密教によるヒ
の改造
こころの統御と自在力
古代インドに技術があった。
ヒトのこころとからだに想像を絶する飛躍と昇華をあたえる技術であった。
それがどのような技術であるか、つたえられる奥義書、神聖知識、聖典、経風などのな
かから、いくつかをえらんで紹介してみよう。
まず、それは、感覚器官の増幅からはじまる。
一、三つの種類のこころを統御 「Samyama, することになり、自分の転生のありさまと、
過去および未来にわたって知ることができる。 また、これを他人に応用すれば,なもの磁
去、現在、未来をくまなく知ることができる。(ヨーガ・スートラ、自作念、統治期
ぞうふく
サンヤマ
二、言葉と対象と観念に複合と混乱がある。それらの区別に対して Sumanaを向けることに
より、あらゆる生き物の声を理解することができる。(自在品,第名前》
てんにつう
仏教で、「天耳通」とよぶ名の神通力のひとつである、Saayana というのは、ある分野におけるこころの統御と集中と放射に関する特殊なトレーニングと思っていただきたい。そのトレー
ニングから生ずる異常なエネルギーを考えればよい。
三、Samyama をもって他人の想念を直視することにより、他人のこころを知ることができ
る。(自在品 第03節)
仏教の他心通」である。
四、わが行に Samyama を適用して直観するならば、前生のことがわかる。(実修品第2節)
くんじゅう
佐保田鶴治博士は、この一節を、つぎのように注釈される。
『行はこれまでの経験によって潜在意識へ投入された、残存印象 Vacana 温習)である。この行
は、人の潜在意識内に蓄積されていて、記憶想念や業果となって顕現しないかぎり、永久に残存
するものであるから、 この行に対して 療制(佐保田博士は Samyama をこのように訳しておられる)
さほどこして、それを直観 (sakeat-karuna) することに成功するならば、自分の前生だけでなく、
他人の前生をも何生にもわたって知ることができる。この智を仏教は六神通のひとつにかぞえ、
部、命、とよんでいる。ブッダも悟りを開かれる直前にこの宿命智を得て、自分の前生を何大城という非常に遠い昔にまでさかのぼってくわしく観察し、さらに他の生きものの前生をも視察し
たといわれている』(解説ヨーガ・スートラ、佐保田鶴治註釈)
ウパニシヤクドー
おなじ力を、べつの奥義書は、つぎのようにつたえる。
五、第四のこころをもって目をひらき、相手を見るとき、いかなる相手も自分の過去をおおい
かくすことはできない。(クンダリニー・ヨーガ・ウパニシャッド、実修篇 第1節)
六、自分の心を、他人の身体のなかに宿らせることもできる。(自在品 第四節)
これは、強力な念力により、他人の想念を自分の思うままに統御することである。その力は、
「クンダリニー(Kundalini)の力を発動させて、相手の第二の心に向けて放射(集中)するこ
とにより可能である。(クンダリニー・ヨーガ・ウパニシャッド・実修篇第好節)
よるの
も、Samyama を使って、ふかい心の発現にそなわる光をあてることにより、どんなに微細な
ものでも、人目につかぬところにかくされているものでも、はるか遠くにあるものでもなる
ことができる。(実品第)
この意について、保因博士は、つぎのように注釈される。
つのに、自光を帯びた心の発現のことが説かれている。戦制によって、照騎性を論然の結
・腸にいたるまで、すべてを自分の思うようにコントロールできるのである。これらの内臓器
が、どんな状応にあるかをすぐに知り、少しでも異常があるようであれば直ちに正常にもどし
てしまう。そういう力の訓練が、このナービ・チャクラのトレーニングである。
からだに関する Samyama の力についてべつの経典、クンダリニー・ヨーガにつぎのような記
述がある。
F第目に成就したこころを以って病者を見るとき、その悪しき病める場所はすぐにわかる。
ーた、Samyama にさらに熟練すれば、将来、病むであろうところもはっきりわかる。そのと
い、熱達音が、腕とこころに集中すれば、悪しき場所はすぐに燃える』(同経典第8節)
能力は、化的なものから次第に高度のものに上昇してゆく。
レッ
一、頭のなかの光明に Samyama を向けるならば siddh (神霊)たちを見ることができる。
第品、部)
佐保田、上の注釈によれば、
いのかが、心洲 murdia-igatio) というのは、頭の頂上で、頭蓋骨の接合するところ、インド
で、ハ、(brahma-randhra) とよばれている所にある光明のことである。しかし、この光明の
演心識であって、心臓から発した光明が、背骨の中心を貫いているスシュムナー管を通って、
た心の奥にそなわっている光線を対象にめてることによって、分子、原子のような鉄ない。
でも、地中にかくされている程で、千鳥の湖くの出来事でも知ることができるのである。イン
ドでは紀元前からアトム礎(機置がとなえられていたが、これはギリシャ人のようにによ
っく到達したのではなくて、超自然的な力で極小なものを直観した結薬だといい伝えられない。
る。インドの原論は理論物理学的ではなくて、実験物理学的な方法によって到違るれたわけで
ある。遠方のことがらを感じたり、ヴィジョンとして見たりするひとは今日でもいる。千葉
が、テレパシーとかいわれる心理現象は催眠術によって発現する場合もあって、あながらに高に
することはできない(解説ヨーガ・スートラ)
光をはなつこころのことは、べつの型典においても語られ、
『第式のこころは白銀色にふるえる光をはなら、そのこころを目にむけて見るとき、この世界
は透明である。(すきとおってなにもかもはっきり見えるの意)」(クンダリニー・ ・パ
ある。すぐれた視力を持つ心の把握である。
さらにSonyatsを向けることにより、も悪人に見る
ーギーのからだはだれにも見えなくなる。(自在品 第6節)
感動の術とか、かくいかのとかいわれる秘術を説明した経文である。物の形や色が見えるの
は、見るものの方に対象を見る能力があると同時に、見られる形態の方に見られる能力がある
いう原理をふまえて、この経文は書かれている。インドでは、偉大なヨーギー「ヨーガ行者)が自
由に自分の身体を見えなくするという話はありふれたものになっている。(佐保田鶴治注釈)
ナービーチリクラー
ル、Nabhi-chakra(磨輪)に Samyama を向けることにより、体内の配列、組織を知ることが
できる。(自在品 第5節)
この章について、佐保田博士は、
輪というのは、実際の臍の孔ではなくて、そのあたりにあると想像される神秘な車輪状の
場所で、一六の幅をむっているといわれる。一説には、後世のハタ・ヨーガで説く六つのチャク
ラのなかの下から三つ目にあるマニピューラ・チャクラ (Maniparachakra) のことであるともい
う。いずれにせよ、肉眼で見える部分ではなく、幽体に属するものとされている。チャクラにつ
いては、ここで詳説する暇がない。脳輪は気体(生命エネルギーからなる身体)の中央にあるか
ら、これに繰制をおこなうと身体内の組織がわかる、というのである」(郭説ヨーガ・スートラン
と解説されておられるが、これは、多少ともちがう。
ワーアレクサス
陽上は、”そのあたりにあると想像される神秘ないといわれるが、この部位は、決して空想的
な場所ではない。たしかに神秘的とも思われる偉大な力を発揮するけれども、医学的にもはっき
り確認されているのである。
それは、医学的には Solar plexus と名づけられた「太陽神経叢」のことである。腹腔神経機、
内臓動脈軸叢ともいわれ、腹腔動脈より出る上腸間膜動脈の起始部にある交感神経の大きい神経
後である(前頁図参照)。骨の裏がわにあってさながら太陽の光線のごとく各臓器に神経を送って
いるのでこの名前がつけられた。
すなわち、ここから出る神経は、食道、胃、腹部血管、肝、輸胆管、膵臓、副腎、腸等に分布
している。また、この神経叢は大小内臓神経、迷走神経、第十二胸神経節、第一腰神経節などが
集まっており、内臓の神経としては最も重要な 叢 である。
チャクラについては、べつに章をもうけてくわしく説明するが、いずれも、今まで、空想的、
神秘的場所とのみ考えられてきたこれらの部位は、決してそういうものではなく、実際に、医学
的見地からも重要な場所であり、大切なはたらきをする場所であるのである。それを明らかにす
ることが、本書の大きな目的のひとつでもあるのだ。
「体の組織を知ることができる」とあるが、これは組織を知るだけではなく、組織を自由にコ
ントロールすることができるという意味である。実際にこのナービ・チャクラに Samyama 集
中すると、この太陽神経業に属する内臓器官――それは食道から、胃、肝臓、膵臓、脾臓、
が一致によるヒトの改造
に到達して、強い光のりとなっているのだと考えられている。
神通というのは、高い地位の神々ではなく、「霊よりは上位の霊体であって、天と通の
中間に位んでいると考えられている。現代の一インド学者は,これをマスター(電源線)で
いる。マスターは初めのうちは修行者の夢のなかに現われて教育し、後に法その案を現わし、
「分の名も修行者に告げる。さらに修行者の霊性が高まると、修行者は自分の必要に応じている。
でもそのマスターに会うことができるし、その上、他のすべての神霊に会うこともできる、とい
っている。もちろん、神霊を見られるだけでなく、それと話を交わすこともできるわけである。
(ミーア・メートラ)
これは要するに霊性の発現であり、四次元世界への接触ということであろう。頭のなかの光調
についてはあとでくわしく解説する。
頭のなかの光明とよばれる智に Samyardを向けるとき園明智 (pradisられる。
は最高の智であり、あらゆることをあやまりなくなり、いかなることでいを
「おかすことのない響である。(自在8,第器館)
のスクの経典では、つぎのように説明する。第六
とめ
にいく場(3)とよばれる上する。
とこに到達して、強い光の塊りとなっているのだと考えられている。
ここで神霊というのは、高い地位の神々ではなく、湖霊よりは上位の霊体であって、人との
中間に住んでいると考えられている。現代の一インド学者は、これをマスター(海外
いる。マスターは初めのうちは修行者の夢のなかに現われて教育し、後にはその姿を現れて、
分の名を修行者に告げる。さらに修行者の霊性が高まると、修行者は自分の必要に応じない。
でもそのマスターに会うことができるし、その上、他のすべての御霊に会うこともできる、とい
っている。もちろん、神霊を見られるだけでなく、それと話を交わすこともできるけである。
《解説ヨーガ・スートラ)
これは要するに霊性の発現であり、四次元世界への接校ということであろう。強みるのも、
についてはあとでくわしく解説する。
一つ、頭のカかの発明をよばれる響に Sanger を同社とき、調 Onlinがある。
路線は最高の響きあう、あらゆることをあますく華
すことのない著である。(自後島、第四層)
のことを、いつの経典では、つぎのようにする。
けんよん
270
る。それは第一の段階において、すべての見開するところを記憶にとどめて、いっさい忘れ
ぬというかがやきを持つ。
第二の段階において、すべてのものは彼のこころのなかにおいて形と色とかがやきを変え
る。(つまり、これは、ものの本質をさとるということであろう。 いうなれば、 三次元の感
覚と意識でこの物質世界、現象世界を見ているのと、そこを飛びこえて、四次元の立場から
見るのとでは、全然すべてのものが変わってしまうに違いない。そう解釈すべきであろう)
第三の段階において、すべてのものは、かれの心のままに、形と色を変える。(自在にな
る)』(クンダリニー・ヨーガ・ウパニシャッド実修篇・堤真寿雄訳)
一二、心臓 (hrdaya) に Samyama を向けることによって、心(citta)を意識することができ
る』(自在品 第j篇)
ンダイ
佐保田博士は、この章節を、
『心臓というのはもちろん、幽体的な心臓で、小さな蓮華の形をし、いつもは下向きになってい
る。この逃華は心の座である。あるいは、覚の座とも、 内 官(意、我慢、寛)の座とも解釈さ
れている。ケアーンドーギア・ウパニシャッドには、「小さな白蓮華の家」 のなかにはアートマ
ンがおさまっている、と詠われている。
ぎょう
かし
心はこころの実体であって、それ自身は意識面にのぼらないはずのものであるが、この心に
繰制操作をほどこす時には、この秘奥にひそむこころの実体さえも意識面に現われてくる、とい
うのである。心が意識される以上、その現象形態は残らず意識できることになる。
ある註釈者は、自分の心だけでなく、他人の心をも知り得ることだと解し、自分の潜在意識に
ひそむ行(これは業の意であろう。著者)と、他人の心に浮ぶよろこび等とを知ることができるこ
とを意味するという』(解說ヨーガ・スートラ)
と注釈されているが、ここのところはたいへん重要な箇所である。
この場所は、潜在意識、深層意識を動かす力の存在する場所で、こころ、すなわち潜在意識、
深層意識そのものが存在する場所ではない。ここは、そういうものを動かす力が存在する場所な
のである。
今までの修行者は、ここのところをまちがえて解釈し、すべて失敗している。これをまらえ
ると致命的なのである。ところがほとんどの修行者が、この聖典のこの文章にひっかかってしま
って、心かい酸(の部位)にあると考え、もちろんその心臓とは解観学的な心臓ではなく、その
近くにある心臓に密接な関係のある細胞群と神経線維の群れのことであるが、それを動かすこと
により、濃規意識を動かすことができると考えて一心にトレーニングに励む。それではダメなの
である。普在意識、深層意識はここにはない。それは大脳のなかにある。これはたいへんな
ことで、このことを私は、密教の記憶力増強法『求聞持是明法」を成就したときに気がついたはなれた死で、涅槃にはいることである。それはまた、意識を、最上界の電城に日出に上昇させ
ることができるという意でもある。このウダーナの統御は、肉体を軽くし、浮上させるというだ。
けでなく、というよりも、むしろそれは第二義的なものであって、実際は、意識、集編(質問
織》の昇華、浮揚、脱出を可能にさせる力を持つもので、それはより高度の生命(意識》との
れ合いを意味するものだといってよいであろう。いわゆる霊界との接触である。
一四、サマーナの気に samyama を同けてこれを統御すれば、身体から火焔を発することが
できる。(自在品 第3節)
サマーナは、願望成就、理想実現の力のもとである。サマーナの、気を自由に使いこなれ
ば、わが思うこと、願うことは、どんなことでも必ずこの空間にかたちづくることができる。
なわれ、鎖望成就するのである。修行によってこのサマーナのエネルギーを自典に候いこなす
ができ、三昧にはいってこのエネルギーが全身にみちみちると、肉体から火多発する。その様。
くらのなかにいて完明となる火であることもあれば、実際の火婚そのものを受大きる。
ある。教の不動顕主が、全身、火覚につつまれ、あるいは管中に火を負っているのだ。
ので、決しく、体の火の象徴のための火でないのである。
きんいたとき、北川、空耳の原理」照)念力で火を出したところでなにになるとわらっ
た人がいるが(以者で,こういう深いほんとうの密教の秘奥を知らぬ、無智や、不勉強
いい世る言であるというよりはかないのである。念力の護摩を焚くのは、この修行が完全に
しとげられたということの=なのである。また、念力の護摩を焚いて、修行音が一心にいの
ルが、自他の別なく、願ってかなわざるものがないというのは、実にこのためなのである。
一五、ふかいこころに Saiyama を集中することにより、こころが制約をはなれ、想像上でな
く際にの外で心がはたらく上うになる。それは大脱野 (mahavideha)とよばれる。
これがなされるとき、心の光照をおおういろいろな障害がなくなる。(自在品 第2節)
わざわざ、以上でなくialita) とことわっている通り、実際に遊離現象がおこなわれ
る。肉体はここでルに人,ていて、意識だけが一00キロ、1000キロ遠方の地へ行って、そ
の心の川北小Mさしてくることが可能なのである。
ある出来は、大概は深いトランス状態のことであって、外から見れば気絶状態とも見え
る深いのことであろう、といっているが、その通り、トランス状態に入って深層意識の
いの世界かたどっていることもあれば、実際に現実の世界で距離を超越した力を発揮して
いる場合もあるのでいる。
