの落からも超越するのである。
私は、真言密教につたわる!大白法』を以てこの法としている。これは、古来よりの因縁解
法として最高のもので、他にこれ以上の法はちょっと見あたらないからである。
「普通,これは1000日つづく修行である。1000日つづくといっても日常生活のうちに修
言できる行法であるし、とくにむずかしいというものではない,1000日の間に法を身にっ
は、図説を完成するとともにりっぱな音改者としての素養と知識をふかめ、指導者としての
人格、識、能力を高めてゆく。この修行だけでも、人は、非常にすぐれたパーソナリティの出
にじみくことだろう。
常の記の行がおよそ100日くらいすすんだ頃、グルによる直接の指導がはじまる。その第
一回は、受け入れの儀式である。その方法はさまざまである。修行者の因縁によりみな異な
る。これで修行者はダルの正式の弟子としてうけいれられたわけである。
この第一回の面接指導』から、ほんとうの修行、訓練近はじまるのである。
九段階の調練
が、将は、たつの市から成り立つ。
それに、真言を界における用の場によって補成されたシステムである。
高宗のは、真面設につたえる会副界と造り

如来の七宝

如来の七宝
まさき
ちやほうかくし」
しようじんかくし、
てくかく
じようなくし
しやすくしほう
かくとにらい むしよじゃくとうしようがくよ
如是如来無所者等正覚出於世時。当 「是の如く如来・無所者・等正覚世に出ずる時、当に
ちかくしほう
知亦有七覚支宝出於世間。云何為七。 知るべし。亦、七覚支宝有りて世間に出ず。云何が七と
念覚支宝。択法覚支。精進覚支。喜
為す。念覚支宝・択 法覚支・精進覚支·喜覚支·息覚
影支。息覚支。定覚支。捨覚支宝。
支·定 覚支·捨覚支宝、是れを謂いて七と為す。如
来・無所著・等正覚世に出ずる時、当に知るべし。此の
是為亡。如来所著等正覺出於世
七覚支宝有りて世間に出ず」。伝説是の如し。彼の諸の
時。当知有此七覚支宝出於世間。仏
比立、仏の所説を聞きて歓喜奉行しぬ。
説㎞是。彼諸比丘聞仏所說。歓喜奉
まっせつ

もろもろ
かんざきます。
「同様に如来・無所著・等正覚がこの世に出現する時には、また七覚支(法という)宝が、この
世に出場するのです。その七覚支(法という)宝はどういうものでしょうか?
・法管工,精逃見交,喜覚支・息覚支・定覚支・捨覚支の七つが、七覚支(法という)

01111
宝です。如来・無所善・等正覚がこの世に出現する時には、この七覚支(法という宝がこの世
に出現するのです」
以上のように仏さまは説かれました。もろもろの比丘たちは仏さまの説法を承り、歓喜して修
行に励みました。
・解説
お釈迦さまは転輪王の七宝になぞらえて、七覚支法は如来の七宝であるとおっしゃっているわ
けです。「是の如く」とは、それと同じようにということです。如来・無所著・等正覚が世に出
現される時も同様に、七覚支法という七宝が出現するわけです。如来とは真如の世界から来られ
たお方という意味で、仏さまのことです。無所著仏さまの別名です。仏さまは一切のものに執
著(執着)しないので、無所著というわけです。あらゆるものの執着から離れたお方ですから、
仏さまのことを無所著といいます。等正覚もやはり仏さまの別名ですが、比類のない最高の正し
い悟りを得られたお方という意味です。如来も無所著も等正覚も、仏さまのことです。
仏さまがこの世に出現される時には、転輪王が七つの宝を得られるように、七つの宝ともいう
べき七つの法が世間に出現するのです。
それでは、仏陀の七宝である七覚支法とは、どういう法なのでしょうか?

七宝がきょう

転輪王とお釈迦さま
『中西含長・主相応品・七宝程・一」(以下「モ玉程)を講義します。これはお釈迦さまが、成
公法・も科三十七道品の中の七夏支法について多かれているお経です。
わたくしはお気逆さまの教法を世の中に出すこと、なかでも成仏法・七科三十七道品を世に広
めること警順に掲げて、活覧を展開しております。これは、現代には成仏法が絶対に必要不可
欠だからです。
それでは『七宝堂」を読んでみましょう。
しやえこく
とさせろうじょ
さらにとたんお
すなわしち

りんだよ
我闘如是。一時仏遊舎備国。在勝林
給孤独園。爾時世尊告諸比丘。若転
輪王出於世時。当知便有七宝出世。
六何為七。輪宝象宝馬宝珠宝女宝居
主宝主兵臣宝。是謂為七。若転輪王
出於世時、当知有此七宝出世。
我がきしこと是の如し。一時、公、舎南国に遊び勝林
給弧園に在しぬ。南の時世尊 諸の比立に告げたまわ
く、「若し転輪王世に出ずる時、当に知るべし、便ち七
宝有りて世に出ず。去何が七と為す。輪宝・家宝・馬
・珠宝・安室・居士宝・主兵臣宝、是れを謂いて七
と為す。若し転搭王世に出ずる時、当に知るべし、此の
七宝有りて世に出す」
にう
こじほう・現代語訳
おんしようじゃ
このように私は聞きました。仏さまがコーサラ国に遊行され、祇園精舎(勝林給孤独園)にご
滞在の時のことです。ある日、世尊はもろもろの比丘たちに告げられました。
「転輪王がこの世に出現する時には、七宝がこの世に出現します。七宝とはなんでしょうか?
それは、輪宝・象宝・馬宝・珠宝・女宝・居士宝・主兵臣宝という、七つの宝です。転輪王が
この世に出現する時には、この七宝が出現するのです」
1
この『仏陀の真実の教えを説く』の上巻でも説明しましたが、舎衛国とは当時のインドの大国
ぎじら
の一つであるコーサラ国です(同書二六五頁参照)。勝林給孤独園とは祇園精舎のことで、祇樹給
孤無園ともいいます。この祇園精舎で、お釈迦さまは弟子の比丘たちを集めて說法をされました。
お釈迦さまは最初に、転輪王がこの世に出現される時には、七つの宝がこの世に出現されるの
だ、とお説きになられました。七つの宝とは、輪宝・象宝・馬宝・珠宝・女宝・居士宝・主兵臣
宝のことです。
王とは、どのような王さまでしょうか?
これは武力を用いず、正義と法によって世界を統一支配して、立派な世界を建設するという、
インドの伝説的な帝王の理想像です。武力や軍事力によるのではなく、正義と法によって世界を

しいなようしんほう

018
えみ
統一するわけです。したがって当然のことながら、転輪王は立派な世界を建設します。インドに
はそのような帝王の理想像が、伝説として存在していました。
その状幡手は、天から七つの宝を感得するといわれております。これが七宝です。
七宝の第一位指宝です。幅玉とは、金でできた車輪金輪です。金輪以外にも、銀輪・銅輪・
鉄輪の場合がありますが、それは時代によって違うようです。転輪王の現われる時代によって、
観艦の場合もあれば、銅輸の場合もあるし、また鉄輪の場合もありますが、おおよそは天から金
を授けられるとされております。いずれにしても輪宝とは神聖な車輪で、たとえるならば一種
の戦車です。その戦車がひとりでに動いて伝輪王の軍勢を先導し、世界中の悪い軍隊を残らず退
治してしまう。あらゆるものを破砕、降伏せしめる。抵抗するところの悪い軍隊や国王を、全部
この金輪が打ち砕いてしまうのです。そして転輪王の一行は、そのあとを堂々と歩いて行って、
正義と法を説いて世界を治めるわけです。
さいごうく
第二の果とは、すぐれた象のことです。体も大きく、力も強く、しかも頭がすぐれてよい象
です。
第三の馬宝とは、乗馬用のすぐれた馬です。
第四の珠宝とは、如意宝珠のことです。
「よくにはう
第五の女宝は王 女宝ともいいます。これは一人という説もありますし、複数の場合もあるよ
うですが、いずれにしても転輪王に仕えて、いろいろと内助の功を現わすとされている、容色麗
しく、また才知のすぐれた女性です。これが女宝です。
第六の居士宝とは、すぐれた大臣たちのことです。政府を組織すると、いろいろな職務を任せる大臣が必要です。転輪王のまわりはすぐれた大臣ばかりで、賄賂を受けとるような、聴聞にま
みれる閣僚・官吏は一人もいません。
第七の主兵臣宝とは、すぐれた将軍たちのことです。
転輪王はこの七つの宝を手に入れて、世界を統一し、平和なよい世界を生み出すとされていま
す。インドにはバラモン教の時代から、いつの世にか転輪王が出現して、よい世界をつくり出す
という伝説があり、今もそれは続いております。
じつをいいますと、ほかならぬお釈迦さまご自身が、転輪王になるといわれたお方でした。
じようみんほうだいはんきます。
『小部経典・本生 経』(漢訳では、『長 阿含経・大本経』参照)によると、シッダッタ(悉達多、お釈
迦さまのお名前)太子がマーヤー(摩耶)王妃のお股に宿られた時、白い象がお腹の中に入るとい
う不思議な夢をご覧になったとされております。それでマーヤー王妃は、スッドーダナ王 (浄飯
年)に夢のことを話されました。スッドーダナ王は心配になって、六十四人の名高いバラモンを
呼び寄せて、夢の内容を占わせたところ、そのバラモンたちは、
リしまうよう
しっだった。
じようぱん
「お腹に宿られたのは王子です。王女ではありません。この王子が在家のままでおられるならば、
転輪王となられるでありましょう。もしも出家されるならば、世の苦厄を除く仏陀となられるで
ありましょう」
と答えました。
さらにこ誕生の直後に、それらのバラモンの中から、とくに観相に抜きん出た者を八人選んで
脚させたところ、八人中七人が、やはり、
「この王子が部下のままでおられるならば、転輪王となられるでありましょう。もしも出家され