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密教によるヒ の改造

密教によるヒ
の改造
こころの統御と自在力
古代インドに技術があった。
ヒトのこころとからだに想像を絶する飛躍と昇華をあたえる技術であった。
それがどのような技術であるか、つたえられる奥義書、神聖知識、聖典、経風などのな
かから、いくつかをえらんで紹介してみよう。
まず、それは、感覚器官の増幅からはじまる。
一、三つの種類のこころを統御 「Samyama, することになり、自分の転生のありさまと、
過去および未来にわたって知ることができる。 また、これを他人に応用すれば,なもの磁
去、現在、未来をくまなく知ることができる。(ヨーガ・スートラ、自作念、統治期
ぞうふく
サンヤマ
二、言葉と対象と観念に複合と混乱がある。それらの区別に対して Sumanaを向けることに
より、あらゆる生き物の声を理解することができる。(自在品,第名前》
てんにつう
仏教で、「天耳通」とよぶ名の神通力のひとつである、Saayana というのは、ある分野におけるこころの統御と集中と放射に関する特殊なトレーニングと思っていただきたい。そのトレー
ニングから生ずる異常なエネルギーを考えればよい。
三、Samyama をもって他人の想念を直視することにより、他人のこころを知ることができ
る。(自在品 第03節)
仏教の他心通」である。
四、わが行に Samyama を適用して直観するならば、前生のことがわかる。(実修品第2節)
くんじゅう
佐保田鶴治博士は、この一節を、つぎのように注釈される。
『行はこれまでの経験によって潜在意識へ投入された、残存印象 Vacana 温習)である。この行
は、人の潜在意識内に蓄積されていて、記憶想念や業果となって顕現しないかぎり、永久に残存
するものであるから、 この行に対して 療制(佐保田博士は Samyama をこのように訳しておられる)
さほどこして、それを直観 (sakeat-karuna) することに成功するならば、自分の前生だけでなく、
他人の前生をも何生にもわたって知ることができる。この智を仏教は六神通のひとつにかぞえ、
部、命、とよんでいる。ブッダも悟りを開かれる直前にこの宿命智を得て、自分の前生を何大城という非常に遠い昔にまでさかのぼってくわしく観察し、さらに他の生きものの前生をも視察し
たといわれている』(解説ヨーガ・スートラ、佐保田鶴治註釈)
ウパニシヤクドー
おなじ力を、べつの奥義書は、つぎのようにつたえる。
五、第四のこころをもって目をひらき、相手を見るとき、いかなる相手も自分の過去をおおい
かくすことはできない。(クンダリニー・ヨーガ・ウパニシャッド、実修篇 第1節)
六、自分の心を、他人の身体のなかに宿らせることもできる。(自在品 第四節)
これは、強力な念力により、他人の想念を自分の思うままに統御することである。その力は、
「クンダリニー(Kundalini)の力を発動させて、相手の第二の心に向けて放射(集中)するこ
とにより可能である。(クンダリニー・ヨーガ・ウパニシャッド・実修篇第好節)
よるの
も、Samyama を使って、ふかい心の発現にそなわる光をあてることにより、どんなに微細な
ものでも、人目につかぬところにかくされているものでも、はるか遠くにあるものでもなる
ことができる。(実品第)

 

 

この意について、保因博士は、つぎのように注釈される。
つのに、自光を帯びた心の発現のことが説かれている。戦制によって、照騎性を論然の結

 

・腸にいたるまで、すべてを自分の思うようにコントロールできるのである。これらの内臓器
が、どんな状応にあるかをすぐに知り、少しでも異常があるようであれば直ちに正常にもどし
てしまう。そういう力の訓練が、このナービ・チャクラのトレーニングである。
からだに関する Samyama の力についてべつの経典、クンダリニー・ヨーガにつぎのような記
述がある。
F第目に成就したこころを以って病者を見るとき、その悪しき病める場所はすぐにわかる。
ーた、Samyama にさらに熟練すれば、将来、病むであろうところもはっきりわかる。そのと
い、熱達音が、腕とこころに集中すれば、悪しき場所はすぐに燃える』(同経典第8節)
能力は、化的なものから次第に高度のものに上昇してゆく。
レッ
一、頭のなかの光明に Samyama を向けるならば siddh (神霊)たちを見ることができる。
第品、部)
佐保田、上の注釈によれば、
いのかが、心洲 murdia-igatio) というのは、頭の頂上で、頭蓋骨の接合するところ、インド
で、ハ、(brahma-randhra) とよばれている所にある光明のことである。しかし、この光明の
演心識であって、心臓から発した光明が、背骨の中心を貫いているスシュムナー管を通って、

た心の奥にそなわっている光線を対象にめてることによって、分子、原子のような鉄ない。
でも、地中にかくされている程で、千鳥の湖くの出来事でも知ることができるのである。イン
ドでは紀元前からアトム礎(機置がとなえられていたが、これはギリシャ人のようにによ
っく到達したのではなくて、超自然的な力で極小なものを直観した結薬だといい伝えられない。
る。インドの原論は理論物理学的ではなくて、実験物理学的な方法によって到違るれたわけで
ある。遠方のことがらを感じたり、ヴィジョンとして見たりするひとは今日でもいる。千葉
が、テレパシーとかいわれる心理現象は催眠術によって発現する場合もあって、あながらに高に
することはできない(解説ヨーガ・スートラ)
光をはなつこころのことは、べつの型典においても語られ、
『第式のこころは白銀色にふるえる光をはなら、そのこころを目にむけて見るとき、この世界
は透明である。(すきとおってなにもかもはっきり見えるの意)」(クンダリニー・ ・パ
ある。すぐれた視力を持つ心の把握である。
さらにSonyatsを向けることにより、も悪人に見る

 

ーギーのからだはだれにも見えなくなる。(自在品 第6節)
感動の術とか、かくいかのとかいわれる秘術を説明した経文である。物の形や色が見えるの
は、見るものの方に対象を見る能力があると同時に、見られる形態の方に見られる能力がある
いう原理をふまえて、この経文は書かれている。インドでは、偉大なヨーギー「ヨーガ行者)が自
由に自分の身体を見えなくするという話はありふれたものになっている。(佐保田鶴治注釈)
ナービーチリクラー
ル、Nabhi-chakra(磨輪)に Samyama を向けることにより、体内の配列、組織を知ることが
できる。(自在品 第5節)
この章について、佐保田博士は、
輪というのは、実際の臍の孔ではなくて、そのあたりにあると想像される神秘な車輪状の
場所で、一六の幅をむっているといわれる。一説には、後世のハタ・ヨーガで説く六つのチャク
ラのなかの下から三つ目にあるマニピューラ・チャクラ (Maniparachakra) のことであるともい
う。いずれにせよ、肉眼で見える部分ではなく、幽体に属するものとされている。チャクラにつ
いては、ここで詳説する暇がない。脳輪は気体(生命エネルギーからなる身体)の中央にあるか
ら、これに繰制をおこなうと身体内の組織がわかる、というのである」(郭説ヨーガ・スートラン
と解説されておられるが、これは、多少ともちがう。

 

ワーアレクサス
陽上は、”そのあたりにあると想像される神秘ないといわれるが、この部位は、決して空想的
な場所ではない。たしかに神秘的とも思われる偉大な力を発揮するけれども、医学的にもはっき
り確認されているのである。
それは、医学的には Solar plexus と名づけられた「太陽神経叢」のことである。腹腔神経機、
内臓動脈軸叢ともいわれ、腹腔動脈より出る上腸間膜動脈の起始部にある交感神経の大きい神経
後である(前頁図参照)。骨の裏がわにあってさながら太陽の光線のごとく各臓器に神経を送って
いるのでこの名前がつけられた。
すなわち、ここから出る神経は、食道、胃、腹部血管、肝、輸胆管、膵臓、副腎、腸等に分布
している。また、この神経叢は大小内臓神経、迷走神経、第十二胸神経節、第一腰神経節などが
集まっており、内臓の神経としては最も重要な 叢 である。
チャクラについては、べつに章をもうけてくわしく説明するが、いずれも、今まで、空想的、
神秘的場所とのみ考えられてきたこれらの部位は、決してそういうものではなく、実際に、医学
的見地からも重要な場所であり、大切なはたらきをする場所であるのである。それを明らかにす
ることが、本書の大きな目的のひとつでもあるのだ。
「体の組織を知ることができる」とあるが、これは組織を知るだけではなく、組織を自由にコ
ントロールすることができるという意味である。実際にこのナービ・チャクラに Samyama 集
中すると、この太陽神経業に属する内臓器官――それは食道から、胃、肝臓、膵臓、脾臓、
が一致によるヒトの改造

 

 

に到達して、強い光のりとなっているのだと考えられている。
神通というのは、高い地位の神々ではなく、「霊よりは上位の霊体であって、天と通の
中間に位んでいると考えられている。現代の一インド学者は,これをマスター(電源線)で
いる。マスターは初めのうちは修行者の夢のなかに現われて教育し、後に法その案を現わし、
「分の名も修行者に告げる。さらに修行者の霊性が高まると、修行者は自分の必要に応じている。
でもそのマスターに会うことができるし、その上、他のすべての神霊に会うこともできる、とい
っている。もちろん、神霊を見られるだけでなく、それと話を交わすこともできるわけである。
(ミーア・メートラ)
これは要するに霊性の発現であり、四次元世界への接触ということであろう。頭のなかの光調
についてはあとでくわしく解説する。
頭のなかの光明とよばれる智に Samyardを向けるとき園明智 (pradisられる。
は最高の智であり、あらゆることをあやまりなくなり、いかなることでいを
「おかすことのない響である。(自在8,第器館)
のスクの経典では、つぎのように説明する。第六
とめ
にいく場(3)とよばれる上する。

 

 

とこに到達して、強い光の塊りとなっているのだと考えられている。
ここで神霊というのは、高い地位の神々ではなく、湖霊よりは上位の霊体であって、人との
中間に住んでいると考えられている。現代の一インド学者は、これをマスター(海外
いる。マスターは初めのうちは修行者の夢のなかに現われて教育し、後にはその姿を現れて、
分の名を修行者に告げる。さらに修行者の霊性が高まると、修行者は自分の必要に応じない。
でもそのマスターに会うことができるし、その上、他のすべての御霊に会うこともできる、とい
っている。もちろん、神霊を見られるだけでなく、それと話を交わすこともできるけである。
《解説ヨーガ・スートラ)
これは要するに霊性の発現であり、四次元世界への接校ということであろう。強みるのも、
についてはあとでくわしく解説する。
一つ、頭のカかの発明をよばれる響に Sanger を同社とき、調 Onlinがある。
路線は最高の響きあう、あらゆることをあますく華
すことのない著である。(自後島、第四層)
のことを、いつの経典では、つぎのようにする。

 

 

けんよん
270
る。それは第一の段階において、すべての見開するところを記憶にとどめて、いっさい忘れ
ぬというかがやきを持つ。
第二の段階において、すべてのものは彼のこころのなかにおいて形と色とかがやきを変え
る。(つまり、これは、ものの本質をさとるということであろう。 いうなれば、 三次元の感
覚と意識でこの物質世界、現象世界を見ているのと、そこを飛びこえて、四次元の立場から
見るのとでは、全然すべてのものが変わってしまうに違いない。そう解釈すべきであろう)
第三の段階において、すべてのものは、かれの心のままに、形と色を変える。(自在にな
る)』(クンダリニー・ヨーガ・ウパニシャッド実修篇・堤真寿雄訳)
一二、心臓 (hrdaya) に Samyama を向けることによって、心(citta)を意識することができ
る』(自在品 第j篇)
ンダイ
佐保田博士は、この章節を、
『心臓というのはもちろん、幽体的な心臓で、小さな蓮華の形をし、いつもは下向きになってい
る。この逃華は心の座である。あるいは、覚の座とも、 内 官(意、我慢、寛)の座とも解釈さ
れている。ケアーンドーギア・ウパニシャッドには、「小さな白蓮華の家」 のなかにはアートマ
ンがおさまっている、と詠われている。

 

ぎょう
かし
心はこころの実体であって、それ自身は意識面にのぼらないはずのものであるが、この心に
繰制操作をほどこす時には、この秘奥にひそむこころの実体さえも意識面に現われてくる、とい
うのである。心が意識される以上、その現象形態は残らず意識できることになる。
ある註釈者は、自分の心だけでなく、他人の心をも知り得ることだと解し、自分の潜在意識に
ひそむ行(これは業の意であろう。著者)と、他人の心に浮ぶよろこび等とを知ることができるこ
とを意味するという』(解說ヨーガ・スートラ)
と注釈されているが、ここのところはたいへん重要な箇所である。
この場所は、潜在意識、深層意識を動かす力の存在する場所で、こころ、すなわち潜在意識、
深層意識そのものが存在する場所ではない。ここは、そういうものを動かす力が存在する場所な
のである。
今までの修行者は、ここのところをまちがえて解釈し、すべて失敗している。これをまらえ
ると致命的なのである。ところがほとんどの修行者が、この聖典のこの文章にひっかかってしま
って、心かい酸(の部位)にあると考え、もちろんその心臓とは解観学的な心臓ではなく、その
近くにある心臓に密接な関係のある細胞群と神経線維の群れのことであるが、それを動かすこと
により、濃規意識を動かすことができると考えて一心にトレーニングに励む。それではダメなの
である。普在意識、深層意識はここにはない。それは大脳のなかにある。これはたいへんな
ことで、このことを私は、密教の記憶力増強法『求聞持是明法」を成就したときに気がついたはなれた死で、涅槃にはいることである。それはまた、意識を、最上界の電城に日出に上昇させ
ることができるという意でもある。このウダーナの統御は、肉体を軽くし、浮上させるというだ。
けでなく、というよりも、むしろそれは第二義的なものであって、実際は、意識、集編(質問
織》の昇華、浮揚、脱出を可能にさせる力を持つもので、それはより高度の生命(意識》との
れ合いを意味するものだといってよいであろう。いわゆる霊界との接触である。
一四、サマーナの気に samyama を同けてこれを統御すれば、身体から火焔を発することが
できる。(自在品 第3節)
サマーナは、願望成就、理想実現の力のもとである。サマーナの、気を自由に使いこなれ
ば、わが思うこと、願うことは、どんなことでも必ずこの空間にかたちづくることができる。
なわれ、鎖望成就するのである。修行によってこのサマーナのエネルギーを自典に候いこなす
ができ、三昧にはいってこのエネルギーが全身にみちみちると、肉体から火多発する。その様。
くらのなかにいて完明となる火であることもあれば、実際の火婚そのものを受大きる。
ある。教の不動顕主が、全身、火覚につつまれ、あるいは管中に火を負っているのだ。
ので、決しく、体の火の象徴のための火でないのである。

 

きんいたとき、北川、空耳の原理」照)念力で火を出したところでなにになるとわらっ
た人がいるが(以者で,こういう深いほんとうの密教の秘奥を知らぬ、無智や、不勉強
いい世る言であるというよりはかないのである。念力の護摩を焚くのは、この修行が完全に
しとげられたということの=なのである。また、念力の護摩を焚いて、修行音が一心にいの
ルが、自他の別なく、願ってかなわざるものがないというのは、実にこのためなのである。
一五、ふかいこころに Saiyama を集中することにより、こころが制約をはなれ、想像上でな
く際にの外で心がはたらく上うになる。それは大脱野 (mahavideha)とよばれる。
これがなされるとき、心の光照をおおういろいろな障害がなくなる。(自在品 第2節)
わざわざ、以上でなくialita) とことわっている通り、実際に遊離現象がおこなわれ
る。肉体はここでルに人,ていて、意識だけが一00キロ、1000キロ遠方の地へ行って、そ
の心の川北小Mさしてくることが可能なのである。
ある出来は、大概は深いトランス状態のことであって、外から見れば気絶状態とも見え
る深いのことであろう、といっているが、その通り、トランス状態に入って深層意識の
いの世界かたどっていることもあれば、実際に現実の世界で距離を超越した力を発揮して
いる場合もあるのでいる。

開発法としての求聞持法

その断層は決定的なものになった。技術は見失われてしまった。技術は意味不明のものとなり、
それはかえって宗教的に、不純”なものと見なされ、とりはずされて追放された。あとに儀式と
様式のみが残った。
儀式と様式になんの力があろう。かくして求聞持法は名のみとなった。いや、それは、宗教儀
式としての求聞持法である。知能開発法としての求聞持法はまたべつにさがし出されなければな
らない。
それは、真言密教の求聞持法とはちょうど正反対に宗教儀式の衣裳をすっかりかなぐり捨て
た、技術そのものの法である。それを、私は、密教の原点にさかのぼり、混沌のなかから発見
した。
私のいう「求聞持法」はそれである。かくして求聞持法はよみがえった。これから、その知能
開発法としての求聞持法を解説する。その原理と技術を紹介しよう。
記憶)のメカニズム
「記憶」とは、なんらかの「経験」が、脳の記憶の場にたくわえられ、それが必要に応じて再生
されることをいう。つまり、記憶とはひとつの経験が貯蔵され、ある時間経過ののち必要に際し
て思い出されることをいうので、思い出されなければ記憶は「無い」のだから、つまり記憶とは
思い出すことによってはじめて成り立つものだということになるのだが、実際は、記憶には二種
ローシステムとしての特性

類あって、思い出される記憶と、思い出せない記憶の二つがあることを、私は、「変身の原理」
で説明した。脳の記憶のメカニズムはたいへん複雑で、それはまだ脳生理学でも十分に解明され
ていないのだが、一応、その仕組みを見てみよう。
経験というのはひとつの刺激である。その刺激が記憶になるまでには、だいたいっぎのような
段階を経る。
刺激を感じるのは、俗にいう「五感」である。五感とは、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚をい
うが、こまかくかぞえればまだ多くの、「感覚」があり、おなかが空いたとか、なんとなく けだ
るく気分がよくない、とか、そういう身体の内部におこっていることを知ることもできる。つま
り、われわれの身体の内部、外部におきていることがわれわれ自身にひとつの影響をおよぼす。
これが、「刺激」である。
こういう刺激があると、身体にある「感覚器」または「受容器」というものがこれに反応し
て、電気的パルスを送り出す。たとえば、赤い花があれば、そこから反射された光が目のレンズ
を通して受容器としての視神経を刺激し、視神経がパルスを送り出す。これはパルスであって、
刺激の強さが大きければその獄がふえるだけで、電圧が大きくなるわけではない。おなじよう
に、皮膚になにかが触れれば、皮膚にある受容器が圧力を感じ、その圧力に応ずる数のパルスを
能に送りこむ。次頁の上司は、このような受容器のいくつかの例である。
さて、このようにして受容器にあたえられた刺激は、パルスに変換され、脳の皮質につたえら実際に、海馬や側頭葉がこわされると、いろいろな型の記憶障害がおこることが、動物や人間
についてたしかめられている。また、側頭葉の電気刺激で過去の体験を再現することに成功した
ペンフィールド博士の実験(慶項)や、ネズミの海馬をこわすと判別能力がわるくなるという
条件行動の実験も、側頭葉や海馬が記憶やそれにもとづく判断のはたらきに直接関係しているこ
とを示している。ただし、それは、側頭葉と海馬だけが記憶の貯蔵所という意味ではなく、記憶
はある程度、脳全体に分布しており、側頭葉と海馬は、その中心としてはたらく機能を持ってい
る場所であるというように考えられている。
つまり、
『側頭葉は記憶の機能に密接な関連をもつ。記憶に、海馬を中心とした辺縁系が重要であること
は前にものべたが、それを含む側頭葉切除では、古くたくわえられた記憶は失われないが、新し
い情報を記憶に組みこみ、早期にそれを固定し、必要に応じてそれを引き出して用いるはたらき
(記絡と回想)に重要な障害をきたすことが、脳外科的手術の経験の増すとともに確かめられた。
前頭葉の破壊によって古い記憶は障害されにくいところをみると、記憶は広く全脳にたくわえら
れるものであって、側頭葉はその出し入れと照合(解釈)に主役を演ずるものらしい』(脳のはた
品崎樹・宮坂松術著)そしてそれは海馬もおなじようなはたらき をするものと考えられる。
『記多分、視床の連合核や、大脳皮質では第二次運動野、第二次知覚野および連合野でたく
わえられる。他電性の行動の記憶は身体の部分に対応した体知覚連合野に、視覚性の行動に関しる的に
たは反対に、 これまでに見たことのないものが、以前に
感じる(既視体験など、側頭葉と記憶との密接な関係はよく知られているところで
あるが――、刺激によって長期記憶を再生するのも側頭葉であるが、それは多分、側頭葉深部の
御馬が刺激されて、記憶貯蔵所を興奮させ、記憶されたときと同様な型の興奮を生じ、記憶が再
生されるのである。海馬を中心とする大脳辺縁系のニューロンは、知覚系、運動系、覚醒系、動
因系、制御系その他の機能系を連合して記憶県と結合する道であり、記憶をたくわえ、または再
生する有力な道である』(脳のはたらき・吉井直三郎著)
きおくそう」
『記憶の所在は、粗大な分類にしたがえば、大脳皮質と間脳との間の広汎な領域にある。その領
城の神経連鎖にニューロンの活動の型が記憶として残されるのであろうが、これを細胞レベルで
考えると、運動系、知覚系、覚醒系、睡眠系、動因系、制御系のいずれにあっても、その主回路
の他にあると考えられる多数の副回路のなかに反射化された学習回路が残されるのであろう。そ
れ故、大脳にひろく記憶が保持されているといえるであろう』(脳のはたらき・吉井直三郎告)
以上の専門学者の説明を参照した上で、私の求聞持法の体験をあわせ判断すると、記憶の場
は、半球内側面で間脳をかこむ部分、つまり「帯状回」のあたりであると私は思う。

 

所であることは、その所在する位置によっても、うなずけるであろう。
まえに引用した文章では、海馬が刺激されて記憶が再生されるのであると説明されているが、
私は、海馬それ自体の奥ふかくに、ごく古い記憶(深層記憶)がたくわえられているものと信ず
る。それは、動物実験で、人間におこなわれた側頭葉表面の刺激 (ペンフィールド博士の実験)と
おなじ効果が得られることから、それは、間違いないものと思われるのである。
すなわち、電極針を動物の側頭葉のなかに入れて、海馬を刺激したとき、注意を集中する注意
中反応、なにかを探索する探求反応が顕著にあらわれる。
「これは何物かの記憶がよび起こされ、「幻覚」が起こったのだともいわれる」(脳のはたらき・島
崎微糖 – 宮城松術着)のである。それはちょうど、ペンフィールド博士の実験で側頭葉の表面に電
針をあてられた被験者が、なん年ものまえの出来事をそのまま想起してびっくりしている状態
そのものである。そこで、この実験を動物ではなく、なんらかの方法で生きている人間の海馬の
中心を創激すれば、彼の前世、前々世の記憶がよみがえるのではないか?(密教は特殊な方法で
それをやるのである)
第一信号系と第二信号系
さてそこで、活は前にもどるのであるが、記憶のもとになる「情報」に、二種類あることをさ
きに述べた。

 

のもとで、この二つが記憶になるわけである。
ただし、第一情報と第二情報とでは、その記憶の場所がちがうのである。
第一情報は古い皮質の海馬の表面あたりに記憶される。これはどうしてかというと、海馬には
大脳辺縁系の中心で、本能行動、情動行動を支配する。本能行動というのはほとんど意識されな
い行動である、自律的なはたらきの領分であって、痛みや洋みなどの感覚にたいして、パッと無
意識のうちになされる動作のたぐいである。だから、情報も、無意識の情報はここに集まって、
それに対する反応も無意識のうちに対応されるように準備されるのだと考えればよい。
これに対して、第二情報は新しい皮質の側頭葉にたくわえられる。
脳の「解釈上の錯覚」について実験をくりかえしたウィリアム博士の実験により、側頭葉の全
領城が、ものの解釈をする部分であることがわかった。この領域を刺激することにより現実のも
の下の解釈のまちがいが生じ、この領域以外ではそういうことが見られぬことがあきらかになっ
た。8は、その一連の情報をまとめながら、過去の経験の記憶をひき出して適切な照合を行な
い、現在の経験を解決して、状況に応じた適切な行動をおこさねばならない。この、記憶をひき
出し、現実を解釈する機能に仙頭集がもっとも重要な役わりをはたすわけで、ベンフィールド博
士はここを「解する皮質」とよんでいる。
ところで、意識された情報とは解釈された情報であるという見かたもできるであろう。意識と
は一種の解釈であるのだ。そこで第二情報は解釈する皮質である側頭葉に伝達され、そこで記憶
お240
えるも
に、多くりかえされた記憶は旧古皮質の魂の海馬のほうに移っていってそこにたくわえられる
まりである。ベンフィールド博士の実験でも、電気刺激をあたえた側頭葉表面の皮質を引除して
も、そういう記憶はなくならなかったという報告があるから、上部(表面)の新皮質のほうに人
った記憶も次第に辺縁系のほうにしまいこまれてゆくのであろう。それは、たとえば、タイプラ
イラーの練習などでもよくわかる。タイプの練習に際して、「上手になろうと思ったら、キーボ
ートは見ないほうがよい」といわれる。最初、それにしたがって、「Aの字は? あれは下から
目の、一番左の端だったな。小指で打っこと」などとアタマで考えながら打とうとす
る、アタマというのは「新しい皮質」であるから意志的である。そして運動の皮質がはたらいて
小指を曲かす。目は用字をよみ、その形を見て「たしかにAの字だ」と判断する。こういうこと
家、なん回もくりかえして練習していると、そのうちに、いちいちこんなことを考えなくても打
で面ようになる、このことは――、つまり、「新しい皮質」になん回もなん回もくり返して入れ
ことは、だんだん「古い皮質」に入りこんでゆく。そして「本能的」にできるようになる、と
いうことだ。自動車の運転などもそのよい例のひとつである。
この第一情果、第二情報を、脳の重要なはたらきである「条件反射」の理論に基づき、脳の第
一、第二号系として発表したのが、ロシアの有名な生理学者I・P・パブロフである。
の第一号系とは、第一情報のことで、意識されない情報を主にした、感覚器官からの
あるのである。だから、これは動物でも人間でもおなじである。具体的な感覚のかたちで外界を反映したもので、視覚、聴覚、触覚、嗅覚、その他の感覚からのナマの情報である。そ
してそれがそのままのかたちで記憶されてゆく。感覚そのままの感知の情報で、なかには意識さ
れるものもあるが、多くは意識されないまま送りこまれる。それに対する反応もまた無意識のま
ま反射的に送り出されることが多い。まぶしいという感覚にただちにクシャミが反応するという
のなどその典型的なものである。そしてそのとき、まぶしくてクシャミをしたという経験(情報)
は、そのまま記憶になる。
これに対し、第二信号系は、人間にしかない。なぜかというと、この信号系はトバによって
成り立つものだからである。第二信号系は、感覚器官からの情報をいったん意識を通してコトバ
でひとつのかたちにまとめた情報である。ナマの情報ではない。そういうかたちにして記憶領域
におくりこんだり、論理的判断、思考をする機能である。
人間の知的進歩は、コトバの発見によるこの第二信号系の発達によるもので、これあるがため
に、人間は、外部のあらゆる雑然たる情報を、自分の内部で、論理的、系列的、抽象的におきか
えたり、積み重ねたり、他にそれをつたえたりすることができるようになったわけである。
しかし、もちろん、こういったからといって、この二つのものは、おのおのべっべつに動いて
いるのではなく、この両者がそれぞれ独立しているというのは、相対的な意味においてであっ
て、第二号系はシトパ、第一信号系は感覚として、両者は結局第二信号系にみちびかれる完全
にひとつのものとして一緒に活動しているのである。そこで今までのところを総括すると、こう

24
「エた購映
いうことになる。
~第二信号系―新皮質の側頭葉
(経験)知覚)情換えない情報第一信号系!旧古皮質の大脳辺縁系海馬(記憶)
インデット
アリアント
密教は第三の信号系を持っ
さて、今までは、もっぱら、「入る」の面を考えてきたわけであるが、今度は入ったものをも
とにしておこなわれる「出る」のほうを考えてみなければならない。
われわれがひとつの出来事に直面して、それに対し、判断したり、計画を立てたり、行動をお
こしたりするのがアウトプットであるが、それはどのようにしておこなわれるか?
今までにうけ入れてあるすべての情報(経験)を、できるだけ総動員して、それをもとに、判
断、決定、行動の材料にするわけである。だから、この際いちばん重要なことは、その材料が豊
品であることである。判断はそれが貧弱なほどあやまりをおかしやすいし、豊富なほど正しい判
間をする率が高い。ちょうど、むずかしい局面に直面した棋士が、過去に記憶(経験)したすべ
での定石や変化を思い浮かべて、それをもとに、もっとも有利で正確な手を打とうとするのと同
じことで、そういう場合、力の弱い者ほど経験(記憶)が少ないということである。 この場合、
経験というのは、長年たくさん盤激を打っているというだけのことではなく、どれだけ定石やそ
の進化が頭に入っていて、必要に応じてそれがひき出されるかということである。だから一番た後できるだが多くの和をひき出すということである。つまり、第一信号系、第
結ぎのひき出す、つまり思い出すという作業である。ところがこの作業
人、一緒島県の再生である。第一信号系の、コトバによる記憶は比較的(比較的であ
家政を統、常一信号系の記橋は非常にひき出しにくい。というのは、第二信号票の記憶
設定、まだ設よって整理されたり統合されたりしているから、それに対するテーマが決定
では、それに謝選して系統的に、論理的に出してくる可能性がつよい。中山正和教授によれ
現代は、線の電鉄』(サンの構造, 中山正和茶)であって、連絡しているからである。これに対
の定員は成の記録で、脈絡なしに断続的に入ってきたものであるから、つながり
しかし、機器としては第一信号系の方が圧倒的に多いし、また、量だけではなく、質
をつかめなくないのである。
もし、事物を創造するという場合にそのことがいえる。創造には機置が必要で
や総的思考の県み重ねだけでは得られないもので、論理や設期をはなれ
が多い。ただし、高域をはれたといっても全くはなれてしまうのでは
ただそ遣いのつ意がら、一方でそれに関要するにかめすべてを授
で、それがあるが、変更城献し然難所、びらめきぶんをつ
たというものだとは、
多めにある
通常のぐうう、いつを

 

244
さしてんでゆくすがただということである。
よく、直感とかインスピレーションとかいうけれども、それはよくしらべてみると、第一信号
落の情報記憶とむすびついて生じたことが多いのである。第一信号系は、脈絡がなく、意識され
ていないから気がつかないだけのことなのだ。もっとも、このことは、あえて創造に関すること
だけにかぎらず、ナべての発想に際してあてはめられることといわねばならない。
ところで、この発想の作業は、考えてみると、すべての記憶を思い出そうという意志が、第二
信号系とむすんで、第一信号系の記憶、ならびに全脳にわたる記憶の領域を、その表面から深部
にいたるまで掘りおこそうというのである。それは新皮質である側頭葉の全表面から次第に内部
におよんで間脳、帯状回の中間皮質から、旧古皮質の中心、海馬にいたるまでの全領域にわたっ
はたらき
での作業ではないか。まことに気の遠くなるようなこの作業が、それではいったい通常どのよう
にしてなされているのかというと、それはまったくその人の脳の自動的な機能にまかせておくよ
りまかないのである。
ということは、それがうまくゆくかどうかの決定は、そのときそのときの運次第か、または、
そういう作業が先天的にすぐれているか、おとっているかという、つまり「素質」の問題になっ
てしまい、最後はその人間の頭がよいか悪いかというところに帰着してしまうということではな
いか。おそらくは最終的には運と素質だということになるのだろうが、しかし、まるでツルギの
いたりのようなこの作業が、もしも、意識的になすことができて、第一信号系と第二信号系の

トールすることができたとしたらどんなものであろうか。
第一線渋紙34バを使って第一信号系を自由に構築するごとく、ある力をつかって、第一信
が、「信号の記憶を、海馬のふかい奥底から発掘してきて、自由に構築することができた
をしたら、その力に属するあたらしい系は、いったいなんと呼ばれるべきであろうか?それは
まさしく、外部の構好系」と呼ばれるべきものではなかろうか?
だが、かとは、そん然ことは不可能だというであろう。
然、客段はそれをやるのである。それ意やるある力」を持っているのである。すなわち,密
数は「第三の目が系」を持つ。
義のよいことが、ぜったいに「素質」だけによるもので、ほかになんのなすべき方法がな
いきいのであったら、表聞持法の出る幕はない。しかし密教は求聞持法を持つ。頭のよいのは
をやれなく、この技法によって訓練すれば、それは得られるということである。
の整理を知るためには、もうひとつの記憶のメカニズムを知ることが必要である。
る教鍋を食べる。

 

 

2ューシステムとしての水特法

237ーシステムとしての開法

科学におけるヒトの改造

また、ゼネラル・エレクトリック社は、アメリカ陸軍用に「ペディプレター」(歩行操縦器)を
つくりつつある。竹馬の長い足のように、それをつけると巨大な歩幅で歩きまわることのできる
器械である。竹馬とちがってこの金属の脚には膝や躁関節があり、バランスがとれているかどう
かを知らせ、調節する仕組みになっている。われわれはこの器械をつけることにより、ちょっと
したビルなどひとまたぎにし、一キロの道を五、六歩で歩いていってしまうようになるだろう。
将来は、この種の器械や装置を組み合せて、大またで歩いたり、重い物をかるがると持ち上げた
りするだけでなく、あらゆる動作――長い距離を非常なスピードで泳いだり、一日も二日も水底
を泳ぎまわったり、枝から枝へとびうつったりを、やすやすとやってのけるようになるだろう。
明らかに、これは単なるキカイではなく、それは人間の働きに同化した『人間増幅器である。
「や人間と機械は新しい関係にはいった。二者が事実上見分けられないほどたがいにまざり合
っているような関係――サイボーグとはこのような混成生物にたいしてつくられた言葉である」
とG・R・ティラーは、サイボーグに対して新しい定義をくだす。
しかし、ヒトのサイボーグ化の究極は、手や足や肺ではなく、結局、ヒトの知能の中枢である
大脳の増幅ということになるであろう。
すでにそれは始まっている。ヒトの脳とコンピューターを直結する技術に科学者たちはとり組
んでいる。「西歴二〇一八年」は、 その頃までにそれは可能になるであろうと予測している。そ
ういうと、いかにコンピューターを埋めこむのかと聞かれる。

いう方向に研究はすすめられつつあるようである。だが、しかし、実際にはその反対のことも起
こり得る可能性があるのだ。つまり、コンピューターのなかに、生体部品→腦ーをおくことだっ
て考えられないことではないのである。それは、ヒトとキカイとの完全な合成である。人間と機
械との複合結婚!、そういうものが起こりつつあるように思える。
SF作家のアイザック・アシモフは人間と機械の混血した新しい生物種ができることを予言し
ている。すると科学におけるヒトの改造の極致は結局それなのか?そのうち、われわれは、機
械化したヒトに話しかけているのか、ヒト化した機械に話しかけているのか、わからなくなる日
がやってくるだろう。あるいはまた、自分自身でさえ、そのどちらであるのかわからないという
が。
かくしてホモ・サピエンスは消えてゆく。
ヒトは、自分たちがい出ほろびるという絶滅意識を持たぬまま、しずかに機械のなかに吸収さ
れてしまうのか?あるいは、かえって、最後のホモ・サピエンスは、これほどの科学を生み出
した科学者の功績をほめたたえつつ、ある日、突然、その意識を機械のなかに消してゆくのであ
おうか?もしもそうだとするならば、これこそまさに、一00万年のヒトの歴史と、ヒトとい
う生物の持つすべての盾をその一瞬にかけた世紀の一大ナンセンスというべきだろう。あなた
かじゅん

不死の複製人クローン人
それでは、もうひとつ、科学の最後の提案をみてみよう。
さきに述べた遺伝工学の件ででもわかるように、生物学は、いまや、生物現象のなかでももっ
とも重要な領域、すなわち、生物の生殖過程までも変化させはじめている。
近年、避妊や、精子の長期保存、人工授精の新しい技術、さらにごく最近では種々の不妊症を
回復させる新しい方法などについていろいろな解説が普及し、研究がすすめられつつあること
は、すでにポピュラーな事実である。そのなかでも、もっとも目ざましいのが、遺伝子の配列を
変えて、生物―ことにヒトを改造しようという技術であった。これはさきの項で述べたが、い
ま、この遺伝子変換の法とならんですすめられつつあるいくつかの研究のなかで、まさに驚天動
地ともいうべき技術の開発がひとつある。
これがもしも完全に成功したならば、その技術において、ヒトはまさに神になったといっても
よいであろう。ただし、技術の面だけでのことだが――。
それはすでにごく一部のジャーナリズムに注目されはじめ、報道記事にされている。さし木
から生まれたアインシュタインたち』というような、興味をそそられる見出しで報じられた研究
161 科学におけるヒトの改造
「もっと科学的にいうならば、それは、クローン人ともいうべきものだ」

162
と、G・R・ティラーは註釈する。
クローン人とは、一個体の細胞から無性的に増殖・分化して生じた同一人間群のことである。
今から七、八年ほど前のこと、アメリカのユーネル大学でひとりの科学者が、彼として最初の
研究結果を発表したとき、周囲のみんなから、それは誇大な自己宣伝だと受けとられてしまっ
た。それは、それほど突飛な、いわば意想外ともいうべきものだったのである。けれども、その
内容を検討して、それが決して誇大なものではないことを知った世界的な生物学者ジョシュア・
レーダーバーグは、溜め息をついてこういった。
「私たちは、大変な変革的な動乱のがけっぷち」にいるのかも知れぬ」
と。
その研究は、地球上の植物、動物、人間など、すべての生命の現在の立場を根底からゆるがし
んでしまう可能性にみちたものだったのである。
その科学者というのは、コーネル大学の細胞・生理・成長・分化研究所長のF・C・スチュワ
ード教授である。驚異にみちた彼の研究とはこうである。詳細なその研究内容の解説を、G. Ra
ray Taylors The Biological Time Bomb” 「生物学的時限爆弾」(邦訳、人間に未来はあるか、
す刊)から引用させていただこう。
ーーランジンの、つまり私たちの食べている部分から細胞をとり出し、それを、ゆっくり回
新しくいるのはいった管のなかに入れる。その時差液のなかには、普通には使われていない成分ココナツミルクがふくまれていた。彼は「私たちはほとんど動かない」 ニンジンの
細胞にドラマチックな変化が起きるなどとは期待していなかった」と述べている。それにもかか
わらず、ニンジンの組織は急に成長しはじめた。
三週間もたたないうちに、どんどん重さがふえ、もとの約八〇倍になった。彼はこういってい
る。
「それは、ちょうど、ユュナツミルクがクラッチのように働き、成長という、から廻りしていた
細胞のエンジンに、ギヤがはいったようであった…」
成長をうながす他の物質について、各種の実験が終わってから、研究は第二の段階へはいっ
た。百におよぶニンジンの外植体”(個体からその一部を分離し、体外で培養して得た個体)が、た
ったひとつの容器のなかで、培されたのである。これらの細胞はそれぞれ違った経過をたど
る。非常に大きくなるのもある。順次、分裂して、フィラメント状になるのもある。酵母菌のよ
うに芽を出すものもある。さらにあるものはーーそしてこれがこの話の要点だ細胞塊とな
り、根を出しはじめる。固体培地へ移してやると、緑の芽をかき出す。ふたたび土壌へ移して培
義してやると、普通の根と茎と花と種子のあるニンジンになった!
今から亡の年前に、オーストリアの生物学者G・ハーバーランドは、このような、栄養生殖
《結性生源)が、いっか実現することを夢みていた。その夢を、スチュワードは現実のものにした
のである。その後の実験から、ニンジンの初期の歴のひとつからとり出した細胞のほとんどどれ

164
でも、先に述べたように、無性的に個体にまで成長させることができることが実証された。
スチュワードが難関を突破して以来、べつの研究者たちはタバコについて同様な実験に成功し
た。これは,ニンジンの場合とはまた少し違った培養の操作手順を苦心して見出さねばならなか
った。それぞれの植物により、その培養条件は違っているもののようである。これと同じこと
が、まもなくほかのどんた植物でも成功すると考えられている。
ところで、
間習は、これと同じことが動物細胞についてもできるかどうかということである。
その答は、決して不可能なことではない、というものである。
もちろん、それは容易なものではない。
大体、実験室で細胞を培養することは、けっして新しい技術ではない。けれども、たった一個
の細胞をもとに、これを薄層の組織にまで成長させる方法が発見されたのは、つい十数年まえの
ことである。普通は、たった一個の細胞では、栄養培地中におかれても分裂できない。故ウィル
トン・アールが、ある方法を発見してこれに成功した。が、これらの培養細胞は、分裂増殖して
大きくはなっても、器官などの構造体を形成する気配をほとんど示さない。器官の形成は、多
分、隣りにある別の組織から出てくる化学物質によるものだと思われている。ある程度の見当は
ついており、現在、その点の究明に研究がすすめられつつある。正直いって、まだ、細胞培養と
察官の開には、橋がかけられていないというのが実状である。

だから、動物細胞を栄養培養してひとつの完全生物にまですることは、ニンジンやタバコの場
合のように、スムーズにはゆかない。けれども、生物学者はけっして不可能だとは考えていな
い。時間の問題だと思っている。すでに、スチュワードが突破口を開いたと確信している。現代
の最も鋭い科学者のひとり、故J・B・ホールデン教授は、クローン人のできる可能性をもっと
も真剣に考えていたひとりであった。彼の見解では、われわれはすでに植物においてやりとげて
しまっているのだから、培義細胞から有機的な組織体をつくる方法を、いつか必ず発見するだろ
ちし、これによって、人類発展の可能性を劇的に高めることになろう」と確信し、 つぎのよ
うな未来展望をしている。
彼によると、競技運動家とか舞踊家のクローンは若い人からとってもよいが、大部分のクロー
ンは少なくとも五〇歳以上の人からつくられるであろうという。クローン人は、社会的に高く評
価されるきわめてすぐれた業績を上げた人たちからつくられる。ただその場合、その成功が単な
る偶然にもとづいたものでないように注意されることはもちろんである。
また、彼はこうもいう。
『たとえ、その才能の評価に多少疑問はあっても、珍しい才能を持った人からつくったクローン
人も同じように有益であろう。たとえば暗にいつまでも適応できる人とか、痛みを感じな
い人、東洋の日の行者のように、内識のなかに起こっていることを見破り、それをコントロー
できる人はどー。

 

私は思うのだ。
いつの日か、クローン人製造の原型を募集して、盛大なコンテストなどのひらかれている風景
を。そこでは、われと思わん応募者遷がにかいい間に大いにもてはやされそうな妙技や、ちょう
ほうな能力などをご披露して、首尾よく選に入ると、自分の複製!生きた複製を長く後世にっ
たえるチャンスを持つことができるのだそうだ。コンテストといえば、現在、さかんに行なわれ
ている美人コンテストも、現在以上さかんにからかれるだろう。美人をながめていることはだれ
だって不愉快なことではないし、退に入った夫人は、どんどん複製されて、一万人でも10万人
でも、希望投票が多ければ、百万人だってどんどんつくれるのである。
想像してごらんなさい。世界中の女性の三分の一がマリリン・モンローで、三分の一がリズ・
テーラーで、あとの三分の一が、やはりこれまた代表的な美人のだれかになってしまうというこ
とだって不可能ではないのだ。もちろん、男性側も同じことが可能である。もっとも、男性の場
合は、ハンサムばかりが能ではないから、才能によって選抜分類されるかも知れないな。
それからまた、クローン人製造は、人類に貢献したひとを長く顕彰するための手段として採用
されるようになるかも知れない。なぜならば、クローン人というのは一種の「不死人」だから
が、フランスの生物学者ジャン・ロメタンが指摘しているように、ひとりの人間の何百何千とい
おきらくることは、ある意味で、その人に不死あたえることである。というのは,その子
かさらにターン化されて寝袋され、限りなくこれがつづけられるからである。銅像による表おなご
など、ナンセンス」というわけである。
遺伝学では、獲得形質は遺伝しないというのが定説である。後天的に得た才能、能力は遺伝し
ないという。私はこれに疑問を持っているが、まあ、それはいい。クローン人製造により、すぐ
れた才能、珍しい能力、上き容姿、など、それを持つ人それ自身が、そのままコピーされてふ
えでゆくのだから、獲得形質がつたえられようとつたえられまいと、そんなことはどうでもえ
え、結構なことじゃ、はやくそうならんかい。世界中の女子はんがみんな美人になって、どんな
神明でも選り取りちゅうのは結構じゃ、とあなたは手ばなしで喜ぶのか? まあ、ちょっと待ち
なさい。その間にあなたにおたずねしたいことがある。あなたは何か能がおありかな? なに、
無い?? ソバを10杯ひといきに食う? だめじゃ。そんなものは芸にもならん。それで
はあなたはハンサムかな?なに、十人なみ? ふうむ、貴公、気の毒 じ ゃ が消される運命じ
。ーまり、クローン人製造技術が完成するとそれを、ティラーは紀元二〇〇〇年少し
以降に可能になるのだというのだが、世の中は、すぐれた能力、なにかきわ立った才能、よき資
を持ったクローン人ばかりになってしまうのである。皮肉ではないか。クローン人出現をもっ
ともみ、かつそれによってもっとも利益や恩恵をこうむる普通一般の大衆たちは間もなく絶滅
してしまい、いるのはクローン人ばかりであるということになってしまうのだ。クローン人とし
くし、ぐず識のある人間のみクローン化するわけであり、そういうすぐれたクローン人
がどんどん加しぐいったら、なんの才能もない平凡な人たちは次第に淘汰され、社会の片すみ
167 科学におけるヒトのトーク※料が速くるるのお陰があるため、前身で なしまうので選などのみ、当落選。タク
18外の定後ろでとまるである。ある。設定方法を考を。なあと気がつかた流大勢の
ターン表を及類、統、分泌を気前出会いできるをうっすら。発部分を多めであ
「高でる姿がみえるかのページのあるのであるがる。うるるるるるが、象外
で、録音、私を育へ。ぬすためのクリーンルを
かきをしている。
必然魔が変海外でくる。あるのか。
及たら究気、変動要
それに。一線での活用の外るできるタなった。逆原始まで
「知る。意外なクーン城が決めたある。また、生演奏シーンです。
あるあ
をある。一変一に参家を建月後に市で家を新発売の演を果た。連すめ
の後、電界の遂定を後かくなのでなる。巻線路を進みタタタベータがある美メージ。影
絶をしたイラックダン学院事漢撃島の星空の中で、変です。要するの
後に残すめら広間にかすぎなを多め、後。ある。外奏す。3、後海道、撮影
を要録をするがためであった。
が、、。
あるもんかい
ないのです。

かも知れぬが、それではせっかくつくり出したクローン人の甲斐がなくなってしまう。クローン
人と普通人との交配により、いくらか人類のレベルは上がるかも知れないが、ほとんどたいした
ことはない。
それに、なによりも、危険なのは、利己的な人間がこれを利用することである。ティラーがい
うように、二、三人ものヒットラーやスターリンがいたら想像するだけでもごめんこうむりた
い、のである。
独裁者のいる侵略国家が、軍事目的にかなった科学者、軍人、兵士のクローン人を無制限につ
くって世界に攻撃を開始したらどうなるか? 一国の独裁者がそう決定してその計画をおし進め
たら、他の国においても、これに対抗するためには、同じ方法をとるよりほかないのである。で
なければ絶滅だ。
さいわいにして、クローン人製造技術が、平和的な方向にだけ使われたとして、それでも困難
な事態の起きる可能性がひとつある。動物を、クローン人製造のような方法で大規模につくり出
してゆくと、正常な進化の過程に大きな障害が起きるのである。
動物や植物の育種家たちは、よりよい血統をつくるのには、有性生殖と栄養生殖とを組み合わ
せることが必要であることをよく知っている。二つのちがった血統の生物をかけ合わせると、科
学的な根拠はいくぶんアイマイだが、雑種強勢(雑種は一般に純系や自殖系統よりも生育が盛んで、病
きなどにも続いことをいうが起きるといわれている。人間が無性的に栄養生殖でつくられると

すると、環境に順応しない人間が淘汰されずにすむことになり、たいへんなことになってしま
う。進化過程が止まってしまって、予想もできない重大な結果をひきおこすことになる。さきに
引用したレーダーバーグの溜め息まじりの警告は、そこをいっているのである。もちろん、やが
では、優秀なクローン人たちが、そのトラブルの解決法を考え出すかも知れない。 だが、それ
は、どこまでも、かも知れないの範囲にとどまる。われわれは、かも知れないことに、全世界の
人の運命と未来をかけることはできない。この技術の開発は、用い方さえあやまらなければ、
たしかに、人間の進化と利便に益することも多大であろう。しかし、その反面、あまりにも多く
の映にみちている。それに、それは、技術以外の分野で解決しなければならぬ問題をあまりに
くかかえており、現在の人類の知識の段階では、前進よりも抑制のほうに票を投じるべきだ
とは思うのだが、陪審員であるあなたの採決はどんなものであろうか?

169-学におけるヒトの改造

 

166〜科学におけるヒトの改造

 

163,科学におけるヒトの改造

 

一学におけるヒトの改造

未来の未来

114
ここで、「未来の未来」を書いたジョン・マックヘールの言葉を聞こう。
『多くの解説者は、都市の過密化、および無制限な技術の複雑さへの成長という社会的な病理
が、現在の精神病、離婚、家族の分裂の上昇曲線で示されているという。殺人、強盗、婦女暴
行,青少年の非行、および一般犯罪の増加は、公衆道徳の低下、暴力、さらに、マス・メディア
にはんちんするエロに相応している。
地球でもっとも物質的に繁栄している国は、連続的な要人の暗殺にとりつかれ、その主要都市
では、放火、略奪、暴動の波に悩まされている。同時に、この国は、世界の向こう側の敵を、人
間が考えだした人間破壊のもっとも高性能の手段で撃破するために、何十億ものドルを費してい
る。
そして、成人世界における暴力、汚職、社会的堕落によって、若ものたちは、社会の基本的規
総や公認された目標からますます離れていっている。ストレス症候群、は、このような集団や
個人の分裂という状退にまで達しているようである』
たしかに、彼は、現代社会の病的な症状を適確にえぐり出している。
しかし、私は、その原因を、彼のいうような「都市の過密化、および無制限な技術の複雑さヘ
の成長という社会的な理による」ものとは思わない。また、単なるストレス症候群』による
の考えない。もちろん、私だって、あの有名な「病理的な群集心理」と名づけられたジョン・ル・カルフーンのハッカネズミとネズミの実験結果を知らないことはない。けれども、私
は、そういうものももちろん要因のひとつにかぞえられないこともないであろうが、そのもっと
も主たる原因は、ルネ・デュボスがいうように、「科学知識は過去において人間がよって立ってい
た伝統的価値を弱め、崩壊させてしまったのにもかかわらず、その代わりとなる新しい倫理体系
を提供せず、人間に生きる糧をあたえたが、生きる目的をあたえなかった」ところにあるのだ、
と確信する。そこから、人と人との連帯感が急速に失われ、不信と疎外がはじまり、そして断絶
がくるという現象が生ずるのだ。
倫理体系を失って、生きる意義や目的をはっきり示すことができなくなった社会は、当然、混
乱し、社会の混乱には個人の混乱が結びつく。
努力がはっきり結果に結びつかないような世界――あるいは、結果は単に偶然なものでしかな
いといった世界――いうならば、生きる目的と意義を見出すことのできない世界では、人間は、
努力する情熱を失ってしまう。実験でいろいろな混乱した合図をあたえられたネズミのように、
人びとは神経症にかかり、ついにはひどい不活発状態におちいるようになる。
こんにち、社会にはすでにこのような個人的ニヒリズムの兆候がいちじるしく見られる。それ
は突、物質主義、少ない利益でもよいから早く手に入れることを好む風潮などにあらわれ
ている。それはおそらく多くの若い世代——いわゆるビート族、ヒッピー族、フラワー族、ドラ
リップ、そのの社会基準への抗議とそれからの離反の背景をなすものであろう。これこそが「断絶の時代」と呼ばれているものである。
すでに数年前、私は「断絶の時代」のつぎにくるのは「憎悪の時代」であるといった。(大白身
第五号)個悪のつぎになにが来るか?来るのは「人間崩壊」であろう。無感動状態にはじまる
人間の前壊だ。そしてすでにそれがはじまっているのを、われわれは、世界の若ものたちの上に
まざまざと見ることができる。
私は思う。
これは要するに、機械系の発する巨大なエネルギーが、人間系のエネルギーを、ようしゃなく
おしつぶしてゆく必然の姿なのだ、と。つまり、あたらしいかたちの自然陶汰がはじまっている
のだ。かくしてホモ・サピエンスは崩壊し消滅する。かつてこの地上にさかえ、そしてどこかに
消えていったピテカントロプスやネアンデルタール人たちのように――。そのあとにどのような
ヒトが出現するのか?あるいはもはやヒト属は絶えてしまうのか。あなたはどう思うか?

*
115一施るべき

三供養品 如来のもとで功徳

如来の真義
お釈迦さまは、如来のかとで功徳を種えるならば無限の出世間福が生じる、とおっしゃってい
るわけです。なぜ、お釈迦さまは、まるで念を押されるかのように、「如来の所に於て」とおっ
しゃっているのでしょうか? 不思議に思いませんか?
わたくしはこの部分を読んだ時、これには深い意味が込められている、と直感しました。たし
かに功徳を種えることは大切です。仏教系の宗旨・教団であるならば、功徳を積めと必ず教えま
す。それは結構なことであり、お釈迦さまの教えにかなっています。どの仏教教団でも、
「功徳を積みなさい」
といいます。けれども、そのような教団で長年信仰をしている人が、
「自分でいうのもなんですが、私はずいぶんと一生懸命に積徳の行をやっていると思います。で
すが、どうもさっぱりよくありません。問題が解決しません」
というと、その教団は決まって、
「功徳の積み方が足りない。信心が足りない」
と言えます。それからしばらくして、
「あれからまたがんばりましたが、まだうまくいきません」
も分かりません。
UN
いうよりイア

「あれからまたがんばりましたが、また。
というと、
「りん」
といわれます。これでは、どれだけやればいいのか分かりません。そのような経験をした人も
いると思いますが、『三供養品』を読むと、いくら功徳を積んでも果報が得られなかった理由が
分かります。どの教団の功徳を積めと口を酸っぱくして教えますが、いずれも積徳の行を行う上
で最も大切なことを見落としているのです。あるいは知っているのに、わざといわないでいると
しか考えられません。
『三供養品』にあるように、お釈迦さまは如来のもとで功徳を種えよとおっしゃっているのです。
これは如来のもとでなければ、どれほど大きな功徳を種えても意味がないからなのです。如来の
もとだからこそ、種えた功徳が涅槃界に入るための福になるのです。ところが阿含宗以外のほと
んどの仏教教団には、如来がいらっしゃいませんから、如来のもとで功徳を種えることができま
せん。それで福が得られないのです。
そういうと、伝統仏教のご住職などが、
「そんなことはないでしょう。私どもの寺では、国宝級の如来さまが祀られております。非常に
ありがたい仏さまです。ですからここで功徳を積めば、まさに成仏するだけの福がいただけるの
です」
といわれるでしょう。そういって反論する人が出てくることを見越して、「如来の所に於て功
を種う」とお釈迦さまは念を押されている、とわたくしは考えます。そうでなければ、わざわ
ざお釈迦さまが、「如来の所に於て」と但し書きのようなことをおっしゃるはずがありません。
なぜならば仏教においては、仏教徒が如来のもとで功徳を積むのは、当然すぎるくらい当然のこ
とだからです。本来ならばいう必要がありません。それもお経を見るかぎり、座長は十大弟子ので、全補強」と称される現象です。制を強張る
まるに旅、大きるのでボ。この漫め、多分。外外す
ま第で、いをかんたるーの強るるをる。あた
みる
を感選んで、後気を通するも嫌で。始める森
週末と
なる。バー
「発表を通ら
れるタイア。 なるの薄なので、
さを手の角度から委残したまえです。効森。その主要る。でも、はあ、中道深型。。
が、通常業。発行定。選。世間。解明す。が。。。
録。後継があります。したがっく焼茶を味する。他要とする。家を察を
「を強のためるのがあります。
「奏者のに姿をを得ることは、外多い。韓流とする演な、、好意を。

 

ならないのかが論じられているわり
あと考ののきにおもされているのは、如来で
は如来ではないのですから、そこで功徳を積んでもしかたがありません。
ひとくちに仏さまといっても、人工の仏と自然の仏があります。自然の仏が本当の仏であり、
生ける仏なのです。自然のままの本当の仏さま、これを「自然法爾の仏」とお呼びします。対し
て人工の仏とは、人間が創作した仏像や仏画です。人工の仏は、本当の仏ではありません。
「如来の所に於て」とは、本当の生ける如来のもとでという意味です。この如来はお釈迦さまの
ように、修行によって実際に成仏された、歴史上実在の仏さまでなければなりません。一般のお
寺の本堂に、どれだけ多くの如来がお祀りしてあろうとも、それらはすべて如来像であって、如
米ではありません。像という字を辞書で引いてごらんなさい。たいていの辞書は、
「神仏・人・鳥獣などの形を模して描き、また造ったもの」
となっています。つまり、仏像とは仏さまの模型であって、仏さまそのものではないのです。
真正仏舎利こそ生ける如来
『それでは、生きた如来さまはどこにいらっしゃるのですか? お釈迦さまはもうずっと以前に
どこなれたのだから、生きた如来さまなんて、もうどこにもいらっしゃらないのではありませ13はいらっしゃい」。それが、釈迦の本体、生いると呼ばれている
り高いです。これが「自然の仏』で1,なる外来像は、仏でもないれば外来でもあり
ーリ仏和が火のです。この「真実の外来のもとでりか‼!と
103やっていられるので1,実の外来・真正仏材こそが、いに説かれ
ているリンダーなのです。
とりーが勝手にいっているのではあり!しんでい出来!、お
釈ーの例
emwaversilv1の小体としております。このことは『ず概仏の高い
ですでに焼いてすり11 同時 111-10頁。
部ri、リドルの川、身を「化決事の釈洲」といって、駅のシャカの本
体、いるのでいる。遺骨、御が、生きているシャカの本体なのである。
仏、本質を
極小化し、築化して表現する点で、常段はもっともーぐれている。
の戦では、シャカに重いることを説いている。これを「三重の釈加」という。
w、頭のシャカは、脂用マンダの中に集院にまつられている脚の一つで、「東電
というでまられている。
は、たのを、天設(雷)のような法音をもって衆生にさとらせる仏、と
いうのいた法、仏として表現したのである。目駅の仏とも

 

される。本線としてえがかれているのが、始恭介、姉菜密など、生身のシャカの御述、御
最身である。
第三重のシャカは、ボードガヤの菩提樹の下でさとりをひらかれ、仏陀になられたシャカ。
これは生身のシャカである。
つまり、
第一重……シャカの教法
第二重……生身のシャカの本体
「御遺骨
【御遺身
第三重生身のシャカ
とこうなるのである。
第三重の生身のシャカはすでにおなくなりになって、仏界におかえりになってしまってい
る。そこで、第二重の、生身のシャカの本体である御遺骨・御遺身をもって、生身の釈迦如
来とするのである。
「ぶっ
しまち
もっとも、密教が、御遺骨 (仏舎利という)をもって生身のシャカの本体として、釈迦院
にまつったのは、べつに、密教の独断でもなければ、独創でもないのである。
仏教の発祥 地インドにおいて、それは仏教の本流だったのである。
シャカのおなくなりになったあと、インドの仏教徒は、シャカの舎利をストゥーパ(塔)
におまつりし、ジャカそのものとして礼拝供養した。ところが、奇蹟的な霊験功徳があいつ
いだので、急速に全土にひろがり、ついに仏教信仰の本流となったのである。
これは、考えてみれば当然のことで、シャカなきあと、仏教を信仰するとしたら、シャカ
くどく
二七

 

ピンガラ・イダーの呼吸法

ともあれ、古代ヨーガと密教と、この二つのものはひとつにならねばならぬ。本来、それはひとつのものだったのだ。原点に立ちもどってひとつになることにより、それは、偉大な力を発揮する。

まー、その口火を私が切った。私を乗りこえてゆく人びとに、私は大きな期待をかける。

 

ながよ古代神道息吹き長世》はインドにあった――ピンガラ・イダーの呼吸法

 

この橋は、古代ヨーガと密教の秘密のかけ橋であった、と私は前の文章で書いたが、さらに、わがくにの古代神道にまでその道が通じていたとは、さすがの私にもまったく思いがけぬことで
わった。

 

古代神道に、「息吹き長世の法」(または伊吹き長代ともしるす)と称せられる秘法があった。

一種の呼吸法であるが、『神人一”の秘術として、代々、皇室につたえられていた。一部民間にも伝承されたが、いつの時代からか、消滅してしまったのだ。戦乱の時代、皇室衰微のときに絶えたのであろう。

 

名のみって、実体の法は無く、ゆえに幻の秘法とされてきた。こういうこと
は、よくあることで、たとえはらがうが、足利時代にさかんであった「眠薬の舞」などがそうでるのはのこり、絵図などもあるが、一本足の竹馬に乗って舞う技術が、いったいどのようちのわから、いまはただその竹馬に片足をかけて露うだけであるという。

 

き長のも、それで、私も以前、修行中に、これが最大き長世の法であるといなってしまうのではないかと思われ、

大の男が思わず悲鳴をあげてしまう。
このときは気がつかなかった。のちになって、このときの呼吸のしかたが異常だったことに気がつき、何度もそれをくりかえしてみた。最初はできなかったが、定に入り、腫部と胸部のチャ
クラはい、次にこの特殊な呼眠法ができるようになった。寒熱目在の息を吐く呼吸法のコツが体得できた。

はなしに聞く息吹き長世の呼既法がこれであると合点された。

息吹き長の原点は、古代ヨーギーが、なかにやったのである。この呼吸の技術は、古代ヨーガ独悪いもいる。

吹きには、法は、この技術によるものであることは疑いない。
いきいで”ジャージ、、、、

なかで、シュームナー管に次いで重要なものは「イダーとピンで、これは、サンドリニーから出て、シュームナー管と並行して上する。道中、新城、チャイチャ・ラーに支線を通じつつ、さらに本線はし、でっ、、にわかれ、ひとつにいき通って左右の鼻孔に通じ、ひとつは甲状腺はーとらば、月いとされ、白色でつめたいものとされ、右の気道をビンのよ、これは日いでくいものとされる。ヨーガは、「クンバカ」という呼やすさはくにこのまきすることがなかったのにもかかわらず、クンター、とに、このオーディ通し、熱人の等吸法を自然に体得してしまっ
もしもビンビン、ミーの評まで自在の吐くことができるとい

うことをいう指導者はいないが、このカーディが完全に開されれば、必然的にどうなのかる。私は自分の体験でそれを知った。
この古代ヨーガの技術がどのようにしてわが国の古代神道にとり入れられたものか、私に小判然としない。おそらくは、神代とよばれる古い時代に、古代ヨーガぎはした超人が、人から
渡来してこれをつたえたものであろう。あるいは、それが、この国で神とよばれるこの国の始祖になったのかも知れない。

たしかに、この特構な呼吸法は、肺と心臓の機能をいちじるしく強化して、全身の血流を浄化し、体力にたかめると同時に精神ぎふかく無静させ、頭脳を新鮮な思営力でみたしてくれる。

また、それはいのおくふかふかおかしいンさかきたててくれるようである。それは古代の神への回帰でかろうか。ふかい定に入ると、たくましい古代の神々が、果てしなく深い評!
におぶって、厚い胸をそらし、声をかぎりに神叫びにおらぶ、はたかな声がわが胸に躍動して

くる思いだ。この地の池に充実を持ちつづけるならば、人はたしかに三〇〇歳を生きつづはるごとも無事ではない。私はいま、この呼既法き、だれでも容易に体得できるよう、あたらし
いま渋べきだ世の道元はかりっ、ある。古神道の行法にのっとり、ヨーガのチャクり入れたビンタ、ざーの開発法はすでにほとんど完成している。ただ、この法は、ごミリメートが、濃いとし、もし間違えるとよくない影響もあると考えられるので、
ベンド、就で、たえることは不可能です。実地の指導なくしては体得し得ない。

 

 

P

 

怪心とは自利だけの心

OBIO
お釈迦さまは、
「それくらい肝心な一法を、おまえたちはやっていない」
とご指導してくださっているのです。お釈迦さまは昔の弟子たちをっているのではありませ
ん。わたくしたちを叱ってくださっているのです。おそらくこのお経が説かれた時も、お釈迦さ
まはかなり強い口調で、弟子たちをお叱りになられたのでしょう。
次に、
「若し人有って広く布施を行ぜば、現世の中に於て、色を得、力を得、衆得具足し、天上、人中
の食福無量なり」
とあります。「色」とは物質のことです。それから「衆徳具足し、天上、人中の食福無量なり」
とありますが、これはもろもろの徳が備わり、無量の福を受けるという意味です。広く布施を施
すならば、そのような福徳が生じるのです。
怪心とは自利だけの心
文書比氏、当に神秘を行し、心有ること勿るべし。是の如く諸比丘、当に是の学を作すべし」
かわいかな
つっけん
とあります。
怪心とは、「もの惜しみ」する心です。いわゆる怪食とほぼ同じ意味です。怪は「もの惜しみ」
することで、真は「むさぼり」のことです。だいたい精神的な「もの惜しみ」のことを怪といい、
物質的な「むさぼり」のことを含といいます。精神的にも物質的にも「むさぼる」ことが怪質で
す。よく「突怪負」などというでしょう。
「あの人は突怪貪だ!」
といいます。突というのは、語気を強めることです。怪含の心が外に突き出て、語気荒く人に
接することが突怪食です。
お釈迦さまは、怪食の心を捨てて広く布施をせよ、とおっしゃっています。お釈迦さまは弟子
たちに、
「おまえたちは自分のことばかり考えているではないか。怪真の心があるぞ。その心を捨てて、
広く布施を行いなさい。それがないと、いくら修行をしても成仏できない。因縁解脱できない
「水
とおっしゃったわけです。
宗教というもの、ことに仏法というものは、利他心がなければ、どれほどの修行をしても、ど
れほどの法を行じても意味がありません。利他の心が絶対に必要です。人間には、利他心と自利
(我利) 心の二つがあります。利他心とは他を利益するという気持ちで、自利心とは自分を利益
するという心です。人にはこの二つの心があります。どれほどの修行をしても利他心がなかった
ならば、それは仏法にはなりません。宗教にはならないのです。
一阿含経・五品・有職品

 

わたくしは若いころに京都のおたのです。中の流行をしていましたが、そこで、自
なにりった行番に出会ったことがあります。四十、三原の発性した。自分でいうの
もなんですが、五社の強さのわたくしの荒行というのは、それはすさまじいものでした。しかし、
その行者は、わたくしっとするような。すごい流行していたのです。
一、二月ごろの五経の後の後は、強だってくる間に冷えに冷えきっています。流れて
いるから凍らないだけです。水ならばとうの音に凝っているでしょう、音水を受けると、おろし
金で駅を明られるような気がしました。わたくしはその後十一月から四月ごろまで修行をして
いました。さらに話を無さの強い大の時には、一週層、食を通っておくけました。新し
て寒中の席に入るなどというのは危険高まりないので、楽なら絶対にやってはいけないこと
ですけれども、わたくしはそれをやり通しました。
「四線を解放しようと思ったならば、人並みの修行では意味がないだろう。この行をやり通せ
ば、なにかがつかめるかもしれない」
そう考えて、思い切ってやったわけです。
それはつらいです。演度で流に入って無いのですから、断食していたならばなおさらです。
ただでさえなにも食べないわけですから。落に入る前から体はガタガタと震えます。それが二日、
三日、2日と続いて五日目を過ぎると、生きているのれど死んでいるのか、自分自身でも
分からないような状態になってます。
「の多い人なら死んだろうな。自分も
発売しない。しかし、これででたようならば、いしたことはできないだろう。生きるか死ぬかやってみようじゃな
いか!」
そのように考えていましたから、たいていの行者には荒行の度合いで負けたことがなかったの
以前は五社の滝とか鞍馬の奥山の滝などには、いろいろな行者が集まって来たものです。今で
はそのような行者もずいぶんと少なくなりました。わたくしが荒行をしていた当時が、行者場が
脱わった最後のころではないでしょうか。
お滝場では前の人が滝に入っている時は、その人が終わるまで焚き火にあたったりしながら、
おおはら3の
じいっと見て待っているわけです。神道の行者は、大校や祝詞などを唱えながらお滝を受けます
し、仏教系の行者は『般若心経』やご真言、それから『法華経』の「方便品」や『観音経』など
をお唱えします。なにをお唱えするかで、お滝に入っている時間がだいたい分かるわけです。
「ああ、あの人は「般若心経』一巻だから、一分三十秒やったな。たいしたものだな。こっちの
人は十秒で出てきてしまった。これじゃあ、しょうがないなあ」
などと考えながら見ておりました。
そのすごい荒行をする行者は、あまり背が高くなく、中肉で精悍な顔つきでした。ちょっと品
の悪い顔でしたが、すごくがっちりとしていました。この人は、五、六分はお滝を受けていたわ
けです。一月末から二月にかけての大寒のころ、五社の滝で五分間もお滝に入っているというの
は大変なことです。三分入っていたならば、非常に立派な修行者といってよいでしょう。さらに、
朗々と真言やお経が唱えられたならば、これは一流の修行者です。
おおよその人は、滝に入った瞬間に声が出なくなります。

09-

仏が感応する利他心

仏が感応する利他心
阿含宗には護摩木勧進というものがありますが、これも同じです。
『護摩木を一本百円で売って、そのお金でお護摩を焚いて、いくらか儲けが残るだろう。その残
った分が教団の利益だ」
というようなバカなことを考えていては、お釈迦さまの弟子として仏法は説けません。たとえ
赤字になろうとも護摩木を勧進し、それをお焚き上げするのは托鉢の修行だからです。護摩木勧
進は護摩木托鉢なのです。多くの人から護摩木を勧進し、お釈迦さまの真の仏法がこの世の中に
あることを教えるためのものです。そのような心によって勧進して集めた護摩木を、お釈迦さま
の成仏法に基づいてお焚き上げするからこそ、お釈迦さまは感応してわたくしたちを救ってくだ
さるのです。
また護摩木勧進は、
「この尊いお護摩にお参りしなさい。来られなかったならば、星まつりの日に家で手を合わせて
拝みなさい。必ず功徳が得られるのです」
と教えるためのものでもあります。
利他心がなかったならば、仏法の修行というものは成り立ちません。
ですから、わたくしは、
「林のがり下がりをピタッと当ててお金を儲けて、それで人を救うのだ」
という経の行者の言葉を聞いて、あきれ返ってしまっ二つ
だのは、普の人が詠んだ。

 

という件の行者の言葉を聞いて、あきれ返ってしまったのです。そして、その時に頭に浮かん
だのは、昔の人が詠んだ有名な一首の道歌でした。
「富士の山ほどお金を積んで利息で慈善をしてみたい」
富士の山ほどお金を積んで(貯めて)も、その積んだ元金は出したくない。しかし、お金を積
んでおけば利息が出るから、その利息を慈善に回して、それで人助けをするという意味の歌です。
けれども、そんなものは人助けではありません。そういう人間にかぎって利息まで元金に乗せて、
さらにもっと儲けてから慈善をしましょう、ということになるのです。おそらくはさらに欲をか
いて、結局は慈善などしません。損などしたくないという気持ちでやるのならば、そんなものは
慈善でもなければ、利他の行でもないのです。
貧しくてその日の食べ物もない中から、たとえ一粒の米でも仏法のために供養をする。あるい
は、困っている人に差し上げる。その供養の心が自分自身を救う徳につながるのです。 自利を離
れた利他の行が、他人だけではなく自分をも救うわけです。利他行をやらなかったならば、餓鬼
界からは永久に解脱できません。
「食なき者に食をとう」ということは、考えようによれば首吊りの足を引っ張るようなものです。
しかし、布施をさせなければ、彼らは永久に餓鬼界から脱却することはできません。苦しい中か
ら布施をしてこそ、い業から逃れることができるのです。それを勧めるのが、それを教えるの
が仏道を歩む者の使命です。つまり、わたくしたちの役目なのです。
利他心がなければ、どれほど苦しい行をやったとしても、仏さまは感応してくださいません。
人間だって感心しないでしょう。わたくしも最初は、その行者の荒行に感心しました。けれども
食器・洋品
●五五

彼の順を聞いた途端に渡気が差しました。
人間が感心しないのに、仏さまが感心しますか?
おそらく感心するはずがありません。そのような心構えでは、彼が命落とすほどの滝行かし
ても、彼の順は仏さまに届かないでしょう。利他いがない人間がどれほど荒い行きしようと、ど
れはど戦しい性行をしようと、それは仏法ではないのですから。
しかし、彼にそういうことといってもしかたがないから、わたしは、
「はあ、そうですか」
といって引き下がったのです。
お求さまが『五戒品・四』において、
『広く施すという修行がおまえたちには欠けているぞ、広始の行をおまえたちはやっていないで
はないか」
とじっにしくおっしゃっているのは、わたくしたちのためなのです。この言葉はいたくした。
ちに対する、お釈迦さまのお叱りの言葉であると思わなければいけません。
もいいますが、わたくしたちがおとな時は、このお経は自分のために、自分一人のた
心に、さまがしてくださっているのだ、という気持ちでまなければいけません。そ
のような心をしいてんでいくことによって、おさまのおっしゃる言葉
自分一人のために、さまはこの法をかれたのだ」
そのよう持ちでんでいくと、おさまが好きになっている言葉、ひしひしとこち
「開き」では「五」の次の「有線品」で、その具体的な内容を示しております。
「領の市編

 

 

 

五戒 品・四》および「増一阿含経・有無品第十五・三、

Ons
同線五島・有品
正しいお経の読み方
いちみかんよう*1 はいぱん
布施に関する重要なことが説かれたお経、『輔、含経 五品第十四・四』(以下『五戒
品・四》および「増一阿含経・有無品第十五・三、五』(以下『有無品・に『有無品・五)の講義
を行います。これらの二つの品にまたがった三つのお経は、いずれも非常に短いお経であり、ま
た一見すると、まことに分かりきったことが説かれているように思われるかもしれません。しか
し、その意味するところは非常に重大ですから、しっかりと勉強してください。
まず、『五戒品・四』から読んでいきましょう。
こしちゅう。
せんずく
いつは
しらべよう
ないおん
にんちゅう
(四)聞如是。一時仏在舎衛国祇樹 – 聞くこと是の畑し。一時、個、合衛国祇徴給孤独戯に在
給孤独園。爾時世尊告諸比丘。於此 しき。雨の時世尊、諸比丘に告げたまわく、「此の衆中
に於て我一法を見ず。修行し已り、多く修行し已れば、
果中我不見一法修行已多修行已。受
人中の福を受け、天上の福を受けて泥道の証りを得ん。
人中福受天上福得泥泣証。所謂広施
所謂広地なり」。仏、諸比丘に告げたまわく、「若し人有
息。仏告比丘。若有人広行布施。
って広く市施を行ぜば、現世の中に於て、色を得、力を
現世中得也得力榮得具足。天上人


黒き異定し、天上、ん中の信量をす。是の故に
TAT
勿有怪む。如是諸比丘当作是学。爾
如く影北三、Mに是の学をすべし」と。の時諸比丘、

 

於現世中得色得力架得具足。天上人
中食袖無量。是故諸比丘。当行布施
得、來得具足
諸比丘、当に布施を行し、心有ることかるべし。是の
勿有心。如是諸比丘当作是学。爾
時諸比丘開仏所説。低宮奉行
如く諸比丘、雪に是の学を保すべし」と。講の時諸比丘,
仏の所説を開さて秋わ行しね。
「現代暗快
このように聞きました。仏さまがコーサラ国の祇園精舎にご滞在の時のことです。ある日、世
尊は比丘たちにお告げになられました。
「ここにはたくさんの修行者たちが集まっているものの、その修行者たちのいずれもが、一つの
法を修行していません。
その一つの)法を多く修行するならば、人間界の福を受け、天上界の福を受けて、ニルヴァ
ーナ(涅槃)の悟りを得ることができるのです。その(一つの)法とは、いわゆる広施です」
仏さまは、さらにお告げになられました。
「もしか、広く布施の行を実践する修行者がいるならば、その者は現世の中において物質的な徳
を得て、また力を得て、さらにはその他もろもろの徳を身に備えて、天上界と人間界の福を無量
に享受します。したがって、比丘たちよ、おまえたちはこの布施行を行って、もの惜しみや貪り
の心を捨てなさい。比丘たちよ、この布施行を必ず行わなければなりません」
この説法を拝聴した比丘たちは大いに喜び、修行を実践しました。

この「五戒品・四は、お釈迦さまがコーサラ(舎衛)国の祇園精舎にご滞在されていた時の
お話です。
熊園精舎はまことに広い修行場で、物の本には敷地は三万坪ぐらいあったと書かれています。
ですから、そこにはたくさんの修行者が集まっていたわけです。お釈迦さまはその大勢の修行者
を買めて、
「此の栄中に於て我一法を見ず」
とおっしゃいました。読み下し文ではピンとこないかもしれませんが、これはお釈迦さまのお
此りの言葉です。
お釈迦さまは、
「これだけたくさんの修行者がいて、それぞれに修行しているようだが、どの修行者にも一つだ
けべけている修行があるぞ」
と蜂されたわけです。一法とは、一つの修行法です。成仏するための修行法、これをここで
は法と呼んでおられます。
この番楽は。
お釈迦
「どの行者にも欠けている修行法が一つあるぞ」
どっしゃっているわけですが、ここで注意しなければならないのは,

 

は常に、
「お釈迦さまが、今、自分に説法してくださっているのだ」
という気持ちで読まなければなりません。ただ単に、字面を追って、
「お釈迦さまが祇園精舎にいて、比丘たちに、『此の衆中に於て我一法を見ず』とおっしゃった
のか。ヘー、そうか..…」
という読み方ではいけません。「此の衆中」とはお釈迦さまの弟子を指すわけですから、当時
の仏弟子はもちろんのこと、現代においてお釈迦さまの教法を学んでいるわたくしや諸君も含ま
れているのです。いや、含まれているどころではなく、お釈迦さまはわたくしたちを叱ってくだ
さっているのだ、と考えなければなりません。
「これだけたくさんの修行者がいるけれども、一つ足りない修行があるではないか。修行法の中
で一つ欠けているものがあるぞ。大切な修行を忘れている。この修行を行うならば、人間界の福
を受け、天上界の福を受け、ニルヴァーナの悟りを得られるのだ。それなのになぜこれを修行し
ないのか!そんなことでどうするのか!」
しく指導してくださっているわけです。今まさに、お釈迦さまから直接のご指導を賜って
いる、と考えながら読むのが、本当に正しいお経の読み方です。
人中とは人間界のことで、天上は天上界のことです。お釈迦さまは、お釈迦さまがおっしゃ
行法実践するならば、人間界と天上界の福を受けて、ニルヴァーナの悟りを得ることがで
きる、とおっしゃっているのです。泥道とはサンスクリット語(発信))
会でミニッパー)を漢字に写したら、

それでは、足りない修行とはなんでしょうか?
法とは広施のこと
お釈迦さまは、広施が足りないとおっしゃっています。広施という法が欠けているぞと、お叱
りになっておられるのです。
いずれの弟子もお釈迦さまのみもとで修行しているのですから、みんな一生懸命にやっている
のは間違いありません。戒を保ち、教学を学び、瞑想・禅定の修行をしているのだと思います。
しかし、いろいろな修行を一生懸命に実践してはいるのだけれども、肝心な一法が欠けていたわ
けです。
その肝心要の一法こそが、広施の行です。
わたくしたちも阿含宗の修行者として、最低でも毎日の勤行だけはしているはずです。けれど
も、一つやっていない修行があるのではないでしょうか?
それが広施です。
「おまえたちは広魔の行が欠けているではないか!」
、お選さはわたくしたちに向かって、北隆されているのです。
のおっしゃる一実演するなら。
界と天上
うまくい界の福を受けて、ニルヴァーナの悟りを得ることができる、と説明しました。人間界の福とは、
人間としてこの世界で受ける福のことです。それから天上界の福とは天上界に生まれること及び、
そこで受ける福のことですが、これにも深い意味があります。
すでに講義をしたように、一生懸命にお釈迦さまの成仏法を修行すると、まず須陀疸という聖
あなた
者になり、次に斯陀含、阿那含と進んで、最終的には阿羅漢(仏陀)となってニルヴァーナに入
ります(上巻・出家経一五一一一九七頁参照)。仏道修行者はこのように聖者の階梯を一歩ずつ
上がって行くわけです。
しだおん
しだん
あらかんようだ。
覚えているでしょう? これさえも覚えていなければ、「一法を見ず」どころか、「二法も三法
も見ず」ということになります。習ったことはしっかり復習して、よく理解しておくことが肝心
です。
須陀互になると、人間界での寿命が尽きたのちに、天上界という高度の霊界に生じます。天(天
上)とは神の境地です。天という一神通を持った存在になるわけです。須陀道は天での寿命が尽
きたのちに、また人間界に生まれてきます。結局、須陀逗は人間界と天上界を七度往来します。
したがって「天上の福を受ける」というのは、必ず須陀湿になるということです。必ず須陀
になって、人間としての寿命が尽きたのちに天上界に生じ、そこで天としての福を受け、それか
らまた人間界に生まれることを七たび繰り返すわけです。
須陀温は天上界へ行っては天の福を受けて、人間界に戻っては人間の福を受けます。そして斯
定合、阿那含と進んで阿羅漢となり、泥道= ニルヴァーナ=涅槃に必ず到達します。わずか三十
※文字の中に、これほど深い意味が含まれています。
一食品・有品

 

OEO
お釈迦さまは、
『それくらい肝心な一法を、おまえたちはやっていない」
とご指導してくださっているのです。お釈迦さまは昔の弟子たちを叱っているのではありませ
ん。わたくしたちを叱ってくださっているのです。おそらくこのお経が説かれた時も、お釈迦さ
まはかなり強い口調で、弟子たちをお叱りになられたのでしょう。
『若し人有って広く布施を行ぜば、現世の中に於て、色を得、力を得、衆得具足し、天上、人中
の食福無量なり」
とあります。「色」とは物質のことです。それから「衆徳具足し、天上、人中の食福無量なり」
とありますが、これはもろもろの徳が備わり、無量の福を受けるという意味です。広く布施を施
ならば、そのような福徳が生じるのです。
心とは目利だけの心
「ま、まるし、心得ることるべし。その着地点
当に是のを作いどん
とあります。
怪心とは、「もの惜しみ」する心です。いわゆる性質とほぼ同じ意味です。怪は「もの惜しみ」
することで、真は「むさぼり」のことです。だいたい精神的な「もの惜しみ」のことを怪といい、
物質的な「むさぼり」のことを真といいます。精神的にも物質的にも「むさぼる」ことが怪真で
す。よく「突氏」などというでしょう。
「あの人は突怪貢だ!」
「どん
といいます。突というのは、語気を強めることです。怪の心が外に突き出て、語気荒く人に
接することが突怪真です。
お釈迦さまは、怪真の心を捨てて広く布施をせよ、とおっしゃっています。お釈迦さまは弟子
たちに、
「おまえたちは自分のことばかり考えているではないか。怪真の心があるぞ。その心を捨てて、
広く布施を行いなさい。それがないと、いくら修行をしても成仏できない。因縁解脱できない

とおっしゃったわけです。
宗教というもの、ことに仏法というものは、利他心がなければ、どれほどの修行をしても、ど
れほどの法を行じても意味がありません。利他の心が絶対に必要です。人間には、利他心と自利
(我利)心の二つがあります。利他心とは他を利益するという気持ちで、自利心とは自分を利益
するという心です。人にはこの二つの心があります。どれほどの修行をしても利他心がなかった
ならば、それは仏法にはなりません。宗教にはならないのです。
一品品

O211
わたくしは若いころに京都伏見の五社の電で毎年、寒中の流行をしていましたが、そこで、自
利心に凝り固まった行者に出会ったことがあります。四十二、三歳の男性でした。自分でいうの
るなんですが、五社の滝でのわたくしの荒行というのは、それはすさまじいものでした。しかし、
その行者は、わたくしでさえぞっとするような、すごい荒行をしていたのです。
一、二月ろの五社の滝の危水は、谷を流れ下ってくる間に冷えに冷えきっています。流れて
いるから凍らないだけで、止水ならばとうの昔に凍っているでしょう。滝水を受けると、おろし
金で肌を削られるような気がしました。わたくしはその滝で十一月から四月ごろまで修行をして
いました。さらに最も寒さの強い大寒の時には、一週間、食を断ってお滝を受けました。断食し
て寒中の滝に入るなどというのは危険極まりないので、本来ならば絶対にやってはいけないこと
です。けれども、わたくしはそれをやり通しました。
「因縁を解脱しようと思ったならば、人並みの修行では意味がないだろう。この寒行をやり通せ
は、なにかがつかめるかもしれない」
そう考えて、思い切ってやったわけです。
それはつらいです。満腹で滝に入っても寒いのですから、断食していたならばなおさらです。
ただでさえなにも食べないわけですから、滝に入る前から体はガタガタと震えます。それが二日、
三日、四日と続いて五日目を過ぎると、生きているのかそれとも死んでいるのか、自分自身でも
からないような状腰になってきます。
「のい人ならば死ぬだろうな。自分も死ぬかもしれない。しかし、これで死ぬようならば、
もできしてもたいしたことはできないだろう。生きるか死んかやってみようじゃな行をしないで長生きしてもた
いか!」
そのように考えていましたから、たいていの行者には荒行の度合いで負けたことがなかったの
おおはらえた3かりと。
以前は五社の電とか被馬の央山の滝などには、いろいろな行者が集まって来たものです。今で
はそのような行者もずいぶんと少なくなりました。わたくしが荒行をしていた当時が、行者場が
賑わった最後のころではないでしょうか。
清滝場では前の人が滝に入っている時は、その人が終わるまで焚き火にあたったりしながら、
じいっと見て待っているわけです。神道の行者は、大祓や祝詞などを唱えながらお滝を受けます
も、仏教系の行者は『般若心経』やご真言、それから『法華経』の「方便品」や『観音経』など
をお唱えします。なにをお唱えするかで、お滝に入っている時間がだいたい分かるわけです。
「あら、あの人は『般若心経』一巻だから、一分三十秒やったな。たいしたものだな。こっちの
人は十秒で出てきてしまった。これじゃあ、しょうがないなあ」
などと考えながら見ておりました。
そのすごい荒行をする行者は、あまり背が高くなく、中肉で精悍な顔つきでした。ちょっと品
の悪い顔でしたが、すごくがっちりとしていました。この人は、五、六分はお滝を受けていたわ
けです。一月末から1月にかけての大寒のころ、五社の滝で五分間もお滝に入っているというの
は大変なことです。三分入っていたならば、非常に立派な修行者といってよいでしょう。さらに、
朗と真言やお経が唱えられたならば、これは一流の修行者です。
おおよその人は、滝に入った瞬間に声が出なくなります。
といったきり、なに言葉が出なくなります。以所、わたくしはある知人から、
「は何十年間も信仰をしているのですが、一度も行をやったことがありません。ぜひ滝行を
やってみたいので指導をお願いしたい」
と頼まれました。それで、初めての滝行ではあまり寒い時には無理だろうと考えて、十二月の
初めごろに井高場に連れて行きました。通行の作法を一通り教えて、
「障に入ったら『般若心経」を唱えなさい」
といったのですが、いざお席に入ったとたん、その知人はウンともスンともいわなくなったの
です。しかたなくわたくしが『般若心経』を代わりに唱えて、その人を滝から出しました。
「般若心経」とご真言を唱えろといったのに、どうして唱えないの?」
と訊くと、その人は、
「面に入って水が体に当たった瞬間、なにもかも忘れてしまったんです。どうしていいか分から
なくて、ただ呆然としていました」
と答えました。
そのように、荒行の経験のない人がいきなり冬場のお滝に入っても、とても声など出るもので
はありません。初めてお滝を受けて、朗々と「般若心経』やご真言が唱えられたならば、それは
立派なものです。
時々、寒行の際にお滝場まで車で行く人がいますが、それは邪道であって、心を統一しながら
歩いていくのが本当です。そのお滝場までの道のりを歩いて行く途中、お滝場まであと百メートルと迫ったところで、滝の音に混じって、朗々とご真言や大祓・祝詞を唱える声が聞こえてくる
ことがあります。そうすると行歴の長い行者ならば、とっさに、
「これは、相当な行を積んでいる人だな。今日はなかなかの行者が来ているな」
と察したものです。行を積んだ行者は滝の音を圧倒するような朗々たる声が出ますから、声を
開いただけで分かるわけです。ところが初心の行者は声が出ません。出ても蚊の鳴くような声で
すから、なにをいっているのか、泣いているのか、まったく分かりません。
滝行で声が朗々と出せるようになるには、約三年はかかります。わたくしも滝行で四、五回は
声をつぶしました。滝の音に負けまいと大きい声を出すと、声がつぶれてしまいます。昔、浄瑠
用や長唄などの芸人さんは寒中に大川などへ行って、のどから血を出しながら声を絞って歌った
そうです。そのようにして声をつぶし、その上で出てくる声が本物の声だということです。
わたくしも四、五回ほど声をつぶしましたが、一回声をつぶすと半月くらいは声が出なくなり
ました。まったく声が出ないのです。蚊の鳴くような声さえ出ません。まさに無言の行です。そ
れを経験して以来、わたくしは、何時間ぶっ続けに法話をしても、まったく声がつぶれなくな
りました。それまでは一時間半も法話をすれば、声がかすれて出なくなったものです。しかし、
滝行で声をつぶしてからはぶっ税けに法話や講演をしても、全然、声がかれなくなりました。
ですから、滝行や寒行をした人でなければ本当の説教はできない、とわたくしは考えています。
お坊さんが長時間お説教したからといって、声が少しでも衰えたり、かれるようならば、これは
一人前ではありません。わたくしはそのようなお坊さんは認めません。行に行を重ねてこそ、腹
の底から本当の声が出るのです。
OS

貧窮経

お釈迦さまと世間智
中町話籍・首納経』(以下『貧窮経」)を講義いたします。
しやえ
とさせてんもろもろびく
つこくんわ
聞州是。一時仏遊舎衛国在勝林給
低域用,爾時世尊告諸比丘。世有欲
人為大告耶。諸比丘白日。爾也
山博,世導復告諸比丘日。若有欲人
査制他家財物。世中挙貸他家財
物為大苫耶,諸比丘日目。爾也世尊。
世尊復告諸比丘日。若有欲人挙貸財
我が聞きしこと是の如し。一時、、舎衛国に遊び勝林
給孤独園に在しぬ。雨の時世尊 諸の比丘に告げたまわ
、「世の有欲の人、賀窮なるは大苦と為すや」。諸の比
丘白して曰く、「爾なり世尊」。世尊復諸の比立に告げて
また
たけ
いつ こたい
日く、「若し有欲の人、貧窮なれば他家の財物を挙貸す。
世中他家の財物を挙貸すは大苦と為すや」。諸の比丘白
して曰く、「爾なり世尊」。世尊復諸の比丘に告げて曰く、
物。不得時還日目長息。世中長息為 「若し有欲の人、財物を挙貸して時に還すを得ず、日日
人形。諸比目日。爾也世尊。世 に息。世中息長ずるは大苦と為すや」。諸の比丘白
諸日,若有欲人長息不還。
して曰く、「餌なり世専」。世尊復諸の比丘に告げて日く、
索。世中前主貴楽為大苦耶。
「若し有欲の人、息長して還せず、
主食するは大名とイ?
かえ
にちにち
*1そちよう
いしゅしゃくさく
す。
世中財
NE

 

 

の比立白して日く、「爾
ことさ」
すなわ
世導復告諸
なり七草」。車復活の比に告げ、日く、「若しの
比日。若有欲人財主責索。不能得
人、財主責めするも慣うを得ること能わず。世主数は定

償。斯主数往至彼求索。世中財主数
きて彼に至りて求索す。世中期主数ば往きて、彼に至り
往至彼求索為大苦耶。諸比丘白日。 て求索するは大苦と為すや」。諸の比立白して曰く、「顔
爾也世尊。世尊復告諸比丘日。若有 なり世尊」。世尊複諸の比丘に告げて曰く、「若し有欲の
欲人。財主数往至彼。求索彼故不還。 人、財主数ば往きて彼に至りて求索するも彼故らに還さ
ず。便ち財主の収斜する所と為る。世中財主の為に収縛
便為財主之所收縛。世中為財主收轉
せらるるは大苦と為すや」。諸の比丘白して日く、「調な
為大苦耶。諸比丘白日。爾也世尊。
り世尊」。「是れを世中有欲の人、貧窮するはこれ大苦な
是為世中有欲人貧窮是大苦。世中有
り。世中有欲の人、財物を挙するは是れ大苦なり。世
欲人举貨財物是大苦。世中有欲人举
中有欲の人、挙貸し息長ずるは是れ大苦なり。世中有欲
位長息是大苦。世中有欲人財主責索 の人、財主責索するは是れ大苦なり。世中有欲の人、財
是大苦。世中有欲人財主数往至彼求 主数ば往きて彼に至りて求索するは是れ大苦なり。世中
紫是大苦。世中有欲人為財主取籍是 有欲の人、財主の為に収縛せらるるは是れ大苦なりとん
大苦。如是若有於此聖法之中無信於
す。是の如く若し此の聖法の中に於て善法を信ずること
語法。無禁戒無博開。無布施無智慧
無く無く博識無く、布施無く善法に智慰無き有れば、
於善法。被睡多有金銀琉璃水精摩尼
被多く金・銀・琉璃・水精・摩尼・白・環壁・’・
みを
しようばう
すいしょうまに
Olu

三八
「・中含様」
たく

りさせい
白珂螺壁珊瑚琥珀碼璋谓碑渠碧玉
赤石死球。然彼故貧窮無有力勢。是
我聖法中説不善貧窮也。
琥珀・碼煙・環葉・神楽・碧玉・赤石・茨珠有りと雖
も、彼故らに貧窮して力勢有ること無し。是れ我が聖法
中不幸の貧窮と説くなり」
●現代語訳
私はこのようにお聞きしました。仏さまがコーサラ国の低園精舎にご滞在の時のことです。あ
る時世尊は、比丘たちに告げられました。
「世間の人にとって貧乏であるということは、大きな苦しみでしょうか?」
比丘たちが申しました。
「世尊よ、そのとおりでございます」
世尊がまた比丘たちに告げられました。
「もしも世間の人が質このために、他人から借金をすることになったならば、それはやはり大き
な苦しみでしょうか?」
比丘たちが申しました。
「もしも世間の人が全をしても期日までに返せなければ、日々の利息がかさんでしまいます。
利息がかきめば、それはやはり大きな苦しみでしょうか?」

もしも世間の人が會金をしても期日までに返せなければ、日々の利息がかさんでしまいます。
利息がかさめば、それはやはり大きな苦しみでしょうか?」
比丘たちが申しました。
「世尊よ、そのとおりでございます」
世尊がまた比丘たちに告げられました。
『もしも、その世間の人の利息がかさみ、借金を返すことができないならば、貸し主は借金の利
息を返済せよと責め立てます。この世において、貸し主に借金の利息を返済せよと責め立てられ
るのは、大きな苦しみでしょうか?」
比丘たちが申しました。
「世尊よ、そのとおりでございます」
世尊がまた比丘たちに告げられました。
「もしか、住し主が責め立てても利息を返すことができないと、貸し主はしばしば借り手の家ま
で押しかけて、利息の代わりになる物品を取り立てます。貸し主がしばしば来ては、利息の代わ
りになる物品を取り立てるのは、大きな苦しみでしょうか?」
比丘たちが申しました。
「世尊よ、そのとおりでございます」
世尊がまた比丘たちに告げられました。
「主がしばしばやってきては利息の代わりになる物品を取り立てて、それでもまだ借金を返
はないと、貸し主は借り手を捕らえて奴隷として働かせたり、売却したりします。貸し主に奴隷1111 0
・中西保育
として働かされたり、売却されたりするのは大きな苦しみでしょうか?」
比丘たちは申しました。
「世尊よ、そのとおりでございます」
「このように世間の人にとって、貧窮するのは大きな苦しみです。他人からお金や物を借りるの
も大きな苦しみです。借りたお金が返済できず、利息がかさむのも大きな苦しみです。貸し主に
利息の返済を迫られるのも大きな苦しみです。貸し主が利息の代わりになる物品を取り立てるの
も大きな苦しみです。それでも借金を返済できないために捕らえられて奴隷として働かされたり、
売却されたりするのも、大きな苦しみです。もしもこの聖法の中にいながら、私の善法を信じる
ことなく、戒を保つことなく、私の法を広く聞いて学ぶことなく、布施をすることもなく、私の
説く善法を聞いて智慧を得ることがないならば、彼は多くの金・銀・ルリ・水晶・珠玉・白メノ
ウ・ほら貝の設でできた平らな玉・サンゴ玉・コハク・メノウ・ベッコウ・シャコ貝・サファイ
ヤ・ルビーなどの赤い石・貴玉があるにもかかわらず、それを活用できずに、貧乏をして苦しん
でいるのと同じことです!
まずは前半部分を解説いたします。
この『食』の頭防お話ししますと、悪い因縁にられている人の言しみを、貧乏のため