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準胝観音

 

 

準胝観音  チュンディー
On Sharay Shuray Juntei Sowaka

**イントロ:**

無数の手が舞い踊り
慈悲の光を届ける
遥かなる時を越え
すべての魂を守るため

**サビ:**

準胝観音よ、清浄の光
七倶胝仏母、永遠の母
全ての命を救うため
その慈悲は無限の愛
On Sharay Shuray Juntei Sowaka

On Sharay Shuray Juntei Sowaka

On Sharay Shuray Juntei Sowaka

On Sharay Shuray Juntei Sowaka

On Sharay Shuray Juntei Sowaka
On Sharay Shuray Juntei Sowaka

On Sharay Shuray Juntei Sowaka

仏の母といわれ母性を象徴する安産・子授けの観音菩薩

准胝観音(じゅんていかんのん)とは?

准胝仏母(じゅんていぶつも)・七倶胝仏母(しちくていぶつも)ともいいます。もとはヒンドゥー教の女神であるドゥルガーで、シヴァ神の妃とされています。とても美しい姿ですが、神々の武器を持って魔族を倒した戦いの女神です。そのため本来は女尊であり、観音ではないという指摘もあります。しかし、ここでは観音として紹介しますね。

 

仏教に取り入れられてからは慈悲深い清浄をもたらす神とされ、七倶胝仏母(しちぐていぶつぼ)ともいわれています。これは遙か過去より多くの仏を誕生させた仏の母という意味です。そのため、真言宗系では人道を救済する六観音(聖観音・千手観音・十一面観音・如意輪観音・馬頭観音・准胝観音)に数えられますが、天台宗系では准胝仏母といわれ如来に分類されています。不空羂索観音と合わせて七観音と呼ばれることもあります。

ご利益

修道者守護、無病息災、延命のご利益があり、安産や子供が授かるなどの功徳があります。

 

空海の孫弟子にあたる理源大師(りげんだいし)聖宝は修験の僧として知られ、自ら霊木を刻んで祀ったのが准胝観音と如意輪観音でした。経典には、修験者が准胝陀羅尼を唱えれば身が清浄となり成仏できると説かれています。また聖宝は醍醐天皇の皇子誕生を准胝観音に祈願し、のちの朱雀、村上両天皇が誕生したといいます。そのため一般的には子授け、安産としての功徳が知られています。

准胝観音(じゅんていかんのん)の像容

手は18本で3つ目の姿であることが多いです。中央の手は説法印と施無畏印をとります。また持ち物は武器や数珠、蓮華などを持っています。

 

 

 

 

 

未来社会の安心”

未来社会の安心”

あんじん

いまやわれわれは二つの危機的な問題をかかえているわけである。

一つは、われわれをとりかこむ環境から生ずる抑圧と葛藤、

もう一つは、生まれながらにして自分自身の深奥に持つところの、祖先の抑圧意識による葛藤で

この二つは、今後ますますエスカレートしてゆくのにちがいないのである。

われわれはこれにどう対応してゆくべきか。

二つの能力を持つよりほか、方法がない。

一つは、増大する情報を迅速機敏に処理し解決してゆく知的能力である。

もう一つは、情報処理にあたって生ずる心情的ひずみ、つまり、潜在意識・深層意識に生ずる 抑圧と葛藤を消滅する情・意(こころ)の能力である。

この二つの能力を持つよりほか、この危機を乗り越えることはできない。そうでなければ、ひと 落伍し、社会は崩壊するよりほかないであろう。

では、われわれは、どのようにしたらこの二つの能力を持つことができるのか?

教育がそれを果たし得ないことは、すでに現実が証明している。 科学もそれをなし得ない。いや、

教育も科学も、むしろ、抑圧や葛藤を深める源泉であることは、いまさらフロイトの言葉を引用す るまでもないことだ。宗教がそれをなすよりほかないのである。

しかし、それも、いままでのような、念仏をとなえ、題目を唱して仏にすがり、あるいはひた すら神にいのりをささげるといったパターンの宗教では、まったく問題にならない。今後こういう パターンの宗教は、急速にその存在価値を失ってゆくであろう。いままでは、こういうパターンの 宗教でも、存在価値はあった。 辛うじて、情意の面においてひとびとに慰安と鼓舞をあたえ、いわ ゆる“安心”という名のこころの安定をあたえてきた。

けれども、未来社会に生きる人びとの真の“安心”は、いままでとまったくちがって、単に情意 の面だけにはたらきかけるだけのものでは得られないのである。 未来社会に生きる人びとの“安 心”は、高い知的能力がともなうことにより、はじめて得られるのである。 それは、飛躍的に増加 するあらゆる情報を的確迅速に処理してはじめて得られる“安心”である。

あらゆる情報を的確迅速に処理するとは、どういうことか? それは、あらゆる問題を的確迅速 に「解決する」ということである。それには、自分自身がより高度の知能を持つということ以外 方法がないではないか。考えて見たまえ。 殺倒する人生の諸問題 仕事・職場の問題、学業の間 題、経済的な問題、家庭の問題、健康の問題、その他人間関係全般に関する問題、等々、すべて、 自分自身が処理・解決しないで、いったいだれが解決してくれるのか? それらの問題を解決でき ないで、あるいはしないで、ひたすら題目をあげ、念仏をとなえ、神にいのりをささげているのは、 現実以外のなにものでもあるまい。だが、神サマや仏サマがなんとかしてくださるというなぐ

さめは、しかしそう長くはつづくまい。やがてきびしい現実といやでも直面せざるを得なくなる。

そのとき現実はまったく破局的な様相を以て君に迫るだろう。

わたくしはこれまでの章で、情報を処理するときに生ずる心理的抑圧といってきたが、これか らは、処理するときに生ずる抑圧ではなく、処理できないために生ずる抑圧

くるだろうと思うのだ。(いや、すでに現在そうなりつつある)

これを解決するためには、どうしても、知能そのものを高めるよりほかないのである。ところが、 いままでのいかなる宗教も、この、知能そのもの、いうならば知能の場そのものを拡大増強すると いう方法手段を持っていなかったのである。いや、それどころか、いままでの宗教のほとんどが、 それとまったく正反対のことをおこなってきていたのである。

すなわち、古いパターンの宗教は、ヒトから知的能力 知的要素を奪うことにより、安心”を あたえてきたのである。 せまい排他的・独善的な教義を押しつけ、社会的に盲目にさせることによ

安心”をあたえた。 その宗教集団でしか通用しない閉鎖的な世界観や価値観で目かくしして、 その中で、救われつつある”という錯覚を起こさせているのである。だから、その信者は、その 集団の群れの中にいるとき、あるいはそれを背景にしているときには強く有能に見えるが、そこか らはなれた場合、全く無力となり、ひいては劣等感を持つようなことになる。もしあるひとがその 宗教に入って高い知能や才能を発揮したとすれば、それは、その宗教のシステムによってあたえら れたものではなく、もともとそのひと自身が持っていた知能であり、才能である。それが、その宗 教により、情意の面の抑圧がとれて表面に出てきたものなのである。

ニー壊滅した修行の場”

こういう現実の上に立って、あきらかに密教でなければなし得ない大きな一つの力がある。 それは、密教が、ヒトの知能を飛躍的に増加拡大する求聞持明法というシステムを持っている ことである。 それは、同時に、深層意識の抑圧・葛藤をも除去する力を持つ。ということは、つま り、この章の冒頭にかかげた、いまわれわれが直面している二つの危機的な問題を解決する方法手

密教が現実に持っているということである。 未来社会において密教がはたす最大の役割りと して、わたくしが密教に大きな期待をよせるのも、この点なのである。わたくしは、密教こそ、 におし流されつつある人類に投げかけられた、最後の救いのロープのように思われてならない。 われわれは、力を寄せ合って、このロープをもっと強く、もっと太く、全人類がこれにすがってひ き上げられる強大なものにしなければならない。それにはいくつかの問題がある。

その最大のものが、修行する〝場〟の問題である。

はっきりいって、 求聞持法をするのに適した修行場は、現在、ほとんど無くなってしまった。 なんとかがまんできる程度のものが、わずかに一、二かぞえることができるが、これとても、いつ まで持つか知れないのである。あるいは、こうしてペンをとっている間にも、その環境は破壊され てしまっているのかも知れないのだ。

さきにもちょっと述べた通り、求聞持法の修得に最も大切なものは、修行する 「場」である。

行の場が不適当であったら、ぜったいに法は成就しない。 わたくしが、さきに、自分はラッキーで あったといったのは、偶然にもわたくしはその修行場にめぐり合えたからである。すこしオーバー ないいかただが、求聞持法の体得には、師よりも場のほうが重要だといってもいいほどなのである。 これは、伝統を守る密教のかたがたからみたら暴言だといわれるかも知れないが、わたくしの体験 である。ぜったいに師がなければ法が体得できないとしたら、いちばん最初に法を体得成就したひ とはいったいどうしたのかということになる。かれには師がいなかったのだから。

法を完全に成就した師がいれば、師が場の役をはたすことができる(くわしくは言わないが、だい たいおわかりになるだろう)。わたくしが師なくして体得できたのは、最高の修行の場を、偶然に得た ことと、それを感じ得た特異体質のおかげである。しかし、わたくしのこの貴重な修行の場も、い

昔日のおもかげはない。此処でひとにぎりの、すぐれた素質を持つ弟子たちを訓練することは できるが、それはそれこそほんのわずかな、ごくかぎられた人数であって、わたくしがかねて念願 とする、すべてのひとにあまねく密教の法をゆきわたらせようとすることは不可能である。 それに それにふさわしいべつな修行の場を見いださればならぬ。しかし、この地上、いずれのところに、 そんな場所があるであろうか。いまもなお聖者が住むという、ヒマラヤの奥地にでもいくよりほか あるまい。だが、そのヒマラヤの奥地さえ、最近は、海抜三千メートルの頂上附近にリゾートホテ ルが建ち、ヘリコプターが観光客を運んでいるという。ましてや、この過度に開発のすすんだ日本 列島のいずこにも、とうてい見あたりそうにはないのである。絶望である。

と、そういうと、どうしてそんなに修行の場にこだわるのか、なぜにそんなに修行の場所が重要

なのか、わからないというひとがいるかも知れない。 よろしい、 それでは、わかりやすい例をあげ 説明してみよう。 それはこういうことなのだ。

三新しい〝場〟の理論

ナイル川の西岸にあるピラミッドは、王たちのミイラを収容する墓として、ファラオたちによっ 築かれたものである。それは紀元前三〇〇〇年にさかのぼり、最も有名なものはギザにあるもの で、第四王朝の時代に建てられた。その中の最大のものは、ケオプスという名によってよく知られ クフ王を収容したものである。これは、現在では、大ピラミッドとよばれている。

数年前、ボビという名のフランス人がそこをおとずれ、真昼の燃えるような太陽からのがれるた め、ファラオの部屋に入った。 その部屋はピラミッドの中心にあって、その墓からちょうど三分 の一だけ上に位置していた。かれはそこが異常に湿っぽいことを知ると同時に、かれを非常におど ろかせ、かつ興味をいだかせるものをそこに発見した。それは、その湿っぽい場所に、カラカラに 乾いた小動物たちの半ミイラ状の死体がいくつかあったのである。それは、ピラミッドの中に迷い こんで死んだネコやその他の砂漠の小動物たちの死体で、旅行者たちが捨てるくず入れのカンの中 に投げこまれていた。 非常な湿気があるにもかかわらず、それらはまったく腐敗しておらず、古い ものはミイラのように乾ききっていた。これを見たかれは、周囲に手厚く葬られたファラオたちが、 完全なミイラ状を保っているのは、当時のミイラ製造技術者たちの特殊な技術によるものか、それ

密教と根本仏教

それはどのように修せられるかというと、一つの特徴として、一旦、定に入ると、外界になにが 起こってもそれに気がつかないのである。かれはこころの深奥においてべつな次元のものと結合し ているので、一切の感覚器官は内奥に向けられており、いかなる外界の出来ごとにも感応しないの

「昔、修行者アーラーマ・カーラーマは大道を歩んでいたが、道からそれて、ほど遠からぬとこ ろにある一樹のもとに、昼の休息のために座し、しばらくして定に入った。そのとき、 隊商の五百 台の車がアーラーマ・カーラーマの近くを通り過ぎた。 そこで、かの隊の車の後につき従って行 った一人の男が、アーラーマ・カーラーマに近づいた。近づいてから、アーラーマ・カーラーマに このようにいった。

『尊い方よ、五百台の車が通り過ぎたのを、あなたは見ましたか?』

「友よ、わたくしは見ませんでした』

では、尊い方、音を聞きましたか?』

「友よ、わたくしは音も聞きませんでした』

「では、尊い方よ、あなたは眠っておられたのですか?』

『友よ、わたくしは眠っていたのではありません』

「では、尊い方よ、あなたは意識を持っておられたのですか?』

友よ、その通りです」

三つの明知とは、

『それでは、尊い方よ、あなたは意識を持っていて、覚醒しておられても、五百台の車が近くを 通り過ぎたのを見られもせず、音を聞かれもしなかったのです。尊い方よ、あなたの上衣は (いっぱい) 塵におおわれていますね」

友よ、その通りです』」 (Digha-Nikaya, 130)

ところが、仏陀の定はそれ以上であった。 電光が閃き、雷電がとどろいて、二人の農夫と四頭の 牛が殺されたけれども、定に入っていた仏陀はそれに気がつかなかった。そこで、アーラーマ・カ ーラーマの弟子ブックサは感嘆していった。「ああ、実に不思議なことです。ああ、実に稀有なこ とです。ああ、実に出家者が心静かなすがたで定にし、実に意識を持っていて覚醒していな がらも、天が雨降らし、天が雷鳴し、電光閃き、雷電が裂けたとき、それを見ず、音をも聞かなか ったとは」 (Digha-Nikaya 132)

この瞑想法は、智慧の行とあわせおこなわれなければ効がないのである。効がないだけではなく、 有害な現象を起こすことがしばしばある。 その理由はまたあとで述べよう。 この瞑想法の一部の技 法が現代においてもおこなわれているが、かれらは智慧の行を知らぬため、効をあげ得ず、かつ、 いろいろな障害を克服できずにいる。

さて、智慧の行と、このシャマタ・ビバシャナの法により、修行は完成する。修行が完成すると、 「三つの明知」を体得する。

前世のありさま(とそこから生ずる現世における運命)を知ること(宿命通)

である。

死後の世界を見通すこと(すなわちこの次の生命の状態を知る) (天眼通)

生存の尽きてなくなることを確認する (完全に人間としての因縁を解脱し、涅槃に入る智を持

つ、聖人のみが持つ通力とされる) (福尽通)

しかし、ある場合には「三つの明知」として他のものをかぞえている場合もある。

仏陀の弟子であって三つの明知をそなえ、神通を得、他人の心のありさまを知り、

のけがれなくなった尊敬さるべき人は多い」

これは、後世の仏教語でいうと、1神足通と2他心通と編尽をあげているわけである。 世 においては、前にあげた三明知とこの三明知と(福尽通は重複) これに「天耳通」をくわえて「六 「大神通」という通力になった。

いずれにしても、仏陀の教団において修行を「完成した人」はすべてこういう超常的能力を持つ ようになったのである。このような能力は実際に当時の苦行者や修行者が大なり小なり具現してい たものであり、それらは仏教が究極的に目ざす『涅槃』そのものではないが、そこに到達するため にはぜったいに必要な力だったのである。

仏陀自身は「偉大なる苦行者」 「偉大なるヨーガの達人」としてそういう修行を完成しており、 を慕って集まってきた修行者たちは、仏陀のそういう修行の指導を期待したであろうが、それ 修行者たちの機根や素質は千差万別であり、仏陀はその差異に応じてあるいは教えを説き、ある いは修行の方法を指導したであろうと思われる。

だれにでも理解されやすい平易な教理や生活上の実践が、比較的能力の劣った弟子たちのために 説かれ、そうしてそういう弟子たちは多かったであろう。(八正道はそういう弟子たちに説かれた) 言葉では表現できぬ高度な方法は、ごく少数のすぐれた弟子たちにうけつがれたであろう。

では、その高度な方法はどうなったか?

それはずっとはるかのちに、仏陀のこの修行法を完全に理解しマスターし、同時に、文字による 表現の才能をあわせ持つ三人の天才があらわれるまで、世の表面から隠れたまま静かに流れつづけ ていたのである。

では、三人の天才とはだれであろうか?

それは、ナーガールジュナ(樹。 紀元一五〇~二五〇。のちに中観哲学とよばれた「空」の思想体系 づけた始祖中観)、アサンガ(無着。紀元四、五世紀 唯識思想を大成した人あるいは行 それに空海の三人である。

ナーガールジュナは『涅槃」を「空」としてとらえたのではない。涅槃にいたる「方法」を「空」 という面からとらえ示したのである。同じようにアサンガは「識」の面から涅槃に到達する方法を 示したのである。

では空海は『涅槃』をどうとらえたか。この天才はずばり「即身成仏」ととらえたのである。

ところで、いま、仏陀の教示した涅槃を、ナーガールジュナは「空」、アサンガは「空海は 「即身成仏」としてとらえたといったが、この三者の中で、仏陀の説く「涅槃』に最も近いものは 空海の即身成仏であろう。 最も的確にとらえているというべきだろう。ただし、空海のこの把握の 背景には『大日経』の出現がある。

といったほんきよう

「空」と「唯識」はそれぞれ中観派と瑜伽唯識派という二つの学派を生じたが、 七世紀の半ばに いたって、この二つの学派は融合し「瑜伽行中観派」となって『大日経』という後期大乗経典を 生んだ。そのなかだちをしたのが『勝』『大般涅槃経』などの如来蔵経典、あるいは唯識系中 大乗経典の『解深密経』であった。この時点で、仏陀の「秘密の教説」は世に出なければならぬ 機運をむかえたのである。

間もなく『金剛頂経』があらわれ、『大日経』とともにこの二つの経典はあらためて「密教経典」 という名で呼ばれることになった。この二つの密教経典の出現から間もなく『カマラシーラの修習 次第』がチベットで編まれた。空海が渡唐するわずか五十年ほど前のことである。 『カマラシーラ 修習次第』 真言宗密教のかかわりについて言及するひとはあまりいないが、これは、空海がシ ナから伝えた『阿字観』の原書ともいうべき重要な書であるとわたくしは見ている。(これについ てはまたべつな機会に筆をとる)

空海こそは、仏陀の秘密教説を世に出すための最も天運にかなった天才だったといえるであろう。

十一 アサンガの現身説法

かぼすぽんず ほうし でん

五四六年に中国に渡って、 『倶舎論』や、唯識如来蔵思想系の論書かず多く翻訳した西イン ド出身の僧パラマールタ(真)の著した『婆豆法師伝』には、ヴァスパンドゥの伝記ととも に、その兄アサンガの伝記も語られている。 それによると、アサンガは、インド北西境ガンダーラ 国のブルシャプラ(現在の西パキスタン、ペシャワール)に住む門カウシカの三人の子の長男に生 まれた。次男がヴァスバンドゥで、末子はヴィリンチヴァッサと名づけられた。 この末子について は、説一切有部(上座部系)において出家し、のちに阿羅漢になったという以外しるされていない。 アサンガはすぐれた素質にめぐまれ、かれも僧院仏教である説一切有部において出家し、定を めて間もなく欲望を離れた境地に達することができた。 しかし、かれは「空」の教理を理解し得ず、 絶望のあまり自殺をはかった。その時、東方のヴィデーハ国から来た阿羅漢ビンドーラ(賓頭) が、かれに小乗の空観を教えたので、かれはそれを実して、直ちに修得することができた。それ でもアサンガは満足できず、すでに体得した神通力によって兜率天にのぼり、そこに住むマイトレ ヤ菩薩に教えを乞うた。 マイトレーヤ菩薩から大乗の空観を教えられたアサンガは、再び地上に もどって、教えに従って悪し、やがて空の教理を悟ることができた。かれが思惟するとき、大地 六種に異動したという。

サンガはその後もしばしば兜率天にのぼってマイトレーヤに大乗経の教理をたずね、地上にも

どって人々に教えられたところを伝えたが、人々はその教えを信じなかった。そこで、かれは、マ イトレーヤにみずから地上にくだって大乗を解説し、人々に大乗の信を起させることを願った。 そ の願いをいれたマイトレーヤ菩薩は、中天竺阿陀国(現在の中インド Ayodhya, Faizabod) の大講 堂にくだり、夜ごとに大光明を放って、多くの聴衆を前に『十七地経』を出し、その趣旨を解説 した。その状景を、原書では、「有縁の大衆同じく一堂に会し法を聴き弥勒に近づくことを得るも、 見ることわざるあり。 或いは光明のみを見て相好を見ず教授を聞かざるあり。或いは相好を見る 法を聞かざるありと伝う」とある。

こうして夜はマイトレーヤの説法を一同で聞き、昼はアサンガが説法の内容について人々に解説 することがつづけられ、四か月かかって『十七地経』の説法は完了した。その結果、人々は大乗の 教えを信ずるようになった。アサンガはさらにマイトレーヤから日光三味を教えられて、それを 得し、その後は従来理解することができなかった教義をことごとく理解し、見聞することをよく記 して忘れないようになった。晩年のアサンガは、弟のヴァスバンドゥが小乗を信じて大乗を しているのに心を痛め、病にことよせて弟をアヨーデイヤーから呼びよせ、大乗の教義を説いて弟 大に誘引した。

以上が、『藪豆法師伝』にあらわれるアサンガの伝記の略であるが、アサンガが兜率天に のぼって、そこでマイトレーヤ菩薩から『瑜伽師地論』 その他の教えを授けられたことは、チベッ 伝にも語られている。また、アサンガ自身、当来仏(将来仏位をつぐ者として天にいる菩薩で

あるマイトレーヤから『瑜伽師地論』を聴講したと記し顕

ンドゥも、アサンガがマイトレーヤに事したと述べている。大論』帰敬) マイトレーヤとアサンガについてはむかしからいろいろな説がある。 マイトレーヤという名の実 在人物が数人いたという説、それが信仰上のマイトレーヤ菩薩(赤菩薩と混同したのだという 解釈、あるいはアサンガが弥勒菩薩の霊を受けて執筆をしたという説など、むかしから学者の間 論争されてきた。わたくしはいずれをもとらない。弥勒菩薩とアサンガとは同一人物で、弥勒菩 薩の説法は、アサンガが弥勒に変身して説法した「現身説法」であるとわたくしは断定する。この 技法がのちに空海につたわって、空海の「即身成仏」となってあらわれるのである。

仏陀ナーガールジュナーアサンガ 空海とつづく密教のこの特殊な技法の流れの経緯は、 またべつな機会に筆をとろう。

十二ー仏教復興運動としての密教

ナーガールジュナ アサンガと流伝して、空海にいたって大成した仏陀の秘密教説は、空海没し ここに一千二百年、時代の変化は、天才空海の確立した法に、きびしい変革を迫っている。

教はどのように変革されねばならぬか? わたくしは、密教の実践指導者としてわたくしなりの一 つの方向を本書で示した。それは、密教を以て世に立つ者として、だれしも一度は果たさなければ ならぬ義務であると感じたからである。

科学と技術の発達によって、物質的な能力を無限に拡大してきた人類は、いまや、科学と技術に 対する制御力を全く失った。科学と技術の持つパワーが、人間の持つパワーをはるかに超えてしま ったのである。このままでは、遠からず人類は機械の一部として生存をつづけることになろうと危 供されている。 人間の回復は能力の回復でなければならぬ。人類の持つパワーをはるかに超えてし まった科学と技術を確実に制御する、 あたらしい高度の力を人類はすみやかに身につけねばならぬ。 それなくしていくら「愛」を説き慈悲」を叫んでも、所詮は自己満足の域を脱せず、結局は口舌 の具に過ぎない。愛と慈悲を叫びつつ人類はすさまじい機械と技術と環境破壊の嵐の中に散り散り に散ってゆかねばならぬのか。

そうではないのである。

このとき、人間のワクを破るための、的確なシステムを持つ密教の再発見がある。これこそ、人 類の未来をきりひらくための唯一の宗教でなければならぬとわたくしは確信する。しかし、そのた めには、密教は一千年まえの古代仏教から脱皮せねばならない。このままでは、密教は、古代仏教 における一つの伝統形式として、過去の歴史の中に埋没してゆくよりほかないであろう。

このわたくしの考えかたを、あるいは、あまりにも便宜主義・能力主義であるとして、反発、批 難されるかたもおられるかも知れない。

わたくしは、密教を決して能力開発の面からのみ見て、これを便宜的に利用しようとしている のではないのである。また、密教を、ただたんに密教として説き布教しているのではないのである。 仏陀の根本教説の復興運動としての密教布教活動なのだ。

いままでにわたくしの述べてきたことをもう一度思い返していただきたい。

大乗仏教成立のあとをうけて密教が登場したのは、行法を欠いた仏教を是正するための仏教復 興運動であった。

その第一次復興運動の推進者はアサンガであった。 ナーガールジュナは、どちらかといえば理論 面における完成者であり、方法を完成に導いたのはアサンガである。

第二次の復興運動は、日本において空海がそれをなした。余談だが、わたくしは、空海をそのよ うに評価する。わたくしは、空海を、その宗門のひとびとがなしているように、単なる日本真言宗 密教の創始者としてあがめているのではない。 仏陀の根本仏教の第二次復興者として高く評価する のである。もっとも、空海自身はそれを意識せずにしたのであろうけれど。

しかし、この空海の仏教復興も、鎌倉時代にいたって、ふたたび大乗仏教教団にとってかわられ てしまった。歴史的にいうなら、これは仏教の後退である。なぜなら、『法華経』『無量寿経』を主 とする在家仏教教団にとってかわられてしまったからである。以来、密教は傍におしやられ、そ の位置に甘んじたまま、今日にいたった。

現在、日本仏教の主流は鎌倉仏教であり、それは重ねていうが、修行法を欠落した大衆部系の をよりどころにした仏教である。決して仏陀の正統な仏教とはいえない。

仏陀の行法を中心に編成された密教が、いまこそ出現しなければならぬ時期である。

第三次仏教復興運動としての密教の登場を、わたくしは叫んでいるのである。密教が仏教の主流 になることが仏教史的にいっても正しいのである。

である。

とはいえ、わたくしは、決して大乗仏教をいたずらに批難話しているのではない。 大乗仏教の 唯一の欠点は修行法を欠落していることである。しかしそれは密教にある。密教の修行法を、 大乗 仏教はとり入れればよいのである。そうしてそれはすでに上代において、賢明なる中観派、瑜伽 識派の大先輩たちがなしていることをひとびとは知らねばならない。(中観唯識派の成立)

すなわち、『法華経』の教義に密教の修行法をとり入れて成ったのが『大日経』であり、「胎蔵界 法」である。

『華厳経』の思想に密教の修行法をとり入れて成ったのが『金剛頂経』であり、「金剛界の法」

たいへん大雑把ないいかただが、これは決して間違いではないと確信する。

密教法を中心に、大乗の教えがあまねく地上全土にひろまってゆくすがたこそ、仏陀の根本教 説のまことのありかたであり、それが娑婆即浄土の実現であると確信し、その実現にわたくしは身 命をささげているのである。意のあるところを汲みとっていただければ幸甚である。

密教入門

念力の原子炉

にすぐれた潜在意識の用い方をしても、自分だけの力はタカが知れている。 法のシステムに

乗せてこそ、それは人間の力の何十倍という力を発揮するのだ。

このことを、弘法大師空海の師、恵果阿闍梨はこう表現している。

「顕教は長い道中を自分の足でトコトコ歩いてゆく。密教は法という大変な力と速度 を持つ乗り物に乗って忽ちのうちに目的地に着いてしまう。この法の乗り物を金剛 「乗”と言う」

といっている。密教の修行者が人間ばなれのした能力を発揮するのは、法のきびしい鍛練 によるものであることもちろんであるが、それ以上に、その秘密はここにあるのであって、 個人の能力を法というシステムで何倍にも拡大するのである。個人の力だけでは、磨り減り 消耗してしまうのだ。

まあ、そこで、クリスチャン・サイエンスや、「○○の家」では、全知全能のカミを想定 し、それをイノルことにより、それをまぬがれようとするのであろうが、それもまた漠然と したものであり、とうていシステムというようなものではない。密教における整然として 密に構成された近代的技法には較ぶべくもない。

とはいうものの、私は、けっして、クリスチャン・サイエンスや「○○の家」をけなして

いるのではない。低級なものだといっているのではないのである。むしろ、それは、心の使 い方の重要性をとり、それを説いているだけ、従来のどの宗教よりも密教に近く、すぐれ 教えだと思っている。それだけに、クリスチャン・サイエンスや「○○の家」で学んだ 人々は、普通の人々よりも心の使い方について理解があり、ある程度その力を身につけてい るものと思われるので、ねがわくば、密教の行法を修得して、その力をより高度に、より拡 大して、システムに乗せ、大いに発現してもらいたいものだと思うのである。

このことは、潜在意識だけではない。

深層意識の場合にも、そっくりそのままあてはまる。

深層意識を動かし、大随求法を修することにより、強烈な念力が生じてくる。

だが、その念力も、ただそれだけでは、それだけのものである。しょせん、限られたもの

また、大随求法の修行によらず、他の方法なり、あるいは先天的な素質などによってある

を終わろう。

程度の念力を持つようになった人もいる。だが、これもまた、それだけでは、ただ単なる強

念力の持ち主というだけにとどまったり、あるいは、せっかくの念力の使い方を知らず、 「念写」をしたり、物品引き寄せという手品みたいなことをしてみせるのにとどまってしま う。さらにまた、いたずらに執念、我執のつよい人間をつくり出すというマイナスの結果を 生じやすい。

密教は、大随求法というシステムで正しい念力を持たせると同時に、それで得た念力を 「念力の護摩法」というシステムでさらに十数倍も拡大強化し、その上で、 願望成就の行法 をおこなうのである。 いくら強い念力でも、それだけではタカが知れている。 そこで、金剛 乗という乗りものに便乗して活用するわけである。

念力の護摩は、火のエネルギーによって「個」の念力を拡大するのである。念のエネルギ 燃えあがる火のエネルギーに同化同調させて、無限に拡大させてゆく。

私は、念力の護摩は一種の原子炉だと思っている。 いや原子炉そのものに相違ない。 密教の学匠たちは、護摩法を、このようには説かない。それは、バラモン教のカーリー神 供養の秘儀から伝承したもので、仏教は、それを、加を焼きつくす法儀に変えたと説明す たしかにそれはその通りであるが、それはどこまでも、歴史的・学問的解釈で、修法の

上ではまったくべつな深い意義を持つのである。

ぼんのう

第一に、それは、いまいったように、念力を無限に拡大する機能を持つ。

第二に、護摩によって深層意識の開発をする。

さきの章で述べたごとく、護摩の火は、人々の深層記憶にひそむ太古原始の火と同調して、 深層意識をひき出すヒキガネの役を果たす。 護摩の大以外、深層意識に手をかける方法手段 はおそらく無いと私は思うのだ。大随求法の護摩は、まさに、そういうシステムの上に立っ て組まれている。みごとな条件反射の応用である。 パブロフが知ったら、色を失うにちがい ないのである。

指導霊・守護霊を持つ

そこで、これから密教修得に乗り出すあなたに、最良のアドバイスを二、三して、 この節

まず、念の使い方を体得することであるが、そのもっともよい方法として、導師の護摩行 には必ず参加して、導師の念力、念の波動をできるだけ吸収するように心がけることである。

法力ある導師は、護摩行によって念力を高め、法力を強める。その方法として、いま述べ たように、護摩の火の中に自分の力をたたきこみ、火のエネルギーが念力を高め、 拡 大 拡大した念力をわが念の中にとり入れ、それをまた火に投げこみ、さらに拡大してふ たたびわが念の中にとり入れる。これを数回くりかえすのである。

念力さかんな導師の修法中は、道場内が、念のエネルギーと火のエネルギーで震撼する。 法のなんたるかをまったく知らぬはじめての者でも、敏感な人は、その強烈な波動に圧倒さ

茫然自失、しばらくはバカみたいに立ちすくんでしまうことがよくあるのである。ガ アーンと頭を打ちのめされたようになって、軽い目まいをおこす者は毎度のことである。 道

おし

場内が、轟々たる心の波動の大暴風なのである。

最初は、師のできるだけそばにあって、波を吸収する。 ピリピリと全身で感ずる。その うちに、念の強弱、種類がわかってくるようになり、最後に、念力の使い方がだんだん呑み こめてくる。これは、修行者だけでなく、なにかの願望成就を願う者は、導師のそばに座し、 導師の念力を受けるようにするのがよい。 導師の念力念波に便乗するわけである。

つぎに、法力のある導師が修法をはじめると、最初に、導師の指導霊、あるいは守護霊が 火焔になってあらわれる。 火焔がその形になるのである。指導神・守護神といってもよい。

つづいて、そのつぎに、導師がその修法の時に召請でいる本尊のすがたが火焔になってあら われる。

スピリット

これは気のせいとか、目のせいでそのように見えるというようなものではなく、その瞬間 カメラを向ければチャンと写るだけの客観性を持っている。一種の精霊である。

ろうぎんぎょう

天台宗の高僧方が、籠山行でホトケを見る修行を一心にする話を読んだことがあるが、 自分ひとりホトケを見奉るのもたいへん結構あるが、密教には、自分だけがホトケを見る だけでなく、他の第三者にもホトケを見せるだけの法と力があるのである。

その導師の指導霊・守護霊の分身をいただくように心がけるのである。もちろん、ただボ カンと見とれていただけては、分身、分霊はいただけない。火焰にあらわれる精霊が見え るようになったら、導師におねがいして分身をいただく行法を教えてもらうのである。 そう すれば、あなたも、背後にあって指導してくれる精霊を持つことができ、その後の進歩は目 ざましいものになる。

時には、導師が、自分の指導霊ではなく、あなた自身にもっとも縁のある、 というのはあ なたに適応したということであるが、そういう菩薩の精霊をさずけてくれることもある。

指導の精霊を持つようになると、護摩行のとき、(自分がかずに脇導師の場合でも)火焰

 

 

未来宗教

**イントロ:**
静寂の夜に祈る影
心の奥、深く潜る
抑圧された想いを抱き
密教の教えに導かれる

**サビ:**
昇華される魂の力
未来を照らすその技法
言葉を超えて触れる真実
即身成仏への道しるべ

 

 

その夜、静かな寺院の中で、僧侶たちは心を鎮め、深い瞑想にふけっていた。古くから伝わる密教の教えが、この場を包み込んでいる。外の世界では、社会の慣習や圧力によって抑圧された感情が、時に戦争や迫害、あるいはささやかな日常の中で思いがけない形で表れる。しかし、ここでは、それらのエネルギーが別の形で扱われていた。

僧侶たちは、静かに座し、深い意識の層に触れるための特別な技術を使っていた。密教の技法は、新皮質を使わずに、直接大脳辺縁系の深い層へと働きかける。彼らはその技術を通じて、抑圧された欲望を昇華させ、そのエネルギーを即座に変化させることができる。これこそが、密教の本質であり、「即身成仏」として知られる境地だった。

「大随求法」と呼ばれるこの技法は、言葉や理屈を超越し、深層意識と直結する技術である。そのため、それは単なる「教え」ではなく、「技術」そのものであった。密教の僧侶たちは、この技術を駆使して、深層記憶や深層意識を自由にコントロールし、社会の中で抑圧されたエネルギーを昇華させることができた。

「密教は、未来を見据えた宗教だ」と、師は静かに語った。「単なる祈りや儀式ではなく、他に類を見ない高度な組織と技法を持っている。これこそが、真の『即身成仏』の道であり、人々が探し求めるべき未来への鍵であるのだ。」

その言葉に、若い僧侶たちは深い理解と敬意を感じた。彼らは、密教が持つ力とその可能性を目の当たりにし、その道を進むことを決意した。

外の世界では、社会の中で抑圧された感情がさまざまな形で現れるが、密教の僧侶たちは、静かにその力を内なる世界で昇華させることを選んだ。これこそが、密教の持つ「方法」であり、その先にある真の悟りへの道であった。

この文章をの作詩ください。
歌詞はイントロ4行、サビ4行してください

その夜、静かな寺院の中で、僧侶たちは心を鎮め、深い瞑想にふけっていた。古くから伝わる密教の教えが、この場を包み込んでいる。外の世界では、社会の慣習や圧力によって抑圧された感情が、時に戦争や迫害、あるいはささやかな日常の中で思いがけない形で表れる。しかし、ここでは、それらのエネルギーが別の形で扱われていた。

僧侶たちは、静かに座し、深い意識の層に触れるための特別な技術を使っていた。密教の技法は、新皮質を使わずに、直接大脳辺縁系の深い層へと働きかける。彼らはその技術を通じて、抑圧された欲望を昇華させ、そのエネルギーを即座に変化させることができる。これこそが、密教の本質であり、「即身成仏」として知られる境地だった。

「大随求法」と呼ばれるこの技法は、言葉や理屈を超越し、深層意識と直結する技術である。そのため、それは単なる「教え」ではなく、「技術」そのものであった。密教の僧侶たちは、この技術を駆使して、深層記憶や深層意識を自由にコントロールし、社会の中で抑圧されたエネルギーを昇華させることができた。

「密教は、未来を見据えた宗教だ」と、師は静かに語った。「単なる祈りや儀式ではなく、他に類を見ない高度な組織と技法を持っている。これこそが、真の『即身成仏』の道であり、人々が探し求めるべき未来への鍵であるのだ。」

その言葉に、若い僧侶たちは深い理解と敬意を感じた。彼らは、密教が持つ力とその可能性を目の当たりにし、その道を進むことを決意した。

外の世界では、社会の中で抑圧された感情がさまざまな形で現れるが、密教の僧侶たちは、静かにその力を内なる世界で昇華させることを選んだ。これこそが、密教の持つ「方法」であり、その先にある真の悟りへの道であった。

幻の法を求めて 2 密教こそ唯一の未来宗教

私たちを教育したり、お説教したりして、いたずらに抑圧と葛藤をおこさせて、私たちの はたらく意欲と力をそこなうようなことはやめてほしい。

それよりも、私たちの力をひき出し、高めて、私たちの力を思うぞんぶん活用する方 法>を使って下さい。

そういう方法がたしかにあるのだから。

今日は、あなたにモンクをつけにきたんじゃない。それを教えてあげたいと思ってやって きたんだ。

それでは、さよなら さよなら、さよなら」

とどこかで聞いたような声でそうくりかえしながら、海馬氏はすうっと消えていった。

3 密教は旧皮質に直接アタックする

「なんだ夢だったのか」

私は、初夏のこころよい風に吹かれながら、書斎でうたたねをしていたのであった。原稿

用紙が数枚とびちっている。

夢かと私はつぶやきながら、しかしまた同時に、待てよ、と思った。 これは、原稿に 苦しんでいる私を見かねて、私の深層記憶の海馬氏が助けに出てきてくれたのではなかろう そういえば、私の言いたいことをすべて私以上によく語ってくれている。もうあらため 私の言うことはない。 そうだ。 海馬氏の言ったことをそのまま書けばよいではないか。 そ こで、といったわけである。

ところで、あなたは、この海馬氏の主張を、たんなる夢ものがたりと読みすごしてしまっ てよいであろうか?

そうはいかないようである。 三三七ページのジャン=ポール・シャリエの文章をもう一度 読みかえしていただきたい。

「第一に、抑圧は心理的葛藤を生じさせる。••••••抑圧された諸傾向は、決して消滅する

ことはなく、社会的習慣の背後に身を潜め、思いがけないきっかけを利用して外に表わ れてくる。その表われ方はさまざまで、ときには、遊戯、戦争、迫害などの形ではし ほとばしり出たり……あるいは、言い間違い、失錯行為、神経症的行動となって浮か びあがってくる。 ……」

これらの抑えつけられたエネルギーは、人間の高尚な活動、すなわち芸術的・科学的・技

術的・宗教的活動などに昇華されることもあるが、かんじんの、

「文化は大体においてこの任務をしくじっており、われわれの不安、苦悩、暴力の原因 はそこにある」

これは、文化と教育が、新皮質の知性と理性を通じて大脳辺縁系の深い層の意識を抑圧し その反発が起きることを意味する。

「まず第一に、教育は無意識の感情層を知らず、子どもに精神外傷を与える」

おなじことをいっているわけて、教育とは学校教育だけにかぎらず、道徳や宗教の教え ることはすべてこの場合教育であり、おなじように、子どもとは、年齢の問題ではなく <教える〉ことを受けるがわは、すべて<子ども〉ということになる。

第二に、社会の中で抑圧された深い層のエネルギーを、高尚な活動に昇華できるのは、ほ んのわずかなエリートだけであって、ほとんど、

「大部分の人間は、依然として社会的・道徳的・宗教的拘束のもとに生活しており、な ぜそうしなければならないのかの理由を理解できず•••• 大衆の精神的みじめさと不安定 はそこから生ずる」

「こころ

あらゆる〈教え〉は、それが道徳であっても宗教であっても、深い層の意識にとっては拘 抑圧しかなく、それの強制は、人間にとって、不幸と不安とみじめさを増大するだけ だといい、

「第三に、社会的制裁は、つねに宗教的おどしと組み合わさっており、人間を二度 ふたたび立ち直れないほど責めさいなむ。そのため、病的な集合的罪悪感がはぐくま 重大な精神的不安の原因となる」

社会的制裁とは、社会通念上の道徳観念をさし、宗教的おどしとは、キリスト教における 原罪思想、ある種の仏教団体などが強調する法罰法思想である。

その結果生ずる「病的な集合的罪悪感」「重大な精神的不安」は、たんなる精神上の不安 や昏迷だけを生ずるのではなく、肉体上にも、医学で解決できない多数の心因性疾患を生み 出すのである。

以上の結論するところのものはなんであろうか。

要するに、教育と、〈教え〉を主にした宗教の完全な敗退である。

そして、その敗退をごまかそうとして強調する原罪や法罰などの宗教的おどし、制裁を

てつけつ

近代心理学はようしゃなく別抉して否定する。 そういう宗教はけっして現代の人間を救うも

それはともあれ、

のではなく、かえって混迷におとしいれる前時代的なものであると結論する。百年、二百年 前の素朴単純な人々は、そういうもので人生の悩みや矛盾を抑圧され、まぎらわされていた であろうが、複雑な精神機構を持ち、高度な教養と合理的精神をそなえるようになった現代 人にとって、そんなものは〈まやかし以外のなにものでもない。

実際、それは、新しい地獄ゴクラク論ではないか。それは、数百年前の人々を教えみちび いた地獄ゴクラクの教育譚を、新しく粉飾してさし出したものにすぎない。たとえどんなに 理論化して、巧妙に表現したところで、それは、新しい地獄ゴクラク論である。 法罰とか、 法などということで、人生の矛盾に悩み苦しむ大衆を恫喝し、抑圧してひっぱってゆこう とする宗教団体の人々、ことにその指導者にたいして、私は、つねにいぶかしく思うのだ。 この人たちは、深く自分をかえりみて、恥ずかしいと思ったことがないのであろうか?

もう

自分たちの主張するそういうものを、心の奥そこから深く信じて少しもうたがわないとす れば、それは、まさにおどろくべき無知と迷妄に満ちた精神というよりほかなく、もしも信 じておらずに、その職業的立場からやむをえず主張し叫んでいるとすれば、虚妄以外のなに ものでもない。いずれにしても現代の宗教家として恥ずべきことではないか。

マスゲーム

抑圧され、さらに宗教的おどしによっていっそう圧迫されたエネルギーを転化するために、 きびしい布教活動に追い立て、「病的な集合的罪悪感」をまぎらわすために大声で戦闘的な 歌を合唱させ 団体競技や大集会をもよおして欲求不満をごまかそうとする。もしそのよう 宗教があるならば、それは、抑圧されたエネルギーをまぎらわしているだけで、まぎらわ されたエネルギーは、けっきょく自分自身をきずつけるのだと近代心理学はきめつけるので ある。

それでは、密教はこれにたいして、どのような方法で対処するのか?

こころ

大脳辺縁系の深い層の意識にじかにはたらきかけるのである。

こころ

教えの宗教の欠陥は、新皮質の「知性・理性」を通じて深層意識にはたらきかけよう とするところにある。これが、新皮質とはまったく異質の機構を持つ深い層の意識に抑圧と 感じられ、葛藤をおこし、反発のエネルギーを生ずるわけである。

密教は、まったくちがう。

在に動かすのである。

新皮質を使わずに、深い層の意識に、じかにはたらきかけるのだ。そして、これを自由自

密教は特殊な技術により、欲望を教えやおどかして抑圧せず、リビドーの源泉である深層 意識と直結して、直ちにこれを昇華させる方式をとる。

ジャン=ポール・シャリエは、社会の中で抑圧された深い層のエネルギーを、高尚な活動 昇華できるのは、ほんのわずかなエリートだけであって、といっているが、それはたしか にほんのひとにぎりの天才にしかなし得ぬわざである。密教は、特殊な技術により、欲望の 源泉である深い層の意識を新皮質の知性と直結して、直ちにそれを昇華させてしまう。これ が、「即身成仏」なのである。 「即身成仏」とはこれ以外のなにものでもない。

それは、コトバを使わないから「教え」ではない。「技術」である。 「方法」である。 そして、それが、密教の「大随求法」と名づけられた法なのだ。

おわかりであろうか? 三五〇ページで、私は、「大随求法」とは「深層記憶、深層意識 を自由自在にコントロールする技法である」と言い、「このことがいったいなにを意味する ものか、それがどれほどの価値を持つものなのか」と言った。これが、その答えである。 密教をたんなる加持祈疇だなどと信じていた人々、そう主張していた人々は、心から恥ず べきである。密教こそ他に類のない高度に組織された宗教であり、まさに未来宗教ともいう べきすぐれた技法をもった宗教ではないか。あなたはそう思わないか?

 

幻の法を求めて

億年の進化の経験と記憶を秘めたこの部分を解明することにより、その多くが明らかになる ものと私は信ずる。

が、まあ、いずれにしても、人間にとってかけがえのない人である。

その人の縁皮質が、なにゆえあって、今日はあんな大あばれをしたのか、ひとつその 言い分を聞いてやらねばならぬ。

お説教はやめてくれ

「今日はどうもうちの若い者たちがとんださわぎを起こしまして、申しわけございません」 口をきったのは、辺縁皮質の代表者、海馬氏である。中年ながら、たくましいかっぷく、 浅ぐろい顔に目がするどい。

「ここのところたいへんなオーバーワークで、みんな気が立っておりまして。 いらいらし ているところへ、新皮質の連中の騒動を耳にしたものですから、いっぺんにわあっというこ ことになってしまった。

けれども、私はね、あれてよかったと思っている。 あればあっと発散してしまったから

よかったので、あれを我慢して、 いらいらが高ずると、御存知の欲求不満で、あなた方み んな病気になってしまう。

いまさかんにいわれている「心因性の病気」ですよ。

いわゆる精神身体医学で、発病や経過に、心理的要因が重要な意味を持つ身体疾患」と いわれるものです。専門医によれば、人間の全肉体疾患のおよそ八〇パーセントはこの部類 に属するといわれていますな。

ストレス説で有名なハンス・セリエ博士あたりになると、伝染性の疾患もふくめた事実上 (あらゆる疾患が、心因性によるものだと断言しておりますよ。

そこまでいかなくとも、現代医学で確実に心因性の疾患としてあつかわれ、治療されるよ うになった肉体疾患の種類を言ってみましょうか」

さすがに記憶のベテランだけあって、海馬氏はメモも見ずに、おちついた口調で、すらす 病名をあげはじめた。

「結核、枯草熱、気管支炎、 ぜんそく、静脈洞炎、胃カイヨウ、大腸炎、便秘、下痢、痔、

心臓病、流産、パーキンソン病、各種硬化症、テンカン、ジンマシン、湿疹など、以上があ げられますな。 さいさんでは、関節炎、 滑液囊炎、弱視、ある種の禿頭なども、この部類に

かぞえられるようになりました。禿頭もですよ」

海馬氏は、こちらのうすくなった頭のあたりをじろりと見て、

「まさか禿頭までとお思いかしらんが、アメリカの臨床医S・J・パン・ペルト博士の研究 報告 心因治療をうけた男性患者の禿頭に、すこしずつ頭髪が生えはじめたと報告されて います。

いかがです。 これらの病気が、みな、私たちの調子一つて起きてくるんですぞ」

「おじさん、そんなアタリのやわらかいことを言っていたんじゃあ、いつまでたっても、ラ チがあきませんよ」

たまりかねたように、いらいらした口調で言葉をはさんだのはG・Iカットのせいか んな面がまえ、旧皮質の兄さんだ。

「あたしたちにはね、なんといっても十億年間のキャリアというものがあるんだ。 人間がこ うしてなんとかかんとかやっているのは、みんな、あたしたちのおかげですぜ。 それを、昨 今日出てきた新皮質あたりの連中に大きな顔をされて、はい、さいですかとひっこんでい られるかっていうんだ。

もとをただせば、このあたりだって、みんなあたしたちの領域だった。それを、なんとか

かんとかいって、だんだん手をひろげて、今じゃあほとんど表通りのいいところはみんなあ の中に占められて、あたしたちは、ろくに日の目を見ない隅っこのほうで、 手足かがめて 暮らしている始末だ。 それじゃあ、あたしたちが役立たずの能なしなのかというと、そうじ あない。あたしたちが協力しなければ、あの連中だってなに一つできないんじゃあないか。 しかしまあ、それも時世時節で、人間一家の発展のためと思って胸をさすって我慢をして いると、どうですか、今日のざまは。

ふだんから、あたしたちにお説教して、人間には理性知性が大切だ。 暴力はイカン、ケン 力はいかんと、しょっちゅうえらそうなことばかり言っているくせに、衆人環視の真ん中で、 手前たちがなぐり合いをはじめるとは、なんですか。

言いたいことなら、こっちの方が山ほどあるんだ。

今日という今日は黙っていられなくなって、 とび出したんだが、このおさまりは、どうつ けてくれるんです?」

ぐいとにらんだところは、さすがに十億年のかんろく十分といったところ。

「まあまあ、いいから、いいから」

海馬氏は、大きな手をあげて、

「今日のところは私に万事まかせておくんだ。それでなくとも、私たちは、本能族ですぐに

感情的になって暴力をふるうなどと誤解をされているんだ。冷静に、今日はじっくり私たち の言い分を聞いてもらわなくちゃならんのだ」

となだめてから、こちらを向いて、

では申しましょう。

「なにしろ、このごろひどい過労で、みんな気が立っておりましてな。御承知の通り、私た ちは二十四時間フル勤務で、一分一秒も休みというものがない。あなた方が、一杯、やって、 いい気持ちでぐっすり眠っているときでも、私たちは休んじゃいられない。 四方八方、体の 内外に気をくばって、あなた方を守っていなければならん。

そこへもってきて、このごろは、複雑になった人間関係とか、公害からくるいろいろな障 とか、心身ともに気を使うことばかりで、年じゅう、いらいら、むらむらの連続なんです。 え?ところで私たちがなんで腹を立てたのか、とおっしゃるのですか?

新皮質の中に、よけいなおせっかいはやめてほしいということです。

うちの若い連中の一番がまんできないのは、あの人たちが、えらそうな顔をして、お説教 理屈をこねることなのです。 私たちを教育しようとするあの考えかたです。 年じゅう、こ

ごとを言ったり、干渉したり、抑えつけたりする、そいつをやめてほしいのです。 あの人たちの考えかたはこうです。

自分たちは知性、理性のかたまりの文化人で、私たちは本能のかたまりの野蛮人ばかりだ。 ちょっとでも目をはなしたら、なにをしでかすかわからん。だから、いつも自分たちが看視 していて、きびしく教育してやらにゃあいかん、とこう考えている。

だいたい、これはね、学者の先生がたがいかんのです。

やつらを、文明文化の恩人にしたてて、知性、理性、創造性のかたまりだなんておだてあ げる。そうして私たちは古い記憶や本能のかたまりだから、自由にさせておいたらなにをし てかすかわからん。君たち、よく見はって、勝手なことをさせちゃあいかん、なんというも だから、連中、すっかりその気になっちゃった。

そこへもってきて、宗教や教育の先生たちが、こういうように教えろ、ああいうように仕 込めとけしかける。そういうわけで、やつら、ハシの上げ下ろしにまで目を光らせて、イチ ャモンつけるというわけです。

アメリカの脳生理学の先生で、マックリンなんて先生は、私たちを競馬ウマにたとえ、新

皮質の連中がそれを御す騎手だなんていう説を発表して、新皮質の知性や理性で、あばれ馬

である私たちを調教しなければいかんなんてことをおっしゃったものだから、どうです、 あ の連中といそうな顔。

牧師さんやら、坊さんやら、新興宗教やら、倫理道徳の先生やら、つぎからつぎへとえら そうな顔をして、小理屈をこね、お説教をたれる。 中には、原罪 法だ、法罰だなんて、 愚にもつかないおどかしをかけたりする先生もいる。 みんな、新皮質の連中がつれてくるん です。

ところが、これがまったくの見当ちがい。 笑うべき愚行なんですよ。 いや、われわれに とっては笑って過ごせることではないので、おそるべき愚行と訂正しましょうか。

なぜならば、私たちに、そういう教えや信仰はぜんぜん役に立たんです。 いや、役に立たないだけならまだいいのですが、 害になるから困るのです。 つまり、有害無益なんだな。

その証拠に、うちの若い連中は、ちかごろ、うるささのあまり神経障害を起こして、みん もうやる気をなくしてしまっています。 それでなくても、さきほど申し上げた通り、忙し くて忙しくて、いらいら、むらむらの連続なんですからなあ」

超能力をひき出せ

海馬氏は、首をふって、目の前のコップをとりあげると、つめたい水をグッとあけた。

「どうしてか? とおっしゃるのですか?」

海馬氏は、しずかにコップをおいて、

「わかっちゃいないんだなあ、あなた方も、それから、牧師さんも、坊さんも、新興宗教の 先生、倫理道徳の先生、それから生理学の先生も、わかっちゃいないんだなあ。

そういう、教育とか、宗教とか、理論とか、そういうものが必要なのは、新皮質の連中な んで、私たちに、そういうものは、不要というよりも、通じないのです。

通じないものをむりにおしつけるのは、むだだけじゃない、有害です。

そういうものをむりにおしつけられると、私たちは、いや気がさしてきて、はたらきたく なくなるのです。それをさらにおしつけると。フロイト氏が言ったでしょう。 <抑圧> 葛藤が生じて、さっき述べた心因性の病気にかかる。それだけではなく、精神のはた らきの上にもいろいろな障害が起こって、人間はメチャメチャになってしまうのです。 え? なぜそんなけっこうな教えがおまえたちには通じないのか、とおっしゃるのです

現代的課題

制御パターンの一つとみてそんなに大きな見当違いを犯していることはないと思っているので あります」 ということであるから、そうすると、 平安、鎌倉時代は、ヒトの持つ生産出力が馬一頭 分、すなわち一馬力程度のものだったのだから、一億六千万馬力から原子力時代にまで突入した現 代社会の制御はとうてい不可能だということになる。この点からだけでも、古代および中世期時代 のパターンをくりかえしている現在の仏教では、現代社会および現代人の制御や救済など、及びも つかないことであることがわかるであろう。

それは、市川氏が、「主権在民をかかげて出現した近代デモクラシーの社会におきましては、 富の生産のため”だとか、“大衆のため”だとか、あるいは、ある種の思想(イデオロギー)とか の権威が、それ(宗教)に代わっているのであり、それまでの長い人類の社会システム史に強度の

を発揮してきましたアブソリューティズム(絶対制)としての神観念というものは、ふたたび その社会システム史的な意味を表わすことは、おそらくないだろうと思います」という通りなので ある。これまでのようなパターンの) 神仏の観念は、さまざまなスローガンやイデオロギーに とってかわられてしまっており、もはやふたたび現代社会の指導原理とそして制御的役割り)は 果たし得ないということなのである。

荒廃する現代社会に、現代の宗教がほとんど無力であるかのごとくに見えるのは、まったくこの ためなのである。現代社会において、宗教がわずかにささえとなっているのは、宗教そのものの力 ではなく、すぐれた宗教家たちの個人的パーソナリティによるものであることを、われわれは直視 しなければならない。

五抑圧意識を強める情報洪水

ところで、生産出力の増大とはなんであろうか?

それは、コミュニケーションの面からみた場合、「情報」の増大を意味するであろう。

市川教授は、生産出力の増大による変革を、社会機構の面からとらえたのであるが、わたくしは、 それを、ヒトの精神機構の面からみてみようと思うのだ。

すなわち、生産出力の増大ということを、コミュニケーションの面からみた場合、 それは、「情 報」の質量の増大を意味する。馬一頭分・一馬力の出力時代から、 一億六千万馬力 原子力とい 驚異的なパワーへの飛躍は、そのまま、情報量の飛躍的増大にほかならない。これが、ヒトの精 神機構にどのような影響をもたらすか。

先年、アメリカの「外交政策協会」が刊行した『西暦二〇一八年』に、このことにふれた文章が

コンピューターシステムでは、一個の情報を bit という単位であらわす。 現代社会に生きるわれ われは、いま、平均、一分間に三〇万ビットから五〇万ビットの情報を受けとり、 それを、意識的、 無意識的に処理しているという。これが二十一世紀の前半になると、人類は一〇〇万ビットの百万 倍という、じつに想像を絶した情報量を処理しなければならなくなるであろうとこの書物は警告し ている。こういう想像もできないような厖大な情報量にさらされたとき、人間はどうなるであろう

か? ヒトの知的能力ではとうてい処理しきれず、 そこにいたるまでに、ヒトの大半は、抑圧によ

って生ずる心理的ヒズミで神経的に崩壊してしまうであろうという。 情報エネルギーの抑圧にたえ かねて、人になってしまうのだ。 だから、その頃、生きのこった人類は、脳にコンピューターを 直結して、増大する情報に対処するよりほかないという。

ヒトと機械の共同生体を「キメラ」という。つまり、キメラ人間になることによってのみ、二十 一世紀を生きぬくことができるであろうというのだが、わたくしは、かれらがたいへん重大なこと を見落していると思うのだ。かれらはあまりに安易に考えすぎているようである。そうかんたんに はいかないのである。いくつかの越えがたい問題が残るのだ。 それはなにかというと、人間の「こ ころ」の問題である。かれらは、殺到する情報の処理だけを考えて、人間のこころのはたらきを無 視している。脳とコンピューターを直結することにより、表面的に情報は処理されるであろうが、 潜在的に残る心理的抑圧をどうするかということである。心理的抑圧は、処理されない、あるいは 処理できないという場合にだけ生ずるのではないのである。処理されても生する場合がある。い や、そのほうがむしろ多いといっていいだろう。というのは、われわれは、社会的通念や道徳的慣 習のために、 こころの奥底ではなっとくできなくてもやむを得ず、そういったものに従って処理す ることが少なからずある。そういう場合、表面的には一応処理されても、 こころの奥底に残るもの がある。つまり、心情的に、未解決、未消化のまま、意識層の下部に沈滅してゆくものがあるので ある。それは抑圧意識としてあとに残る。抑圧意識の程度のものは時間の経過につれて、「忘れる」 というかたちで消化されるが、つよいものはしだいに堆積して、やがて「ストレス」となり、心因

性の病気をひき起こす。ストレスは、抑圧意識のごく一部が肉体を通じて外にあふれ出てきたもの に過ぎず、それがさらに内部でじると、「葛藤」を生ずる葛藤はヒトの神と肉体を破壊して しまう。人にしてしまうか、あるいはそのヒトを暴走させて、破滅的行動に走らせる。 その 在意識下の抑圧と葛藤をどう解決するかというのである。

そういうと、化学薬品による一種の記憶忘却剤のようなものか、物理的な電気ショックのような もので、潜在意識に増大する抑圧意識を消滅させたらどうかという論が出てくるかも知れない。た とえば、LSDのようなドラッグが考えられるが、それは要するに現実逃避であり、さらには現実 無視であり、ついには現実と夢との区別がなくなり、やがて人格崩壊にいたるだろう。あるいは、 かえって抑圧を深くし、やしがたい」となって狂的状態をひき起こすだろう。 どんな薬品、

を使っても、記憶は消すことができるであろうが抑圧や傷を消すことはできない。なぜなら ば、そういうこと自体がかえって抑圧や傷痕を深め、あるいは新たな抑圧・傷をつくり出すこと になるからである。記憶と抑圧はちがうのである。 それは傷なのである。記憶は(表面的に消え ても傷は残る。残った傷痕は、深層意識の中の、本人自身でさえも意識されない無意識の意識層 にひそんで、思いがけないときに飛び出してきて、そのヒトに精神的・肉体的にダメージをあたえ たり、あるいはそのヒトを動かして、思いがけない行動に走らせたりする。これはすでに近代心理 学の常識である。

そういうと、 それでは、潜在意識も深層意識もひっくるめて、いっさい消去してしまったらどう なんだというひとが出てくるかも知れない。 冗談ではない、深層意識を消したら人間ではなくなっ

てしまう。それは人間を人間として立せしめている根本的な要素である。 深層意識には、 人間が 生物として発生したアメーバー以来の記憶がインプットされ、きざみこまれているのである。そ を消失させることは、人間を消失させることにほかならない。

というと、それは二十一世紀の問題ではないか、いまからクヨクヨ心配したってしょうがないと いわれるかも知れない。そうではない。 これは決して二十一世紀の問題ではない。現在、すでにわ れわれ自身の上に起きはじめていることなのだ。 西暦二〇一八年の未来世界のできごとではないの である。いま、われわれの上に起きつつあることなのだ。 いま、われわれが解決しなけれ ばならない問題なのだ。

六脳細胞活動の限界要因

わたくしは思うのだが、現代人は、現在、ほとんどその知的能力の限界にまで達してしまってい るのではないかと思うのだ。

人間の脳の中には約百四十億個の神経細胞があると考えられている。一個の神経細胞には、二 千万個以上のRNA分子 (遺伝因子のDNAを伝達する分子)があって、一個のRNA分子は数百 ビットの情報を処理することができる。その結果、平均して人間の脳は一生のあいだに、約一千 ビットの情報をとり入れることができると推定されている。 そこで、アメリカの著名な科学評論

家兼生化学者兼SF作家のアイザック・アシモフはつぎのように述べるのだ。

「そういうわけで、RNAは、人間が行なうどんな膨大な学習や記憶でもさらにはその十億 倍もの作業でも、完全に処理できるファイリングシステムの役をはたしていることは疑いない」

だが、そうはいかないのである。 それは前の節で述べた通りだ。 その前に、ヒトは抑圧と葛藤で パニック状態をひき起こしているだろう。

わたくしが、ヒトは現在知的能力の限界に達していると考えるのは、つぎのようなデーターから だ。

いま、ヒトは平均して一分間に三〇万ビットから五〇万ビットの情報を受けとり、これを処理し ている。間もなくそう、あと十年のちには間違いなくヒトは毎分一〇〇万ビットの情報を処理 しなければならなくなるだろう。ヒトの平均寿命を六十年として、一生におよそ三〇兆ビットにな る。これがヒトの限界なのだ。

そういうと、脳生理学者はヒトの一生に約一〇〇〇兆ビットの情報を処理できるといった、と、 いま述べたばかりではないかといわれるかも知れない。その通りである。だが、それは、一四〇億 個の脳細胞がフルに動いた場合のことである。ところが、ヒトは、平均、持っている脳細胞の二な いし三%しか活用していないのである。いや、活用できないのである。 なぜできないのか? それ 人体のナゾとされている。なぜだかわからない。 しかしわたくしにはわかっている。 それは、ヒ 「こころ」がそのへんを限界としているからだ。脳は一〇〇〇兆ビット処理できるであろう。

人はどんな因縁を

 

因縁  2

江戸川に

次の間で毒が薬を煎じてる」

という句があるが、これは、まさにこの因縁を持つ女性をズバリと旬にしているものと感心させ られる。この句の意味は、亭主が年中病弱で寝ている。 その家をたずねてみると、亭主の寝ている 次の部屋で、若い美しい君が、かいがいしく薬を煎じている。 しかし実際はこの美しい君が 身の亭主にとっては毒なのだ、というところから、君が薬を煎じているのを、毒が薬を、と皮肉 っているわけである。

この因縁を持つ女性を妻に持つと、その夫は年中病弱となるか、または仕事がうまくいかず、年 中失敗したり、渋滞しがちとなる。 生命力を削られるところから、運が非常に悪くなるのである。 いかに才能、手腕があろうとも、必ずなにか一つの不運につきまとわれる。 君が一心につかえれ ばつかえるほど夫の運気が悪くなるのであるからである。

よく、世間にあることだが、立派な君を持った夫が、他に女をつくり、その女より妻君のほう がはるかに色も頭もすぐれているので人が不思議があるが、これは、君のほうに、この 夫の運気を剋する因縁があるために、夫が、生命力自衛の本能から、無意識に君に反発して、そ ういう因縁のない運気のおだやかな女性を求め、逃避するためなのである。 中年になってそういう ことがよく起こるのは、もちろん、中年代で経済的に余裕ができたり、君の色が衰えてきたと いうことも理由の一つにはなるが、根本的には、若いうちは、夫のほうも生命力が強いのでより実

気翹害にも平気で耐えられているからそれほど感じないが、年をとるにつれて生命力が の場が欲しくなってくるのである。

この因縁の強いものを持つ女性が、いわゆる「後家運」とよばれるもので、色情の因縁のある夫 は、前記したように他の女性に逃避し、色情因縁のない夫は、趣味に逃避したり、仕事に没頭した 冷たい家庭となるのである。もし、生命力の弱い夫であったら、死んでしまう。 すなわち 家運とよばれるゆえんである。 女性として幸せな家庭を持とうと思ったら、まず、 まっさきに切 らねばならぬ因である。

8 夫婦障害の因縁 (阿失理沙星)

夫婦 結婚生活に障害が起きる因縁である。

なんとなくおたがいに性格が合わず、年中不満を持ち合ってゴタゴタが絶えず、冷たい家庭にな

または、おたがいに愛情は持ち合っているのだが、どちらかが気になって別居をよぎなくされ とか、仕事の関係で別れ別れに住む、シュウトなどの関係で夫婦仲がうまくいかぬ、等とに かく、愛情の有無にかかわらず、結果的に夫婦仲がうまくいかない。離婚してしまうというところ まではいかぬが、とにかく、年中その一歩手前までいってゴタゴタしているのである。

9 夫婦縁破れる因縁 (布沙也星)

この因縁を持っている人は、男女とも、必ず生別か死別をまぬがれない。生別となるか死別とな るかは、相手かたの生命力の強弱による。