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般若波羅蜜多心経

般若波羅蜜多心経  Heart Sutra  Heart Sutra 般若波罗蜜多心经

観自在菩薩が深い般若波羅蜜多の道を修行する時、五つの蘊(色・受・想・行・識)がすべて空であることを照覧し、一切の苦悩を超越する。舎利弗よ、色は空であり、空は色である。色は空であるがゆえに、空には色はなく、また、受・想・行・識も同様に空である。舎利弗よ、このように、すべての法は空相であり、生まれもしないし、滅びもしない。不浄であるし、不浄でもなく、増えることもなく減ることもない。それゆえ、空には色もなければ、受・想・行・識もなく、また、目・耳・鼻・舌・身・意もなく、色・声・香・味・触・法もなく、また、眼界から意識界に至るまで、また、無明から無明尽に至るまで、老死もまた同じである。苦・集・滅・道もまた、同じく空であり、智慧もまた、得るものもない。何故なら、何も得るものがないからである。菩提薩埵たちは、般若波羅蜜多に依って、心に障りがないため、恐れもなく、悩みや迷いから解放され、究極の涅槃に至る。三世の諸仏たちは、般若波羅蜜多に依って、阿耨多羅三藐三菩提を得た。これが、大いなる真言であり、大いなる明言であり、最高の真言であり、すべての真言に優る真言であり、一切の苦悩を除く真実である。般若波羅蜜多の真言を説くときには、「ガテ・ガテ・パラ・ガテ・パラ・サンガテ・ボディ・ソワカ」(すでに到達している、すでに到達している、すべて到達している、すべて到達している、アワロックサン)と唱える。」

Here is the

 

 

観自在菩薩は、静かに目を閉じ、深い瞑想に入っていた。般若波羅蜜多の道を一歩一歩進む中、彼は目の前に広がる真実の光景を見つめていた。五つの蘊、すなわち色・受・想・行・識――これらすべてが空であることが明らかになり、彼の心は次第に一切の苦悩から解き放たれていった。

「舎利弗よ…」観自在菩薩は柔らかく語りかける。「色とは空であり、空とは色である。色が空であるゆえに、空の中には色が存在しないのだ。そして、受も想も行も識も、すべて同じく空である。」

彼の言葉は、深い静寂の中で響いた。舎利弗はじっと耳を傾け、理解を深めるように眉間にしわを寄せている。観自在菩薩の声は続く。

「舎利弗よ、この世のすべての法は、空相なのだ。生まれることもなく、滅びることもない。不浄でもなく、清浄でもなく、増えることもなく、減ることもない。それゆえ、この空には、色もなく、受・想・行・識も存在しない。目も耳も鼻も舌も身も意も、また色・声・香・味・触・法もないのだ。」

彼の言葉は、一つひとつが重く、そして広がりを持っていた。舎利弗の心の中に、無数の思索が浮かんでは消えていく。

「無明から無明の尽きるところまで、そして老死に至るまで、すべては同じなのだ。苦・集・滅・道さえも、空であり、何も得ることはない。」

観自在菩薩の眼差しは柔らかでありながらも鋭い。舎利弗はその言葉の重みを感じながら、悟りに近づいていくのを感じた。

「何も得るものがないゆえに、心には障りがない。恐れもなく、悩みや迷いから解き放たれ、究極の涅槃へと至るのだ。」

観自在菩薩は一息つき、空を見上げた。その瞳には無限の智慧が宿っている。

「三世の諸仏たちは、この般若波羅蜜多によって、完全なる覚り、阿耨多羅三藐三菩提を得た。それこそが、大いなる真言であり、すべての苦悩を除く真実の言葉だ。」

彼の唇から、静かに真言が発せられる。

「ガテ・ガテ・パラ・ガテ・パラ・サンガテ・ボディ・ソワカ…」

その瞬間、世界は静まり返り、舎利弗の心の中に広がる無限の空が、すべてを包み込んだ。

 

三種の供養こそ、最も尊いものとされている。

まず第一に、「事の供養」――身供養ともいう。これは、香華や燈明、そして清らかな塗り物を捧げ、できる限りの力で供養をすることを指す。供養の種を蒔かなければ、福徳という宝は決して生まれることはない。これは、まさに農作物に例えられる。たとえば、一升の種籾を蒔けば、五升や一斗もの豊かな収穫が得られるように、善行も蒔かねば実ることはないのだ。種を惜しんで蒔かないでいては、米や麦が収穫できるわけがない。功徳の種を蒔かずに、果報や福徳を得ようなどというのは、浅はかな望みでしかない。種は蒔けば蒔くほどに実る。だからこそ、骨身を惜しまずに蒔き続けなければならない。もし、解脱という宝を心から願うならば、まず梵行や功徳という種をしっかりと蒔くべきだ。

第二には、「行の供養」がある。わが身やわが子を助けたいと願うならば、まず他の人々を救うべきだと釈迦牟尼如来は説いている。これは因果の大法であり、自分のことばかりに囚われていては、決して因縁を解くことはできない。自らの身を嘆き、我が身を大切にしているうちは、悪しき因縁を積み重ねるばかりである。そしてその結果、今の苦しみが生じているのだ。だからこそ、行者は徳を積み、全力を尽くして他者を救わなければならない。

舎利供養を行う者は、十種の功徳をその身に受け、自然と人々の上に立ち、助ける存在となる。しかし、その功徳を得た後に、おごりや高ぶりが生じることは厳禁だ。おごりや怒りは、百千の功徳の種を瞬く間に焼き尽くしてしまう。だからこそ、下座の精進を忘れず、常に謙虚であらねばならない。そして如来の加持の力をその身に受けて、悩める人々を救い、苦しむ者の杖となれ、仏舎利供養を広めよ、と教えられている。

さて、第三に「理の供養」がある。これは、生身如来が説かれた七科三十七道品、つまり成仏の法の尊さを、広く世間に伝えることを指す。聖経を護持し、広めることこそ、理の供養であるのだ。

事・行・理の三つの供養こそが、仏舎利供養の根本である。この三種の供養を忘れず、常に心に留めることが肝要である。生身如来の教えに従い、三福の道を歩むことが、正法を仰ぎ見、如来のもとで成長していく聖衆の務めである。

この教えを忘れず、心に刻んで生きることで、人は真の解脱への道を歩み始めるのだ。

 

ある村の片隅に、古びた宝塔がひっそりと佇んでいた。その塔は、何世代も前から村人たちに大切に守られ、供養され続けてきた。塔の中には仏舎利、つまり仏陀の聖なる遺骨が納められており、その存在は村全体を包み込むような神秘的な力を秘めていた。

村の人々は、毎朝塔に手を合わせ、香をたき、灯明を捧げた。その供養は、彼らの生活の一部となっていた。誰もが知っていた。この宝塔がある限り、疫病も災いも遠ざかり、村は安穏に保たれると。

ある日、遠くの山から一人の若者が村に訪れた。彼は困窮に苦しみ、貧しさにあえぐ生活から逃れようと、村々を渡り歩いていた。衣服はぼろぼろ、食べ物もなく、道中で力尽きかけていたが、ふと立ち寄ったこの村で不思議な力に惹かれるように宝塔の前に立った。

「この塔に祈れば、何かが変わるだろうか?」若者はそう呟きながら、塔にひざまずき、手を合わせた。

突然、塔の中から柔らかな光が放たれ、若者の身体を包み込んだ。光の中から聞こえてくる声は、人間のものではなく、どこか天から降り注ぐような、静かで荘厳なものだった。「求めよ、されば与えられん。真心をもって供養せよ、そうすればお前の罪障は浄められ、道は開かれよう。」

驚いた若者は、声に従い、精一杯の祈りを捧げた。彼の心には次第に平安が訪れ、これまでの苦しみや悩みが薄れていくのを感じた。そして、その瞬間、塔の姿が変わった。瓦や石でできていたはずの塔が、七宝で装飾され、黄金の光を放つようになった。

若者は目を見張った。「これはただの塔ではない…神変妙の宝塔だ!」彼は思わず叫びそうになるのをこらえ、さらに深く祈りを捧げた。すると、まるで天からの雨のように、無数の宝珠が彼の前に降り注ぎ始めた。

「これが法身如来の力か…」若者はその奇跡に感謝し、以降毎日欠かさず供養を続けた。そして、その功徳は彼だけに留まらず、村全体に広がり、やがて誰もが宝塔に祈りを捧げるようになった。

時が経ち、若者は村の人々に「人を助けたいのなら、まずは自らが徳を積み、供養を忘れぬことだ」と語り伝えた。村人たちはその教えに従い、日々の行いを改め、互いに助け合いながら生きるようになった。

宝塔の光は、夜が訪れても決して消えることなく、村全体を静かに照らし続けた。それはまるで、如来の慈悲が形となったようであり、村の人々の心に深くしみ込んでいった。

この村の物語は、やがて周囲の地域にも広まり、人々は遠くからこの宝塔を訪れ、供養を捧げるようになった。そうして、村は栄え続け、誰もが平安を得る場所となった。

「宝塔を敬う心を持ち続けよ」と、若者は最後まで言い続けた。そして彼もまた、仏の教えに従い、静かにこの世を去っていった。

その後も、村の人々は彼の言葉を守り、宝塔に祈りを捧げ続けた。その塔は、今も変わらず村を守り、人々に幸せを与え続けている。

 

十六の法を成就する優婆塞こ

マハーナーマはある日、仏陀の前に進み出て尋ねた。「世尊よ、いくつの法を成就すれば、優婆塞は自らを安んじ、他者も安んじることができるのでしょうか?」

仏陀は優しく微笑み、静かに語り始めた。「マハーナーマよ、十六の法を成就する優婆塞こそが、自分を安んじ、他者も安んじる者である。では、その十六の法とは何か、今ここで説こう。」

仏陀の声は深く、聞く者の心に染み入るようであった。

「まず、自分自身が正しい信仰を持つこと。そして他者にもその信仰を確立させる。自ら浄戒を守り、他者にもそれを教える。布施を行い、その行いを他者にも教え導く。塔や寺院を訪れ、沙門に会い、その重要さを他者にも示す。沙門の説法をひたすら聴き、他者にもそれを勧める。法を守り、他者にも法を守ることを教える。仏法の深義を観察し、他者にもそれを促す。そして仏法の探求を深め、自らも他者も共に法を追い求めるのだ。」

マハーナーマは深くうなずき、仏陀の言葉に心を委ねた。仏陀の言葉は続く。「この十六の法を成就する者こそが、自らを安んじ、他者も安んじる優婆塞である。そうした者のもとには、大勢の人々が集う。バラモン、クシャトリア、長者、沙門、そのすべてが集い、優婆塞の徳を仰ぐのだ。まるで太陽の光が、日の出から日没まで輝き続けるように、その徳は大いに輝くのである。」

マハーナーマはその言葉を胸に刻み、再び問いかけた。「世尊よ、『安んじる』とは単に心が静かになるということなのでしょうか?」

仏陀は静かに首を振った。「真に安んじるとは、心の平安を超えて、すべての因縁から解脱し、成仏することを意味する。瞑想や坐禅で一時的な安らぎを得ても、因縁が残っている限り、苦しみは再び襲ってくる。真の安らぎとは、すべての因縁を切り離し、完全なる解脱を得ることにあるのだ。」

その言葉を聞いたマハーナーマは深い感動を覚え、仏陀に深く感謝した。彼は静かに席を立ち、仏陀に一礼してその場を去った。仏陀の教えは、彼の心に新たな光を灯し、永遠に響き続けるであろう。

 

信、戒、施、聞、 持、観、法次、法向

満足な優婆塞となるための条件を最初から挙げると、まず第一が信、そして順番に信、戒、施、聞、 持、観、法次、法向と全部で八つあります。 これを、「優婆塞の八法」と呼びます。

それぞれの意味を箇条書きにすると、次のようになります。

信・・・・・正しい智慧で信心の心を起こす

戎・・・・・信の心を元に、やってよいことと悪いことの分別をつけ、仏教徒としてやってはいけないことはやめ、やらなければいけないことは積極的にやる
を積むために布施の行をする

布施・・・・・・道場(精舎)に行って、仏さまや沙門の話を聞く

持・・・・・・聞いた説法の内容を受持し、実行する

観・・・・・・受持した教法の深い意味をよく観察し工夫する

法次・・・法に近づく

法向・・・法を追及していく

なのです。

お釈迦さまは、この八法を行うならば優婆塞事を満足する、とおっしゃいました。

ところがそれにもかかわらず、マハーナーマはさらに、

「世尊、 何が優婆塞能く自ら安慰し他を安慰せずと名づくるや」

と質問をしました。 これは、自分を安慰させても、人を安慰させることのできない優婆塞とい うのは、どういう優婆塞でしょうか、という意味です。

それに対してお釈迦さまは、次のような優婆塞は自分を安慰させることができても、人を安慰

させることはできない、とおっしゃっております。

○自分が信を持っても、他の者に信心を起こさせない

○自分が戒を保っても、他の者が戒を保つように努めない

○自分が布施をしても、他の者が布施をするように努めない

○自分が道場に参詣して法話を聞いても、他の者に参詣と法話の拝聴を勧めない

○自分が正法を受持しても、他の者に正法を受持するように勧めない

○自分が教法の深い意味を観察しても、他の者が教法の深い意味を観察するように勧めない

○自分が教法の深い意味を知り、法に近づこうとしても、他の者が教法の深い意味を知り、 法に近づこうとするように勧めない

自分が教法の深い意味を知り、法を追及しても、他の者が教法の深い意味を知り、法を追 及するように勧めない

要するに、八法を自分で実践するだけでは人を救うところまではいかない、ということです。 自分だけが修行をするだけで、それを人に勧めないようでは真の仏道とはいえない、ということ

自利の八法

にして徳を積めばよいのか?」

と自分の身に照らして考え、よく理解しなければなりません。そうすることで初めて、法話の 内容が自分のものになります。 法話の内容を観察工夫すること、これが観です。

さてこれで、完全な優婆塞になるための条件は、信・戒・施・聞・持・観と六つになりました が、それでもお釈迦さまは、まだ足りないとおっしゃいます。

まだ、なにが必要なのでしょうか?

自利の八法

而不随順知法次法向。是則不具。以 不具故精勤方便。 信戒施聞。 受持観 察了達深義。随順行法次法向。 摩訶 男。是名満足一切種優婆塞事。 摩訶 男白仏。世尊。云何名優婆塞能自安

不安慰他 仏告摩訶男。 若優婆塞 能自立戒不能令他立於正戒。自持净 戒。不能令他持戒具足。 自行布施。 不能以施建立於他。自詣塔寺見諸沙 門。不能他令塔寺往見沙門。自 専聴法。不能勤人楽聴正法。聞法自 持。不能令他受持正法。自能観察甚 深妙義。不能劾人令観深義。自知深 法能随順行法次法向。不能励人令随 順行法次法向。摩訶男。如是八法成 就者。是名優婆塞能自安慰不安慰他

「而も法次法向に随順して知らざるは、是れ則ち具せざ るなり。具せざるを以ての故に精勤方便す。 信戒もて 聞き、受持し観察し、深義を了達し、法次法向に随

して行ず。 摩訶男よ、是れを一切種の優婆塞事を満足す

「と名づく」と。 摩訶男、仏に白さく、「世尊よ、云何が 優婆塞能く自ら安慰し他を安慰せずと名づくるや」と。 仏、摩訶男に告げたまわく、「若し優婆塞能く、自ら戒

に立つも他をして正に立たしむることわず。自ら 浄を持つも他をして持具足ならしむること能わず。 自ら布を行ずるも施を以て他を建立すること能わず。 自ら塔寺に詣で諸の沙門を見るも、他に勧めて塔寺に詰 ていて門を見せしむること能わず。 自ら専ら聴法す
も、人を勧めて正法を楽せしむること能わず。 法を 聞いて自ら持するも他をして正法を受持せしむること わず。自ら能く甚深の妙義を観察するも、人を勧めて深 義を親しむること能わず。 自ら深法を知り能く法次法 向に随順して行ずるも、人をして勧めて法次法向に随順 して行ぜしむること能わず。 摩訶男よ、是の如き八

就者は、是れを優婆塞能く自ら安慰し他を安慰せずと名

「信・・・聞・持・観を行っても)法に近づく法次と、法を追求する法向を実践しなければ、

真の優婆塞とはいえません。努力と工夫によって、信・戒・施・聞・持・観を行い、さらに法 次法向を実践しなさい。 マハーナーマよ、これらすべてを実践してこそ真の優婆塞といえるの です」

と説かれました。

解説

マハーナーマは仏さまに質問しました。

「世尊よ、自分を安しても他をしない優婆塞とは、どのような優婆塞を指すのでしょう 「か?」

仏さまはマハーナーマに告げられました。

「自分は仏の戒を受けてそれを守っても、他者に仏の正しい戒を受けることも、またそれを保つ ことも勧めない。自分は布施を行っても、他者が布施を実践するようには勧めない。 自分は塔寺 に参詣してもろもろの沙門に見えても、他者に塔寺に参詣してもろもろの沙門に見えるようには 勧めない。 自分は熱心に沙門の説法を拝聴しても、他者に正法を拝聴してそれを受け保つように は勧めない。 自分は仏法の深遠な教義をよく観察してそれについて熟考しても、他者には仏法の 深遠な教義をよく観察して、それについて熟考するようには勧めない。 自分は深遠な仏法を知り、 法に近づき、法を追求しても、他者が法に近づき、法を追求するようには勧めない。

マハーナーマよ、このように八法だけを成就する者は、自分を安らかにしめても他を安らか にし慰めない優婆塞というのです」

お釈迦さまは、「而も法次法向に随順して知らざる、是れ則ち具せざるなり」とおっしゃって おられますが、法次とは法に近づくことで、法向とは法を追及することです。ですから、仏さま や沙門の法話を聞き、観察・工夫しても常に法に近づき、法を追及しようとする努力がないなら ば満足な優婆塞とはいえない、ということです。

満足な優婆塞となるための条件を最初から挙げると、まず第一が信、そして順番に戒、施、聞、 持、観、法次、法向と全部で八つあります。 これを、「優婆塞の八法」と呼びます。

それぞれの意味を箇条書きにすると、次のようになります。

信・・・・・正しい智慧で信心の心を起こす

・・・・・・信の心を元に、やってよいことと悪いことの分別をつけ、仏教徒としてやってはい

けないことはやめ、やらなければいけないことは積極的にやる
を積むために布施の行をする

・・・・・・道場(精舎)に行って、仏さまや沙門の話を聞く

持・・・・・・聞いた説法の内容を受持し、実行する

観・・・・・・受持した教法の深い意味をよく観察し工夫する

法次・・・法に近づく

法向・・・法を追及していく

なのです。

お釈迦さまは、この八法を行うならば優婆塞事を満足する、とおっしゃいました。

ところがそれにもかかわらず、マハーナーマはさらに、

「世尊、 何が優婆塞能く自ら安慰し他を安慰せずと名づくるや」

と質問をしました。 これは、自分を安慰させても、人を安慰させることのできない優婆塞とい うのは、どういう優婆塞でしょうか、という意味です。

それに対してお釈迦さまは、次のような優婆塞は自分を安慰させることができても、人を安慰

させることはできない、とおっしゃっております。

○自分が信を持っても、他の者に信心を起こさせない

○自分が戒を保っても、他の者が戒を保つように努めない

○自分が布施をしても、他の者が布施をするように努めない

○自分が道場に参詣して法話を聞いても、他の者に参詣と法話の拝聴を勧めない

○自分が正法を受持しても、他の者に正法を受持するように勧めない

○自分が教法の深い意味を観察しても、他の者が教法の深い意味を観察するように勧めない

○自分が教法の深い意味を知り、法に近づこうとしても、他の者が教法の深い意味を知り、 法に近づこうとするように勧めない

自分が教法の深い意味を知り、法を追及しても、他の者が教法の深い意味を知り、法を追 及するように勧めない

要するに、八法を自分で実践するだけでは人を救うところまではいかない、ということです。 自分だけが修行をするだけで、それを人に勧めないようでは真の仏道とはいえない、ということ

自利利他の十六法

摩訶男白仏。世尊。優婆塞成就幾法 自安安他 仏告摩訶男。若優婆塞成 就十六法者。是名優婆塞自安安他。 何等為十六。摩訶男。若優婆塞具足 正信。 建立他人。自持浄戒。亦以浄 戒建立他人。自行布施。教人行施。 自詣塔寺見諸沙門。亦教人往見諸沙 門。自専聴法亦教人聴。自受持法。 教人受持。自観察義教人観察。自知 深義随順修行法次法向。亦復教人解

阿含経

摩訶男、仏に白さく、「世尊よ、優婆塞はの法を成就 自ら安んじ他を安んずるや」と。仏、摩訶男に告げた まわく、「若し優婆塞十六法を成就する者は、是れ優婆 自ら安んじ他を安んずと名づく。何等を十六と為す。 摩訶男よ、若し優婆塞、 正信を具足し、他人を建立し、 自ら浄戒を持し、赤浄戒を以て他人を建立し、自ら布施 を行じ人にを行ずるを教え、自ら塔寺に詣で諸の沙 門に見え、本人に往きて諸の沙門に見えるを教え、自ら 専ら法を聴き、本人に聴くを教え、自ら法を受持し、人 に受持するを教え、自ら義を観察し、人に観察するを教 え、自ら深義を知り法次法向に随順して修行し、亦復た

了深義。随順修行法次法向。 摩訶男。 如是十六法成就者。是名優婆塞能自 安慰安慰他人。 摩訶男。 若優婆塞 成就如是十六法者。彼諸大衆悉詣其 所謂婆羅門衆。 利利衆。 長者衆。 沙門衆。於諸衆中威德顕曜。譬如日 輪。 初中及後光明顕照。 如是優婆塞 十六法成就者。 初中及後威徳顕照。 如是摩訶男。若優婆塞十六法成就者。 世間難得。仏説此経已。 釈氏摩訶男 聞仏所説。 歓喜随喜。 即従坐起作礼 而去

と。

現代語訳

阿含経切事

マハーナーマは仏さまに申し上げました。

人に深義を解了し、法次法向に随順して修行するた 摩訶男よ、是の如く十六法成就する者は、是れを優婆塞

摩訶男よ、 能く自ら安慰し他人を安慰すると名づく。 若し優婆塞の是の如き十六法を成就する者は、彼の諸 利 大 悉く所にするなり。調婆羅門衆、

 

長者、沙門衆 威徳顕曜せん。

えば輪の初中及び後に光明細照するが如く、是の 優婆塞の十六法成就する者も、初中及び後に威徳顕 せん。是の如く摩訶男よ、若し優婆塞十六法成就する 者は、世間に得難し」と。仏此の経を説き已りたまいし に、釈氏摩訶男、仏の説かせたまえるを聞いて、飲喜し し従り起ち礼を作して去りき。

「世尊よ、いくつの法を成就する優婆塞が、 自分を安んじ他を安んずる優婆塞なのでしょう か?」

優婆塞の十六法を成就する者が、自分を安んじ他を安んずる優婆塞です。 では、十六法とはど のようなものでしょうか?

マハーナーマよ。自分自身が正しい信を持つと共に、他者にもそれを確立させる。 自分が浄戒 を保つと共に、他者にも浄戒を確立させる。 自分が布施を行うと共に、他者にも布施行を教える。 自分が塔寺に参詣してもろもろの沙門に見えると共に、他者にも塔寺への参詣と沙門に見えるこ とを教える。自分が沙門の説法をひたすら拝聴すると共に、他者にも説法を拝聴することを教え る。自分が法を受持すると共に、他者に受持することを教える。 自分が仏法の深義を観察すると 共に、他者に仏法の深義を観察することを教える。自分が仏法の深義を知って法に近づき法を追 求すると共に、他者に仏法の深義を理解させて、また法に近づき法を追求する修行を行わせる。 マハーナーマよ、このように十六法を成就する者は、自分を安んじ慰めて他人を安んじ慰める 優婆塞というのです。

マハーナーマよ、この十六法を成就する優婆塞のもとには、あのもろもろの大衆がすべて参詣 するようになります。 その大衆とはいわゆるバラモンたち、クシャトリアたち、長者たち、沙門 たちであり、それらの人々の中においても十六法を成就する優婆塞の威徳は大いに輝きます。 ち ょうど太陽の光明が日の出から日没まで大いに輝き続けるのと同じように、優婆塞の十六法を成 就する者の威徳は大いに輝き続けるのです。 ◎四五

マハーナーマよ、このように優婆塞の十六法を成就する者は、世間に得難い存在なのです」

マハーナーマはこの仏さまの説法を拝聴して大いに喜び、また仏の教法を讃歎したのちに座を 立って礼を行い、その場を去りました。

お釈迦さまのお答えを聞いた後で、 マハーナーマは「世尊よ、優婆塞は幾の法を成就し自ら安 じ他を安んずるや」と質問をしました。

ここに、安んじという言葉が出てまいりますが、これは、単に心が安らかになる、ということ ではなく、成仏するという意味です。 なぜならば、すべての因縁を解脱しなければ、完全に安ら かになることはできないからです。因縁を切って初めて、本当の安心が得られるわけです。

たとえば、瞑想や坐禅によって安心が得られるという方がおりますが、瞑想や坐禅をやってい る時は迷いが消えても、因縁がそのままになっているならば、瞑想の定が解けた時にまた苦しみ が襲ってきます。ですから、真に安らかな状態というのは、すべての因縁を解脱し、成仏した状 態なのです。

そのように考えていきますと、「優婆塞は幾の法を成就し自ら安じ他を安んずるや」とは、 「優婆塞はいくつの法を成就すれば、自分を成仏させ、他の者を成仏させることができるのでし ょうか?」

という意味になります。

その質問に対して仏さまは、「若し優婆塞十六法を成就する者は、是れ優婆塞自ら安んじ他を

「安んずと名づく」とお答えになられました。 これは、

「優婆塞は十六法を成就すると、自分を成仏させ、他人を成仏させることができるのだ」

という意味です。

それでは十六法とはどういうものか、箇条書きにしてみましょう。

自ら正信を持つ

2他の者にも正信を持たせる

3自ら浄戒を保つ

阿含経一切

他の者にも浄戒を保たせる

5自ら布施の行をする

6他の者に布施の行を教える」

自ら塔寺に参詣し、もろもろの沙門から教えを聞く

他の者に塔寺に参詣してもろもろの沙門から教えを聞くことを教える

9沙門から聞いた教法を自ら受持する

他の者に、沙門から聞いた教法を受持するように教える

自ら教法の深養を観察する

他の者に教法の深義を観察することを教える

自ら法に近づく

4他の者に、法に近づくことを教える

自ら法を追及する

となります。

他の者に、法を追及することを教える

要するに、八法を自らが実践すると共に、他の者にも八法を勧めることが十六法であり、この 十六法を実践することによって、自分も他人も成仏させることができる、と説かれているわけで す。そして、それが優婆塞の本道だ、というわけです。

したがって、「一切事経』のこの部分は、

「阿含経は自分だけの悟りを考える小乗経典ではない」

ということを証明しています。

正信を広める

もし、お釈迦さまが優婆塞の八法だけを説いていたならば、やはり「阿含経」は小乗経典とい わざるを得ません。なぜならば、八法とは自分だけの修行だからです。八法で他人のことを考え ているのは施ぐらいのもので、他は自分の悟りのことだけを考えています。

その施にしても、自分が布施をして自分が徳を得るのですから、他の人に布施を勤め、その人 が徳を得るようにしてあげるのと比較すれば、やはり、利他の行というよりは自利の行に近くな ます。

だからこそ、お釈迦さまは八法だけではなく十六法を説かれました。 他を利益し、成仏に向か わせることを強調されたのです。このことから、お釈迦さまの教法もそれをまとめた「阿含経」 も小乗ではなく、むしろ自らを大乗といっている人たち以上に大乗である、とわたくしは考えて

わたくしは、「阿含経」の中で、お釈迦さまがこの十六法をお説きになっていらっしゃるから こそ、阿含宗の立宗を決意しました。もしも八法しか説かれていなければ、阿含宗という教団は 立宗できません。 自分だけ悟ればいい、自分だけ成仏すればいい、という仏教を立ててもしかた がないからです。

ところが、お釈迦さまは自他共に成仏させる十六法を説いていらっしゃいます。 だからこそ、 わたくしは困難な道ではありますが、 阿含宗立宗に踏み切りました。 これは、大切なことですか ら、しっかりと覚えておいていただきたい。

お釈迦さまは十六法において、

「摩訶男よ、若し優婆塞、 正信を具足し、他人を建立し」

とおっしゃっておりますが、この中の「正信」は非常に大切な意味を持っております。この、 「正信を具足して」というのは、ただ単に仏教に対する信仰を持て、ということではありません。 正しい信でなければいけないよ、と念を押されておられるわけです。さり気ない言葉ですが、そ の意味するところはとても深いといえます。お経というものには、大切な言葉がさり気なく説か

れていることがよくありますが、これもその一つです。

なぜ、「正信を具足して」という言葉がそれほど大事なのか?

お釈迦さまが「正信を具足して」と明言されたということは、 正信でない仏教もあるというこ とになるからです。もしも、正信ではない仏教が存在しないのならば、「正信を具足して」など とわざわざ説かれるはずがないでしょう。お釈迦さまは、 正信ではない仏教が登場することを予 見しておられたからこそ、「正信を具足して」 とおっしゃったのです。

このことについて、わたくしは『輪廻する葦」(平河出版社)の中で、お釈迦さまの予言として 挙げていますので見てみましょう。

最も古い経典は、釈尊の予言として、次のようにつたえている。

『ビクらよ。 未来世にビクどもは次のようになるであろう。如来の説かれたこれらの諸経典 は深遠であって意義が深く、出世間のものであり、空と相応しているものであるが、それら が説かれるときに、かれらはよく聞こうとしないし、耳を傾けようとしないし、了解しよう という心を起こさないであろう。それらの教えを、受持すべくよく熟達すべきものであると は考えないであろう。

これに反して文芸人によってつくられ、詩文調であり、文辞麗わしい諸経典は、外道に由 来するものであり、弟子たちの説いたものであるが、それらが説かれるときに、かれらはよ く聞こうとし、耳を傾けようとし、了解しようとする心を起こすであろう。それらの教えを、

受持すべくよく熟達すべきものであると考えるであろう。

かくのごとくにして、如来の説かれた、深遠にして意義が深く、 出世間のものであり、空 と相応している諸経典は消滅してしまうであろう。

ビクらよ。それ故にここでこのように学ぶべきである。 「如来の説かれた、深遠にし 意義が深く、出世間のものであり、空と相応している諸経典が説かれるときに、われらは よく聞くことにしよう。耳を傾け、了解しようという心を起こそう。 それらの教えを、受持 すべくよく熟達すべきものであると考えることにしよう」と』(中村元著『原始仏教の思想』 下)

まさに、この釈尊の予言の通りのことが起きたのである。

釈尊の説かれた教法とまったくちがう教えをのせた経典が、つぎつぎとつくられ、さも真 実の釈尊の教えであるかのようによそおわれて、世の中に広められた。

それを広めるために、釈尊のほんとうの経典は、低級で幼稚な教えときめつけられて、世 の中から抹殺されてしまったのである。

だれがそのようなことをしたのか?

「大乗仏教」と称する経典の作者たちと、その信奉者たちである。

では、その大乗仏教とはどういう経典か。

ようじゅきまいにちきこんにちは 般若経、華厳経、妙法蓮華経、涅槃経、観無量寿経、大日経、金剛頂経等である。 抹殺された釈尊のほんとうの経典とは、どういう経典か?

 

「優婆塞の八法

真の優婆塞とはいえません。努力と工夫によって、信・戒・施・聞・持・観を行い、さらに法 次法向を実践しなさい。 マハーナーマよ、これらすべてを実践してこそ真の優婆塞といえるの です」

と説かれました。

マハーナーマは仏さまに質問しました。

「世尊よ、自分を安しても他をしない優婆塞とは、どのような優婆塞を指すのでしょう 「か?」

仏さまはマハーナーマに告げられました。

「自分は仏の戒を受けてそれを守っても、他者に仏の正しい戒を受けることも、またそれを保つ ことも勧めない。自分は布施を行っても、他者が布施を実践するようには勧めない。 自分は塔寺 に参詣してもろもろの沙門に見えても、他者に塔寺に参詣してもろもろの沙門に見えるようには 勧めない。 自分は熱心に沙門の説法を拝聴しても、他者に正法を拝聴してそれを受け保つように は勧めない。 自分は仏法の深遠な教義をよく観察してそれについて熟考しても、他者には仏法の 深遠な教義をよく観察して、それについて熟考するようには勧めない。 自分は深遠な仏法を知り、 法に近づき、法を追求しても、他者が法に近づき、法を追求するようには勧めない。

マハーナーマよ、このように八法だけを成就する者は、自分を安らかにしめても他を安らか にし慰めない優婆塞というのです」

お釈迦さまは、「而も法次法向に随順して知らざる、是れ則ち具せざるなり」とおっしゃって おられますが、法次とは法に近づくことで、法向とは法を追及することです。ですから、仏さま や沙門の法話を聞き、観察・工夫しても常に法に近づき、法を追及しようとする努力がないなら ば満足な優婆塞とはいえない、ということです。

満足な優婆塞となるための条件を最初から挙げると、まず第一が信、そして順番に戒、施、聞、 持、観、法次、法向と全部で八つあります。 これを、「優婆塞の八法」と呼びます。

それぞれの意味を箇条書きにすると、次のようになります。

信・・・・・正しい智慧で信心の心を起こす

・・・・・・信の心を元に、やってよいことと悪いことの分別をつけ、仏教徒としてやってはい

けないことはやめ、やらなければいけないことは積極的にやる

を積むために布施の行をする

・・・・・・道場(精舎)に行って、仏さまや沙門の話を聞く

6持・・・・・・聞いた説法の内容を受持し、実行する

6観・・・・・・受持した教法の深い意味をよく観察し工夫する

6法次・・・法に近づく

8法向・・・法を追及していく

なのです。

お釈迦さまは、この八法を行うならば優婆塞事を満足する、とおっしゃいました。

ところがそれにもかかわらず、マハーナーマはさらに、

「世尊、 何が優婆塞能く自ら安慰し他を安慰せずと名づくるや」

と質問をしました。 これは、自分を安慰させても、人を安慰させることのできない優婆塞とい うのは、どういう優婆塞でしょうか、という意味です。

それに対してお釈迦さまは、次のような優婆塞は自分を安慰させることができても、人を安慰

させることはできない、とおっしゃっております。

○自分が信を持っても、他の者に信心を起こさせない

○自分が戒を保っても、他の者が戒を保つように努めない

○自分が布施をしても、他の者が布施をするように努めない

○自分が道場に参詣して法話を聞いても、他の者に参詣と法話の拝聴を勧めない

○自分が正法を受持しても、他の者に正法を受持するように勧めない

○自分が教法の深い意味を観察しても、他の者が教法の深い意味を観察するように勧めない

○自分が教法の深い意味を知り、法に近づこうとしても、他の者が教法の深い意味を知り、 法に近づこうとするように勧めない

自分が教法の深い意味を知り、法を追及しても、他の者が教法の深い意味を知り、法を追 及するように勧めない

要するに、八法を自分で実践するだけでは人を救うところまではいかない、ということです。 自分だけが修行をするだけで、それを人に勧めないようでは真の仏道とはいえない、ということ

 

 

 

教えを広く人々に伝えることで、真の優婆塞としての道

マハーナーマは仏陀の前にひざまずき、深く頭を下げて言った。

「世尊よ、どうか教えてください。自分を安らかにしながら、他を安らかにできない優婆塞とはどのような者なのでしょうか?」

仏陀は、穏やかな眼差しをマハーナーマに向け、静かに口を開いた。

「マハーナーマよ、自分だけが戒を守り、他者にはそれを勧めない者のことです。自分だけが布施を行い、他者に布施を教えようとしない者も同じです。仏法の教えを深く観察し、法に近づこうとしても、それを他に伝えることなく、自分の内に留めてしまう者。こうした者を指して、自分を安らかにすることはできても、他を安らかにできない優婆塞と呼ぶのです」

マハーナーマは静かにうなずいたが、さらに問いを重ねた。

「では、世尊よ、真に満足した優婆塞になるためには、どうすればよいのでしょうか?」

仏陀の表情は優しく変わり、まるで月明かりのように、言葉は一層柔らかく響いた。

「まずは信を持ち、正しい智慧によって心に信を起こすことです。信じる心があれば、戒を守ることも布施を行うことも可能です。そして、他の人々にもそれを勧めなさい。道場に赴いて説法を聞くときも、自分だけでなく他者にもその教えを伝えるのです。教えを心に深く受け取り、その意味を観察し、法に近づき、法を追い求める。そしてその全てを、他者にも勧めるのです。そうして初めて、真に満足した優婆塞となれるのです」

マハーナーマは仏陀の言葉に深く感じ入り、胸の中に静かにその教えを刻み込んだ。仏陀は続けた。

「もしも、自分だけが正しい道を歩み、他者にその道を示そうとしないなら、それは真の仏道とは言えない。自分のためだけでなく、他者をも安らかにすることが、真の優婆塞の道なのです」

仏陀の言葉は、夜の静けさの中で風のように漂い、マハーナーマの心に深く染み込んだ。そして彼は決意した。自らの修行をさらに高めるだけでなく、その教えを広く人々に伝えることで、真の優婆塞としての道を歩むのだと。

 

 

自利の八法

にして徳を積めばよいのか?」

と自分の身に照らして考え、よく理解しなければなりません。そうすることで初めて、法話の 内容が自分のものになります。 法話の内容を観察工夫すること、これが観です。

さてこれで、完全な優婆塞になるための条件は、信・戒・施・聞・持・観と六つになりました が、それでもお釈迦さまは、まだ足りないとおっしゃいます。

まだ、なにが必要なのでしょうか?

自利の八法

而不随順知法次法向。是則不具。以 不具故精勤方便。 信戒施聞。 受持観 察了達深義。随順行法次法向。 摩訶 男。是名満足一切種優婆塞事。 摩訶 男白仏。世尊。云何名優婆塞能自安

不安慰他 仏告摩訶男。 若優婆塞 能自立戒不能令他立於正戒。自持净 戒。不能令他持戒具足。 自行布施。 不能以施建立於他。自詣塔寺見諸沙 門。不能他令塔寺往見沙門。自 専聴法。不能勤人楽聴正法。聞法自 持。不能令他受持正法。自能観察甚 深妙義。不能劾人令観深義。自知深 法能随順行法次法向。不能励人令随 順行法次法向。摩訶男。如是八法成 就者。是名優婆塞能自安慰不安慰他。

  • 現代語訳

じゅしゃ

ぎょう

ほうほうこう

「而も法次法向に随順して知らざるは、是れ則ち具せざ るなり。具せざるを以ての故に精勤方便す。 信戒もて 聞き、受持し観察し、深義を了達し、法次法向に随順

りょうだつ

いっさいしゅ

して行ず。 摩訶男よ、是れを一切種の優婆塞事を満足す

あんに

「と名づく」と。 摩訶男、仏に白さく、「世尊よ、云何が 優婆塞能く自ら安慰し他を安慰せずと名づくるや」と。 仏、摩訶男に告げたまわく、「若し優婆塞能く、自ら戒

こんりゅう

に立つも他をして正に立たしむることわず。自ら 浄を持つも他をして持具足ならしむること能わず。 自ら布を行ずるも施を以て他を建立すること能わず。 自ら塔寺に詣で諸の沙門を見るも、他に勧めて塔寺に詰 ていて門を見せしむること能わず。 自ら専ら聴法す

らくちょう

も、人を勧めて正法を楽せしむること能わず。 法を 聞いて自ら持するも他をして正法を受持せしむること わず。自ら能く甚深の妙義を観察するも、人を勧めて深 義を親しむること能わず。 自ら深法を知り能く法次法 向に随順して行ずるも、人をして勧めて法次法向に随順 して行ぜしむること能わず。 摩訶男よ、是の如き八法成

じんぼう

就者は、是れを優婆塞能く自ら安慰し他を安慰せずと名

づくり」と。

もっぱ

「信・・・聞・持・観を行っても)法に近づく法次と、法を追求する法向を実践しなければ、

真の優婆塞とはいえません。努力と工夫によって、信・戒・施・聞・持・観を行い、さらに法 次法向を実践しなさい。 マハーナーマよ、これらすべてを実践してこそ真の優婆塞といえるの です」

と説かれました。

解説

3施

マハーナーマは仏さまに質問しました。

「世尊よ、自分を安しても他をしない優婆塞とは、どのような優婆塞を指すのでしょう 「か?」

仏さまはマハーナーマに告げられました。

「自分は仏の戒を受けてそれを守っても、他者に仏の正しい戒を受けることも、またそれを保つ ことも勧めない。自分は布施を行っても、他者が布施を実践するようには勧めない。 自分は塔寺 に参詣してもろもろの沙門に見えても、他者に塔寺に参詣してもろもろの沙門に見えるようには 勧めない。 自分は熱心に沙門の説法を拝聴しても、他者に正法を拝聴してそれを受け保つように は勧めない。 自分は仏法の深遠な教義をよく観察してそれについて熟考しても、他者には仏法の 深遠な教義をよく観察して、それについて熟考するようには勧めない。 自分は深遠な仏法を知り、 法に近づき、法を追求しても、他者が法に近づき、法を追求するようには勧めない。

マハーナーマよ、このように八法だけを成就する者は、自分を安らかにしめても他を安らか にし慰めない優婆塞というのです」

お釈迦さまは、「而も法次法向に随順して知らざる、是れ則ち具せざるなり」とおっしゃって おられますが、法次とは法に近づくことで、法向とは法を追及することです。ですから、仏さま や沙門の法話を聞き、観察・工夫しても常に法に近づき、法を追及しようとする努力がないなら ば満足な優婆塞とはいえない、ということです。

満足な優婆塞となるための条件を最初から挙げると、まず第一が信、そして順番に戒、施、聞、 持、観、法次、法向と全部で八つあります。 これを、「優婆塞の八法」と呼びます。

それぞれの意味を箇条書きにすると、次のようになります。

信・・・・・正しい智慧で信心の心を起こす

・・・・・・信の心を元に、やってよいことと悪いことの分別をつけ、仏教徒としてやってはい

けないことはやめ、やらなければいけないことは積極的にやる

を積むために布施の行をする

・・・・・・道場(精舎)に行って、仏さまや沙門の話を聞く

6持・・・・・・聞いた説法の内容を受持し、実行する

6観・・・・・・受持した教法の深い意味をよく観察し工夫する

6法次・・・法に近づく

8法向・・・法を追及していく

なのです。

お釈迦さまは、この八法を行うならば優婆塞事を満足する、とおっしゃいました。

ところがそれにもかかわらず、マハーナーマはさらに、

「世尊、 何が優婆塞能く自ら安慰し他を安慰せずと名づくるや」

と質問をしました。 これは、自分を安慰させても、人を安慰させることのできない優婆塞とい うのは、どういう優婆塞でしょうか、という意味です。

それに対してお釈迦さまは、次のような優婆塞は自分を安慰させることができても、人を安慰

させることはできない、とおっしゃっております。

○自分が信を持っても、他の者に信心を起こさせない

○自分が戒を保っても、他の者が戒を保つように努めない

○自分が布施をしても、他の者が布施をするように努めない

○自分が道場に参詣して法話を聞いても、他の者に参詣と法話の拝聴を勧めない

○自分が正法を受持しても、他の者に正法を受持するように勧めない

○自分が教法の深い意味を観察しても、他の者が教法の深い意味を観察するように勧めない

○自分が教法の深い意味を知り、法に近づこうとしても、他の者が教法の深い意味を知り、 法に近づこうとするように勧めない

自分が教法の深い意味を知り、法を追及しても、他の者が教法の深い意味を知り、法を追 及するように勧めない

要するに、八法を自分で実践するだけでは人を救うところまではいかない、ということです。 自分だけが修行をするだけで、それを人に勧めないようでは真の仏道とはいえない、ということ

自利利他の十六法

摩訶男白仏。世尊。優婆塞成就幾法 自安安他 仏告摩訶男。若優婆塞成 就十六法者。是名優婆塞自安安他。 何等為十六。摩訶男。若優婆塞具足 正信。 建立他人。自持浄戒。亦以浄 戒建立他人。自行布施。教人行施。 自詣塔寺見諸沙門。亦教人往見諸沙 門。自専聴法亦教人聴。自受持法。 教人受持。自観察義教人観察。自知 深義随順修行法次法向。亦復教人解

阿含経

なんち

摩訶男、仏に白さく、「世尊よ、優婆塞はの法を成就 自ら安んじ他を安んずるや」と。仏、摩訶男に告げた まわく、「若し優婆塞十六法を成就する者は、是れ優婆 自ら安んじ他を安んずと名づく。何等を十六と為す。 摩訶男よ、若し優婆塞、 正信を具足し、他人を建立し、 自ら浄戒を持し、赤浄戒を以て他人を建立し、自ら布施 を行じ人にを行ずるを教え、自ら塔寺に詣で諸の沙 門に見え、本人に往きて諸の沙門に見えるを教え、自ら 専ら法を聴き、本人に聴くを教え、自ら法を受持し、人 に受持するを教え、自ら義を観察し、人に観察するを教 え、自ら深義を知り法次法向に随順して修行し、亦復た

了深義。随順修行法次法向。 摩訶男。 如是十六法成就者。是名優婆塞能自 安慰安慰他人。 摩訶男。 若優婆塞 成就如是十六法者。彼諸大衆悉詣其 所謂婆羅門衆。 利利衆。 長者衆。 沙門衆。於諸衆中威德顕曜。譬如日 輪。 初中及後光明顕照。 如是優婆塞 十六法成就者。 初中及後威徳顕照。 如是摩訶男。若優婆塞十六法成就者。 世間難得。仏説此経已。 釈氏摩訶男 聞仏所説。 歓喜随喜。 即従坐起作礼 而去

と。

現代語訳

阿含経切事

マハーナーマは仏さまに申し上げました。

だいしゅことごと

人に深義を解了し、法次法向に随順して修行するた 摩訶男よ、是の如く十六法成就する者は、是れを優婆塞

摩訶男よ、 能く自ら安慰し他人を安慰すると名づく。 若し優婆塞の是の如き十六法を成就する者は、彼の諸 利 大 悉く所にするなり。調婆羅門衆、

しゅちょうじやしゅしゃもんしゅ

にちゃん しょうゆう

長者、沙門衆んじゅちゅう 威徳顕曜せん。

えば輪の初中及び後に光明細照するが如く、是の 優婆塞の十六法成就する者も、初中及び後に威徳顕 せん。是の如く摩訶男よ、若し優婆塞十六法成就する 者は、世間に得難し」と。仏此の経を説き已りたまいし に、釈氏摩訶男、仏の説かせたまえるを聞いて、飲喜し し従り起ち礼を作して去りき。

「世尊よ、いくつの法を成就する優婆塞が、 自分を安んじ他を安んずる優婆塞なのでしょう か?」

優婆塞の十六法を成就する者が、自分を安んじ他を安んずる優婆塞です。 では、十六法とはど のようなものでしょうか?

とくけんよう

マハーナーマよ。自分自身が正しい信を持つと共に、他者にもそれを確立させる。 自分が浄戒 を保つと共に、他者にも浄戒を確立させる。 自分が布施を行うと共に、他者にも布施行を教える。 自分が塔寺に参詣してもろもろの沙門に見えると共に、他者にも塔寺への参詣と沙門に見えるこ とを教える。自分が沙門の説法をひたすら拝聴すると共に、他者にも説法を拝聴することを教え る。自分が法を受持すると共に、他者に受持することを教える。 自分が仏法の深義を観察すると 共に、他者に仏法の深義を観察することを教える。自分が仏法の深義を知って法に近づき法を追 求すると共に、他者に仏法の深義を理解させて、また法に近づき法を追求する修行を行わせる。 マハーナーマよ、このように十六法を成就する者は、自分を安んじ慰めて他人を安んじ慰める 優婆塞というのです。

マハーナーマよ、この十六法を成就する優婆塞のもとには、あのもろもろの大衆がすべて参詣 するようになります。 その大衆とはいわゆるバラモンたち、クシャトリアたち、長者たち、沙門 たちであり、それらの人々の中においても十六法を成就する優婆塞の威徳は大いに輝きます。 ち ょうど太陽の光明が日の出から日没まで大いに輝き続けるのと同じように、優婆塞の十六法を成 就する者の威徳は大いに輝き続けるのです。 ◎四五

マハーナーマよ、このように優婆塞の十六法を成就する者は、世間に得難い存在なのです」

マハーナーマはこの仏さまの説法を拝聴して大いに喜び、また仏の教法を讃歎したのちに座を 立って礼を行い、その場を去りました。

お釈迦さまのお答えを聞いた後で、 マハーナーマは「世尊よ、優婆塞は幾の法を成就し自ら安 じ他を安んずるや」と質問をしました。

ここに、安んじという言葉が出てまいりますが、これは、単に心が安らかになる、ということ ではなく、成仏するという意味です。 なぜならば、すべての因縁を解脱しなければ、完全に安ら かになることはできないからです。因縁を切って初めて、本当の安心が得られるわけです。

たとえば、瞑想や坐禅によって安心が得られるという方がおりますが、瞑想や坐禅をやってい る時は迷いが消えても、因縁がそのままになっているならば、瞑想の定が解けた時にまた苦しみ が襲ってきます。ですから、真に安らかな状態というのは、すべての因縁を解脱し、成仏した状 態なのです。

そのように考えていきますと、「優婆塞は幾の法を成就し自ら安じ他を安んずるや」とは、 「優婆塞はいくつの法を成就すれば、自分を成仏させ、他の者を成仏させることができるのでし ょうか?」

という意味になります。

その質問に対して仏さまは、「若し優婆塞十六法を成就する者は、是れ優婆塞自ら安んじ他を

「安んずと名づく」とお答えになられました。 これは、

「優婆塞は十六法を成就すると、自分を成仏させ、他人を成仏させることができるのだ」

という意味です。

それでは十六法とはどういうものか、箇条書きにしてみましょう。

自ら正信を持つ

2他の者にも正信を持たせる

3自ら浄戒を保つ

阿含経一切

他の者にも浄戒を保たせる

5自ら布施の行をする

6他の者に布施の行を教える」

自ら塔寺に参詣し、もろもろの沙門から教えを聞く

他の者に塔寺に参詣してもろもろの沙門から教えを聞くことを教える

9沙門から聞いた教法を自ら受持する

他の者に、沙門から聞いた教法を受持するように教える

自ら教法の深養を観察する

他の者に教法の深義を観察することを教える

自ら法に近づく

4他の者に、法に近づくことを教える

自ら法を追及する

となります。

います。

河合

他の者に、法を追及することを教える

要するに、八法を自らが実践すると共に、他の者にも八法を勧めることが十六法であり、この 十六法を実践することによって、自分も他人も成仏させることができる、と説かれているわけで す。そして、それが優婆塞の本道だ、というわけです。

したがって、「一切事経』のこの部分は、

「阿含経は自分だけの悟りを考える小乗経典ではない」

ということを証明しています。

正信を広める

もし、お釈迦さまが優婆塞の八法だけを説いていたならば、やはり「阿含経」は小乗経典とい わざるを得ません。なぜならば、八法とは自分だけの修行だからです。八法で他人のことを考え ているのは施ぐらいのもので、他は自分の悟りのことだけを考えています。

その施にしても、自分が布施をして自分が徳を得るのですから、他の人に布施を勤め、その人 が徳を得るようにしてあげるのと比較すれば、やはり、利他の行というよりは自利の行に近くな ます。

だからこそ、お釈迦さまは八法だけではなく十六法を説かれました。 他を利益し、成仏に向か わせることを強調されたのです。このことから、お釈迦さまの教法もそれをまとめた「阿含経」 も小乗ではなく、むしろ自らを大乗といっている人たち以上に大乗である、とわたくしは考えて

わたくしは、「阿含経」の中で、お釈迦さまがこの十六法をお説きになっていらっしゃるから こそ、阿含宗の立宗を決意しました。もしも八法しか説かれていなければ、阿含宗という教団は 立宗できません。 自分だけ悟ればいい、自分だけ成仏すればいい、という仏教を立ててもしかた がないからです。

ところが、お釈迦さまは自他共に成仏させる十六法を説いていらっしゃいます。 だからこそ、 わたくしは困難な道ではありますが、 阿含宗立宗に踏み切りました。 これは、大切なことですか ら、しっかりと覚えておいていただきたい。

お釈迦さまは十六法において、

「摩訶男よ、若し優婆塞、 正信を具足し、他人を建立し」

とおっしゃっておりますが、この中の「正信」は非常に大切な意味を持っております。この、 「正信を具足して」というのは、ただ単に仏教に対する信仰を持て、ということではありません。 正しい信でなければいけないよ、と念を押されておられるわけです。さり気ない言葉ですが、そ の意味するところはとても深いといえます。お経というものには、大切な言葉がさり気なく説か

れていることがよくありますが、これもその一つです。

なぜ、「正信を具足して」という言葉がそれほど大事なのか?

お釈迦さまが「正信を具足して」と明言されたということは、 正信でない仏教もあるというこ とになるからです。もしも、正信ではない仏教が存在しないのならば、「正信を具足して」など とわざわざ説かれるはずがないでしょう。お釈迦さまは、 正信ではない仏教が登場することを予 見しておられたからこそ、「正信を具足して」 とおっしゃったのです。

このことについて、わたくしは『輪廻する葦」(平河出版社)の中で、お釈迦さまの予言として 挙げていますので見てみましょう。

最も古い経典は、釈尊の予言として、次のようにつたえている。

『ビクらよ。 未来世にビクどもは次のようになるであろう。如来の説かれたこれらの諸経典 は深遠であって意義が深く、出世間のものであり、空と相応しているものであるが、それら が説かれるときに、かれらはよく聞こうとしないし、耳を傾けようとしないし、了解しよう という心を起こさないであろう。それらの教えを、受持すべくよく熟達すべきものであると は考えないであろう。

これに反して文芸人によってつくられ、詩文調であり、文辞麗わしい諸経典は、外道に由 来するものであり、弟子たちの説いたものであるが、それらが説かれるときに、かれらはよ く聞こうとし、耳を傾けようとし、了解しようとする心を起こすであろう。それらの教えを、

受持すべくよく熟達すべきものであると考えるであろう。

かくのごとくにして、如来の説かれた、深遠にして意義が深く、 出世間のものであり、空 と相応している諸経典は消滅してしまうであろう。

ビクらよ。それ故にここでこのように学ぶべきである。 「如来の説かれた、深遠にし 意義が深く、出世間のものであり、空と相応している諸経典が説かれるときに、われらは よく聞くことにしよう。耳を傾け、了解しようという心を起こそう。 それらの教えを、受持 すべくよく熟達すべきものであると考えることにしよう」と』(中村元著『原始仏教の思想』 下)

まさに、この釈尊の予言の通りのことが起きたのである。

釈尊の説かれた教法とまったくちがう教えをのせた経典が、つぎつぎとつくられ、さも真 実の釈尊の教えであるかのようによそおわれて、世の中に広められた。

それを広めるために、釈尊のほんとうの経典は、低級で幼稚な教えときめつけられて、世 の中から抹殺されてしまったのである。

だれがそのようなことをしたのか?

「大乗仏教」と称する経典の作者たちと、その信奉者たちである。

では、その大乗仏教とはどういう経典か。

ようじゅきまいにちきこんにちは 般若経、華厳経、妙法蓮華経、涅槃経、観無量寿経、大日経、金剛頂経等である。 抹殺された釈尊のほんとうの経典とは、どういう経典か?