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ノストラダムスの予言詩にある「金星の法」とは何か。それは、ただの寓話や象徴ではなく、深遠なる真理を秘めた法であると、私はかねてより考えていた。そしてその法が「求聞持聡明法」であると気づいたのだ。

この法は、金星、すなわち「明星」を祀り、観想を凝らして、マントラを唱える修行である。それ以上に「金星の法」としてふさわしいものが他にあるだろうか。この法は、人の脳を改造し、優れた賢人へと導く力を持つとされている。まさに、救世主の法とするにふさわしいものであった。

私が最初にこの法に触れたのは、ある静寂な修行の最中であった。脳内、特に間脳や視床下部にかけて、強烈な光のような刺激を感じたのだ。それは神経経路がスパークし、未知の力が目覚める瞬間であったかもしれない。脳底にきらめくその光は、まさに金星の輝きだった。

だが、私は気づいた。この光はただの物理的な現象ではない。ノストラダムスが未来に予言した「金星の法」とは、真言密教の求聞持聡明法を超えた、仏陀の法にこそ関わるものだったのだ。なぜなら、仏陀の法でなければ、この脳の深奥から現れる金星の輝きは決して見られないからだ。

ノストラダムスは四五〇年もの昔に見たのだ。未来の世に現れる賢者の脳の奥深くで、然ときらめく金星の光を。そして彼はそれを「金星の法」と名づけたのである。

だが、この法を持つ者には、他の何者も持ち得ない二つの力が備わっていなければならない。

まず第一に、それは人間の脳に宿る致命的な欠陥を根本から改造する力だ。この力によって、凡人が賢者へと昇華し、目覚めることが可能になる。

そして第二に、メシアの法は、生者だけでなく、死者をも救う力を持たなければならない。全地球を覆う死者の怨念を消し去る力こそが、真の救世主の証である。

地球上に存在する霊的な力を持つ者ならば、誰しもが死者の悲しみと嘆きの声を耳にする。それは心を揺さぶり、深い哀しみを呼び起こす。だが、この怨念のバイブレーションは生者の深層意識をも動かし、無意識のうちに幼き心にさえ深い傷を与えているのだ。

それこそが、人々が無意識に抱える恐怖であり、苦しみの源である。そして、その恐怖を超えて真理に至るためには、「

金星の法」を得た者が現れ、すべてを浄化する時が来るのを待つしかないのであろう。

日が暮れかけた静かな寺院の庭には、風に揺れる竹林の音が心地よく響いていた。老僧は瞑想の姿勢を崩さず、目を閉じたまま弟子たちに語りかける。

「まず、身見について話そう。これは、何かが”我”という実体を持って永遠に存在するという誤った考えのことだ。私たちはしばしば、自分の身体や感覚を”自分”だと思い込む。だが、それはあくまで仮の姿にすぎない。この体も心も、因縁によって一時的に存在しているものなのだ。」

弟子の一人が眉をひそめて問う。「師匠、それは”我執”と同じですか?」

老僧は軽くうなずく。「そうだ、身見にはもう一つの意味がある。それは我執、つまり自分自身を中心にすべてを考え、行動する自己中心的な心だ。この執着を断たなければ、真の解脱は得られない。」

風が一瞬強まり、竹林の葉が激しく揺れる。老僧の声はその風の音に負けぬよう、続けて語った。

「次は疑だ。これは、仏陀の教えに対して心の中に生まれる迷いや疑念を指す。正しい道を歩んでいても、疑いがあるとその進みは鈍る。この疑いを断ち切らねばならない。」

弟子たちは一斉に静まり返った。その中の一人が小さくつぶやく。「信じることが難しいのです。」

老僧はそれを聞き逃さなかった。「そうだ。信じるのは難しい。しかし、疑いを捨てなければ道は開かれぬ。疑いは重い鎖となって、進むべき道を遮るのだ。」

老僧は手を軽く振り上げ、次に語るべきことを指し示すかのように竹林を指した。

「そして戒禁取だ。これは、仏教以外の戒律や教えに固執し、それを正しいと信じることを指す。真の解脱は仏陀の教法にのみ存在するのに、他の教えに迷い込む者は多い。この執着を断ち切らねば、涅槃に至ることはできない。」

弟子たちの中に、一人目を伏せたまま黙り込む者がいた。老僧はその姿を見つめながら続けた。

「欲愛。五欲への執着、すなわち感覚的な快楽を追い求める心だ。これもまた、私たちの心を縛る鎖だ。物欲や肉体的な欲望に囚われては、清浄な心を持つことはできない。」

そして最後に、老僧はその穏やかな目を開き、弟子たちを見渡した。「最後は瞋恚。これはただの怒りではない。自分の思い通りにならないことに対して、すべてに怒りを抱く愚かな心のことだ。因縁因果の道理を理解すれば、無闇に怒りを抱くことなどできないはずだ。」

静寂が戻り、竹林の音だけが再び響き渡る。弟子たちはそれぞれ、心の中で老僧の言葉を反芻し、瞑想の深みに沈んでいった。彼らは、欲や怒り、そして自己への執着を乗り越えるための長い道のりを歩み始めていた。

 

のテーマ

一、 身見(我見ともいう)

これには、二つの意義があります。

一つは、さきのアートマンのところでおはなしいたしましたように、「我」というものが、常 実在であると考える考えかた、これが身見です。 これはまちがいで、「我」は、五陰が因縁 によって仮合したものであるとする仏教の考え方が正しいのです。 まず、 この身見を断滅すると

つぎにもう一つは、「我執」 「我慢」という意味の身見です。 これは、我が身を主に、我が身を 中心にすべてを考え、行動する自己中心の考えです。

「二人のために、世界はあるの」という歌がありまして、結婚式に出るとよくこの歌を聞かされ ますが、それが、二人のために、ではなくて、自分のために、世界はまわっているというような 考えかた、この自己中心の考えかたをまず捨てることが、仏道修行の第一歩です。

よく、我がつよい、と申します。我がつよくて、おれが、おれが、というこころが先にたちま すと、どんなによいことを聞いても、学んでも、身につかない。こころを謙虚に、すなおに聞く という態度が一番たいせつです。わたくしは、昔から、我とは因縁のあらわれであり、因縁は我 にあらわれる、その人がどんな性癖を持っているか、それをみればその人の因縁がすぐわかる、

と申しておりますが、その性癖の中で、おれが、おれが、と自分をハナにかける性癖が一番よく ない。この性癖をとるところから、仏道修行がはじまるのです。

それは、あながち仏道修行だけではない。なんの道でも、クセをとるところからはじまる。 ス ポーツでも芸道でも、みなそうです。

小松原三夫さんという、ゴルフのコーチの名人がいます。 このかたはまさに、ゴルフのコーチ では名人ですが、このかたのところに、ある人が入門した。小松原先生が、

「ゴルフをはじめて、どのくらいになります?」

そうたずねた。

「二年ほどになります」

と答えるとにより

「ははあ、四年ほど損しましたな」

といわれたという。

つまり、二年間、我流のゴルフをやっていたから、その我流のクセをとるのに、四年かかると いう意味です。わたくしは、このはなしを聞いてたいへん感銘をうけたので、これを応用しよう かと思っています。修行したいという人がきたら、

「あなたおいくつですか?」

わたくし、五十歳です」

二、疑惑

三、戒取

「ははあ、百年損しましたな」(笑)たち

以上

です。

とにかく、クセという因縁を切るためには、我を捨てなければいけない。自分というものは五 陰の仮合したものであるから、どのようにでも変わることができる。 手におえない悪党でも仏に 変わることができる。 それにはまず、 悪党の)我を捨てなければいけない。

うたがいまどう、ということです。 なににたいして、うたがいまどうのか。仏陀の正しい教法 にたいして、です。

世の中には、ずいぶん疑いっぽい人がいまして、なんにでも疑ってかかる人がいる。 しかし、 この十詰の中の疑惑というのは、なんでも疑うという疑惑ではなく、釈尊の正法にたいして、疑 いまどうことをいうのです。釈尊の正しい教法にたいして、いっさいの疑惑を捨て、心の底から 信じてこれを仰ぐ。 これが、第二の、疑惑を断つ、ということです。

この取というのは、仏陀の正しい教法を理解せず、あるいは理解しようとせず、それ以外の

教え、たとえば道徳とか、仏教以外の宗教、そういったものを「ぜったい正しい」と信じて固執 することです。これを「取」という。は、い

因縁因果の道理と、業報の真理の上に立ち、これを解説して涅槃に至るという釈尊の教法にま さる宗教は、ほかにぜったいないのです。それを知らず、また知ろうとせず、低級な宗教や信

また、霊に関することは一切解決できない道徳の教えなどに固執して、「これが最高だ」とし ている不霊な態度、 これが戒取です。 そこにはまったく救いがありません。

夏を抱き

断じますと、さきに申しました須陀で、すでに聖者の流れに入っている。 まあ、天 となったり、人間となったり、数回くり返さなければならないが、涅槃に入ることはもう時間の 問題とされる。なによりもすばらしいことは、もはや二度と悪趣に落ちない、ということですね。 さて、 そこで、一つの問題が出てきます。

「三結」さえ断じていない名僧たち

以前、わたくし、或る霊能者に会って、こういう質問をうけたことがあります。 その霊能者と

と不満そうでした。

いうのは、まだ若く、その道では多少知られておりましたが、有名というほどではありませんで した。 その質問というのは、

「日本の仏教の宗祖、あるいは有名な高僧たちが、地獄に落ちて苦しんでいるすがたを霊視する んですが、これはどういうわけでしょうか?」

というのです。 わたくしは一笑にふして、を捨てなければいけない。

「それはあなたの見まちがいだろう。ほかの霊視については、あなたの力をみとめるが、このこ だけはおかしい。そんなことがあるはずはない。あなたの見まちがいだ」

「そうですかなあ、わたしはぜったいにまちがいないと思っているんだが、あなたにお聞き したらわかると思っていたんだが―」

かれは、かなりの霊視能力を持っており、わたくしの感心するような霊視もしてみせました が、これだけは同調できませんでした。かれは、高僧たちが如実に苦しんでいるすがたを見、声 も聞いた、と真剣でしたが、わたくしは一笑にふしたのでした。

しかし、これは、いまにして思えば、かれのことばに、もう少し真剣に耳をかたむけるべきで はなかったかと思うのです。

というのは、かれの霊視に、その可能性がないとはいえないのです。

十結の第二になんとありますか。 疑惑ですね。 これは、仏陀の正しい教法に疑いうこと、 とあります。日本の仏教の宗祖や、高僧たちは、釈尊の正しい教法を、疑い惑うどころか、これ を小乗として抹殺してしまった。疑い惑う以上、何倍もの説法の罪をおかしているわけです。 そ うして、たくさんの人たちに、釈尊のほんとうの教法にたいし、疑惑を持たせるようなことをし た。これはたいへんなあやまりです。)

それが、僧ならばたいしたことはない。影響力がないですからね。 しかし、高僧になるほ ど、信念がつよく、行動力がある。影響も大きい。高僧、名僧になるほど、地獄に落ちる可能性 が高いということになるのじゃありませんか?

もちろん、こういうかたがたは、人格高潔、才能ゆたかで、とにかく仏教を弘めたという大功 績が一方にありますから、 ぜったいに地獄になぞ落ちるということはあり得ないでしょうが、し かし、見かたによると、三結すら断じていないということになる。というのは、第三の、取に もひっかかるおそれがあるからです。すると、これらのかたがたは、聖者にもなっていないとい うことになる。それだけではない。須陀道になれなければ、悪に落ちる恐れがあるのです。 経 文になんとありますか。 「断じて悪に堕ちず」とあります。三結を断じてはじめて悪趣 に落ちないようになるのだから、三結を断じて須陀になれなければ、悪趣(地獄・餓鬼・畜生) に落ちる恐れがあるわけです。これはたいへんなことですね。

まあ、これは、釈尊のお説きになった阿含の立場からいうとそうなる、ということで、あまり 気になられては困りますが、阿含宗の成仏法、準胝尊千座行法をやっている諸君は安心です ね。 一生けんめいやっている連中は、疑惑も取もほとんど断じている。

ただ、どうも、第一の身見が残っている人たちが多い。我のつよい人がすくなくない。

これは、他の宗教の人たちと、ちょっと逆になっているところがある。よその宗教の人たち は、「我をなくせ」「我をなくせ」といわれて、修養するから、 我のなくなった、 すなおな人がじ つに多い。修の積んだりっぱな人をよく見かけます。

そのかわり、第二、第三でみな、聖者になれない。わが宗では、第二、第三はほとんど断じて いる。ただ、第一の身見の断じかたが足りない。我がつよいところがまだ少し残っている。これ 断じられたら、みな、須陀道だ。みんな預流で、聖者の流れに入る。ここにいる諸君みな聖者 です。これだけの人がみんないっせいに歩きはじめたら大行進ですね。ひとつわが教団のテーマ 音楽を「聖者の行進」にしましょうか(笑)。

つぎにまいりましょう。

五瞋恚

いかりです。

阿羅漢を小乗としたカラクリ

これは本能的な欲望のむさぼりです。 妊欲・食欲・睡眠欲(怠惰)等、いやしい低級な本能に もとづくところの、のむさぼりです。 要するに、五欲をもとにした、欲望のむさぼりです。

しかしこれは、ただたんに腹を立てる、というような感情的なものだけではなくて、自分の思 う通りにならないことにたいしすべていかりを発する愚のこころです。愚癡というのは、因縁 因果の道理のわからないことで、ほんとうに因縁因果の道理がわかったら、そうむやみに腹を立 て、いかりを発することはできません。 」

ひどい目にあわされた、といって相手のことを一方的にわるくいう。 はなしを聞いてみると、

自分が相手にたいして欲ばりすぎて、大もうけをしようといううまいはなしに乗っかって、それ で損をした。

「あいつはわるいやつだ。 どろぼうよりもわるい」

なぜどろぼうよりもわるいやつに金を出したのかというと、自分がはたらかないでうんともう かる、というようなうまいはなしに、乗っかってしまったわけです。

そんなうまいはなしがあるはずない。そんなうまいはなしがきたら、マユにツバをつけてじっ と考えてみればよい。 すぐわかる。それが、歌が先に立ってしまうから、「一口十万円出せば、 翌月から五万円ずつ、毎月配当する」といわれて、「一口十万円で五万円、十口だと五十万円、 百口だと五百万円、これはいいぞ」というんで、あり金残らずかき集め、その上、友人知人、サ ラ金からまで借金して、相手にわたす。最初一回か二回は配当をくれるが、そのあとはナシのツ ブテ なんにもいってこない。あわてて飛んでゆくと行方不明、あわてて警察に訴えて出て、つ かまえたところで一銭も返っては来やしない。

一番わるいのは自分の。それを考えたなら、まず反省するのが先に立って、腹が立つのはそ のあとになるはずです。 ところがそういう人に限って、ぜったいに反省しない。 自分が損をした のは相手がわるい、世の中がわるい、釈迦がわるい(笑)などというところまで発展してしまう。 だから、これを、愚かでだという。この職は、因縁因果の道理にくらいことをいうので、

これをいましめるわけです。

六、色 貪

七 無色食

これから、五上分結に入ります。 もうすでに、聖者となり、阿那合にまで到達したひとたちが 修行の対象とするものですから、非常に高度なものであり、その境界に達したものでなければわ かりません。かんたんに解説しておきます。

色の色は、いつもいうように、物質のこと。 色情のむさぼりではありません。物質世界に たいする欲望です。前の欲は、本能の欲望のむさぼりですが、この色は、物質世界にたいす むさぼりです。物質にたいする欲望は、すべて色になります。

これは、精神世界にたいする欲望

色はまだ切れるが、この無色食のむさぼりは、切るのが非常にむずかしいとされています。 どういうものかといいますと、たとえば、釈尊のようなおかたでも、最初、この無色をおか していたのではないかと、わたくしは思います。釈尊は、六年間、「麻麦の行」をされて、何度 死ぬほどの苦行をされた。なんのために、そんな苦行をされたのか。「さとりをひらきたい」

「いろいろな方法を駆使して修行を行っても成就しない者が、もろもろの煩悩が尽き、心に解脱 を得たいと思っても、あの僧侶(修行者)たちは、ついに漏解脱を得ることはできません。

それはなぜでしょうか?

修行していないからです。

なにを修行していないのでしょうか?

それは、いわゆる四念処法 (四念処観)・四正法(西)・四如意足法(四神足法)・五根 五法 覚法・八正道を修行していないのです」

ここは、『応説経』の中でも特に重要なことが、説かれているところです。

解脱とは、 編 (煩悩がすべて尽きた状態ですから、完全解脱、つまり成仏したというこ とです。その完全成仏を心から願って修行しているのに、それができない僧侶たちがいる、とお 釈迦さまがおっしゃっておられるわけです。これは大問題です。

なぜ、その僧侶たちは成仏できないのか? それは、四念処法・四正動法・四如意足法・五根 法・五力法・七覚支法・八正道を修行しないからだ、とお釈迦さまは説かれているわけです。

この四念処法四正動法・四如意足法・五根法・五方法・七覚支法・八正道というのが、わた くしがいつもお話ししているお釈迦さまの成仏法、「七科三十七道品」です。わたくしはこれを、 成仏のための七つの科目(システム)、三十七の修行法 (カリキュラム)であると申し上げており ます。 念処・正勤・如意足・根・力・覚・道で七科目。そして、それぞれが四・四・四・五・ 五・七・八からなる修行によって成り立っておりますから、全部を合わせて三十七になるわけで す。

お釈迦さまは、この修行を行わない者はたとえそれが僧侶であっても、その人がどのように成 仏を望んでも、絶対に成仏することはできない、とおっしゃっています。

七科三十七道品

三十七の科目が、古の道に従う修行者の前に静かに並んでいた。それは心を清め、真理へ至るための道標であり、一歩一歩を進むことで、彼らは己の魂の深淵へと近づいていく。

「四念処法」、これはまず最初の一歩だ。身、受、心、そして法に対する観察。彼らは己の肉体を見つめ、痛みや快楽を超え、心の動きを静かに観察する。全ては移ろい、変化していく。何も永遠ではない。ここでの訓練は、己の心の動きを捕らえ、真の姿を見つめることである。

次に「四正断法」。断絶と修行がここに含まれている。過ちを断ち、善行を育てるために心を律し、邪念や執着を振り払うための試練だ。断ち切ること、守ること、修めること、全てがここでの修行の基礎となる。

「四神足法」は特異な修行法だった。これは神通力、すなわち超自然の力を得るためのもので、望む力、勤める力、心の集中力、そして観察力の四つの柱から成り立っていた。これは彼らにとって、未知の力を探求する冒険であり、危険を伴う領域への旅だった。

「五根法」と「五力法」は、信じること、精進すること、集中すること、そして智慧を磨くことに焦点を当てた修行である。彼らは己の信念を根底から強固にし、その信念を行動に変え、力として身につけていく。まるで大樹が根を張り、枝葉を広げるかのように。

七つの「覚支法」、それは真理への目覚めを導くものである。彼らは法を選び、喜びを感じ、安らぎを求め、執着を手放し、心を定め、そして最終的には完全なる覚醒を目指す。これは悟りの境地へ至るためのステップであり、何も捨てることなく、全てを受け入れる修行だ。

そして最後に「八正道法」。正しい見方、思考、言葉、行い、生活、努力、念、そして定。これは彼らの人生の指針であり、彼らが生きるための道しるべであった。この道を歩むことこそが、彼らが目指す究極の真理への道である。

これら全てが、瞑想、実践、そして特殊な修行に分類される。それぞれが異なる目的を持ちつつも、全ては一つの真理へと収束していく。修行者たちは、この七科目を自らの糧とし、聖師の導きのもと、自らの魂を鍛え続ける。

 

二十一世紀へ仏教の常識を破壊せよ

その力をあたえる五力法と七覚支法

私は、さきに、七科目、三十七教程の成仏法を紹介した。

しかし、修行者は、これを全部、修行しなければならないわけではない。

導師が教示してくれた主要な一科目を中心に、いくつかの教程を併合したものを修行して

弟子によって、みな、素質・能力・環境等(総称して、“因縁”という)が違うので、導師

かんあん

それらを勘案して、最も適切な教程を作製してさずけるのである。

私が用うる代表的な修行法を、つぎに示そう。

これは、さきにのべた成仏法の中の「七覚支法」と「五力法」を合わせて作製したもので

この場合、五力法は、だいたい基礎訓練に用いる。

五力法とは、つぎのようなものである。

この訓練によって、信念の力が極度に発達し、いかなる困難に遭っても屈することなく、 信念を曲げることがなくなる。

困難に遭えば遭うほど、目的に集中し、努力する能力と性格を持つようになる。

異常なほど念力が強化される。

太陽光をレンズに集中して発火させるほどの念の力が養成される。

この法で強化された念の力は、信じられないほどの力を発揮する。

この法の訓練から、クンダリニー・ヨーガの課程に入る。

じょうりき

定 力法

タバス

強化された念の力で、高度の瞑想や、特殊な練行を行う。

この訓練で、人間ばなれした力が身にそなわりはじめる。

クンダリニー・ヨーガの特殊訓練がはじまる。

力法(智力法ともいう)

高度の智慧を身につける訓練である。

私は、求聞持聡明法の修行から始めさせる。

以上の五力法を基礎訓練とし、この五力法の上に立って、つぎの本格訓練に入ってゆく。

七党支法

七覚支法は、すべて、クンダリニー・ヨーガの訓練と併合しておこなわれる。

これは、私の発見である。

最初、私は、仏陀の成仏法に挑戦して、まったく歯が立たなかった。手も足も出なかった。 なんとか手がかりをつかもうと、四苦八苦しているうちに、阿含の文献の中に、「ゴータマ・

アーセト

あろう。

ちゅくほう

択法覚

ブッダは、ヨーガの達人。 と呼ばれる」という文章を発見した。

この事を考えているうちに、この“ヨーガは、ラージャヨーガと、クンダリニー・ヨ

ーガに違いないと、思いあたった。

精進党支

たんちょ

それを端緒にして、十数年かかって、私は仏陀の成仏法の秘密を解いた。

まさに、仏陀釈尊は、クンダリニー・ヨーガの達人だったのである。

クンダリニー・ヨーガの体得なくして、仏陀の成仏法には一指もふれることができないで

「択」とは「えらぶ」という意味で、あらゆるもの(法)の中から真実のものをえらび出し、 真実ならざるものは捨て去る智慧の獲得である。

「さきにのべた「事物の明確な認識と予知」の力は、この択法覚支から得られるのである。

精進努力し、能力が増加、あるいはあたらしい能力を身につけることに喜びを感じます ます訓練に精勤するようになる。 どんなにきびしい修行でも、喜びをもって受け入れるよう

それは、クンダリニー・ヨーガのチャクラを動かすことにより、訓練が楽しくなるホルモ ンを湧出させるからである。

常に、身心を軽快明朗にして、心が惜冥 (暗く濁る)したり、渋滞したりしない修行。 喜覚支をさらに進めたもので、クンダリニー・ヨーガと併合した、特殊な訓練で得られる 能力である。

聖者特有の、のびやかな姿体と、平安で穏やかな人相となってくる。

取捨憎愛の念をはなれて、なにごとにも心がかたよったり、心の平静が乱されなくなる。

対象へのとらわれを捨てる修行である。

軽安覚支につづいて、聖者としての心がそなわってくるのである。

定方法につづいて、超人としての能力が飛躍的に強化される。

徹底的な定力(精神統一)の強化により、感覚器官が増幅される。

この修行の極限は、不可視光線(赤外線、紫外線)を見ることができ、超音波を聞くこと ができるようになる。その結果、天災地変も予知することが可能となる。 そこまで到達する ことは容易ではない。この修行によって、聖者たちは、大なり小なり、この能力を身につけ るのである。

初心者でも、予感や予知力が身にそなわる。 どんな初心者でも、とにかく「カン」が冴 えてくることはまちがいない。

いかがであろうか?

この修行を完成した超人の力は、ふつうの人の「常識」を越え、常識を破壊してしまうだ ろう。たとえば、

これは、一つの例えであるが、かれの思念の力は、他人の内臓の中にできた腫瘍(ガンな ど)を、その念の集中力で、破壊、あるいは溶かしてしまうことも可能である。 仏陀やその 弟子たちは、そのようにして、病人を癒したものである。(ただ、この場合、ガンを破壊して も、破壊されたガン細胞が他に転移するおそれがあるので、ガン細胞そのものを死滅させる ほどの念の力が伴わなければ危険であり、軽々しくこれを行うことはできない。 それほどの 力は、仏陀ご自身でなければ持てないのかもしれない。一つの可能性の例として、あげたわ けである)

そんな力は例外としても、念力法、念覚支法を修行した場合、中等程度の者でも、常人の 信じられないような念の力を持つようになる。

これが、仏陀釈尊の、弟子たちに教えた「仏法」なのである。

これが、真実の仏教なのだ。 あなたがこれまで常識として考えていた仏教とは、大分ちが うのではなかろうか?

多くの人が仏教だと思っている『法華経』とか『阿弥陀経』は、仏陀釈尊がお説きになっ たものではないのである。これら「大乗経典」とよばれる経典は、仏陀がお亡くなりになっ 二、三百年もたってから、無名の人たちによって創作されたものである。だから、これら の経典は、学問的には「創作経典」とよばれているのである。

創作経典の中には、「成仏法」は全く欠落している。一行も書かれていない。当然であろう。 「成仏法」は、仏陀釈尊しか教えることが不可能だからだ。無名の人たちが勝手に創作した大 乗経典に「仏陀の成仏法」が全くないのは、当然至極というべきだろう。

日本の仏教は「大乗仏教」である。つまり、「創作仏教」であって、「仏陀の仏教」ではな い。従って、「仏陀の成仏法」は全くない、というわけである。

日本の仏教徒が、仏陀の成仏法を全く知らない、というのは、ここに原因があるのである。 私はこのことが心から残念でならないのだ。

阿含仏教・超能力の秘密

これまで、仏教は、倫理・道徳の教えを説く宗教であると考えられてきた。それが、仏教 にたいする「常識」であった。

ちがうのである。この「常識」は破壊されなければならない。

もちろん、仏教が宗教であるからには、倫理・道徳を説くのは当然であるが、シャカが阿含 で説いた仏教は、たんにそれだけのものではないのである。

それは、人間の限界を越える超人的能力を付与する能力開発のシステムだったのである。 なぜならば、それは、前にのべたように、人間を越えた存在である「仏陀」に飛躍変身さ せるためのシステムだからである。

それが、「七科三十七道品」という修行法なのである。

超人。

仏陀

という構図がある。

もないだろう。

ろう。

私がここでいいたいのは、現代人がすべて「仏陀」になる必要はない。「仏陀」を志す必要

しかし、その前段階の「超人」になるということはどうだろう?

大破壊、 大変動の時代に、最も必要とされる能力ではないのか?

超人の持つ能力を、ごく控え目に記してみよう。

阿含仏教があたえる超常的能力

仏陀釈尊が教える成仏法の訓練で、人はおよそつぎのような能力を持つことができるであ

それは、仏陀に至る前段階の能力である。 この能力を持つヒトを、私は「超人」 とよぶ。 二十一世紀へ仏教の常識を破壊せよ

区別する名称である。

一、事物の明確な認識と予知

ものごとの原因結果がすべてはっきりと分かり、これからさき起きるあらゆる出来事が、 あらかじめ予知できるようになる。

したがって、極度にこみいった事がらで、進路の選択や、方針の決定に困難を感ずるよう な場合、かならず、正しい、そして失敗のない道をえらび出すことができる。

すなわち、予知と選択の能力がそなわる。

二、すぐれた高度の創造力

きょうじん

創造力とは、なにかということについて、『創造力開発法』を書いたジョン・S・モーガ ンは、

「それは、独創的な作品、またはアイデアを仕事の上で生み出すことのできる能力である」 と定義し、かつ、

「それは、たいへんな集中力、観察力、理解力、熱意と、それに加うるに、発達した想像力、

どうきつりょく

テレパシー

および直感力が必要である。 直感力というのは、第六感、洞察力であり、たとえば、キュリ 夫人、および科学者としての夫キュリーの場合のような感応力からなっているもので、右 にあげた特性の中でも最も注目すべきものである」

とのべているが、仏陀の教えた成仏法の内容を見てみると、まさにそのものズバリである ことがわかるであろう。

S・モーガンは、たいへんな集中力、観察力、理解力、熱意と、それに加うるに、発達し 想像力、および直感力”といっているが、仏陀の成仏法の基本課程は、まさに、それらの 能力をあたえる訓練なのである。

三、強靭な体力と卓抜な精神力

不眠不休の仕事が数日つづいても、わずかな休息をとるだけで、知能的にも、肉体的にも、 ほとんど影響をうけることがない。また、いかなる難関にもくじけることなく、屈すること を知らない精神力を持つ。

四、常に、身心が軽快、明朗で、悟しない

こんめい

五、自分を変え、他人を動かし、自分の思うままに環境をつくり変える力

セルフコントロール

それは、完全な自己統御力からはじまる。

この自己統御力を十分に身につけると、つぎにその統御力は自分以外の第三者に向けられ る。つまり、他人を、自分とおなじように統御するのである。

この能力が身にそなわると、だれもその人の意志にさからうことができない。というより むしろ、知らずしらず、その人の意志や思考によろこんで従うようになる。それは、 しや利益誘導によるものでなく、自然にそなわる説明しがたい魅力がそうさせるのである。 その魅力は、つぎにのべる「霊性の完成」 からくるものである。

六、無限に発達した道徳意識

完成された霊性である。

かれは、聖霊と自由に交流できる。聖霊の助けを受け、ときには聖霊に命令することがで

また、他人の潜在意識・深層意識下にある霊性に呼びかけ、動かす力を持つ。

七、すさまじい爆発的な念力による願望達成力

これまでにのべてきた力を結集したもので、強烈な念の力によって定業とたたかい、定業 をくつがえす力である。

自分の理念願望を必ず実現する力を持つ。 その極限においては「念の物質化」も可能と

ざっと以上の能力である。

つちょういっせき

もちろん、これだけの能力が、一朝一夕に身につくものではない。 しかし、基礎課程から

たゆまずトレーニングしていったとき、かならず身につく能力である。

仏陀釈尊が、そのように作制された修行法なのだ。当然といえよう。

では、成仏法は、どのように作制されているのか?

諸天善神より集い、昼夜行者を護るな

「諸仏讃歎あそばさる

諸天善神より集い

昼夜行者を護るなり

因縁解説は大悲にて 福徳宝生大慈なり

大慈大悲のみほとけの

変化法身釈迦如来

変化法身仏舎利尊

福徳宝生身にうけて 因縁解脱の道を行く 仏舎利尊ぞありがたし 仏舎利尊ぞ尊とけれ 帰命頂礼 仏舎利尊

宝生解脱加持門の

信解のしるべ示さんと

のちの世のため人のため

つづりてあらあら和讃とす」

第三章 三種供養と三

仏法は、はっきりとわかるようになってくるというわけです。

諸天善神より集い、昼夜行者を護るな

しんげ

さんたん

「諸仏讃歎あそばさる

諸天善神より集い

昼夜行者を護るなり

因縁解説は大悲にて 福徳宝生大慈なり

大慈大悲のみほとけの

変化法身釈迦如来

変化法身仏舎利尊

福徳宝生身にうけて 因縁解脱の道を行く 仏舎利尊ぞありがたし 仏舎利尊ぞ尊とけれ 帰命頂礼 仏舎利尊

宝生解脱加持門の

信解のしるべ示さんと

のちの世のため人のため

つづりてあらあら和讃とす」

真正仏舎利さまは、仏教において唯一最高の本尊です。とてもふ つうの在家の人が戴けるものではない。ところが、あなたがたはご

自分の守護仏として、この仏舎利宝珠尊さまを戴いたのですから、

心を込めて毎日供養しなければいけません。

いままでお話ししたように、仏舎利を本尊として法にしたがって 供養を行なうならば、解脱と宝生の徳を戴くことができる。そして、 もしなにか困ったことが起きても、諸仏諸菩薩・諸天善神が必ず救 ってくださる。こんなすばらしいことはありません。ですから、心 から感謝しなければならない。

しかしそれと同時に、わたくしたち修行者が胸に銘記しておかな ければならないのは、自分は諸天善神が昼夜護ってくださるほどの 修行者であろうか、という反省がなくてはいけないということです。 自分は、本当に、修行者といえるほどの修行をしているであろうか? その名に恥じないだけの功徳を積んでいるであろうか? という反

省をつねに怠らないことが大切ではありませんか?

わたくしには絶対に不幸、災難は起こらない。 しかしながら、い まの自分は諸天善神が昼夜護ってくださるほど、仏道をしっかり歩 んでいるだろうか? 知らないうちに、横道に逸れてしまってはい ないか? わたくしを護ってくださる諸天善神に顔向けができな いような自分であってはならない。 諸天善神が護ってくださること は確実なのだから、その護ってくださる諸天善神に恥ずかしくない ような行動をしなければならない。

そのような反省を、わたくしはいつもしております。 これはあな たがたも同じですよ。あなたがたは諸天善神に護っていただいてい るわけですから、自分は護っていただくに値する修行者であるかど うかという反省をしなければいけない。その反省がなされることに

よって、より一層、諸天善神はみなさんを護ってくださるのです。

いつもいい加減なことをやっていたならば、仏の顔も三度といいま すから、そのうち諸天善神も、

「こいつは、いつも護ってやっているのに、いい気になってろくな ことをしてないから、きょう一晩、知らん顔をしてやれ」

となって、その一晩に泥棒が入った、ケガをしたなどということ になるといけませから、いつも諸天善神に対する感謝と反省を怠ら ず、しっかりと行を進めていかなければいけませんね。

それから最後にもう一度、帰命頂礼ということばが出ております。 この講義の最初のところで、帰命とは命懸けて帰一することである とお話しいたしましたが、 みなさんは本当に命懸けでこの修行を行 ないなさい。心から仏舎利尊さまに祈り、そして行動しなさい。そ

うすることによって、いままで何度もお話ししたように、仏舎利尊 さまはわたくしたちに解説と宝生の徳を授けてくださる。とくにわ たくしたちは、まず因縁解説を祈らなければいけない。その基本と なるのが、誓願を立てる、発願するということです。

ただしここで注意しなければいけないのは、仏さまに対して、 「因縁を切ってください」

とお願いするのは、まちがったお願いの仕方であるということで す。これは発願ではなく、おねだりです。仏さまや神さまに、こ うしてください、ああしてくださいとおねだりするのを、「おねだ 信心」あるいは「さしず信心」、または「こじき信心」といいま すが、これらは本当のお願いの仕方ではない。

なぜならば、おねだりをするということは、そのおねだりの中に

Here is an English translation of the passage you provided:

Avalokiteśvara Bodhisattva, while practicing deeply the Prajñāpāramitā, perceives that the five aggregates (form, sensation, perception, mental formations, and consciousness) are all empty and thereby transcends all suffering.

Śāriputra, form is emptiness, and emptiness is form. Form is emptiness, and in emptiness, there is no form. The same is true for sensation, perception, mental formations, and consciousness.

Śāriputra, all dharmas are marked by emptiness: they neither arise nor cease, are neither pure nor impure, neither increase nor decrease. Therefore, in emptiness, there is no form, no sensation, no perception, no mental formations, no consciousness. No eye, no ear, no nose, no tongue, no body, no mind; no form, no sound, no smell, no taste, no touch, no dharmas. No realm of sight up to no realm of consciousness. No ignorance, and no end of ignorance, up to no aging and death, and no end of aging and death.

There is no suffering, no cause of suffering, no cessation of suffering, no path. There is no wisdom, and there is nothing to be attained. Since there is nothing to be attained, the bodhisattvas, relying on Prajñāpāramitā, have no obstruction in their minds. Without obstruction, there is no fear. Far beyond all delusion, they reach ultimate Nirvāṇa.

All Buddhas of the past, present, and future, relying on Prajñāpāramitā, attain Anuttarā Samyaksaṃbodhi (the highest perfect enlightenment).

Therefore, the Prajñāpāramitā is the great transcendent mantra, the great bright mantra, the supreme mantra, the unequaled mantra, which removes all suffering and is true, not false. Therefore, the mantra of Prajñāpāramitā is declared: “Gate Gate Pāragate Pārasamgate Bodhi Svāhā” (Gone, gone, gone beyond, gone altogether beyond, Oh, what an awakening!).

This is a passage from the Heart Sutra (般若心経), one of the most important texts in Mahayana Buddhism.