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一超能力開発の訓練課程 5

れらの観法はすべて、
B超能力開発の課程
4 一印会―マニピューラ・チャクラの開発訓練
ここから、自力開発の課程に入る。求聞持聡明法のトレーニングがはじまる。
太陽神経叢を中心とし、副腎、膵臓、肺臓、胃、肝臓等の内臓全般にわたるもっとも大切なチ
ャクラである。このチャクラを完成するとオーラ(霊光)が発現するようになる。自分自身の病気
が一切解決してしまうのはもちろん、人の活気を即座に癒やす力が出てくる。三浦関造氏は、
「物質元素を変えて物を変化させたりすることができるようにする」と述べている。 そういえ
ば、念力の火も一森の物質的転換力のあらわれである。ヨーガでは、サマーナ気発現の部位であ
ると説く。サマー十気を成就すればすでに超人の境界である。
金用界曼茶羅では、一印会をつぎのごとく述べる。本経にいわく、
アディ
かいな
心和察することより初めて
金川界(Vajrahatu)と論じて
仏身を自身に転じて
金剛習を実習すべし
此に由りて成就するや否や
営と春と力と年と
話の行とを
私を成就することも離からず。
従心智始
応 観金剛智
親自為三仏形
応、金剛界
由。此伝
獲智寿力年
03能力開発の課程

 

504
乃至仏果不
難得。
註1五相成身観中の通達菩提心のこと。
の三世無障碍の智等なり。
@百歳になるもなお十六歳の如くに見えること。
やみ
釈迦弥恒羅い,この文を、その「疏」のなかで説明して、
くして第五の真言に至り、自身一切如来を現証せりと観じたる後、金剛日の羯磨の印を
背に光を点のである。次に一切の暗をのぞく相の光輪を修習し、夜を昼のごとくに
暗もまた日輪のごとくに照加すと思惟し、日光のこの照耀を虚空界の辺際にまで舒ベ
しめるのでめる。そしてまた自身も仏の形なりと思惟し、金剛界の真言を論ずべきで、
の大印の智である」
ている。
、だ。賢明なる読者はすでに察しておられる通り、求聞持法修得の行法にほかならぬの
頭背に始輸む心性心」、とある。これは、前に述べてすでに御存知の通り、頭の外部の
く、内部の背である。ただし、いくら一心に思惟しても、マニピューラ・チャクラを開
れば、ぜったいに光輪はあらわれないのである。が、ほんのわずかでもこのチャクラが
めれば、ふわッと光輪が浮かび、わずかながらでも光輪が浮かべば、このチャクラが動をはじめたという証拠になるのである。ソウイウコトナノダ。おわかりか。
お会ーアナハタ・チャクラの開発訓練
これは、脚城、心、声フのチャクラである。
このチャクラの開発によって、四つの超能力の発現がある。
二、ムラダーラ・チャクラによって異常に増強した生殖エネルギーが、このチャクラの機能
で、オージャスというエネルギーに変化して、スシュームナー管から視床下部にのぼり、知力を
養い、頭脳を明晰ならしめ、ことに聴力を明らかにする。
二、その結果、霊聴の能力がひらけ、どんな微妙な声も聞くことができ、動物の鳴く声の意味
がわかるようになる。
三、大師の声が聞こえるようになる。
円、物事の企画、創造、発明の才能がひらける。
金剛界曼茶羅では、この四角曼茶羅を、不空三蔵の「十八会指帰」に解脱していわく、
「第五に四角曼荼羅の法を説く。弟子のために四種の速成就法を授く。いわく、大印成就法、三
矢向成就法、法印成就法、揚透印成就法なり、この曼荼羅を以て悉地成就を求むるなり」
とある
報の修得するところによれば、この四種の印は、おのおの四種類の変化のをくんでお
し、したがって、合計一六構の特殊のムドラーで、チャクラの部位を加持し、思念することによ
あ、このチャクラ開発される。

 

 

6.会ーヴィシュダー・チャクラの開発訓練
球状態、甲状映、極護職の属する要応チックである。
前に述べたように、無薬のアクセルにたとえれるはたらきをし、このチャクラが熱発され
ると、体内の毒素がことごとくに外、つまでものを失うこととなる。生き生きとした読動力
を保ち、多くの人びとのためにはたらい社会大変か、愛されるようになる。
劇界受流部では、燃姿無織渋水就かれている。この法によって無成無限の英養本位の力。
と富を残し、社会太然のために味に失賞するな産に移行を英た。社会人案女の熱愛をあれ。
和合郵密の恋を作るときれる。すなわる。旅行者のつるままにいかなる人でも、動物
もまた急のごとく動作され、集まってくるようにするのである。人を集め、物を集めて大楽
成就する力を身につけるチャクラである、
c 超能力の完成
7組会』ムドラー・ディクラの開発訓練
ここから総器力の発威のに人象。タンダーミー賞線のトレーニングが開きれる。
念力の護摩の調も開始される。
このチャクラは、ナルの念力を第子の念力の第でそいや、まだ未完成の築子の力の発期を
ちなみず。それは、

 

ちっぱめ。手中にすってなされる。

の、後者のタート。次いで、
というのが手に感じるそう。
持分の指のを揚浜島坂動が始するから絵なり、定に入っての。
微妙高気音、共p常を始するようになる。偉大麻なる、
場渋をみせることすらできるようになる。この場にいたると、手外
で、これは装後の手段であり、最初はムドラーの発現からはじまるので、期
るいている。
ものはつきには来るいうのである。なにゆえにこれを聴
ようかという、東海外登録の書くところによると、金無機とは全域の如くに線減す。
があるので、真っ最に見ることのできない組織を替夢のことである。という。つまり、この
影がスターとなって微妙に表現されることになるのである。

。。。鉄線のカラーをるける、意社者の手の能力を要する。
ターの力を発現させるのである。道悪な合意成無でいい
るのである。いるの
でした
「要するためのある
一つ

一般列の例発のための所業体
のない髪研震離を開発しようとする場合には、華に骨盤のしかた
うるいやらし、いろいろな条海を見施する必要があるのであ
ターの修行に成過するためには、ダルの商導をうけなければなる
ことである。わが道理している教師とかを
まっている。なにをするだけの人でないどころ
するというのはつくないのである。
いしいのである。からまれる愛を
二つある。かつとして入れる入
るのは、いったん入れた人は、いつに

一超能力開発の訓練課程

超力開発の時空 4

をしない。きとりを開いたゲルが手をとって指導してくれることになっているけれども、そうい
ラクルに一般の修行者がめぐり合うことはガンジス河の砂のなかからダイヤモンドをさがし出す
ご理事である。真言密教は行法を持つが、もっとも肝心なチャクラとクンダリニーの技術を
れてしまった。わずかに軍茶利明王が諸仏のなかに鎮座ましますだけである。この二つが一体
になれば、教はかならず民衆のものになる。
人連貫線成心神交揮特、金剛頂一切如來真美摄大乘現証大教王铎、金剛頂五秘密修行念誦
等の仏教の諸経典、諸儀統、またそのほかの、いまは世にほとんど埋没してしまって
いるの落法典は、古代ヨーガの技術を体得した目で見なおすと、すべて世にかけがえのない
科学、精神技術としてよみがえるのである。また、ヨーガの技術の開発に行きなやむ修行者
に、それらの教の経典は、行きづまりの迷路をみごとにきりひらく鍵になる。そうして、そ
のは、同時に、閉ざされた未来社会をひらく鍵にもなるのに相違ないと私は確信しているので
八基礎調練
i棟会内体と意志のトレーニング
と本ムラーの調練である。
ンのラーを体得する。超能力者としての強な関係とを、

なにものにもぜったい屈せぬ意志の持ち主にきたえあげる。
いま、金剛頂経によってこの降三世品における曼荼羅を概説すると、大日如来の智身である飯
属が、恋怒の相をもって大自在天等をはじめ三界の諸天を降伏し、これに仏の教材を下すた
めの禁羅である。
「こうふく
こうきょうたんけ
すなわち、摩確首羅等の諸天は、剛強難化にして、やさしい慈顔の相でこれを教化することが
できない。そこで、一切如来は異口同音に一〇八名を以て、智身たる金剛薩埵をほめたたえると
同時に、これらの諸天を降伏するように懇請した。金剛薩埵はこの懇請をききいれて、たちまち
人結薬気の身をあらわして、毘盧遮那仏の教令を宣伝すべく三界の諸天を召集した。その諸天
のなかに大自在天があって、自らを三界の主であると称し、自分が最高であると放言して怒怒金
同様の命を奉ぜず、
「われは三界の主にして最高の存在である。なんぞ卑賤なる金剛薬災などの命令をきくことがあ
みうが、演のほうこそわが最高の教えを聞け」
としてかえりみない。
そこでは、高然として激烈狂怒の相をあらわし、ふんぜんとして金剛明光のムドラー
が、をするや、大自在天をはじめ一切の諸天いずれも地に倒れ伏して、苦悩の声をあ
そのときは「なんじ、もしその苦悩をのがれようと思うなら、ただちに真実の法に品保し、わが命にしたがってせよ」というと、大自在天は「たとえ仏の教えにはしたがうとも
高のにはしたわね」といいかえして、彼らは、色身たる思盧遮那仏に救いを求めるのであ
けれども、私は『液等を戦うものは会期のほかにはないのだ」といって応じない。やむを
何か、大自在天をのぞいた他の選天たちはすべて念怒金明に降伏することになったが、大自在天
のはどうしても降伏しない。地から立つことができ平倒れ伏したまま、仏に対してくりかえし
「ねがわくばわれを救い給え」と誘えつづける。このとき、念怒金剛、大声をはげまし、「次、剛
の有機、なお降伏せざるか」と。大自在天これを開いて、念怒の猛相すさまじく「われ死すと
ここにいたって必窓会用さらに大益悪念怒の相をあらわし、明光を講するや、大自在天ならび
必要の歴見、地に作れて双足を宙にあげて醜悪のすがたで苦しみもだえるのであった。かの念
はた足あげて大自在天を、右足をもって鳥摩妃の両乳の間を踏んで大明光をとなえる
と、大自在天はどうすることもできず、自分の千の手を以て自分の千の顔を乱打して謝罪するよ
はかかった。諸天これを見て、同音に「われらが主、大自在天、ついに念怒金剛のために降
あるる、このとき、法身鬼盛逃所、大慈の心明を論し給うや、大自在天はそれにより自
することを、響心金測手の足心にふれたる力によりついに道を成し、
のまま、大日をみずからの足も持するに至った、というのである。

の場為、身継化の大自在天とは、絵谷をさまたげる自分自身と周囲の者の剛情傲慢の心で
売る。また、修行を妨害する周囲の妨害行為である。修行者は修行の第一の段階において、
人の心身をあらわしてこれらすべてを粉砕するのである。釈迦外恒羅は、その「鏡釈」にお
いそいその姿はもちもろの離調者を折伏するための曼茶羅で、折伏を主とするがゆえに、阿
wasato)の茶である」と述べている。
、このつぎのも、おなじく三橋明王を主体にした。降三世大曼荼羅』であるが、
ののいま、はつぎのように述べている。
なかの大茶羅が、仏の降三氏の身活動をあらわしたものなるに対し、この曼荼羅は、そ
かきをしたものである。それゆえに、この最茶羅では降三世大曼荼羅の形像をこ
がってきあらわしている。そのわけは、すなわち、仏が判の方便を以て
スをする内心のをば、その結や剣などの事をもって写したもの
の三城茶といい、あるいは新茶として
の方をて化度せんとする仏の心を表現した受素であり、
の生を救おうとする本、すなわも三線の心をしたうことである。作者は、ここで、調伏難のムドゥーと明党をさずかり、課せられた調伏の課
本家の「会場」には、それを解護して、
く、三十七原を真す。弟子をく後を説く。この中ではの音声、お
第くとは、指導をすること、音声とは明党、金剛歌舞とは、手印のことである。
ク三機会行動、創意のトレーニング
スラダーラ・チャクラの開発、である。
のチャクラの開発により、たくましい、バイタリティに富んだ行動力、創意にみちた機動力
鉄場のトレーニングで、三日三晩ねらずとこたえない精神の活動力を獲得す。
このトレーニングでは、弘長三奥徹夜しても行動力のおとろえない頭でな肉体を獲得す
でた、この度は、明確化の者を伏する活動の受素である。
に入るとともに、グルからの戦行をさずかり、その場を果たさきのチャクラの解説で述べたごとく、ムラダーラ・チャクラの修得は、体力の異常なる増強
と同時に、性的体力もまた異常につよくなるから、導師の指導をうけて、これを浄化するように
心がけなければならぬ。
3 理趣会=知能のトレーニング
スヴァジスターナ・チャクラの開発訓練に入る。
副腎、膵臓の部位の開発である。このチャクラの開発により、どんな難関にも冷静沈着、すぐ
れた知能をもってきりぬけてゆく。洗練された勇敢さを持つ。副腎ホルモンは戦いのホルモンで
あり、英雄のホルモンだといわれるが、この理趣会曼茶羅はまさしくその英雄的大勇気をあたえ
るものだと本経に説く。
すなわち本経にいわく、
身と語と意との金剛 価嵐杵,
を以て、金剛慢の心 等持金剛
を発起し、優を具し 野口小金駅
て金剛を抽撮せば、 成二金剛薩埵
自身金剛薩埵となる 由此偏行印
堅実に伸行と
諸欲主安楽
諸欲の主たる安楽め 通寿力勝色
ちょうちゃく」
51超力開発の時空

超能力開発の訓練 3

の解脱の行がおよそ100日くらいすすんだ頃、グルによる直接の指導がはじまる。その第
一回は受け人れ》の儀式である。その方法はさまざまである。修行者の因縁によりみな異な
る。これで修行者はグルの正式の弟子としてうけいれられたわけである。
この第一回の品提唱”から、ほんとうの修行、訓練がはじまるのである。
九段階の訓練
密教の特福山神1、九つの段階から成り立つ。
それは、真言密教における金剛界曼荼羅によって編成されたシステムである。
ある高名な真言宗の阿閉果は、真言密教につたえる金剛界と胎蔵界の両部曼荼羅についてその
告書でこういっている。
『これは大日如来の理智の境界をぼ、末信のものに図示せんがために、とくに図絵の梨徴を仮
いてこれを表現したるものである。この意味においてこの両部の曼荼羅はいわゆる宗教の芸術化
であって、それは深甚なる宗教的真理の世界をば芸術的表現によってこれを象徴化したるものと
いうことができる
といっているが、これはまったくのまちがいである。それはたしかに芸術的に表現されてはい
るけれども、それはけっして宗教の象徴化ではないのである。これは、密教の修行課程を、わか
りやすく口にしたもので、現代的にいうならば『密教教育のカリキュラム一覧表』ともいうべ

 


ものなのである。これを芸術などと見るところから、密教の無力化がはじまったのだ。
これはたんなるホトケまの絵画ではない。法のカリキュラムそのものである。
りんはらじん
たとえば、金剛界曼荼羅の中央”根本成身会』を見てみよう。
これは、物教の修行者が、他の八つの段階の訓練を完成し、修行成就して、ホトケ(超人)と
なったをあらわすと同時に、さらにこの段階において修行体得すべき、法、を示しているの
である。それゆえに、この根本成身会を說く根本経典では、この根本成身会に到達した修行者に
たいする指導についてこう述べる。
如何に次は後利を出 問弟子言、汝愛楽
生する地の智と、 義利出生悉地智耶、神
神通の張地を成す。 通悉地智耶、持明窓地
る!と、持明の西地 智耶、乃至一切如来智
成する智と、乃 最勝志地智耶、結
一切如来の最崎西
彼所応
地を売却する?との
(不空訳)
いずれを欲するやを一 註3義利とは黄金の国のこと。
間い、次にその欲す

485超能力開発の訓練

 

マンダラはチャクラをあらわす
さんや
さんや
また、たとえば、前の項で述べた根本成身会は、九段階の課程のうち、最終段階の第九番目
で、チャクラでいえば、姫の座、サハスララ・チャクラであるが、そのひとつ前の段階、第八
番目にあたる曼茶羅が、三味耶曼荼羅,三昧耶会』である。
「初会の金剛頂経」(不空訳・金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経)には、この三昧耶会のことを
金剛秘密曼荼羅と称している。なにゆえにこれを金剛秘密と名づけるのかというと、釈迦弥恒羅
かんじよう
(Sakyamitra)の説明するところによれば、この課程に到達した弟子に、 この曼荼羅を以て灌頂
をあたえるとともに、秘密の観法を教えるためにえがいた曼荼羅であるゆえに金剛秘密曼荼羅と
いうのだと説いている。
では、その秘密の観法とはいかなる法であるかというと、金剛秘密の身印の観法と金剛秘密の
観視用の観法である。この観法の修得によって「金剛眼」と「光明眼」を体得することができる
と本経にある。
経文にいわく
極めて速かに眼を動 又復極速動揺眼眼
かして、眼の熊毛を 瞧照明鉤召相此說
以て召するを光明 名為三光明視一切世」
ムドラー」
469回能力開発の横線
「以
こうちよう

 

間鉤召
見なりと説く能く
一切の有情を鉤召す。
眉間に皺を集め
念怒の眼を瞬きし
念怒の見をなせば
三界をもまた破壊す。
ることを得。
又復翠眉破壊相、
刹那能現i念総勢1
此名偏持念怒視
乃至三世尚降伏
フテァ
須弥山の岩の如くに
堅固にして瞬きする
ことなき眼が慈愛
眼なりと説かれたり
能く病と執魅と毒と
又作堅固慈愛眼
猶如須弥山諸岩
此説名為《慈愛視
能破病毒及執魅。
(施護訳)
と説いている。この経の趣旨により、「五部心観」にはその真言とともに四種限がえがかれ
いな栂尾祥雲師は、これについて
『かくの如くこれらの秘密の観法を目的とするための曼荼羅であるから、この三味耶曼茶羅を
ば、本経には金剛秘密曼荼羅と名づけたのであるが、不空の(十八会指)には、この曼荼羅を
説明して(第二には陀羅尼曼荼羅を説く、三十七を具す。乃至、広く入曼荼羅の儀軌を説く。弟
子のために四種眼を授け、敬愛、鉤名、降伏、息災等の儀軌を説く)といっている。以てその特
質を知るべきである』といっている。(将尾全集E)
賢明俊敏なる読者はもはや察しておられるにちがいない。
四種とは、「眉間のチャクラ」アジナー・チャクラのことである。すなわち、第八の段階で、
修行者は、アジナー・チャクラの訓練をうけてこれを修得するのである。
アジナー・チャクラは、仏教でいう 仏眼 第三の眼,である。
アジナー・チャクラについて、三浦関造氏は、その著「神の化身」においてこう述べている。
『この部位は、第三の眼、第六の天、命令、知らざることなき大王の鍵、ともいわれる。ここ
にクンダリーニが活現すると、経典「沈黙の声」(最別)にしるされる現象がおこる。その
き心環よりクンダリー二は典って第六の天、すなわち汝の眉間に登らん。かくして力が一なる
大藤の呼吸とならば、万有にみつる声は女の至上我の声なり。そのとき汝は空を歩き、風をあや
つり、波浪の上を行くとも水に溢るることあらじ。
1超能力の神
クンダリーニの放射機能により、粘液腺はいちじるしく進化して、微妙な振動をおこす。その
振動は、至上界における大師たちの思想精神の振動と波長が合うので、テレパシーの機能がおこ
り、マスターと交霊することができる。のみならず、アストラル界 (パ梁)における死者とも交
通が出来、地上の秘密体験家たちとも交通が出来る。人間生活をしながら、その認識力は、人間
の知能をはるかに超越して、宇宙意識の機能をおこす。
このチャクラはまた、命令識といわれ、ここの発達によって、自然に命令して、自然を感化
し、支配することができる。イエス・キリストが山を動かす信仰といったのは、命令の活動に
1つで可能なことである。
このチャクラの活動によって、人はおのれの至上我を発見する。はるかにアストラル界(ノパ魂
超越し、人格を超越して、神性を発揮する。その宇宙意識は、過去・未来を見、自然を内
部から見る。「沈黙の声」はその状態をしるしてこういう。
=然は次の所に、その秘密の部屋の扉をひらきて、女が見るにまかせ、みずみずしきそのふと
ころの足にかくるるをばあらわさん。物質の手にさえぎらるることなく、自然は霊の眼にのみ、
そのかわいす。霊のは閉じらるることなく、その前にはかくさるるなにものもなし。
間は駅である。神眼の前には、なにものもかくすことができない』
たしかに、アジサー・チャクラが完全に開発されると、四次元振動が感じられるようになる。
別にさがの常価である。この部分の細胞が、ホルモンと酵素によって変化をおこたしかに、アッチー・チャクラが完全に開修されると、四次元振動が
に選べた。経常の郷」である。この部分の細胞が、ホルモンと酵素によって変化をおこ
定を持つようになったことを感じる。いうなれば、特別な波動の発振器であり受信器
あったという感じである。普通人の目に見えないものを見、普通人の感じないものをたしかに
感じるようになる。三浦氏の文章はやや古風な表現であるが、そのいうところに間違いはない
し、ヨーロッパのシーガの指導者 Tother も、その著書“The yoga”のなかでほぼおなじことを
いっている。それは神に通じる目だといっている。
為は、四種の眼。といっている。私の体験によれば、アジナー・チャクラは、
まさしく、見ることに関連した四つの超能力を修行者にあたえるのである。
の本編が、古代ヨーガの超能力開発の訓練課程を、そのまま展開したもので
あるというのに、これでも異論があるであろうか? これだけ明白なことでありながら、
いまかつて異教の阿寒だれひとりこのことに気がつかないでいたということに、私は不
そしてならないのだ。わずかに怯智院大学教授の山崎泰広氏が、昭和四十七年新年号の
で大いて、メーガのチャクラと密教の観想の部位とにある共通するところが
あるということをいく意をうながしているだけである。(しかし山崎氏も曼茶羅については
のか、一段院の路二世三昧影会。からはじまって、降三世ル最安、理場合
場、本軍とんのから成り立っている。
能力の限


すべて、修行者の修得すべき法を行の展示なのである。
その三つのをあげた。艦のむつも全くおなじことである。
タパンプ
自分の体にもとづき、古代ヨーガのあらゆる経典、義書、秘密仏教の根本
をして、教の県を復元した。
の九つのチャクラとピッタリ符合するのである。これが、私の成した
なのである。私はききに、古代ヨーダと真言密教は二つにされた
いったので、暗号文はひとつになった。ラーはナオクラの夜を待つ
しない、どこからどのようにつけていったらよいのか

超能力開発の訓練課程

5=超能力開発の訓練課程
人をつくる特殊技術
の訓練は、常人にないすぐれた能力を持つ人間をつくりあげることが目的である。
いうなれば、超能力者の義成である。
この力者、古代ヨーガでは超人、仏教では、ホトケとよぶ。
アップトにしても、ホトクにしても、その最上のクラスになると、もはや人間とはよべない
る。それは人間というとびこえてしまった人間以外の生物である。たとえば、人
力をいかして空中を歩むことはできない。それが人間というものである。もしも自由
ことができる人間がいたら、それは、人間のすがたかたちをしていても、人員では
い、といわねばならない。神とよか、悪魔とよぶかはべつとして、それは人間で
いということだれもが認めるだろう。多数は、それはどの層と変化とにあたえる特
でもそういう能力を身につけることはできない。史上最大のアデプ
タダにして、いくつかのを、何年もかかって、そのすぐれた方を身につ

のが、
ですがそういる選、超能に救るという新たなが一路のアデ
プトで意することのできる行は、無用な人でめにかぎるとされている。うかう人たちは
生まれながらに3つの経歴を持っているのだとしている。その体を張。
顔をみせつこの絵をしているバランである。何を生きがあってクル
を人生でいて、学連をアラートを行をつうでいるのである。しかも、だ。
がその名機。英にに入ってるまでにもあらたことある。
る能が落安移行を熱店もあるものである彼。あるいはあたたかで
の人ある
かい。しかったのであった。
こどもすることできる。あなたさあたるのであっても、すぐ為を
ウイル形)についで、一定の線を、道具を破って
いいな
たよななんのとする意図が出西海人的であるもの密教の選継をする気は。をの人は。あ
人の滅するからなかったですあとさきるかかかるか、からのリーダーとなって
ため、ループをズルしずることにあるだろう。道も設、かあ護、放できるんで
その女を。海が、チンをうまくなるか。

 

シビア
らだ。これからいよいよ苛烈の度を加えるこの世界において、それはますます顕著になるだろ
う。あたらしい世紀をむかえる前に、この世界はひどい混乱におちいって、社会は無数のグルー
プにわかれ、そのグループはいったいどうしてよいのかわからない人たちであふれるようになる
からだ。その人たちは、常人にない能力を持つリーダーを求めて右往左往するだろう。自分たち
を新しい世界につれていってくれる人を求めて世界はわきたつ。そのとき、それらの人が求める
リーダーに君はならねばならない。そういう人をつくり出すのが密教だ。そのために密教の技術
は温存されてきた。これはそういう技術なのだ。それだけに、それはかなりきびしい訓練である
ことを知っておかねばならない。
カル
業からの脱出
いくつかの訓練の段階におけるその第一の課程は、自分の持っ業からの脱出である。
人は生まれながらにさまざまな条件によってしばられている。そのものからだれも自由であり
得ない。考えてみれば、人間という名でよばれる存在そのものが束縛である。存在することがす
でに束縛である。だから、存在であらざるものになることが完全な解脱なのであって、密教はそ
れを目ざすのであるが、それはもっとずっと先になって君の追求すべきテーマになるだろう。こ
こでは存在するもののなかでの解説である。それを業の解説という。業は因縁によって招来され
る。因縁がカルマをかたちづくる。 この、カルマの解説の行と並行して密教の修行がはじまる。
483 能力発の練課程
カげっ
しようらい
「ヨーグこれからいよいよ高熱の度を畑充るこの世界において、それはますます顕著になるだろ
うたらしい経をむかえる前に、この世界はひどい混乱におちいって、社会は無数のグルー
ンに熱れ、そのダループはいったいどうしてよいのかわからない人たちであふれるようになる
からだ。きの人たちは、常人にない能力を持つリーダーを求めて右往左往するだろう。自分たち
しい世界につれていってくれる人を求めて世界はわきたつ。そのとき、それらの人が求める
リーダーにはならねばならない。そういう人をつくり出すのが密教だ。そのために密教の技術
はされてきた。これはそういう技術なのだ。それだけに、それはかなりきびしい訓練である
とってかねばならない。
業からの脱出
いくつかの線の度におけるその第一の課程は、自分の持つ業からの脱出である。
人にさまざまな条件によってしばられている。そのものからだれも自由であり
てみれば、人間という名でよばれる存在そのものが東格である。存在することす
だか、各在であらざるものになることが完全な解服なのであって、

ものであるが、それはもっとずっと先になって君の追求すべきテーマになるだろう。
するのでのである。そのという。集によってきた
もうくる。この、カルマののとしてはじまる。

さんよう
カルマの解脱をしない修行者は、修行がほとんどすすまない。中絶しやすい。それは身心が浄化
されず、不浄なものにみたされ、法」という清浄なるものに帰一同化することができないから
だとされている。
だから、修行の第一歩において、グル(師匠)は、修行者にカルマの解脱の法をさずける。
ヨーガ・スートラに「コーギーの業は白くも悪くもない。その他の人々の業は三様である」と
いっているのは、グルが、修行者に、修行の最初の段階で、かれに解脱の法をさずけて、業から
離脱させるようにするからである。(業には普通、自業、黒業、黒白業の三種がある。白業とは
よい結果を生ずる原因、いわゆるさい因縁で、黒業とは悪い結果を生ずる原因、いわゆるわるい
因縁で、黒口業とは両方が混合している業である。通常の人はほとんどこの種の業に属してい
る。ヨーギーはこれらのいずれの業からも超越するのである)
びこうくう
こくびやくこう
「だいばくしんぼう
私は、真言密教につたわる “大白身法』を以てこの法としている。これは、古来よりの因縁解
魔法として最高最勝のもので、他にこれ以上の法はちょっと見あたらないからである。
普通、これは1000日つづく修行である。1000日つづくといっても日常生活のうちに修
行できる行法であるし、とくにむずかしいというものではない。-000日の間に法を身にっ
け、因縁解脱を完成するとともにりっぱな密教者としての素養と知識を示かめ、指導者としての
人格、識見、能力を高めてゆく。この修行だけでも、人は、非常にすぐれたパーソナリティの出
現におどろくことだろう。

 

 

よるヒトの改造

1 27の質をさとる力を持つ。
小なるものは極微の原子から、大なるものは天体の生成から宇宙の構造まで、一瞬のうちに
さとる力を持つ。
この世界は多次元的であり、われわれは、普通、三次元までしか知らない。それでは、こ
の世界をほんとうに知ったということはできない。感覚器官を増幅して脳に直結し、物質の
四次元性質を理解するのである。
つぎに、第二段階として、
2 物質を自由に制御する力を持つ。
第一段階で物質のエネルギーの秘密がわかった結果、この力が生じ、この力を訓練する。
最後の段階として、
3 質も肉体も超えてしまう力を持つ。
この段階は、いまの私にはくわしく説明することができない。私はそこまで至っていないの
で、ただ、推察するのみである。いえることは、かれはここで万物を動かす根本のエネルギーの
秘密を体得する、ということである。この段階では、時間と空間を超越してしまうということで
ある。
こんばん
がー、ここで私は思うのだが、あなたはここで、大きな戸まといを感じているのではなか
ろうか?ふかい疑惑とつい疑問を感じているのではなかろうか?
とは一気によるヒトの精そんなことがほんとうにできるのか?いったいどうやってそんなことができるのだ、と。
それもたしかにもっともなことで、私自身、身をもってこの密教の秘密に挑戦し、自分でこの
技術を解明するまでは、ぜったいに信ずることができなかった。私は単身、五000年の間秘密
のヴェールにつつまれてきたこの不思議な技術にいどみ、その秘密を解いた。それは、信下るこ
とのできないほど特徴微妙な生化学に立脚したおどろくべき技術の応用であった。
たとえば――
さきにもちょっとふれたが、市川亀久弥博士は、最近の著作のなかで(蔵野館部制) お得意の
「等価交換展開理論」にもとづき、イモ虫からサナギへの変化を例にして未来社会への脱皮を説
いておられる。この理論はまことにみごとで、まさにほれぼれするほどあざやかである。こと
に、イモ出がサナギに変身する理論的うらづけは、述しきりに輩出する未来論のなかで、まさ
に出色のものであるというべきである。
ただ、まことに残念なことに、それは理論と説明と期待にとどまり、それをいかにヒトに応用
して実現させるかという方法を示していない。それは、もちろん、氏自身、同書のはしがきのな
かで、これは、『単に人類のあるべき未来社会に関するソフト・ウェアの主張の範囲にとどまる
ものである。とことわり、このソフト・ウェアに対するハード・ウェアの具体的な提唱』は
“遺い将来に公表する予定である,ということであるから、われわれはまさに研目してそれを待
う思うのであるが、しかしー、密教は、すでに、その”ソフト・ウェアに対するハード・
かっくタの部分でいるのである。演歌は、その持つ機織るときに、市川理
家からの外への露度。獲得る降っていて、数千年ものが、連れでの実質校篇
英護しているのです。
を載後、場代の種途運議の大家の接響する未来に関する花形選を、なに美しくいたので
。。の年も前に
多いまあることしか組の為生物であるイで娘が、サナギになり、そして、次線の生物に
をすることを設、一決定の要婦に生きる生物が三次元生物に変化したことを意線するのが、
しにきた。でも弾きすることは、三次元生物であるとかもそれより上に
することを要でする。変数の要身教動機でおなのである。その生物の質をよくしまる
るときある。さまでもあくまるように、ただ発撃的、発無かを的アイマイチ。
を。野から、そうしても整理熟の降ってるか
という点である。道駅
しかたを、です。

 

鷲の城風
で送、の渡常に増強の為な活用理論『導領を無抵海運会』は演
どのように敵の技績の間があるのか?
きくと、もう少し知っておいでいただかがめなことがある。
と、城は、築設をオーダという。つのことばについて進べて秘かに盛ら。。。
定外公職選」で、戦機、警数についてつぎのように述べた。少し長いが無いく。
とした一である。
後に劇という家派仏教と、設すなわち総署公教とは、あかいつながりがある。だが、実は
どこまでとかいう校歌うという関係であって、通考えられているように、た教員長、政
戦をいあるのでないのである。
身音演と接、インドにおいて生し、大成したを、ああいう独自の男に、無線
したものであって、変数をのものではないのである。製のひとつの森系ではあると、
のではない。
「それは、それまでにほぼ完成していたけれども、分識し、多様化していたインド戦を3本、
の登場で、独自の見識と京都によって、ひとつの道につくりたいある。
理し、実家においても、教というかとつの要素を無線です。

れもまた、密教のひとつの流れということである。
そういうわけで、密教というものを正しく理解するためには、どうしても、一度、密教の原点
に立ちもどって考えてみなければならないのである。
密教は、最初、ひとつの手法(技術)であった。
けっして、最初から密教というひとつの宗教があったわけではない。
ゴータマ・ブッダがあらわれて、仏教というあたらしい教えを説きはじめるはるか以前、バラ
モンの時代から、インドには、人に超能力をあたえるひとつの手法があった。そういう手法が完
成されて、一部の人たちの間につたえられていた。それは、精神と肉体のきびしい錬磨から得ら
れる神秘的な力で、彼らは、それを、ひとつの技術にまでつくりあげていた。
われわれは、その流れのひとつを、現在、ヨーガのなかに見ることができる。(ただしそれは、
いまの日本で行なわれているアクロバティックな体操のヨーガではない。ヒマラヤの奥地の望者
たちの間に伝承されている正統ヨーガである)
ヨーガは、その手法のひとつの流れである。この超能力を開発する技術は、仏教があらわれる
以前においてはバラモンにとり入れられ、仏教があらわれると、仏教もまたこれをとり入れた。
ゴータマ・ブッダは、かれ自身、この手法をまたんで、これにより超能力を持ったが、弟子た
ちにはこれを学ぶことを禁じた。なぜかというと、この技法によって多少の力がつくと、かれら
はすぐにそれがブッダのいう「ホトケ」という境地に達したものと考えてしまい、修行のさまた

299
げになるからであった。
ただし一部の、素質のきわめてすぐれた弟子たちには、ひそかにこれを許した。
ゴータマ・ブッダは、普通、神秘的な力を信じたり、修行者がそういう力を持つことを願った
りするのを全く禁じたというように、仏教学者や仏教者は信じているようであるが、それは間違
いで、ブッダ自身、神足 (Iddhi)の教理、すなわち、仏道を完全に成就するためには超自然的な
力が必要であるとし、超人間的な能力開発の訓練法を説いているのである。これは、パーリ文献
によって容易に証明することができるのである。(略)
それによると、それは、『四神足,または、四如意足,ともいわれる超能力開発法である。
ブッダは、菩提を成就するためには、単に、知性や理性をみがくだけでは不十分であると考
え、知性や理性の限界をうち破る力が必要であると考えた。
そのために、彼は、そういう力を開発するための行法をつくりあげた。それは、彼が学んだ超
能力開発法を加えて編成したものと見てよいであろう。
メソッド
しょう
それは、三十七種の技法から成り立つもので、四神足というのは、その中心になる技術であ
る。神通、如意を得るための定を、四種類の手法に分けて説明している。
低神足(演望、理想、創造のためのアプローチ)
勢神足、体と心のトレーニング法)
神起(潜在意震のトレーニング法)

 

エドガー・ケイシー

エドガー・ケイシー

ケイシー、1910年

アカシックレコードという概念は、心霊治療家・心霊診断家エドガー・ケイシー(1877年-1945年)が、晩年から死後にかけてアメリカ社会で人気になるのに伴い知られるようになった(ケイシーに関する著作トマス・サグルー著『永遠のエドガー・ケイシー』(1943年)が出版される晩年まで、ケイシーはあまり知られていなかった)。彼は、メスメリズム(動物磁気療法、催眠療法)による催眠状態で人々からの相談や質問に答えるという、特異な人生を送った[25]。喉頭炎を患い声が出なくなった時に、メスメリストによる催眠治療を受けたが、催眠状態では声を出すことができ、普段とは異なる人格が現れた。その人格が語る病気の原因と治療法によりケイシーは失声症を克服し、また催眠下では他者の病の治療法も教えたため、徐々に患者の相談に答えるようになった[25]。競馬や株価の予想といった私益の相談には、うまく能力を発揮することはできなかったという[25]。1923年に印刷業者で宗教・哲学、特に近代神智学に詳しいアーサー・ラマース (Arthur Lammers) に出会い、ラマースは神智学の教えなどを催眠時のケイシーに質問し、ケイシーは神智学の影響を大きく受けた[25]。ラマースの勧めでケイシーは病気相談(フィジカル・リーディング)だけでなく、過去生の経緯や過去生を含む人生全体の相談(ライフ・リーディング)に応じるようになり、支持者が集まり活動は組織化されていった[25]。グノーシス主義等を研究する宗教学者大田俊寛は、ケイシーの思想には神智学協会に始まる近代の神智学と『新約聖書』の「ヨハネの黙示録」、その代替医療にはニューソートの影響が認められると述べている[25]。女優シャーリー・マクレーンのオカルト色の濃い自伝的書籍で、ベストセラーとなった『アウト・オン・ア・リム』では、ケイシーの輪廻転生論が重要な位置を占めている[25]。リーディング記録をもとに彼の思想や歴史館を語るジナ・サーミナラ著『転生の秘密』(1950年)などがベストセラーになり、ケイシーの思想はニューエイジにおいて重視された[25]

ラマースの知識は神智学に基づくもので、神智学の霊魂観の真偽などを催眠時のケイシーに質問した。これに対し、ケイシーは次のように説明している。人間の霊魂は輪廻転生を続けており、太陽系は八次元からなる「魂の修養場」である。三次元を特徴とする地球では、霊魂は三次元的身体(肉体)をまとって自由意思を行使する。地球では肉体と霊体という二重性のために、人間の意識は顕在意識と潜在意識に完全に分離してしまい、潜在意識は眠り込んだ状態になる。潜在意識の次元では、魂がこれまでに経験した事柄(過去生を含む)がすべて記録されている[25]。ケイシーはこの潜在意識の記録、「霊的な記録庫」にアクセスし、過去世の記憶から得た情報により人々の相談に応じているのだという[25]。この「霊的な記録庫」が、のちに神智学の用語に倣って「アカシックレコード」と呼ばれるようになった[25]。ケイシーは、相談者の問題は、前世から受け継いだ「カルマ(因果)」によって起こると考えた[25]。また、滅亡した古代大陸アトランティス(現在では架空と考えられている)に生きたアトランティス人が多数アメリカに転生していると述べ、アトランティスの興亡をめぐる超古代史なども語った[25]。ケイシーは、科学技術の暴走による文明の滅亡など終末思想の濃い予言を間近なものとして語り、核兵器の脅威におびえる人々の支持を得た[25]。これらの予言が当たることはなかった

密教によるヒ の改造

密教によるヒ
の改造
こころの統御と自在力
古代インドに技術があった。
ヒトのこころとからだに想像を絶する飛躍と昇華をあたえる技術であった。
それがどのような技術であるか、つたえられる奥義書、神聖知識、聖典、経風などのな
かから、いくつかをえらんで紹介してみよう。
まず、それは、感覚器官の増幅からはじまる。
一、三つの種類のこころを統御 「Samyama, することになり、自分の転生のありさまと、
過去および未来にわたって知ることができる。 また、これを他人に応用すれば,なもの磁
去、現在、未来をくまなく知ることができる。(ヨーガ・スートラ、自作念、統治期
ぞうふく
サンヤマ
二、言葉と対象と観念に複合と混乱がある。それらの区別に対して Sumanaを向けることに
より、あらゆる生き物の声を理解することができる。(自在品,第名前》
てんにつう
仏教で、「天耳通」とよぶ名の神通力のひとつである、Saayana というのは、ある分野におけるこころの統御と集中と放射に関する特殊なトレーニングと思っていただきたい。そのトレー
ニングから生ずる異常なエネルギーを考えればよい。
三、Samyama をもって他人の想念を直視することにより、他人のこころを知ることができ
る。(自在品 第03節)
仏教の他心通」である。
四、わが行に Samyama を適用して直観するならば、前生のことがわかる。(実修品第2節)
くんじゅう
佐保田鶴治博士は、この一節を、つぎのように注釈される。
『行はこれまでの経験によって潜在意識へ投入された、残存印象 Vacana 温習)である。この行
は、人の潜在意識内に蓄積されていて、記憶想念や業果となって顕現しないかぎり、永久に残存
するものであるから、 この行に対して 療制(佐保田博士は Samyama をこのように訳しておられる)
さほどこして、それを直観 (sakeat-karuna) することに成功するならば、自分の前生だけでなく、
他人の前生をも何生にもわたって知ることができる。この智を仏教は六神通のひとつにかぞえ、
部、命、とよんでいる。ブッダも悟りを開かれる直前にこの宿命智を得て、自分の前生を何大城という非常に遠い昔にまでさかのぼってくわしく観察し、さらに他の生きものの前生をも視察し
たといわれている』(解説ヨーガ・スートラ、佐保田鶴治註釈)
ウパニシヤクドー
おなじ力を、べつの奥義書は、つぎのようにつたえる。
五、第四のこころをもって目をひらき、相手を見るとき、いかなる相手も自分の過去をおおい
かくすことはできない。(クンダリニー・ヨーガ・ウパニシャッド、実修篇 第1節)
六、自分の心を、他人の身体のなかに宿らせることもできる。(自在品 第四節)
これは、強力な念力により、他人の想念を自分の思うままに統御することである。その力は、
「クンダリニー(Kundalini)の力を発動させて、相手の第二の心に向けて放射(集中)するこ
とにより可能である。(クンダリニー・ヨーガ・ウパニシャッド・実修篇第好節)
よるの
も、Samyama を使って、ふかい心の発現にそなわる光をあてることにより、どんなに微細な
ものでも、人目につかぬところにかくされているものでも、はるか遠くにあるものでもなる
ことができる。(実品第)

 

 

この意について、保因博士は、つぎのように注釈される。
つのに、自光を帯びた心の発現のことが説かれている。戦制によって、照騎性を論然の結

 

・腸にいたるまで、すべてを自分の思うようにコントロールできるのである。これらの内臓器
が、どんな状応にあるかをすぐに知り、少しでも異常があるようであれば直ちに正常にもどし
てしまう。そういう力の訓練が、このナービ・チャクラのトレーニングである。
からだに関する Samyama の力についてべつの経典、クンダリニー・ヨーガにつぎのような記
述がある。
F第目に成就したこころを以って病者を見るとき、その悪しき病める場所はすぐにわかる。
ーた、Samyama にさらに熟練すれば、将来、病むであろうところもはっきりわかる。そのと
い、熱達音が、腕とこころに集中すれば、悪しき場所はすぐに燃える』(同経典第8節)
能力は、化的なものから次第に高度のものに上昇してゆく。
レッ
一、頭のなかの光明に Samyama を向けるならば siddh (神霊)たちを見ることができる。
第品、部)
佐保田、上の注釈によれば、
いのかが、心洲 murdia-igatio) というのは、頭の頂上で、頭蓋骨の接合するところ、インド
で、ハ、(brahma-randhra) とよばれている所にある光明のことである。しかし、この光明の
演心識であって、心臓から発した光明が、背骨の中心を貫いているスシュムナー管を通って、

た心の奥にそなわっている光線を対象にめてることによって、分子、原子のような鉄ない。
でも、地中にかくされている程で、千鳥の湖くの出来事でも知ることができるのである。イン
ドでは紀元前からアトム礎(機置がとなえられていたが、これはギリシャ人のようにによ
っく到達したのではなくて、超自然的な力で極小なものを直観した結薬だといい伝えられない。
る。インドの原論は理論物理学的ではなくて、実験物理学的な方法によって到違るれたわけで
ある。遠方のことがらを感じたり、ヴィジョンとして見たりするひとは今日でもいる。千葉
が、テレパシーとかいわれる心理現象は催眠術によって発現する場合もあって、あながらに高に
することはできない(解説ヨーガ・スートラ)
光をはなつこころのことは、べつの型典においても語られ、
『第式のこころは白銀色にふるえる光をはなら、そのこころを目にむけて見るとき、この世界
は透明である。(すきとおってなにもかもはっきり見えるの意)」(クンダリニー・ ・パ
ある。すぐれた視力を持つ心の把握である。
さらにSonyatsを向けることにより、も悪人に見る

 

ーギーのからだはだれにも見えなくなる。(自在品 第6節)
感動の術とか、かくいかのとかいわれる秘術を説明した経文である。物の形や色が見えるの
は、見るものの方に対象を見る能力があると同時に、見られる形態の方に見られる能力がある
いう原理をふまえて、この経文は書かれている。インドでは、偉大なヨーギー「ヨーガ行者)が自
由に自分の身体を見えなくするという話はありふれたものになっている。(佐保田鶴治注釈)
ナービーチリクラー
ル、Nabhi-chakra(磨輪)に Samyama を向けることにより、体内の配列、組織を知ることが
できる。(自在品 第5節)
この章について、佐保田博士は、
輪というのは、実際の臍の孔ではなくて、そのあたりにあると想像される神秘な車輪状の
場所で、一六の幅をむっているといわれる。一説には、後世のハタ・ヨーガで説く六つのチャク
ラのなかの下から三つ目にあるマニピューラ・チャクラ (Maniparachakra) のことであるともい
う。いずれにせよ、肉眼で見える部分ではなく、幽体に属するものとされている。チャクラにつ
いては、ここで詳説する暇がない。脳輪は気体(生命エネルギーからなる身体)の中央にあるか
ら、これに繰制をおこなうと身体内の組織がわかる、というのである」(郭説ヨーガ・スートラン
と解説されておられるが、これは、多少ともちがう。

 

ワーアレクサス
陽上は、”そのあたりにあると想像される神秘ないといわれるが、この部位は、決して空想的
な場所ではない。たしかに神秘的とも思われる偉大な力を発揮するけれども、医学的にもはっき
り確認されているのである。
それは、医学的には Solar plexus と名づけられた「太陽神経叢」のことである。腹腔神経機、
内臓動脈軸叢ともいわれ、腹腔動脈より出る上腸間膜動脈の起始部にある交感神経の大きい神経
後である(前頁図参照)。骨の裏がわにあってさながら太陽の光線のごとく各臓器に神経を送って
いるのでこの名前がつけられた。
すなわち、ここから出る神経は、食道、胃、腹部血管、肝、輸胆管、膵臓、副腎、腸等に分布
している。また、この神経叢は大小内臓神経、迷走神経、第十二胸神経節、第一腰神経節などが
集まっており、内臓の神経としては最も重要な 叢 である。
チャクラについては、べつに章をもうけてくわしく説明するが、いずれも、今まで、空想的、
神秘的場所とのみ考えられてきたこれらの部位は、決してそういうものではなく、実際に、医学
的見地からも重要な場所であり、大切なはたらきをする場所であるのである。それを明らかにす
ることが、本書の大きな目的のひとつでもあるのだ。
「体の組織を知ることができる」とあるが、これは組織を知るだけではなく、組織を自由にコ
ントロールすることができるという意味である。実際にこのナービ・チャクラに Samyama 集
中すると、この太陽神経業に属する内臓器官――それは食道から、胃、肝臓、膵臓、脾臓、
が一致によるヒトの改造

 

 

に到達して、強い光のりとなっているのだと考えられている。
神通というのは、高い地位の神々ではなく、「霊よりは上位の霊体であって、天と通の
中間に位んでいると考えられている。現代の一インド学者は,これをマスター(電源線)で
いる。マスターは初めのうちは修行者の夢のなかに現われて教育し、後に法その案を現わし、
「分の名も修行者に告げる。さらに修行者の霊性が高まると、修行者は自分の必要に応じている。
でもそのマスターに会うことができるし、その上、他のすべての神霊に会うこともできる、とい
っている。もちろん、神霊を見られるだけでなく、それと話を交わすこともできるわけである。
(ミーア・メートラ)
これは要するに霊性の発現であり、四次元世界への接触ということであろう。頭のなかの光調
についてはあとでくわしく解説する。
頭のなかの光明とよばれる智に Samyardを向けるとき園明智 (pradisられる。
は最高の智であり、あらゆることをあやまりなくなり、いかなることでいを
「おかすことのない響である。(自在8,第器館)
のスクの経典では、つぎのように説明する。第六
とめ
にいく場(3)とよばれる上する。

 

 

とこに到達して、強い光の塊りとなっているのだと考えられている。
ここで神霊というのは、高い地位の神々ではなく、湖霊よりは上位の霊体であって、人との
中間に住んでいると考えられている。現代の一インド学者は、これをマスター(海外
いる。マスターは初めのうちは修行者の夢のなかに現われて教育し、後にはその姿を現れて、
分の名を修行者に告げる。さらに修行者の霊性が高まると、修行者は自分の必要に応じない。
でもそのマスターに会うことができるし、その上、他のすべての御霊に会うこともできる、とい
っている。もちろん、神霊を見られるだけでなく、それと話を交わすこともできるけである。
《解説ヨーガ・スートラ)
これは要するに霊性の発現であり、四次元世界への接校ということであろう。強みるのも、
についてはあとでくわしく解説する。
一つ、頭のカかの発明をよばれる響に Sanger を同社とき、調 Onlinがある。
路線は最高の響きあう、あらゆることをあますく華
すことのない著である。(自後島、第四層)
のことを、いつの経典では、つぎのようにする。

 

 

けんよん
270
る。それは第一の段階において、すべての見開するところを記憶にとどめて、いっさい忘れ
ぬというかがやきを持つ。
第二の段階において、すべてのものは彼のこころのなかにおいて形と色とかがやきを変え
る。(つまり、これは、ものの本質をさとるということであろう。 いうなれば、 三次元の感
覚と意識でこの物質世界、現象世界を見ているのと、そこを飛びこえて、四次元の立場から
見るのとでは、全然すべてのものが変わってしまうに違いない。そう解釈すべきであろう)
第三の段階において、すべてのものは、かれの心のままに、形と色を変える。(自在にな
る)』(クンダリニー・ヨーガ・ウパニシャッド実修篇・堤真寿雄訳)
一二、心臓 (hrdaya) に Samyama を向けることによって、心(citta)を意識することができ
る』(自在品 第j篇)
ンダイ
佐保田博士は、この章節を、
『心臓というのはもちろん、幽体的な心臓で、小さな蓮華の形をし、いつもは下向きになってい
る。この逃華は心の座である。あるいは、覚の座とも、 内 官(意、我慢、寛)の座とも解釈さ
れている。ケアーンドーギア・ウパニシャッドには、「小さな白蓮華の家」 のなかにはアートマ
ンがおさまっている、と詠われている。

 

ぎょう
かし
心はこころの実体であって、それ自身は意識面にのぼらないはずのものであるが、この心に
繰制操作をほどこす時には、この秘奥にひそむこころの実体さえも意識面に現われてくる、とい
うのである。心が意識される以上、その現象形態は残らず意識できることになる。
ある註釈者は、自分の心だけでなく、他人の心をも知り得ることだと解し、自分の潜在意識に
ひそむ行(これは業の意であろう。著者)と、他人の心に浮ぶよろこび等とを知ることができるこ
とを意味するという』(解說ヨーガ・スートラ)
と注釈されているが、ここのところはたいへん重要な箇所である。
この場所は、潜在意識、深層意識を動かす力の存在する場所で、こころ、すなわち潜在意識、
深層意識そのものが存在する場所ではない。ここは、そういうものを動かす力が存在する場所な
のである。
今までの修行者は、ここのところをまちがえて解釈し、すべて失敗している。これをまらえ
ると致命的なのである。ところがほとんどの修行者が、この聖典のこの文章にひっかかってしま
って、心かい酸(の部位)にあると考え、もちろんその心臓とは解観学的な心臓ではなく、その
近くにある心臓に密接な関係のある細胞群と神経線維の群れのことであるが、それを動かすこと
により、濃規意識を動かすことができると考えて一心にトレーニングに励む。それではダメなの
である。普在意識、深層意識はここにはない。それは大脳のなかにある。これはたいへんな
ことで、このことを私は、密教の記憶力増強法『求聞持是明法」を成就したときに気がついたはなれた死で、涅槃にはいることである。それはまた、意識を、最上界の電城に日出に上昇させ
ることができるという意でもある。このウダーナの統御は、肉体を軽くし、浮上させるというだ。
けでなく、というよりも、むしろそれは第二義的なものであって、実際は、意識、集編(質問
織》の昇華、浮揚、脱出を可能にさせる力を持つもので、それはより高度の生命(意識》との
れ合いを意味するものだといってよいであろう。いわゆる霊界との接触である。
一四、サマーナの気に samyama を同けてこれを統御すれば、身体から火焔を発することが
できる。(自在品 第3節)
サマーナは、願望成就、理想実現の力のもとである。サマーナの、気を自由に使いこなれ
ば、わが思うこと、願うことは、どんなことでも必ずこの空間にかたちづくることができる。
なわれ、鎖望成就するのである。修行によってこのサマーナのエネルギーを自典に候いこなす
ができ、三昧にはいってこのエネルギーが全身にみちみちると、肉体から火多発する。その様。
くらのなかにいて完明となる火であることもあれば、実際の火婚そのものを受大きる。
ある。教の不動顕主が、全身、火覚につつまれ、あるいは管中に火を負っているのだ。
ので、決しく、体の火の象徴のための火でないのである。

 

きんいたとき、北川、空耳の原理」照)念力で火を出したところでなにになるとわらっ
た人がいるが(以者で,こういう深いほんとうの密教の秘奥を知らぬ、無智や、不勉強
いい世る言であるというよりはかないのである。念力の護摩を焚くのは、この修行が完全に
しとげられたということの=なのである。また、念力の護摩を焚いて、修行音が一心にいの
ルが、自他の別なく、願ってかなわざるものがないというのは、実にこのためなのである。
一五、ふかいこころに Saiyama を集中することにより、こころが制約をはなれ、想像上でな
く際にの外で心がはたらく上うになる。それは大脱野 (mahavideha)とよばれる。
これがなされるとき、心の光照をおおういろいろな障害がなくなる。(自在品 第2節)
わざわざ、以上でなくialita) とことわっている通り、実際に遊離現象がおこなわれ
る。肉体はここでルに人,ていて、意識だけが一00キロ、1000キロ遠方の地へ行って、そ
の心の川北小Mさしてくることが可能なのである。
ある出来は、大概は深いトランス状態のことであって、外から見れば気絶状態とも見え
る深いのことであろう、といっているが、その通り、トランス状態に入って深層意識の
いの世界かたどっていることもあれば、実際に現実の世界で距離を超越した力を発揮して
いる場合もあるのでいる。

開発法としての求聞持法

その断層は決定的なものになった。技術は見失われてしまった。技術は意味不明のものとなり、
それはかえって宗教的に、不純”なものと見なされ、とりはずされて追放された。あとに儀式と
様式のみが残った。
儀式と様式になんの力があろう。かくして求聞持法は名のみとなった。いや、それは、宗教儀
式としての求聞持法である。知能開発法としての求聞持法はまたべつにさがし出されなければな
らない。
それは、真言密教の求聞持法とはちょうど正反対に宗教儀式の衣裳をすっかりかなぐり捨て
た、技術そのものの法である。それを、私は、密教の原点にさかのぼり、混沌のなかから発見
した。
私のいう「求聞持法」はそれである。かくして求聞持法はよみがえった。これから、その知能
開発法としての求聞持法を解説する。その原理と技術を紹介しよう。
記憶)のメカニズム
「記憶」とは、なんらかの「経験」が、脳の記憶の場にたくわえられ、それが必要に応じて再生
されることをいう。つまり、記憶とはひとつの経験が貯蔵され、ある時間経過ののち必要に際し
て思い出されることをいうので、思い出されなければ記憶は「無い」のだから、つまり記憶とは
思い出すことによってはじめて成り立つものだということになるのだが、実際は、記憶には二種
ローシステムとしての特性

類あって、思い出される記憶と、思い出せない記憶の二つがあることを、私は、「変身の原理」
で説明した。脳の記憶のメカニズムはたいへん複雑で、それはまだ脳生理学でも十分に解明され
ていないのだが、一応、その仕組みを見てみよう。
経験というのはひとつの刺激である。その刺激が記憶になるまでには、だいたいっぎのような
段階を経る。
刺激を感じるのは、俗にいう「五感」である。五感とは、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚をい
うが、こまかくかぞえればまだ多くの、「感覚」があり、おなかが空いたとか、なんとなく けだ
るく気分がよくない、とか、そういう身体の内部におこっていることを知ることもできる。つま
り、われわれの身体の内部、外部におきていることがわれわれ自身にひとつの影響をおよぼす。
これが、「刺激」である。
こういう刺激があると、身体にある「感覚器」または「受容器」というものがこれに反応し
て、電気的パルスを送り出す。たとえば、赤い花があれば、そこから反射された光が目のレンズ
を通して受容器としての視神経を刺激し、視神経がパルスを送り出す。これはパルスであって、
刺激の強さが大きければその獄がふえるだけで、電圧が大きくなるわけではない。おなじよう
に、皮膚になにかが触れれば、皮膚にある受容器が圧力を感じ、その圧力に応ずる数のパルスを
能に送りこむ。次頁の上司は、このような受容器のいくつかの例である。
さて、このようにして受容器にあたえられた刺激は、パルスに変換され、脳の皮質につたえら実際に、海馬や側頭葉がこわされると、いろいろな型の記憶障害がおこることが、動物や人間
についてたしかめられている。また、側頭葉の電気刺激で過去の体験を再現することに成功した
ペンフィールド博士の実験(慶項)や、ネズミの海馬をこわすと判別能力がわるくなるという
条件行動の実験も、側頭葉や海馬が記憶やそれにもとづく判断のはたらきに直接関係しているこ
とを示している。ただし、それは、側頭葉と海馬だけが記憶の貯蔵所という意味ではなく、記憶
はある程度、脳全体に分布しており、側頭葉と海馬は、その中心としてはたらく機能を持ってい
る場所であるというように考えられている。
つまり、
『側頭葉は記憶の機能に密接な関連をもつ。記憶に、海馬を中心とした辺縁系が重要であること
は前にものべたが、それを含む側頭葉切除では、古くたくわえられた記憶は失われないが、新し
い情報を記憶に組みこみ、早期にそれを固定し、必要に応じてそれを引き出して用いるはたらき
(記絡と回想)に重要な障害をきたすことが、脳外科的手術の経験の増すとともに確かめられた。
前頭葉の破壊によって古い記憶は障害されにくいところをみると、記憶は広く全脳にたくわえら
れるものであって、側頭葉はその出し入れと照合(解釈)に主役を演ずるものらしい』(脳のはた
品崎樹・宮坂松術著)そしてそれは海馬もおなじようなはたらき をするものと考えられる。
『記多分、視床の連合核や、大脳皮質では第二次運動野、第二次知覚野および連合野でたく
わえられる。他電性の行動の記憶は身体の部分に対応した体知覚連合野に、視覚性の行動に関しる的に
たは反対に、 これまでに見たことのないものが、以前に
感じる(既視体験など、側頭葉と記憶との密接な関係はよく知られているところで
あるが――、刺激によって長期記憶を再生するのも側頭葉であるが、それは多分、側頭葉深部の
御馬が刺激されて、記憶貯蔵所を興奮させ、記憶されたときと同様な型の興奮を生じ、記憶が再
生されるのである。海馬を中心とする大脳辺縁系のニューロンは、知覚系、運動系、覚醒系、動
因系、制御系その他の機能系を連合して記憶県と結合する道であり、記憶をたくわえ、または再
生する有力な道である』(脳のはたらき・吉井直三郎著)
きおくそう」
『記憶の所在は、粗大な分類にしたがえば、大脳皮質と間脳との間の広汎な領域にある。その領
城の神経連鎖にニューロンの活動の型が記憶として残されるのであろうが、これを細胞レベルで
考えると、運動系、知覚系、覚醒系、睡眠系、動因系、制御系のいずれにあっても、その主回路
の他にあると考えられる多数の副回路のなかに反射化された学習回路が残されるのであろう。そ
れ故、大脳にひろく記憶が保持されているといえるであろう』(脳のはたらき・吉井直三郎告)
以上の専門学者の説明を参照した上で、私の求聞持法の体験をあわせ判断すると、記憶の場
は、半球内側面で間脳をかこむ部分、つまり「帯状回」のあたりであると私は思う。

 

所であることは、その所在する位置によっても、うなずけるであろう。
まえに引用した文章では、海馬が刺激されて記憶が再生されるのであると説明されているが、
私は、海馬それ自体の奥ふかくに、ごく古い記憶(深層記憶)がたくわえられているものと信ず
る。それは、動物実験で、人間におこなわれた側頭葉表面の刺激 (ペンフィールド博士の実験)と
おなじ効果が得られることから、それは、間違いないものと思われるのである。
すなわち、電極針を動物の側頭葉のなかに入れて、海馬を刺激したとき、注意を集中する注意
中反応、なにかを探索する探求反応が顕著にあらわれる。
「これは何物かの記憶がよび起こされ、「幻覚」が起こったのだともいわれる」(脳のはたらき・島
崎微糖 – 宮城松術着)のである。それはちょうど、ペンフィールド博士の実験で側頭葉の表面に電
針をあてられた被験者が、なん年ものまえの出来事をそのまま想起してびっくりしている状態
そのものである。そこで、この実験を動物ではなく、なんらかの方法で生きている人間の海馬の
中心を創激すれば、彼の前世、前々世の記憶がよみがえるのではないか?(密教は特殊な方法で
それをやるのである)
第一信号系と第二信号系
さてそこで、活は前にもどるのであるが、記憶のもとになる「情報」に、二種類あることをさ
きに述べた。

 

のもとで、この二つが記憶になるわけである。
ただし、第一情報と第二情報とでは、その記憶の場所がちがうのである。
第一情報は古い皮質の海馬の表面あたりに記憶される。これはどうしてかというと、海馬には
大脳辺縁系の中心で、本能行動、情動行動を支配する。本能行動というのはほとんど意識されな
い行動である、自律的なはたらきの領分であって、痛みや洋みなどの感覚にたいして、パッと無
意識のうちになされる動作のたぐいである。だから、情報も、無意識の情報はここに集まって、
それに対する反応も無意識のうちに対応されるように準備されるのだと考えればよい。
これに対して、第二情報は新しい皮質の側頭葉にたくわえられる。
脳の「解釈上の錯覚」について実験をくりかえしたウィリアム博士の実験により、側頭葉の全
領城が、ものの解釈をする部分であることがわかった。この領域を刺激することにより現実のも
の下の解釈のまちがいが生じ、この領域以外ではそういうことが見られぬことがあきらかになっ
た。8は、その一連の情報をまとめながら、過去の経験の記憶をひき出して適切な照合を行な
い、現在の経験を解決して、状況に応じた適切な行動をおこさねばならない。この、記憶をひき
出し、現実を解釈する機能に仙頭集がもっとも重要な役わりをはたすわけで、ベンフィールド博
士はここを「解する皮質」とよんでいる。
ところで、意識された情報とは解釈された情報であるという見かたもできるであろう。意識と
は一種の解釈であるのだ。そこで第二情報は解釈する皮質である側頭葉に伝達され、そこで記憶
お240
えるも
に、多くりかえされた記憶は旧古皮質の魂の海馬のほうに移っていってそこにたくわえられる
まりである。ベンフィールド博士の実験でも、電気刺激をあたえた側頭葉表面の皮質を引除して
も、そういう記憶はなくならなかったという報告があるから、上部(表面)の新皮質のほうに人
った記憶も次第に辺縁系のほうにしまいこまれてゆくのであろう。それは、たとえば、タイプラ
イラーの練習などでもよくわかる。タイプの練習に際して、「上手になろうと思ったら、キーボ
ートは見ないほうがよい」といわれる。最初、それにしたがって、「Aの字は? あれは下から
目の、一番左の端だったな。小指で打っこと」などとアタマで考えながら打とうとす
る、アタマというのは「新しい皮質」であるから意志的である。そして運動の皮質がはたらいて
小指を曲かす。目は用字をよみ、その形を見て「たしかにAの字だ」と判断する。こういうこと
家、なん回もくりかえして練習していると、そのうちに、いちいちこんなことを考えなくても打
で面ようになる、このことは――、つまり、「新しい皮質」になん回もなん回もくり返して入れ
ことは、だんだん「古い皮質」に入りこんでゆく。そして「本能的」にできるようになる、と
いうことだ。自動車の運転などもそのよい例のひとつである。
この第一情果、第二情報を、脳の重要なはたらきである「条件反射」の理論に基づき、脳の第
一、第二号系として発表したのが、ロシアの有名な生理学者I・P・パブロフである。
の第一号系とは、第一情報のことで、意識されない情報を主にした、感覚器官からの
あるのである。だから、これは動物でも人間でもおなじである。具体的な感覚のかたちで外界を反映したもので、視覚、聴覚、触覚、嗅覚、その他の感覚からのナマの情報である。そ
してそれがそのままのかたちで記憶されてゆく。感覚そのままの感知の情報で、なかには意識さ
れるものもあるが、多くは意識されないまま送りこまれる。それに対する反応もまた無意識のま
ま反射的に送り出されることが多い。まぶしいという感覚にただちにクシャミが反応するという
のなどその典型的なものである。そしてそのとき、まぶしくてクシャミをしたという経験(情報)
は、そのまま記憶になる。
これに対し、第二信号系は、人間にしかない。なぜかというと、この信号系はトバによって
成り立つものだからである。第二信号系は、感覚器官からの情報をいったん意識を通してコトバ
でひとつのかたちにまとめた情報である。ナマの情報ではない。そういうかたちにして記憶領域
におくりこんだり、論理的判断、思考をする機能である。
人間の知的進歩は、コトバの発見によるこの第二信号系の発達によるもので、これあるがため
に、人間は、外部のあらゆる雑然たる情報を、自分の内部で、論理的、系列的、抽象的におきか
えたり、積み重ねたり、他にそれをつたえたりすることができるようになったわけである。
しかし、もちろん、こういったからといって、この二つのものは、おのおのべっべつに動いて
いるのではなく、この両者がそれぞれ独立しているというのは、相対的な意味においてであっ
て、第二号系はシトパ、第一信号系は感覚として、両者は結局第二信号系にみちびかれる完全
にひとつのものとして一緒に活動しているのである。そこで今までのところを総括すると、こう

24
「エた購映
いうことになる。
~第二信号系―新皮質の側頭葉
(経験)知覚)情換えない情報第一信号系!旧古皮質の大脳辺縁系海馬(記憶)
インデット
アリアント
密教は第三の信号系を持っ
さて、今までは、もっぱら、「入る」の面を考えてきたわけであるが、今度は入ったものをも
とにしておこなわれる「出る」のほうを考えてみなければならない。
われわれがひとつの出来事に直面して、それに対し、判断したり、計画を立てたり、行動をお
こしたりするのがアウトプットであるが、それはどのようにしておこなわれるか?
今までにうけ入れてあるすべての情報(経験)を、できるだけ総動員して、それをもとに、判
断、決定、行動の材料にするわけである。だから、この際いちばん重要なことは、その材料が豊
品であることである。判断はそれが貧弱なほどあやまりをおかしやすいし、豊富なほど正しい判
間をする率が高い。ちょうど、むずかしい局面に直面した棋士が、過去に記憶(経験)したすべ
での定石や変化を思い浮かべて、それをもとに、もっとも有利で正確な手を打とうとするのと同
じことで、そういう場合、力の弱い者ほど経験(記憶)が少ないということである。 この場合、
経験というのは、長年たくさん盤激を打っているというだけのことではなく、どれだけ定石やそ
の進化が頭に入っていて、必要に応じてそれがひき出されるかということである。だから一番た後できるだが多くの和をひき出すということである。つまり、第一信号系、第
結ぎのひき出す、つまり思い出すという作業である。ところがこの作業
人、一緒島県の再生である。第一信号系の、コトバによる記憶は比較的(比較的であ
家政を統、常一信号系の記橋は非常にひき出しにくい。というのは、第二信号票の記憶
設定、まだ設よって整理されたり統合されたりしているから、それに対するテーマが決定
では、それに謝選して系統的に、論理的に出してくる可能性がつよい。中山正和教授によれ
現代は、線の電鉄』(サンの構造, 中山正和茶)であって、連絡しているからである。これに対
の定員は成の記録で、脈絡なしに断続的に入ってきたものであるから、つながり
しかし、機器としては第一信号系の方が圧倒的に多いし、また、量だけではなく、質
をつかめなくないのである。
もし、事物を創造するという場合にそのことがいえる。創造には機置が必要で
や総的思考の県み重ねだけでは得られないもので、論理や設期をはなれ
が多い。ただし、高域をはれたといっても全くはなれてしまうのでは
ただそ遣いのつ意がら、一方でそれに関要するにかめすべてを授
で、それがあるが、変更城献し然難所、びらめきぶんをつ
たというものだとは、
多めにある
通常のぐうう、いつを

 

244
さしてんでゆくすがただということである。
よく、直感とかインスピレーションとかいうけれども、それはよくしらべてみると、第一信号
落の情報記憶とむすびついて生じたことが多いのである。第一信号系は、脈絡がなく、意識され
ていないから気がつかないだけのことなのだ。もっとも、このことは、あえて創造に関すること
だけにかぎらず、ナべての発想に際してあてはめられることといわねばならない。
ところで、この発想の作業は、考えてみると、すべての記憶を思い出そうという意志が、第二
信号系とむすんで、第一信号系の記憶、ならびに全脳にわたる記憶の領域を、その表面から深部
にいたるまで掘りおこそうというのである。それは新皮質である側頭葉の全表面から次第に内部
におよんで間脳、帯状回の中間皮質から、旧古皮質の中心、海馬にいたるまでの全領域にわたっ
はたらき
での作業ではないか。まことに気の遠くなるようなこの作業が、それではいったい通常どのよう
にしてなされているのかというと、それはまったくその人の脳の自動的な機能にまかせておくよ
りまかないのである。
ということは、それがうまくゆくかどうかの決定は、そのときそのときの運次第か、または、
そういう作業が先天的にすぐれているか、おとっているかという、つまり「素質」の問題になっ
てしまい、最後はその人間の頭がよいか悪いかというところに帰着してしまうということではな
いか。おそらくは最終的には運と素質だということになるのだろうが、しかし、まるでツルギの
いたりのようなこの作業が、もしも、意識的になすことができて、第一信号系と第二信号系の

トールすることができたとしたらどんなものであろうか。
第一線渋紙34バを使って第一信号系を自由に構築するごとく、ある力をつかって、第一信
が、「信号の記憶を、海馬のふかい奥底から発掘してきて、自由に構築することができた
をしたら、その力に属するあたらしい系は、いったいなんと呼ばれるべきであろうか?それは
まさしく、外部の構好系」と呼ばれるべきものではなかろうか?
だが、かとは、そん然ことは不可能だというであろう。
然、客段はそれをやるのである。それ意やるある力」を持っているのである。すなわち,密
数は「第三の目が系」を持つ。
義のよいことが、ぜったいに「素質」だけによるもので、ほかになんのなすべき方法がな
いきいのであったら、表聞持法の出る幕はない。しかし密教は求聞持法を持つ。頭のよいのは
をやれなく、この技法によって訓練すれば、それは得られるということである。
の整理を知るためには、もうひとつの記憶のメカニズムを知ることが必要である。
る教鍋を食べる。

 

 

2ューシステムとしての水特法

237ーシステムとしての開法

科学におけるヒトの改造

また、ゼネラル・エレクトリック社は、アメリカ陸軍用に「ペディプレター」(歩行操縦器)を
つくりつつある。竹馬の長い足のように、それをつけると巨大な歩幅で歩きまわることのできる
器械である。竹馬とちがってこの金属の脚には膝や躁関節があり、バランスがとれているかどう
かを知らせ、調節する仕組みになっている。われわれはこの器械をつけることにより、ちょっと
したビルなどひとまたぎにし、一キロの道を五、六歩で歩いていってしまうようになるだろう。
将来は、この種の器械や装置を組み合せて、大またで歩いたり、重い物をかるがると持ち上げた
りするだけでなく、あらゆる動作――長い距離を非常なスピードで泳いだり、一日も二日も水底
を泳ぎまわったり、枝から枝へとびうつったりを、やすやすとやってのけるようになるだろう。
明らかに、これは単なるキカイではなく、それは人間の働きに同化した『人間増幅器である。
「や人間と機械は新しい関係にはいった。二者が事実上見分けられないほどたがいにまざり合
っているような関係――サイボーグとはこのような混成生物にたいしてつくられた言葉である」
とG・R・ティラーは、サイボーグに対して新しい定義をくだす。
しかし、ヒトのサイボーグ化の究極は、手や足や肺ではなく、結局、ヒトの知能の中枢である
大脳の増幅ということになるであろう。
すでにそれは始まっている。ヒトの脳とコンピューターを直結する技術に科学者たちはとり組
んでいる。「西歴二〇一八年」は、 その頃までにそれは可能になるであろうと予測している。そ
ういうと、いかにコンピューターを埋めこむのかと聞かれる。

いう方向に研究はすすめられつつあるようである。だが、しかし、実際にはその反対のことも起
こり得る可能性があるのだ。つまり、コンピューターのなかに、生体部品→腦ーをおくことだっ
て考えられないことではないのである。それは、ヒトとキカイとの完全な合成である。人間と機
械との複合結婚!、そういうものが起こりつつあるように思える。
SF作家のアイザック・アシモフは人間と機械の混血した新しい生物種ができることを予言し
ている。すると科学におけるヒトの改造の極致は結局それなのか?そのうち、われわれは、機
械化したヒトに話しかけているのか、ヒト化した機械に話しかけているのか、わからなくなる日
がやってくるだろう。あるいはまた、自分自身でさえ、そのどちらであるのかわからないという
が。
かくしてホモ・サピエンスは消えてゆく。
ヒトは、自分たちがい出ほろびるという絶滅意識を持たぬまま、しずかに機械のなかに吸収さ
れてしまうのか?あるいは、かえって、最後のホモ・サピエンスは、これほどの科学を生み出
した科学者の功績をほめたたえつつ、ある日、突然、その意識を機械のなかに消してゆくのであ
おうか?もしもそうだとするならば、これこそまさに、一00万年のヒトの歴史と、ヒトとい
う生物の持つすべての盾をその一瞬にかけた世紀の一大ナンセンスというべきだろう。あなた
かじゅん

不死の複製人クローン人
それでは、もうひとつ、科学の最後の提案をみてみよう。
さきに述べた遺伝工学の件ででもわかるように、生物学は、いまや、生物現象のなかでももっ
とも重要な領域、すなわち、生物の生殖過程までも変化させはじめている。
近年、避妊や、精子の長期保存、人工授精の新しい技術、さらにごく最近では種々の不妊症を
回復させる新しい方法などについていろいろな解説が普及し、研究がすすめられつつあること
は、すでにポピュラーな事実である。そのなかでも、もっとも目ざましいのが、遺伝子の配列を
変えて、生物―ことにヒトを改造しようという技術であった。これはさきの項で述べたが、い
ま、この遺伝子変換の法とならんですすめられつつあるいくつかの研究のなかで、まさに驚天動
地ともいうべき技術の開発がひとつある。
これがもしも完全に成功したならば、その技術において、ヒトはまさに神になったといっても
よいであろう。ただし、技術の面だけでのことだが――。
それはすでにごく一部のジャーナリズムに注目されはじめ、報道記事にされている。さし木
から生まれたアインシュタインたち』というような、興味をそそられる見出しで報じられた研究
161 科学におけるヒトの改造
「もっと科学的にいうならば、それは、クローン人ともいうべきものだ」

162
と、G・R・ティラーは註釈する。
クローン人とは、一個体の細胞から無性的に増殖・分化して生じた同一人間群のことである。
今から七、八年ほど前のこと、アメリカのユーネル大学でひとりの科学者が、彼として最初の
研究結果を発表したとき、周囲のみんなから、それは誇大な自己宣伝だと受けとられてしまっ
た。それは、それほど突飛な、いわば意想外ともいうべきものだったのである。けれども、その
内容を検討して、それが決して誇大なものではないことを知った世界的な生物学者ジョシュア・
レーダーバーグは、溜め息をついてこういった。
「私たちは、大変な変革的な動乱のがけっぷち」にいるのかも知れぬ」
と。
その研究は、地球上の植物、動物、人間など、すべての生命の現在の立場を根底からゆるがし
んでしまう可能性にみちたものだったのである。
その科学者というのは、コーネル大学の細胞・生理・成長・分化研究所長のF・C・スチュワ
ード教授である。驚異にみちた彼の研究とはこうである。詳細なその研究内容の解説を、G. Ra
ray Taylors The Biological Time Bomb” 「生物学的時限爆弾」(邦訳、人間に未来はあるか、
す刊)から引用させていただこう。
ーーランジンの、つまり私たちの食べている部分から細胞をとり出し、それを、ゆっくり回
新しくいるのはいった管のなかに入れる。その時差液のなかには、普通には使われていない成分ココナツミルクがふくまれていた。彼は「私たちはほとんど動かない」 ニンジンの
細胞にドラマチックな変化が起きるなどとは期待していなかった」と述べている。それにもかか
わらず、ニンジンの組織は急に成長しはじめた。
三週間もたたないうちに、どんどん重さがふえ、もとの約八〇倍になった。彼はこういってい
る。
「それは、ちょうど、ユュナツミルクがクラッチのように働き、成長という、から廻りしていた
細胞のエンジンに、ギヤがはいったようであった…」
成長をうながす他の物質について、各種の実験が終わってから、研究は第二の段階へはいっ
た。百におよぶニンジンの外植体”(個体からその一部を分離し、体外で培養して得た個体)が、た
ったひとつの容器のなかで、培されたのである。これらの細胞はそれぞれ違った経過をたど
る。非常に大きくなるのもある。順次、分裂して、フィラメント状になるのもある。酵母菌のよ
うに芽を出すものもある。さらにあるものはーーそしてこれがこの話の要点だ細胞塊とな
り、根を出しはじめる。固体培地へ移してやると、緑の芽をかき出す。ふたたび土壌へ移して培
義してやると、普通の根と茎と花と種子のあるニンジンになった!
今から亡の年前に、オーストリアの生物学者G・ハーバーランドは、このような、栄養生殖
《結性生源)が、いっか実現することを夢みていた。その夢を、スチュワードは現実のものにした
のである。その後の実験から、ニンジンの初期の歴のひとつからとり出した細胞のほとんどどれ

164
でも、先に述べたように、無性的に個体にまで成長させることができることが実証された。
スチュワードが難関を突破して以来、べつの研究者たちはタバコについて同様な実験に成功し
た。これは,ニンジンの場合とはまた少し違った培養の操作手順を苦心して見出さねばならなか
った。それぞれの植物により、その培養条件は違っているもののようである。これと同じこと
が、まもなくほかのどんた植物でも成功すると考えられている。
ところで、
間習は、これと同じことが動物細胞についてもできるかどうかということである。
その答は、決して不可能なことではない、というものである。
もちろん、それは容易なものではない。
大体、実験室で細胞を培養することは、けっして新しい技術ではない。けれども、たった一個
の細胞をもとに、これを薄層の組織にまで成長させる方法が発見されたのは、つい十数年まえの
ことである。普通は、たった一個の細胞では、栄養培地中におかれても分裂できない。故ウィル
トン・アールが、ある方法を発見してこれに成功した。が、これらの培養細胞は、分裂増殖して
大きくはなっても、器官などの構造体を形成する気配をほとんど示さない。器官の形成は、多
分、隣りにある別の組織から出てくる化学物質によるものだと思われている。ある程度の見当は
ついており、現在、その点の究明に研究がすすめられつつある。正直いって、まだ、細胞培養と
察官の開には、橋がかけられていないというのが実状である。

だから、動物細胞を栄養培養してひとつの完全生物にまですることは、ニンジンやタバコの場
合のように、スムーズにはゆかない。けれども、生物学者はけっして不可能だとは考えていな
い。時間の問題だと思っている。すでに、スチュワードが突破口を開いたと確信している。現代
の最も鋭い科学者のひとり、故J・B・ホールデン教授は、クローン人のできる可能性をもっと
も真剣に考えていたひとりであった。彼の見解では、われわれはすでに植物においてやりとげて
しまっているのだから、培義細胞から有機的な組織体をつくる方法を、いつか必ず発見するだろ
ちし、これによって、人類発展の可能性を劇的に高めることになろう」と確信し、 つぎのよ
うな未来展望をしている。
彼によると、競技運動家とか舞踊家のクローンは若い人からとってもよいが、大部分のクロー
ンは少なくとも五〇歳以上の人からつくられるであろうという。クローン人は、社会的に高く評
価されるきわめてすぐれた業績を上げた人たちからつくられる。ただその場合、その成功が単な
る偶然にもとづいたものでないように注意されることはもちろんである。
また、彼はこうもいう。
『たとえ、その才能の評価に多少疑問はあっても、珍しい才能を持った人からつくったクローン
人も同じように有益であろう。たとえば暗にいつまでも適応できる人とか、痛みを感じな
い人、東洋の日の行者のように、内識のなかに起こっていることを見破り、それをコントロー
できる人はどー。

 

私は思うのだ。
いつの日か、クローン人製造の原型を募集して、盛大なコンテストなどのひらかれている風景
を。そこでは、われと思わん応募者遷がにかいい間に大いにもてはやされそうな妙技や、ちょう
ほうな能力などをご披露して、首尾よく選に入ると、自分の複製!生きた複製を長く後世にっ
たえるチャンスを持つことができるのだそうだ。コンテストといえば、現在、さかんに行なわれ
ている美人コンテストも、現在以上さかんにからかれるだろう。美人をながめていることはだれ
だって不愉快なことではないし、退に入った夫人は、どんどん複製されて、一万人でも10万人
でも、希望投票が多ければ、百万人だってどんどんつくれるのである。
想像してごらんなさい。世界中の女性の三分の一がマリリン・モンローで、三分の一がリズ・
テーラーで、あとの三分の一が、やはりこれまた代表的な美人のだれかになってしまうというこ
とだって不可能ではないのだ。もちろん、男性側も同じことが可能である。もっとも、男性の場
合は、ハンサムばかりが能ではないから、才能によって選抜分類されるかも知れないな。
それからまた、クローン人製造は、人類に貢献したひとを長く顕彰するための手段として採用
されるようになるかも知れない。なぜならば、クローン人というのは一種の「不死人」だから
が、フランスの生物学者ジャン・ロメタンが指摘しているように、ひとりの人間の何百何千とい
おきらくることは、ある意味で、その人に不死あたえることである。というのは,その子
かさらにターン化されて寝袋され、限りなくこれがつづけられるからである。銅像による表おなご
など、ナンセンス」というわけである。
遺伝学では、獲得形質は遺伝しないというのが定説である。後天的に得た才能、能力は遺伝し
ないという。私はこれに疑問を持っているが、まあ、それはいい。クローン人製造により、すぐ
れた才能、珍しい能力、上き容姿、など、それを持つ人それ自身が、そのままコピーされてふ
えでゆくのだから、獲得形質がつたえられようとつたえられまいと、そんなことはどうでもえ
え、結構なことじゃ、はやくそうならんかい。世界中の女子はんがみんな美人になって、どんな
神明でも選り取りちゅうのは結構じゃ、とあなたは手ばなしで喜ぶのか? まあ、ちょっと待ち
なさい。その間にあなたにおたずねしたいことがある。あなたは何か能がおありかな? なに、
無い?? ソバを10杯ひといきに食う? だめじゃ。そんなものは芸にもならん。それで
はあなたはハンサムかな?なに、十人なみ? ふうむ、貴公、気の毒 じ ゃ が消される運命じ
。ーまり、クローン人製造技術が完成するとそれを、ティラーは紀元二〇〇〇年少し
以降に可能になるのだというのだが、世の中は、すぐれた能力、なにかきわ立った才能、よき資
を持ったクローン人ばかりになってしまうのである。皮肉ではないか。クローン人出現をもっ
ともみ、かつそれによってもっとも利益や恩恵をこうむる普通一般の大衆たちは間もなく絶滅
してしまい、いるのはクローン人ばかりであるということになってしまうのだ。クローン人とし
くし、ぐず識のある人間のみクローン化するわけであり、そういうすぐれたクローン人
がどんどん加しぐいったら、なんの才能もない平凡な人たちは次第に淘汰され、社会の片すみ
167 科学におけるヒトのトーク※料が速くるるのお陰があるため、前身で なしまうので選などのみ、当落選。タク
18外の定後ろでとまるである。ある。設定方法を考を。なあと気がつかた流大勢の
ターン表を及類、統、分泌を気前出会いできるをうっすら。発部分を多めであ
「高でる姿がみえるかのページのあるのであるがる。うるるるるるが、象外
で、録音、私を育へ。ぬすためのクリーンルを
かきをしている。
必然魔が変海外でくる。あるのか。
及たら究気、変動要
それに。一線での活用の外るできるタなった。逆原始まで
「知る。意外なクーン城が決めたある。また、生演奏シーンです。
あるあ
をある。一変一に参家を建月後に市で家を新発売の演を果た。連すめ
の後、電界の遂定を後かくなのでなる。巻線路を進みタタタベータがある美メージ。影
絶をしたイラックダン学院事漢撃島の星空の中で、変です。要するの
後に残すめら広間にかすぎなを多め、後。ある。外奏す。3、後海道、撮影
を要録をするがためであった。
が、、。
あるもんかい
ないのです。

かも知れぬが、それではせっかくつくり出したクローン人の甲斐がなくなってしまう。クローン
人と普通人との交配により、いくらか人類のレベルは上がるかも知れないが、ほとんどたいした
ことはない。
それに、なによりも、危険なのは、利己的な人間がこれを利用することである。ティラーがい
うように、二、三人ものヒットラーやスターリンがいたら想像するだけでもごめんこうむりた
い、のである。
独裁者のいる侵略国家が、軍事目的にかなった科学者、軍人、兵士のクローン人を無制限につ
くって世界に攻撃を開始したらどうなるか? 一国の独裁者がそう決定してその計画をおし進め
たら、他の国においても、これに対抗するためには、同じ方法をとるよりほかないのである。で
なければ絶滅だ。
さいわいにして、クローン人製造技術が、平和的な方向にだけ使われたとして、それでも困難
な事態の起きる可能性がひとつある。動物を、クローン人製造のような方法で大規模につくり出
してゆくと、正常な進化の過程に大きな障害が起きるのである。
動物や植物の育種家たちは、よりよい血統をつくるのには、有性生殖と栄養生殖とを組み合わ
せることが必要であることをよく知っている。二つのちがった血統の生物をかけ合わせると、科
学的な根拠はいくぶんアイマイだが、雑種強勢(雑種は一般に純系や自殖系統よりも生育が盛んで、病
きなどにも続いことをいうが起きるといわれている。人間が無性的に栄養生殖でつくられると

すると、環境に順応しない人間が淘汰されずにすむことになり、たいへんなことになってしま
う。進化過程が止まってしまって、予想もできない重大な結果をひきおこすことになる。さきに
引用したレーダーバーグの溜め息まじりの警告は、そこをいっているのである。もちろん、やが
では、優秀なクローン人たちが、そのトラブルの解決法を考え出すかも知れない。 だが、それ
は、どこまでも、かも知れないの範囲にとどまる。われわれは、かも知れないことに、全世界の
人の運命と未来をかけることはできない。この技術の開発は、用い方さえあやまらなければ、
たしかに、人間の進化と利便に益することも多大であろう。しかし、その反面、あまりにも多く
の映にみちている。それに、それは、技術以外の分野で解決しなければならぬ問題をあまりに
くかかえており、現在の人類の知識の段階では、前進よりも抑制のほうに票を投じるべきだ
とは思うのだが、陪審員であるあなたの採決はどんなものであろうか?

169-学におけるヒトの改造

 

166〜科学におけるヒトの改造

 

163,科学におけるヒトの改造

 

一学におけるヒトの改造

未来の未来

114
ここで、「未来の未来」を書いたジョン・マックヘールの言葉を聞こう。
『多くの解説者は、都市の過密化、および無制限な技術の複雑さへの成長という社会的な病理
が、現在の精神病、離婚、家族の分裂の上昇曲線で示されているという。殺人、強盗、婦女暴
行,青少年の非行、および一般犯罪の増加は、公衆道徳の低下、暴力、さらに、マス・メディア
にはんちんするエロに相応している。
地球でもっとも物質的に繁栄している国は、連続的な要人の暗殺にとりつかれ、その主要都市
では、放火、略奪、暴動の波に悩まされている。同時に、この国は、世界の向こう側の敵を、人
間が考えだした人間破壊のもっとも高性能の手段で撃破するために、何十億ものドルを費してい
る。
そして、成人世界における暴力、汚職、社会的堕落によって、若ものたちは、社会の基本的規
総や公認された目標からますます離れていっている。ストレス症候群、は、このような集団や
個人の分裂という状退にまで達しているようである』
たしかに、彼は、現代社会の病的な症状を適確にえぐり出している。
しかし、私は、その原因を、彼のいうような「都市の過密化、および無制限な技術の複雑さヘ
の成長という社会的な理による」ものとは思わない。また、単なるストレス症候群』による
の考えない。もちろん、私だって、あの有名な「病理的な群集心理」と名づけられたジョン・ル・カルフーンのハッカネズミとネズミの実験結果を知らないことはない。けれども、私
は、そういうものももちろん要因のひとつにかぞえられないこともないであろうが、そのもっと
も主たる原因は、ルネ・デュボスがいうように、「科学知識は過去において人間がよって立ってい
た伝統的価値を弱め、崩壊させてしまったのにもかかわらず、その代わりとなる新しい倫理体系
を提供せず、人間に生きる糧をあたえたが、生きる目的をあたえなかった」ところにあるのだ、
と確信する。そこから、人と人との連帯感が急速に失われ、不信と疎外がはじまり、そして断絶
がくるという現象が生ずるのだ。
倫理体系を失って、生きる意義や目的をはっきり示すことができなくなった社会は、当然、混
乱し、社会の混乱には個人の混乱が結びつく。
努力がはっきり結果に結びつかないような世界――あるいは、結果は単に偶然なものでしかな
いといった世界――いうならば、生きる目的と意義を見出すことのできない世界では、人間は、
努力する情熱を失ってしまう。実験でいろいろな混乱した合図をあたえられたネズミのように、
人びとは神経症にかかり、ついにはひどい不活発状態におちいるようになる。
こんにち、社会にはすでにこのような個人的ニヒリズムの兆候がいちじるしく見られる。それ
は突、物質主義、少ない利益でもよいから早く手に入れることを好む風潮などにあらわれ
ている。それはおそらく多くの若い世代——いわゆるビート族、ヒッピー族、フラワー族、ドラ
リップ、そのの社会基準への抗議とそれからの離反の背景をなすものであろう。これこそが「断絶の時代」と呼ばれているものである。
すでに数年前、私は「断絶の時代」のつぎにくるのは「憎悪の時代」であるといった。(大白身
第五号)個悪のつぎになにが来るか?来るのは「人間崩壊」であろう。無感動状態にはじまる
人間の前壊だ。そしてすでにそれがはじまっているのを、われわれは、世界の若ものたちの上に
まざまざと見ることができる。
私は思う。
これは要するに、機械系の発する巨大なエネルギーが、人間系のエネルギーを、ようしゃなく
おしつぶしてゆく必然の姿なのだ、と。つまり、あたらしいかたちの自然陶汰がはじまっている
のだ。かくしてホモ・サピエンスは崩壊し消滅する。かつてこの地上にさかえ、そしてどこかに
消えていったピテカントロプスやネアンデルタール人たちのように――。そのあとにどのような
ヒトが出現するのか?あるいはもはやヒト属は絶えてしまうのか。あなたはどう思うか?

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115一施るべき