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大舶の比喩  The Allegory of the Great Ship

### イントロ
波の彼方に船浮かべ
六月の嵐に立ち向かう
結ぶ藤蔓断たれても
精進の道は続くのさ

### サビ
四念処法を修めて
正しき道を歩みゆく
結縛煩悩解き放ち
心に光が満ちるまで

その秘密が『三供養品』に説かれています。仏教の原点ともいえるこのお経をさっそく読んで

聞如是。一時仏在舎衛国祇樹給孤独

園。爾時世尊告阿難。有三善根。不

可窮尽。漸至涅槃界。云何為三。所

謂於如来所而種功徳。此善根不可窮

尽。於正法。而種功徳。此善根不可

窮尽。於聖衆而種功徳。此善根不可

窮尽。是謂阿難。此三善根不可窮尽

得至涅槃界。是故阿難。当求方便獲

此不可窮尽之福。如是阿難。当作是

学。爾時阿難聞仏所説。歓喜奉行

 

聞くこと是の如し。一時、仏、舎衛国祇樹給孤独園に在

しき。爾の時世尊、阿難に告げたまわく、「三善根(三

福遺)有り、窮尽す可からずして、漸く涅槃界に至る。

云何が三ど為すや。所謂如来の所に於て功徳を種う。此

の善根窮尽す可からず。正法に於て功徳を種う。此の

善根窮尽す可からず。聖衆に於て功徳を種う。此の善

根窮尽す可からず。是れを阿難、此の三善根は窮尽す可

か6 ず、涅槃界に至ることを得と謂うなり。是の故に阿

難、当に方便を求めて、此の窮尽す可からずの福を獲べ

し。是の如く阿難、当に是の学を作すべし」と。爾の時

阿難、仏の所説を聞きて歓喜奉行しぬ。

このように聞きました。仏さまがコーサラ国の祇園精舎にご滞在の時のことです。ある日、世尊は、阿難にこのようにお告げになられました。

「三善根(三福道)というものがありますが、その功徳は無限であり、涅槃界に至ることができ

るものです。なにをもって三つの善根(福)とするのでしょうか。(第一に)いわゆる如来の所に

おいて功徳を種える、この善根(福)の功徳は無限です。(第二に)正法において功徳を種える、

この善根(福)の功徳は無限です。(第三に)聖衆において功徳を種える、この善根(福)の功徳

は無限です。阿難よ、この三善根(三福道)の功徳は無限であり、涅槃界に入ることができるの

です。したがって阿難よ、三善根(三福道)を修行して、この無限の福を得なさい。このように

阿難よ、この三善根(三福道)を学びなさい」

この教えを受けて、阿難は心より喜び、修行に励みました。

三善根を三福道と呼んでいます。このことについて説明し

ます。

『仏教語大辞典』(中村元著、東京書籍)で「三善根」を引くと、

【三善根】さんぜんごん 無貪善根・無限善根・無療善根の三根。一切の善法がこの三つか

ら生まれるからである。それらは具体的には施・慈・慧となって現われる。三毒の対。

と書かれています。しかし、この『三供養品』に説かれる三善根は、その内容がまったく異な

ります。それなのに、これを三善根という名称のままで弟子たちに教えるのは、非常な誤解を生むもとだとわたくしは考えました。

それでは、この修行法は、どのように呼ぶべきなのでしょうか?

経文中に、

「此の窮尽す可からざるの福を獲べし」

とあるように、この修行法は無尽蔵の福を得る三つの道です。したがって、わたくしはこれを「三福道」と命名しました。この名称ならば無貪善根・無職善根・無療善根の三善根と混同する

ことはありません。

 

三善根を「三福道」と変えて読誦しているのです。

さて、右の経文を一読すれば、涅槃界に至るためには三善根(三福道)が必要なのだ、という

ことをお釈迦さまが説かれているのが分かると思います。

涅槃界とはなんでしょうか?

普通は涅槃の境地・境界の意味で使われます(ただし本経では違う意味を持っておりますが、それについては後述します)。『五戒品』でも触れたように(本書三七頁参照)、涅槃とはサンスクリット語でニルヴァーナといいますが、生死を超越した境界、完全解脱の境地です。完全解説とは業と因縁から完全に解放された状態です。

わたくしたちは業と因縁の塊です。業と因縁によって輪廻転生を続けています。輪廻転生とは生死の流転がやまず、無限に生死の流転を繰り返すことです。まるで車の輪が廻るように絶え間なく、生と死を繰り返していくので輪廻転生といいます。また、生死流転、生々流転とも呼ばれます。直線ならば、いつかは終点にたどり着くでしょう。ところが輪というのは終わりがありません。終点がないわけです。輪が廻るから無限なのです。ただただ、グルグルグルグルと生死を繰り返すのです。

そういいますと、

「はてしなく廻ってもいいんじゃないですか。いろいろなものに生まれ変わって、さまざまな人生を味わうことができるわけでしょう。男になったり、女になったり、偉くなったりというよう

に、いろいろな人生を味わうことができるのだから、むしろ楽しいじゃないですか」そういう人もいるかもしれません。一度限りの人生ではなく、輪廻転生する方が楽しいという人もいるでしょう。

ところが、輪廻転生は決して楽しいことではありません。むしろ苦しいことです。輪廻転生が苦しいことだから、お釈迦さまは輪廻からの解脱を願って修行したわけです。

なぜ、輪廻転生は苦である、とお釈迦さまは説かれるのでしょうか?

それを理解するためには、まず、仏教の人生観を知る必要があります。

仏教では、まず、人生イコール苦であると見ます。人生は、すなわち苦しみであると考えるのです。わたくしもそのとおりだと思います。たしかに人生には楽しみもあります。けれども、一生のうちに体験する苦と楽を一つずつ相殺していくならば、苦しみの方が多く残るでしょう。にある苦しみの中に、ときどき喜びがあるというようなものではありませんか?

さらには、その喜びが、次なる苦しみの原因になることが多いのです。

仏執でロ人問の々[しみな分類してヽ匯即刻帽と呼んでおります。四苦とは人間の基本的な苦しみです。さらに四苦に付随した苦しみが四つ出てきます。これを最初の四苦と合わせて八苦といいます。通常はそれらを総称して四苦八苦というわけです。

仏教の基本教義として大切なことですから、もう一度復習しましょう。

まず、四苦というのは、生・老・病・死の苦です。これが人間の基本的な苦しみです。さらにその四苦に付随した苦しみが出てきます。それが愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦の四つです。これらの苦を総称して、四苦八苦といいます。こうしてみると、人間というのは本当に苦の塊です。

四苦の第一は生の苦です。実際に自分の人生を振り返ってみればよく分かると思いますが、生きていくこと自体が苦しみです。生まれたこと自体が苦しみです。生きているからこそ楽しいこともあるけれども、その楽しいことが次の瞬間に苦の種となっています。ですから生は苦であるというしかありません。

第二は老の苦しみです。生きている以上は、だれもが年をとります。必ず老いていきます。これもやはり愉快なことではありません。老いた人ならではの喜びもありましょう。けれども老いれば体力・気力・智力も落ちていくわけですから、「老い」は決して愉快なことではありません。

朝起きて、ひげを剃るために鏡を見ると、

「ああ、我、老いたり」

という感をしばしば抱きます。自分では若い気でいても、若い時のような強い体力を発揮することはどうしてもできません。老いる苦しみというものは、だれしも味わうものです。

第三は病の苦です。生きているかぎりは、病気をすることもあります。だれが考えても、病気は楽しいものではありません。病気によって得るものもありますが、相対的に見れば病気は苦しいものです。

第四は死の苦しみです。人間だれしも死を迎えます。悟りきった人でないかぎり、死は寂しいし、つらいし、苦しいものです。

以上が四苦です。この四苦に愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦の四つを加えて八苦になります。

愛別離苦とは、自分が愛しているものと離別しなければならない苦しみです。どれほど愛し合っている恋人同士、あるいは夫婦、親子、兄弟、友人であっても、いつかは離別しなければなりません。生き別れもあれば死に別れもあります。いずれにしても愛する人と離別することは、本当に苦しく、つらいことですが、絶対に避けられません。

しかも、それは人間関係だけではありません。愛するものとは、必ずしも人間だけではありまけん。たとえば、お金をこよなく愛している人がいます。

『おわはわ金だりが恋人だ。ほかにはなにもいらない』

また、地位を愛している人もいます。内閣総理大臣、会社の社長、重役、それぞれのポストをこよなく愛しています。

けれども、お金であろうと、地位であろうと、いつかはそれらとおさらばしなければならない時が必ずやってきます。いくら、

「いやだ!」

と叫んでみたところで、どうなるものでもないわけです。

次の怨憎会苦とは、怨んだり憎んだりしている相手と会わなければならない苦しみですが、これもまた愛別離苦に勝るとも劣らない苦しみです。

「憎んだり怨んだりしているような、それほど嫌なヤッならば、会わなきゃいいじゃないか」そういうかもしれませんが、因縁によって離れることができなくなっているから、非常に苦し

いのです。その一つが「夫婦縁障害の因縁」です。最初は愛し合って結婚したとしても、怨憎会苦のもとになる「夫婦縁障害の因縁」があれば、夫婦お互いが憎しみ合うことになります。ま

るで親の仇のように憎み合って、朝から晩までけんかぽかりしています。

「それならば、別れてしまえばいいじゃないですか」

理屈ではそのとおりです。ところが、それが別れられないのです。いろいろな人間関係・経済的理由、その他さまざまな事情があって、とても離婚できません。これが因縁の恐ろしいところです。しかたがないから我慢をしようと思うのだけれども、我慢しきれなくて、毎日けんかを繰り返すのですから、日々地獄です。

 

 

 

その秘密が『三供養品』に説かれています。仏教の原点ともいえるこのお経をさっそく読んで

聞如是。一時仏在舎衛国祇樹給孤独

園。爾時世尊告阿難。有三善根。不

可窮尽。漸至涅槃界。云何為三。所

謂於如来所而種功徳。此善根不可窮

尽。於正法。而種功徳。此善根不可

窮尽。於聖衆而種功徳。此善根不可

窮尽。是謂阿難。此三善根不可窮尽

得至涅槃界。是故阿難。当求方便獲

此不可窮尽之福。如是阿難。当作是

学。爾時阿難聞仏所説。歓喜奉行

 

聞くこと是の如し。一時、仏、舎衛国祇樹給孤独園に在

しき。爾の時世尊、阿難に告げたまわく、「三善根(三

福遺)有り、窮尽す可からずして、漸く涅槃界に至る。

云何が三ど為すや。所謂如来の所に於て功徳を種う。此

の善根窮尽す可からず。正法に於て功徳を種う。此の

善根窮尽す可からず。聖衆に於て功徳を種う。此の善

根窮尽す可からず。是れを阿難、此の三善根は窮尽す可

か6 ず、涅槃界に至ることを得と謂うなり。是の故に阿

難、当に方便を求めて、此の窮尽す可からずの福を獲べ

し。是の如く阿難、当に是の学を作すべし」と。爾の時

阿難、仏の所説を聞きて歓喜奉行しぬ。

このように聞きました。仏さまがコーサラ国の祇園精舎にご滞在の時のことです。ある日、世尊は、阿難にこのようにお告げになられました。

「三善根(三福道)というものがありますが、その功徳は無限であり、涅槃界に至ることができ

るものです。なにをもって三つの善根(福)とするのでしょうか。(第一に)いわゆる如来の所に

おいて功徳を種える、この善根(福)の功徳は無限です。(第二に)正法において功徳を種える、

この善根(福)の功徳は無限です。(第三に)聖衆において功徳を種える、この善根(福)の功徳

は無限です。阿難よ、この三善根(三福道)の功徳は無限であり、涅槃界に入ることができるの

です。したがって阿難よ、三善根(三福道)を修行して、この無限の福を得なさい。このように

阿難よ、この三善根(三福道)を学びなさい」

この教えを受けて、阿難は心より喜び、修行に励みました。

三善根を三福道と呼んでいます。このことについて説明し

ます。

『仏教語大辞典』(中村元著、東京書籍)で「三善根」を引くと、

【三善根】さんぜんごん 無貪善根・無限善根・無療善根の三根。一切の善法がこの三つから生まれるからである。それらは具体的には施・慈・慧となって現われる。三毒の対。と書かれています。しかし、この『三供養品』に説かれる三善根は、その内容がまったく異なります。それなのに、これを三善根という名称のままで弟子たちに教えるのは、非常な誤解を生むもとだとわたくしは考えました。

それでは、この修行法は、どのように呼ぶべきなのでしょうか?

経文中に、

「此の窮尽す可からざるの福を獲べし」

とあるように、この修行法は無尽蔵の福を得る三つの道です。したがって、わたくしはこれを「三福道」と命名しました。この名称ならば無貪善根・無職善根・無療善根の三善根と混同する

ことはありません。

 

三善根を「三福道」と変えて読誦しているのです。

さて、右の経文を一読すれば、涅槃界に至るためには三善根(三福道)が必要なのだ、という

ことをお釈迦さまが説かれているのが分かると思います。

涅槃界とはなんでしょうか?

普通は涅槃の境地・境界の意味で使われます(ただし本経では違う意味を持っておりますが、それについては後述します)。『五戒品』でも触れたように(本書三七頁参照)、涅槃とはサンスクリット語でニルヴァーナといいますが、生死を超越した境界、完全解脱の境地です。完全解説とは業と因縁から完全に解放された状態です。

わたくしたちは業と因縁の塊です。業と因縁によって輪廻転生を続けています。輪廻転生とは生死の流転がやまず、無限に生死の流転を繰り返すことです。まるで車の輪が廻るように絶え間なく、生と死を繰り返していくので輪廻転生といいます。また、生死流転、生々流転とも呼ばれます。直線ならば、いつかは終点にたどり着くでしょう。ところが輪というのは終わりがありません。終点がないわけです。輪が廻るから無限なのです。ただただ、グルグルグルグルと生死を繰り返すのです。

 

 

 

聞如是一時仏在舎衛国樹給孤独 園爾時世尊阿難。有三善根。 不 可窮尽。 至涅槃界。 何為三所 謂於如来所而種功德。此善根不可窮 尽於正法 而種功徳。 此善根不可 尽於聖衆而種功徳。 此善根不可 窮尽是謂阿難。此三善根不可窮尽 得至涅槃界。是故阿難。当求方便獲 此不可窮尽之福。如是阿難。当作是 学爾時阿難関仏所説。 喜奉行

 

聞くことの歌 舎衛国祇給孤独園に在 しきの時世尊、阿難に告げたまわく、「三善根(三 福道)有り、窮尽す可からずして、漸く涅槃界に至る。

 

何が三とすや。所謂如来の所に於て功徳を使う。 此 善 善根尽す可からず。 聖に於て功徳を種う。此の善此の す可からず。正法に於て功徳を種う。

尽す可からず。 是れを阿難、此の三善根は窮尽す可 からず、涅槃界に至ることを得と謂うなり。是故に 難当に方便を求めて、此の窮す可からずの福を獲べ 是の如く阿難当に是の学を作すべし」と。雨の時 阿難、仏の所説を聞きて喜奉行しぬ。

このように聞きました。仏さまがコーサラ国の祇園精舎にご滞在の時のことです。ある日、世尊は、阿難にこのようにお告げになられました。

「三善根(三福道)というものがありますが、その功徳は無限であり、涅槃界に至ることができ るものです。 なにをもって三つの善根 (福)とするのでしょうか。 (第一に) いわゆる如来の所に おいて功徳を種える、この善根(福)の功徳は無限です。 (第二に) 正法において功徳を種える、 この根(福)の功徳は無限です。(第三に) 聖衆において功徳を種える、この善根 (福)の功徳 は無限です。 阿難よ、この三善根(三福道)の功徳は無限であり、涅槃界に入ることができるの です。したがって阿難よ、三善根(三福道)を修行して、この無限の福を得なさい。このように 阿難よ、この三善根 (三福道)を学びなさい」

この教えを受けて、阿難は心より喜び、修行に励みました。

冒頭でも触れたように、 阿含宗では三善根を三福道と呼んでいます。このことについて説明し

『仏教語大辞典』(中村元著、東京書籍)で「三善根」を引くと、

【三善根】さんぜんごん 無善根・無瞋善根・無癡善根の三根。 一切の善法がこの三つか ら生まれるからである。 それらは具体的には施・・慧となって現われる。 三毒の対

と書かれています。 しかし、この「三供養品」に説かれる三善根は、その内容がまったく異な ります。それなのに、これを三善根という名称のままで弟子たちに教えるのは、非常な誤解を生 むもとだとわたくしは考えました。

それでは、この修行法は、どのように呼ぶべきなのでしょうか?

「此の窮尽す可からざるの福を獲べし」

とあるように、この修行法は無尽蔵の福を得る三つの道です。 したがって、わたくしはこれを 「三福道」と命名しました。 この名称ならば無貪善根・無瞋善根・無癡善根の三善根と混同する ことはありません。

そこで、阿含宗では、三善根を「三福道」と変えて読誦しているのです。

さて、右の経文を一読すれば、涅槃界に至るためには三善根 (三福道)が必要なのだ、という ことをお釈迦さまが説かれているのが分かると思います。

涅槃界とはなんでしょうか?

阿含経・三供品

普通は涅槃の境地境界の意味で使われます(ただし本経では違う意味を持っておりますが、それ については後述します)。 『五戒品』 でも触れたように(本書三七頁参照)、涅槃とはサンスクリット 語でニルヴァーナといいますが、生死を超越した境界、完全解脱の境地です。 完全解脱とは業と 因縁から完全に解放された状態です。

めんね てんしよう

わたくしたちは業と因縁の塊です。 業と因縁によって輪廻転生を続けています。 輪廻転生とは 生死の流転がやまず、無限に生死の流転を繰り返すことです。まるで車の輪が廻るように絶え

〇九三

五蘊の瞑想法 Meditation on the Five Aggregates

五蘊の瞑想法

### イントロ


仏の教え、雨の中語られぬ。
知恵の光に尽きる漏れ、
修習なき者、安穏得ず。

### サビ

勤めて修せば自然に解脱、
心に喜び、結蝶解く。
母鶏の子育てのごとく、
正しく修行で安穏得ん。

### イントロ

大舶の海辺に立ち、夏の風よ、
六月を過ぎ、藤の枝も断つ。
比丘よ、精勤の修行で、
悩みの結蝶、漸く解く。

### サビ

善く修習すれば心安らぎ、
自然に漏尽、解脱の道。
仏の教え、六十の比丘、
喜びの中、奉行しき。

五蘊の瞑想法

五蘊の瞑想法

 

### イントロ


仏の教え、雨の中語られぬ。
知恵の光に尽きる漏れ、
修習なき者、安穏得ず。

### サビ

勤めて修せば自然に解脱、
心に喜び、結蝶解く。
母鶏の子育てのごとく、
正しく修行で安穏得ん。

### イントロ

大舶の海辺に立ち、夏の風よ、
六月を過ぎ、藤の枝も断つ。
比丘よ、精勤の修行で、
悩みの結蝶、漸く解く。

### サビ

善く修習すれば心安らぎ、
自然に漏尽、解脱の道。
仏の教え、六十の比丘、
喜びの中、奉行しき。

阿含経応説 五蘊の瞑想法

阿含経応説

五蘊の瞑想法

 

『雑阿含経・応説経』(以下、『応説経』の講義を行います。 まずは経文を読み、現代語に訳し ながら解説します。

如是我聞。一時仏住拘留国雜色牧牛 聚落。爾時仏告諸比丘。 我以知見故。 得諸漏尽。非不知見。 何以知見故。 得諸漏尽。非不知見。謂此色此色集 此色滅。此受想行識。 此識集此識滅。

 

是の如く現れ聞きぬ。一時、仏、拘留国の雑色牧牛

落に住まりたまえり。雨の時、仏、諸比丘に告げたまわ

く、「我れ知恵をての故に諸の尽きることを得たり。

不知見に非ざるなり。何が知見を以ての故に諸漏の尽 きることを得、不知見に非ざるや。ゆる此れは色なり、

 

此れは色の集なり、此れは色の減なり、此れは愛想・ 行・識なり、此れは識の集なり、此れはの減なりと」

ヒムは聞きました。ある時、仏さまはクル(拘留) 国の雑色牧牛聚落におとどまりに ある。 しされました。 それはどういうことかというと、これは色である、これは色の集である、これは色の滅である、 ったのでしょうか? 不知見ではないからで これは受想行識である、(これは受の集である、これは受の滅である、これは想の集であるこ れは想の滅である、これは行の集である、これは行の滅である) これは識の集である、これは鎌の滅 である」

知見とは、真の智慧によって物事を見ることで、換言すれば悟りを得たということです。この 悟りの力によってすべての煩悩をなくすことができた、とお釈迦さまはここでおっしゃっておら れます。とは煩悩の異名です。煩悩は心の中にいつの間にか漏れ出てきますから、漏と呼びま す。

「此れは色なり、此れは色の集なり、此れは色の滅なり、此れは受想行識なり、此れは (受想行識の集なり、此れは(受想行識の滅なり」は、五蔵法という瞑想です。 人間は色物質的現象)・受(感覚)・想(表象)・行(意志・識(意識)の五つの構成要素からでき ていると仏教では考えますが、この五つの構成要素のことを五蘊(五歳)と呼びます。五蘊観 〇六五

 

現代語

阿含経・説

「法とは、この五蘊のそれぞれが無常・空・無我であると観想していく瞑想法のことです。

お釈迦さまはここで、自分は五蘊観法を修行して悟りを得、完全解脱したのだとおっしゃって おられます。

続きを見ましょう。

成仏できない僧侶たち

不修方便随順成就。而用心求令我諸 漏尽心得解脱。当知彼比丘終不能得 漏尽解脱。所以者何。不修習故。 不 修習何等。謂不修習念处正勤如意足 根力覚道。

「方便を 成就せずして而も心を用いて、我れ をして諸尽き、心に解説するを得せしめんと求むるも 当に知るべし、彼の七まとろじゅうを得ること能わ

ず。所以は何ん。修習せざるが故なり。何等か修習せざ

る。正動・如意足・根・カ・覚・道を修

 

「習せざるなり」

現代語訳

「いろいろな方法を駆使して修行を行っても成就しない者が、もろもろの煩悩が尽き、心に解脱 を得たいと思っても、あの僧侶(修行者)たちは、ついに漏解脱を得ることはできません。

それはなぜでしょうか?

修行していないからです。

なにを修行していないのでしょうか?

それは、いわゆる四念処法 (四念処観)・四正法(西)・四如意足法(四神足法)・五根 五法 覚法・八正道を修行していないのです」

ここは、『応説経』の中でも特に重要なことが、説かれているところです。

解脱とは、 編 (煩悩がすべて尽きた状態ですから、完全解脱、つまり成仏したというこ とです。その完全成仏を心から願って修行しているのに、それができない僧侶たちがいる、とお 釈迦さまがおっしゃっておられるわけです。これは大問題です。

なぜ、その僧侶たちは成仏できないのか? それは、四念処法・四正動法・四如意足法・五根 法・五力法・七覚支法・八正道を修行しないからだ、とお釈迦さまは説かれているわけです。

この四念処法四正動法・四如意足法・五根法・五方法・七覚支法・八正道というのが、わた くしがいつもお話ししているお釈迦さまの成仏法、「七科三十七道品」です。わたくしはこれを、 成仏のための七つの科目(システム)、三十七の修行法 (カリキュラム)であると申し上げており ます。 念処・正勤・如意足・根・力・覚・道で七科目。そして、それぞれが四・四・四・五・ 五・七・八からなる修行によって成り立っておりますから、全部を合わせて三十七になるわけで す。

お釈迦さまは、この修行を行わない者はたとえそれが僧侶であっても、その人がどのように成 仏を望んでも、絶対に成仏することはできない、とおっしゃっています。

わたくしは法話でしばしば、

「仏教の伝来以来、大乗仏教のお坊さんは、誰一人として成仏していない」

と、お話ししています。 みなさんの中には、

「管長はずいぶん思い切ったことをいうなあ」

と考えている人がいるでしょう。 しかし、それはわたくしの独断や偏見ではありません。 仏教 の開祖のお釈迦さまご自身が、七科三十七道品を修行しない者はいくら他の修行をしても、絶対 に成仏しないと説かれているわけです。

日本にも数々の名僧知識が登場しましたが、 この七科三十七道品を修行した人は皆無といって もよいでしょう。

しかし、お釈迦さまは、

彼の比丘はついに成仏することができない」

と、おっしゃっておられます。「彼比丘」というこの三文字の中に、日本の大乗仏教の僧侶が 全部入っているわけです。きっと、「阿含経」以外のお経を信仰し、それを広める僧侶たちが出 現することを予見しておられたのでしょう。

ですから、わたくしはこのお釈迦さまのお言葉に基づいて、

「仏教の伝来以来、大乗仏教のお坊さんは誰一人として、成仏していない」

と説いているのです。

 

ただし、わたくしは、曹洞禅の祖である道元禅師(一二〇〇一二五三)と真言宗の開祖弘法大 師空海(七七四一八三五)だけは、ひょっとするとこの成仏法をご存知だったのかもしれない、 と考えております。 と申しますのは、道元禅師は『正法眼蔵』の第七十三で、

 

この三十七菩提分法(七科三十七道品の別名=著者注)、すなわち仏祖の鼻孔、皮

骨髄、手足面目なり。仏祖一枚、これを三十七品菩提分法と参学しきたれり」

成仏法を讃嘆しておられます。また、弘法大師空海は『弁顕密二教論』で、

「第一法宝とは即ち是れ摩訶般若解脱法身なり。 第二の法宝とは調く定 智慧の諸の妙、

功徳なり。 いわゆる三十七菩提分法なり」

と記しておられます。 ですから、このお二人が成仏法を知識として知っているだけでなく、実

際にそれを修行しておられたとしたならば、このお二人だけは、ひょっとすると成仏しているか もしれません。しかし、それ以外の僧侶は絶対に成仏していない。僧侶が成仏していなかったな らば、それに導かれる弟子も在家信者も成仏していないのは当然でしょう。また、自分を成仏さ せることができないのだから、先祖のお霊たちも成仏するはずはありません。

仏教を信仰する人は皆、その宗旨の教えや修行で成仏できると思うから、そこで一生懸命に信 修行に励むわけです。 成仏できると信じればこそ、布教して歩きます。

昔の日本の僧侶たちは、お釈迦さまの教法を知ることができるのは「阿含経」だけだ、という 真実を知りませんでした。しかし、今の僧侶たちは、みな知っているのです。

しかし、伝統的仏教は従来の教説の上に立ったままです。

わたくしは、少なくとも宗教家だけはこの世の中がどんなに悪くなっても、真実をいわなけれ ばいけないと考えます。 だからこそ、宗教家は尊敬に値する存在なのです。もちろん、宗教家と いえども、たまには方便を使うこともあるでしょう。 しかし、ここ一番、これこそ大切なことな のだということについては、たとえ八つ裂きにされても、本当のことをいわなければならないと わたくしは思うのです。 その宗教家が嘘であることを重々承知の上で、信者に真実ではないこと 真実であるかのように説教をする。 これは絶対に許されないことです。 続きを説明いたしましょう。

成仏法と伏鶏

譬如伏鷄生子衆多。不能随時蔭餾消 息冷暖。而欲令子以觜以爪啄卵自生 安穩出殼。当知彼子無有自力堪能方 便以背以爪安穩出殼。所以者何。以 彼鶏母不能随時蔭餾冷暖長養子故。 如是比丘。不勤修習随順成就。而欲 令得漏尽解脱。無有是処。所以者何。 不修習故。不修何等。謂不修念处正 勤如意足根力觉道。

現代語訳

 

「譬えば伏の生める子多にして、随時に 消息 冷暖すること能わずして、而も子をして背を以て爪を 以て卵を除き、自ら生まれ安穏に殻を出てしめんと欲す も当に知るべし、彼の子自力も能く方便して背を以 爪を以て安穏に殻を出づるに堪ゆること有ること無き が如し。所以は何ん。彼の母時に冷暖して子を 長 養することわざるを以ての故なり。是の如く比丘 勤めて習順成就せずして、而も漏尽解脱を得せし めんと欲するも是の有ること無し。所以は何ん。 修 せざるが故なり。何等をせざる。 謂ゆる念処・正 ・如意足・根・力・覚・道を修せざるなり」

ことわり

「たとえば鶏が卵を産みすぎて、親鶏が随時に温めたり、風を送って冷やしたりする、というよ

うな世話が十分にできなかった卵があれば、その世話が十分に行き届かなかった) 卵の中のヒナ が孵化をしようと、くちばしや爪で卵の殻を内側からつついたとしても、そのヒナは自力で殻を 破って孵化することができません。

なぜでしょうか?

親鶏が随時に卵を温めたり、風を送って冷やしたりするというような世話が、十分にできなか ったからです。

それと同じように、仏道修行者が(七科三十七道品以外の) さまざまな修行に励んだとしても、 仏道修行は成就しませんし、漏尽解脱は得られません。

なぜでしょうか?

解説

修行しないからです。

なにを修行しないのでしょうか?

続きを読みます。

いわゆる、四念処法 四正動法 四如意足法 五根法 五力法、 七覚支法、八正道を修行しな いのです」

ここでお釈迦さまは、成仏法と修行の関係を、鶏のヒナが孵化することにたとえておられます。 親鶏がいくつかの卵を産んだ後、親鶏は藤餾冷暖、つまり温めたり、冷ましたり、あるいは空気 の流通をよくしたりというような努力を一生懸命に行います。一方、ヒナの方を見てみると、ヒ

自身もくちばしや爪で一生懸命に殻を破ろうとする努力を行います。 親鶏の努力とヒナの努力 が相まって初めて、ヒナは殻を破って生まれることができるのです。

お釈迦さまは、この親鶏の努力とヒナの努力の関係は、ちょうど成仏法と修行者の関係と同じ である、とおっしゃっているわけです。

たとえば、親鶏があまりにも卵を多く産み過ぎると、当然のことながら全部の卵に目が行き届 きません。 そうすると、風を送ってもらったり、温めてもらったりできない卵も出てきます。 そ のように十分に面倒を見てもらえない卵は、中でヒナがいくら外に出ようとくちばしでつついた 足の爪で引っ掻いたりしても、絶対に生まれることはできません。

それと同じで、七科三十七道品の成仏法が得られなかったならば、どれほど他の修行を死にも のぐるいで行ったとしても、決して成仏することはできないのだ、とお釈迦さまはおっしゃって おられるわけです。

成仏するには、正しい成仏法と修行者の努力、この二つが絶対に必要なのです。

わたくしはいつも思うのですが、お釈迦さまという方は、本当に比喩が巧みです。 誰にでも分 かるようにお話をされる希有の名説法家だといえるでしょう。

若比丘修習随順成就者。雖不欲令漏 尽解脱。而彼比丘自然漏尽。心得解 脱。所以者何。以修習故。何所修習。 謂修念処正勤如意足根力觉道。如彼 伏鶏善養其子。随時蔭餾。 冷暖得所。 正復不欲令子方便自啄卵出。然其諸 子自能方便安穩出殼。所以者何。以 彼伏鷄随時蔭餾冷暖得所故。如是比 丘善修方便。正復不欲漏尽解脱。 而彼比丘自然漏尽。心得解脱。所以 者何。 以勤修習故。 何所修習。謂修 念如正勤如意足根力觉道。

現代語訳

比丘、修習し随順成就する者は漏尽解脱せしめん

とせずとも而も彼の比丘、自然に漏尽し心に解説を 得ん。所以は何ん。 修習するを以ての故なり。何をか修 習する所なる。謂ゆる念処・正勤・如意足・根・カ・ 覚・道を修すること、彼の伏鶏の善く其の子を養い、随 時に冷暖所を得、正しく復た子をして方便して自ら 卵をきて出てしめんと欲せざるも、然かも其の諸の子 自ら能く方便して安穏に殻を出づるが如し。所以は何ん、 彼の伏随時に冷暖所を得るを以ての故なり。是の 如く比丘、善く方便を修すれば正しく復た漏尽解説を 欲せざるも而も彼の比丘、自然に漏尽し心に解説を得ん。 所以は何ん。勤めて修習するを以ての故なり。何をか修 習する所なる。謂ゆる念処正動・如意足・根・カ・ 覚・道を修するなり」

「弟子たちよ、(七科三十七道品の成仏法を) 修行し、成就する者がいたならば、その修行者が漏解脱をしたいと思っていなくても、自然に心に解説を得て漏尽解脱を得るのです。

それは、なぜでしょうか?

修行したからです。

なにを修行したのでしょうか?

いわゆる、四念処法 四正勤法 四如意足法、 五根法、 五力法 七覚支法、八正道を修行した からです。それはちょうど、親鶏が卵を温めたり冷やしたりと十分に世話をしたならば、そのヒ ナが卵の外に出たいと思っていなくても、自然に殻を破り孵化してしまうのと同じです。

なぜ孵化することができたのでしょうか?

親鶏の世話が十分で、温冷の温度調節がうまくいったからです。

弟子たちよ、同様に(成仏法に則った) 正しい修行をするならば、漏尽解脱を願っていなくて も、自然に心に解脱を得て、 漏尽解脱を得るのです。

なぜでしょうか?

修行したからです。

なにを修行したのでしょうか?

いわゆる、四念処法 四正動法 四如意足法 五根法、五力法、 七覚支法、八正道を修行した からです」

お釈迦さまはここで、非常におもしろい表現を取っておられます。

親鶏がきちんと卵の面倒を見ていれば、たとえ卵の中のヒナが卵の外に出たいと思っていなく も自然に殻を破って出てきてしまうというわけです。それと同様に、成仏を願っていない僧 侶であっても、この成仏法を修行するならば成仏してしまうのです。じつにおもしろいたとえ話 です。

おもしろいお話ですが、それと同時に、お釈迦さまはとても大切なことをここでおっしゃって おられます。それは、なにか?

-三証そろった阿含宗

もんしょう

『応説経』のこの部分が、 成仏できるという「文証」なのです。「文証」について、ここで詳し く説明します。

仏教では、「文証」「理話」「現証」の三証がそろわなければ、その教団の教法は正法ではない とします。文証とは、お経に文字として書かれている「成仏の証」です。 要するに、仏さまがお 経の中で成仏できるとおっしゃっているかどうか、ということです。

『応説経』の「若し比丘、修習し随順成就する者は漏尽解脱せしめんと欲せずと雖も而も彼の比 自然に漏尽し心に解脱を得ん。所以は何ん。修習するを以ての故なり。 何をか修習する所な る。謂ゆる念処・正動・如意足・根・力・覚・道を修する」という部分、これが「文証」なので す。たったこれだけの文章ですが、本当に大切なことが説かれています。 この部分が 『応説経』 いや「阿含経」全部の中心になるとわたくしは思います。

よい機会ですから、「理証」と「現証」についても、お話ししておきましょう。

まず、「理証」。これは、その「文証」が理論的に正しいという裏付けです。

しばしば『法華経』の信者が、「四十余年未真実(<初転法輪より〉四十余年の間、いまだ真実

さず)」という「文証」を振りかざします。 「四十余年未顕真実」という言葉は、『法華経』

 

開経とされる『無量義経』の一文です。 したがって「四十余年未顕真実」とは、あくまでも 『無量義経』に基づいての「文証」です。しかし、『法華経』は、お釈迦さまが入滅されて数百年 も経ってから創作された経典です。また、現代の経典研究では、 『無量義経』は『法華経』の権 威を確固たるものにするために、中国で撰述されたいわゆる偽経であろうとされております。 要 するに、『無量義経」の「四十余年未顕真実」という経文は、正しい「文証」にはならないわけ です。

ですから、「文証」「文証」といくら叫んだところで、それを記す経典が仏さまの説いたもので なければ、まったくお話になりません。 「理証」があって初めて、「文証」が生きてくるわけです。 しかし、「文証」と「理証」の二つがそろっても、まだ完全とはいえません。 最後に「現証」 が必要です。「現証」とは、仏さまがその教団の正統性を認められ、擁護してくださっていると ●阿含経・応説

いう証です。 ですから、

「この信仰で病気が治った。商売がうまくいった」

などという程度では、本当の「現証」ではない。仏さまのお力でなければ、決して起きないよ うなことでないと、「現証」とはいえません。

阿含宗には、最高の「現証」が起きております。その一つが、証明擁護仏の現形です。 証明 しょうみようようご よつば ぎょう 擁護仏とは、その教団が持つ法の正統性を証明されるために、また、その正しい教団を擁護され るために、ご出現される仏さまのことです。

阿含宗には、お釈迦さまを筆頭に数々の仏さまが、毎年二月に京都の阿含宗本山総本殿境内地 で奉修される、「星まつり大柴燈護摩供」の浄火を借りて、ご出現されておられます。しかも、 その現形の様子は、はっきりと写真に収められております。 人の手で造られた仏像や仏画ではな く、自然真実のお姿の仏さまのことを「法爾無作の仏」とお呼びいたしますが、この「法爾無作 仏」が護摩にご出現されたのです。これは、とうてい人間では起こせない奇蹟です。 まさに、 これこそ「現証」です。

ですから、阿含宗は三証がことごとくそろった、本当に正しい仏教教団なのです。

因縁の鎖を断ち切る成仏法

中略 -譬如大舶在於海边。经 夏六月風飄日暴。藤綴漸断。如是比 丘。精勤修習。随順成就。一切結縛 使煩悩纏。漸得解脱。所以者何。善 修習故。何所修習。 謂修習念処正勤 如意足根力党道。説是法時六十比丘。 不起諸漏。心得解脱仏説此経已。諸 丘聞仏所説。歓喜奉行。

現代語訳

 

「中略譬えば大舶の海辺に在り夏六月を経て風 とうてつようゃせん

日に暴れなば藤漸く断ずるが如く、是の如く比丘 精勤して修習し、随順成就せば一切の結蝶・使

悩纏より漸く解脱することを得ん。所以は何ん。善く 修習するが故なり。何をか修習する所なる。謂ゆる念 ・正動・如意足・根・力・覚・道を修習するなり」と。 是の法を説きたまえる時、六十の比丘、諸漏を起こさず 心に解説を得たり。仏、此の経を説きりたまえるに諸の 比丘、仏の説かせたまえる所を聞きて、喜し奉行しき。

「たとえば夏の六月ごろ、海辺に浮かぶ大きな船が嵐に遭ううちに、船を結んでいる藤夢がやが 断ち切られるように、弟子たちよ、精進して修行し、その修行を成就するならば、一切の結 使煩悩纏から解脱することができるのです。

なぜでしょうか? 正しく修行するからです。

なにを修行するのでしょうか?

いわゆる四念処法 四正勤法 四如意足法 五根法、五力法 七覚支法、八正道を修行するの

と、仏さまはお説きになられました。 この説法を受けて、六十人の僧侶がもろもろの煩悩を起 こさず、心に解脱を得ることができました。仏さまがこのお経を説き終えられると、聴聞してい 弟子たちは心から喜び、修行に励みました。

ここに説かれているたとえ話は、「大舶の譬喩」として有名です。原文では、この「大舶の譬 「」の前に「巧師の斧祠の譬喩」がありますが、その意味するところは「大舶の譬喩」とほとん ど変わりませんので、ここでは割愛いたします。

河合・応説

まず、大きな船が海辺に停泊しているわけです。その船は藤綴、つまり藤夢のようなもので係 留されていました。 二千数百年も昔のインドのことですから、ロープなどはなかったのでしょう。 しかし、藤夢はたいへん堅固です。

ところが夏の六月になると海が荒れます。したがって、台風のような嵐が起きるのでしょう。 そうすると、波に揉まれているうちにその藤が切れて船は沖に流され、やがて船そのものも強

風や波によってこなごなになってしまうわけです。

それと同じように、どのような煩悩でも、どのように強い悪因縁でも、何度も何度も成仏法を 繰り返して修行しているならば、最後にはわたくしたちを縛りつけている因縁の糸も断ち切れ、 ついに成仏するぞ、とお釈迦さまはおっしゃっているのです。

結縛・・これらはすべて煩悩の異名です。煩悩は、人間に纏いついて離れません。 です からと呼びます。また、煩悩は人間を結んで縛り、自由にさせませんから結縛といいます。 さ らに、人間は煩悩の思うままに使われてしまいますから、煩悩を使というわけです。

ところが、この成仏法を一生懸命に修行していると、どのような強い悪因縁でも、煩悩でも、 ばらばらにしてしまって、最後は成仏するわけです。ですから、ここもやはり「文証」になりま す。

この短いお経の中で、お釈迦さまは何回も繰り返し繰り返し、七科三十七道品の成仏法を説い ていらっしゃいます。これを修行しなければ成仏できない、と繰り返し、繰り返し、懇切丁寧に、 わたくしたちに教えてくださっているのです。

それなのに、日本の仏教はこの成仏法を取り入れませんでした。 そして成仏法のない、創作さ れたお経を、なにも知らない純真な信者たちに押しつけてきたのです。

その結果、自分も信者も弟子も、みな成仏しないで苦しんでいます。 ある有名な霊能者が以前、 「宗祖といわれる偉い高僧、名僧たちが、みな地獄に落ちて、火の車に乗せられて苦しんでいる ところを霊視した。あまりの恐ろしさと、あまりの意外さにびっくりした。 これはどういうわけ だろうか?」

と語っておりました。日本の仏教界の人たちは、そんなバカなことがあるかと一笑に付したよ うですが、わたくしは、

「そうかもしれないなあ」

と思いました。

にちれんしょうにん

日蓮上人(一二二ニー一二八二)などはなにもしらず、『法華経』を、「これが最高のお経だ」 と一心不乱に、命がけで広めたわけです。日蓮上人の布教に対する信念は、本当にわたくしたち のお手本とすべきところであると、わたくしは尊敬しております。 しかし、広めたのがほんとう の経典ではなかった。真実を知らなかったことは、じつにお気の毒ですが、 それを信じて帰依し た信者からすれば、お気の毒ではすみません。 そのために、成仏ができないのですから。

世界を救う唯一の仏法

わたくしは今、日本がこれほど悪い状態になってきたのは、カルマを断つという正しい仏教を 信仰しなかったからだと考えております。 成仏法のない仏教を信仰してきたために、先祖を成仏 させることができず、不成仏霊・霊障のホトケが急増してしまったのです。

不成仏霊や霊障のホトケが急増したため、多くの人が「横変死の因縁」 「刑獄の因縁」肉親血 緑相剋の因縁をともなう家運衰退の因縁」の三大悪因縁をはじめとした、さまざまな悪因縁で苦

しんでいます。だからこそ、急速度でこの世の中は、これほど悪くなってきているのです。 三大悪因縁の中でも、「横変死の因縁」を持つ人が近年急増しております。 四十年ほど前は、 この因縁を持つ人は百人中二、三人でしたが、現在はその比率ははるかに高くなっております。 このまま増えていくと、いったいどういうことになってしまうのでしょうか?

たとえば四、五十パーセントの人が「横変死の因縁」を持ったならば、大変な惨事が起きると 思います。人口の半数近くが横変死するのですから、大きな戦争が起きるかもしれませんし、原 子力発電所で大事故が起きるかもしれません。あるいは、大地震が発生する可能性もあります。 この危機を救うには、お釈迦さまの成仏法しかありません。 一人一人がお釈迦さまの成仏法を 実践して、自分および家庭の悪因縁を断ち切り、不成仏霊・霊障のホトケを成仏させなければな らないのです。

わたくしたちは、この日本列島、いや、この地球上を覆っている破滅のカルマを断ち切るため に、お釈迦さまの成仏法を一人でも多くの人に伝えなければいけません。 この世を救うことがで きるのは、お釈迦さまの成仏法・七科三十七道品しかありません。

お釈迦さまがインドで説法を開始された時も、お釈迦さまお一人だけでしたが、ご自身の悟ら れた内容を五人の比丘に伝えられて、仏教教団の原型ができました。 さらに、そこから少しずつ 法の輪は広がっていき、ついにはインド社会を動かす大きな力になったのです。 それから考えれ ば、阿含宗は決して小さな動きではありません。人数は少なくても、実に巨大な燃え上がるよう なエネルギーで世界に働きかけています。

このエネルギーをもっと大きく育て上げて、どうしてもこの世界を変えなければいけません。 三一分一秒といえどもうかうかしていられないぞ、という思いにわたくしは駆り立てられます。 みなさんも、毎日の勤行の際、このことを考えながら勤行しなさい。 お釈迦さまはどれほどた いへんなことを、わたくしたちに呼びかけていらっしゃるのか? どれほど重要なことを、わた くしたちに説いてくださっているのか? それを考えて修行に励みなさい。

このお経を読めば、お釈迦さまのお心が分かるはずです。

五蘊の瞑想法

五蘊の瞑想法

### 五蘊の瞑想法

**イントロ:**
遥かな旅路を歩む僧侶たち
心に問いかける真理の道
七科三十七の修行法
成仏への扉を今、開かん

**サビ:**
四念処法の瞑想に身を委ね
正勤の力で未来を掴め
如意足の安定で心を定め
七覚支の光、八正道へ導け

阿含経・応説 五蘊の瞑想法

阿含経・応説

五蘊の瞑想法

ごんようおうせつきよう

『雑阿含経・応説経』(以下、『応説経』の講義を行います。 まずは経文を読み、現代語に訳し ながら解説します。

如是我聞。一時仏住拘留国雜色牧牛 聚落。爾時仏告諸比丘。 我以知見故。 得諸漏尽。非不知見。 何以知見故。 得諸漏尽。非不知見。謂此色此色集 此色滅。此受想行識。 此識集此識滅。

と。

  • 解説

・応

  • 現代語訳

ちくとご

ふちけん あら

ほとける こくぞうきゆうじゅ

是の如く現れ聞きぬ。一時、仏、拘留国の雑色牧牛

落に住まりたまえり。雨の時、仏、諸比丘に告げたまわ

く、「我れ知恵をての故に諸の尽きることを得たり。

不知見に非ざるなり。何が知見を以ての故に諸漏の尽 きることを得、不知見に非ざるや。ゆる此れは色なり、

じゅう

此れは色の集なり、此れは色の減なり、此れは愛想・ 行・識なり、此れは識の集なり、此れはの減なりと」

ヒムは聞きました。ある時、仏さまはクル(拘留) 国の雑色牧牛聚落におとどまりに ある。 しされました。 それはどういうことかというと、これは色である、これは色の集である、これは色の滅である、 ったのでしょうか? 不知見ではないからで これは受想行識である、(これは受の集である、これは受の滅である、これは想の集であるこ れは想の滅である、これは行の集である、これは行の滅である) これは識の集である、これは鎌の滅 である」

知見とは、真の智慧によって物事を見ることで、換言すれば悟りを得たということです。この 悟りの力によってすべての煩悩をなくすことができた、とお釈迦さまはここでおっしゃっておら れます。とは煩悩の異名です。煩悩は心の中にいつの間にか漏れ出てきますから、漏と呼びま す。

「此れは色なり、此れは色の集なり、此れは色の滅なり、此れは受想行識なり、此れは (受想行識の集なり、此れは(受想行識の滅なり」は、五蔵法という瞑想です。 人間は色物質的現象)・受(感覚)・想(表象)・行(意志・識(意識)の五つの構成要素からでき ていると仏教では考えますが、この五つの構成要素のことを五蘊(五歳)と呼びます。五蘊観 〇六五

現代語

阿含経・説

「たとえば鶏が卵を産みすぎて、親鶏が随時に温めたり

法とは、この五蘊のそれぞれが無常・空・無我であると観想していく瞑想法のことです。

お釈迦さまはここで、自分は五蘊観法を修行して悟りを得、完全解脱したのだとおっしゃって おられます。

続きを見ましょう。

成仏できない僧侶たち

いじゅんじょうじゅ

不修方便随順成就。而用心求令我諸 漏尽心得解脱。当知彼比丘終不能得 漏尽解脱。所以者何。不修習故。 不 修習何等。謂不修習念处正勤如意足 根力覚道。

「方便を 成就せずして而も心を用いて、我れ をして諸尽き、心に解説するを得せしめんと求むるも 当に知るべし、彼の七まとろじゅうを得ること能わ

いか

しゅじゅう

ず。所以は何ん。修習せざるが故なり。何等か修習せざ

しょうごん

る。正動・如意足・根・カ・覚・道を修

ふく どう

「習せざるなり」

  • 現代語訳

「いろいろな方法を駆使して修行を行っても成就しない者が、もろもろの煩悩が尽き、心に解脱 を得たいと思っても、あの僧侶(修行者)たちは、ついに漏解脱を得ることはできません。

それはなぜでしょうか?

修行していないからです。

ごきう

解説

  • 阿含経・説

なにを修行していないのでしょうか?

それは、いわゆる四念処法 (四念処観)・四正法(西)・四如意足法(四神足法)・五根 五法 覚法・八正道を修行していないのです」

ここは、『応説経』の中でも特に重要なことが、説かれているところです。

たいへんなことが書かれているわけですが、諸君はそれに気づいたでしょうか?

解脱とは、 編 (煩悩がすべて尽きた状態ですから、完全解脱、つまり成仏したというこ とです。その完全成仏を心から願って修行しているのに、それができない僧侶たちがいる、とお 釈迦さまがおっしゃっておられるわけです。これは大問題です。

なぜ、その僧侶たちは成仏できないのか? それは、四念処法・四正動法・四如意足法・五根 法・五力法・七覚支法・八正道を修行しないからだ、とお釈迦さまは説かれているわけです。

この四念処法四正動法・四如意足法・五根法・五方法・七覚支法・八正道というのが、わた くしがいつもお話ししているお釈迦さまの成仏法、「七科三十七道品」です。わたくしはこれを、 成仏のための七つの科目(システム)、三十七の修行法 (カリキュラム)であると申し上げており ます。 念処・正勤・如意足・根・力・覚・道で七科目。そして、それぞれが四・四・四・五・ 五・七・八からなる修行によって成り立っておりますから、全部を合わせて三十七になるわけで す。

お釈迦さまは、この修行を行わない者はたとえそれが僧侶であっても、その人がどのように成 仏を望んでも、絶対に成仏することはできない、とおっしゃっています。

わたくしは法話でしばしば、

「仏教の伝来以来、大乗仏教のお坊さんは、誰一人として成仏していない」

と、お話ししています。 みなさんの中には、

「管長はずいぶん思い切ったことをいうなあ」

と考えている人がいるでしょう。 しかし、それはわたくしの独断や偏見ではありません。 仏教 の開祖のお釈迦さまご自身が、七科三十七道品を修行しない者はいくら他の修行をしても、絶対 に成仏しないと説かれているわけです。

日本にも数々の名僧知識が登場しましたが、 この七科三十七道品を修行した人は皆無といって もよいでしょう。

しかし、お釈迦さまは、

彼の比丘はついに成仏することができない」

と、おっしゃっておられます。「彼比丘」というこの三文字の中に、日本の大乗仏教の僧侶が 全部入っているわけです。きっと、「阿含経」以外のお経を信仰し、それを広める僧侶たちが出 現することを予見しておられたのでしょう。

ですから、わたくしはこのお釈迦さまのお言葉に基づいて、

「仏教の伝来以来、大乗仏教のお坊さんは誰一人として、成仏していない」

と説いているのです。

そうとうぜん

とうぜんぜんじ

しんごんしゅう

ただし、わたくしは、曹洞禅の祖である道元禅師(一二〇〇一二五三)と真言宗の開祖弘法大 師空海(七七四一八三五)だけは、ひょっとするとこの成仏法をご存知だったのかもしれない、 と考えております。 と申しますのは、道元禅師は『正法眼蔵』の第七十三で、

こっずい しゅせくめんもく

この三十七菩提分法(七科三十七道品の別名=著者注)、すなわち仏祖の鼻孔、皮

骨髄、手足面目なり。仏祖一枚、これを三十七品菩提分法と参学しきたれり」

こうぼうだい

成仏法を讃嘆しておられます。また、弘法大師空海は『弁顕密二教論』で、

ほうぼう

すなわ

くどく

「第一法宝とは即ち是れ摩訶般若解脱法身なり。 第二の法宝とは調く定 智慧の諸の妙、

功徳なり。 いわゆる三十七菩提分法なり」

と記しておられます。 ですから、このお二人が成仏法を知識として知っているだけでなく、実

際にそれを修行しておられたとしたならば、このお二人だけは、ひょっとすると成仏しているか もしれません。しかし、それ以外の僧侶は絶対に成仏していない。僧侶が成仏していなかったな らば、それに導かれる弟子も在家信者も成仏していないのは当然でしょう。また、自分を成仏さ せることができないのだから、先祖のお霊たちも成仏するはずはありません。

仏教を信仰する人は皆、その宗旨の教えや修行で成仏できると思うから、そこで一生懸命に信 修行に励むわけです。 成仏できると信じればこそ、布教して歩きます。

昔の日本の僧侶たちは、お釈迦さまの教法を知ることができるのは「阿含経」だけだ、という 真実を知りませんでした。しかし、今の僧侶たちは、みな知っているのです。

しかし、伝統的仏教は従来の教説の上に立ったままです。

わたくしは、少なくとも宗教家だけはこの世の中がどんなに悪くなっても、真実をいわなけれ ばいけないと考えます。 だからこそ、宗教家は尊敬に値する存在なのです。もちろん、宗教家と いえども、たまには方便を使うこともあるでしょう。 しかし、ここ一番、これこそ大切なことな のだということについては、たとえ八つ裂きにされても、本当のことをいわなければならないと わたくしは思うのです。 その宗教家が嘘であることを重々承知の上で、信者に真実ではないこと 真実であるかのように説教をする。 これは絶対に許されないことです。 続きを説明いたしましょう。

成仏法と伏鶏

譬如伏鷄生子衆多。不能随時蔭餾消 息冷暖。而欲令子以觜以爪啄卵自生 安穩出殼。当知彼子無有自力堪能方 便以背以爪安穩出殼。所以者何。以 彼鶏母不能随時蔭餾冷暖長養子故。 如是比丘。不勤修習随順成就。而欲 令得漏尽解脱。無有是処。所以者何。 不修習故。不修何等。謂不修念处正 勤如意足根力觉道。

  • 現代語訳

「ちょうだん

ちょうよう

ふくけい

しゅた

「譬えば伏の生める子多にして、随時に 消息 冷暖すること能わずして、而も子をして背を以て爪を 以て卵を除き、自ら生まれ安穏に殻を出てしめんと欲す も当に知るべし、彼の子自力も能く方便して背を以 爪を以て安穏に殻を出づるに堪ゆること有ること無き が如し。所以は何ん。彼の母時に冷暖して子を 長 養することわざるを以ての故なり。是の如く比丘 勤めて習順成就せずして、而も漏尽解脱を得せし めんと欲するも是の有ること無し。所以は何ん。 修 せざるが故なり。何等をせざる。 謂ゆる念処・正 ・如意足・根・力・覚・道を修せざるなり」

ことわり

「たとえば鶏が卵を産みすぎて、親鶏が随時に温めたり、風を送って冷やしたりする、というよ

うな世話が十分にできなかった卵があれば、その世話が十分に行き届かなかった) 卵の中のヒナ が孵化をしようと、くちばしや爪で卵の殻を内側からつついたとしても、そのヒナは自力で殻を 破って孵化することができません。

なぜでしょうか?

親鶏が随時に卵を温めたり、風を送って冷やしたりするというような世話が、十分にできなか ったからです。

それと同じように、仏道修行者が(七科三十七道品以外の) さまざまな修行に励んだとしても、 仏道修行は成就しませんし、漏尽解脱は得られません。

なぜでしょうか?

解説

修行しないからです。

なにを修行しないのでしょうか?

続きを読みます。

いわゆる、四念処法 四正動法 四如意足法 五根法 五力法、 七覚支法、八正道を修行しな いのです」

ここでお釈迦さまは、成仏法と修行の関係を、鶏のヒナが孵化することにたとえておられます。 親鶏がいくつかの卵を産んだ後、親鶏は藤餾冷暖、つまり温めたり、冷ましたり、あるいは空気 の流通をよくしたりというような努力を一生懸命に行います。一方、ヒナの方を見てみると、ヒ

自身もくちばしや爪で一生懸命に殻を破ろうとする努力を行います。 親鶏の努力とヒナの努力 が相まって初めて、ヒナは殻を破って生まれることができるのです。

お釈迦さまは、この親鶏の努力とヒナの努力の関係は、ちょうど成仏法と修行者の関係と同じ である、とおっしゃっているわけです。

たとえば、親鶏があまりにも卵を多く産み過ぎると、当然のことながら全部の卵に目が行き届 きません。 そうすると、風を送ってもらったり、温めてもらったりできない卵も出てきます。 そ のように十分に面倒を見てもらえない卵は、中でヒナがいくら外に出ようとくちばしでつついた 足の爪で引っ掻いたりしても、絶対に生まれることはできません。

それと同じで、七科三十七道品の成仏法が得られなかったならば、どれほど他の修行を死にも のぐるいで行ったとしても、決して成仏することはできないのだ、とお釈迦さまはおっしゃって おられるわけです。

成仏するには、正しい成仏法と修行者の努力、この二つが絶対に必要なのです。

わたくしはいつも思うのですが、お釈迦さまという方は、本当に比喩が巧みです。 誰にでも分 かるようにお話をされる希有の名説法家だといえるでしょう。

若比丘修習随順成就者。雖不欲令漏 尽解脱。而彼比丘自然漏尽。心得解 脱。所以者何。以修習故。何所修習。 謂修念処正勤如意足根力觉道。如彼 伏鶏善養其子。随時蔭餾。 冷暖得所。 正復不欲令子方便自啄卵出。然其諸 子自能方便安穩出殼。所以者何。以 彼伏鷄随時蔭餾冷暖得所故。如是比 丘善修方便。正復不欲漏尽解脱。 而彼比丘自然漏尽。心得解脱。所以 者何。 以勤修習故。 何所修習。謂修 念如正勤如意足根力觉道。

  • 現代語訳

いえど

比丘、修習し随順成就する者は漏尽解脱せしめん

じねん

とせずとも而も彼の比丘、自然に漏尽し心に解説を 得ん。所以は何ん。 修習するを以ての故なり。何をか修 習する所なる。謂ゆる念処・正勤・如意足・根・カ・ 覚・道を修すること、彼の伏鶏の善く其の子を養い、随 時に冷暖所を得、正しく復た子をして方便して自ら 卵をきて出てしめんと欲せざるも、然かも其の諸の子 自ら能く方便して安穏に殻を出づるが如し。所以は何ん、 彼の伏随時に冷暖所を得るを以ての故なり。是の 如く比丘、善く方便を修すれば正しく復た漏尽解説を 欲せざるも而も彼の比丘、自然に漏尽し心に解説を得ん。 所以は何ん。勤めて修習するを以ての故なり。何をか修 習する所なる。謂ゆる念処正動・如意足・根・カ・ 覚・道を修するなり」

「弟子たちよ、(七科三十七道品の成仏法を) 修行し、成就する者がいたならば、その修行者が漏

解脱をしたいと思っていなくても、自然に心に解説を得て漏尽解脱を得るのです。

それは、なぜでしょうか?

修行したからです。

なにを修行したのでしょうか?

いわゆる、四念処法 四正勤法 四如意足法、 五根法、 五力法 七覚支法、八正道を修行した からです。それはちょうど、親鶏が卵を温めたり冷やしたりと十分に世話をしたならば、そのヒ ナが卵の外に出たいと思っていなくても、自然に殻を破り孵化してしまうのと同じです。

なぜ孵化することができたのでしょうか?

親鶏の世話が十分で、温冷の温度調節がうまくいったからです。

弟子たちよ、同様に(成仏法に則った) 正しい修行をするならば、漏尽解脱を願っていなくて も、自然に心に解脱を得て、 漏尽解脱を得るのです。

なぜでしょうか?

修行したからです。

なにを修行したのでしょうか?

いわゆる、四念処法 四正動法 四如意足法 五根法、五力法、 七覚支法、八正道を修行した からです」

お釈迦さまはここで、非常におもしろい表現を取っておられます。

親鶏がきちんと卵の面倒を見ていれば、たとえ卵の中のヒナが卵の外に出たいと思っていなく も自然に殻を破って出てきてしまうというわけです。それと同様に、成仏を願っていない僧 侶であっても、この成仏法を修行するならば成仏してしまうのです。じつにおもしろいたとえ話 です。

おもしろいお話ですが、それと同時に、お釈迦さまはとても大切なことをここでおっしゃって おられます。それは、なにか?

-三証そろった阿含宗

もんしょう

『応説経』のこの部分が、 成仏できるという「文証」なのです。「文証」について、ここで詳し く説明します。

仏教では、「文証」「理話」「現証」の三証がそろわなければ、その教団の教法は正法ではない とします。文証とは、お経に文字として書かれている「成仏の証」です。 要するに、仏さまがお 経の中で成仏できるとおっしゃっているかどうか、ということです。

『応説経』の「若し比丘、修習し随順成就する者は漏尽解脱せしめんと欲せずと雖も而も彼の比 自然に漏尽し心に解脱を得ん。所以は何ん。修習するを以ての故なり。 何をか修習する所な る。謂ゆる念処・正動・如意足・根・力・覚・道を修する」という部分、これが「文証」なので す。たったこれだけの文章ですが、本当に大切なことが説かれています。 この部分が 『応説経』 いや「阿含経」全部の中心になるとわたくしは思います。

よい機会ですから、「理証」と「現証」についても、お話ししておきましょう。

まず、「理証」。これは、その「文証」が理論的に正しいという裏付けです。

じゅうよ

しばしば『法華経』の信者が、「四十余年未真実(<初転法輪より〉四十余年の間、いまだ真実

さず)」という「文証」を振りかざします。 「四十余年未顕真実」という言葉は、『法華経』

きょうぎ きよう

開経とされる『無量義経』の一文です。 したがって「四十余年未顕真実」とは、あくまでも 『無量義経』に基づいての「文証」です。しかし、『法華経』は、お釈迦さまが入滅されて数百年 も経ってから創作された経典です。また、現代の経典研究では、 『無量義経』は『法華経』の権 威を確固たるものにするために、中国で撰述されたいわゆる偽経であろうとされております。 要 するに、『無量義経」の「四十余年未顕真実」という経文は、正しい「文証」にはならないわけ です。

ぎきょう2

ですから、「文証」「文証」といくら叫んだところで、それを記す経典が仏さまの説いたもので なければ、まったくお話になりません。 「理証」があって初めて、「文証」が生きてくるわけです。 しかし、「文証」と「理証」の二つがそろっても、まだ完全とはいえません。 最後に「現証」 が必要です。「現証」とは、仏さまがその教団の正統性を認められ、擁護してくださっていると ●阿含経・応説

いう証です。 ですから、

「この信仰で病気が治った。商売がうまくいった」

などという程度では、本当の「現証」ではない。仏さまのお力でなければ、決して起きないよ うなことでないと、「現証」とはいえません。

阿含宗には、最高の「現証」が起きております。その一つが、証明擁護仏の現形です。 証明 しょうみようようご よつば ぎょう 擁護仏とは、その教団が持つ法の正統性を証明されるために、また、その正しい教団を擁護され るために、ご出現される仏さまのことです。

阿含宗には、お釈迦さまを筆頭に数々の仏さまが、毎年二月に京都の阿含宗本山総本殿境内地 で奉修される、「星まつり大柴燈護摩供」の浄火を借りて、ご出現されておられます。しかも、 その現形の様子は、はっきりと写真に収められております。 人の手で造られた仏像や仏画ではな く、自然真実のお姿の仏さまのことを「法爾無作の仏」とお呼びいたしますが、この「法爾無作 仏」が護摩にご出現されたのです。これは、とうてい人間では起こせない奇蹟です。 まさに、 これこそ「現証」です。

ですから、阿含宗は三証がことごとくそろった、本当に正しい仏教教団なのです。

因縁の鎖を断ち切る成仏法

中略 -譬如大舶在於海边。经 夏六月風飄日暴。藤綴漸断。如是比 丘。精勤修習。随順成就。一切結縛 使煩悩纏。漸得解脱。所以者何。善 修習故。何所修習。 謂修習念処正勤 如意足根力党道。説是法時六十比丘。 不起諸漏。心得解脱仏説此経已。諸 丘聞仏所説。歓喜奉行。

  • 現代語訳

ひょうひ

てん

「中略譬えば大舶の海辺に在り夏六月を経て風 とうてつようゃせん

日に暴れなば藤漸く断ずるが如く、是の如く比丘 精勤して修習し、随順成就せば一切の結蝶・使

悩纏より漸く解脱することを得ん。所以は何ん。善く 修習するが故なり。何をか修習する所なる。謂ゆる念 ・正動・如意足・根・力・覚・道を修習するなり」と。 是の法を説きたまえる時、六十の比丘、諸漏を起こさず 心に解説を得たり。仏、此の経を説きりたまえるに諸の 比丘、仏の説かせたまえる所を聞きて、喜し奉行しき。

「たとえば夏の六月ごろ、海辺に浮かぶ大きな船が嵐に遭ううちに、船を結んでいる藤夢がやが 断ち切られるように、弟子たちよ、精進して修行し、その修行を成就するならば、一切の結 使煩悩纏から解脱することができるのです。

なぜでしょうか? 正しく修行するからです。

なにを修行するのでしょうか?

いわゆる四念処法 四正勤法 四如意足法 五根法、五力法 七覚支法、八正道を修行するの

と、仏さまはお説きになられました。 この説法を受けて、六十人の僧侶がもろもろの煩悩を起 こさず、心に解脱を得ることができました。仏さまがこのお経を説き終えられると、聴聞してい 弟子たちは心から喜び、修行に励みました。

ここに説かれているたとえ話は、「大舶の譬喩」として有名です。原文では、この「大舶の譬 「」の前に「巧師の斧祠の譬喩」がありますが、その意味するところは「大舶の譬喩」とほとん ど変わりませんので、ここでは割愛いたします。

河合・応説

まず、大きな船が海辺に停泊しているわけです。その船は藤綴、つまり藤夢のようなもので係 留されていました。 二千数百年も昔のインドのことですから、ロープなどはなかったのでしょう。 しかし、藤夢はたいへん堅固です。

ところが夏の六月になると海が荒れます。したがって、台風のような嵐が起きるのでしょう。 そうすると、波に揉まれているうちにその藤が切れて船は沖に流され、やがて船そのものも強

風や波によってこなごなになってしまうわけです。

それと同じように、どのような煩悩でも、どのように強い悪因縁でも、何度も何度も成仏法を 繰り返して修行しているならば、最後にはわたくしたちを縛りつけている因縁の糸も断ち切れ、 ついに成仏するぞ、とお釈迦さまはおっしゃっているのです。

結縛・・これらはすべて煩悩の異名です。煩悩は、人間に纏いついて離れません。 です からと呼びます。また、煩悩は人間を結んで縛り、自由にさせませんから結縛といいます。 さ らに、人間は煩悩の思うままに使われてしまいますから、煩悩を使というわけです。

ところが、この成仏法を一生懸命に修行していると、どのような強い悪因縁でも、煩悩でも、 ばらばらにしてしまって、最後は成仏するわけです。ですから、ここもやはり「文証」になりま す。

この短いお経の中で、お釈迦さまは何回も繰り返し繰り返し、七科三十七道品の成仏法を説い ていらっしゃいます。これを修行しなければ成仏できない、と繰り返し、繰り返し、懇切丁寧に、 わたくしたちに教えてくださっているのです。

それなのに、日本の仏教はこの成仏法を取り入れませんでした。 そして成仏法のない、創作さ れたお経を、なにも知らない純真な信者たちに押しつけてきたのです。

その結果、自分も信者も弟子も、みな成仏しないで苦しんでいます。 ある有名な霊能者が以前、 「宗祖といわれる偉い高僧、名僧たちが、みな地獄に落ちて、火の車に乗せられて苦しんでいる ところを霊視した。あまりの恐ろしさと、あまりの意外さにびっくりした。 これはどういうわけ だろうか?」

と語っておりました。日本の仏教界の人たちは、そんなバカなことがあるかと一笑に付したよ うですが、わたくしは、

「そうかもしれないなあ」

と思いました。

にちれんしょうにん

日蓮上人(一二二ニー一二八二)などはなにもしらず、『法華経』を、「これが最高のお経だ」 と一心不乱に、命がけで広めたわけです。日蓮上人の布教に対する信念は、本当にわたくしたち のお手本とすべきところであると、わたくしは尊敬しております。 しかし、広めたのがほんとう の経典ではなかった。真実を知らなかったことは、じつにお気の毒ですが、 それを信じて帰依し た信者からすれば、お気の毒ではすみません。 そのために、成仏ができないのですから。

世界を救う唯一の仏法

わたくしは今、日本がこれほど悪い状態になってきたのは、カルマを断つという正しい仏教を 信仰しなかったからだと考えております。 成仏法のない仏教を信仰してきたために、先祖を成仏 させることができず、不成仏霊・霊障のホトケが急増してしまったのです。

不成仏霊や霊障のホトケが急増したため、多くの人が「横変死の因縁」 「刑獄の因縁」肉親血 緑相剋の因縁をともなう家運衰退の因縁」の三大悪因縁をはじめとした、さまざまな悪因縁で苦

しんでいます。だからこそ、急速度でこの世の中は、これほど悪くなってきているのです。 三大悪因縁の中でも、「横変死の因縁」を持つ人が近年急増しております。 四十年ほど前は、 この因縁を持つ人は百人中二、三人でしたが、現在はその比率ははるかに高くなっております。 このまま増えていくと、いったいどういうことになってしまうのでしょうか?

たとえば四、五十パーセントの人が「横変死の因縁」を持ったならば、大変な惨事が起きると 思います。人口の半数近くが横変死するのですから、大きな戦争が起きるかもしれませんし、原 子力発電所で大事故が起きるかもしれません。あるいは、大地震が発生する可能性もあります。 この危機を救うには、お釈迦さまの成仏法しかありません。 一人一人がお釈迦さまの成仏法を 実践して、自分および家庭の悪因縁を断ち切り、不成仏霊・霊障のホトケを成仏させなければな らないのです。

わたくしたちは、この日本列島、いや、この地球上を覆っている破滅のカルマを断ち切るため に、お釈迦さまの成仏法を一人でも多くの人に伝えなければいけません。 この世を救うことがで きるのは、お釈迦さまの成仏法・七科三十七道品しかありません。

お釈迦さまがインドで説法を開始された時も、お釈迦さまお一人だけでしたが、ご自身の悟ら れた内容を五人の比丘に伝えられて、仏教教団の原型ができました。 さらに、そこから少しずつ 法の輪は広がっていき、ついにはインド社会を動かす大きな力になったのです。 それから考えれ ば、阿含宗は決して小さな動きではありません。人数は少なくても、実に巨大な燃え上がるよう なエネルギーで世界に働きかけています。

このエネルギーをもっと大きく育て上げて、どうしてもこの世界を変えなければいけません。 三

一分一秒といえどもうかうかしていられないぞ、という思いにわたくしは駆り立てられます。 みなさんも、毎日の勤行の際、このことを考えながら勤行しなさい。 お釈迦さまはどれほどた いへんなことを、わたくしたちに呼びかけていらっしゃるのか? どれほど重要なことを、わた くしたちに説いてくださっているのか? それを考えて修行に励みなさい。

このお経を読めば、お釈迦さまのお心が分かるはずです。

*1開証

本経を説く前にあらかじめ説として説かれる

仏教学の学術語で、インド以外の地域、中国や日本などで述された経典をいう

3巧師の祠の使っている斧の太いは、一日や二日で擦り切れることはないが、毎日使用しているうちにやがて手

指の形に憧れて細くなり、最後には折れてしまう。修行もそれと同じである、というたとえ話

〇八四

護摩

本日、7/16(火)13:30、関東別院より本部・各道場において7月冥徳祭が中継されます。
万燈会に引き続き、ご家族・ご法友をお誘い合わせの上、ご先祖様に手を合わせましょう。
なお、道場にお越しになれない方はライブ配信でご覧ください。

★13:30中継開始 「7月冥徳祭」
https://agon-live.com/m811/
再配信:16日18時から19日18時まで

★★★阿含宗会員限定サイトのお知らせ★★★

「会員限定サイト」では、阿含宗会員限定で様々な特典が受けられます。
[特典]
① 72時間のライブ再配信公開終了後、約1ヵ月間ライブ配信を視聴可能
※「 7/7 阿含宗本山 万燈先祖供養セミナー2024」も公開中です。
② アゴン・マガジン最新号の試し読み
③ 阿含宗報の最新版(電子版)の閲覧
④開祖ご法話動画の閲覧(随時追加中)
※現在、仏舎利宝珠尊和讃講義 (全20回)が全てオンラインで閲覧できます。
大変貴重な御法話です。教学の勉強としてぜひご拝聴ください。

■阿含宗会員限定サイト
https://agon.org/member/

※サイトを利用するためには、IDとパスワードが必要です。(7/1よりパスワードが変更になっております)
詳細は7月会報同封の「ライブ配信お知らせチラシ」に記載されております。
(最新チラシは各道場でも入手できます)

それでは、皆様のご参拝お待ちしております。合掌

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