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ヨーガ秘伝珠の発光”

ヨーガ秘伝珠の発光”

つぎに、ヨーガ秘伝として伝わる明珠の発光〟を伝授しよう。

まず、火の呼吸法を適宜。

火の呼吸法が終わったら、基本姿勢をとって、心と呼吸を調える。

つぎに、眼を閉じ、眉間の、アージュニャー・チャクラの部分に心を集中す る。心をしだいに内部に移す。

聖語「オーム・オン」を心にくり返し、集中をつづける。

やがて、頭蓋の内部のアージュニャー・チャクラの部分に、半透明のピンポ 玉よりやや小さい球体があらわれるようになる。

それは最初、その部分に固定しているが、やがて、そこから離れて、(頭蓋の 中で) 浮揚するようになる。 浮揚するようになったら、それを徐々に眼窩の奥に

移動させていく。眼窩の奥に移動させ終わったら、眼球をぐるりと後方に旋回 させて、(心眼を体の内部に向ける。

以後、この眼は、浮揚している球体といっしょに移動するのである。

浮揚する球体が眼窩の奥に達したら、ごく静かに吸収しつつ、これを頭蓋骨 の底に移す。 頭蓋骨の底に達したら、背柱の中にあるスシュムナー管にそっ て、静かに垂直に下降させていく。そして、最後に臍と一線上にある体の中心 に到達させる。

臍の裏側に到達したら、 聖語を約百唱する間そこに置き、それから、二横指 上のところに移す。 ここに球を置いたら、そこに心を集中し、聖語をくり返し

そうしていると、ついに、半透明であった球体が、しだいに光を発するよう

これが「パドマ・マツガの発光」である。

Q(パドマ・マツガとは、じつは「○○○」 である。極秘伝のため、ここでは秘すが、賢

明な読者であれば、お気づきであろう)

光が見えはじめたら、それをたもつために、呼吸も心もごく静かにしていな ければならない。

もし光のほかに、花とか、葉とか、雲のようなもの、また生物の姿などがあ らわれても、それはそのまま静かにながめておればよい。 それがあらわれても 消えても、自然に、ただなにげなくながめているという気持ちで見ているこ と、また、なにも見えなくても、強いて見たいと思ってはならない。

クンダリニー・ヨーガの第一歩は、修行者の体内にあるパドマ・マツガに光 しめるところからはじまるのである。

パドマ・マツガが一度目ざめて発光すると、瞑想に入るやすぐにパドマ・マ ツガは光を放ちはじめる。それは、 思念を強めると、光も強く放たれる。

修行者は必要に応じて、パドマ・マツガを各チャクラに移動させ、光を強 め、ホルモンの分泌をうながすのである。 それは、クンダリニーの覚醒にも欠

くことのできない力を持つ。

求聞持聡明法

ヨーガの修行をしてある程度の力を持った者が、この定に入っている修行者 の体を見ると、発光体が修行者の体内を移動するさまを外部からはっきり見る ことができる。それは決して修行者の観想による主観だけのものではないので ある。神智学協会には、インドの熟達した導師による実験写真が数枚ある。 パドマ・マツガの発光は、熱心な修行者で、およそ一、二年かかるとされる。

発光したパドマ・マツガを、もう一度、アージュニャー・チャクラに引き戻 し、そこでさらに集中の度を強める。

光度を増したパドマ・マツガを、松果腺・松果体視床下部へと静かに移動 させてい

これは、やさしいことのように思われるかもしれないが、そうではない。 あ る理由により、これは非常に困難な作業なのである。

その大きな理由のひとつは、大脳の中の錯綜した神経群である。 この境界に 達した修行者にとって、パドマ・マツガは「実在」なのである。このパドマ・ マツガを、正しい 「道すじ」のとおりに通過させて、誤りなく目的の場所に到 達させるのは、非常に困難な仕事である。 導師の助けなく独力でこれをなしと げることはほとんど不可能なこととされている。

視床下部の正しい箇所に到達すると、その瞬間、目のくらむような閃光が頭 蓋の中を走る。視神経がスパークした感じである。

おうぎしょ

クンダリニー・ヨーガの奥義書が、「このチャクラを目ざめさせると、この部

さんぜん

位に光明があらわれて、燦然と輝く」といっているのは、これである。

わたくしは、これが、人を天才にする 「求聞持聡明法」であるとしている。 なぜならば、この閃光が走った以後、修行者の脳細胞は、それまでと一変した はたらきを示すようになるからである。 一度、見聞きしたことは、どんなこと でも、必要に応じて記憶によみがえらせるし、独創的・天才的なアイデアが、 つぎつぎと泉の湧き出るように、尽きることを知らないようになる。むしろ、

異常といってよいほどのはたらきをするようになるのである。

サハスラーラ・チャクラの真の成就は、 クンダリニーの覚醒、上昇を待たね ばならないが、この「求聞持聡明法」の成就が、その第一歩なのであろう。

このパドマ・マツガの修行は、クンダリニー・ヨーガの極秘の秘伝であっ これ以上のべることはできない。いくつかの口伝もあるけれども、それを 筆にすることは禁ぜられているのである。 しかし、読者が、自分で工夫しなが 自修することのできる程度にまでは公開したつもりである。読者の懸命な工 夫・自修を切に願うものである。

求聞持聡明法

私は求聞持聡明法の修行に取り組んでいた。すでに三度目の挑戦だった。

最初の試みは、真言宗の行法に依拠した。しかし、それは完全な失敗に終わった。集中力を高める効果はあったが、それ以上のものは得られなかった。求聞持聡明法を詳細に分析し、私は結論を出した。――真言宗の伝統的な行法だけでは、脳の構造を一変させるような力は持ち合わせていない。少なくとも、従来のままの修行では、それは実現し得ないという確信に至った。

それではなぜ、弘法大師空海はこの行法を通じて成就し、悉地(すべての能力を獲得すること)を得たとされているのか。彼は、おそらくこの行法の背後に隠された何か――秘密技術を体得していたのだろう。彼が残した求聞持法は、その秘密技術へのヒントに過ぎず、本当の技術は自身の努力で発見せよ、という暗示であったのだろう。だからこそ、この法を修した多くの天才たちが、成功までに何度も失敗を繰り返したのだ。

二度目の修行では、私は古代ヨーガの技術を取り入れた。初めての試みよりも確かな感覚を得ることができた。50日間の修行を経ても求聞持法の成就には至らなかったが、私は確信を深めた。この方法で進めば、求聞持法は必ず成就する。さらなる確信を得た私は、この技術をさらに積み重ね、延長してゆくことを決意した。

そして、三度目の修行に入った。今回は、求聞持法に伝わる九種の印明に加え、古代ヨーガの特殊な呼吸法、そして私が創案した手印とポーズを組み合わせた特別なトレーニングを続けた。100日目に達し、ついに私は感じた――体と脳が微妙に変化しているのを。

まどろみのような感覚の中で、それは突然訪れた。苦痛の叫びを上げたその瞬間、脳髄の一角に稲妻のような電流が走り、私の視野は真っ暗になった。失明――一瞬、そんな考えが脳裏をよぎった。だがその時、脳の深部にポッカリと光が灯ったのだ。脈打つように、ゆっくりと、黄ばんだ冷たい白い光が瞬き

 

日の国の法、金星の法  Law of the Sun, Law of Venus

日の国の法

遥かな時代に響く声
神々の息吹きが伝う空
ピンガラとイダーの道を開き
永遠の風が人々を包む

日の国の法よ、目覚めよ今

熱と冷が舞う調べの中で

仏陀の光が導く息吹き永世、

我らを救う

 

金星の法

 

金星の光、脳奥深く
求聞持の法、賢者を呼ぶ
未知の力、間脳を照らし
輝く未来を今、導く

金星の法よ、目覚めよ今
闇を払い、怨念を浄化せよ
脳に輝く救世の光
すべてを救う、その力

 

Law of the Land of the Sun

A voice that resonates in a distant time
The sky where the breath of the gods travels
Open the path of Pingala and Ida
The wind of eternity envelops the people

Law of the Land of the Sun, awaken now

Amid the melody of dancing heat and cold

The breath of the light of the Buddha guides us to eternal life

Save us

Law of Venus

The light of Venus, deep in the brain
The law of Gyumonji, calling the wise
An unknown power, illuminating the diencephalon
Guiding us to a bright future now

Law of Venus, awaken now
Dispel the darkness and purify your grudges
The light of salvation shining in the brain
The power that saves all

 

日の国の法

 

それが、「日の国の法」だったのである。 ノストラダムスがその予言詩で、 – 日の国の法と金星の法が競い合う といった「日の国の法」がこれだったのである。 わたくしは、さきに、「日の国の法」とは、日本の古代神法「息吹き永世の法」で あるとのべた。

仏陀の法のピンガラ、イダーを開発形成する法は、日本の古代神法 「息吹き永世」 の中にあったのである。

わたくしは、いまから一九年も前の一九七二年に刊行した『密教・超能力の秘密』 の中で、このことをいっている。さきに抜粋したものをもう一度のせてみよう。

 

私も以前、修行中に、これが息吹き長世の法であるという二、三の法に接したが、 世にいうほどの秘法とも思われず、さりとて、私にもそれが本当のものであるか、 そうでないかを見きわめるほどの古神道の素養もなく、そのまま過ごしてきたこと であった。

ところが、クンダリニーの覚醒に際して、私は、まったく思いがけず、この息吹 き長世の呼吸法を発見したのである。

息吹き長世の法の特長は、この法成就するや、寒熱自在の息を長嘯す、とあるよ うに、定に入ると、凍るように冷たい息と、熱風のように熱い息とを交互に、自在 に吐くのである。この、寒熱自在の息は不思議な力があって、法の通りにこれを息 吹くと、いかなる病気も、怪我もたちどころに痛みが去り、快癒におもむくとされ ている。瀕死の病人にむかい息吹くとき、神の新鮮な生命力を吹きこまれて、たち どころによみがえり、元気充実す、という。おかしたる罪けがれも一切浄化される。 天地四方にむかって息吹くときは、悪霊、怨念、低級の霊、すべての障害が消滅す る。「是レ、神ノ息吹キ也」とある。修行者が常時これを修すると、神人合一して

三○○歳の長寿を得るという。

私が、クンダリニー覚醒に際して、痛烈なショックをうけたときに、もっともい ちじるしいことは、急激な寒さと、燃えるような熱さとが、交互に全身を襲ったこ とであった。そうして、寒さにおそわれたときには、吐く息も、氷のように冷たい 息であった。腹の底からかあッと熱いものがこみあげてきたときには、息もたえだ えに熱風のような息を吐いた。二、三〇秒おきにこの寒熱が全身をおそうのである から、たまったものではないのだ。からだ中の細胞がバラバラになってしまうので はないかと思われ、大の男が思わず悲鳴をあげてしまう。

このときは気がつかなかった。のちになって、このときの呼吸のしかたが異常だ ったことに気がつき、何度もそれをくりかえしてみた。最初はできなかったが、定 に入り、腹部と胸部のチャクラを使うと、次第にこの特殊な呼吸法ができるように なった。寒熱自在の息を吐く呼吸法のコツが体得できた。はなしに聞く息吹き長世 の呼吸法がこれであると合点された。 息吹き長世の原点は、古代ヨーガのなかにあったのである。この呼吸の技術は、

 

古代ヨーガ独特のものである。息吹き長世の秘法は、この技術によるものであるこ とは疑いない。

この古代ヨーガの技術がどのようにしてわが国の古代神道にとり入れられたもの か、私にも判然としない。おそらくは、神代とよばれる古い時代に、古代ヨーガを 体得した超人が、大陸から渡来してこれをつたえたものであろう。あるいは、それ が、この国で神とよばれるこの国の始祖になったのかも知れない。 「たしかに、この特殊な呼吸法は、肺と心臓の機能をいちじるしく強化して、全身 の血流を浄化し、体力を異常にたかめると同時に精神をふかく鎮静させ、頭脳を新 鮮な思考力でみたしてくれる。また、それは心のおくふかくわかわかしいロマンを かきたててくれるようである。それは古代の神への回帰であろうか。ふかい定に入 ると、たくましい古代の神々が、果てしなく深い青空にむかって、厚い胸をそらし、 声をかぎりに神叫びにおらぶ、ゆたかな声量がわが胸に躍動してくる思いだ。この 刹那の悠揚たる充実を持ちつづけるならば、人はたしかに三○○歳を生きつづける ことも難事ではあるまい。私はいま、この呼吸法を、だれでも容易に体得できるよ

う、あたらしい古代神法、息吹き長世、の復元をはかりつつある。古神道の行法 にのっとり、クンダリニー・ヨーガのチャクラをとり入れたピンガラ、イダーの開 発法はすでにほとんど完成している。ただ、この法は、ごくデリケートな呼吸の操 作を必要とし、もし間違えるとよくない影響もあると考えられるので、ペンだけの 表現でつたえることは不可能である。実地の指導なくしては体得し得ない。読者は ベつな機会を持ってほしいのである。

(『密教・超能力の秘密』平河出版社刊)

一九年の昔の、まだ修行途上時代の筆であるから、いまから見ると、思い違いをし ている部分もあり、完全に把握していない部分もある。しかし、大筋において間違っ てはいない。

以来、十数年の間、わたくしは、わき目もふらず、ひとすじに、この法を追求しつ づけてきた。そして、結局、これが、仏陀の法につながっていたことをさとったので ある。

右の文章中、「古代ヨーガ」とあるのは、「仏陀の法」だったわけである。当時のわ たくしには、そこまでの眼がなかったのである。勉強不足であった。十数年間の一筋 の修行が、その目をひらかせてくれたわけである。 (阿含経に深くふれたのは、この あとのことであった)

前の節にのべたピンガラ・イダーを開発する「秘密マントラ特殊詠唱法」の呼吸法 が、じつは古代神法 「息吹き永世」の呼吸法なのである。

というのは、息吹き永世の法では、〝寒熱自在の息を吐く。のであるが、これは、 ピンガラ、イダーのはたらきによるものと思われるからだ。 クンダリニー・ヨーガでは、 ピンガラは「太陽の気道」と呼ばれ、高い熱気を伴う とされ、 イダーは、「月の軌道」と呼ばれ、冷寒を伴う とされる。

仏陀の法では、ピンガラが発する熱を、「発動・昂揚」のエネルギーに変え、イダ

ーが発する寒冷を「沈静・凝縮」のエネルギーに変えたのであろう。

息吹き永世では、このエネルギーを「神の息吹き」として、人びとの救済に用いた のである。

こういうかたちで、仏陀の法が古代神法の中に生きていたのだと思うと、一九年の 昔も今も、わたくしの胸は、古代の神々への限りない回帰の念にうちふるえるのである。

この法の伝授については、一九年の昔の文章をそのままのせるしかないであろう。 即ち、この法は、ごくデリケートな呼吸の操作を必要とし、もし間違えるとよくな い影響もあると考えられるので、ペンだけの表現でつたえることは不可能である。実 地の指導なくしては体得し得ない。読者はべつな機会を持ってほしいのである。と。

 

 

ヴェニュー 金星の法

ノストラダムスの予言詩にある「金星の法」とは、求聞持聡明法のことであると、

さきにのべた。

求聞持聡明法は、「明星」すなわち金星を祀って観想を凝らし、マントラを唱えて、 修行をする。これ以上に、「金星の法」というのにふさわしい法はないであろう。し かも、この法は、人の脳を改造し、すぐれた賢人にする法とされている。まさに、救 世主の法とするに足る法ではないか。

しかし、わたくしが、この求聞持聡明法を以て、金星の法と断定するのは、それだ けのことではないのである。もっと深い理由があるのである。 それはなにか? そのことについて、わたくしは、一九年前のむかし、『密教・超能力の秘密』で、 ~求聞持聡明法・明星の秘密』と題して、つぎのようにのべているのである。

まず、最初、真言密教の求聞持法をのべてみる。 「この法を修するには、東南西三方の晴れたるところを最上とする。東方のみでも 悪くはない。道場の東壁に小窓をつくる。これは虚空蔵の化現である明星(金星)

の光を道場にさし入れるためである。また、朝日夕月の光を本尊にあてる意もあり、 あるいは小窓に網を張り、黄色の種字の字を書いて、そこから、明星の光をとおし て本尊にあてるためでもある」

とまず場所を制定し、つぎに、さだめられた本尊の印明を百万べん、五十日ある いは百日に読誦するのであるが、日蝕または月蝕の時に結願するよう開 白(はじ めること)しなければならぬとある。

弘法大師空海は、求聞持聡明法成就の体験を、 「 阿国大滝の国にのぼりよじ、土州室戸の崎に勤念す。谷響を惜しまず、明星 影す。云々」 と語っている。阿波の大滝岳にのぼり、土佐の室戸岬でこの法の修行にはげんだ ところ、谷はこだまし、明星があらわれるなど、法にいわれている通りの現証があ り、法が成就した―――、というのであるが、これは、このまま鵜呑みにすると間違 ってしまう。 真言密教の求聞持聡明法秘伝に、こうある。

というのは、結願に際して、香に火を置き、明星を拝したとき、四 方が暗く明星が見えなければ、修行が成功せず、失敗したのである。暗くても明星 が現われれば下品の成功であり、四方が少々晴れて明星が現われれば中品、ことご とく晴れて明星現われれば成就、明星が眼前に現われ遊曳するのが、最高の成功で ある。四方が晴れても明星が現われなければ、失敗である」

と。 これがちがうのである。全くちがう。 こういう口伝や奥伝を頼りにいくら修行しても、気の毒だが、求聞持聡明法は成 就しない。 なぜか? 明星は、天空には現われないのである。 では、どこにあらわれるのか?

それについて、わたくしは、別のページで、つぎのように修行体験をのべている。

脳のチャクラが開発されたとき、間脳、視床下部の辺で、光を感ずるような刺激が 生ずるのである。神経経路がスパークするのであろうか。

わたくしがここでいいたいのは、ノストラダムスが予言した「金星の法」は、真言 密教の求聞持聡明法ではなく、仏陀の求聞持聡明法であったということである。

なぜならば、脳底にきらめくこの金星は、仏陀の法でない限り、ぜったいにあらわ れないからである。 ノストラダムスは見たのである。四五〇年の昔、未来の世にあらわれる仏陀の脳の 奥ふかく然ときらめく金星の光を。 そして名づけたのだ。「金星の法」と

救世主の法は、他のものが持たぬ二つの力を持たねばならない。 それは、第一に、これまで説いてきたように、人間の脳の致命的な欠陥を、根本的 に改造する力である。

第二に、メシアの法は、生者を救うだけではなく、死者をも救済する力を持ってい なければならない。全地球上にみなぎる死者の怨念を消滅させる力である。

霊的な力を持つ聖者ならばだれでも、地球を覆う死者の悲泣呻吟の声を耳にして、 心痛の限りを尽くさぬものはない。

この死者の怨念のバイブレーションが、すべての人の深層意識を動かしている。こ とにおそろしいのは、もの心つかぬ幼少年の心に深い傷や亀裂をあたえていることだ。

フロイトによると、ヒトが生まれてからの数年は、一種の催眠に似ており、その数 年間に幼児はさまざまな影響と暗示をうける。それらの影響と暗示が、のちになって

 

上の      文章を箇条書き   にして

 

 

ノストラダムスの予言詩にある「金星の法」とは何か。それは、ただの寓話や象徴ではなく、深遠なる真理を秘めた法であると、私はかねてより考えていた。そしてその法が「求聞持聡明法」であると気づいたのだ。

この法は、金星、すなわち「明星」を祀り、観想を凝らして、マントラを唱える修行である。それ以上に「金星の法」としてふさわしいものが他にあるだろうか。この法は、人の脳を改造し、優れた賢人へと導く力を持つとされている。まさに、救世主の法とするにふさわしいものであった。

私が最初にこの法に触れたのは、ある静寂な修行の最中であった。脳内、特に間脳や視床下部にかけて、強烈な光のような刺激を感じたのだ。それは神経経路がスパークし、未知の力が目覚める瞬間であったかもしれない。脳底にきらめくその光は、まさに金星の輝きだった。

だが、私は気づいた。この光はただの物理的な現象ではない。ノストラダムスが未来に予言した「金星の法」とは、真言密教の求聞持聡明法を超えた、仏陀の法にこそ関わるものだったのだ。なぜなら、仏陀の法でなければ、この脳の深奥から現れる金星の輝きは決して見られないからだ。

ノストラダムスは四五〇年もの昔に見たのだ。未来の世に現れる賢者の脳の奥深くで、然ときらめく金星の光を。そして彼はそれを「金星の法」と名づけたのである。

だが、この法を持つ者には、他の何者も持ち得ない二つの力が備わっていなければならない。

まず第一に、それは人間の脳に宿る致命的な欠陥を根本から改造する力だ。この力によって、凡人が賢者へと昇華し、目覚めることが可能になる。

そして第二に、メシアの法は、生者だけでなく、死者をも救う力を持たなければならない。全地球を覆う死者の怨念を消し去る力こそが、真の救世主の証である。

地球上に存在する霊的な力を持つ者ならば、誰しもが死者の悲しみと嘆きの声を耳にする。それは心を揺さぶり、深い哀しみを呼び起こす。だが、この怨念のバイブレーションは生者の深層意識をも動かし、無意識のうちに幼き心にさえ深い傷を与えているのだ。

それこそが、人々が無意識に抱える恐怖であり、苦しみの源である。そして、その恐怖を超えて真理に至るためには、「

金星の法」を得た者が現れ、すべてを浄化する時が来るのを待つしかないのであろう。

日が暮れかけた静かな寺院の庭には、風に揺れる竹林の音が心地よく響いていた。老僧は瞑想の姿勢を崩さず、目を閉じたまま弟子たちに語りかける。

「まず、身見について話そう。これは、何かが”我”という実体を持って永遠に存在するという誤った考えのことだ。私たちはしばしば、自分の身体や感覚を”自分”だと思い込む。だが、それはあくまで仮の姿にすぎない。この体も心も、因縁によって一時的に存在しているものなのだ。」

弟子の一人が眉をひそめて問う。「師匠、それは”我執”と同じですか?」

老僧は軽くうなずく。「そうだ、身見にはもう一つの意味がある。それは我執、つまり自分自身を中心にすべてを考え、行動する自己中心的な心だ。この執着を断たなければ、真の解脱は得られない。」

風が一瞬強まり、竹林の葉が激しく揺れる。老僧の声はその風の音に負けぬよう、続けて語った。

「次は疑だ。これは、仏陀の教えに対して心の中に生まれる迷いや疑念を指す。正しい道を歩んでいても、疑いがあるとその進みは鈍る。この疑いを断ち切らねばならない。」

弟子たちは一斉に静まり返った。その中の一人が小さくつぶやく。「信じることが難しいのです。」

老僧はそれを聞き逃さなかった。「そうだ。信じるのは難しい。しかし、疑いを捨てなければ道は開かれぬ。疑いは重い鎖となって、進むべき道を遮るのだ。」

老僧は手を軽く振り上げ、次に語るべきことを指し示すかのように竹林を指した。

「そして戒禁取だ。これは、仏教以外の戒律や教えに固執し、それを正しいと信じることを指す。真の解脱は仏陀の教法にのみ存在するのに、他の教えに迷い込む者は多い。この執着を断ち切らねば、涅槃に至ることはできない。」

弟子たちの中に、一人目を伏せたまま黙り込む者がいた。老僧はその姿を見つめながら続けた。

「欲愛。五欲への執着、すなわち感覚的な快楽を追い求める心だ。これもまた、私たちの心を縛る鎖だ。物欲や肉体的な欲望に囚われては、清浄な心を持つことはできない。」

そして最後に、老僧はその穏やかな目を開き、弟子たちを見渡した。「最後は瞋恚。これはただの怒りではない。自分の思い通りにならないことに対して、すべてに怒りを抱く愚かな心のことだ。因縁因果の道理を理解すれば、無闇に怒りを抱くことなどできないはずだ。」

静寂が戻り、竹林の音だけが再び響き渡る。弟子たちはそれぞれ、心の中で老僧の言葉を反芻し、瞑想の深みに沈んでいった。彼らは、欲や怒り、そして自己への執着を乗り越えるための長い道のりを歩み始めていた。

 

のテーマ

一、 身見(我見ともいう)

これには、二つの意義があります。

一つは、さきのアートマンのところでおはなしいたしましたように、「我」というものが、常 実在であると考える考えかた、これが身見です。 これはまちがいで、「我」は、五陰が因縁 によって仮合したものであるとする仏教の考え方が正しいのです。 まず、 この身見を断滅すると

つぎにもう一つは、「我執」 「我慢」という意味の身見です。 これは、我が身を主に、我が身を 中心にすべてを考え、行動する自己中心の考えです。

「二人のために、世界はあるの」という歌がありまして、結婚式に出るとよくこの歌を聞かされ ますが、それが、二人のために、ではなくて、自分のために、世界はまわっているというような 考えかた、この自己中心の考えかたをまず捨てることが、仏道修行の第一歩です。

よく、我がつよい、と申します。我がつよくて、おれが、おれが、というこころが先にたちま すと、どんなによいことを聞いても、学んでも、身につかない。こころを謙虚に、すなおに聞く という態度が一番たいせつです。わたくしは、昔から、我とは因縁のあらわれであり、因縁は我 にあらわれる、その人がどんな性癖を持っているか、それをみればその人の因縁がすぐわかる、

と申しておりますが、その性癖の中で、おれが、おれが、と自分をハナにかける性癖が一番よく ない。この性癖をとるところから、仏道修行がはじまるのです。

それは、あながち仏道修行だけではない。なんの道でも、クセをとるところからはじまる。 ス ポーツでも芸道でも、みなそうです。

小松原三夫さんという、ゴルフのコーチの名人がいます。 このかたはまさに、ゴルフのコーチ では名人ですが、このかたのところに、ある人が入門した。小松原先生が、

「ゴルフをはじめて、どのくらいになります?」

そうたずねた。

「二年ほどになります」

と答えるとにより

「ははあ、四年ほど損しましたな」

といわれたという。

つまり、二年間、我流のゴルフをやっていたから、その我流のクセをとるのに、四年かかると いう意味です。わたくしは、このはなしを聞いてたいへん感銘をうけたので、これを応用しよう かと思っています。修行したいという人がきたら、

「あなたおいくつですか?」

わたくし、五十歳です」

二、疑惑

三、戒取

「ははあ、百年損しましたな」(笑)たち

以上

です。

とにかく、クセという因縁を切るためには、我を捨てなければいけない。自分というものは五 陰の仮合したものであるから、どのようにでも変わることができる。 手におえない悪党でも仏に 変わることができる。 それにはまず、 悪党の)我を捨てなければいけない。

うたがいまどう、ということです。 なににたいして、うたがいまどうのか。仏陀の正しい教法 にたいして、です。

世の中には、ずいぶん疑いっぽい人がいまして、なんにでも疑ってかかる人がいる。 しかし、 この十詰の中の疑惑というのは、なんでも疑うという疑惑ではなく、釈尊の正法にたいして、疑 いまどうことをいうのです。釈尊の正しい教法にたいして、いっさいの疑惑を捨て、心の底から 信じてこれを仰ぐ。 これが、第二の、疑惑を断つ、ということです。

この取というのは、仏陀の正しい教法を理解せず、あるいは理解しようとせず、それ以外の

教え、たとえば道徳とか、仏教以外の宗教、そういったものを「ぜったい正しい」と信じて固執 することです。これを「取」という。は、い

因縁因果の道理と、業報の真理の上に立ち、これを解説して涅槃に至るという釈尊の教法にま さる宗教は、ほかにぜったいないのです。それを知らず、また知ろうとせず、低級な宗教や信

また、霊に関することは一切解決できない道徳の教えなどに固執して、「これが最高だ」とし ている不霊な態度、 これが戒取です。 そこにはまったく救いがありません。

夏を抱き

断じますと、さきに申しました須陀で、すでに聖者の流れに入っている。 まあ、天 となったり、人間となったり、数回くり返さなければならないが、涅槃に入ることはもう時間の 問題とされる。なによりもすばらしいことは、もはや二度と悪趣に落ちない、ということですね。 さて、 そこで、一つの問題が出てきます。

「三結」さえ断じていない名僧たち

以前、わたくし、或る霊能者に会って、こういう質問をうけたことがあります。 その霊能者と

と不満そうでした。

いうのは、まだ若く、その道では多少知られておりましたが、有名というほどではありませんで した。 その質問というのは、

「日本の仏教の宗祖、あるいは有名な高僧たちが、地獄に落ちて苦しんでいるすがたを霊視する んですが、これはどういうわけでしょうか?」

というのです。 わたくしは一笑にふして、を捨てなければいけない。

「それはあなたの見まちがいだろう。ほかの霊視については、あなたの力をみとめるが、このこ だけはおかしい。そんなことがあるはずはない。あなたの見まちがいだ」

「そうですかなあ、わたしはぜったいにまちがいないと思っているんだが、あなたにお聞き したらわかると思っていたんだが―」

かれは、かなりの霊視能力を持っており、わたくしの感心するような霊視もしてみせました が、これだけは同調できませんでした。かれは、高僧たちが如実に苦しんでいるすがたを見、声 も聞いた、と真剣でしたが、わたくしは一笑にふしたのでした。

しかし、これは、いまにして思えば、かれのことばに、もう少し真剣に耳をかたむけるべきで はなかったかと思うのです。

というのは、かれの霊視に、その可能性がないとはいえないのです。

十結の第二になんとありますか。 疑惑ですね。 これは、仏陀の正しい教法に疑いうこと、 とあります。日本の仏教の宗祖や、高僧たちは、釈尊の正しい教法を、疑い惑うどころか、これ を小乗として抹殺してしまった。疑い惑う以上、何倍もの説法の罪をおかしているわけです。 そ うして、たくさんの人たちに、釈尊のほんとうの教法にたいし、疑惑を持たせるようなことをし た。これはたいへんなあやまりです。)

それが、僧ならばたいしたことはない。影響力がないですからね。 しかし、高僧になるほ ど、信念がつよく、行動力がある。影響も大きい。高僧、名僧になるほど、地獄に落ちる可能性 が高いということになるのじゃありませんか?

もちろん、こういうかたがたは、人格高潔、才能ゆたかで、とにかく仏教を弘めたという大功 績が一方にありますから、 ぜったいに地獄になぞ落ちるということはあり得ないでしょうが、し かし、見かたによると、三結すら断じていないということになる。というのは、第三の、取に もひっかかるおそれがあるからです。すると、これらのかたがたは、聖者にもなっていないとい うことになる。それだけではない。須陀道になれなければ、悪に落ちる恐れがあるのです。 経 文になんとありますか。 「断じて悪に堕ちず」とあります。三結を断じてはじめて悪趣 に落ちないようになるのだから、三結を断じて須陀になれなければ、悪趣(地獄・餓鬼・畜生) に落ちる恐れがあるわけです。これはたいへんなことですね。

まあ、これは、釈尊のお説きになった阿含の立場からいうとそうなる、ということで、あまり 気になられては困りますが、阿含宗の成仏法、準胝尊千座行法をやっている諸君は安心です ね。 一生けんめいやっている連中は、疑惑も取もほとんど断じている。

ただ、どうも、第一の身見が残っている人たちが多い。我のつよい人がすくなくない。

これは、他の宗教の人たちと、ちょっと逆になっているところがある。よその宗教の人たち は、「我をなくせ」「我をなくせ」といわれて、修養するから、 我のなくなった、 すなおな人がじ つに多い。修の積んだりっぱな人をよく見かけます。

そのかわり、第二、第三でみな、聖者になれない。わが宗では、第二、第三はほとんど断じて いる。ただ、第一の身見の断じかたが足りない。我がつよいところがまだ少し残っている。これ 断じられたら、みな、須陀道だ。みんな預流で、聖者の流れに入る。ここにいる諸君みな聖者 です。これだけの人がみんないっせいに歩きはじめたら大行進ですね。ひとつわが教団のテーマ 音楽を「聖者の行進」にしましょうか(笑)。

つぎにまいりましょう。

五瞋恚

いかりです。

阿羅漢を小乗としたカラクリ

これは本能的な欲望のむさぼりです。 妊欲・食欲・睡眠欲(怠惰)等、いやしい低級な本能に もとづくところの、のむさぼりです。 要するに、五欲をもとにした、欲望のむさぼりです。

しかしこれは、ただたんに腹を立てる、というような感情的なものだけではなくて、自分の思 う通りにならないことにたいしすべていかりを発する愚のこころです。愚癡というのは、因縁 因果の道理のわからないことで、ほんとうに因縁因果の道理がわかったら、そうむやみに腹を立 て、いかりを発することはできません。 」

ひどい目にあわされた、といって相手のことを一方的にわるくいう。 はなしを聞いてみると、

自分が相手にたいして欲ばりすぎて、大もうけをしようといううまいはなしに乗っかって、それ で損をした。

「あいつはわるいやつだ。 どろぼうよりもわるい」

なぜどろぼうよりもわるいやつに金を出したのかというと、自分がはたらかないでうんともう かる、というようなうまいはなしに、乗っかってしまったわけです。

そんなうまいはなしがあるはずない。そんなうまいはなしがきたら、マユにツバをつけてじっ と考えてみればよい。 すぐわかる。それが、歌が先に立ってしまうから、「一口十万円出せば、 翌月から五万円ずつ、毎月配当する」といわれて、「一口十万円で五万円、十口だと五十万円、 百口だと五百万円、これはいいぞ」というんで、あり金残らずかき集め、その上、友人知人、サ ラ金からまで借金して、相手にわたす。最初一回か二回は配当をくれるが、そのあとはナシのツ ブテ なんにもいってこない。あわてて飛んでゆくと行方不明、あわてて警察に訴えて出て、つ かまえたところで一銭も返っては来やしない。

一番わるいのは自分の。それを考えたなら、まず反省するのが先に立って、腹が立つのはそ のあとになるはずです。 ところがそういう人に限って、ぜったいに反省しない。 自分が損をした のは相手がわるい、世の中がわるい、釈迦がわるい(笑)などというところまで発展してしまう。 だから、これを、愚かでだという。この職は、因縁因果の道理にくらいことをいうので、

これをいましめるわけです。

六、色 貪

七 無色食

これから、五上分結に入ります。 もうすでに、聖者となり、阿那合にまで到達したひとたちが 修行の対象とするものですから、非常に高度なものであり、その境界に達したものでなければわ かりません。かんたんに解説しておきます。

色の色は、いつもいうように、物質のこと。 色情のむさぼりではありません。物質世界に たいする欲望です。前の欲は、本能の欲望のむさぼりですが、この色は、物質世界にたいす むさぼりです。物質にたいする欲望は、すべて色になります。

これは、精神世界にたいする欲望

色はまだ切れるが、この無色食のむさぼりは、切るのが非常にむずかしいとされています。 どういうものかといいますと、たとえば、釈尊のようなおかたでも、最初、この無色をおか していたのではないかと、わたくしは思います。釈尊は、六年間、「麻麦の行」をされて、何度 死ぬほどの苦行をされた。なんのために、そんな苦行をされたのか。「さとりをひらきたい」

「いろいろな方法を駆使して修行を行っても成就しない者が、もろもろの煩悩が尽き、心に解脱 を得たいと思っても、あの僧侶(修行者)たちは、ついに漏解脱を得ることはできません。

それはなぜでしょうか?

修行していないからです。

なにを修行していないのでしょうか?

それは、いわゆる四念処法 (四念処観)・四正法(西)・四如意足法(四神足法)・五根 五法 覚法・八正道を修行していないのです」

ここは、『応説経』の中でも特に重要なことが、説かれているところです。

解脱とは、 編 (煩悩がすべて尽きた状態ですから、完全解脱、つまり成仏したというこ とです。その完全成仏を心から願って修行しているのに、それができない僧侶たちがいる、とお 釈迦さまがおっしゃっておられるわけです。これは大問題です。

なぜ、その僧侶たちは成仏できないのか? それは、四念処法・四正動法・四如意足法・五根 法・五力法・七覚支法・八正道を修行しないからだ、とお釈迦さまは説かれているわけです。

この四念処法四正動法・四如意足法・五根法・五方法・七覚支法・八正道というのが、わた くしがいつもお話ししているお釈迦さまの成仏法、「七科三十七道品」です。わたくしはこれを、 成仏のための七つの科目(システム)、三十七の修行法 (カリキュラム)であると申し上げており ます。 念処・正勤・如意足・根・力・覚・道で七科目。そして、それぞれが四・四・四・五・ 五・七・八からなる修行によって成り立っておりますから、全部を合わせて三十七になるわけで す。

お釈迦さまは、この修行を行わない者はたとえそれが僧侶であっても、その人がどのように成 仏を望んでも、絶対に成仏することはできない、とおっしゃっています。

七科三十七道品

三十七の科目が、古の道に従う修行者の前に静かに並んでいた。それは心を清め、真理へ至るための道標であり、一歩一歩を進むことで、彼らは己の魂の深淵へと近づいていく。

「四念処法」、これはまず最初の一歩だ。身、受、心、そして法に対する観察。彼らは己の肉体を見つめ、痛みや快楽を超え、心の動きを静かに観察する。全ては移ろい、変化していく。何も永遠ではない。ここでの訓練は、己の心の動きを捕らえ、真の姿を見つめることである。

次に「四正断法」。断絶と修行がここに含まれている。過ちを断ち、善行を育てるために心を律し、邪念や執着を振り払うための試練だ。断ち切ること、守ること、修めること、全てがここでの修行の基礎となる。

「四神足法」は特異な修行法だった。これは神通力、すなわち超自然の力を得るためのもので、望む力、勤める力、心の集中力、そして観察力の四つの柱から成り立っていた。これは彼らにとって、未知の力を探求する冒険であり、危険を伴う領域への旅だった。

「五根法」と「五力法」は、信じること、精進すること、集中すること、そして智慧を磨くことに焦点を当てた修行である。彼らは己の信念を根底から強固にし、その信念を行動に変え、力として身につけていく。まるで大樹が根を張り、枝葉を広げるかのように。

七つの「覚支法」、それは真理への目覚めを導くものである。彼らは法を選び、喜びを感じ、安らぎを求め、執着を手放し、心を定め、そして最終的には完全なる覚醒を目指す。これは悟りの境地へ至るためのステップであり、何も捨てることなく、全てを受け入れる修行だ。

そして最後に「八正道法」。正しい見方、思考、言葉、行い、生活、努力、念、そして定。これは彼らの人生の指針であり、彼らが生きるための道しるべであった。この道を歩むことこそが、彼らが目指す究極の真理への道である。

これら全てが、瞑想、実践、そして特殊な修行に分類される。それぞれが異なる目的を持ちつつも、全ては一つの真理へと収束していく。修行者たちは、この七科目を自らの糧とし、聖師の導きのもと、自らの魂を鍛え続ける。

 

二十一世紀へ仏教の常識を破壊せよ

その力をあたえる五力法と七覚支法

私は、さきに、七科目、三十七教程の成仏法を紹介した。

しかし、修行者は、これを全部、修行しなければならないわけではない。

導師が教示してくれた主要な一科目を中心に、いくつかの教程を併合したものを修行して

弟子によって、みな、素質・能力・環境等(総称して、“因縁”という)が違うので、導師

かんあん

それらを勘案して、最も適切な教程を作製してさずけるのである。

私が用うる代表的な修行法を、つぎに示そう。

これは、さきにのべた成仏法の中の「七覚支法」と「五力法」を合わせて作製したもので

この場合、五力法は、だいたい基礎訓練に用いる。

五力法とは、つぎのようなものである。

この訓練によって、信念の力が極度に発達し、いかなる困難に遭っても屈することなく、 信念を曲げることがなくなる。

困難に遭えば遭うほど、目的に集中し、努力する能力と性格を持つようになる。

異常なほど念力が強化される。

太陽光をレンズに集中して発火させるほどの念の力が養成される。

この法で強化された念の力は、信じられないほどの力を発揮する。

この法の訓練から、クンダリニー・ヨーガの課程に入る。

じょうりき

定 力法

タバス

強化された念の力で、高度の瞑想や、特殊な練行を行う。

この訓練で、人間ばなれした力が身にそなわりはじめる。

クンダリニー・ヨーガの特殊訓練がはじまる。

力法(智力法ともいう)

高度の智慧を身につける訓練である。

私は、求聞持聡明法の修行から始めさせる。

以上の五力法を基礎訓練とし、この五力法の上に立って、つぎの本格訓練に入ってゆく。

七党支法

七覚支法は、すべて、クンダリニー・ヨーガの訓練と併合しておこなわれる。

これは、私の発見である。

最初、私は、仏陀の成仏法に挑戦して、まったく歯が立たなかった。手も足も出なかった。 なんとか手がかりをつかもうと、四苦八苦しているうちに、阿含の文献の中に、「ゴータマ・

アーセト

あろう。

ちゅくほう

択法覚

ブッダは、ヨーガの達人。 と呼ばれる」という文章を発見した。

この事を考えているうちに、この“ヨーガは、ラージャヨーガと、クンダリニー・ヨ

ーガに違いないと、思いあたった。

精進党支

たんちょ

それを端緒にして、十数年かかって、私は仏陀の成仏法の秘密を解いた。

まさに、仏陀釈尊は、クンダリニー・ヨーガの達人だったのである。

クンダリニー・ヨーガの体得なくして、仏陀の成仏法には一指もふれることができないで

「択」とは「えらぶ」という意味で、あらゆるもの(法)の中から真実のものをえらび出し、 真実ならざるものは捨て去る智慧の獲得である。

「さきにのべた「事物の明確な認識と予知」の力は、この択法覚支から得られるのである。

精進努力し、能力が増加、あるいはあたらしい能力を身につけることに喜びを感じます ます訓練に精勤するようになる。 どんなにきびしい修行でも、喜びをもって受け入れるよう

それは、クンダリニー・ヨーガのチャクラを動かすことにより、訓練が楽しくなるホルモ ンを湧出させるからである。

常に、身心を軽快明朗にして、心が惜冥 (暗く濁る)したり、渋滞したりしない修行。 喜覚支をさらに進めたもので、クンダリニー・ヨーガと併合した、特殊な訓練で得られる 能力である。

聖者特有の、のびやかな姿体と、平安で穏やかな人相となってくる。

取捨憎愛の念をはなれて、なにごとにも心がかたよったり、心の平静が乱されなくなる。

対象へのとらわれを捨てる修行である。

軽安覚支につづいて、聖者としての心がそなわってくるのである。

定方法につづいて、超人としての能力が飛躍的に強化される。

徹底的な定力(精神統一)の強化により、感覚器官が増幅される。

この修行の極限は、不可視光線(赤外線、紫外線)を見ることができ、超音波を聞くこと ができるようになる。その結果、天災地変も予知することが可能となる。 そこまで到達する ことは容易ではない。この修行によって、聖者たちは、大なり小なり、この能力を身につけ るのである。

初心者でも、予感や予知力が身にそなわる。 どんな初心者でも、とにかく「カン」が冴 えてくることはまちがいない。

いかがであろうか?

この修行を完成した超人の力は、ふつうの人の「常識」を越え、常識を破壊してしまうだ ろう。たとえば、

これは、一つの例えであるが、かれの思念の力は、他人の内臓の中にできた腫瘍(ガンな ど)を、その念の集中力で、破壊、あるいは溶かしてしまうことも可能である。 仏陀やその 弟子たちは、そのようにして、病人を癒したものである。(ただ、この場合、ガンを破壊して も、破壊されたガン細胞が他に転移するおそれがあるので、ガン細胞そのものを死滅させる ほどの念の力が伴わなければ危険であり、軽々しくこれを行うことはできない。 それほどの 力は、仏陀ご自身でなければ持てないのかもしれない。一つの可能性の例として、あげたわ けである)

そんな力は例外としても、念力法、念覚支法を修行した場合、中等程度の者でも、常人の 信じられないような念の力を持つようになる。

これが、仏陀釈尊の、弟子たちに教えた「仏法」なのである。

これが、真実の仏教なのだ。 あなたがこれまで常識として考えていた仏教とは、大分ちが うのではなかろうか?

多くの人が仏教だと思っている『法華経』とか『阿弥陀経』は、仏陀釈尊がお説きになっ たものではないのである。これら「大乗経典」とよばれる経典は、仏陀がお亡くなりになっ 二、三百年もたってから、無名の人たちによって創作されたものである。だから、これら の経典は、学問的には「創作経典」とよばれているのである。

創作経典の中には、「成仏法」は全く欠落している。一行も書かれていない。当然であろう。 「成仏法」は、仏陀釈尊しか教えることが不可能だからだ。無名の人たちが勝手に創作した大 乗経典に「仏陀の成仏法」が全くないのは、当然至極というべきだろう。

日本の仏教は「大乗仏教」である。つまり、「創作仏教」であって、「仏陀の仏教」ではな い。従って、「仏陀の成仏法」は全くない、というわけである。

日本の仏教徒が、仏陀の成仏法を全く知らない、というのは、ここに原因があるのである。 私はこのことが心から残念でならないのだ。