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『雑阿含経・応説経

五蘊の瞑想法

ごんようおうせつきよう

『雑阿含経・応説経』(以下、『応説経』の講義を行います。 まずは経文を読み、現代語に訳し ながら解説します。

如是我聞。一時仏住拘留国雜色牧牛 聚落。爾時仏告諸比丘。 我以知見故。 得諸漏尽。非不知見。 何以知見故。 得諸漏尽。非不知見。謂此色此色集 此色滅。此受想行識。 此識集此識滅。

と。

  • 解説

・応

  • 現代語訳

ちくとご

ふちけん あら

ほとける こくぞうきゆうじゅ

是の如く現れ聞きぬ。一時、仏、拘留国の雑色牧牛

落に住まりたまえり。雨の時、仏、諸比丘に告げたまわ

く、「我れ知恵をての故に諸の尽きることを得たり。

不知見に非ざるなり。何が知見を以ての故に諸漏の尽 きることを得、不知見に非ざるや。ゆる此れは色なり、

じゅう

此れは色の集なり、此れは色の減なり、此れは愛想・ 行・識なり、此れは識の集なり、此れはの減なりと」

ヒムは聞きました。ある時、仏さまはクル(拘留) 国の雑色牧牛聚落におとどまりに ある。 しされました。 それはどういうことかというと、これは色である、これは色の集である、これは色の滅である、 ったのでしょうか? 不知見ではないからで これは受想行識である、(これは受の集である、これは受の滅である、これは想の集であるこ れは想の滅である、これは行の集である、これは行の滅である) これは識の集である、これは鎌の滅 である」

知見とは、真の智慧によって物事を見ることで、換言すれば悟りを得たということです。この 悟りの力によってすべての煩悩をなくすことができた、とお釈迦さまはここでおっしゃっておら れます。とは煩悩の異名です。煩悩は心の中にいつの間にか漏れ出てきますから、漏と呼びま す。

「此れは色なり、此れは色の集なり、此れは色の滅なり、此れは受想行識なり、此れは (受想行識の集なり、此れは(受想行識の滅なり」は、五蔵法という瞑想です。 人間は色物質的現象)・受(感覚)・想(表象)・行(意志・識(意識)の五つの構成要素からでき ていると仏教では考えますが、この五つの構成要素のことを五蘊(五歳)と呼びます。五蘊観 〇六五

現代語

阿含経・説

「たとえば鶏が卵を産みすぎて、親鶏が随時に温めたり

法とは、この五蘊のそれぞれが無常・空・無我であると観想していく瞑想法のことです。

お釈迦さまはここで、自分は五蘊観法を修行して悟りを得、完全解脱したのだとおっしゃって おられます。

続きを見ましょう。

成仏できない僧侶たち

いじゅんじょうじゅ

不修方便随順成就。而用心求令我諸 漏尽心得解脱。当知彼比丘終不能得 漏尽解脱。所以者何。不修習故。 不 修習何等。謂不修習念处正勤如意足 根力覚道。

「方便を 成就せずして而も心を用いて、我れ をして諸尽き、心に解説するを得せしめんと求むるも 当に知るべし、彼の七まとろじゅうを得ること能わ

いか

しゅじゅう

ず。所以は何ん。修習せざるが故なり。何等か修習せざ

しょうごん

る。正動・如意足・根・カ・覚・道を修

ふく どう

「習せざるなり」

  • 現代語訳

「いろいろな方法を駆使して修行を行っても成就しない者が、もろもろの煩悩が尽き、心に解脱 を得たいと思っても、あの僧侶(修行者)たちは、ついに漏解脱を得ることはできません。

それはなぜでしょうか?

修行していないからです。

ごきう

解説

  • 阿含経・説

なにを修行していないのでしょうか?

それは、いわゆる四念処法 (四念処観)・四正法(西)・四如意足法(四神足法)・五根 五法 覚法・八正道を修行していないのです」

ここは、『応説経』の中でも特に重要なことが、説かれているところです。

たいへんなことが書かれているわけですが、諸君はそれに気づいたでしょうか?

解脱とは、 編 (煩悩がすべて尽きた状態ですから、完全解脱、つまり成仏したというこ とです。その完全成仏を心から願って修行しているのに、それができない僧侶たちがいる、とお 釈迦さまがおっしゃっておられるわけです。これは大問題です。

なぜ、その僧侶たちは成仏できないのか? それは、四念処法・四正動法・四如意足法・五根 法・五力法・七覚支法・八正道を修行しないからだ、とお釈迦さまは説かれているわけです。

サへト・マへト、聖なる地、

サへト・マへト、聖なる地     Sahet Mahet, the holy land

仏陀が奇蹟を示した場所で
池の上に立ち、身体を変えた
火と水に分かれ、光を放ち
そのエネルギー、誰もが見た

### サビ

全身のチャクラ、輝きを増し
火と水に見えた、仏陀の姿
すさまじいエネルギー、感じた奇蹟
心に刻まれた、永遠の光

(サビ)
霊的なバイブレーション この身に宿す
一瞬の奇蹟 心に響く
修行の果てに 学びの果てに
真の導師を ここに見た

オン・シャレイ・シュレイ・ジュンテイ・ソワカ
オン・シャレイ・シュレイ・ジュンテイ・ソワカ
オン・シャレイ・シュレイ・ジュンテイ・ソワカ

 

On Sharay Shuray Juntei Sowaka

水晶龍神瞑想法の詩

水晶龍神瞑想法の詩  Crystal Dragon God Meditation Poem  水晶龙神冥想法诗

### イントロ
霊界の深奥、如来の声が響く
王者の相承、心の力を示す
厳しき道を行く者たちよ、心を強く持て
四神足法、成仏への鍵を握る

サビ
瞑想の彼方に、水晶の龍が舞う
心の思念を繋ぎ、如来の光を受ける
四神足の道を歩む者よ、力を尽くせ
瞑想の炎が、魂を導く

四神足の修練

四神足を修練し、豊かならしめたならば、多様なる神変を身に受ける。一身にして多身となり、多身にして一身となり、あるいは現われ、あるいは隠れ、牆壁や山岳をよぎって、礙げなく、行くこと空中におけるがごとく、地中に出没すること水中におけるがごとく、水中を行きて壊られざること地上におけるがごとく、虚空においても結跏趺坐してそぞろ歩きすることは飛鳥のごとく、このように大神通・大威徳あるこの日月を手でとらえて揉んでしまい、梵天の世界にいたるまでも身をもって支配する。このように四神足を修練し豊かならしめたならば、清浄にして超人的な天の耳の本性をもって、遠近にある天的なまた人間的な声をともに聞く。このように四神足を修練し豊かならしめたならば、他の生存者、他の人々の心をば心によって了解して知る。貪りある心を貪りある心であると知り、貪りを離れた心を貪りを離れた心であると知り、また怒りある心を怒りある心であると知り、怒りを離れた心を怒りを離れた心であると知り、迷妄ある心を迷妄ある心であると知り、迷妄を離れた心を迷妄を離れた心であると知り、収縮した心を収縮した心であると知り、散乱した心を散乱した心であると知り、偉大な心を偉大な心であると知り、偉大ならざる心を偉大ならざる心であると知り、上ある心を上ある心であると知り、無上の心を無上の心であると知り定にあらざる心を定にあらざる心であると知り、定のうちにある心を定のうちにある心であると知り、解脱していない心を解脱していない心であると知り、解脱している心を解脱している心であると知る。このように四神足が修練され豊かにされた時に、種々なる過去の生涯を想いおこした、ーすなわち一つの生涯、二つの生涯、三つの生涯、四つの生涯、五つの生涯、十の生涯、二十の生涯、三十の生涯、四十の生涯、五十の生涯、百の生涯、千の生涯、百千の生涯を、またいくたの宇宙成立期、いくたの宇宙破壊期、いくたの宇宙成立破壊期を。「われはそこにおいて、これこれの名であり、これこれ姓(gotta)であり、これこれのカースト(vanna)であり、これこれの食をとり、これこれの苦楽を感受し、これこれの死にかたをした。そこで死んでから、かしこに生まれた」と。このようにかたちや名称とともに種々なる過去の生涯を想いおこしたのである。このように四神足が修練され豊かにされたときに、清浄で超人的な天眼をもって、もろもろの生存者が死にまた生まれるのを見た。すなわち卑賤なるものと高貴なるもの、美しいものと、醜いもの、幸福なものと不幸なもの、そしてもろもろの生存者がそれぞれの業にしたがっているのを明らかに知った、ー「じつにこれらの生存者は身に悪行をなし、ことばに悪行をなし、こころに悪行をなし、もろもろの聖者をそしり、邪(あやま)った見解をいだき、邪った見解にもとづく行為をなす。かれらは身体が破壊して死んだあとで、悪しきところ、堕ちたところ、地獄に生まれた。また、他のこれらの生存者は、身に善行をなし、ことばに善行をなし、こころに善行をなし、もろもろの聖者をそしらず、正しき見解をいだき、正しい見解にもとづく行為をなす。かれらは身体が破壊して死んだあと、善いところ、天の世界に生まれた」と。このように清浄で超人的な天眼をもって、もろもろの生存者が死にまた生まれるのを見た。すなわち卑賤なるものと高貴なるもの、美しいものと醜いもの、幸福なものと不幸なもの、そしてもろもろの生存者がそれぞれの業にしたがっているのを明らかに知った。このように四神足が修練され豊かにされたときに、もろもろの煩悩の汚れがほろぼされることによって、汚れなき心の解脱・智慧の解脱をこの世において、みずから証知し、現証し、具現して住する。

 

 

四神足法の解説へと、我々はいよいよ足を踏み入れる。これは釈尊の成仏法の中心であり、輪廻転生瞑想法の根幹である。

その厳しさは他のどの法にも匹敵するものだ。これまでの修行をこなしてきた者であっても、容易には立ち向かえない。ますます難しさを増す訓練に、多くの者が不安を覚えるだろう。

霊界において、如来は常に法を説いている。その一つが「思念による王者の相承」だ。これは言葉や象徴を介さずに、自らの心を相手の心に伝えるものである。その心は単なる思念ではなく、力を帯びたものだ。これにより、相手は即座に仏として覚醒する。

これこそが最高であり、理想的な存在だ。「王者の」が示すとおりだ。

しかしこれには条件がある。それは何か?それは以下の通りだ。

「思念による王者の相承」は最高の理想だが、それを受けるためにはtapasが必要だ。また、サヘートーマヘートの霊的バイブレーションにも言及される。その伝達が間脳開発の成果なしには不可能だからだ。

思念の相承を受けるためには、まずtapasを達成する必要がある。そしてそのためには四神足法が不可欠だ。この法を修行せずして、思念の相承を受けることはできない。しかし四神足法は、容易には修行できない。そのため、釈尊の成仏法を修行しなければ、思念の相承は得られず、間脳の開発も不可能だ。そして霊性開顕も絶望的なものとなるだろう。

しかし、そう絶望する必要はない。私は永年の修行の末、この問題を解決し、どんな者でも比較的容易に成仏法を修行できる法を見出した。

それが「水晶龍神瞑想法」だ。この瞑想法こそが釈尊の成仏法の真髄であり、四神足法そのものなのだ。そしてその最大の特徴は、「瞑想法自体が思念の相承である」ということだ。

修行者はこの法を通じて、思念の相承を受けつつ、四神足法に必要なチャクラの開発を進めることができる。特にクンダリニー・ヨーガにおいては、危険とされる脳内のチャクラの開発も、安全かつ穏やかに進められるのだ。

この水晶龍神瞑想法を修行すれば、神通力を得ることができるだろう。ただし、この法は極秘のものであり、全てが明かされることはない。

 

 

 

 

 

 

 

 

阿含経   三百槍の苦 The Pain of 300 Spears

阿含経   三百槍の苦

**イントロ:**

この世に生まれた、その理由
終わりなき夜の苦しみを背負う
地獄、畜生、餓鬼の三悪道
無限の苦しみを聞くことなし

**サビ:**

悟りのためなら、百年の槍
日々の痛みも、大したことない
輪廻の苦しみ、永遠に比べ
この一瞬は、なんでもない

 

、お釈迦さまが波羅捺国の仙人の住処である鹿野苑にご滞在の時の説法を記したも のです。波羅国とは、当時、中インド・ガンジス河中流にあった、カーシー国の首都バーラー ナシーを漢字に音写したもので、現在のワーラーナシー(ベナレス) 市にあたります。

そのバーラーナシーの郊外に鹿野苑(ワーラーナシー市のサールナート付近)があります。 ここ は鹿が放し飼いにされているので、鹿野苑といわれました。日本でいえば奈良のようなところで

すが、鹿野苑は町外れにあり、いろいろな宗教の聖者や求道者の修行場であり、居住地でありま した。

そのような聖者や修行者を、パーリ語ではイシ、サンスクリット語ではリシといいます。 イシ ないしリシを漢訳経典では仙人と訳しました。 仙人という訳ははたして適切なのかと疑問に思 いますが、昔の中国の概念でいえば、たしかに仙人でしょう。 ほかに表現のしようがなかったの だろうと思います。 要するに、いろいろな宗教の聖者やその弟子たちが、 鹿野苑の中に住み、修 行に励んでいたわけですが、そういう人たちを仙人と訳したわけです。

仙人たちが住んでいた鹿野苑ですから、 仙人住処鹿野苑というわけです。 パーリ語ではイシパ タナミガダーヤといいます。パタナとは住んでいるところという意味です。鹿野苑はパーリ語 でミガダーヤですから、イシバタナ・ミガダーヤを漢訳して仙人住処鹿野苑というわけです。こ ここはお釈迦さまが成道後、五人の比丘に初めて説法をされた初転法輪の地で、仏教四大聖地の一 つに数えられます。

お釈迦さまは鹿野苑でもろもろの弟子たちに、

と説かれました。

「譬えば士夫の年寿百歳なるが如し。人有り語って言わく、『士夫若し法を聞かんとせば、 当日日三時に苦を受くべし。 朝の時に百槍の苦を受け、日中埔時にも、亦復た是の如く、一 1日の中に於て、三百槍の苦を受け、是の如く日日して、百歳に至り、然して後法を聞きなば、無 間等を得ん、汝寧ろ能うや不や』と」

お釈迦さまはたとえ話として、こういうことをお話しになられたのです。

「たとえば百歳の紳士がいるとしましょう」

お経に士夫とありますが、これはしかるべき身分の男性のことですから、現代語に訳せば紳士 です。

「その紳士に、ある人がこういいました。

経中の紳士は、

と答えました。

「もしもあなたが、因縁解脱が説かれた正しい仏法を聞きたいならば、毎日三回、大きな苦しみ を受けなければ教わることはできないけれども、あなたはそれでも仏法を聞きたいか、といわれ たらどうしますか? その苦しみとは、朝に百回槍で突かれ、同様に昼も晩も百回ずつ突かれる というもので、そのように一日に合計三百回も槍で突かれる苦しみを受けて、百歳になった時点 で初めて仏法を聴聞し、最高の悟りを得ることができるとしたならば、あなたはその苦を受けま すか?」

三百回も槍で突かれるなどということは、実際には不可能です。一度槍で突かれただけで死ん でしまいます。したがってこれは、それほどの苦しみと考えていただけばよいでしょう。

「因縁解脱をするためには、百年の間、毎日毎日、朝、昼、晩の三度にわたって、槍で百回ずつ 突かれるほどの苦しみに遭わなければならない。そういう苦しみに遭わなければ、因縁解脱の法 を教わることができないとしても、あなたは因縁解脱の道を志しますか?」

そう問われた時、みなさんはどう答えますか?かつに

「法を聞かんが為の故に、 悉く受くるに堪能せり」

これを現代語に訳せば、

となります。

「成仏の法を聞くためには、それらの苦しみに遭わなければならないというのならば、私は喜ん その苦しみを受けるでありましょう」

これは、大変な言葉です。 みなさんならば、どうしますか?

「因縁解脱行を一生懸命にやれば、必ず成仏することができる。 その代わり、この行を教わるた めには、朝、昼、晩ごとに各百回、一日に合計三百回も槍で突かれなければならない。それを百 年間続けて、初めてその修行に入れるのだよ」

そういわれたならば、みなさんはどうしますか?

「仏舎利宝珠尊解脱宝生行ができるならば、私は喜んで毎日槍で突かれましょう」

といいますか? それとも、

「そんなのまっぴらごめんだ。冗談じゃないよ。 槍で突かれるのが一回だとしても、私はごめん こうむります」

と答えるでしょうか?

おそらくはほとんどの人が後者でしょう。

しかしこの紳士は、

仏法を学びます」

「私は百年間、毎日三百回ずつ槍で突かれるような苦しみに遭っても、喜んでその苦しみを受けと答えているわけです。それはなぜでしょうか?

 

現代語に訳すと、

「所以は何ん、人の世に生れなば、長夜に苦を受くるに、有る時は地獄、有る時は畜生、有る時 は餓鬼、 三悪道に於て、 空しく衆の苦を受けた法をも聞かざるなり。是の故に我れ今無間等 の為の故に、終身三百槍を受くるを以て大苦とは為さざるなり」

 

「なぜならば、人間として生を受けたならば、いろいろな苦しみを受けるからです。しかも、そ の苦しみはこの一生だけではなく、永く続いていくものです。ある時は地獄界に堕ち、ある時は 畜生界に堕ち、ある時は餓鬼界に堕ちて、さまざまな苦しみに遭うでしょう。 それらの三悪道に 堕ちたならば、多くの苦しみを受けるだけでなく、仏法を聴聞することもできません。それに比 べれば、悟りを得るために、百年の間、毎日、槍で三百回突かれることなど、私には大きな苦し みとは思えないのです」

人間には来世がなく現世だけで終わるのならば、百年間で突かれるという苦しみを まで、成仏法を習う必要はないでしょう。けれども輪廻転生して、永く地獄、畜生、餓鬼の苦 しみを受けることに比べれば、百年間の苦しみなどなんでもない。永く輪廻転生して苦しむこと を考えれば、ずっと楽です。まさにこの紳士のいうとおりです。

 

 

 

 

The Pain of 300 Spears

The Pain of 300 Spears

**Intro:**

Born into this world, for that reason
Bearing the endless suffering of the night
Hell, beast, and hungry ghost, the three evil paths
Infinite suffering, unheard

**Chorus:**

For the sake of enlightenment, a hundred years of spears
The daily pain, it’s no big deal
Compared to the eternal suffering of samsara
This moment is nothing

**Intro:**

Born into this world, the reason why
Endless nights, carrying the weight of pain
Hell, beast, and hungry ghost realms
Endless suffering, unheard of

**Chorus:**

For the sake of enlightenment, a hundred years of spears
Daily pain is nothing, not a big deal
Compared to the suffering of eternal samsara
This moment is nothing, just a fleeting ordeal

阿含経  -三百槍の苦

-三百槍の苦

ひゃくふうきよう

仏道修行を進めていく上での心がまえが説かれた、『雑阿含経・百槍経』(以下『百槍経』) 講義いたします。

髪の短くれ聞きぬ。一時、仏、波羅国の仙人住処

如是我聞。一時仏住波羅橑国仙人住

鹿野苑の中に住まりたまえり。雨の時世尊、諸比丘に

ねんじゅびやくさい

ときせん もろもろびく

処鹿野苑中。爾時世尊告諸比丘。 譬 如士夫年寿百歳。有人語言。士夫若 欲聞法。 当日日三時受苦。晨朝時受 百槍苦。日中哺時。 亦復如是。 於一 日中。受三百槍苦。如是日日。至於 百歳。 然後聞法。 得無聞等。 汝寧能 不。 時彼士夫。為聞法故。悉堪能受。 所以者何。 人生於世。 長夜受苦。 有 時地獄。有時畜生。有時餓鬼。 於三

悪道 空受衆苦。 亦不聞法。 是故我 今為無間等故。不以終身受三百槍為 大苦也是故比丘。於四聖諦。 未得 無間等者。当勤方便起増上欲。 学無 間等。仏説此経已。諸比丘聞仏所説。 歡喜奉行

 

畜生、有る時は餓鬼、三悪道に於て、空しく苦を受

けた法をも聞かざるなり。是故にれ今無間等の しゅうしん 為の故に、終身三百槍を受くるを以て大苦とは為さざ るなり」。是の故に比丘、四聖師に於て、未だ無間等を得ずんば、当に勤め方使して増上欲を起し、無間等を 学すべし」と。仏此の経を説きりたまいに、諸の比 仏の所説を聞きて喜奉行しぬ。このように私は聞きました。 ある時、仏さまがバーラーナシー国の仙人住処鹿野苑にご滞在さ れていた時のことです。 ある日世尊が弟子たちに告げられました。

「たとえば、百歳の紳士がいるとしましょう。 その紳士に、ある人がこういいました。「もしも あなたが仏法を聞きたいならば、毎日三回、大きな苦しみを受けるべきです。その苦しみとは、 朝に百回槍で突かれ、同様に昼も晩も百回ずつ槍で突かれるというもので、そのように一日に合 計三百回も槍で突かれる苦しみを受けて、百歳になった時点で仏法を聴聞して最高の悟りを得る ことができるとしたならば、あなたはその苦を受けることができますか?」と。

するとその紳士は、『仏法を聞くためには、その苦しみを受けることができます。 なぜならば、

 

 

解説

人間として生を受けたならば、果てしもなく長い間にわたって苦を受け、ある時は地獄界に、あ る時は畜生界に、ある時は餓鬼界にと三悪道に堕ちて多くの苦しみを受け、さらに仏法を聴聞 することもできないからです。このことから私は、悟りを得るためには、百年の間、毎日、槍で 三百回突かれることなど、大きな苦しみとは思えません』

そのようなわけであるから比丘たちよ、四聖論においてまだ悟りを得ていない者は、あらゆる 方法を駆使して修行に励み、悟りを得ようという向上の欲を起こし、四聖諦の悟りを学びなさ 「い」

仏さまがこの経を説き終わると、仏さまの教えを聞いた弟子たちは心から喜び、修行に励みま した。

このお経は、お釈迦さまが波羅捺国の仙人の住処である鹿野苑にご滞在の時の説法を記したも のです。波羅国とは、当時、中インド・ガンジス河中流にあった、カーシー国の首都バーラー ナシーを漢字に音写したもので、現在のワーラーナシー(ベナレス) 市にあたります。

そのバーラーナシーの郊外に鹿野苑(ワーラーナシー市のサールナート付近)があります。 ここ は鹿が放し飼いにされているので、鹿野苑といわれました。日本でいえば奈良のようなところで

すが、鹿野苑は町外れにあり、いろいろな宗教の聖者や求道者の修行場であり、居住地でありま した。

そのような聖者や修行者を、パーリ語ではイシ、サンスクリット語ではリシといいます。 イシ ないしリシを漢訳経典では仙人と訳しました。 仙人という訳ははたして適切なのかと疑問に思 いますが、昔の中国の概念でいえば、たしかに仙人でしょう。 ほかに表現のしようがなかったの だろうと思います。 要するに、いろいろな宗教の聖者やその弟子たちが、 鹿野苑の中に住み、修 行に励んでいたわけですが、そういう人たちを仙人と訳したわけです。

仙人たちが住んでいた鹿野苑ですから、 仙人住処鹿野苑というわけです。 パーリ語ではイシパ タナミガダーヤといいます。パタナとは住んでいるところという意味です。鹿野苑はパーリ語 でミガダーヤですから、イシバタナ・ミガダーヤを漢訳して仙人住処鹿野苑というわけです。こ ここはお釈迦さまが成道後、五人の比丘に初めて説法をされた初転法輪の地で、仏教四大聖地の一 つに数えられます。

お釈迦さまは鹿野苑でもろもろの弟子たちに、

と説かれました。

「譬えば士夫の年寿百歳なるが如し。人有り語って言わく、『士夫若し法を聞かんとせば、 当日日三時に苦を受くべし。 朝の時に百槍の苦を受け、日中埔時にも、亦復た是の如く、一 1日の中に於て、三百槍の苦を受け、是の如く日日して、百歳に至り、然して後法を聞きなば、無 間等を得ん、汝寧ろ能うや不や』と」

お釈迦さまはたとえ話として、こういうことをお話しになられたのです。

「たとえば百歳の紳士がいるとしましょう」

お経に士夫とありますが、これはしかるべき身分の男性のことですから、現代語に訳せば紳士 です。

「その紳士に、ある人がこういいました。

経中の紳士は、

と答えました。

「もしもあなたが、因縁解脱が説かれた正しい仏法を聞きたいならば、毎日三回、大きな苦しみ を受けなければ教わることはできないけれども、あなたはそれでも仏法を聞きたいか、といわれ たらどうしますか? その苦しみとは、朝に百回槍で突かれ、同様に昼も晩も百回ずつ突かれる というもので、そのように一日に合計三百回も槍で突かれる苦しみを受けて、百歳になった時点 で初めて仏法を聴聞し、最高の悟りを得ることができるとしたならば、あなたはその苦を受けま すか?」

三百回も槍で突かれるなどということは、実際には不可能です。一度槍で突かれただけで死ん でしまいます。したがってこれは、それほどの苦しみと考えていただけばよいでしょう。

「因縁解脱をするためには、百年の間、毎日毎日、朝、昼、晩の三度にわたって、槍で百回ずつ 突かれるほどの苦しみに遭わなければならない。そういう苦しみに遭わなければ、因縁解脱の法 を教わることができないとしても、あなたは因縁解脱の道を志しますか?」

そう問われた時、みなさんはどう答えますか?かつに

「法を聞かんが為の故に、 悉く受くるに堪能せり」

これを現代語に訳せば、

となります。

「成仏の法を聞くためには、それらの苦しみに遭わなければならないというのならば、私は喜ん その苦しみを受けるでありましょう」

これは、大変な言葉です。 みなさんならば、どうしますか?

「因縁解脱行を一生懸命にやれば、必ず成仏することができる。 その代わり、この行を教わるた めには、朝、昼、晩ごとに各百回、一日に合計三百回も槍で突かれなければならない。それを百 年間続けて、初めてその修行に入れるのだよ」

そういわれたならば、みなさんはどうしますか?

「仏舎利宝珠尊解脱宝生行ができるならば、私は喜んで毎日槍で突かれましょう」

といいますか? それとも、

「そんなのまっぴらごめんだ。冗談じゃないよ。 槍で突かれるのが一回だとしても、私はごめん こうむります」

と答えるでしょうか?

おそらくはほとんどの人が後者でしょう。

しかしこの紳士は、

仏法を学びます」

「私は百年間、毎日三百回ずつ槍で突かれるような苦しみに遭っても、喜んでその苦しみを受け

と答えているわけです。それはなぜでしょうか?

輪廻転生しても存続する苦

その紳士は、

といっております。

現代語に訳すと、

となります。

「まれ・・・・・・」

「所以は何ん、人の世に生れなば、長夜に苦を受くるに、有る時は地獄、有る時は畜生、有る時 は餓鬼、 三悪道に於て、 空しく衆の苦を受けた法をも聞かざるなり。是の故に我れ今無間等 の為の故に、終身三百槍を受くるを以て大苦とは為さざるなり」

だい

「なぜならば、人間として生を受けたならば、いろいろな苦しみを受けるからです。しかも、そ の苦しみはこの一生だけではなく、永く続いていくものです。ある時は地獄界に堕ち、ある時は 畜生界に堕ち、ある時は餓鬼界に堕ちて、さまざまな苦しみに遭うでしょう。 それらの三悪道に 堕ちたならば、多くの苦しみを受けるだけでなく、仏法を聴聞することもできません。それに比 べれば、悟りを得るために、百年の間、毎日、槍で三百回突かれることなど、私には大きな苦し みとは思えないのです」

人間には来世がなく現世だけで終わるのならば、百年間で突かれるという苦しみを まで、成仏法を習う必要はないでしょう。けれども輪廻転生して、永く地獄、畜生、餓鬼の苦 しみを受けることに比べれば、百年間の苦しみなどなんでもない。永く輪廻転生して苦しむこと を考えれば、ずっと楽です。まさにこの紳士のいうとおりです。

以前に講義した『母乳経』にも、同じようなことが説かれていました(本書二一八二九頁参 照)。お釈迦さまは「母乳経」で、

「おまえたちが輪廻転生を繰り返す間に飲んだ母乳は、恒河と四大海の水量よりも多いのです。 なぜならば、おまえたちは輪廻転生中にある時はゾウとして生まれ、その時飲んだ母乳は極めて 多量です。 また、時にはラクダ・ウマ・ウシ・ロバや種々の禽獣として生まれ、その時飲んだ母 乳の量も極めて多量です。

また、おまえたちは輪廻転生の間に、時には墓場に棄てられて膿や血が多量に流出し、またあ る時には地獄・畜生・餓鬼の三悪に堕ち、髄血が流出することも同様に多量です。 弟子たちよ、 おまえたちは始まりのない昔から生死を繰り返していますが、苦の根本原因を知りません」 と修行者たちに説いておられました。まさに『百槍経』と同じ内容です。

『母乳経』の講義ではお話ししませんでしたが、世間一般の人が『母乳経』などのお経を読んで 疑問に思うのは、

「ある時はゾウとして生まれ・・・・・・また、時にはラクダ・ウマ・ウシ・ロバや種々の禽獣として生

という部分だと思います。 世間一般の人どころか、お坊さんまでもが

 

-Three Hundred Spears of Pain

Let’s move forward

We will be giving a lecture on the “Za Agon Sutra/Hyakuyari Sutra” (hereinafter referred to as “Hyakuyari Sutra”), which explains what to do before proceeding with Buddhist training.

I don’t like short hair. Temporary residence of the immortals of Buddha and Harakuni

Please listen to me. Temporary residence of Buddha and immortal of Harakokuni

Tamaeri lived inside the deer garden. During the rain, the Blessed One, to all the bhikkhus

Nenjubiyakusai

Tokisen Moromorobikku

Shokanoen Junior High School. Venerable bhikkhus from now on. Parable Joshifu is 100 years old. Manned language. Shifuwaka Desire Law. On that day, at three o’clock, he suffered. During the Chen Dynasty, he suffered a hundred hardships. During daytime feeding. Please restore it. All day long. He is a 300-year-old man. Day by day. A hundred years old. After that, he became a listener. He is worthless. You Ning Neng Fu. Toki Kanashio. Because of the law. Thoroughly enjoyed. What is the reason? In life. Long night suffering. Hell at times. Time bastard. Hungry ghost. Ozo

Evil path, empty suffering. It is unheard of law. Therefore, I am now, I am, and I am. The great suffering is the late Bhikkhu. The Four Holy Truths. Unearned and unearned. Desire for increased convenience at work. Gakumu et al. This is the Buddhist teaching. Various bhikkhus and Buddhist temples theory. Pleasure magistrate

 

Damn, sometimes you are a hungry demon, suffering in vain in the three evil ways.

I have no choice but to listen to the rules. For this reason, I will not suffer great hardship by receiving 300 spears for the rest of my life, for the sake of his obedience.” For this reason, Bhikkhus, among the four sages, if you have not yet attained Mugen, etc., you should work diligently, arouse the desire to increase, and study Mugen, etc.’ Even though the Buddha has not finished preaching this sutra, he listens to the teachings of various Buddhists and does not perform joyful practices. This is how I heard it. One day, the Buddha was staying at Dekanoen, the abode of the immortals in the country of Varanasi. One day the Blessed One spoke to his disciples.

“For example, let’s say there is a gentleman who is 100 years old. Someone said to him, “If you want to hear Buddhism, you should undergo great suffering three times every day. He was pierced with a spear 100 times in the morning, and 100 times in the afternoon and at night, and suffered the pain of being pierced with a spear a total of 300 times a day until he was 100 years old. If you are able to attain the highest enlightenment by listening to Buddhism when you reach the age of 10, can you endure that suffering?

Then the gentleman said, “In order to hear Buddhism, you can undergo that suffering. because,

 

 

 

Explanation

If you are born as a human, you will suffer for an endlessly long time, and at one time you will fall into the three evil paths of hell, hell, beasts, and hungry ghosts, and you will suffer a lot. This is because they are unable to listen to Buddhism and listen to Buddhism. For this reason, I do not think that being pierced with a spear three hundred times every day for a hundred years is a great hardship in order to attain enlightenment.”

Therefore, bhikkhus, those who have not yet attained enlightenment in the Four Noble Truths should use every method available to practice, develop the desire to improve, and study the Four Noble Truths. Nasa “i”

When the Buddha had finished preaching this sutra, the disciples who had heard the Buddha’s teachings were truly happy and devoted themselves to their training.

This sutra is also a sermon written by the Buddha while he was staying at Shikanoen, the abode of immortals in Haraka Province. Harakuni is a kanji transcription of Balanasi, the capital of the Kāshi state, which was located in the middle reaches of the Ganges River in central India at the time, and corresponds to the present-day city of Varanasi (Benares).

On the outskirts of Varanasi is Shikanoen (near Sarnath in Varanasi city). Because there were deer roaming free here, it was called Deer Garden. In Japan, places like Nara

However, Shikanoen was located on the outskirts of town and was a training ground and residence for saints and aspirants of various religions.

Such saints and ascetics are called Ishi in Pali and Rishi in Sanskrit. Ishi or Rishi was translated as sage in the Chinese translation of the scriptures. I’m not sure if the term ‘immortal’ is appropriate, but in terms of the ancient Chinese concept, it would certainly be ‘immortal.’ I don’t think he had any other way to express it. In short, saints of various religions and their disciples lived and practiced in Shikanoen, and these people were translated as hermits.

This is Shikanoen, where the immortals lived, so it is called Shikanoen, the place where the immortals lived. In Pali, it is called Isipa Tanamigadaya. Patana means a place to live. The Pali word for “Shikanoen” is Migadaya, so Ishibatana Migadaya is translated into Chinese as “Shikanoen, the abode of the sage.” This place is the place where the Buddha made his first sermon to the five bhikkhus after attaining enlightenment, and is counted as one of the four sacred sites of Buddhism.

Buddha said to his disciples at Dekaen Garden,

It was explained to me.

“For example, a Shifu’s life is 100 years old.Some people say, “If a Shifu listens to the Dharma, he must suffer suffering at three o’clock on the same day. Then, during the Sino-Pacific period, just like He who was restored, he suffered three hundred spears in one day, and just as He lived day by day, he reached the age of 100 years old, and after that he passed the Dharma. If you listen, you will have no time, and you will not be able to do anything.’

The Buddha told this as a parable.

“Let’s say there’s a gentleman who’s a hundred years old.”

The sutra says “shifu,” and this refers to a man of appropriate status, so if translated into modern language, he would be a gentleman.

“Someone said this to the gentleman.

The gentleman who is in the process of

I answered.

“If you want to hear the correct Buddhist teachings that teach you how to liberate yourself from fate, what would you do if someone told you that you would have to undergo great suffering three times a day in order to be able to learn it?Do you still want to hear the teachings? ?The suffering was that of being pierced with a spear a hundred times in the morning, and likewise a hundred times in the afternoon and at night; If you were to hear Buddhism for the first time at the age of 100 and be able to attain the highest level of enlightenment, would you suffer?

It is practically impossible to be speared three hundred times. Just one hit with a spear will kill you. Therefore, you can think of this as a great pain.

“In order to be liberated from one’s fate, one must suffer so much that one is stabbed with a spear three times a day, morning, noon, and evening, for a hundred years. Even if you cannot learn the law of liberation, would you still aspire to the path of liberation from your relationships?”

How do you answer when asked that question?Katsuni

“Since it is for the sake of listening to the law, I thoroughly enjoy receiving it.”

Translating this into modern language,

It becomes.

“If in order to hear the Dharma of Buddhahood he must undergo such sufferings, then I will gladly let him undergo those sufferings.”

This is a difficult word. What would you all do?

“If you do the practice of liberation from one’s fate with all your might, you will definitely attain Buddhahood.Instead, in order to learn this practice, you must repeat the practice 100 times in the morning, noon, and evening, for a total of 300 times a day. You have to be poked with it. You have to do that for a hundred years, and then you can enter into that training for the first time.”

If that’s the case, what would you do?

“If I can liberate the Buddha’s relics and release the treasure from life, I will gladly be pierced with a spear every day.”

Do you mean? Or,

“I’m completely sorry for that. It’s not a joke. Even if it’s just one spear, I’m sorry he’s going to do this.”

Would you answer that?

Most people probably choose the latter.

But this gentleman

He studies Buddhism.”

“Even if I were to suffer the pain of being pierced with a spear three hundred times every day for a hundred years, I would willingly suffer it.

That’s the answer. Why?

The suffering that persists even in reincarnation

That gentleman is

That’s what I’m saying.

Translated into modern language,

It becomes.

“Rare…”

“What is the reason?If you are born in the world of humans, you will suffer during the long night, sometimes in hell, sometimes as an animal, sometimes as a hungry ghost, and in the three evil ways, you will suffer in vain for the people.” I have no choice but to listen to this.For this reason, I am now doing it for the sake of Mugen, so I will not suffer great hardship by receiving 300 spears for the rest of my life.”

big

“This is because once you are born as a human being, you will undergo various kinds of suffering.Moreover, that suffering will not only last this lifetime, but will continue for a long time. You will fall into the world of beasts, and at some point you will fall into the world of hungry ghosts, where you will suffer all kinds of suffering. If you fall into these three evil paths, you will not only suffer a lot, but you will also not be able to hear the Buddha Dharma. In comparison, being pierced with a spear 300 times every day for 100 years in order to gain enlightenment does not seem like much suffering to me.

If a person has no afterlife and ends up living in this life, there would be no need for him to go through the pain of suffering for a hundred years to learn the method of attaining Buddhahood. However, a hundred years of suffering is nothing compared to being reincarnated and enduring the suffering of hell, beasts, and hungry ghosts. It’s much easier if you think about suffering through reincarnation for a long time. This gentleman is exactly right.

A similar thing was explained in the “Breast Sutra” that I gave a lecture on earlier (see page 21,829 of this book). Buddha is a “breastfeeding sutra,”

“The amount of mother’s milk you drank during your reincarnations is greater than the amount of water in the Everlasting River and the Four Great Oceans. Because when you were in your reincarnations, you were born as elephants, and the amount of mother’s milk you drank at that time was The amount of milk is extremely large. Also, sometimes babies are born as camels, horses, cows, donkeys, and various other animals, and the amount of mother’s milk they drink at that time is also extremely large.

Also, during reincarnation, you are sometimes dumped in graveyards and a large amount of pus and blood flow out, and at other times you fall into the three evils of hell, beasts, and hungry ghosts, and your marrow blood flows out as well. It’s a large amount. “My disciples, you have been living and dying repeatedly since time immemorial, but you do not know the root cause of suffering,” he said to his ascetics. This is exactly the same content as the “Hyakuyari Sutra”.

I didn’t talk about it in the lecture on the “Breast Sutra,” but what the general public has questions about when they read sutras such as the “Breast Sutra.”

“Sometimes we are born as elephants…other times we are born as camels, horses, cows, donkeys, and various other birds and animals.”

I think that’s the part. Not only ordinary people, but even monks

 

求聞持聡明法の歌

求聞持聡明法の歌  Song of Gyōmonji Sōmyō-ho  行文寺宗妙法之歌

 

(イントロ)
未来の扉が開く 知性の光輝く
求聞持聡明の法が広がる

新たなる世界への夢 遥か彼方へと続く
愛と希望の旅路が今始まる

 

**イントロ**
三度目の修行に、私は挑んで
百度目のトレーニング、道のりは遠く
求聞持法の印明、呼吸法の秘伝
身体と脳髄に、微妙な変化

**サビ**
明星の秘密を、ついに掴んだ
瞼の裏に光る、冷たい白銀
大脳の奥で、脈打つリズム
これは私の、心の明星

仏舎利の塔

仏舎利の塔  佛塔   Stupa

 

星々の光 輝く夜空
心に宿る 仏の慈悲
供養の徳を 積むことぞ
解脱の道を 願うならば

願いを込めて 歩む道は
喜びと苦しみ 交じり合う
因縁の絆 解き放ちて
解脱の光を 見つめるならば

荘厳なる仏舎利の塔
光輝く宝珠の尊き身
慈悲の調べは尽きぬ限り
世を救う変化の法身

願いを込めて礼を捧げん
仏舎利の尊きる道
因縁解脱の奇跡に満ち
尊き霊験を歌う

七つの宝経において、ブッダは如来が出現するとき、七つの覚醒が現れると説明しています。
– 七覚照(Shichigakushō)法は、七つの訓練方法から成ります:念覚照(Nen Gakusho)、正法覚照(Shoho Gakusho)、精進覚照(Shojin Gakusho)、喜覚照(Kikakusho)、息覚照(Breath Gakusho)、定覚照(Jo Gakusho)、および捨覚照(Sakugakusho)。
– 念覚照(Nen Gakusho)は、念の力を強化し、空の概念を習得する訓練です。正法覚照(Shoho-kakusho)は、真の教えの方法を選び、それを実践することを意味します。
– 精進覚照(Shojin Gakusho)は、一心に努力し、献身的に教えの方法を習得する訓練です。喜覚照(Kikakusho)は、真の教えの方法を得る喜びに浸る実践です。
– 息覚照(Breath Gakusho)は、心と体を軽くするための実践です。定覚照(Jo Gakusho)は、特別な瞑想技法を含む瞑想実践です。捨覚照(Sakugakusho)は、執着を捨てる実践です。
– 釈迦牟尼仏は、阿含経において七覚照を説明し、如来の出現を予言していると考えられています。
– 彼は、世界が危機に瀕しており、如来の出現が必要であると主張し、これは阿含宗によって広められていると述べています。
– ブッダの成仏法である七科三十七道品が阿含宗によって広められ、世界を救う手段として存在することを示しています。
– 著者はこれを、如来が現代に阿含経を通じて出現するという予言と解釈し、阿含宗がこの予言の具現化であるとしています。
– 阿含宗が世界を救う役割を果たし、ブッダの成仏法を広める努力が如来の出現に繋がると認識しています。

人間のバラモンの中で、唯一アニャ・コンダンニャ(Anya Kondanya)が、シッダッタ王子が出現して仏になると予言しました。彼は、いわゆる五比丘の一人であり、シッダッタ王子の出家に同行し、最初に仏の弟子となった人物です。

エントロピーの法則は、熱力学第二法則であり、「物質とエネルギーは、使える状態から使えない状態、または秩序だった状態から無秩序な状態へと一方向にしか変化しない」ということを意味します。ジェレミー・リフキンの著書『エントロピーの法則』により一般に広く知られるようになりました。

 

五蘊の瞑想法は、仏教の教えに基づいています。五蘊(ごうん)とは、すべての存在が以下の五つの要素によって成り立っているとする教えです:

1. **色(しき, rūpa)**:物質的な形態、身体
2. **受(じゅ, vedanā)**:感受、感覚、感情
3. **想(そう, saññā)**:表象、認識、思考
4. **行(ぎょう, saṅkhāra)**:形成作用、意志、心の働き
5. **識(しき, viññāṇa)**:意識、知覚

五蘊の瞑想法は、これらの要素を観察し、理解することで自己の本質を見つめる方法です。以下に、五蘊に基づく瞑想のステップを説明します。

### ステップ 1: 色(しき)の観察
1. **姿勢を整える**:静かな場所で座り、背筋を伸ばしてリラックスします。目を閉じるか、半眼にします。
2. **呼吸に集中する**:自然な呼吸を観察し、息を吸う時と吐く時に意識を集中します。
3. **身体の感覚に気づく**:身体の各部分に意識を向け、それぞれの感覚に気づきます。例えば、座っている時の接触感、手や足の位置、体の重みなどを感じます。

### ステップ 2: 受(じゅ)の観察
1. **感覚を観察する**:心の中で生じる感覚や感情に意識を向けます。これには、快、不快、中立の感覚が含まれます。
2. **感覚を判断しない**:感覚が生じたら、それを良い悪いと判断せず、そのまま観察します。感覚がどのように生じ、消えていくのかを見つめます。

### ステップ 3: 想(そう)の観察
1. **思考やイメージに気づく**:心に浮かぶ思考やイメージに気づきます。これには、過去の記憶、未来の計画、現在の思考が含まれます。
2. **思考に執着しない**:思考が生じたら、それに執着せず、そのまま観察します。思考がどのように生じ、変化し、消えていくのかを見つめます。

### ステップ 4: 行(ぎょう)の観察
1. **心の反応を観察する**:外部の刺激や内部の感覚に対する心の反応に気づきます。例えば、音を聞いた時の反応、痛みを感じた時の反応などです。
2. **反応を見つめる**:心の反応がどのように生じ、どのように変わっていくのかを見つめます。反応に引きずられず、観察し続けます。

### ステップ 5: 識(しき)の観察
1. **意識そのものに気づく**:感覚、思考、感情を認識する意識そのものに注意を向けます。
2. **意識の性質を観察する**:意識がどのように変化し、どのように常に存在しているのかを観察します。意識が対象にどのように反応するのかを見つめます。

### 総合的な瞑想
1. **すべての五蘊を統合的に観察する**:上記の各ステップを順番に行いながら、最終的にはすべての五蘊を統合的に観察します。それぞれの要素がどのように相互に影響し合い、自己の体験を構成しているのかを理解します。
2. **無常と無我を理解する**:五蘊の観察を通じて、すべての現象が無常(変化するものであること)であり、無我(自己という固定した実体がないこと)であることを理解します。

この瞑想法は、自己理解を深め、精神的な平和をもたらすことを目指しています。継続的に練習することで、五蘊に対する洞察を深め、より深い瞑想状態に入ることができるでしょう。