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阿合仏教・超能力の秘密  科学による破滅からの回避  Secret of Ai Buddhism and super powers Avoidance from destruction by science

阿合仏教・超能力の秘密  科学による破滅からの回避

 

  • 単行本: 515ページ
  • 出版社: 平河出版社; 改訂版 (1972/07)
  • 言語: 日本語
  • ISBN-10: 4892030104
  • ISBN-13: 978-4892030109
  • 発売日: 1972/07
  • 梱包サイズ: 18.6 x 13.2 x 3.4 cm

 

密教・超能力の秘密

新品価格
¥2,160から
(2019/10/4 21:04時点)

 

科学からの弁明と対策

 ここで、ひとつ、科学から、その弁明と対策を聞いてみよう。

 有名な科学者と技術者が、抑制のきかなくなった科学と技術の危険性に、恐れと憂慮を表明するのは、今ではもはや全くありふれたことになっている。科学と技術がもたらす破滅をいかに回避すべきかについて、彼らは今や必死である。

 では、科学者、技術者にいったいどのような救済策があるであろうか?・

 「理性は目覚めた。しかし、大勢はすでにおそい」

 と悲痛な呻きを洩らナルネーデュボスは、結局、あらゆる科学部門の知識の統合によって倫理的社会的目標を設定し、あたらしい技能を獲得した技術者にそれを実現させてゆくよりほかはないと提案する。「望ましい未来」と題する文章のなかで彼はこういう。

 『-文明が存続するかぎり、われわれは諸発見に依存しているのだから、社会的に価値のある科学目標の選択は、決定的に重要だ。(ところが)既成科学機構というものは優先順位の決定、

種々の分野にあたえる研究費の配分比率の決定におどろくほど理不尽である。ある問題は、その

支持者が政治的影響力をもったり、市民の感情にうまくアピールするため重視される。ところ

が、研究すれば宇宙についての理解を拡大でき、人間の福祉に貢献できる問題でも、無視される

別の問題もある。―また、研究の影響よりも研究自体しか考えない専門家たちが、科学文明の

社会をますます支配しているのは悲しむべきことである。おおかたの社会問題の性格は、主に技

術的なものだとみなす習慣にはまりこんでいるので、専門家はあたかも社会の指導者の如く振舞

うことが許されているばかりか、しばしば期待ざれてもいる。ハーヴェイーブルックスのことば

によれば、(二〇世紀における社会の進歩史の概略は、公的政策のますます多くの部分が、政治

家から専門家の手に移っているといえる。政治的選択の問題は、しばしば、政治家同志の技術的

な論争のなかに埋没している)II専門家と計両家というのは、しばしばきわめて盲目で、自分

の見たいものしか見えないということは、残念ながら、かなり本当だ。専門家の知識が深遠にな

ればなるほど、彼らは社会的意味よりも実現の可能性に目を奪われがちである。

 ―幸い、専門家の役割が社会的に検討されるきざしがある。問題の発見、対策の決定、集団

の政治的感覚を判断すること、目標の優先順位の決定、目標達成の政治的手段の選択など、これ

(なるだろうではない。なるようにしなければいけないのだ。著者)専門家を信用せず、技術的

「処理」の危険を重視することは、科学あるいは技術にたいする敵意を意味するものではない。

らすべての問題を専門家だけの判断にまかせるのは不本意だと社会は思うようになるだろう

それどころか、重要なのは目標の設定とその実現手段の確立についても、人間がますます意識的

に選択し、反応できる社会環境を維持することである。。技術はわれわれをどこへっれて行くの

か″と疑問をもつだけでは不十分である。さらに建設的な態度は、われわれが行きたい所へ行き

つくのに役立つ科学と技術を計画することであるI』

なるほどなるほど、まさにその通りである。これ以上なにもっけくわえることのない論説であ

る。だがI、問題はいったいだれがそれをやるかということである。

 デュボスはつづいて、

 『-あきらかなことであるが、学識ゆたかで、能力ある予測家グループでさえ、人間形成する

うえで、大きな役割をもつ要因を、計算から除外しているのである。たとえば、アメリカ科学文

芸アカデミーが「西暦二〇〇〇年にむかって」(ベル・一九六七)と名づけて組織した委員会は、

社会科学者と少数の自然科学者だけで構成されており、哲学者、牧師、作家、芸術家、政治家、

兵士、建築家、機械技術者、ビジネスマン、学生などは参画していない。それにもかかわらず、

この人たちのほうが、社会科学者、自然科学者よりはるかに将来を形成する力をうみだす可能性

は大きいのであるI』

 と述べているから、彼は、こういう人たちの参加を望んでいるのかも知れない。だが、この人   

たちについてはこの一節の文章しか記述されていないので、それもどこまで本気なのかわからな

いというのが実情である。

 政治行政の面では、

正常な状況下では、政治と偶然が、どの計画を着手、あるいは拒否し、延期、修正すべき

かをきめる。老練な行政官の役割は、選択された各種の施行方針の肯定的、否定的結果を綿密に

追求して、誤りを正し、予期せぬ事故に対処することである。このような伝統的な行政へのアプ

ローチは重要ではあるが、その力には限界がある。それは一般に(現在を拡張して)考慮するこ

とに限定され、将来への可能性のヴィジョンをも含めて問題を全体的に処理することがないから

である。11社会問題の科学的、文化的側面は複雑であるため、老練な計画家と行政官の手をも

ってしても十分処理できず、せいぜい彼らの態度をかため、その方針決定に影響をあたえるくら

いである』

 とほとんど期待をかけていない。では、アカデミックの機関は、といえば、

 『I‐アカデミックな機関は、現実生活からまぬがれえない限界とゆがみから脱却しているか

ら、社会問題を研究する格好の場を提供するかに見える。しかし、現在の諸条件下では実情はそ

うなっていないI』とすこぶる悲観的である。

『―総合大学および単科大学は、知識の考えうるほとんどすべての側面に関連する科目を教授

し、研究ずるよう組織されている。しかし、そこでは、ばらばらの情報の断片を統合する機会

も、人間生活でひじょうに大きな役割をはたしている要求、価値、熱望と諸情報とを関連づける

機会もほとんどない。ところが、現在の人間の問題のすべてI人種間闘争、経済成長、生態学

的危機、医療給付のありかた、都市の荒廃、環境汚染、住宅および運輸問題、騒音防止、海洋学

研究等々-は、自然科学、行動科学、政治科学など、多岐にわたる専門分野の力に訴えなけれ

ば理解することも、有効に対処することもできないものである。(ところが)課目中心で、目的

中心ではない大学の機構のなかでは、知識の統合をはかることは容易ではない。にもかかわら

ず、われわれの住む世界について包括見解を得るには、知識の統合はどうしても必要であり、わ

れわれの望む世界をつくり出す上に、それはいっそう重要なのである』

 

 要するに、一口でいえば、現在の機構ではダメだということである。

 それじやあいったいどうすればいいんだ?

 結論は、物理化学的諸科学、行動科学、社会科学、自然科学、および生理学、生態学その他の

生物科学をむすんだ知識の統合をはかる。そしてそれで価値ある進歩への社会的目標を設定する

のだというのである。

 『―そこから生まれる科学と技術は、巨大機械をさらに拡大するのではなく、生態学的なバラ

ンスを維持し、人間の潜在力を開発して、文明に最善の寄与ができるのである。このことはJ 

九世紀、二〇世紀の初頭からわれわれが受け継いだ考え方では、困難であろう。その目的がどん

なにつまらなくても、その長期的影響がどんなに有害であってもわれわれは、技術の。進歩″を

もってわれわれの社会に対応させてきた。″進歩″ということばは、現在では、目的性を帯びる

ことなく、その前進が破滅と絶望に通じる場合であっても、ただひたすらすすむことを意味して

おり、それでもわれわれはかまわず″進歩″してきたのだが、(今度は統合された知識により)

価値ある進歩への社会的目標がまず設定される。これで、はじめて、計画は、人間の努力に対し

て、望ましく、楽しくなるのであるI』(傍点は著者、この部分をよく記憶しておいて欲しい)

 なるほど、たしかにそうなったら、人間の努力もたいへん楽しくなるであろう。一日もはやく

そうなって欲しいと、私も切に希望するのであるが、しょせんそれは「エルドラドー」に過ぎな

いのだ。いったい、だれがそれらのおびただしい科学知識を統合した超知識の所有者となるの

か? 第一、そういう超知識の所有者をつくり出す教育機関をつくり出すという難関の解決から

はじめねばならぬのである。エルドラドーとはご承知の通り、望んでも得られぬユートピアのこ

とであるが、そういったからといって、ルネーデュボス先生はけっしてお叱りにならないであろ

う。なぜならば先生みずから、このことは一九世紀、二〇世紀初頭からわれわれがうけ継いだ考

えかたでは困難であろう、とおっしやっているのだ。まさに私はその通りであると思う。このこ

とに関して私はもっとあとのほうであなたに語らねばならぬ多くのことが出てくるのだが、ユー

トピアといえば、ルネーデュボスは、最後に、今まで数多くあらわれた文学的形態、あるいは純

粋な社会的ユートピアを否定し、もっと新しい観点に立つ未来観を打ち出している。それは、今

までの未来像は、未来を常に過去の延長としてとらえているので、それでは駄目で、将来という

ものは、真に新しい冒険としてとらえなければならぬと説く。A・トフラーの「未来の衝撃」あ

るいはドラッカーの「断絶」を思い出させる言葉であるが、要するに、現在の状態からまったく

はなれて、可能な将来のモデルを数多くつくり出し、そうした将来を実現する行動方法を想定す

る必要があるというのである。そうすることにより。

 「人間はみずからの運命を支配できる機会がまだあると希望ナることができる」

 とむすんでいる。この文章で″目覚める理性″はおわっている。

 ”目覚める理性”はそれでおわったが、私にとってその文章は、終結とはならず、かえって長い

思考の発端となったのであった。彼はこともなくペンをおいたが、私はこの一連の言葉のなか

に、あるいは語っているデュボス自身も気ずいてはいないかも知れぬまことに意想外な発想のひ

そんでいることを感じたのである。

 いったい、過去を全くはなれた未来とはなにか? それは一種の「突然変異」ではないのか?

つまりは「文明の突然変異」を意味するのではないのか。一九世紀におこり、二〇世紀にいたっ

て頂点に達したヒトの科学文明の″種″が行きづまり、ついに突然変異をねがうよりほかになく

なった究極を、彼デュボスは無意識のうちに洩らしてしまったのではないのか? 現代科学のも

っともすぐれた知性のひとつが、究極において行きっくところはそれしかないのであろうかとノ私はしばし深沈たる思いに沈んだのであったが、しかし、もしもそうだとするならば、事はまこ

とに重大だというべきである。非常事態といわねばなるまい。なぜならば1、

 「文明の突然変異」とは、まずその前に、「ヒトの突然変異」がなければならぬからである。

 

科学がはたして諸文化の中心か/

 行きづまった科学が、科学以外の分野に向かって、協力を呼びかけようとするのは、ルネーデ

ュボスだけではない。たとえば、ノーベル物理学賞受賞者のイシドールーアイザック・ラビもま

たそのひとりである。

 彼は「文化の中心としての科学」のなかで、こういっている。

 『われわれは今や、ひとつの新しい時代、強烈な衝撃の時代に足を踏み入れようとしている。そ

れは科学の進歩を通して人間の思想の進化の方向を目ざしている。この進歩は必然的にわれわれ

の本質的な思考に変化をあたえ、その変化は時間、空間、因果律についてのわれわれの基本的な

考え方から始まり、人間の肉体、人間の心、さらに社会組織の諸法則についてのもっと偉大な理

解を達成しようとするところまで進んでいくようになる。新しい技術、新しい知的な道具、新し

い発明は着実に現われ、これはわれわれの外なる世界、内なる世界について、われわれが何を考

えるかに影響するだけでなく、また、どのように考えるかについても影響をあたえるであろう。

生物学や自然科学を学んでいる科学者だったらだれでもこう感じている。産業も、そうした考え

で広がっていく。機械仲買人でさえ、それぐらいのことは心得ている。(ところが)不幸にして、

この新しい事実、未来の新しい波は、今のところ、自然模写の芸術や文学に影響するに至ってい

ない。これは非常に残念なことである。というのは、われわれはさし追っている大きな変革に対

してわれわれを準備させ、指導の手を貸してくれるものとして詩人、芸術家、小説家、エッセイ

ストを求めているからである。このような芸術家の不足は、来るべき時代の生活がもつ一般的な

特徴を貧弱なものとするであろう。イングランドで、両家に詩人、聖職者と作家が産業革命から

超然としていた結果、優雅な芸術の手ほどきを受けていない新しい力が、こんにちイングランド

で見られるような怪奇な産業都市j-マンチェスター、バーミンガム、リーーズをつくりだしたの

である。詩人が発言していることはいるのだが、その詩人の声は指導の声であるべきなのに、抗

議の声にすぎなかった。文学の貴族たちは、指導と理解を示すべき機会をあたえられながら軽蔑

を表現していた。彼らは新しい力をすばらしい生活に導いてゆくことができたのだ。のっけから

彼らは産業を人間的な理想の方向に型どる機会をあたえられていたのだ。彼らは一八世紀と一九

世紀にバスに乗りおくれた。そして二〇世紀にも同じ轍を踏むであろう』

 なんたる傲慢! これが指導と協力を呼びかける者の態度であろうか? これでは協力を求め

られた方で間違いなく(軽蔑を表現)するであろう。この文章から読みとるかぎり、この人は俗

物きわまる人物といわざるを得ない。彼の思考はこうである。科学を諸文化の中心に据えて新し

い文化を創造しようというものだが、伝統ある芸術や宗教を侍女のごとくかしずかせ、その中心  

の王座に傲然と座ろうとするその鼻もちならぬ態度を改めぬかぎり、彼の科学を(貧弱)なもの

にするだろう。いまだかつて科学と技術と産業社会が、画家と詩人、聖職者と作家の声に心から

耳を傾けたことがあったか? むしろ、軽蔑をあらわしたのは彼らのほうではなかったか? そ

の結果、怪奇な産業都市をつくりあげてしまって、今になってその罪を、画家や詩人に転嫁しよ

うとするその心情は、私だって心から軽蔑せざるを得ないのだ。

 科学と技術以外に幸福と繁栄をあたえるものはほかにないという、田心いあがった彼の考えかた

は、この本のいたるところに見いだされる。

 !―-古代の諸文化の最も偉大な中心地、エジプト、メソポタミア、ペルシャ、中国、南イタリ

ア、ギリシアなどが今では後進国であり、かつては未開で無知と迷信に明け暮れ、原始的な技術

しかもたなかったような野蛮人の居住地、イングランド、スカンジナヴィア、ドイッ、アメリ

カ、さらにはロシアのシベリアの大草原地帯などが、今では偉大な先進工業国となっているとい

うことは歴史の皮肉である。これらの場合に見られる歴史の教訓は、科学と技術の進化の競争で

とり残されたものは、ますますおくれてしまうということである。これらの後進国が犯した失敗

は、科学と技術に適応できなかったという失敗であったI。

 メソポタミアの農村の一老人と、ニューヨークの大会社のエリート社員と、どちらが人間とし

て幸福であるかは分からぬのである。G・R・ティラーがいうように「アメリカ人の″生活水準

が″ベンガル人の三〇倍なら、アメリカ人はベンガル人の三〇倍も幸福だと信じやすい」、イッ

ドール・I・ラビ氏が、それと同じ間違いをおかさなければさいわいというものである。一流の

科学者のこういう考えかたが、実は今日の事態をひきおこした根本原因ではないかと私は思う。

世界一流の頭脳がこういうことをいっているようでは、まことに、ルネこアユボスが無意識のう

ちに考えるごとく、やはりヒトは突然変異でもせぬかぎり救われぬ存在であるのかな、と思わざ

るを得ないではないか。

Secret of Ai Buddhism and superpower

Scientific explanations and countermeasures

Here, let’s hear from the science about its defense and countermeasures.

It is no longer common for famous scientists and engineers to express their fears and worries about the dangers of science and technology that can no longer be controlled. They are now desperate about how to avoid the destruction of science and technology.

So what kind of remedies are there for scientists and engineers?・

”“ Reason has awakened, but many are already slow ”

In the end, Narune Dubos suggests that ethical and social goals should be set by integrating knowledge from all scientific departments, and that engineers who have acquired new skills can do so. . In a sentence titled “The Desired Future”, he says:

“-As long as the civilization continues, we are dependent on discoveries, so the selection of socially valuable scientific goals is crucial. However, the existing scientific organization is a priority decision,

Surprisingly, it is unreasonable to determine the proportion of research funds allocated to various fields. One problem is that

Supporters are emphasized because they have political influence and appeal to citizens’ feelings. By the way

However, if research can expand understanding of the universe and contribute to human welfare, it will be ignored.

There is another problem. ―Also, experts who think only of research rather than the influence of research

It is sad to dominate society more and more. Most of the social problems are mainly technical skills.

Experts behave as if they are social leaders because they are stuck in the habit of treating them as artistic.

Not only is it allowed, but it is often expected. Harvey Brooks words

According to (an outline of social progress in the 20th century, more and more parts of public policy

It can be said that it has moved from the house to the hands of experts. The problem of political choice is often the technical trap of politicians.

II professionals and both families are often very blind and self-confided.

Unfortunately, you can only see what you want to see. Profound knowledge of experts

The more they are, the more likely they are to be obsessed with the possibilities than the social meaning.

-Fortunately, there is a sign that the role of the specialist is considered socially. Find problems, determine countermeasures, collective traps

Such as determining the political sense of the person, determining the priority of the goal, and selecting the political means of achieving the goal.

(It’s not. It must be. Author) Don’t trust the experts, technical

Emphasis on the danger of “processing” does not mean hostility to science or technology.

So, society will come to think that it is unwilling to leave all problems to the judgment of experts only.

On the contrary, what is important is that humans are becoming more and more conscious about setting goals and establishing the means to achieve them.

To maintain a social environment where people can choose and respond. . Where technology goes us

It’s not enough just to have a question. “The more constructive attitude is to go where we want to go.

I’m planning science and technology to help

That’s exactly right. This is an undisputed editorial

The But I, the question is who will do it.

Dubos continued,

“-It’s clear, but even a well-established and capable group of predictors will form human beings.

In addition, factors that play a major role are excluded from the calculation. For example, American Science Literature

The committee organized by the Gei Academy named “Towards the Year 2000” (Bell 1967)

It consists only of social scientists and a small number of natural scientists, philosophers, pastors, writers, artists, politicians, nieces

Soldiers, architects, mechanical engineers, businessmen and students are not involved. Nevertheless,

Possibility that these people will create much more power to shape the future than social scientists and natural scientists

Is big I ”

He may have wanted to join these people. But this person

Are only written in this passage, so I do n’t know how serious it is.

The fact is.

In terms of political administration,

Under normal circumstances, politics and chances should start or reject any plan, postpone, or modify it.

I will decide. The role of an experienced administrator is to closely monitor the positive and negative consequences of the various enforcement policies selected.

Pursue, correct errors, and deal with unexpected accidents. Appeal to such traditional administration

Roach is important, but its power is limited. It is generally considered (expanding the present)

And will not deal with the problem as a whole, including a vision of the future.

It is. 11 Because the scientific and cultural aspects of social issues are complex, the hands of an experienced planner and administrative officer

Even if they are not able to handle enough, they will at best influence their attitude and influence their decision making.

It is

Almost no expectation. So, the academic institution is

“I-Academic institutions are moving away from the limits and distortions they ca n’t resist from real life?

It seems to provide a good place to study social issues. However, under the current conditions, the actual situation is

I’m so pessimistic that I’m not talking.

“—Universities and colleges teach courses related to almost every conceivable aspect of knowledge.

And organized to study. But there is an opportunity to integrate disparate pieces of information

However, the relationship between demands, values ​​and aspirations that play a very important role in human life

There is little opportunity. However, all of the current human problems I racial struggle, economic growth, ecology

Crisis, medical benefits, urban devastation, environmental pollution, housing and transportation issues, noise prevention, oceanography

Research, etc. should appeal to the power of a wide range of specialized fields such as natural science, behavioral science and political science.

It cannot be understood or dealt with effectively. (That’s the subject)

It is not easy to integrate knowledge within a non-central university structure. Even though

First of all, knowledge integration is absolutely necessary to get a comprehensive view of our world.

It’s even more important in creating the world we want ”

In short, in short, the current mechanism is not good.

What should I do?

The conclusion is that physicochemical science, behavioral science, social science, natural science, physiology, ecology and other

Integrate knowledge related to biological science. And that sets social goals for valuable progress

It is.

“—Science and technology born out of it is not an expansion of giant machines, but an ecological variation.

Can make the best contributions to civilization by maintaining human resources and developing human potential. This is J

The idea we inherited from the beginning of the 9th and 20th centuries would be difficult. The purpose is

No matter what boring, no matter how harmful its long-term effects are, we are technical. ″ Progress

It has been adapted to our society. The word “advance” is now an objective.

Even if that advancement leads to ruin and despair, it means just

Yes, but we’ve always been “progressing” (this time with integrated knowledge)

Social goals for valuable progress are set first. For the first time, the plan will

It’s desirable and enjoyable I ”(the side is the author, please remember this part well) 部分

Indeed, if that happens, human efforts will be very enjoyable. It’s no longer a day

I really hope that it will happen, but that is just an “Eldorado”.

No. Who will be the owner of super-knowledge that integrates these vast scientific knowledge?

? First, from the solution of the difficulty of creating an educational institution that creates such super-knowledge owners

You must start. As you know, Eldorado is a utopia that you can’t get even if you want

However, because of that, Dr. René Dubos will never speak.

Yeah. This is because of the thoughts we inherited from the 19th and early 20th centuries.

I’m doing it that it would be difficult for me. I think that is exactly the case. this child

There are many more things I have to tell you about later.

Speaking of Topia, René Dubos is the last literary form that has appeared,

Denies the smart social utopia and has a new perspective on the future. That’s tonight

The image of the future up to now always sees the future as an extension of the past.

He states that things must be viewed as a truly new adventure. A. Fuller’s “Shock of the Future”

In other words, it is a word that reminds us of Drakker’s “break”, but in short, it is completely inconsistent from the current state.

Create a lot of possible future models and envisage behavioral ways to realize those futures

It is necessary to do. By doing so.

“Human can hope that there is still an opportunity to control his fate”

I’m sorry. In this sentence, the “reason to wake up” is over.

“The reason to wake up” is over, but for me, the sentence doesn’t end, it’s rather long

It was the beginning of thought. He put on a pen without any doubt, but I was in this series of words.

Or the dubos who are talking about may not be aware of it.

I felt it.

What is the future that completely separates the past? Isn’t it a kind of “mutation”?

In other words, does it mean “mutation of civilization”? Occurs in the 19th century, in the 20th century

The “species” of the human scientific civilization that has reached the top of the line is stuck, and there is no other way than to aim for mutation at last.

Wasn’t Dubos unknowingly leaking the ultimate? Modern science

One of the best intellects was that I was deeply sunk to see if that was the only place where I could go in the end.

It should be serious. It ’s not an emergency. Because, 1

“A civilization mutation” is because there must be a “human mutation” before it.

Is science the center of various cultures?

It is Renéde that science that has come to the end calls for cooperation in fields other than science.

Is not just boss. For example, Nobel Prize in Physics, Isidoor Isaac Rabbi Mama

One of them.

He says in the “Science as the center of culture”.

“We are now stepping into a new era, an era of intense shock. So

It aims at the direction of evolution of human thought through scientific progress. This progress will inevitably we

Changes in the essential thoughts of time, space and causality

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それは瞑想からはじまる It begins with meditation

 

 

それは瞑想からはじまる

 わたくしは、前章で紹介した『間脳思考』で、エレクトロニクスと霊性を結

ぶものはなにかと質問されて、それは瞑想からはじまると答えた。

 そのあと、話がだいぶ進んでから、

「それでは、間脳の開発をするのも、瞑想ですか?」

 と聞かれた。わたくしは、

「いいえ」

 とかぶりをふった。

「瞑想じやないのですか?」

「いいえ」

とわたくしは、これにもかぶりをふった。

彼は、けげんそうな表情でわたくしを見つめた。

そこでわたくしは答えた。

 「それは瞑想からはじまるのです」

 なるほど、というように彼はうなずいた。わたくしは説明した。

 それは瞑想からはじまるのだが、瞑想だけではないのだ。霊性の完成は、瞑

想だけでは不可能なのである。心の安定、欲望の調節、本能の抑制、といった程

度のものでは、とうてい到達できない境界である。思念、想念の変化くらいで

は、絶対に行き着くことのできない次元なのだ。

 なぜか?

 霊性完成の到達点は、カルマからの超越である。

 カルマとはなにか? いうならば、地球における引力のようなものである。

地球上に存在するものすべて、地球引力の支配下にある。いかなるものも、引力

から逃れることはできない。いや、地球という存在そのものが、引力によって

成り立っているのである。人間におけるカルマもそのとおりである。人はすべ

て、輪廻のカルマの絶対的な規制を受けている。このカルマから、もろもろの

「因縁」が生じて、人間を繋縛しているのである。いや、カルマと因縁によっ

が、霊性の完成である。いうならば引力からの脱出である。反重力の修行なの

だ。その修行によって自分の存在の次元が変わるのである。

 存在とはなにか? それは究極のところ”波動”である。〃自分”という波動

を変えてしまうのだ。それにより”カルマ”という波動を越えてしまうのである。

 人間という存在の波動を変える原点は、間脳の視床下部にある。ここの波動を

変えることにより、全身の波動が変わり、特殊な精神波動と肉体波動を持つ存在

になる。それは、カルマの規制を受けない、ふつうの人間とはまた異なった、高

度な霊的存在とよぶよりほかない存在となるのである。これが成就すると、特

殊な「霊光」が発生するようになる。この特殊なオーラの発生は、全身の波動が

変化したことを示すのである。オーラについてはまたあとでのべるが、このオー

ラの発光源は間脳なのである。瞑想だけでは、以上のような”次元の変化”は

不可能である。もちろん、心の安定、集中、まったく新しい高い次元へのメディ

テイト等、瞑想はこの修行に絶対必要なものである。しかし、それはひとつの

手段にすぎない。瞑想は、大脳辺繰系と新皮質脳しか動かすことができない。だ

から瞑想だけではだめなのである。間脳をはたらかす瞑想でなければ、オーラは

発生しない。したがって、カルマを越えることはできないのである。

 では、なにが必要なのか?

 特殊なtaPas(練行)である。

 学者はtapasを苦行と訳しているが、わたくしはこれを、練行と訳したい。そ

してこの練行が絶対に必要なのである。

思念による王者の相承

 チベット密教のニンマ派では、古くから解脱の完成に三つの方法があると説

いている。

                 

一、思念による王者の相承  

二、象徴による持明者の相承     

                       ガンダク ニェッ ギ ギ ユー 八

三、耳を通した言葉による人の相承  gang zag snyan gyi brgyud pa

 である。

 霊界の法の世界において、法の完成者タターガタ(如来)が常恒に法を説いて

いる。

 一の「思念による王者の相承」とは、この法身タターガタが、言葉や象徴と

いう原価なしに、直接相手の心に自分の心を伝達するものである。この場合、

心、というのは単なる思念の心ではなく、パワーを主としたものと思うべきで

ある。これによって、相手はたちどころに仏陀として完成するのである。

 これは最高であり、理想的なものであること、もちろんである。「王者の」、と

いう所以である。

 二の「象徴による持明者の相承」とはどういうものかというと、象徴とは、あ

亘目葉、かたち、音、色などに複雑な思想の内容を圧縮して詰め込んだものを

いい、また、持明者(征だF)とは、純粋な心で実相をそのまま見ることがで

きる真如の世界に到達した者たちのことである。この相承(方法)では、真如の

理解を持つ持明者たちは、導師から象徴を示されることで、密教の深奥に到達

する教法を授けられるのである。

 以上のすぐれた方法に対し、ふつうの人間は、霊感はなかなか得がたく、ま

た象徴だけでは深い密教の教法を即座に理解することはできない。そこで、ラ

マが、いろいろな言葉をもちいてくわしく説き明かし、弟子に理解させていく。

いわゆる「口頭伝授」である。これが、三の「耳を通した言葉による人の相

承」である。

 以上の三つの方法を、わたくしは、つぎのように分類する。

一思念による王者の相止間脳系霊的バイブレーシン

ニ、象徴による持明者の相承匹トトド新皮質系=マントラ、タントラ、言葉、

      音楽、象徴

三、耳を通した言葉による人の相承トト大脳辺繰糸=言葉、マントラ、音楽

 これは、チベット密教だけではない。世界中のいかなる宗教でも、究極至上

のものに到達するためには、この三つの方法しかないであろう。

 しかし、究極至上のものに到達するためには、この三つだけでは不十分なの

である。欠けているものがある。なにが欠けているのか? さきにのべた練行

tapasである。

 だが、そういうと、一は最高理想のものなのであるから、他のなにものも必

要ないのではないかといわれるかもしれない。そうではないのである。その最高

理想のものを受けるために、tapasは必要なのである。

練行とはなにか

 では、その練行tapasとはどんなものか?

 それには、ひとっの例として、わたくしの修行体験をお話しするしかないと

思われる。

それを見ていただくことにしよう。

いまから四十年以上前に刊行した『密教・超能力の秘密』からの抜粋である。

求聞持聡明法の秘密

 私は定に入っていた。

 ひたすら、ふかい綜制に入っていた。

 修するは求聞持聡明法。三度目の修法であった。

 最初は真言宗密教の行法に拠った。完全な失敗であった。それは集中力

を高めるという効果はあったが、それ以上のものではなかった。つぶさに

この行法を検討して、私は、しょせん、真言宗密教の求聞持聡明法に、大

脳皮質の構造を一変するごときシステムはないとの結論を得た。すくなく

とも、従来のままの行法に、それだけの力はない。求聞持聡明法を成就し

て、悉地を得たという弘法大師空海は、あとにのこしたこの行法以外に、

必ず、なんらかの秘密技術を体得しているのに相違なかった。彼ののこし

 

 サヘト・マヘトでバスをおりたとき、

「ここはいいな」

 とまず思ったのは、もの乞いや、もの売りのすがたがまったくなかった

ことであった。

 どの仏跡も、もの乞いともの売りが喧噪をきわめ、これがどれだけ聖地

のイメージをそこねていたことか。

 祇園精舎の入り口の前の広場に、二階建て、白塗りの寺院があった。そ

の前に数名の人が群れ、その中心に、六十歳なかばと思われるがっしりと

した体格の一人の憎が立っていた。バスからおりたリンポーチエをみとめ

ると、満面に笑みをたたえ、大きく手をひろげて近づいてきた。二人は手

をにぎり合って、なつかしそうに話しはじめた。

 やがてひき合わされたところによると、リンポーチエの先輩すじにあた

る聖師で、メチワラーサンガラターナというかたであった。

 「スリランカの出身で、非常な学僧です。去年、ここへ寺院を建てたのだ

そうです。わたしもここへ来るまで知りませんでした」

 そう、リンポーチエがいった。

 「仏陀が十八年間説法されたこの精舎のそばで、生涯を終えるのが、わた

くしのかねてからの念願でした」

 サンガラターナ師は、あたりに響きわたるような大きな声で語った。や

やなまりのある英語であった。がっしりとした頑丈そうな体格で、声が大

きいのは健康なのだろう。八十一歳という年齢を聞いてびっくりした。ど

うみても六十歳代としかみえないのである。

 師が先に立って、精舎を案内してくださった。われわれが師をガイドに

得たことはじつにしあわせであった。観光会社がつけてくれたガイドも、

この地のことにはあまり知識がなく、リンポーチエにしても、数年前に一

度しか来たことがなかったのである。他の仏跡地のように、サヘトーマヘ

トには案内人がいないのである。もし、サンガラターナ師がおられなかっ

たら、われわれは、祇園精舎をただあるきまわるだけで、ひとつひとつの

 

 

た求聞持法の行法は、その秘密技術のヒントになるべきもののみをつらね

たに過ぎず、その秘密技術は‘おそらく、自分白身の訓練努力によって

みずからが発見せよとつきはなしているのにちがいなかった。それを発見

するだけの努力をし、発見できるだけの資質のあるもののみがそれをわが

ものとする資格かおるのだ、と、つめたく未来を見すえている不世出の知

性の目を、私は行法次第のなかに感じた。それゆえにこそ、宗教者として

ゆたかな天分を持つ興教大師覚鏝が、七たびこれを修して失敗し、八度目

にしてようやく悉地成就を得たという難解の行法となっているのである。

そうでなければ、覚鏝ほどの才能が、なんで七たびも失敗しようか。

 (中略)

 二度目の修法に、私は、古代ヨーガの技術をとり入れた。ひしひしと感得

するものがあった。五〇日のその行で、求聞持法の成就はみられなかった

が、私の考えのまちがいでなかったことがよくわかった。この方法で、求

聞持法はかならず成就する。つよい確信を得た。この技法を積みかさね、

延長してゆけばよい。これしかない。ぜったいの自信を得た。

 この、私の技法によれば、従来のごとく、山にこもって五〇日ないし

一〇〇日、明星を拝しつづける必要がなかった。常住坐臥、閑寂の部屋な

らば、時、ところをえらばなくてもよいのであった。ただ、最初の三日な

いし七日間、山居して明星とあい対し、これをふかく脳裡にとどめておけ

ばよかった。あとは、三〇日、五〇日、一〇〇日、よしんば1000日か

かろうとも、日常の生活の行忙のうちにトレーニングを積みかさねてゆけ

ばよいのであった。この発見はすばらしいものであった。これでなくて

は、法はついに民衆と無縁のものになってしまう。五〇日、一〇〇日、特

定の山にこもらねば成就しないというのでは、ごくかぎられた人たちのみ

しか参加することはできない。民衆と無縁になってどこに法の存在価値が

あろう。私は、このシステムによって、この法を完成せねばならぬ。法の

ために、民衆のために、どうしてもI。

 そして、三度目の必死の修法に私は入っていた。

 

 それは、ほぼI〇〇日目、私の法のシステムでいって百度目のトレーニ

ングのときであった。真言宗に伝わる求聞持法の九種の印明、それに、古

代ヨーガに伝わる特殊な呼吸法、古代ヨーガの秘法から私か創案した特殊

な手印とポーズ、この三つによるトレーニングで、私のからだと大脳皮質

と脳髄は、微妙な変化をおこしつつあることが感じられていた。チャクラ

の開発も順調にすすんでいた。機が熟しつつあることを、私の六感は感じ

ていた。

 夜明け、

 まどろんだような感じであった。しかし、ねむりではなかった。しびれ

の感覚であった。かるい失心、めまいに似ていた。忘我の一瞬であった。

その刹那、

 「ああツー」

 と私は苦痛の叫びをあげていた。脳髄の一角に電流がながれた感覚が

走った。落雷があったと感じた。目の前を紫電が走った、つぎの瞬間、眼

前でフラッシュをたかれたように、私の視野は真っ暗になった。失明!

という考えが、チラリと脳裡をよこぎった。と、そのときであった。頭の

内奥、深部に、ポッカリとあかりがともったのだ。そして、それは、私の脈

傅とおなじリズムで、しずかに、しずかにまたたきはじめた。ちょうど、

この修法をはじめる数十日まえ、山にこもって見つめたあのときの暁けの

明星のように’-それはつめたく、黄ばんだ白さでまたたいた。

 「そうか!」

 私は力いっぱい膝をたたいた。                 、

「そうか! これが明星だったのか!」

 私は目をみはって叫んだ。私はついに明星の秘密を発見した!

第三の発見---視床下部の秘密

 私は幼少のときから剣道をしこまれた。藩の剣術師範の家柄に生まれ、

若年の折、江戸お玉ヶ池の千葉門で北辰一刀流を学んだという祖父に、は

                                                                              

 

じめて木剣を持たされたのは三歳ごろであったろうか? そのとき私は、

祖父の顔をゆびさして「目ン目がこわい!・」といって泣いたそうである。

そのころ八〇歳を過ぎていた祖父は、ほんとうの好々爺になりきってお

り、私は2  だん、父よりも母よりもなついていたが、そのときばかりは、

木剣のむこうに光った剣士鳥羽源三郎源 靖之(祖父の名)の目に、ひとた

まりもなくちぢみあかってしまったものらしい。めったに泣いたことのな

い私か一時間ちかくも泣いていたという。〃それでもあんたは木剣だけはは

なさなかったよ”と、いまでも老母がはこらしげに語ってくれるのだが

、私は、のち、三段にまで昇り、健康を害してやめたが、剣の天分が

あるといわれ、少年時代、そのころ盛んであった各地の剣道大会に出場し

てかぞえきれぬほどの優勝をしたのは、この祖父の血を受けたものであろ

う。私は剣道が好きであった。防具のはずれの肘を打たれて腕かなえ、思

わず竹刀をとり落としたりするときはつらいとは思ったが、苦にはならな

かった。面金を越えて深くあざやかに面をとられたときは、目からパッと

火が出て、プーンときなくさいにおいを嗅いだ。ほんとうに目から火が出

るのである。けっして形容詞ではないのだ。これは剣道修行の体験者なら

ばみなご存知のはずである。

 その火なのだ。そのときの私の視野をかすめた閃光は。

 しばらくしてわれにかえった私はそれに気がついたのだった。そうだ。

あの火はあのときの火とおなじだ。そして目から火が出ると同時に面金の

なかでかいだあのなつかしいキナくさいにおいもいっしょにかいだような

気がしたのだが-、しかし、”目から火が出る”ほどのこの衝撃は、いっ

たいどうしたということであろうか? 外部から私の頭部を打ったものは

なにひとつない。すると、私の頭の内部でなにごとがおこったというので

あろうか。それともあれはなにかの錯覚であったのか?

 私は、ふたたび一定のポーズをとり、頭をある角度からある角度にしず

かに移しつつ特殊な呼吸法をおこなって、定にはいっていった。と、なん

の予告も感覚もなしに、さっきとおなじ場所に火を感ずるのである。同時

に頭の深部にある音響が聞こえはじめた。私は、またさっきの電撃に似た

痛覚を頭の一角に感じるのかとひそかにおそれつつ、少々、「おっかなびっ

くり」にそれをやったのであったが、今度はぜんぜん痛みもなにも感じな

かった。そうして頭の内奥の上部に”明星”が2  たたびまたたいた。

 まさに、私の脳の内部に一大異変が生じていることにはまちがいは

なかった。しかし、それはどういう異変であろうか?

 それは一種の化学反応によるショックであったのだ。

 脳の深奥、「視床下部」に異変が起きたのである。すべての秘密は、間脳

の内部の視床下部にあった。ここが秘密の原点だったのである。

 私がさきの章で内分泌腺の機構について図までかかげて説明したのは、

これを知ってほしいためであった。専門学者はさぞかし片はらいたく思わ

れるのにちがいなかろう。それを承知でおくめんもなく素人の私かあえて

それをしたのは、この視床下部の秘密を読者に知ってほしいためであった。

 すべての内分泌腺を統御しているのは視床下部である。そしてここが、

ヨーガでいうブラーマーランドラ(梵の座)であり、サハスラーフーチャク

ラなのである。今までのヨーガの指導者のいうように、それは、松果腺、

松果体ではない。視床下部が、サハスラーラーチャクラなのである。もっ

とも、視床下部のすぐそばに松果体があるので、それを見あやまったので

あろう。もっとも、松果体自身もある重要な役わりを受けもつ。けれど

も、サハスラーフーチャクラそのものは松果腺ではなく、視床下部であっ

た。

 視床下部はいまいったように、下垂体系を通じて全内分泌器官を統御す

る。それでは、なにをもって統御するのかというと、もちろんそれは”神

経”である。したがって視床下部には重要な神経がたくさん集まってい

る。私は、古代ヨーガのなかから、この部分を動かすポーズとムドラーを

創案してここにつよい圧力をくわえ、同時に、強烈な思念(念力)を集中し

ていた。百日のあいだ、たえまなく、私はここに、物質的、精神的、両面

にわたるつよい ルギーを集中した。その結果-、ここの神経縁組に

一大異変が生じたのだ。その異変により、神経縁維が異常分泌をおこした

か、それともそこにある分泌液、神経液に変化がおきたのか、そのいずれ

であるかはわからぬが、それらの分泌液が複雑に混合し合って、化学反応

をおこしたのだ。あの火は、その化学反応による衝撃が、視床の神経をは

げしく打って、網膜に閃光を走らせたのだ。その衝撃はここの神経線維に

シナプスをむすび、その火はいつでも私の思うまま私の脳の内奥に明星を

またたかせることとなった。同時に私の脳の構造も一変した。求聞持聡明

法の成就である。求闘持聡明法とは、脳の内部の化学反応による脳組織の

変革であったのだ。         (『密教・超能力の秘密』平河出版社)

 わたくしのいう練行tapasが、どのようなものであるか、だいたいおわかりい

ただけたことと思う。いまから考えると、これは「求聞持聡明法」そのものの成

就ではなかったかもしれない。まったく新しい法の開発ではなかったかと思う。

 そのいずれであるかは別として、霊視・霊聴、ホトケの現形といった霊的な

超常的パワーをわたくしにあたえてくれたことだけはたしかであった。

 そしてまたそれは、それだけのことではなかった。つぎの次元への大きな飛

躍台となるものだったのである。それはおよそ『密教・超能力の秘密』刊行後十

年のちに起きた。

 

 

一九八〇年十一月、わたくしはインド仏跡巡拝の旅に出た。その旅行におい

てそれは起こった。

 一九八一年七月発行の『一丸九九年カルマと霊障からの脱出』単河出版社)よ

りの抜粋である。

 

白銀の輝きにみちたバイブレーション

 

   五目、六日、七日、と旅程は順調にすすんでぃった。

   しかし、日を経るにしたがって、わたくしのこころは沈んでぃった。

   仏跡のひとっひとっみなすばらしいものではあったが、わたくしのここ

  ろひそかに期待していたような感動はあたえてくれなかったのである。ま

ことに不遜ないいかただが、このわたくしがこうしてインドまできたの

だ。なにかあるはずだ、そう気負っていたものが崩れおちていた。

 八日目。

 仏跡巡拝さいごの日であった。

 仏陀終焉の地、クシナガラ。

 仏陀が十八年間説法されたという祇園精舎サヘトーマヘト。

 これでおわりであった。あとの旅程は、デリーから、エローフ、アジャ

ンタの石窟寺院で、仏教にゆかりはあるが、仏跡そのものではない。

 わたくしのこころは、もはや仏跡からはなれていた。だから、その朝、

道路事情が非常にわるいため、クシナガラかサヘトーマヘトか、いずれか

一方にしぼらねばならなくなったと聞かされたとき、わたくしは、どちら

でもよい、と思いながら、なに気なく、

 「サヘト・マヘトにしよう」

 といったのだ。

 それを告げた秘書が、

「やはり、そうですか」

 といったが、わたくしはべつに気にもとめなかった。

 動き出したバスの中で、秘書がこういった。

 「前から、リンポーチエがいっておられたんです。桐山先生には、どこを

おいても、サヘト・マヘトにはかならず行っていただきたい、と。ですか

ら、さっき先生のご決定を聞いて、やはりそうかと思ったんです」

 「  うむ、リンポーチエがそういっていたの?」

 「はい、日本にいるときからそうでした。カトマンズに出迎えられたとき

も、くりかえしていっておられました。さっきも、ぜったいにサヘト・マ

ヘトにするよう、先生に申し上げてくれといっておられました」

 わたくしはうなずいたが、べつにふかくは考えなかった。しかし、その

サヘトーマヘトに、真っ向からわたくしを叩きのめすすさまじい衝撃が待

ちかまえていたのである

 

遺跡について、くわしいことはなにひとつ知ることはできなかったであろ

う。師はわが家の庭のごとく、愛情をこめて、あれこれと指さしながら説

明して行く。

 小高い丘の上に立って、わたくしは師の説明を聞いていた。

 そのとき、突然、それがやってきたのだった。

 師の大きな声が突然すうっと遠のいたかと思うと、右ななめ前方から、

があんと、頭から頬にかけてなぐりつけられたような衝撃を感じたのだ。

 目の中を白い閃光が飛んだ。剣道で力いっぱい面を打たれたとき、目の

中を走るあの閃光に似ていた。わたくしは思わずくらくらとして、額に手

をあてた。一種のバイブレーションであることはわかった。わたくしも密

教の修行者として各地の霊場をあるき、何度か霊的なバイブレーションを

うけている。しかし、こんなすさまじい叩きつけるようなバイブレーショ

ンははじめてであった。しかもまったく無防禦だったので、完全に不意を

つかれたという感じだった。どこでも霊場へ入るときには、それなりの心

がまえをして入る。だからつよいバイブレーションをうけてもうけとめら

れるのだが、ここでは全く無防禦だったので、その衝撃はことにつよかっ

たのだ。数秒つづいたように感じたが、それはほんの一瞬のようであっ

た。師の大きな声がふたたび耳によみがえってきた。

 「待ってください」

 わたくしは手をあげて師を制した。

 「ちょっと待って。わたくしはいま、ものすごいバイブレーションを感じ

たのです。それはものすごいバイブレーションで、そう、あの方向からき

ました。あれはなんですか? あの凹地はI」

 わたくしは、その衝撃がきたと思われる方向をゆびさした。五十メート

ルほど前方に、雑草の生いしげった凹地があった。そこから、それがきた

と思われた。

 「ああ、あれですか」

 と師はうなずいた。

 

 

「あれは、ミラクルの池です」

「ミラクルの池?」

「そう、ミラクルの池。仏陀が奇蹟をおあらわしになった。そこであそこ

を、ミラクルの池とよぶのです」

 「そのミラクルとは、どんなミラクルなのですか?」

 「それは、仏陀が空中を浮揚してこの池の上に立ち、上半身を火に、下半

身を水にかえたのです」

 「ほう、それはどういうことですか?」

 それはですね、と師の説明によると、こうであった。

 スラバスティの大長者スダッタ(須達多)が、仏陀のために大金を投じて

ここに土地を求め、大精舎を建立した。仏陀の名声は四方につたわり、教

えを乞うもの腫を接した。

  この附近には、ジャイナ教その他の外道の寺院がたくさんあった。それ

らの寺院の指導者たちは、仏陀の名声をねたみ、いろいろ、仏陀を中傷、

  批難した。中でもとくに、仏陀を口のうまい山師にすぎないといい2  らし

た。口さきで理論を説くだけで、なに一つ神通力を持っていない、要する

に口舌の徒であるという批難であった。当時のインドの宗教界では、指導

者となるためには、なんらかの神通力を持つことが、必須の条件とされて

いた。ところが、仏陀は、無用に神通力をあらわすことをきらって、この

地に来てから一度もその力を示すことがなかったのである。

 他の教団の指導者たちは、これを、仏陀にその力がないからだと考え、

これを攻撃したわけである。仏陀が大神通力の持ちぬしであることを知っ

ている高弟たちは、一度、ぜひその力を示されるようおねがいしたが、仏

陀は承知されなかった。いよいよ神通力などないと思いあがった他教団の

指導者たちは、白分たちのパトロンである他の長者や勢力者たちを通じ

て、スダッタに、仏陀と神通力の試合を申し入れた。負けたほうがこの地

を去るという条件である。スダッタもついにことわりきれず、仏陀に試合

を懲憑した。あるいは、スダッタも仏陀の神通力を見たかったのかも知れ

 

ない。仏陀もスダッタの立場を考慮され、ついにこれを承諾された。

 その日、他の教団の指導者たちが、これみよがしにさまざまな神通力を

競い合ったさいごに、仏陀がすがたをあらわされた。

 仏陀は三層の高楼の露台にそのおすがたをあらわされたのである。いか

なる神通力をあらわされるのかと群衆が固唾をのんで見守るなか、なんと

仏陀は露台の手すりを無雑作に乗り越えられ、空中に足を踏み出されたの

である。一瞬、手をはなされる。仏陀墜落! とみるまに、仏陀はそのま

まゆっくりと空中を浮揚して、庭園にむらがる大衆の頭上を越え、きよら

かな清水をたたえた庭園の池の上に立たれたのである。微風に小波をたて

る清涼池の水の上に、仏陀はしずかに立っておられるのである。群衆が思

わずわが目をうたがったつぎの瞬間、仏陀の上半身は火炎となって燃えあ

がり、下半身は玉のような水と化したのである。

 目のあたりに見る大神通力に、なみいる他教団の指導者や、土地の勢力

者をはじめ、すべてのひとびとはその場にひれ伏して、頭をあげ得なかっ

た。

 わたくしは、額に手をあてて師の説明を聞いていた。途中からふいに、

やわらかなバイブビションとともに、ひとつの概念-思考の流れがし

ずかにわたくしの脳髄ふかく流れこんでくるのを感じたのである。わたく

しは、自分の思念をまったくとめて、それをすなおにうけいれていた。突

如、さいごに、すさまじい戦慄が走った。全身の血がいっぺんにひいてゆ

くような、名状しがたい恐怖感の襲撃だった。それがおわったとき、師の

説明もおわった。

 「先生、その、上半身が火となって、下半身が水となる、というのは、ど

ういうことでしょうか?」                    ’

 とだれかがわたくしに質問した。

 「ああ、それはね、全身のチャクラが、すさまじいパワーで、エネルギー

を放射したのでしょう。空中浮揚をするために、仏陀は全身のチャクラに

すさまじいエギルギーを集中した。池の上に降り立って、その于不ルギー

 

 

を放射したのでしょう。そのエネルギーの放射が、炎のように見えたのだ

ね。チャクラがエネルギーを放射すると、全身が炎につつまれたように

なって見えます。これは、ヨーガースートラなどにも書いてある。そうい

うとき、しばしば、からだが透明状になることがある。下半身が水になっ

たというのは、仏陀のおすがたがそのとき、透明になったので、池の水が

反映して、水のように見えたのでしょう。このミラクルは、クンダリニー・

ヨーガの最高の技術をみせられたものと、わたくしは考えます。そういえ

ば、わたくしは、以前、仏陀は、クンダリニー・ヨーガの熟達者たった、

と文献を引用して本に書いたことがあります」

 そう、わたくしは説明しながら、はやく、ひとりになって、思考をまと

めたいと思っていた。さきほど流れこんできたあの思念の流れII-あれは

いったいなんであったのか? 必死に、わたくしは、それを散らすまいと

してみつめつづけていた。はやく、ひとつのものにまとめたいと思ってい

た。

 それができたのは、それから数時間後、ラクノウという都市に着いて、

ホテルに入ったときであった。

 わたくしは、あわただしく自分の室に入って、シャワーを浴びると、す

ぐに定にはいった。ミラクルの池でのあの体験を、もう一度再現しようと

思ったのである。

 定にはいると、すぐに手がはげしく動いた。「自動書記だな」と直感し

た。これは、霊的状態になって手が無意識に動き、文字を書くのである。

すぐに、ノートを、と思ったが、あいにく、このホテルは、宿泊するので

はなく、午後九時発の夜行列車に乗るまでの三、四時間を、休息と食事のた

めに入ったので、トランクその他、筆記用具を入れた鞄はすべて、みんな

の荷物といっしょに、下のロビーに預けてしまっていた。手もとには何も

ない。しかし、とりにいっているひまはない。時機を逸したら、もう二度

とこの手の動きはもどって来ないかも知れぬのだ。

 わたくしはあわただしく座を立って、机のひき出しをさがした。あっ

た! さいわい、ホテルのメモ用紙が数枚あった。ボールペンもある。む

しやぶりつくようにペンをにぎると、それは勢いよくメモの上を走った。

 最初、それは、脈絡のない単語や名詞の羅列であった。しかし、それ

は、ミラクルの池のあの思念の流れと一致していた。わたくしは、食事も

とらず、出発までの時間を挙げてこれに傾注した。整理して、さいごに書

きあげたのがつぎの文章であった。

 それは突然ななめ前方からやってきた。

 一瞬、目がくらむほどの衝撃だった。

 そんなことなどぜんぜん予期しておらずまったく無防備だった自分は、

あっというまにその衝撃に叩きのめされてしまったのだ。

 修行、学問、そんなものはなんの役にも立たぬものであることを思い知

らされた。

 こころひそかに誇っていたこれまでの自分の修行も教学も、あっという

まに消しとんでしまった。叩きのめされてしまった。

 これなんだ、これでなくてはならないのだ。これしかないのだ。目もく

らむようなあの白銀の輝きにみちたバイブレーションー

 一〇〇年の修行も万巻の教学も、ただ一瞬のこの霊的バイブレーション

に如かぬことを思い知らされた。

 これがそれだったのだ。これが究極のそれだったのだ。このためにこそ

わたくしはここにやってきたのだ。

 おお、サヘトーマヘト、聖なる地、

 あなたはここに待っていてくださった。

 わたくしがいまあなたから受けたものを、これからわたくしはひとびと

にあたえねばならぬ。

 

 いま、わたくしは聖者であることをつよく自覚する。

 すべてのひとびとがこの聖なるバイブレーションを受けることのできる

聖地を、わたくしはひがしの国につくらねばならぬ。この輝きにみちたサ

ヘトーマヘトの地を、そのまま、日本の国にうつさねばならぬ。それがわ

たくしの使命だったんですね。それをかならずはたすことをわたくしはあ

なたに誓います。

 そうですか。

 もう一度、わたくしはこの地に来なければならないのですね。だが、そ

のときなにが起きるのでしょうか? そのとき起きる或ることを、わたく

しは非常なおそれの感情とともに予感します。

 

 ああ、あの一瞬の霊的バイブレーショック!゛

 一〇〇年の苦行も万巻の書物も、このバイブビ・Iションなくしては、路

傍の石ころにも劣るのだった。このバイブレー’ショッをあたえることので

きる聖者こそ、査]の導師だったのだ。理解できました。

 聖師よ、ありがとう!

                       昭和五十五年十一月八日

                        ラクノウのホテルにて

                            急拠しるす。

書き終えて、わたくしは虚脱状態になった。

                 (『一九九九年カルマと霊障からの脱出』)

 -土のサヘートーマヘートにおける状況は、奇しくも、阿含宗の記録映画

「おお、サヘト・マヘト、聖なる地」に収録されているので、読者はぜひ、機会

をつくってごらんいただきたい。

 ところで、以上の文章をお読みになって、「求聞持法」(としておく)成就のと

きのわたくしの状態と、サヘートーマヘートにおいて霊的バイブレーションを

--

る。前者は内部から、後者は外からのものであったが、衝撃の内容はまさしく

同種のものであったのだ。もっとも、後者は、前とはまったく比較にならぬす

さまじいものであったが.

 賢明な読者はすでにお気づきであったろう。これが、チベット密教のいう

「思念による王者の相承」であることを-。思念による王者の相承とは、じつ

に、霊的バイブレーションによる伝達だったのである。

 わたくしは、これによって、解説に至る四つの階梯のうちの、第三の境地に

達したことを自覚したのであるが、これは、間脳開発の練行tapasを成就してい

なかったら、絶対に得られなかったものである。内なる受容の態勢がととのっ

て初めて、外よりの王者の相承が発せられるのである。

 

It begins with meditation
I connected electronics and spirituality with the “Diencephalon Thinking” introduced in the previous chapter.
When asked what the animal was, he replied that it began with meditation.
After that, after much progress,
“So, is it also a meditation to develop a diencephalon?”
I was asked. I,
“No”
I covered it with a cover.
“Do n’t you meditate?”
“No”
I also covered this.
He stared at me with a grim expression.
So I answered.
”It starts with meditation”
I see, he nodded. I explained.
It starts with meditation, but not just meditation. Completion of spirituality is meditation
It’s impossible by just thinking. Stabilization of mind, adjustment of desire, suppression of instinct, etc.
It is a boundary that can’t be reached at all times. Thoughts, changes in ideas
Is a dimension that can never be reached.
why?
The point of completion of spirituality is transcendence from Karma.
What is karma? In other words, it is like an attraction on the earth.
Everything that exists on the earth is under the control of the earth’s attraction. Anything is attractive
I can’t escape. No, the Earth itself is
It is made up. The same is true for human karma. All people
And under the absolute regulation of reincarnation karma. From this karma,
A “fate” arises and binds humans. No, depending on the relationship between karma and
But the completion of spirituality. In other words, it is an escape from attraction. Anti-gravity training
It is. The dimension of one’s existence changes by the training.
What is existence? It ’s ultimately “wave”. The wave of “I myself”
Will change. As a result, the wave of “karma” is exceeded.
The origin that changes the wave of human existence is in the hypothalamus of the diencephalon. Wave here
By changing, the wave of the whole body changes, and there is a special mental wave and physical wave
become. It is also different from ordinary humans who are not subject to karma regulation.
It will be nothing but a spiritual being. When this is accomplished,
A special “spirit” will be generated. The occurrence of this special aura
It shows that it has changed. I’ll talk about Aura later.
La’s light source is the diencephalon. By meditation alone, the above “dimensional changes”
Impossible. Of course, mind stability, concentration, mediation to a whole new high dimension
Meditation, such as Tate, is absolutely necessary for this practice. But that is one
It is only a means. Meditation can only move the limbic system and the neocortical brain. Is
So meditation alone is no good. Unless it is a meditation that works between the brains,
Does not occur. Therefore, karma cannot be exceeded.
So what do you need?
It is a special taPas.
Scholars translate tapas as penance, but I want to translate this as practice. So
And this practice is absolutely necessary.
The consensus of the king by thought
The Tibetan esoteric Ninma school has said that there are three ways to complete the liberation since ancient times.
It is.
S
1. The consensus of the king by thought
2. Symbolic bearer’s consensus
Gonak Neggi Giyu 8
3. Human zong sang gyi brgyud pa through words heard through the ears
It is.
In the world of law in the spirit world, the perfector of the law, Tatagata (Nyorai) always preached the law
Yes.
‘One of the thoughts of the king ’s companion’
It conveys your mind directly to the other person’s mind without any cost. in this case,
You should think that the mind is not just a mind of thought but a power
is there. As a result, the other party is completed as a Buddha.
This is of course the best and ideal. “The King”
That is why.
2) What is the “sympathy of the bearer with the symbol”?
Compressed and packed contents of complex thoughts into Watameha, form, sound, color, etc.
Good, and the demon (the F) is able to see the reality as it is with a pure heart
Those who have reached the true world. In this agreement (method)
The demonstrators who have an understanding reach the depths of esotericism by showing the symbol from the teacher
You will be given a teaching method.
For the above-mentioned superior methods, it is difficult for ordinary human beings to get inspired.
It is not possible to immediately understand the deep esoteric doctrine with just the symbol. So La
Ma will explain in detail using various words and let the disciples understand.
This is so-called “oral transfer”. This is the third aspect of the human phase
It ’s a
I classify the above three methods as follows.
The spiritual vibrasin of the king’s intermittence by a thought
D, symbolic bearer’s companion Totodo neocortical system = mantra, tantra, language,
Music, symbol
3. Human compliment by words through the ears Toto Cerebral area spinning = words, mantras, music
This is not just Tibetan Buddhism. The ultimate in any religion in the world
There are only these three ways to get to that.
However, these three are not enough to reach the ultimate.
It is. There is something missing. What is missing? Sakini
tapas.
But in that case, one is the best ideal, so everything else is necessary.
It may be said that it is not necessary. That is not the case. Its best
Tapas is necessary to receive the ideal.
What is training?
So what is the training tapas?
As an example, we have to talk about my training experience.
Seem.
Let’s see it.
This is an excerpt from “Secret of Esoteric / Super Power” published more than 40 years ago.
The secret of the solicitation
I was in the middle.
ひ I was in a fussy system.
To repair, use the method of finding a request. It was the third training.
First, it was based on Shingon Buddhism. It was a complete failure. It ’s concentration
Was effective, but not more than that. Crushing
After studying this practice, I was convinced that Shingon Buddhism was a major
We conclude that there is no system that completely changes the structure of the brain cortex. Scoop
However, there is not much power in the conventional manner. Fulfilled the law
Kōbō Daishi Kukai, who had obtained a remote area,
He must have acquired some secret technology. His saw

When I took a bus at Saheto Mahhet,
“This is good”
The first thing I thought was that there was no way of selling or selling things.
Was that.
In every Buddha site, there was a quarrel between merchandise and merchandise.
Was that image of that?
In the square in front of the entrance of Gion Seiya, there was a two-story white-painted temple. So
Several people gathered in front of him, and at the center of it was a 60-year-old man
One hate of the physique was standing. Watch Rimpochie from the bus
Then he smiled with all his face and approached with his hands wide open. The two are hands
I started talking and seemed nostalgic.
According to a meeting with Mr. Rinpotier
It was a saint who was called Mechiwala Sangaratana.
“I ’m from Sri Lanka and I ’m a very priest. I built a temple here last year.
That’s right. I didn’t even know until I came here. ”
That’s right, Rinpochie said.
“Wat is the end of my life near this Seisha where the Buddha was preached for 18 years.
It was a long-cherished desire. ”
Mr. Sangalatana spoke with a loud voice that resonated. And
It was a fluent English. A solid and sturdy physique with a loud voice
I think it’s healthy. I was surprised to hear that he was 81 years old. Do
You can only see it in your sixties.
The teacher took the lead and guided me through the Seisha. We guide the teacher
What I got was really happy. A guide provided by a tourist company,
There is not much knowledge about this place, and even Rimpouche is
I had only come. Like other Buddha sites, Sahe Tomahe
The guide has no guide. If there is no Sangaratana
Then we just go around Gion Seisha,

Only the ones that should be hints of secret technology
It ’s just that secret technology,
He must have been trying to find it. Discover it
Only those who make the effort to discover and have the qualities to discover
The ignorance that is looking for the future
I felt the sexual eye depending on the conduct. Therefore, as a religious person
Kokukyo Daishi Kakujo, who has a rich temperament, failed to fix this seven times and failed eight times.
In the end, it has become a tricky practice of finally achieving a certain fulfillment.
If not, why will the talent as awakening fail seven times?
(Omitted)
In the second training, I adopted ancient yoga techniques. Perseverance and perception
There was something to do. No fulfillment of the Hearing Law was found on that line on the 50th
However, I realized that my idea was not wrong. In this way,
The law of hearing is always fulfilled. I got a good conviction. I piled up this technique,
Just extend it. only this one. I got a lot of confidence.
According to my technique, it ’s 50 days to stay in the mountains as usual.
There was no need to continue to worship Meisei on the first day of the month. Permanent residence, quiet room
If you don’t have time, you don’t have to. Just the first three days
For seven days, stay in the mountains and meet Meisei and keep it in your brain.
It was good. After that, 30 days, 50 days, 100 days, or 1000 days of Yoshiba
Karumo, keep training while you are busy in your daily life.
It was all right. This discovery was wonderful. Not this
The law will eventually become unrelated to the people. 50 days, 100 days, special
If you don’t live in a certain mountain, you can’t fulfill it.
You can only participate. Where the value of the law is unrelated to the people
I will. I have to complete this law with this system. Legal
For the sake of the people, I must.
And I was in the third desperate training.

‘It ’s almost 100 days, my law system is the 100th trainee
It was at the time of Nine kinds of seals of the solicitation method passed down to the Shingon sect,
A special breathing method that was passed down to the Yo-Yo, a special idea that I created from the secret method of ancient Yoga
Training with these three signs and poses, my body and cerebral cortex
It was felt that the brain was undergoing subtle changes. Chakra
The development of was well underway. My six senses feel that the time is ripe
It was.
breaking Dawn,
It was a dull feeling. But it wasn’t a sleep. Numbness
It was a sense of It was similar to a faint heart loss or dizziness. It was a moment of forgetfulness.
That moment,
“Oh two”
And I was crying in pain. A sense of current flowing through one corner of the brain
Ran. I felt there was a lightning strike. The next moment, Shiden ran in front of me
My field of vision became dark, as if I had flashed before. Blindness

 

 

 

 

 

守護霊を持つには、何か特別な行法が必要なのでしょうか。 Do we need any special practices to have a guardian spirit?

 

――守護霊を持つには、何か特別な行法が必要なのでしょうか。
桐山  守護霊は、霊格の高い霊になってもらうのですが、いきなりはできません。
″悪貨は
というのも、世の人みんなが、何らかの悪い霊、霊障を持っています
良貨を駆逐する”と言いますね。良貨を流通させるには、まず悪貨をなくさな
げればいけません。つまり悪い霊をなくすのが先で、霊障を断ち切れば、守護
霊はおのずと現れてくるのですよ。
私自身、一生を霊障をなくすことにかけてきて、やっと守護霊を得たわけで
霊障を断つには″千座行″をはじめ大変な修行が必要だったのです。
ところが61年、スリランカから私どもに。真正仏舎利”というおシャカさま
の御真骨をいただき、真の守護霊が持てるようになったのです。真正仏舎利を
いただき信心すれば、霊障を断ち、福徳を与えてくれる、まるでそれ自身が守
護霊といっていい、すごいパワーがあるのです。
仏舎利というのは、それほど強いパワーを持っているのですか?
桐山  そうです。そもそも仏舎利というのは、おシャカさまの御遺骨のことなので
すが、本当の御遺骨というのは簡単に得られるものではありません。みんな間
に合わせの仏舎利を使っているし、私どももそうでした。ところが縁があって、
本当のシ十力の御遺骨習万正仏舎利”を手にすることができたのです。
この「真正仏舎利」は「生きているシャカ」として尊崇されています。これ
を「生身如来」、「法身如来」と言います。
密教では、シャカの御遺骨、御遺身を「変化法身の釈迦」といって、生身の
シャカの本体とするのです。御遺骨、御遺身が、生きているシャカの本体です。
私の著書「守護仏の奇蹟」でこの点を詳しく書いていますが、その密教では
シャカに三重あることを説き、これを「三重の釈迦」と言います。
第一重のシャカはシ十力の説いた教法。第二重のシャカは生身のシ十力の本
体である御遺骨、御遺身。第三重のシャカは生身のシャカです。第三重のシャ
カはすでにおられないので、第二垂のシャカを生身の釈迦如来としています。
シャカというのは言うまでもなく仏教の開祖であり、仏教そのものの総本尊
です。実在の仏はシャカだげで、私どもはそのシャカをご本尊としています。
桐山名言集◆この世の中のものすべて、どんなものでも、原因となるものがなくて生するものはなく、また因あって
生じても、これを助長する縁がなくては存在しない。因と縁か重なって、経過をたどり、結果か現れる。
差別はないのです。
のです。
実在の仏である本尊としてのシャカは法のうえでオールマイティーであり、
教えのうえでオールマイティーであり、救済者としてオールマイティーです。
それら三つの力を持つシャカの法身舎利を私たちは「守護仏」とお呼びするの
です。
真正仏舎利のおシャカさまが、夫婦ゲソカをやめさせるなんておかしいよう
だけれど、救世者としての力は、世界の危機を救うのも夫婦の危機を救うのも
「守護仏」が、この世のあらゆる悩みや苦しみから、私たちを救ってくださる
というわげですね。
桐山  すでにこの「守護仏」がもたらす奇跡がたくさん現れているのですよ。そし
てこの「守護仏」こそが、ほんとうに力のある「守護霊」をもたらしてくれる

*如意宝珠法
仏舎利を本尊として
法を修すること。
この法は、ことに末
法の世の衆生を益する
ものとされている。物
質的に衆生の願望をか
なえるだけでなく、霊
障のホトヶを救い、三
界困苦の衆生を解脱さ
せる。

あなたも霊能者の仲間になれる
雲言囮ベストがだめならベターでゆけ。千座行で悪い運気を取れば9 達も得る
真正仏舎利という大パワーを得て、千座行をする必要がなくなったと言えるのですね。
桐山  そうですね。修行の話をし孝すと、私が密教に入ったとき、ます考えたのは、
一生を通じて自分の行としてどういう行法をしようか、ということです。これ
は、密教の修行をする時、みんな考えることですがね。
いろいろな行法の中から、より自分を高めてくれ、自分の方向に合った行法
を選ぶわけです。
で、私のそりたいのが、。如意宝珠法”だったのです。
仏舎利を本尊として、この法で祈るとき、自分の悪因縁を断ち切り、そのう
願いが点のごとくかなりIオルマイティーな 高昨のわ法で。
ところが問題は本尊とする仏舎利です。本物なんてあるわけない。大きな米
粒を一つ清めて法を修すると本物と同等の仏舎利になるということになってい
るのです。だからお米のことをシャリというんでしょう。霊石を使う場合もあ
りますよ。
で、お米の仏舎利で祈るのですが、心の片隅に「これは米粒じやないかな」
という思いが少しでもあると、とても願いなんてかないません。それで行法を変えたんですね。
桐山  そう。要するに、「私にはまだ。如意宝珠法”なんてやる徳がないんだ、もっ
と徳を積んだら、あるいは本当の仏舎利が手に入ることがあるかもしれない。
そうしたら、如意宝珠法をやる資格ができたということだろう」と思いまして、
ペストがだめならベターだというので選んだのが、。因縁解脱の千座行”だったのです。
これは悪い因縁を切るだげの行法でしたが、悪い因縁を切ればおのずから福
徳も生ずるだろうと思ったわけです。

霊言国人の悩みを聞き、アドバイスできる
指導者を育てたい
Z千座行から移行したことで、内容的にはどんな変化がありましたか。
桐山  たいへんな飛躍です。
オールマイティーであり、救済者としてオールマイティーである三つのスーパ
ーパワレ‘。これが、ほんとうの仏教だという
つた。今まて思いです。そしてまた、実際に奇跡的霊験があいついで現れています。
具体的に、信者の修行のしかたはどう変わりましたか。つた。今までとまるっきり比較にならない
。結論から~うと、今我での、瞑想と拝むことが主体であった行から、非常に
実践的な信仰になったと思います。私のところの和讃をお読みになればわかる
とおり、″悩める人の杖となれ”とあります。これが実践行ですね。自分が救わ
れようと思ったら、まず他人を救え、と。おシャカさまのこの教えを梵行と言
うんです、が、阿含経の道場では、もともとこの梵行と所作、つまり修行の二本
立てなわけです。人を救うことと、仏を礼拝供養することですね。
今までの千座行では、勤行に一目四十~五十分かかりましたから、これだけ
で精一杯というAが多かったんです。ところがこれからは、拝んでいた時間を
梵行に当て、人を助けることができるわけです。そこが実践的であり、また、
それこそがおシャカさまの阿合の道場のあり方だったということです。
梵行というのは布教伝道のことだと思うんですが、具体的にはどのようにされ
ていくのでしょうか。
桐山  人の悩みを聞いてあげて、アドバイスをするということも含みますが、そう
いう人生相談のできる人をこれからどんどん増やそうと思っています。それに
は指導的な霊能者を最終的に百人作ればいい。百人いれば世界を動かせると思
うんです。    今までは準紙如来という概念上の仏を通じてシャカを拝んでいた。つまり
他の大衆仏教と同じだったわけです。
ところが、今度は、生きたシャカ如来を本尊として法を修することになった。
これは、今までとまるっきり違う。次元が違ってしまったわけです。
前にお話ししたように、法のうえでオールマイティーであり、教えのうえで

Do we need any special practices to have a guardian spirit?

–Do you need any special practices to have a guardian spirit?
Kiriyama The guardian spirit is supposed to be a spirit with high spirituality, but it cannot be done suddenly.
«The bad coins are
Because everyone in the world has some kind of bad spirit
“I will destroy good coins.” To distribute good coins, you must first lose them.
I have to go. In other words, it ’s important to eliminate bad spirits first,
The spirit appears naturally.
I myself took my whole life to get rid of my spirits and finally got a guardian spirit
In order to cut off the spirits, it was necessary to do a lot of training, including “Chizo”.
However, in 61 years, from Sri Lanka to us. A shaka called “Shinsho Buddha”
I received the true bones of I and came to have a true guardian spirit. Authentic Buddha
If you are confident and devoted, you will break spirits and give virtues, as if you are defending
It can be said to be a spirit, and it has a great power.
Do Buddhist priests have so strong power?
Kiriyama That’s right. In the first place, the Buddhist stupa is the remains of Shaka
However, the true remains are not easily obtained. Everyone
We use a Buddhist stylized to match and we did. However, there is an edge,
I was able to get the “real skeleton of the remains of the ten thousand Buddha”.
This “Shinsho Buddha” is revered as a “living shaka”. this
These are called “Life-like” and “Hoshin-yo”.
In Esoteric Buddhism, Shaka’s remains and remains are called “Shadow of change”
It is the main body of Shaka. The remains and remains are the main body of the living Shaka.
I wrote this in detail in my book “The Guardian Buddha’s Miracle”.
Preaching that there is Mie in Shaka, this is called “Mie Shaka”.
The first heavy shaka is a teaching method preached by Shiki. The second double shaka is a living book
The remains and bodies of the body. The third Shaka is a live Shaka. 3rd Sha
Since there is no mosquito already, the second drooling shaka is assumed to be a living Shakyaku.
Needless to say, Shaka is the founder of Buddhism and is the head temple of Buddhism itself.
is. The real Buddha is a shaka, and we have the shaka as our deity.
Kiriyama Quotations ◆ Everything in the world, anything, no one that can be born without cause
Even if it occurs, it does not exist without an edge that facilitates this. Overlapping with the cause, follow the course, the result appears.
There is no discrimination.
It is.
Shaka as a real Buddha who is a real Buddha is almighty under the law,
It is almighty after teaching, and it is almighty as a rescuer.
We call the Shaka’s body with the three powers “Guardian Buddha”
is.
It seems strange that Shaka of the authentic Buddhist stigma ceases to be a married couple
However, the power as a savior can save the crisis of the world and the crisis of the couple.
“Guardian Buddha” will save us from all the troubles and sufferings of this world
Is n’t it?
Kiriyama There are already many miracles from this “Guardian Buddha”. And
The lever “Guardian Buddha” really brings a powerful “Guardian Spirit”

* Ruyi Hoju method
Suppose Buddhist priesthood
To master the law.
This law is especially
Benefit the world of law
It is supposed to be. object
Qualitatively the desire of the people
Not only can you lie, but spirit
Rescue the photo of disability, three
Unraveling the world’s hardship
Make it.

You can be a fellow psychic
If you can’t use the best of Kumo-an, you can go better. If you take bad luck in Chiza, you get 9
It can be said that it is no longer necessary to go to Senza with the great power of the genuine Buddhist temple.
Kiriyama That’s right. When I talked about training and fought, when I entered esotericism,
It is what kind of manner to do as one’s own line throughout life. this
I think that everyone thinks when practicing Esoteric Buddhism.
Enhance your self among various ways of doing things that suit your direction
That ’s why.
So what I want to shave is. It was the “Rui Jiju method”.
When praying with this law, with Buddhist priesthood as the main deity, cut off your bad cause,
願 い The wish is quite I-olmighty like the point.
However, the problem is the Buddhist shrine that is the main shrine. There is no real thing. Big rice
It is supposed that if you clean one grain and learn the law, it will become a stupa equivalent to the real one.
That’s it. That’s why rice is called shari. Sometimes I use spirit stones
Ryo.
I pray at the rice stupa, but in the corner of my heart is “This is a rice grain”
If you have a little thought, you can’t have a wish. So you changed the way of doing it.
Kiriyama Yes. In short, “I still do n’t have the virtue to do it.”
If you accumulate virtue with you, you might get a real Buddhist temple.
Then, I think that I was qualified to do the Ruyi Jewel Act ”
I chose it because it was better if the plague was not good. It was “Chizo’s trip to the reunion”.
This was a way to cut bad ties, but if you cut off bad ties,
I thought that virtue would also arise.

Listen to and advise on the troubles of the spiritual nation
I want to train leaders
What kind of changes have been made in the contents of the shift from Z Chiza line?
Kiriyama is a great leap.
Three supers who are almighty and almighty as saviors
-Power ‘ This is true Buddhism
Tsuta. I am very happy. And again, there are actually miraculous spiritual experiences.
Specifically, how has the practice of believers changed? I got it. It ’s not a clear comparison
. From the conclusion, from the line where meditation and worship was the subject now,
I think it became a practical faith. You can understand by reading my Japanese
As you can see, “Become the staff of the worried person”. This is a practice line. I am saved
If you want to be saved, first save others. Sasha ’s teaching is lameness
Yes, but in the Ajokyo dojo, this was originally a lame and a work, that is, a training
It ’s a stand. It ’s about saving people and worshiping Buddha.
So far, it has been 40 to 50 minutes at a glance for the trip to Chiza, so this is all
There were many people who said that they were full. However, from now on, the time I was worshiping
You can help people with lameness. That is practical, and
That is how Shaka’s Ai dojo was.
I think that lameness is a missionary mission.
Will it go?
Kiriyama: This includes listening to people’s worries and giving advice.
I am planning to increase the number of people who can provide life consultations. in addition
It is only necessary to finally make 100 leading spiritualists. I think a hundred people can move the world
Yeah. Until now, I had been worshiping Shaka through the conceptual Buddhist Buddha. That is
It was the same as other popular Buddhism.
However, this time, I decided to study the law with the living Shaka Nyorai as the principal.
This is completely different from the past. The dimensions are different.
As I said before, it ’s almighty and legal

 

守護仏の奇蹟

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あらためて知りたい: ファイトケミカルについて

からだの細胞を作るのに重要な栄養素って?

人間の体は、約60兆個の細胞からできています。一つ一つの細胞は、新しい細胞を作ったり、古くなった細胞をこわしたりする、「工場」のような仕組みを持っています。いわゆる細胞の新陳代謝は、このような細胞工場の仕事として理解することができるのです。

「細胞工場」では、「たんぱく質」が細胞を作る「材料」となり、「ビタミン・ミネラル」は「材料」を組み立てる「部品」のような役割を担っています。

肌、髪、筋肉、骨などを作っているのは、このような細胞工場の働きです。そのため、細胞のコンディションは、健康と美容の根本に関わっていると言えるのです。

細胞と活性酸素の関係って?活性酸素が体内で増えるデメリットとは

ファイトケミカルス - 健康管理

活性酸素とは、体に取り込んだ酸素の一部から発生する高い「酸化力」を持った物質のこと。もともと体内で絶えず作られる物質ですが、量が過剰になると細胞を傷付け、さまざまな体の不調を引き起こす原因になると言われます。

活性酸素の発生を促進する要素には、喫煙や飲酒、紫外線、ストレス、激しい運動などがあります。食事面での要因の一つは「脂肪の摂りすぎ」と言われることも。脂肪は酸化しやすく、空気にさらされると過酸化脂質に変化します。過酸化脂質は酸化促進作用を持ち、活性酸素と同じ害をもたらすとされています。また、脂質そのものが、活性酸素と結びつきやすい性質を持っていると考えられているのです。

しかし、活性酸素は細胞間での伝達や免疫機能など、体内で必要とされる働きも持っているため、ただ完全になくせばよいというわけではありません。活性酸素の発生をできるだけ抑えること、働きを阻止することが大切だとされています。

ファイトケミカルスってどう良いの?

ファイトケミカルス - 健康管理

活性酸素の働きを阻止するとして期待を集めているのが、抗酸化物質です。近年では、ビタミン類、ポリフェノール類など、食物に含まれる数多くの抗酸化物質がメディアでもよく紹介されていますね。抗酸化物質には、たんぱく質(酵素を含む)、尿酸など、体内で作られるものも多様に存在します。

ファイトケミカルスとは抗酸化物質の一種で、植物が身を守るために自ら体内で作り出す成分のこと。紫外線から身を守るための「色」、害虫を遠ざけるための「香り」などがあります。植物も紫外線にさらされると活性酸素が体内で発生するため、対抗するための物質を作っているのです。ファイトケミカルスを豊富に含む野菜や果物を食べることで、私たちもそれらを摂取して抗酸化に活用することが期待できます。

 

フィトケミカルを多く含む野菜や果物は、色で大別して5つのグループに分けられます。

紫(ナス・黒豆・ブルーベリーなど)

赤(トマト・パプリカ・スイカ・唐辛子など)

黄(玉ねぎ・とうもろこし・レモン・キウイなど)

緑(ブロッコリー・ほうれん草・ピーマンなど)

白(キャベツ・ねぎ・にんにく・大根など)

日々の食生活では、この5色のグループから野菜や果物をバランスよく取り入れるのが望ましいとされています。

人間の体は、約60兆個の細胞からできています。一つ一つの細胞は、新しい細胞を作ったり、古くなった細胞をこわしたりする、「工場」のような仕組みを持っています。いわゆる細胞の新陳代謝は、このような細胞工場の仕事として理解することができるのです。

「細胞工場」では、「たんぱく質」が細胞を作る「材料」となり、「ビタミン・ミネラル」は「材料」を組み立てる「部品」のような役割を担っています。

肌、髪、筋肉、骨などを作っているのは、このような細胞工場の働きです。そのため、細胞のコンディションは、健康と美容の根本に関わっていると言えるのです。

まとめ

活性酸素が体内で増えすぎることによる影響や、ファイトケミカルスを含む野菜・果物について見てきました。ファイトケミカルスはさまざまな種類をバランスよく摂取することが望ましいです。でも忙しい毎日では、たくさんの種類の野菜や果物を継続的に摂るのが大変なときもありますよね。サプリメントなどもうまく活用しながら、ライフスタイルに合わせて取り入れてみましょう。

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カルマ(業)とは?

カルマ」というと、よくスピリチュアルや占いの世界でも
聞く言葉です。何か自分を縛っている目に見えない
運命の力のように思いますが、
一体どんなものなのでしょうか。

カルマ(業)とは

カルマというのは、インドの言葉で、
中国の言葉に翻訳されて「(ごう)」と言われます。
意味は、行為のことです。

私たちの運命は、自分の業が原因となって、
因果の道理にしたがって生みだしています。

善い行いは善い運命を生みだし、
悪い行いは悪い運命を生みだします。
ひとたび業を造ってしまうと、
そこから生み出される運命は避けることはできません。

まいたタネは必ず生えるということです。

善い行いも悪い行いも、寸分の狂いもなく
強烈な力で因果応報の報いを引き起こす、
ということです。

カルマ(業)に3通り

行為というと、普通は「身体で何かすること」だと思いますが、
仏教では、「口でしゃべること」や「心で何か思うこと」も、
業といわれます。

このような、
身体でやったことを「身業(しんごう)」といい、
口でしゃべったことを、「口業(くごう)」といい、
心で思ったことを「意業(いごう)」といわれ、
これらを「身口意の三業(しんくいのさんごう)」といわれます。

仏教ではこのように、
行いを心と口と身体の3方面から見られます。

そして、世間では、心でよからぬことを思っても、
口や身体に出さなければとりあえずセーフと思っていますが、
仏教ではアウトです。

口や身体が動くのは、心が命じたからですから、
口や身体が悪いことを言ったやったりするのは、
心に責任があります。
悪い事をした場合の主犯は、心になります。

ですから仏教では、口や身体よりも、
心で何を思っているかを最も重く見られます。

ですから
殺るよりも 劣らぬものは 思う罪
という歌にもありますように、
身体で殺すのも恐ろしい罪ですが、
心で思うのは、最も恐ろしいと教えられています。

カルマ(業)が運命を生み出すしくみ

この心と口と身体の三つで造られた行いは、
目には見えませんが業力という力のようなものになって、
決して消えることなく蓄えられます。
これを「業力不滅(ごうりきふめつ)」といいます。

その不滅の業力が、私たちが生まれる前、果てしない遠い過去から
死んだ後、永遠の未来に向かって流れて行る藏のような心に蓄えられます。

」というと、自分の肉体だと思っていますが、
肉体は河の水面に浮かぶあぶくのようなもので、
あぶくが生まれたり消えたりしている間も、
とうとうと流れる大河のような永遠の生命があります。

この永遠の生命が、「阿頼耶識(あらやしき)」といわれる藏のような心です。
この阿頼耶識は、心理学でいう深層心理や無意識よりはるかに深いもので、
私たちの本心です。

この前世から現世、来世へと流れて行く不滅の阿頼耶識
不滅の業力がおさまるのです。

そして縁が来たときに、因と縁が和合して、
目に見える運命となって現れます。

目に見えない業力が、どうして目に見える運命を生み出すのか
分かりやすく説明した歌に
年毎に 咲くや吉野の 山桜 木を割りて見よ 花のありかは
という歌があります。

平安時代の昔から桜の名所といわれる奈良県の吉野山は、
毎年春が来ると、きれいな桜が咲き誇ります。
そこである人が、冬に吉野山に行ってみると、
枯れ木のような桜の木がつくんつくんと立っているだけでした。
なぜ春になるとあんなきれいな花が咲くのだろう
と思って、木を割ってみたところ、
花やつぼみのような、花が咲きそうな形跡はどこにもなかった
という歌です。

しかし、目には見えませんが、桜の木には、
花を咲かせるような勢力がありますので、春の陽気にふれると、
目に見える美しい桜の花が咲き乱れるのです。

ちょうどそれと同じように、
私たちが心と口と身体で何かの行いをしますと、
目には見えませんが不滅の業力となって
阿頼耶識に蓄えられて決して消えることなく流れて行きます。
そしてやがて縁が来たときに、目に見える運命となって現れるのです。

ツホ  気・クンダリニー・チャクラ 

ダン中 心の疲れが治まる

ダン中は前胸部の中央にあり、第四肋間の高さで胸骨上に取ります。男性の場合は、両乳頭間の中央に当たります。押すと圧痛が生じますのでその反応を目安にしてください。

ダン中の「ダン」は宮城という意、中は内外の中、あるいはあたるという意です。東洋医学では心の臓は「君主の官」とみなします。君主は宮城に住むということで心の臓にあたることからダン中と名付けられました。心の臓は循環機能の他に精神機能をもつかさどります。いわば「こころ」の働きを行います。

従って心の臓の機能に変調が生ずると不安感で胸が押しつぶされそうになったりします。ストレスなどで心が疲れたときはダン中を軽く指圧しましょう。胸がひろがり、不安感がスーと治まることでしょう。

 

④アナーハタ・チャクラ

胸の中央に位置するチャクラ。色は緑色。風元素(気・生命エネルギー)と関係する。肺、呼吸と関連し、胸腺とつながっている。胸腺は免疫系の機能に不可欠な細胞を作り出す。このチャクラを浄化することで、名誉、高貴さが得られるともいわれる。
このチャクラが汚れ、エネルギーの流れが停滞すると、プライド・卑屈、執着・愛著、が生じるともいわれる。

 

虚空蔵菩薩 (こくうぞうぼさつ)、梵名アーカーシャガルバ(梵: आकाशगर्भ [Ākāśagarbha])、またはガガナガンジャ(梵: गगनगञ्ज、[gaganagañja])は、仏教における信仰対象である菩薩の一尊。「明けの明星」は虚空蔵菩薩の化身・象徴とされ、知恵の菩薩とも評され、人々に知恵を授けてくれるともいわれる。

霊性とはなにか 

霊性とはなにか

 

 わたくしは、人間は霊的存在だと考えている。

 なぜならば、人間が、特殊な生命形態を持っているからである。

 特殊な生命形態とはどういうものか?

 釈尊の「成仏法」を修行すると、それがよくわかるようになるのであるが、ここは、瞑想によって悟りを完成し、仏陀になられた大霊覚者ゴータマーブッダ、釈尊の語るところによって、それを知っていただこう。

 中阿含経という釈尊直説の経典で、釈尊はこう語るのである。

中阿含経「黄蘆園経」

 しょうじょう   ぇ   ぼん   にゅうなん    よ じゅう

……我已に是の如き定心を得、清浄にして機無く煩無く柔軟にして善く住

し不動心を得、憶宿命智通を覚りて作証しぬ。我行有り相貌有り、本

無量の昔経歴せる所を憶うに、謂く一生・二生・百生・千生・成劫・敗

劫・無量の成敗劫なり。彼の衆生某と名づけ、彼昔更に歴ぬ。我曾て彼に生じ、是の如き姓、是の如き字にして、是の如く生じ是の如く飲食し、是の如く苦楽を受け、是の如く長寿し是の如く久しく住し是の如く寿詑り、此に死して彼に生じ、彼に死して此に生じ、我生じて此に在り、是の如き姓、是の如き字にして是の如く生じ是の如く飲食し、是の如く苦楽を受け、是の如く長寿し是の如く久しく住し是の如く寿詑りぬと。これを我その時初夜にこの第一明達を得と謂い、本放逸無きを以て遠離に楽住し、修行し精勤し、謂く無智滅して而も智生じ、闇壊れて而も明成り、無明滅して而も明生じ、謂く憶宿命智を作証し明達しぬ。また次に梵志、我已に是の如き定心を得、清浄にして機無く煩無く、柔軟にして善く住し不動心を得、生死智通を学び作証し、我清浄の天眼の人〔眼〕を出過せるを以て、この衆生の死時生時、好色悪色、妙と不妙と、善処及び不善処に往来するを見、この衆生の所作業に随いてその如真を見、若しこの衆生身悪〔行〕、口・意悪行を成就し聖人を誹誇し、邪見にして邪見業を成就すれば、彼これに因縁して身壊れ、命終りて必ず悪処に至り地獄の中に生ぜん。若しこの衆生身妙行、口・意妙行を成就し、聖人を誹膀せず、正見にして正見業を成就すれば、彼これに因縁して身壊れ、命終りて必ず善処に昇り天中に上生せんと〔見亘。これを我その時中夜にこの第二明達を得と謂い、本放逸無きを以て遠

離に楽住し修行精勤し、謂く無智滅して而も智生じ、闇壊れて而も明成り、無明滅して而も明生じ、謂く生死智を作証し明達しぬ。また次に梵志、我已に是の如き定心を得、清浄にして機無く煩無く、柔軟にして善く住し不動心を得、漏尽智通を学び作証し、我この苦の如真を知り、この苦の習を知り、この苦の滅を知り、この苦滅遣の如真を知り、この漏の如真を知り、この漏の習を知り、この漏の滅を知り、この漏滅遣の如真を知り、我是の如く知り、是の如く見、欲漏心解脱し、有漏・無明漏心解脱し、解脱し已りてすなわち解説を知り、生已に尽き梵行已に立ち所作已に弁じ、更に有を受けずと如真を知る。これを我その時後夜にこの第三明達を得と謂い、本放逸無きを以て遠離に楽住し修行精勤し、謂く無智滅して而も智生じ、闇壊れて而も明成り、無明滅して而も明生じ、謂く漏尽智を作証し明達しぬ。……

(読下しは「国訳一切経」を参照させていただいた)

[大意]

 わたし(釈尊)は、つねに努力精進し、その想いは確立してすこしもみだれず、体は安楽で動揺せず、心は禅定に入って静かである。そのわたしがあるとき、瞑想に入ってしだいに禅定が深まってきた。第一禅定から第二、第三、第四禅定まで深まるにつれて、心に想い浮かぶなにものもなくなり、喜びや楽しみだけとなり、そして遂にはそれもなくなって、ただ清浄な想いだ

けとなった。

 そのとき、わたしの心は、一点のけがれもなく、清く明るく、絶対不動であった。そしてわたしの心の眼はおのずから前世の光景に向けられていった。それは一生だけではなく、二生、三生、十生、二十生、そして無限の生涯の、生きかわり死にかおりした光景が展開してきた。これが第一の智慧である。

それからわたしの心は、あらゆる衆生の相に向けられてきた。わたしぱ超人的な眼力でその相を見た。そこには貰いもの、賤しいもの、美しいもの、醜いもの、幸福なもの、不幸なものの、それぞれの宿業が渦巻いていた。これが第二の智慧である。

 それからわたしは、苦・集・滅・道の四諦(四つの真理)をありのままに知り、わたしの心は、あらゆる存在の相から、全く解放され、ふたたびそれに執着することはなくなった。これが第三の智慧である。

 釈尊は瞑想によって、自分の前生の、二生、三生、十生、二十生、さらには無限の生涯の、生き変わり死に変わりしてきた光景を見ているのである。それは自分だけではなく、あらゆる人間の前生と、さらに後有(このっぎの人生)を見ているのである。

 釈尊はここで、決しておとぎ話や、たとえ話、寓話をのべているのではない。

釈尊の成仏法を修行すれば、その真実であることがすぐわかる。その修行により、わたくし自身、人の三、四世代前、そしてつぎの世代における存在までは透視できるようになっているのである。

 人間の生命は、多くの人たちが考えているように、決してひとつの生涯だけで終わるものではないのである。ある生涯が終わったら、またひきつづき、つぎの生命形態に移っていくのである。

 多くの人たちはその認識がなく、ひとつの生涯のみで、人の生命は終わるものと思っている。ここに、決定的な、そして致命的な生命観の欠陥があるのである。

霊性とはじつにそれを知る趨性なのだ。

 人の依って来たるところを知り、去るところ、往くところを知る能力である。

いわゆる来所を知り、往所を知る智慧である。これを得れば、人はおのずから、なにをなすべきか、なにをなさざるべきかがわかってくる、そこから人間の真の進歩、発展がスタートするのである。それがないから、人間は、霊的に少しも進歩せず、発展せず、いつまでも低いところを輪廻して、無限にさまよい歩いてい

るのである。いや、それだけではない。その果てに、人間は、自分の住む人切な世界を、自らの手で壊滅させてしまうことになるのである。

 この無知を、釈尊は、「無明」(自民罵)と名づけたのである。

 

ショウジョウバエの論理

 この「無明」という言葉には、二つの意味がある。

 まったくの無知と、完全な闇である。

 「明」には明知(智慧)と、光明、の二つの意味がある。

 真実を悟る智慧を持たず、真っ暗闇の中を、手さぐりで歩いている状態である。まことに人間はそのとおりではないか。来たるところを知らず、往くところを知らず、ただ現在(現生)あるのみである。その現在を、ひたすら目先の利益追求に狂奔する。その結果、いかなるところに往くのか、いかなる世界に、いかなる生命形態として存在することになるのか、まったくお先真っ暗である。

 「第三の目」は、このお先真っ暗な闇の世界を見通すのである。「第三の目」に闇はない。真昼のごとく明らかに見ることができるのである。

 奇妙なことに思われるかもしれないが、わたくしは、釈尊の十生、二十生を見通す力を思うごとに、ショウジョウバエを想い起こすのである。

 ショウジョウバエは、その世代が極端に短い。ふつう、一世代がわずかに約一ヵ月である。だから、何十世代もの変遷を短時間で見ることができる。

 そこで、生物学者や、遺伝学者は、ショウジョウバエを使って、その変化を実

験する。ひとつの遺伝子の変化が、何十世代のうちに、どういう結果を生ずる

か、目のあたりに知ることができるのである。

 釈尊の叡智もそれである。

 彼のように、何十世代もの人間の移り変わりを如実に見ることのできる力をそなえていれば、ひとつの原因が、どのような経過を経て、どのような結果をもたらしたか、つぶさに知ることができる。彼がじっさいに語っているように、その人間がなんという名前で、いつ、どこに生まれて、どういう人生を送ったか、またその人生を終わって、つぎにまたどういう人生を迎えたか、ある生涯のどんな