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グモンジ法 求聞持聡明法

第三の発見—視床下部の秘密

私は幼少のときから剣道をしこまれた。藩の剣術師範の家柄に生まれ、若年の折、江戸お玉ヶ地の千葉門で北辰一刀流を学んだという祖父に、はじめて木剣を持たされたのは三歳ごろであったろうか?そのとき私は、祖父の顔をゆびさして「目ン目がこわい!」といって泣いたそうである。

 

そのころ八〇歳を過ぎていた祖父は、ほんとうの好々爺になりきっており、私はふだん、少よりも母よりもなついていたが、そのときばかりは、木剣のむこうに光った剣士鳥羽源三郎洲之祖父の名)の目に、ひとたまりもなくちぢみあがってしまったものらしい。

 

めったに泣いたことのない私が一時間ちかくも泣いていたという。それでもあんたは木剣だけははなさなかったーりと、いまでも老母がほこらしげに語ってくれるのだが――、私は、のち三段にまでり、休康を害してやめたが、剣の天分があるといわれ、少年時代そのころ盛んであった各地の側道大会に出場してかぞえきれぬほどの優勝をしたのは、この祖父の血を受けたものであろう。

私道が好きであった。防具のはずれの肘を打たれて腕がなえ、思わず竹刀をとり落したりするときはつらいとは思ったが、苦にはならなかった。面金を越えて深くあざやかに面をとられたときは、目からパッと火が出て、プーンときなくさいにおいを嗅いだ。ほんとうに目から火が出るのである。

 

けっして形容詞ではないのだ。これは剣道修行の体験者ならばみなご存知のはめんねせんこうその火なのだ。そのとき私の視野をすめた閃光はー。

 

しばらくしてわれにかえった私はそれに気がついたのだった。そうだ。あの人はあのときの火とおなじだ。

そして目から火が出ると同時に面金のなかでかいだあのなつかしいキナくさいにおいもいっしょにかいだような気がしたのだが――、

しかし、目から火が出る」ほどのこの衝撃は、いったいどうしたということであろうか? 外部から私の頭部を打ったものはなにひとつない。

すると、私の頭の内部でなにごとがおこったというのであろうか。それともあれはなにかの錯覚であったのか?

私は、ふたたび一定のポーズをとり、頭をある角度からある角度にしずかに移しつつ特殊な呼法をおこなって、定にはいっていった。

と、なんの予告も感覚もなしに、さっきとおなじ場所に火をするのである。同時に頭の深部にある音響が聞こえはじめた。

私は、またさっきの電撃に似た覚を頭の一角に感じるのかとひそかにおそれつつ、少々、「おっかなびっくり」にそれ立やったのであったが、今度はぜんぜん痛みもなにも感じなかった。

そうして頭の内奥の上部に開星がふたたび出たたいた。

 

まさにーー、私の胸の内部に一大異変が生じていることにまちがいはなかった。

しかし、それはどういう異変であろうか?
それは一種の化学反応によるショックであったのだ。

の深英、「視床下部」に異変が起きたのである。すべての秘密は、間脳の内部の視床下部あった。とこ秘密の原点だったのである。

 

見ればわかる通り、すべての内分泌腺を統御しているのは視床下部である。
そしてここが、ヨーガでいうブラーマ・ランドラ (梵の座)であり、サハスララ・チャクラなのである。

 

今までのヨーガの指導者のいうように、それは、松果腺、松果体ではない。視床下部が、リハスワラ・チャクラなのである。

もっとも、視床下部のすぐそばに松果体があるので、それをまったのであろう。

もっとも、松果体自身もある重要な役わりを受けもつ。けれども、サハスラー・チャクラそのものは松果体ではなく、視床下部であった。

 

視床下部はいまいったように、下垂体系を通じて全内分泌器官を統御する。それでは、なにをいって統御するのかというと、もちろんそれは神経である。

したがって視床下部には重要な神経がたくさん集まっている。

私は、古代ヨーガのなかから、この部分を動かすポーズとムドラーを創案してここにつよい圧力をくわえ、同時に、強烈な思念(念力)を集中していた。

百日のかいだ、たえまなく、私はここに、物質的、精神的、両面にわたるつよいエネルギーを集中した。

その結果、この神経終雑に一大異変が生じたのだ。

その異変により、神経線維が異常したが、それもそこにある分泌液、神経波に変化がおきたのか、そのいずれであるかはわからぬが、それらの分泌液が複雑に混合し合って、化学反応をおこしたのだ。

その化学反応による衝撃が、視床の神経をはげしく打って、網膜に閃光を走らせたのだ。

その時撃はここの神経線維にシナプスをむすび、その火はいつでも私の思うまま私の脳の内奥に明星を出たたかせることとなった。

同時に私の脳の構造も一変した。求聞持聡明法の成就である。

求聞持聡明法とは、脳の内部の化学反応による脳組織の変革であったのだ。
初ハーの生理学的機構では、相川下部の機構を生理学的にみてみよう。(図説・内分泌病への手引・土屋雅春、他籍による)の一部で、視床の腹側にある。

間脳は体温、備県、新陳代村、外分泌、平滑筋などの諸機能の調節をつかさどるほかに、
分小限の継脚の場として重視されている。

内分泌腺調節機序としては、心神経性調節(交感がある。
下のバンプレシン、オキシトシンが視床下部の視索上校や室労核の神経分泌により支れていることが示され、最近は下座体前葉が次に記すような各種の分泌促進因子 releaingtag of下にあることが知られてきた

アスタキサンチン

No.2015-51
2015年12月21日~2015年12月27日

トピックス

天然色素アスタキサンチンに記憶・学習向上効果
―記憶司る海馬の神経新生を促進する作用判明
:筑波大学(2015年12月22日発表)

 筑波大学は12月22日、サケやイクラなどに含まれる天然色素で強い抗酸化力を持つ「アスタキサンチン(ASX)」を長期間摂取すると、記憶を司っている海馬の神経新生が促進され、学習記憶能力が向上することが明らかになったと発表した。アンチエイジングに効果的なサプリメントとしての利用が進むだけではなく、今回の研究成果をもとに関連の新薬の開発も期待できるという。

 

■サプリメントの利用促進や新薬開発も

 

赤い色素のアスタキサンチンは、老化や病気の元となる活性酸素を消去する抗酸化作用や、眼精疲労の回復効果などさまざまな作用があるとされ、サプリメントや健康食品、化粧品などに用いられている。

 また、動物実験でアスタキサンチンに急性の脳損傷に伴う神経の炎症や死滅を防ぐ神経保護効果があることや、脳虚血に伴う記憶の低下を抑制する効果があることなどが報告されている。しかし、海馬機能に与える効果についてはこれまで明らかでなかった。

 研究チームはアスタキサンチンが海馬機能にもたらす影響に的を絞り、さまざまな側面から調査、研究した。

 実験ではまず、アスタキサンチンの濃度が異なる飼料(0.02%、0.1%、0.5%)と、プラセボ(偽薬)の混ざった飼料を大人のマウスに4週間与えた。海馬の神経新生は、細胞増殖の数(Ki67陽性細胞)と新生した細胞のうち神経細胞へと成熟した数(BrdU/NeuN陽性細胞)の数で評価を行った。

 その結果、0.1%と0.5%濃度の飼料を与えたグループで海馬の細胞増殖数の有意な増加が認められ、そのうち0.5%濃度の摂取グループでは、新生細胞のうち神経細胞に成熟した数(新生成熟細胞数)の有意な増加が認められた。つまりアスタキサンチンの効果は濃度依存的であり、0.5%が神経新生を高める有効な濃度であることが分かった。

因縁がカルマをかたちづくる

482
けたのだ。
また、だれでもがそういう最上階の超能力者になれるということは断言できない。最上階のアデ
プトに到達することのできる修行者は、特別な人たちにかぎるとされている。そういう人たちは
生まれながらにひとつの資格と素質を持っているのだと信じられている。その資格とは、前世、
前々世からひきつづきこの修行をしてきているということである。何度も生まれかわってくりか
え人生において、かれは絶えずヨーギーとして修行をつづけてきているのである。しかし、だ
れがその有資格者なのかは、実際に修行に入ってみるまではだれにもわからぬことである。もし
もあなたが密教の修行に熱心な思とあこがれをよせるようであるならば、あるいはあなたがそ
の人であるかも知れない。しかし、また、よしんばあなたがその有資格者ではなかったにせよ、
これだけは断言することができる。あなたがごくあたりまえの人間であっても、すぐれた力を持
つグル(師匠)について、一定の訓練を受けるならば、普通人にはとうてい考えられないような
すぐれた力と能力を持つ優秀人に変化することができるだろう、と。
私はくりかえし断言しよう。
ふつうしん
たとえなんのとりえもない平凡な人間でも、この密教の訓練をうけるならば、その人は、その
人の属する社会の本かで、欲すると欲せざるとにかかわらず、かならずそこのリーダーとなって
そのグループを支配し指導することになるだろう。なぜならば、かれは、だれでもがよろこんで
その支配をうけ、指導をあおがざるを得たいはど、きわだった能力と人格を持つようになるからだ。これからいよいよ苛烈の度を加えるこの世界において、それはますます顕著になるだろ
う。あたらしい世紀をむかえる前に、この世界はひどい混乱におちいって、社会は無数のグルー
プにわかれ、そのグループはいったいどうしてよいのかわからない人たちであふれるようになる
からだ。その人たちは、常人にない能力を持つリーダーを求めて右往左往するだろう。自分たち
を新しい世界につれていってくれる人を求めて世界はわきたつ。そのとき、それらの人が求める
リーダーに君はならねばならない。そういう人をつくり出すのが密教だ。そのために密教の技術
は温存されてきた。これはそういう技術なのだ。それだけに、それはかなりきびしい訓練である
ことを知っておかねばならない。
業からの脱出
いくつかの訓練の段階におけるその第一の課程は、自分の持つ業からの脱出である。
人は生まれながらにさまざまな条件によってしばられている。そのものからだれも自由であり
得ない。考えてみれば、人間という名でよばれる存在そのものが束縛である。存在することがす
でに奴隷である。だから、存在であらざるものになることが完全な解脱なのであって、密教はそ
れを目ざすのであるが、それはもっとずっと先になって君の追求すべきテーマになるだろう。こ
こでは存在するものの江かでの解説である。それを業の解脱という。業は因縁によって殺され
る。因縁がカルマをかたちづくる。この、カルマの解脱の行と並行して密教の修行がはじまる。
そくばく
48能力発のカルマの解脱をしない修行者は、修行がにとんとすすまたん
されず、不浄なものにみたされ、『法』という清浄なるものに帰一同化することができないから
だとされている。
だから、修行の第一歩において、グル(師匠)は、修行者にカルマの解虎の法をさずける。
リーガ・スートラに「ヨーギーの薬は白くも悪くもない。その他の人々の業は三様である」と
いっているのは、グルが、修行者に、修行の最初の段階で、かれに解脱の法をさずけて、業から
やまちこう)さとう。
離脱させるようにするからである。(業には普通、白業、農業、黒白薬の三種がある。白業とは
よい結果を生ずる原因、いわゆるよい因縁で、黒葉とは悪い結果を生手る原因、いわゆるわるい
因縁で、黒自業とは同方が混合している業である。通常の人はほとんどこの紙の業に属してい
る。ローギーはこれらのいずれの落からも超越するのである。
私は、真言密教につたわる!大白法』を以てこの法としている。これは、古来よりの因縁解
法として最高のもので、他にこれ以上の法はちょっと見あたらないからである。
「普通,これは1000日つづく修行である。1000日つづくといっても日常生活のうちに修
言できる行法であるし、とくにむずかしいというものではない,1000日の間に法を身にっ
は、図説を完成するとともにりっぱな音改者としての素養と知識をふかめ、指導者としての
人格、識、能力を高めてゆく。この修行だけでも、人は、非常にすぐれたパーソナリティの出
にじみくことだろう。
常の記の行がおよそ100日くらいすすんだ頃、グルによる直接の指導がはじまる。その第
一回は、受け入れの儀式である。その方法はさまざまである。修行者の因縁によりみな異な
る。これで修行者はダルの正式の弟子としてうけいれられたわけである。
この第一回の面接指導』から、ほんとうの修行、訓練近はじまるのである。
九段階の調練
が、将は、たつの市から成り立つ。
それに、真言を界における用の場によって補成されたシステムである。
高宗のは、真面設につたえる会副界と造り

如来の七宝

如来の七宝
まさき
ちやほうかくし」
しようじんかくし、
てくかく
じようなくし
しやすくしほう
かくとにらい むしよじゃくとうしようがくよ
如是如来無所者等正覚出於世時。当 「是の如く如来・無所者・等正覚世に出ずる時、当に
ちかくしほう
知亦有七覚支宝出於世間。云何為七。 知るべし。亦、七覚支宝有りて世間に出ず。云何が七と
念覚支宝。択法覚支。精進覚支。喜
為す。念覚支宝・択 法覚支・精進覚支·喜覚支·息覚
影支。息覚支。定覚支。捨覚支宝。
支·定 覚支·捨覚支宝、是れを謂いて七と為す。如
来・無所著・等正覚世に出ずる時、当に知るべし。此の
是為亡。如来所著等正覺出於世
七覚支宝有りて世間に出ず」。伝説是の如し。彼の諸の
時。当知有此七覚支宝出於世間。仏
比立、仏の所説を聞きて歓喜奉行しぬ。
説㎞是。彼諸比丘聞仏所說。歓喜奉
まっせつ

もろもろ
かんざきます。
「同様に如来・無所著・等正覚がこの世に出現する時には、また七覚支(法という)宝が、この
世に出場するのです。その七覚支(法という)宝はどういうものでしょうか?
・法管工,精逃見交,喜覚支・息覚支・定覚支・捨覚支の七つが、七覚支(法という)

01111
宝です。如来・無所善・等正覚がこの世に出現する時には、この七覚支(法という宝がこの世
に出現するのです」
以上のように仏さまは説かれました。もろもろの比丘たちは仏さまの説法を承り、歓喜して修
行に励みました。
・解説
お釈迦さまは転輪王の七宝になぞらえて、七覚支法は如来の七宝であるとおっしゃっているわ
けです。「是の如く」とは、それと同じようにということです。如来・無所著・等正覚が世に出
現される時も同様に、七覚支法という七宝が出現するわけです。如来とは真如の世界から来られ
たお方という意味で、仏さまのことです。無所著仏さまの別名です。仏さまは一切のものに執
著(執着)しないので、無所著というわけです。あらゆるものの執着から離れたお方ですから、
仏さまのことを無所著といいます。等正覚もやはり仏さまの別名ですが、比類のない最高の正し
い悟りを得られたお方という意味です。如来も無所著も等正覚も、仏さまのことです。
仏さまがこの世に出現される時には、転輪王が七つの宝を得られるように、七つの宝ともいう
べき七つの法が世間に出現するのです。
それでは、仏陀の七宝である七覚支法とは、どういう法なのでしょうか?

七宝がきょう

転輪王とお釈迦さま
『中西含長・主相応品・七宝程・一」(以下「モ玉程)を講義します。これはお釈迦さまが、成
公法・も科三十七道品の中の七夏支法について多かれているお経です。
わたくしはお気逆さまの教法を世の中に出すこと、なかでも成仏法・七科三十七道品を世に広
めること警順に掲げて、活覧を展開しております。これは、現代には成仏法が絶対に必要不可
欠だからです。
それでは『七宝堂」を読んでみましょう。
しやえこく
とさせろうじょ
さらにとたんお
すなわしち

りんだよ
我闘如是。一時仏遊舎備国。在勝林
給孤独園。爾時世尊告諸比丘。若転
輪王出於世時。当知便有七宝出世。
六何為七。輪宝象宝馬宝珠宝女宝居
主宝主兵臣宝。是謂為七。若転輪王
出於世時、当知有此七宝出世。
我がきしこと是の如し。一時、公、舎南国に遊び勝林
給弧園に在しぬ。南の時世尊 諸の比立に告げたまわ
く、「若し転輪王世に出ずる時、当に知るべし、便ち七
宝有りて世に出ず。去何が七と為す。輪宝・家宝・馬
・珠宝・安室・居士宝・主兵臣宝、是れを謂いて七
と為す。若し転搭王世に出ずる時、当に知るべし、此の
七宝有りて世に出す」
にう
こじほう・現代語訳
おんしようじゃ
このように私は聞きました。仏さまがコーサラ国に遊行され、祇園精舎(勝林給孤独園)にご
滞在の時のことです。ある日、世尊はもろもろの比丘たちに告げられました。
「転輪王がこの世に出現する時には、七宝がこの世に出現します。七宝とはなんでしょうか?
それは、輪宝・象宝・馬宝・珠宝・女宝・居士宝・主兵臣宝という、七つの宝です。転輪王が
この世に出現する時には、この七宝が出現するのです」
1
この『仏陀の真実の教えを説く』の上巻でも説明しましたが、舎衛国とは当時のインドの大国
ぎじら
の一つであるコーサラ国です(同書二六五頁参照)。勝林給孤独園とは祇園精舎のことで、祇樹給
孤無園ともいいます。この祇園精舎で、お釈迦さまは弟子の比丘たちを集めて說法をされました。
お釈迦さまは最初に、転輪王がこの世に出現される時には、七つの宝がこの世に出現されるの
だ、とお説きになられました。七つの宝とは、輪宝・象宝・馬宝・珠宝・女宝・居士宝・主兵臣
宝のことです。
王とは、どのような王さまでしょうか?
これは武力を用いず、正義と法によって世界を統一支配して、立派な世界を建設するという、
インドの伝説的な帝王の理想像です。武力や軍事力によるのではなく、正義と法によって世界を

しいなようしんほう

018
えみ
統一するわけです。したがって当然のことながら、転輪王は立派な世界を建設します。インドに
はそのような帝王の理想像が、伝説として存在していました。
その状幡手は、天から七つの宝を感得するといわれております。これが七宝です。
七宝の第一位指宝です。幅玉とは、金でできた車輪金輪です。金輪以外にも、銀輪・銅輪・
鉄輪の場合がありますが、それは時代によって違うようです。転輪王の現われる時代によって、
観艦の場合もあれば、銅輸の場合もあるし、また鉄輪の場合もありますが、おおよそは天から金
を授けられるとされております。いずれにしても輪宝とは神聖な車輪で、たとえるならば一種
の戦車です。その戦車がひとりでに動いて伝輪王の軍勢を先導し、世界中の悪い軍隊を残らず退
治してしまう。あらゆるものを破砕、降伏せしめる。抵抗するところの悪い軍隊や国王を、全部
この金輪が打ち砕いてしまうのです。そして転輪王の一行は、そのあとを堂々と歩いて行って、
正義と法を説いて世界を治めるわけです。
さいごうく
第二の果とは、すぐれた象のことです。体も大きく、力も強く、しかも頭がすぐれてよい象
です。
第三の馬宝とは、乗馬用のすぐれた馬です。
第四の珠宝とは、如意宝珠のことです。
「よくにはう
第五の女宝は王 女宝ともいいます。これは一人という説もありますし、複数の場合もあるよ
うですが、いずれにしても転輪王に仕えて、いろいろと内助の功を現わすとされている、容色麗
しく、また才知のすぐれた女性です。これが女宝です。
第六の居士宝とは、すぐれた大臣たちのことです。政府を組織すると、いろいろな職務を任せる大臣が必要です。転輪王のまわりはすぐれた大臣ばかりで、賄賂を受けとるような、聴聞にま
みれる閣僚・官吏は一人もいません。
第七の主兵臣宝とは、すぐれた将軍たちのことです。
転輪王はこの七つの宝を手に入れて、世界を統一し、平和なよい世界を生み出すとされていま
す。インドにはバラモン教の時代から、いつの世にか転輪王が出現して、よい世界をつくり出す
という伝説があり、今もそれは続いております。
じつをいいますと、ほかならぬお釈迦さまご自身が、転輪王になるといわれたお方でした。
じようみんほうだいはんきます。
『小部経典・本生 経』(漢訳では、『長 阿含経・大本経』参照)によると、シッダッタ(悉達多、お釈
迦さまのお名前)太子がマーヤー(摩耶)王妃のお股に宿られた時、白い象がお腹の中に入るとい
う不思議な夢をご覧になったとされております。それでマーヤー王妃は、スッドーダナ王 (浄飯
年)に夢のことを話されました。スッドーダナ王は心配になって、六十四人の名高いバラモンを
呼び寄せて、夢の内容を占わせたところ、そのバラモンたちは、
リしまうよう
しっだった。
じようぱん
「お腹に宿られたのは王子です。王女ではありません。この王子が在家のままでおられるならば、
転輪王となられるでありましょう。もしも出家されるならば、世の苦厄を除く仏陀となられるで
ありましょう」
と答えました。
さらにこ誕生の直後に、それらのバラモンの中から、とくに観相に抜きん出た者を八人選んで
脚させたところ、八人中七人が、やはり、
「この王子が部下のままでおられるならば、転輪王となられるでありましょう。もしも出家され

三福道

涅槃とは完全解脱の境地

 

かくと
あるとき
しやえこくぎじゅぎっこどん
おり
そとすせそんあなん
「さんぽんさん
ようやねはんがい
いかん
しようほう

 

聞如是。一時仏在舎衛国祇樹給孤独
園。爾時世尊告阿難。有三善根。不
可網尽。漸至涅槃界。云何為三。所
於如来所而種功德。此善根不可窮
尽。於正法。而種功徳。此善根不可
尽。於聖衆而種功徳。此善根不可
尽。是謂阿難。此三善根不可窮尽
得涅槃界。是故阿難。当求方便獲
此不可射尽之福。如是阿難。当作是
学。耐時阿難聞仏所説。歓喜奉行
聞くこと是の如し。一時、惚、衛国祇徴絵孤独園に在しき。

 

爾の時世尊、阿難に告げたまわく、「三善根(三福道)有り、窮尽す可からずして、漸く涅槃界に至る。
六杯が三と為すや。所誠如来の所に於て功徳を種う。此の普根窮尽す可からず。正法に於て功徳を種う。此の
普根第尽す可からず。聖衆に於て功徳を種う。此の善根第尽す可からず。是れを阿難、此の三善根は窮尽す可からず、涅槃界に至ることを得と謂うなり。是の故に阿難、当に方便を求めて、此の窮尽す可からずの福を獲べ
し。是の如く阿難、当に是の学を作すべし」と

爾の時阿羅、仏の所説を聞きて概喜奉行しぬ。

 

・現代語訳
このように聞きました。仏さまがーサラ国の祇園精舎にご滞在の時のことです。ある日、世尊は、阿難にこのようにお告げになられました。

「三善根(三福道)というものがありますが、その功徳は無限であり、涅槃界に至ることができるものです。なにをもって三つの善根 (福)とするのでしょうか。

(第一に)いわゆる如来の所において功徳を種える、この善根 (福)の功徳は無限です。(第二に) 正法において功徳を種える、

この善根(福)の功徳は無限です。(第三に)聖衆において功徳を種える、この善根(福)の功徳は無限です。阿難よ、この三善根(三福道)の功徳は無限であり、涅槃界に入ることができるの
です。

したがって阿難よ、三善根(三福道)を修行して、この無限の福を得なさい。このように阿難上、この三善根 (三福道)を学びなさい」

この教えを受けて、阿難は心より喜び、修行に励みました。冒頭でも触れたように、阿含宗では三善根を三福道と呼んでいます。このことについて説明し
『仏語大辞典』(中村元著、東京書籍)で「三善根」を引くと、と書かれています。しかし、この三供養品』に説かれる三善根は、その内容がまったく異なります。それなのに、これを三善根という名称のままで弟子たちに教えるのは、非常な誤解を生

むもとだとわたくしは考えました。
それでは、この修行法は、どのように呼ぶべきなのでしょうか?

経文中に、
「此の第尽す可からざるの福を獲べし」
とあるように、この修行法は無尽蔵の福を得る三つの道です。したがって、わたくしはこれを
「三福道」と命名しました。この名称ならば無貧善根・無瞑善根・無嬢善根の三善根と混同する

ことはありません。
そこで、阿含宗では、三善根を「三福道」と変えて読誦しているのです。
さて、右の経文を一読すれば、涅槃界に至るためには三善根(三福道)が必要なのだ、ということをお釈迦さまが説かれているのが分かると思います。

涅槃界とはなんでしょうか?
かいぼん
普通は涅槃の境地・境界の意味で使われます(ただし本経では違う意味を持っておりますが、それについては後述します)。『五戒品』でも触れたように(本書三七頁参照)、

涅槃とはサンスクリット
語でニルヴァーナといいますが、生死を超越した境界、完全解脱の境地です。

完全解説とは業と
因縁から完全に解放された状態です。
わたくしたちは薬と因縁の塊です。業と因縁によって輪廻転生を統けています。

輪廻転生とは死の流転がやまず、無限に生死の流転を繰り返すことです。まるで車の輪が廻るように絶えれます。直線なら物由がないわけです。輪が廻るから無限なのでを繰り返すのか

「はてしなってもいいんじゃないですか。いろいろなものに生まれ変わって、さまざまな生じりうことができるわけでしょう。男になったり、女になったり、偉くなったりというよう
に、いろいろな人生を味わうことができるのだから、むしろ楽しいじゃないですか」

ういう人もいるかもしれません。一度限りの人生ではなく、輪廻転生する方が楽しいというろが、過転生は決して楽しいことではありません。むしろ苦しいことです。

輪廻転生が
「苦しいことだから、お釈迦さまは輪廻からの解脱を願って修行したわけです。
転生は苦である、とお釈迦さまは説かれるのでしょうか?
するためには、まず、仏教の人生観を知る必要があります。

では
、、人生イコール苦であると見ます。人生は、すなわち苦しみであると考えるのよくものとおりだと思います。たしかに人生には楽しみもあります。けれども、

一を、うずうしていくならば、苦しみの方が多く残るでしょう。無
と呼んでおります。四苦とは。
さーっとしもそのとおりだと思います。たしかに人生には楽しみもあります。けれども、

一ーのに体験する楽を一つずつ相殺していくならば、苦しみの方が多く残るでしょう。

無にしたの中に、喜びがあるというようなものではありませんか?
仏教では人間の苦しみを分類して、四苦八苦と呼んでおります。

四苦とは人間の基本的な苦しみです。さらに四告に付随した苦しみが四つ出てきます。これを最初の四苦と合わせて八苦といいます。通常はそれらを総称して四苦八苦というわけです。
四苦八苦は以前にも講義しました(上巻・『申恕林経』一三五ー一三八頁参照)が、仏教の基本教
として大切なことですから、もう一度復習しましょう。
四苦八苦
人は苦の塊
まず、戦というのは、生・老・病・死の苦です。これが人間の基本的な苦しみです。さらに
その改善にはした苦しみが出てます。それが受別離苦・熱憎会苦・求不得苦・五陰盛苦の
どうです。これらの苦さがして、四苦八苦といいます。こうしてみると、人間というのは本当
の一は堂のです。実際に自分の人生還り返ってみればよく分かると思いますが、生
いそいそと自体がしみです。生まれたこと自体が苦しみです。生きているからこそ楽しいこ
とあるけれども、で、楽しいこと、間に苦の種とたっています。ですから生は苦である
はのしみです。生きている上は、だれもが年をとります。必ず老いていきます。

ヒトを改造する超技術

18

このシステムで訓練すれば、眠れる君のニューロンはたちまち目ざめ、君の知能は三倍にな

る。

それは、ヒトを全くべつな生物に変えてしまう超技術だ。

その超技術がここにある。

3―ヒトを改造する超技術

トラブル

ヒトの知能が倍増し、人類の知的水準が現在の二倍ないし三倍になったら、世界はどのように

変わるであろうか? おそらく、人類は、いまかかえているあらゆる問題を、すべて解決してし

まうであろう。

いやーー、それよりも、全く新しい構造の社会が出現するのではないか?

人類がいまかかえている問題を見てみよう。

――殺し合い、作い合い、憎み合い、傷つけ合い――そして地球上に急速にひろがりつつある

有害物質―――。それらはどこに原因があるのであろうか?わかりきったことである。

それは、ヒトがいかなためである。

人類学者リンネは、人間を分類して「知恵あるヒト」と学名をつけた。

ビエンス

 

ホモ・スウルチッシムス
生理学者シャルル・リシェは、愚かなヒト、ホモ・スッルッスと名をつけた。ノーベル賞受賞
者のリシェは、その著、「人間―この愚かなるもの」の序文で、 人類のかずかず の愚行をつぎ
つぎとあげ、実にあきれかえったおろかな動物であるとして、超感 人類 と呼びたいところだ
が、まあ、最上級の形容詞はがまんして、感 人類ぐらいでかんべんしておこうと書いている。
たしかに、ヒトには、この二つの面がある。賢い知恵ある面と、愚かで弱い面と、二つの面が
ひとつにまざり合っている矛盾した生物が、まさにヒトであるということなのだが、いま、われ
われの周囲をながめてみると、ホモ・サピエンスは全く影をひそめ、ホモ・スッルチッシムスが
のごとく横行している。
殺し合い、奪い合い、憎み合い、傷つけ合いー、
それは次第にエスカレートしてゆく。科学と技術はヒトの力を無限に拡大したが、同時に、ヒ
トの殺戦と搾取と憎悪と闘争をも無限に増大させた。このままでは、間もなく、ホモ・サピエン
スは絶滅する。
いま、人類にもっとも必要なものはなにか?
それは高度の知能である。
この地上に展開する恐るべき大愚行は、なによりもまず人類の知能が低いところに原因する。
いま、人類に必要なものは、科学でもなければ技術でもない。革命でもなければイデオロギー
でもない。人種闘争でもなければ階級闘争でもない。そんなものはなんの役にも立たぬ。
きつく
さくしぞうとうそう何十回、革命を起こしても、何百回、闘争をくりかえしても、人類の知能がいまの水準にある
かぎり、それはむなしい儀式のくりかえしに過ぎぬ。
歴史をみてみよう。機械と技術、科学と文明と称するものがいくら進歩発達しても、おろかな
人間たちの行動パターンは少しも変わっていない。つねに、憎み合い、殺し合い、奪い合う、こ
のパターンのくりかえしではないか。どこに変化が見られるか。
若ものよ。エネルギーのむだな燃焼をやめたまえ。革命を思うなら、全人類の知能革命に前進
せよ。
ネアンデルタールの昔から、ヒトの知能は一歩も前進していない。なによりもまず人類の知能
を高めねばならぬ。
ホE・スツルチッシムスを絶滅せよ。そうせぬかぎりわれわれにもはや未来はない。それはす
でに秒読みの段階に入っている。
このとき、ここに、ヒトを改造し、社会機構を一変させる技術がある。この技術は、ふるき社
会体系をすべて解体し、そこから生まれるあたらしい文明は、次元をひとつ超えるだろう。この
技術によってのみ、世界はよみがえり、この革命だけが全人類を破滅から救う。
若いのよ。
君たちはなぜこれに視線を向けぬのだ。
次ぎ、出たのは、この、地上いまだかつて比類なき壮大にしてドラマチックな革命に情熱をた

5―ホモ・エクセレンスの資格

5―ホモ・エクセレンスの資格
ここにひとつの技術がある。
その技術によって訓練すると、ヒトはだれでもいくつかのすぐれた力を持つようになる。
その力をあげてみよう。
– 極度に発達した知能――いちど目にふれ、いちど耳にしたことは、ぜったいに忘れること
のない記憶力。どのように複雑な構造でも組織でも、 辞間的に分析し、推理し、理解 レ
て、本質を把握してしまう演繹と帰納の力。コトバという問接思考を経ない純粋思考から
発する超飛躍的な創造力。
それは、ヒトの平均知能を一・〇とするならば、おそらく、二・五から三・五に達する
であろう。このグループの最高の頭脳は、やすやすと四次元を理解する。
ニ感覚器官の增幅――彼は、不可視光線(赤外線、紫外線)を見ることができ、超音波を聞く
ことができる。その異常感覚と高度の知能の結合からくる予知力。それらは、自分の肉体
意思うままに統御する能力からくる。
三環境の制御と創造――思うままに自分を変え、他人を動かし、集団や環境を、自分の理念
の通りに創造してゆく。
四物質を超え、物資を自由に統御する力。
五無限に発達した道徳意識。
だいたい、以上の能力である。
これ、前の、

仏説摩訶般若波羅蜜多心経

仏説摩訶般若波羅蜜多心経

観自在菩薩、深般若波羅蜜多を行じし時、五蘊は皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したまえり。舎利子よ、色は空に異ならず、空は色に異ならず、色は即ち是空、空は即ち是色なり。受・想・行・識も亦復是の如し。

舎利子よ、是の諸法は空なる相のものにして、生ぜず、滅せず、垢つかず、浄からず、増さず、減ず。是の故に、空の中には色も無なく、受も想も行も識も無く、眼、耳、鼻、舌、身、意もなく、色、声、香、味、触、法も無し。眼界もなく、乃至、意識界も無し。無明も無なく、亦無明の尽くることも無し。

乃至、老も死も無く、亦老死の尽くることも無し。苦も集も滅も道も無く、智も無く、亦得も無し、得る所無きを以ての故に。菩提薩埵は、般若波羅蜜多に依るが故に、心に罣礙無し。罣礙無きが故に恐怖有ること無く、一切の顛倒せる夢想を遠離して涅槃を究竟す。三世の諸仏も般若波羅蜜多に依が故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり。

故に知るべし、般若波羅蜜多は是れ大神咒なり。是れ大明咒なり。是れ無上咒なり。是れ無等等咒なり。能く一切の苦を除き、真実にして虚しかず。故に般若波羅蜜多の咒を説く。即ち咒に説いて曰く、羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提娑婆訶 般若心経

仏舎利(ぶっしゃり、梵: Śarīra)

 

 

仏舎利(ぶっしゃり、梵: Śarīra)とは、入滅した釈迦が荼毘に付された際の遺骨を指す。

釈迦入滅の地クシナガラの統治部族マッラ族は当初仏舎利の専有を表明し、仏教を国教とする周辺国との間に仏舎利を巡って争いが発生する事態となったが、結果として8等分され、それに、容器と残った灰を加えて周辺内外の10か所の寺院に奉納された。

200年の後、インドの敬虔な仏教徒であったマウリヤ朝のアショーカ王はインド統一を果たした後、全国8か所に奉納されていた仏舎利のうち7か所の仏舎利を発掘し、遺骨は細かく粉砕し、一粒一粒に分け、灰燼は微量ずつに小分けする作業を行って、最終的に周辺国も含めて8万余の膨大な寺院に再配布を実施した。