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ナンダ龍王とウパナンダ龍王

ナンダ龍王とウパナンダ龍王

だれか龍のたる呻吟の声を聞い

たことがあるか

だれかの憂いにみてる孤独の魂に ふれたことがあるか

だれかの怒りと期待と絶望にいろ

どられた壮大な夢を聞いたことがあ

かれは待たねばならぬのだ

千年 二千年 三千年

あき果て滄海の淵にひとりひそ

みかれはしだいに老ゆる

月光ゆらめく波濤に御爛たるその

を洗わせつつたる銀河に長嘯し

ときに力いかづちのごとく身の内

にみちみちるときひとり雲をよんで穹の

果てに駆け、あまさかるに

する

だれかのかなしみといかりと期待

絶望にみつる心を知っているか

 

中国語で

むなしく甘いてて帰る

「うん」

「そうだ」

「うーん」

「どうしていままで話してくれなかったんです。いつごろそのかたは入店したのですか」

「おぬしがこの円照寺にくる半年くらいまえだった。もう、二年になるな」

「いつごろお帰りになるんですか?」

「それはわからん。 かの地に無事に渡ったことだけはわかった。 しかし、いつ帰国するかはわか らん。 十年、二十年、あるいは」

といいさして、ちょっと躊躇したが、

「あるいは、帰国の海上において万一ということだって無いことじゃない。 しかし、われわれ はかれほどの不世出の大天才は、必ず仏天の加護があるものと確信している。かれは遠からず 所を果たして帰ってくる」

「われわれ、というと、康安さん、ひょっとすると、そのかたは、あなたの例の仲間のひとじゃ ないですか?」

いま所といわれましたが、 所志とは、どんな所志ですか?」

と康安は、ごしごしと頭をかいていたが、

「べつに、おぬしにことさらかくしていたわけではない。 あまりにおしかの人とそっくり

の道をたどるので、はたして今後どのようであろうと、律師と申し合わせて、じっとおぬしの 長をみていようということにしたのだ」

「そのかたのことを、康安さん、もっと聞かせて下さい」

「うーん、そうだな」

と康安は腕を組むと、

「どこから話そうか」

とちょっと小首をかしげた。

求聞持法の兄弟弟子

そのまましばらく窓の外をながめていたが、やがて低い声でかたりはじめた。

かのお人とは、いちばん最初、木の山奥で出合うた。こちらもひとり、向うもひとりであっ た。たがいにちらりと顔を見合わせたまますれちがった程度の出合いであったが、一目見て心に 好きついた。どちらも荒行の山歩きの最中で、ともまぎらう相だったが、世の つねの人ではないことが一目でわかった。あとで知己になってのはなしでは、かのお人も、その ときのおれが印象に残ったといってくれたよ。 二度目は、律師のもとで出合うた。百年の知己に 再会した思いで話しかけると、向うも喜んでくれて、その日一日かたり合うた。話し合ってみる

と、律師から求聞持法を伝授されて修行中とのことだ。おれも、律師から求聞持法を受法してい る。 いうならば、求聞持法では兄弟弟子なんだ。おれのほうが年長だが、求聞持法はかれのほう が一年はやく受けていた。三度失敗して、これから四度目の行に入るのだといっていた。おれは いっぺんでかれに魅せられてしまった。 それは、おれだけじゃない。それまでに、おれには、 木、吉野、比蘇山寺と、心のおもむくまま、行場を移して修行する仲間が十数人いた。みな、す ぐれた個性を持った、えりぬきの秀才たちであった。いままでの仏法を学び尽くし、それにあき たらず、あたらしいものを求めて林に散り、深山に籠って、血の出るような苦行をつづけて いる真の求道者ばかりであった。もしもかれらが名利を求めて世に出たなら、すぐにでも一山の 持となるべき器量才識をそなえた者たちばかりであった。それだけにことごとく わ れのみがわれを知ると、容易に人に屈せず、人に譲らず、傲然と胸を張る者のみであった。し かし、ひとたびかれに接するや、暗黙のうちにみな頭を垂れた。 おのずから兄事するようになっ た。かれの赴くところ、かれの行なうところにしたがい、かれはおれたちの中心になった。かれ は、大学で群を抜いた秀才であったが、世の虚なるを感じ、道心を発してついに名利の念を断 ち、林に籠るにいたっただけに、われわれのように仏陀の教説一途ではなく、ひろく儒教そ の他の漢籍にも造詣が深く、その上に、なんともいわれぬ人間味があった。おれたちの仲間は、 心からかれに心服した。かれは、またたくうちに、唯識、三論、華厳、天台、御舎、成実の諸経 論にしてしまった。 一を聞いて十をさとるというのがかれのだった。なにを聞いても、

こうぜん

にんげんみ

たちどころに袋の中からものをさぐってとり出すように答えた。自分では口にしなかったが、 を成就したただ一人だとうわさされたが、まことにさもあろうと思われる博覧強記ぶりであ った。しかも、そういう頭脳の持ちぬしにかぎって、とかく書斎の人、言説辞句の人となり勝ち なのに、行の上においても、かれは、不抜の意志と卓越した肉体の力を示した。岩窟にこも り、山野をし、滝に打たれ、まさに人間とは思われぬ苦修棟行であった」

円は息をするのも忘れたように聞き入っていた。

「十七地論について、おぬしとおなじような見解を持っていた。おれがさっきびっくりしたの は、十七地論の弥勒説法について、おぬしと全く同様のことをいったのだ。あれは無着の現身成 仏にちがいないといい、それからわずか一ヵ月あまりであの一〇〇巻という大部の論書を読破 現身成仏についての技法をのべているところが七ヵ所あるといってそれを指摘した」

そうだ、七ヵ所だ。しかし、これはふつうに読んでいたのではだれも気づくまいといった。お れたちも、かれに指摘されて読んで、はじめて、その章句が現身成仏の技法を説いたものである ことを理解したんだが、これはおれたちが、自己流ながら山林にこもって修行していたからのこ とで、たしかに、これを学理として読んでいたら、とうていそれと知ることはできなかったろ

康円は、ふとい吐息をついて、腕を組んだ。

その上で、かれはこういうことをいいはじめた。この十七地論よりもっと進んだ瑜伽の教法を

いた経論があるはずだというのだ。なぜか? と聞くと、伽の教法を説いた解深密とこの 伽師地論が世に出て以来、何年経つと思うか、というのだ。いわれて調べてみると、およそ 四百年ちかく経っている。それをいうと、いまから四百年むかしにこれだけ高度の瑜伽の教法が かれているのだ、それから現在にいたるまでの四百年間に、どれだけあらたな進んだ行法が開 発されているか、思い半ばに過ぎるものがあろう、というのだ。なるほど、 いわれてみるとたし かにその通りだ。教・法ともに非常な進歩をしているのにちがいない。あるいは全くあたらしい ものが生まれているかも知れぬ。とすると、われわれは、四百年むかしの古い教説にしがみつい ているわけで、これはなんとか考えてみなければならんぞということになった。が、しかし、そ うはいってもなんともしようのないことで、われわれはその非凡なかれの着眼に感心しただけだ が、かれは、この四百年間の歳月と、この国と天竺をへだてる空間に歯ぎしりする思いだったの だ」

康安はそこでちょっと言葉をとめた。かれの胸にそのころの空海のすがたが去来しているよう であった。

「そのうちに、かれはまたこういうことをいい出したのだ。この解密 十七地論のあとに出 てくる伽の教法は、中の空の理に、唯識伽の行法を融合させたものにちがいないという のだ。かれは、そういう教法がすでに完成されて世に出ているはずだというのだな。 どうして

れがわかるのかというと、それが歴史的必然だというのだ。 仏滅以来の教 るに、二百年から三百年の周期を以て、新しい教説が出現しているという。そうして、このつぎ に出てくるものはそれしかないというのだ。どう考えてもそこにいくはずで、それしかない。そ うしてそれはもう出ているというのだ。だから、天竺まではとにかくとして、唐に行けば必ずそ の消息にふれられるはずだというのだ。そうして、それは、無着が十七地論の講述にあたってや ってみせ、またその著書の中において説いている現身成仏の法を、より高度に、より詳密に説 いたものにちがいないというのだな。 十七地論は、現身成仏の理論と技法を説きながら、はじめ それにふれた書であるだけに、そこまでに至る過程を説くのに大部をついやし、かんじんの法 を明白に説きつくすことはできなかった。しかし、百年、二百年の歳月ののちに今度出てきた論 書は、そのものずばりを説いているはずだというのだ。おれたちも、よくはわからぬながら、か れのいうことがまんざら首できぬことはなかった。が、おれたちの理解はその程度のも のだったんだが、かれの知能では、それがすでに眼前に存在するごとき思いがするのだな。いて も立ってもいられぬという様子で、その悶々とするさまは、われわれのはたで見る目もいた ましいほどであった。二日、三日と夜もねず、ろくに食事もとらずにじっと想いをこらしてい るところは、まさに鬼気せまるといった様子で、思うに、かれはかれなりにその教法の工夫をこ らしているのではないかと思われた。が、そのようなありさまで、このままでは、やがてはかれ の身がどうかなってしまいやせぬかと、しだいに先きが案じられるようなことになってきた。 こ

りゃあなんとかしなけりゃならんぞと、みんなが真剣にひたいをよせあつめて相談をするように

なった矢先きだ。じつに奇っ怪な経典が手に入ったのだ」

康安は、言葉を切って康を見た。

奇怪な経典

「奇怪な経典?」

「………..?」

「ふうむ」

「そうだ、じつに奇々怪々な文言でみちている」

「へええ、安さん、なんだか気味がわるくなってきましたよ。いったいどんな経典ですか?」 「それは、動操律師の先師の、議僧正の遺品の中にあった。被見を禁ず、と朱書された一つの が、大安寺に秘蔵されていた。律師は、この管に関して善議僧正が生前ふと洩らされた言 葉を脳裏にとどめていたが、空海のいうことを聞いているうちに、ふと、ひらめくように思い たることがあったのだな。思いきってそれをひらいてみたのだ。律師は、師命にそむく行為とい うので、それこそ地獄の決心をしての挙であったが、をひらくと、中に僧正の手蹟で、 いたらばおのずからひらかれることあらんとあったそうだ。いささか安堵の思いをしなが ら、ひらいていくと、出てきたのは一部の写本で、表書を一覧して、 これが、 先師 の道律師の遺品であることがわかった。 中に写した成る経典の一部であるらしい。 この

中に、じつに奇怪な章句があったのだ」

まず、経典の甘めのほうに、朱線を引いた部分があった。おそらく、道慈律師が手づから引か れたものと思われるが、それにはこうあった。 初発心乃至十地。次第此生満足い わゆる初発心より万十地に至るまで、次第にこの生に満足す)というのだ」

「十地とは、あの十地ですか?」

「そうだ、 十地経の十地、華厳経十地品の十地だ。おれたちは、これがこの経典の主題だと見 た。初発心より十地に至るまでとは、おぬしも知る通り、 正覚成仏を志してより、 十地等覚の位 にいたるまで、ということで、凡夫が仏道に入って成仏するまでの過程をさす。 次第に、とは、 順次に修行昇進して行くという意だが、問題は最後の一句だ。この生に満足す、とある。この生 とは、いまのこの父母の肉身において、という意で、満足す、 とは、完全に成就するという ことだ。すなわち、この肉身の生涯において、十地・十段階の階梯をすべて完全になし終え、成 仏を完成 成就する、というのだ」

「なるほど、三論においては一念成覚、華厳においては“覚成仏を説く。ともに速疾成 仏だが、これはどこまでも理”であって、実際には、具体的な目的達成の手段方法が明らかで ない。 あくまでも、十心・十・十・十回向 十地の五十段階を経て、 等覚位、妙覚位にいた

神が翔ぶ

神が翔ぶ

る。

いし、念のすがた(明王)と化して折伏し、仏法にしたがわせるのである。

変化身とは、能化の修行者を守護するため、龍王・身のすがたに変化して、一瞬のうちに 全世界をかけめぐりいかなる事物も意のままにする自在力、神通力を以て、守護するのであ

仏法守護の変化身は、ほかにもないことはないが、神通力最大である龍神を以て、護法善神 の筆頭とするのである。 そうして、そのなかで、 難陀龍王を以て、護法神の代表とする。 では、龍神が守護霊となって護持したとき、ひとはどうなるか? それを、密教の経大 日経に聞いてみよう。

龍神が守護神になると

龍心

大日経は、つまびらかには「摩訶毘盧遮那成仏神変加持経」という。密教の神変加持力を 以て、即身成仏する法を説く。

この経の「心」第一は、ひとの心相を六十種類に分類して、その長所・短所を説き明 かす。 そのなかに「龍心」という心相がある。

前生が服であったか、龍神が守護神としてついたためか、そのいずれかのとき、この心を持 つのだという。あるいはまた、密教修行者が解説を完成するとき、この龍神の心と神通力を身 につけて、仏法興隆の大業をなすともいう。

この「六十心相」を解説した拙著「説法六十心』 (平河出版社)のなかから、「龍心」の部分 つぎに転載してみよう。

だれか龍のたる呻吟の声を聞い

たことがあるか

だれかの憂いにみてる孤独の魂に ふれたことがあるか

だれかの怒りと期待と絶望にいろ

どられた壮大な夢を聞いたことがあ

かれは待たねばならぬのだ

千年 二千年 三千年

あき果て滄海の淵にひとりひそ

みかれはしだいに老ゆる

月光ゆらめく波濤に御爛たるその

を洗わせつつたる銀河に長嘯し

ときに力いかづちのごとく身の内

にみちみちるときひとり雲をよんで穹の

果てに駆け、あまさかるに

する

だれかのかなしみといかりと期待

絶望にみつる心を知っているか

南海の龍紀州頼宣

ということばがある。英雄のことをいいます。

ちなみに、佛は中の獅子、ゆえに説法の座を獅子座という。

享保年間、徳川御三家の筆頭、紀州頼性、豪放にして英邁、胸中にふかく経倫を蔵

ちゅうがん

またよくを愛した。 ながくふたつに裂け、いわゆる眼であった。英

神が守護霊になると

「涅槃の秘密」

 

「涅槃の秘密」

広大な山々が広がるチベットの大地。その地に、数百年もの時を超え、ある真理を探し求める僧侶がいた。その名はカマラシーラ。彼は、世の中の全てを見透かす鋭い眼差しを持ち、誰よりも仏陀の教えを深く理解しようと努めていた。

しかし、その探求の道のりは決して平坦なものではなかった。仏陀が示した「涅槃」という境地に近づくためには、あらゆる学派を理解し、超えていかなければならなかったのだ。ナーガールジュナが説いた「空」、アサンガが説いた「識」。それぞれが仏陀の教えを自らの方法で解釈し、多くの弟子たちに伝えていた。

カマラシーラはその全てを学び取り、そしてついに一つの結論に達した。「即身成仏」こそが、仏陀の教えの核心であると。それは空海が悟りの極みに達した時に見いだしたものであり、カマラシーラはそれを目指して修習を続けた。彼は日夜、瞑想と修行に励み、身体と心を清め、まさにその身で仏となることを目指していた。

やがて、カマラシーラは密教経典『大日経』に出会う。それは仏陀の教えの中でも最も奥深い部分を明かすものであり、彼にとっては新たな道しるべとなった。空と識の教えが融合し、新たな仏教の形が生まれようとしていた。

ある夜、カマラシーラは一つの夢を見る。金剛頂経の世界が広がり、その中心には輝く如来が立っていた。その姿はあまりに神々しく、彼の心は一瞬で清められた。目が覚めた時、彼はその夢がただの幻ではないことを悟った。それは未来の自分の姿であり、仏となるための最終的な指針であった。

その後、彼はチベットの地で『修習次第』を編纂し、多くの弟子たちに教えを広めた。その中には、後に日本に渡り、真言宗を広めることとなる空海の姿もあった。カマラシーラの教えは、空海を通じてさらに広がり、日本の地で新たな仏教の形を築き上げた。

その一方で、インドのガンダーラ国では、アサンガという名の若き僧侶が苦悩していた。彼は幼い頃から卓越した才能を持ち、僧院で修行を続けていたが、「空」の教理を理解することができず、絶望のあまり自ら命を絶とうとした。しかし、運命は彼を見放すことはなかった。彼は兜率天に住むマイトレーヤ菩薩に出会い、大乗の空観を教えられることで、新たな悟りの境地に達することができた。

アサンガはその後も、たびたび兜率天に上り、マイトレーヤ菩薩から教えを受け続けた。そして彼は、弟ヴァスバンドゥを説得し、小乗仏教から大乗仏教へと導いたのである。

その教えは空海にも伝わり、空海はそれをもとに「即身成仏」という教えを築き上げた。仏陀の教えは、ナーガールジュナ、アサンガ、そして空海という名だたる僧侶たちによって時代を超えて受け継がれ、さらに深みを増していった。

千二百年の時を経て、現代に生きる我々にとっても、これらの教えは決して過去のものではない。カマラシーラ、アサンガ、そして空海が築いた仏教の流れは、今もなお私たちに悟りの道を示し続けているのである。

 

密教と日本仏教

カマラシーラの修習次第

ところで、いま、仏陀の教示した涅槃を、ナーガールジュナは「空」アサンガは「識」 空海は 「即身成仏」としてとらえたといったが、この三者の中で、仏陀の説く「涅槃』に最も近いものは 空海の即身成仏であろう。最も的確にとらえているというべきだろう。ただし、空海のこの把握の 背景には『大日経』の出現がある。

しょうまんきょう だいはつねほんきよう

「空」と「唯識」はそれぞれ中観派と瑜伽唯識という二つの学派を生じたが、 七世紀の半ばに いたって、この二つの学派は融合し「瑜伽行中観派」となって『大日経』という後期大乗経典を 生んだ。そのなかだちをしたのが『勝経』『大般涅槃経』などの如来蔵経典、あるいは唯識系中 期大乗経典の『解深密経』であった。この時点で、仏陀の「秘密の教説」は世に出なければならぬ をむかえたのである。

間もなく『金剛頂経』があらわれ、『大日経』とともにこの二つの経典はあらためて「密教経典」 という名で呼ばれることになった。この二つの密教経典の出現から間もなく『カマラシーラの修習 次第』がチベットで編まれた。 空海が渡唐するわずか五十年ほど前のことである。『カマラシーラ 修習次第』と真言宗密教のかかわりについて言及するひとはあまりいないが、これは、空海がシ から伝えた『阿字観』の原書ともいうべき重要な書であるとわたくしは見ている。(これについ ではまたべつな機会に筆をとる)

空海こそは、仏陀の秘密教説を世に出すための最も天運にかなった天才だったといえるであろう。

十一 アサンガの現身説法

五四六年に中国に渡って、『倶舎論』や、唯識・如来蔵思想系の論書をかず多く翻訳した西イン ばばんず ほうし でん ド出身の僧パラマールタ(真)の著した『法師伝』には、ヴァスバンドゥの伝記ととも に、その兄アサンガの伝記も語られている。 それによると、アサンガは、インド北西境ガンダーラ 国のブルシャプラ(現在の西パキスタン、ペシャワール)に住む婆羅門カウシカの三人の子の長男に生 まれた。次男がヴァスバンドゥで、末子はヴィリンチヴァッサと名づけられた。 この末子について は、説一切有部(上座部系)において出家し、のちに阿羅漢になったという以外しるされていない。 アサンガはすぐれた素質にめぐまれ、かれも僧院仏教である説一切有部において出家し、定を修 めて間もなく欲望を離れた境地に達することができた。 しかし、かれは「空」の教理を理解し得ず、 絶望のあまり自殺をはかった。 その時、東方のヴィデ国から来た阿羅漢ビンドーラ(頭) が、かれに小乗の空観を教えたので、かれはそれを実修して、直ちに修得することができた。それ でもアサンガは満足できず、すでに体得した神通力によって兜率天にのぼり、そこに住むマイトレ ヤ菩薩に教えを乞うた。 マイトレーヤ菩薩から大乗の空観を教えられたアサンガは、再び地上に もどって、教えに従って思惟し、やがて空の理を悟ることができた。かれが思惟するとき、大地 六種に震動したという。

アサンガはその後もしばしば兜率天にのぼってマイトレーヤに大乗経の教理をたずね、地上にも どって人々に教えられたところを伝えたが、人々はその教えを信じなかった。そこで、かれは、マ イトレーヤにみずから地上にくだって大乗を解説し、人々に大乗のを起させることを願った。そ の願いをいれたマイトレーヤ菩薩は、中天竺阿陀国(現在の中インド Ayodhya, Faizabod) の大講 堂にくだり、夜ごとに大光明を放って、多くの聴衆を前に 『十七地経』を出し、その趣旨を解説 した。その状景を、原書では、「有縁の大衆同じく一堂に会し法を聴き弥勒に近づくことを得るも、 見ることわざるあり。或いは光明のみを見て相好を見ず教授を聞かざるあり。或いは相好を見る 教法を聞かざるありと伝う」とある。

こうして夜はマイトレーヤの説法を一同で聞き、昼はアサンガが説法の内容について人々に解説 することがつづけられ、四か月かかって『十七地径』の説法は完了した。その結果、人々は大乗の 教えを信ずるようになった。アサンガはさらにマイトレーヤから日光三味を教えられて、それを修 得し、その後は従来理解することができなかった教義をことごとく理解し、見することをよく記 して忘れないようになった。晩年のアサンガは、弟のヴァスバンドゥが小乗を信じて大乗を誹謗 しているのに心を痛め、病にことよせて弟をアヨーデイヤーから呼びよせ、大乗の教義を説いて 大乗に誘引した。 以上が、『

豆法師伝』にあらわれるアサンガの伝記の略であるが、アサンガが兜率天に のぼって、そこでマイトレーヤ菩薩から『瑜伽師地論』 その他の教えを授けられたことは、チベッ ト伝にも語られている。また、アサンガ自身、当来仏(将来仏位をつぐ者として兜天にいる菩薩で

)、かれの弟ヴァスバ

曲駅」帰敬備)

マイトレーヤという名の実 )と混同したのだという

あるマイトレーヤから『瑜伽師地論』を聴講したと記し顕教諭 ンドゥも、アサンガがマイトレーヤに事したと述べている。『大 マイトレーヤとアサンガについてはむかしからいろいろな説がある。 在人物が数人いたという説、それが信仰上のマイトレーヤ菩薩(赤 解釈、あるいはアサンガが弥勒菩薩の霊示を受けて執筆をしたという説など、むかしから学者の間 で論争されてきた。わたくしはいずれをもとらない。 弥勒菩薩とアサンガとは同一人物で、弥勒 薩の説法は、アサンガが弥勒に変身して説法した「現身説法」であるとわたくしは断定する。この 技法がのちに空海につたわって、空海の「即身成仏」となってあらわれるのである。

仏陀ナーガールジュナーアサンガ空海とつづく密教のこの特殊な技法の流れの経緯は、 またべつな機会に筆をとろう。

十二仏教復興運動としての密教

ナーガールジュナ、アサンガと流伝して、空海にいたって大成した仏陀の秘密教説は、空海没し ここに一千二百年、時代の変化は、天才空海の確立した法に、きびしい変革を迫っている。 教はどのように変革されねばならぬか? わたくしは、密教の実践指導者としてわたくしなりの一 一つの方向を本書で示した。それは、密教を以て世に立つ者として、だれしも一度は果たさなければ ならぬ義務であると感じたからである。

そうではないのである。

科学と技術の発達によって、物質的な能力を無限に拡大してきた人類は、いまや、科学と技術に 対する制御力を全く失った。科学と技術の持つパワーが、人間の持つパワーをはるかに超えてしま ったのである。このままでは、遠からず人類は機械の一部として生存をつづけることになろうと危 惧されている。人間の回復は能力の回復でなければならぬ。人類の持つパワーをはるかに超えてし まった科学と技術を確実に制御する、あたらしい高度の力を人類はすみやかに身につけねばならぬ。 それなくしていくら「愛」を説き慈悲」を叫んでも、所詮は自己満足の域を脱せず、結局は口舌 の具に過ぎない。愛と慈悲を呼びつつ人類はすさまじい機械と技術と環境破壊の嵐の中に散り散り に散ってゆかねばならぬのか。

このとき、人間のワクを破るための、的確なシステムを持つ密教の再発見がある。これこそ、人 類の未来をきりひらくための唯一の宗教でなければならぬとわたくしは確信する。 しかし、そのた めには、密教は一千年まえの古代仏教から脱皮せねばならない。このままでは、密教は、古代仏教 における一つの伝統形式として、過去の歴史の中に埋没してゆくよりほかないであろう。

このわたくしの考えかたを、あるいは、あまりにも便宜主義・能力主義であるとして、反発、 されるかたもおられるかも知れない。

わたくしは、密教を決して能力開発の面からのみ見て、これを便宜的に利用しようとしている のではないのである。また、密教を、ただたんに密教として説き布教しているのではないのである。 仏陀の根本教説の復興運動としての密教布教活動なのだ。

いままでにわたくしの述べてきたことをもう一度思い返していただきたい。

大乗仏教成立のあとをうけて密教が登場したのは、行法を欠いた仏教を是正するための仏教復 興運動であった。

その第一次復興運動の推進者はアサンガであった。 ナーガールジュナは、どちらかといえば理論 面における完成者であり、方法を完成に導いたのはアサンガである。

第二次の復興運動は、日本において空海がそれをなした。余談だが、わたくしは、空海をそのよ うに評価する。わたくしは、空海を、その宗門のひとびとがなしているように、単なる日本真言宗 密教の創始者としてあがめているのではない。仏陀の根本仏教の第二次復興者として高く評価する のである。もっとも、空海自身はそれを意識せずになしたのであろうけれど。

しかし、この空海の仏教復興も、鎌倉時代にいたって、ふたたび大乗仏教教団にとってかわられ てしまった。歴史的にいうなら、これは仏教の後退である。 なぜなら、『法華経』『無量寿経』を主 とする在家仏教教団にとってかわられてしまったからである。以来、密教は傍流におしやられ、そ の位置に甘んじたまま、今日にいたった。

現在、日本仏教の主流は鎌倉仏教であり、それは重ねていうが、修行法を欠落した大衆部系の経 典をよりどころにした仏教である。 決して仏陀の正統な仏教とはいえない。

仏陀の修行法を中心に編成された密教が、いまこそ出現しなければならぬ時期である。

第三次仏教復興運動としての密教の登場を、わたくしは叫んでいるのである。密教仏教の主流 になることが仏教史的にいっても正しいのである。

である。

とはいえ、わたくしは、決して大乗仏教をいたずらに批難しているのではない。 大乗仏教の 唯一の欠点は修行法を欠落していることである。 しかしそれは密教にある。密教の修行を、大乗 仏教はとり入れればよいのである。 そうしてそれはすでに上代において、賢明なる中観派瑜伽唯 派の大先輩たちがなしていることをひとびとは知らねばならない。 (中観唯識派の成立)

すなわち、『法華経』の教義に密教の修行法をとり入れて成ったのが『大日経』であり、「胎蔵界 法」である。

『華厳経』の思想に密教の修行法をとり入れて成ったのが『金剛頂径』 であり、 「金剛界の法」

たいへん大雑把ないいかただが、これは決して間違いではないと確信する。

密教法を中心に、大乗の教えがあまねく地上全土にひろまってゆくすがたこそ、仏陀の根本教 一説のまことのありかたであり、それが娑婆即浄土の実現であると確信し、その実現にわたくしは身 命をささげているのである。意のあるところを汲みとっていただければ幸甚である。

即身成仏論

悟りの探求:釈尊の瞑想体験」

 

“The Search for Enlightenment: Buddha’s Meditation Experience”

釈尊の心は、幾重にも広がる衆生の姿に向けられていた。その眼は超越的であり、ありとあらゆる相を見透かすことができた。

ある日、釈尊は深い瞑想に没頭し、自らの前世から無限の生涯までの幻景を垣間見た。生命の輪廻が、ただ一つの生を超え、終わりなき変化と進化の連鎖であることを理解した。

その瞑想の旅で、彼は貴きものから醜いものまでの宿業の渦を垣間見た。そして、四苦の真理を悟り、全ての存在から解放される智慧に到達した。

「無明」という闇が、彼の前に立ちはだかった。しかし、第三の眼によってその闇も見通され、真理が明らかになった。

釈尊は、ショウジョウバエの世代交代を観察し、多くの世代の変遷を通して原因と結果の法則を理解した。

そして、その叡智を輪廻転生の瞑想法へと展開させ、瞑想の深淵にあるすべてを表現した。その瞑想体験は五つの段階を経て深まり、最終的に宿業からの解放と解脱が達成された。

バエ

霊性とはなに?

 

霊性とは

四念処(しねんじょ、巴: cattāro satipaṭṭhānā, チャッターロー・サティパッターナー)とは、仏教における悟りのための4種の観想法の総称。四念処観(しねんじょかん)、四念住(しねんじゅう)[注釈 1]とも言う。三十七道品の中の1つ。

学術的な仏教研究によれば、釈迦の死後に編まれた最古層経典、古層経典、新層経典のうち、四念処は最も新しい新層経典が初出であることが判明している。つまり釈迦自身は四念処を説かなかった可能性がある(仏教#釈迦の修行法)。

仏教信者の主張によれば、四念処は、釈迦の初期仏教の時代から、悟りに至るための最も中心的かつ最重要な観想法であり、仏教の主な瞑想である止観の内、観(ヴィパッサナー)の中核を成す観想法である[要出典]。四念処によって五蓋を捨断すると、釈迦は説いた[1]とされる。

内容
四念処の内容は以下の通り[2]。

身念処(身念住) – 身体の不浄を観ずる(不浄観)
受念処(受念住) – 一切の受は苦であると観ずる(一切皆苦)
心念処(心念住) – 心(citta)の無常を観ずる(諸行無常)
法念処(法念住) – 諸法の無我を観ずる(諸法無我)
経典の記述
パーリ語経典においては、『大般涅槃経』等で繰り返し言及される他、以下でも、詳しく説かれている。

『大念処経』(大念住経、長部第22経)
『念処経』(四念処経、中部第10経)
比丘たちよ、では、比丘は、どのように気づいて(sati)いるのか?
比丘はいま、身(kāye)について、身を観つづけ、正知をそなえ、気づき(sati)をそなえ、世間(loka)における貪欲と憂いを除いて住む。
受(vedanā)について、受を観つづけ、正知をそなえ…(以下同文)
心(citta)について、心を観つづけ、正知をそなえ…(以下同文)
法(dhamma)について、法を観つづけ、正知をそなえ…(以下同文)
比丘たちよ、比丘はじつにそのようして、正念のものとなる。

、真の知恵を得るための能力である。

人の来たり去ったりを知り、行く先を見通す力。

これこそが、真の進歩と発展の始まりであり、欠けていれば人は霊的に進歩せず、永遠に低い世界にとどまり、時には自らの世界を壊滅させてしまう。

釈尊はこの無知を「無明」と呼んだ。

無明には二つの意味がある。

まったくの無知と、完全な闇。

真実を悟る智慧を持たず、暗闇の中を手探りで歩く状態。

釈尊の叡智は、何十世代もの人間の変遷を見通す力であり、その結果、行為がどのような結果をもたらすかを知ることができる。

その力は瞑想によって開かれ、五つの段階を経て深まる。

第一の段階では心が安定し、第二の段階では心が静かになる。

第三の段階では清浄な想いにみたされ、第四の段階では過去の光景が展開される。

最終的には、宿業から解放され、解脱の境地に達する。

これこそが仏陀の瞑想であり、その体験を通じて、誰もが同じ境地に到達することができるのだ。

 

 

霊性とは何かについて、仏教の視点からの説明と引用がありますが、要約すると、霊性は人間の本質的な部分であり、物質的な存在だけでなく、精神的な側面や超越的な力も含んでいます。仏教の文脈では、霊性は禅定や悟りの修行を通じて深められ、自己の過去の生まれ変わりや業の果報に関する洞察を得ることができるとされています。

以下に、引用部分を箇条書きで整理します:

  • 人間は霊的存在であり、特殊な生命形態を持つ。
  • 釈尊の「成仏法」の修行によって、この特殊な生命形態が理解できる。
  • 釈尊は中阿含経「黄蘆園経」で、禅定を通じて得た洞察を説く。
  • 禅定が深まるにつれて、心は清浄になり、一点のけがれもなく、絶対不動である状態に至る。
  • この状態では、前世の生まれ変わりや業の果報を見ることができる。
  • これらの洞察は、霊性の本質を理解するための第一の智慧である。

 

There are explanations and quotations from a Buddhist perspective on what spirituality is, but to summarize, spirituality is an essential part of human beings, and includes not only the physical existence but also the spiritual and transcendental aspects. It also includes power. In the Buddhist context, spirituality is said to be deepened through meditation and enlightenment practices, which provide insight into one’s past reincarnations and the fruits of karma.

The quotations are listed below in bullet points:

Humans are spiritual beings and have a special form of life.
This special form of life can be understood by practicing Shakyamuni Buddha’s “Dharma of attaining Buddhahood”.
In the middle Agon Sutra, “The Yellow Garden Sutra,” Shakyamuni Buddha describes the insights he gained through meditation.
As meditation deepens, the mind becomes pure, pure, pure, and absolutely immovable.
In this state, one can see the reincarnations of previous lives and the fruits of karma.
These insights are the primary wisdom for understanding the nature of spirituality.

霊性(れいせい、れいしょう[1])は、非常にすぐれた性質や超人的な力能をもつ不思議な性質[1]、天賦の聡明さ[2]といった意味の漢語であり、肉体に対する[1][注釈 1]の意味でも用いられる。また、英語: spiritualityスピリチュアリティラテン語: spiritualitas の訳語でもあり[3]スピリチュアリティとも訳され、宗教心のあり方、特にカトリック教会などでの敬虔信仰などの内実やその伝統を指す[4]。カトリック神学用語としての霊性の起源は5世紀に遡るが[3]、神学用語として積極的に用いられるようになったのは20世紀初めのことである[5]。その後、キリスト教用語の枠を越えて広く宗教用語や一般文化用語として用いられている[3]

わたくしは、人間は霊的存在だと考えている。

なぜならば、人間が、特殊な生命形態を持っているからである。

特殊な生命形態とはどういうものか?

 

釈尊の「成仏法」を修行すると、それがよくわかるようになるのであるが、ここは、瞑想によって悟を完成し、仏陀になられた大霊覚者ゴータマ・ブッダ、釈尊の語るところによって、 それを知っていただこう。

中阿含経という釈尊直説の経典で、釈尊はこう語るのである。

中阿含経「黄蘆園経」

しょうじょう

 

我已に是の如き定心を得、清浄にして穢無く煩無く柔軟にして書く

 

不動心を得、宿命 智通を覚りて作証しぬ。我行 有り相貌 有り、本

 

無量の経歴せる所を憶うに、謂く一生・二生・百生・千生・成劫・

 

・無量の成敗劫なり。 彼の衆生某と名づけ、彼昔更に歴ぬ。我曾て彼に

 

生じ、是の如き姓、 是の如き字にして、 是の如く生じ是の如く飲食し、 是の

 

如く苦楽を受け、是の如く長寿し是の如く久しく住し是の如く寿り、此に死して彼に生じ、彼に死して此に生じ、 我生じて此に在り、 是の如き姓、 是の如き字にして是の如く生じ是の如く飲食し、 是の如く苦楽を受け、 是の 如く長寿しの如く久しく住し是の如く寿りぬと。これを我その時初夜に

この第一明達を得と謂い、本放逸無きを以て遠離に楽住し、修行し精懃

謂く無智滅しても智生じ、闇壊れて而も明成り、無明滅して而も明生

じ謂く宿命 智を作証明達しぬ。 また次に梵志、我巳に是の如き定

心を得、清浄にして穢無く煩無く、柔軟にして善く住し不動心を得、 生死智

通を学び作証し、我清浄の天眼の人〔眼」を出過せるを以て、この衆生の

死時生時、 好色悪色、妙と不妙と、善処及び不善処に往来するを見、この衆 ぜんしょ

生の所作業に随いてその如真を見、若しこの衆生身悪 [行)、口・意悪行を

成就し聖人を誹謗し、邪見にして邪見業を成就すれば、彼これに因命終りて必ず悪処に至り地獄の中に生ぜん。 若しこの衆生身妙行、

意妙行を成就し、聖人を誹謗せず、正見にして正見業を成就すれば、 彼 これに因縁して身壊れ、命終りて必ず善処に昇り天中に上生せんと見 る]。 これを我その時中夜にこの第二明達を得と謂い、本放逸無きを以て遠 離に楽し修行精動し、謂く無智滅して而も智生じ、闇壊れて面も明成り、 無明滅して而も明生じ、謂く生死智を作証し明達しぬ。 また次に梵志、 我巳 にの如き心を得、清浄にして穢無く煩無く、柔軟にして善く住し不動心 を得、漏尽智通を学び作証し、我この苦の如真を知り、この苦の習を知り、 この苦滅を知り、この苦滅道の如真を知り、この漏の如真を知り、この漏 習を知り、この滅を知り、この滅道の如真を知り、 我是の如く知 是の如く見、欲漏心解脱し、有漏・無明漏心解脱し、解脱し巳りてすな わち解脱を知り、生巳に尽き梵行巳に立ち所作巳に弁じ、更に有を受けずと 真を知る。これを我その時後夜にこの第三明達を得と謂い、本放逸無きを 以て遠離に住し修行精勤し、謂く無智滅しても智生じ、闇壊れて而も明成り、無明滅して而も明生じ、謂く漏尽智を作証し明達しぬ。

(読下しは「国訳一切経」を参照させていただいた)

わたし(釈尊は、つねに努力精進し、その想いは確立してすこしもみだ れず、体は安楽で動揺せず、心は禅定に入って静かである。 そのわたしがあ るとき、瞑想に入ってしだいに禅定が深まってきた。 第一禅定から第二、第 三、第四禅定まで深まるにつれて、心に想い浮かぶなにものもなくなり、喜 びや楽しみだけとなり、そして遂にはそれもなくなって、ただ清浄な想いだ けとなった。

そのとき、わたしの心は、一点のけがれもなく、清く明るく、絶対不動で あった。そしてわたしの心の眼はおのずから前世の光景に向けられていっ た。それは一生だけではなく、二生、三生、十生、二十生、そして無限の生 生きかわり死にかわりした光景が展開してきた。これが第一の智慧で ある。

 

what is spirituality

 

 

 

Spirituality (reisei, reisho [1]) is a Chinese word meaning such as a mysterious disposition [1] that has a very good nature or superhuman strength, or a natural intelligence [2]. Also used in the sense of spirit[1][note 1]. It is also translated from English: spirituality and Latin: spiritualitas [3], and is also translated as spirituality, which refers to the state of religious mind, especially the reality and tradition of piety and faith in the Catholic Church [3]. Four]. The origin of spirituality as a Catholic theological term dates back to the 5th century[3], but it began to be actively used as a theological term in the early 20th century[5]. Since then, it has been widely used as a religious term and a general cultural term beyond the framework of Christian terminology [3].

I believe that humans are spiritual beings.

This is because humans have a special life form.

What are special life forms?

 

If you practice Shakyamuni’s “Buddha Dharma”, you will come to understand it well, but here is the great enlightened person Gautama Buddha, who achieved enlightenment through meditation and became a Buddha, according to the words of Shakyamuni. I want you to know that.

This is what Shakyamuni says in the Chuagami Sutra, a sutra directly written by Shakyamuni.

Middle Agon Sutra “Orange Garden Sutra”

Shojo

 

I have the determination to write like this, clean and free from pollution and flexibility.

 

Acquire a sense of steadfastness, wake up to your destiny and wisdom, and write a work. There is a book

 

As I remember my countless careers, there are so-called lifetimes, two lives, a hundred lives, a thousand lives, a secular life, and so on.

 

・There are countless successes and failures. Named his sentient beings, he has a long history. to him

 

Born, surname like this, letters like this, birth like this, eating and drinking like this,

 

Like this, I received joys and sorrows, lived like this, lived like this, lived like this, lived like this, lived like this, died like this and was born to him, died to him and was born here, I was born and am here, like this. The family name is written like this, and it is born like this, eats and drinks like this, suffers joys and sorrows like this, lives like this for a long time, and lives like this. I made this on the first night

It is said that this is the first attainment of mastery.

Even if Ignorance disappears, wisdom arises

The so-called destiny wisdom has not been achieved. Next, Bonshi and I have this kind of determination.

Acquire the heart, clean and free from impurities, flexible and well-living, acquire a steadfast heart, and the wisdom of life and death.

By learning the arts and making testimony, I can pass through the eyes of the clairvoyant of purity, so that this sentient being

In death and in life, lecherous and lewd, strange and strange, going back and forth between good and bad, all of this people.

Follow the work of life and see the reality, and if this sentient beings are bad [deeds], mouth / bad deeds

If one succeeds in slandering a sage, blaspheming a sage, and accomplishing a wicked act, he will surely end up in a bad place and be reborn in hell. Young sentient beings perform miracles,

If one achieves a miracle, does not slander a sage, and sees the right view and achieves the right view, one will be broken due to this, and after one’s life ends, one will surely rise to a good place and rise to the heavens]. This is what I call this second enlightenment in the middle of the night. It flickers and then the light arises, and the so-called wisdom of life and death cannot be proved and attained. Next, I will acquire a heart like Bonshi and I, clean and free from impurities, flexible and well-living, gaining an immovable mind, learning the flow of wisdom and writing, and I will know the truth of this suffering. Know this practice of suffering, know this suffering, know this reality of suffering, know this reality of leakage, know this reality of leakage, know this destruction, know this reality of destruction. To know, to know as I am, to see as I am, to be liberated from greed and ignorance, to be liberated from ignorance and ignorance, to be liberated, in other words, to know liberation, to be exhausted in life, and to stand in the spirit of the gods. To speak to the snake, and to know the truth without receiving existence. This is what I call this 3rd Awakening at that time and at night. There is no flicker and then the light arises, and the so-called leaked wisdom cannot be proved and clarified.

(I referred to “Kokuyaku Issaikyo” for reading down)

I (Shakyamuni) is always striving and diligent, his thoughts are firmly established and not disturbed, his body is comfortable and unshakable, and his mind is calm and tranquil. From the first meditation to the second, third, and fourth meditations, the mind ceased to have any thoughts, only joy and pleasure, and finally it ceased to exist. It was nothing but pure thoughts.

At that time, my heart was pure, bright, and absolutely unmoving. And my mind’s eye naturally turned to the scene of my previous life. It was not just one life, but two, three, ten, twenty, and infinite lives, and a scene of life and death unfolded. This is the first wisdom he has.

 

 

 

それからわたしの心は、あらゆる衆生の相に向けられてきた。わたしは超人的な眼力でその相を見た。そこには貴いもの、賤しいもの、美しいもの、醜いもの、幸福なもの、不幸なものの、それぞれの宿業が渦巻いてい た。 これが第二の智慧である。

それからわたしは、苦集滅道の四(四つの真理)をありのままに 知り、わたしの心は、あらゆる存在の相から、全く解放され、ふたたびそれ に執着することはなくなった。これが第三の智慧である。

釈尊は瞑想によって、自分の前生の、二生、 三生、 十生、 二十生、さらには無 限の生涯の生き変わり死に変わりしてきた光景を見ているのである。 それは自 分だけではなく、あらゆる人間の前生と、さらに後有(このつぎの人生)を見て いるのである。

釈尊はここで、決しておとぎ話や、たとえ話寓話をのべているのではない。 釈尊の成仏法を修行すれば、その真実であることがすぐわかる。 その修行により、わたくし自身、人の三、四世代前、そしてつぎの世代における存在までは透 視できるようになっているのである。

人間の生命は、多くの人たちが考えているように、決してひとつの生涯だけで 終わるものではないのである。 ある生涯が終わったら、またひきつづき、つぎの 生命形態に移っていくのである。

多くの人たちはその認識がなく、ひとつの生涯のみで、人の生命は終わるもの と思っている。ここに、決定的な、そして致命的な生命観の欠陥があるのであ

 

霊性とはじつにそれを知る性なのだ。

人の依って来たるところを知り、去るところ、往くところを知る能力である。

 

いわゆる来所を知り、住所を知る智慧である。 これを得れば、人はおのずから、 なにをなすべきか、なにをなさざるべきかがわかってくる、そこから人間の真の 進歩発展がスタートするのである。それがないから、人間は、霊的に少しも進 歩せず、発展せず、いつまでも低いところを輪廻して、無限にさまよい歩いてい

るのである。いや、それだけではない。その果てに、人間は、自分の住む大切な

世界を、自らの手で壊滅させてしまうことになるのである。

この無知を、釈尊は、 「無明」 (avidya) と名づけたのである。

ショウジョウバエの論理

 

「この「無明」という言葉には、二つの意味がある。

まったくの無知と、完全な闇である。

「明」には明知(智慧)と、光明の二つの意味がある。

真実を悟る智慧を持たず、真っ暗闇の中を、手さぐりで歩いている状態であ る。まことに人間はそのとおりではないか。 来たるところを知らず、往くところ を知らず、ただ現在(現生)あるのみである。その現在を、ひたすら目先の利益 追求に狂奔する。その結果、いかなるところに往くのか、いかなる世界に、いか 生命形態として存在することになるのか、まったくお先真っ暗である。 「第三の目」は、このお先真っ暗な闇の世界を見通すのである。「第三の目」に闇はない。 真昼のごとく明らかに見ることができるのである。

奇妙なことに思われるかもしれないが、わたくしは、釈尊の十生、二十生を見 通す力を思うごとに、ショウジョウバエを想い起こすのである。

ショウジョウバエは、その世代が極端に短い。 ふつう、一世代がわずかに約1カ月である。だから、何十世代もの変遷を短時間で見ることができる。

そこで、生物学者や、遺伝学者は、ショウジョウバエを使って、その変化を実 験する。ひとつの遺伝子の変化が、何十世代のうちに、どういう結果を生ずる 目のあたりに知ることができるのである。

釈尊の叡智もそれである。

にょじつ

彼のように、何十世代もの人間の移り変わりを如実に見ることのできる力をそ なえていれば、ひとつの原因が、どのような経過を経て、どのような結果をもた らしたか、つぶさに知ることができる。 彼がじっさいに語っているように、その 人間がなんという名前で、いつ、どこに生まれて、どういう人生を送ったか、ま その人生を終わって、つぎにまたどういう人生を迎えたか、ある生涯のどんな

られている。

行為が、つぎの生涯にどんな結果としてあらわれたか、すべての人間にわたって

知ることができる。これがほんとうのなのである。

仏陀の瞑想から輪廻転生瞑想法へ

さきほどの中阿含経 「黄蘆園経」では、釈尊の瞑想の深まり、生き生きと語瞑想のすべてがここに表現されているといってよい。

二十一世紀という時空のへだたりを飛び越えて、読者よ、じつに、瞑想とはかくのごときものなのだ。ここには瞑想のすべてがある。

この釈尊の体験を、もう少し掘り下げてみよう。

釈尊の瞑想体験には五つの段階がある

ここには、瞑想の深まりとその結果が、じつにあざやかに語られている。

第一の段階

1、つねに一つの目的にむかって精進をつづけることができ、想念が確立してみだれず、

3 からだは安楽で動揺しない。

第二の段階

4、心はいつも定に入って静かである。

第一禅定から第二、第三、第四禅定までしだいに深まっていって、

1、心に想い浮かぶなにものもなくなり、

2、喜びや楽しみだけとなり、

第三の段階

3、ついにはただ清浄な想いだけにみたされ、

4、一点のけがれもなく、清く明るく、絶対不動となった。

つづいて心の眼がひらかれ、

1、自分の前世における光景が展開しはじめる。

第四の段階

2、 それは一生だけでなく、二生、三生、十生、二十生とかぎりなくさか

のぼり、無限の生涯の、生き変わり死に変わりした光景が展開する。

そきゆう

それは生命の根源への遡及であり、第一の智慧の獲得であった。

心の眼はさらに広く深くひろがり、ひとの持つ能力の限界を越えて、過去、現

そして未来へと流れていくあらゆるひとびとのすがたが透視される。

カルマ

それは、存在を規制する宿業の実体の把握であった。

これが第二の智慧の獲得である。

第五の段階

つづいてわたしは、

カルマ

げだっ

1、宿業から解脱する四つの真理を如実に知り、

2、あらゆる存在からの解説と超越を完成した。

それは第三の智慧の獲得であり、「解脱の瞑想」 であった。

いかがであろうか? すばらしい体験だとあなたは思わないだろうか? れが仏陀の瞑想なのである。そうしてだれでも、仏陀の瞑想をすればこういう境 地に達することができるのだ。

だが、そういうと、あなたはいうかもしれない。釈尊のような大天才と、凡人 であるわれわれと、どうしていっしょになるものか、釈尊がそういうすばらしい 体験をしたからといって、それがそのままわれわれに通ずるとはかぎらないの だ。むしろ、鶏のまねをするカラスで、けっきょく、骨折り損のくたびれもうけ ということになるのではないか、と。

そうではないのである。

釈尊とおなじ瞑想をすることにより、われわれもまた彼とおなじ結果に到達す ることが可能なのである。 最初の道を切り開くものは天才でなければならぬ。 し かし、すでに天才の開いた道は、だれでも歩むことができるのである。

 

 

 

 

Since then, My heart has been directed to all aspects of sentient beings. I saw that face with superhuman eyesight. There swirled the karma of the noble, the humble, the beautiful, the ugly, the happy, and the miserable. This is the second wisdom.

degree

After that, I came to know the Four Paths of Suffering and Destruction (Four Truths) as they were, and my mind was completely freed from all aspects of existence, and I never clung to them again. This is the third wisdom.

Through his meditations, the Buddha sees the scenes of his previous lives, which have been transformed into the rebirths and deaths of his second, third, ten, twenty, and even infinite lives. He sees not only himself, but all human beings in their previous and subsequent lives.

The Buddha is not telling fairy tales or parables here. If you practice Shakyamuni Buddha’s Dharma, you will soon find out its truth. Through his training, I have become able to see myself, three or four generations before and even the next generation.

Human life, as many people think, does not end with just one lifetime. After one life is over, one moves on to the next life form.

Many people are unaware of this and believe that human life is over in only one lifetime. Here lies a crucial and fatal flaw in the view of life.

 

Spirituality is the nature of knowing it.

It is the ability to know where people come from, where they leave, and where they are going.

 

It is the wisdom to know the so-called arrival and address. Once people have this, they will naturally understand what they should do and what they should not do, and that is where true progress and development of human beings will begin. Without it, human beings do not make any progress or develop spiritually, and continue to wander endlessly in circles in the low places.

It is. No, that’s not all. As a result, human beings

He will destroy the world with his own hands.

This ignorance is what the Buddha called ignorance (avidya).

Drosophila Logic

 

“The word ‘ignorance’ has two meanings.

Total ignorance and total darkness.

“Ming” has two meanings: wisdom and light.

Lacking the wisdom to perceive the truth, he walks fumbling in pitch darkness. Is it not so with humans? He does not know where he is coming, he does not know where he is going, he is only present. In the present, he is frantically pursuing immediate profit. As a result, where he will go, what kind of world he will exist in, and what kind of life form he will exist in, the future is completely dark. The “third eye” sees through the dark world ahead. There is no darkness in the “third eye”. You can see it as clearly as it is at noon.

Strange as it may seem, every time I think of Buddha’s ability to see through his ten or twenty lives, I think of fruit flies.

Drosophila have an extremely short generation. Usually, one generation is only about one month. So you can see the transition of dozens of generations in a short time.

So biologists and geneticists use fruit flies to experiment with the changes. It is possible to see with one’s own eyes what kind of results a change in one gene will produce in dozens of generations.

So is the wisdom of the Buddha.

Nyojitsu

Like him, if you have the power to see the transitions of dozens of generations of human beings, you will be able to understand how a single cause has led to what kind of process and what kind of result. You can know in detail. As he actually says, what was the name of that person, when and where was he born, what kind of life did he lead, and what kind of life did he end his life, and what kind of life did he face again, a certain life What kind of

It is

Across all human beings, what the result of the action was in the next lifetime

can know. This is the real deal.

From Buddha Meditation to Reincarnation Meditation

It can be said that the deepening of Shakyamuni’s meditation and the lively speech meditation are all expressed here in the Middle Agon Sutra “Huang Roen Sutra” that I mentioned earlier.

Jumping over the 21st-century gap in time and space, dear readers, this is what meditation really is. This is where meditation is all about.

Let us delve a little deeper into this experience of Buddha.

Buddha’s meditation experience has five stages

Here, the depth of meditation and its results are vividly told.

first stage

1. To be able to continue devoting oneself to one purpose at all times, to be able to consolidate one’s thoughts,

3 His body is easy and restless.

second stage

4. The mind is always calm and quiet.

From the first meditation to the second, third, and fourth meditation, it gradually deepens,

1. Nothing comes to mind,

2, only joy and pleasure,

third stage

3. At last filled with nothing but pure thoughts,

4. Not a single point of blemish, clean and bright, absolutely immovable.

Then the eyes of my heart opened,

1. The scene in my previous life begins to unfold.

fourth stage

2. It is not only a lifetime

Ascending, the spectacle of an infinite life, transformed into rebirth and death, unfolds.

sokiyuu

It was a retrospective to the root of life and the acquisition of the first wisdom.

The mind’s eye expands further and further, transcending the limits of one’s ability to see the past and the present.

And all the people flowing into the future are seen through.

karma

It was a grasp of the substance of the lodging that regulates existence.

This is the acquisition of the second wisdom.

fifth stage

I then

karma

Geda

1. Clearly know the four truths that will free you from karma,

2. Completed commentary and transcendence from all beings.

It was the acquisition of the third wisdom, “meditation of liberation”.

What do you think? Isn’t it a wonderful experience for you? This is Buddha’s meditation. So anyone can reach this state by meditating on the Buddha.

But then you might say, How can a great genius like Buddha and ordinary people like us get together? Or rather, a crow imitating a rooster, and in the end he would end up getting tired of his unsuccessful efforts.

It is not so.

By doing the same meditation as the Buddha, we can also reach the same results as he did. A genius must be the one who paves the first path. However, anyone can follow a path that has already been opened by a genius.

 

 

 

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Buddha  Japan Journal

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大日如来の智慧を表現した「金剛界」 .一印会 “Kongokai” expressing the wisdom of Dainichi Nyorai.Ichiinkai

 

胎蔵界曼荼羅 たいぞうかい Womb Realm Mandala Taizokai

 

空海の求聞持法

空海の求聞持法

 

 

彼は求聞持法の行法に挑んでいた。だが、それはただの方法論に過ぎず、真の秘密はそこに書かれていなかった。行法次第を読むと、その冷酷で鋭い知性の目が、まるで未来を見据えているかのように、ただ努力を促すだけだった。見つけ出すべき秘密は、ただ自らの鍛錬と試行錯誤によってのみ発見されるものであり、それにふさわしい者だけがその力を手に入れる資格があると感じた。

覚という名の僧侶は、この難解な行法を七度試みては失敗し、八度目にしてようやく悉地成就を得たと伝えられている。もしそれがなければ、覚のような天才でも七度も失敗することはなかっただろう。

二度目の修行で、彼は古代ヨーガの技術を取り入れることを決意した。五十日の行法の後、求聞持法は成就しなかったが、その方法が誤りではなかったことを確信した。彼は、この技法で必ず成就すると確信し、それを積み重ね、延長していけばよいと固く信じた。

彼の技法では、従来のように山に籠もって五十日から百日、明星を拝み続ける必要はなかった。閑寂な部屋であれば、時と場所を選ばずに行うことができた。ただ、最初の三日から七日間だけは山居し、明星を深く脳裏に留めておけばよかった。あとは日常生活の中でトレーニングを積み重ねれば、三十日、五十日、一〇〇日、あるいは千日かかろうとも、それでよかった。

この発見は彼にとって画期的だった。これがなければ、法はついに民衆とは無縁のものになってしまう。五十日、百日、特定の山に籠もらなければ成就しないというのでは、ごく限られた者しか参加することができない。法の存在価値は民衆との関わりにある。彼はこのシステムによって、この法を完成させる必要があると決意した。それは法のために、民衆のために、どうしても成し遂げなければならないものだった。

三度目の修法に挑む彼の心は決まっていた。百日目、彼の法のシステムによる百度目のトレーニングが行われた。真言宗に伝わる求聞持法の九種の印明、古代ヨーガに伝わる特殊な呼吸法、そして彼が創案した特殊な手印とポーズの三つを組み合わせたトレーニングで、彼の身体と大脳皮質には微妙な変化が起こり始めていた。チャクラの開発も順調に進んでおり、彼の六感は機が熟しつつあることを感じ取っていた。

まどろみの中、彼は何かしらの感覚を得た。それは眠りではなく、しびれに似た感覚だった。軽い失心、めまい、そして忘我の一瞬。刹那の間、彼は苦痛の叫びを上げた。脳の一角に電流が走るような感覚があり、落雷を受けたかのように目の前に紫電が走った。そして次の瞬間、彼の視界は真っ暗になった。

「失明か…?」

彼の脳裏に一瞬よぎる。しかし、その時、頭の内奥深くにポッカリと灯りがともった。それは彼の脈拍に合わせ、静かにまたたき始めた。ちょうどこの修法を始める数十日前、山に籠もって見つめたあの明星のように冷たく、黄ばんだ白さで輝いていた。

彼はその瞬間に悟った。

「そうか!これが明星だったのか!」

彼は歓喜の声を上げた。そして、ついに明星の秘密を発見したのだと。

今日の運命  2024年8月20日 本日は普賢菩薩の日です。

今日の運命  2024820

本日は普賢菩薩の日です。

二黒土星の日

仕事の事、旅行の事、病人の事、などが出やすい日。こみいった事が多い。いそがしい割に成果は少ない。 短慮は禁物。いやな仕事も進んで引き受ける位の気持ちが大切。

再生の週 成の日

仕事や計画が達成される日

これまで積み重ねていたことが実を結び達成される日です。同時に、新しいことへの興味が芽生える日でもあるので、実現に向けたプランを立てたり、イメージをふくらませるとよいでしょう。頓挫していた計画や諦めていたことにもう一度チャレンジできる日でもあります。思いがけない人の助けや新しい発想に恵まれて、新たな展開が期待できます。外部からの援助に恵まれる日なので、報連相はこまめに行い、小さな情報でもキャッチする積極的な姿勢を心がけてください。

Today’s Destiny

Today is the day of Bodhisattva Samantabhadra.

The day of the Earth Star of Two Black

A day when work, travel, illness, etc. are likely to come up. There are many complicated things. Although you are busy, there are few results. Don’t think short-sightedly. It is important to be willing to take on unpleasant work.

Week of Rebirth – Day of Completion

A day when work and plans are accomplished

It is a day when the things you have accumulated so far will come to fruition and be accomplished. At the same time, it is a day when you will become interested in new things, so it is a good idea to make plans to realize them and expand your imagination. It is also a day when you can try again to tackle plans that have been stalled or things you have given up on. You will be blessed with unexpected help and new ideas, and new developments are expected. It is a day when you will be blessed with outside assistance, so be diligent in reporting, communicating, and being proactive in catching even small pieces of information.

今日运势

今日是普贤菩萨日。

二黑土星日

工作、旅行、疾病等很可能接踵而至的一天。复杂的事情很多。虽然忙碌,但成果却很少。不要目光短浅。愿意承担不愉快的工作很重要。

重生周-完成日

工作和计划​​完成的一天

这是你迄今为止积累的事情结出硕果并完成的一天。同时,这也是你对新事物产生兴趣的一天,因此制定计划来实现它们并拓展想象力是个好主意。这也是你可以再次尝试解决停滞不前的计划或放弃的事情的一天。你会得到意想不到的帮助和新想法的祝福,预计会有新的发展。 这是你将得到外界帮助的幸运之日,因此要勤于报告、沟通,并积极主动地获取哪怕是很小的信息。

普賢菩薩

あらゆる場所に現れ、命あるものを救う慈悲を司る菩薩

名サマンタバドラ (Samanta bhadra) の「サマ 「タ」は「く」、「バドラ」は「賢」と漢訳しま す。 「賢」とは具体的には「さとりを求める心か 起こる、成仏しようとする願いと行ない」のこ とです。それが、ときとところを選ばず在して いるということを象徴したのがこの菩薩です。 で すから、菩薩行を実践する者をつねに守護するほ とけでもあります。

白象に乗り、文殊菩薩とともに釈迦如来 の脇侍をつとめます。 文殊菩薩のに対して、 (行)をつかさどります。

なお、密教では、堅固不壊の菩提心を象徴する

金剛薩埵と同体とします。

と巳年生まれの人の守り本尊とされていま

 

普賢菩薩(ふげんぼさつ)とは?

普賢とは「全てにわたって賢い者」という意味で、あらゆるところに現れ命ある者を救う行動力のある菩薩です。

 

文殊菩薩とともに釈迦如来の右脇侍として三尊で並ぶことが多いですが、独尊で祀られる場合もあります。文殊菩薩の智慧とともに修行を司る菩薩として、明晰な智慧で掴み取った仏道の教えを実践していく役割を果たすとされています。また、女性の救済を説く法華経の普及とともに女性に多く信仰を集めました。

 

ちなみに普賢菩薩から派生した仏に延命のご利益のある普賢延命菩薩があります。

ご利益

女性守護、修行者守護、息災延命、幸福を増やす増益のご利益があるとされています。また、辰・巳年の守り本尊です。

普賢菩薩(ふげんぼさつ)の像容

白象に乗っている姿が一般的です。3つや4つの頭の象に乗っている場合は普賢延命菩薩像の可能性が高いです。

 

薬師如来

 

 

薬師如来

オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ

東方浄瑠璃世界の教主で、正式名を薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)といいます。

 

病気を治して衣食住を満たすという「十二の大願」を立て、生きている間に願いを叶えてくれます。阿弥陀如来のように死んだ後にやすらぎを与えるのではなく、現世にやすらぎを与えてくれるのが特徴です。昔の作例はとくに病気平癒を願ったものが多数存在します。

 

日光菩薩と月光菩薩を脇侍として三尊として並ぶことが多いです。さらに、7体の薬師如来で息災・増益を祈願する修法の本尊である七仏薬師というものも存在します。また、眷属として十二神将を従えています。

オン・コロコロ・センダリ・マトウギ・ソワカ

この文章をの作詩ください。
歌詞はイントロ4行、サビ4行してください。

薬師如来の心の底から起こってくる願い、誓願であって、社会の最下層の人々、虐げられて痛ましいチャンダリマータンギの人々こそ救われて欲しい、その人たちが救われるならば、すべての者たちもより良くあるはずである、そしてすべてものたちの悩み苦しみがなくなり、生きとし生けるものたちが幸せであって欲しいというお薬師さまの願いを最も短い言葉で表現したものに違いないと思ったのである。

では、チャンダリとは何であろうか。candāliを『梵和大辞典』(山喜房仏書林)には、旃陀羅家女とあり、candālaには、社会の最下層の人(シュードラの男とブラフマナの女との間に生まれた混血種姓にして一般に蔑視し嫌悪せられる)とあり、漢訳では、屠種、下賤種、執暴悪人などとある。現代ヒンディー語でチャンダーラと言えば、不可触の一種姓を指す。また、マータンギは、mātangaを大辞典で引けば、象、または象たる主な最上の者とはあるが、最下級の種姓の人[candāla]ともあって、漢訳にはやはり下賤種、旃陀羅摩登伽種とあり、チャンダリとマータンギはインド社会の中で最も虐げられた下層の人々を指すと考えられよう。なお、スヴァーハーとは、svāhāを大辞典で引けば、幸あれ、祝福あれと訳すようだが、現代ヒンディー語では、供儀の際に発する言葉であり、(神に)捧げ奉ると訳す。

薬師如来(やくしにょらい、サンスクリット語: भैषज्यगुरु、Bhaiṣajyaguru[1]、バイシャジヤグル)、あるいは薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)は、大乗仏教における信仰対象である如来の一尊。大医王、医王善逝(いおうぜんぜい)とも称する

 

オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ()[注釈 2][注釈 3][4]

※「センダリ」「マトウギ」とは、病気の原因たる病原体や災厄の意味であり、同語で表される被差別階級の意味はここでは有しない。

中咒(台密)

On, Corocoro, Sendari, Matougi, Sowaka