UA-135459055-1

未分類

阿弥陀如来

命あるものすべてを救うべく誓いを立て、極楽浄土に導く

 

 

 

阿弥陀如来(あみだにょらい)とは?

無限の寿命を持つことから無量寿如来ともいいます。限りない光(智慧)と限りない命を持って人々を救い続けるとされており、西方極楽浄土の教主です。四十八願(しじゅうはちがん)という誓いを立て、その中には「南無阿弥陀仏」と唱えたあらゆる人々を必ず極楽浄土へ導くとあり、広く民衆から信仰されました。ちなみに他力本願も四十八願の誓いから来ており、本来は阿弥陀様にすがって極楽に行こうという意味です。

 

阿弥陀三尊として聖観音と勢至菩薩と並ぶ姿が多いです。さらに二十五菩薩を従え、雲に乗って往生者を迎えにやってくるといわれています。そのほか来迎の様子をあらわす場合もあります。

ご利益

極楽往生、現世安穏のご利益があります。また、戌・亥年生まれ守り本尊です。

阿弥陀如来(あみだにょらい)の像容

釈迦如来と同じく装飾品は一切ないです。来迎印という印は、極楽浄土に迎えに来たことを意味していますよ。この印相は施無畏・与願印に似ていますが、第1指ともう1本の指をねじるのが特徴です。

 

特殊な例としては、宝冠阿弥陀像、裸形阿弥陀像、斜めうしろを振り返る姿をしている見返り阿弥陀などがあります。

不動明王 破壊と再生を司り、悪を滅する

 

 

 

不動明王

破壊と再生を司り、悪を滅する

不動明王(ふどうみょうおう)とは?

語源は「動かない守護者」を意味し、インド神話のシヴァ神の別名です。シヴァは暴風雨の威力を神格化したもので、破壊的な災害を起こす半面、雨によって植物を育てます。その破壊と恵みの相反する面は不動明王にも受け継がれているのです。不動明王は仏法の障害となるものに対しては怒りを持って屈服させますが、仏道に入った修行者には常に守護をして見守ります。

 

大日如来の化身として、どんな悪人でも仏道に導くという心の決意をあらわした姿だとされています。特に日本で信仰が広がり、お不動様の名前で親しまれています。そして、五大明王の中心的存在です。五大明王とは、不動明王を中心に降三世明王(ごうざんぜみょうおう)・軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)・大威徳明王(だいいとくみょうおう)・金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)の5体のことを指し、不動を中心に東西南北に配されます。不動明王の脇侍として八大童子のうちの矜迦羅(こんがら)・制多迦(せいたか)の2童子が配されることも多いです。ちなみに不動明王の持っている龍が巻きついている炎の剣が単独で祀られている場合があります。不動明王の化身とされ、倶利伽羅竜王(くりからりゅうおう)などと呼ばれています。

ご利益

除災招福、戦勝、悪魔退散、修行者守護、厄除災難、国家安泰、現世利益のご利益があるとされる。また、酉年生まれ守り本尊です。酉年に生まれた人々の開運、厄除け、祈願成就を助けるといわれています。

不動明王(ふどうみょうおう)の像容

背の低い、ちょっと太めの童子型の造形が多く、怒りの表情をしています。目は天地眼(てんちげん)といって右目を天に向けて左目を地に向けていますよ。口は牙上下出といって右の牙を上に出して左の牙を下に出しています。炎の光背を背にし、手には剣と羂索(けんじゃく)を持っています。剣は大日如来の智慧の鋭さを表現しています。羂索とは煩悩を縛り悪の心を改心させる捕縛用の縄のことです。

ヒトを改造する技術 求閒持聪明法秘伝 2  駄如求聞持明法 memorization ability and intelligent system 2

因縁解脱というのは、運命を成り立たせる因子である「因縁」から超越してし まうことである。或いは、「因縁」を消滅させてしまうことである。人間とい うものを成立させているところの「因縁」から超越し、「因縁」を消滅させて しまったとき、そのヒトは、人間を超えた存在である「ブッダ」になる。 ブッ ダにはもはや運命はない。これが仏教の教理である。

ブッダになるための修行法を「成仏法」という。「因縁解脱法」ともいう。 かれは、「成仏法」こそ、人間の運命を完全に、そして最高のものに変えて しまう方法であると考えた。そう考えたかれは、成仏法を求めて仏教の門に入 った。仏教の門に入ったかれが間もなく知ったことは、これまでの日本のどの 仏教にも、完全な「成仏法」がないということであった。

これはかれにとってじつに不思議でならないことであった。仏教というのに どうして成仏法がないのか? 因縁解脱法がなぜないのか? 成仏法のない仏 教は仏教ではないのではないか? かれは不審に思いつつ、成仏法を求めて一 心に大な経典群ととり組み、すべての宗派の勉強をした。かれが特定の宗派に入らず、特定の師を持たなかったのはこの為である。どの宗派にも確立した 成仏法がない上に、一つの宗派に入ると、束縛されてしまって、成仏法を求め る自由な修行が出来ないからである。かれは、仏教だけにとどまらず、中国の 道教、インドのヨーガにも目を向け、修練にはげんだ。道教では導引・気功、 ヨーガではクンダリニー・ヨーガを学んだ。

真言密教の修行に入ったとき、「求聞持聡明法」という法に出会った。これ は、ヒトを天才にするということで有名な法であった。

求聞持聡明法というのは、日本の仏教の中で真言宗という密教の一派を開い 弘法大師空海(七七四年一八三五年)が修行して、大天才になったという有名

空海は、若くして密教の修行をはじめるにあたり、こう考えたのである。 密教は非常に難解であるから、ふつうの頭脳で修行しても、到底理解する ことが出来ない。 幸い、密教には人を聡明にする求聞持聡明法という法がある。 まず、この法を学んで、自分の脳を改善しよう

そして空海はこの法を修行して天才になった。

このことは、空海自身、かれの伝記の中ではっきり書いており、そして空海 は、日本の歴史の中で最高レベルの知性を持つ天才である。

求聞持というのは、一度見聞したことはぜったいに忘れない”という意 味であり、聡明”というのは、“師なくして天地自然の真理をさとる知恵のこ という”とある。

要するに、求聞持は記憶力のことで、聡明は創造力のことであろうとかれは 考えた。あるいは、求聞持とはハードウエアのことであり、聡明はソフトウエ アということであろう。この二つの能力は、ものごとを学び、研究する上で最

高の武器である。日本の仏教に見あたらない成仏法をさがす上で、これは絶対 不可欠な能力といえよう。 それにまた、普通の頭脳の持ちぬしが天才になると いうのは、これまた立派な運命の変換というべきではなかろうか?

そう考えて、かれは求聞持聡明法の修行に入ったのである。

かれは、手に入るかぎりの文献を集め、さらに、若い頃、この法を修行した という老僧に伝授を受けた。(この老僧は、残念ながら、天才にはなっていな かったがしかし、この老僧は師から伝統にのっとって伝授を受け、その通 修行した人である)かれは、その老僧の指導を受け、法の命ずる通りの修行を二度くり返した。 二度とも法は成功しなかった。集中力と思考力がいくらかよくなった程度で、 到底、天才とはほど遠いものであった。

かれは、自分の修行のしかたが間違っていたのではないかと、何度も緻密に

くり返し検討した。

その結果得た結論は、これまで伝えられていた求聞持聡明法は間違っているとかれに言い、

というものであった。少なくとも、なんらかの欠陥がある、というのであった。 つまり、自分にミスがあるのではなく、法の方に欠陥があるのだというのであ る。人が聞いたら、なんという自信過剰!と呆れるかも知れない。いや、真 密教の僧侶が聞いたら、法に対する旗だと、かんかんになるであろう。し

かし、かれはぜったいに自分が正しいと確信した。かれが調査したところによ ると、むかしから無数の密教修行者たちが天才になろうとしてこの法に挑戦し、 ことごとく失敗しているというのであった。それも単なる失敗ではなく、その 大半は、精神病か結核になって、天折しているというのであった。

大正年代から昭和初期にかけて(一九一七年三五年頃)かなりの数の犠牲者 が出て、それ以来、この修行をする者はほとんど無くなったということであっ た。修行したとしても形式だけのものになったようである。

かれに法を伝えてくれた老僧は、法の伝授が終わったあとで、

「あまり真剣になって根をつめるとやられるようじゃから、注意せんといかん のう。ほどほどにせんとな」

「わしは幸い、肺病にも気ちがいにもならんじゃったが、その代わり、天才に

もなれなんだわ。ははは

と笑った。そして、

「大天才になられたのは空海さまだけじゃ。あのお方は、最初から天才じゃっ たのと違うかな」

と言ってまた笑った。

かれは苦笑いしながら、そうかも知れない、と思ったが、しかしおれは徹底 的にやって必ず成功してみせるぞ、と思ったのであった。

しかし、失敗して、さまざまな角度から検討してみて、 これは、伝えられて いる法が不備なのだと考えたのである。 どう考えてみても、こういう修行の方 法で、人間が天才になれるはずはないと考えたのである。 この不完全な法で天 才になろうと思って必死に修行をつづけたら、体力、気力を消耗し尽くして、 さいごには、結核かノイローゼになるのは当然だと考えたのである。

そう考えたが、しかし、かれは、求聞持聡明法の修行をやめてしまおうとは 思わなかった。

かれはこう考えた。

明星の秘密

もともと空海は天才であったのかも知れない。しかし、かれがこの求聞持

明法を修行して、相当な効果のあったこともまた間違いない事実であると思わ れる。なぜならば、かれ自身、奇蹟的な結果を得たと記しているからである。 自分がもともと天才であってこの法を修しても格別に効果がなかったのである なら、こんなことを仰々しく書くことはなかったであろう。 おそらく求聞持 明法は修したとしても、この法についてなに一つ、かれは書くことをしなかっ たであろう。 効果があったからこそ、あったと書いたのである。効果がなかっ たのに、あったとウソを書く必要はない。 ただ一つ考えられることは、真言密 教の法の力の偉大さをアピールするためにそうしたということであるが、かれ ほどの大天才がそんな姑息な手段をとるなど考えられず、またもしそういう必 要があるならば、もっと別な方法をとったであろう。だから、求聞持聡明法は、

必ず効果があるはずである。ただ、その方法は、いま伝えられているものでは 効果がないということだ。 自分は、一生かけてもその欠けている部分をさがし 出し、この偉大な法を完成しよう。なぜならば、それは自分自身にも必要であ るが、自分以外の多くの人にもまた、大きな利益をもたらすからだ」

そうして、かれは、そのために、それから何年も血の出るような努力を重ね

結論を言おう。かれはついにこの法の完成に成功したのである。

それについて、かれは、一九七二年に刊行した著書『密教・超能力の秘密』 でつぎのように述べている。

「求聞持聡明法」を完全なものにしたという確信を持ったかれは、著書の中で、

求聞持聡明法とは、ヒトの大脳を改善強化して、博覧強記、比類なき

記憶力と聡明さをあたえる秘法であるが、これを、何十ぺん、何百ぺん、昔 から伝えられる法の通りに修行したところで、その結果は徒労におわるであ ろう。 生命を賭して修行すれば、多少の効果はあろうが、宗祖の空海が得た ような霊験を得ることは、まず不可能であろう。

なぜならば、真言密教の「虚空蔵菩薩求聞持聡明法」には、印真観想によ 精神集中の「法」はあるけれども、現実的に生理器官である大脳皮質その ものを動かす「技術」は持っていないのである。

前の著書『変身の原理」で求聞持聡明法について語って以来、私は、十指 を越える真言宗の僧侶、阿闍梨耶 (ācárya=教授) がたから、手紙あるいは 直接、この法の修行について相談をうけた。そのほとんどは、自分も一度な いし数度にわたって求聞持法を修したが、いっさい効験がみられなかった、

修行のしかた、あるいは心構えに間違いがあったのであろうか、というもの であった。 また、何度か修行してみてあの行法にそんな神秘的な力がひそん でいようとは思われぬ、という疑惑の声もあった。中には、お気の毒にも健 康を害してしまって、再起不能になったと訴えてきた阿闍梨耶もおられた。 お気の毒であるが、当然なのである。

真言密教の阿闍梨耶がたが、いくら求聞持聡明法をくりかえしても、成就 できないのは当然なのである。もちろん、絶対に、とはいわない。万人に秀 でる天才、英才であったら、その奥に達することができるかも知れぬ。しか まず不可能といってよいであろう。

私が発見し、編成した「求聞持法」でなければ不可能と断言しても、決し てオーバーではないであろう。それについては後でまた改めてくわしく書く が、ここで、求聞持法の秘密の一端を明かすことにする。

まず、先に、伝統的に伝えられている真言密教の「虚空蔵菩薩求聞持聡明

 

 

Liberation from karma means transcending “karma,” which is the factor that establishes one’s destiny. Or, it means to eliminate “karma.” When a person transcends the “fate” that makes the human being what it is, and eliminates the “fate”, he becomes a “Buddha,” a being that transcends humans. Buddha no longer has a destiny. This is the doctrine of Buddhism.

The training method to become a Buddha is called the “Buddhahood method”. It is also called the “method of releasing one’s fate.” He believed that “the method of attaining Buddhahood” was the way to completely and supremely change a person’s destiny. Thinking so, he entered Buddhism in search of the method to attain Buddhahood. What he soon learned after entering Buddhism was that there was no perfect “method for attaining Buddhahood” in any of Japan’s previous forms of Buddhism.

This was very strange to him. Even though it is Buddhism, why does he not have a method for attaining Buddhahood? Why is there no method for releasing oneself from one’s fate? Isn’t Buddhism without a method for attaining Buddhahood not really Buddhism? Although he was suspicious, he devoted himself to great efforts in search of the method for attaining Buddhahood. He worked on the scriptures and studied all the sects. This is why he did not join any particular sect or have any particular teacher. This is because none of the sects has an established method for attaining Buddhahood, and if you join one, you will be bound and unable to practice freely in pursuit of the method for attaining Buddhahood. In addition to Buddhism, he turned his attention to Chinese Taoism and Indian yoga, and devoted himself to training. He studied Taoism and Qi Gong, and Kundalini Yoga.

When he entered the training of Shingon esoteric Buddhism, he came across a law called “Gumonji Somyoho.” This method was famous for turning people into geniuses.

Gumonji Sōmeiho is a famous school of Buddhism in Japan, where Kobo Daishi Kukai (774-1835) trained and became a great genius.

This is what Kukai thought when he began training in esoteric Buddhism at a young age. Esoteric Buddhism is so difficult to understand that even if you practice it with your normal mind, you will never be able to understand it. Fortunately, in Esoteric Buddhism there is a law called Gumonji Shumeiho that makes people wise. First, learn this method and improve your brain.

Kukai practiced this method and became a genius.

Kukai himself clearly wrote about this in his biography, and Kukai is a genius with the highest level of intelligence in Japanese history.

The word “gumonji” means “one never forgets what one has seen or heard,” and the word “intelligent” means “he has the wisdom to understand the truth of heaven, earth, and nature without a teacher.”

In short, he thought that “knowledge” refers to memory, and “smartness” refers to creativity. Alternatively, “Gyubunmochi” refers to hardware, and “Smartness” refers to software. These two abilities are the most important in learning and researching things.

It is a high-quality weapon. This can be said to be an absolutely essential ability in searching for the method of attaining Buddhahood that is not found in Japanese Buddhism. Besides, isn’t it another wonderful transformation of fate that he says that someone with an ordinary brain can become a genius?

With this in mind, he entered the training of Gumonjisomeiho.

He collected as much literature as he could get his hands on, and also received initiation from an old monk named He, who had practiced this Dharma when he was young. (Unfortunately, this old monk did not become a genius. However, this old monk received initiation from his teacher according to tradition, and was a person who trained through it.) After receiving guidance, he repeated the training twice as instructed by the law. Both times the law was unsuccessful. His concentration and thinking ability improved somewhat, but he was far from a genius.

Chi

He repeatedly questioned whether his method of training was wrong.

I considered it repeatedly.

I told him that the conclusion I had reached was that the Gumonji Someiho that had been passed down until now was wrong.

That’s what it was. At the very least, there was some kind of flaw. In other words, he argues that it is not his fault, but the law’s fault. If people heard this, they might be shocked and think, “How overconfident!” No, if a Shin Esoteric Buddhist monk heard this, he would be furious, thinking it was a flag against the Dharma. death

But he was absolutely convinced that he was right. According to his research, countless practitioners of Esoteric Buddhism had tried this method in the past in an attempt to become geniuses, but had all failed. This was not just a failure; most of them suffered from mental illness or tuberculosis, and were said to have given up.

From the Taisho era to the early Showa era (around 1917), there were a considerable number of victims, and since then, almost no one practices this practice. Even if he did practice, it seems to have become only a formality.

After the old monk who taught him the Dharma had finished teaching him the Dharma,

“If you get too serious and get too serious, you might get killed, so you have to be careful, he’s crazy.”

“Fortunately, I didn’t suffer from lung disease or go insane, but instead I became a genius.”

I’m familiar with you. Hahaha

he laughed. and,

“Kukai-sama is the only one who became a great genius. He was a genius from the beginning, isn’t he?”

He laughed again.

He thought with a wry smile that this might not be the case, but he also thought that he would work thoroughly and be sure to succeed.

However, after failing and considering it from various angles, he realized that this was due to a flaw in the law that had been passed down to him. No matter how you think about it, he thought that there was no way a person could become a genius through this type of training. He believed that if he tried desperately to become a genius using this imperfect method, he would exhaust his physical strength and energy, and eventually develop tuberculosis or neurosis.

That’s what he thought, but he had no intention of giving up his practice of Gyomonjisomeiho.

This is what he thought.

The secret of the star

Kukai may have been a genius to begin with. However, he is the

It is also a fact that there is no doubt that practicing Myoho has had considerable effects. This is because he himself wrote that he had obtained miraculous results. If he had been a genius to begin with, and had practiced this method without any particular effect, he would not have written such an exaggerated statement. Even though he had practiced Gumon Jimyoho, he probably did not write anything about this law. He wrote that it existed because it was effective. There’s no need to lie and say he had it when it didn’t work. The only thing I can think of is that he did it to emphasize the great power of the law of Shingon Esoteric Buddhism, but he could not imagine that such a great genius would take such a palliative measure. If that was necessary, I would have taken a different approach. Therefore, the “Gumonji Sōmeiho” is

It should definitely be effective. However, the method currently being communicated is not effective. I will spend my whole life searching for the missing parts and perfecting this great Dharma. Because while it is necessary for yourself, it also brings great benefits to many other people.

He spent many years working tirelessly to achieve this goal.

Let me conclude. He finally succeeded in perfecting this law.

Regarding this, he wrote the following in his book “Esoteric Buddhism and the Secret of Supernatural Powers” published in 1972.

In his book, he was convinced that he had perfected the “Gumonji Sōmeiho.”

Gumonji Smart Method is to improve and strengthen the human cerebrum, to strengthen the human brain, and to develop an unparalleled knowledge.

It is a secret method that gives you memory and intelligence, but even if you practice it for tens or even hundreds of hours according to the laws that have been passed down from ancient times, the result will be in vain. If you put your life on the line for training, you may get some results, but it is unlikely that you will be able to obtain the same miraculous powers that the founder of the sect, Kukai, achieved.

This is because, although the “Kokuzo Bodhisattva Seeking and Jusimeiho” of Shingon Esoteric Buddhism has a “method” of concentrating the mind through Inshin contemplation, it actually moves the cerebral cortex itself, which is a physiological organ. They don’t have the technology.

Since I talked about the Gumonji Somyo method in my previous book, The Principle of Transformation, I have had more than a dozen Shingon monks, ācárya (professors), contact me by letter or in person to discuss the practice of this method. I received it. Most of them said that he himself had practiced Gumonjiho several times, but he had never seen any effect.

Perhaps there was a mistake in the way he practiced or his mindset. There were also voices of doubt that even after practicing the practice several times, it was hard to believe that there was such a mystical power hidden in that practice. Among them was an Acharya who complained that his health had deteriorated and he was unable to recover. I feel sorry for you, but it is natural.

It is natural that the Acharyas of Shingon Esoteric Buddhism cannot achieve their goals no matter how many times they repeat the teachings of wisdom. Of course, I’m not saying absolutely. If you are a genius or gifted person who excels at all people, you may be able to reach the depths. However, it can be said that it is impossible for him to do so.

He would not be going overboard if he declared that it would be impossible without the “Gimonjiho” that I discovered and organized. I will write about this in more detail later, but I will now reveal some of the secrets of the Gumon Jiho method.

First, let’s talk about the traditionally handed down Shingon esoteric Buddhism’s “Kokuzo Bodhisattva Gumonji Sōmei”.

大日如来 すべての生き物の根本となる仏

大日如来

すべての生き物の根本となる仏

 

 

大日如来(だいにちにょらい)とは?

大日とは「大いなる日輪」という意味です。太陽を司る毘盧舎那如来がさらに進化した仏です。密教では大日如来は宇宙の真理を現し、宇宙そのものを指します。また、すべての命あるものは大日如来から生まれたとされ、釈迦如来も含めて他の仏は大日如来の化身と考えられています。

 

大日如来には悟りを得る為に必要な智慧を象徴する金剛界大日如来と、無限の慈悲の広がりを象徴する胎蔵界大日如来という2つの異なる捉え方があります。金剛とはダイヤモンドのことを指し、智慧がとても堅く絶対に傷がつくことがないことを意味しています。また、胎蔵とは母親の母胎のようにすべての森羅万象が大日如来の中に包み込まれている様を意味しています。この2つが揃って大日如来を本尊とする密教の世界観が出来上がるのです。

ご利益

現世安穏、所願成就。また、未・申年生まれ守り本尊です。

大日如来(だいにちにょらい)の像容

本来、如来は出家後の釈迦の姿をモデルとしているため装飾品は身に付けていませんが、大日如来だけは別格で豪華な装飾品や宝冠を付けています。また、螺髪(らほつ)ではなく、髪を結い上げています。

 

金剛界、胎蔵界の姿でそれぞれ印の形が違います。金剛界の大日如来は、左手の人差し指を立て、その人差し指を右手で包みこむ智拳印の印相をしています。一方、胎蔵界の大日如来は、腹の前で両手の全指を伸ばして組み合わせる定印です。

勢至菩薩 偉大な智慧の光を持つ菩薩

勢至菩薩(せいしぼさつ)、梵名マハースターマプラープタ (महास्थामप्राप्त [mahāsthāmaprāpta])は、仏教における菩薩の一尊。「大勢至菩薩」、「大精進菩薩」、「得大勢菩薩」の別名がある。現在日本では年の守り本尊、十三仏一周忌本尊として知られている。三昧耶形は未敷蓮華(ハスの蕾)。種子(種子字)はサク(सः saḥ)。

 

 

勢至菩薩

偉大な智慧の光を持つ菩薩

勢至菩薩(せいしぼさつ)とは?

正しくは大勢至菩薩といいます。智慧の光ですべてのものを照らし、人々を迷いや苦しみから救うとされています。大勢至菩薩と表記されることもあります。智慧とは物事のあり方を正しく見極める力・判断力を意味します。

 

阿弥陀如来の右脇侍として観音菩薩と共に三尊で表され、独尊で祀られることはほとんどありません。

 

浄土信仰の高まりとともに流行する来迎形式の阿弥陀三尊の場合、観音菩薩が死者の霊をのせる蓮台を持ち、勢至菩薩が合掌をする姿でつくられます。その姿勢は、立像・坐像のほかにひざまずいた姿の跪像もみられます。

ご利益

智慧明瞭、家内安全、除災招福のご利益があるとされています。午年の人々を守る守護本尊であり、午年に生まれた人々の開運、厄除け、祈願成就を助けるともいわれています。

勢至菩薩(せいしぼさつ)の像容

手を合わせているか水が入っている水瓶(すいびょう)を持っている姿が一般的です。

 駄如求聞持明法 memorization ability and intelligent system

ヒトを天才にする求聞持聡明法

 

駄如求聞持明法 memorization ability and intelligent system

ヒトを天才にする求聞持聡明法
求間持聡明法は、ヒトを聡明にし、天才にするという真言密教に伝わる秘法である。
弘法大師空海が、若くしてこれを修し、大天才となったということで、夙に知られてい
る。また、新義真言宗の開祖、興教大師覚鏝(一〇九五1一一四二)が、七度、この法を
修して成功せず、八度目に悉地を成じ、成功したと伝えられる。覚鏝上人ののこされた業
績をみれば、上人もまた天才でめったことは疑いない。ただ残念なことに、四十八歳で亡
くりれている。
真言密教の求聞持聡明法には、三種の法がある。
虚空蔵求聞持
観音求聞持
如意輪求聞持
であるが、ふつう、求間持法といえば、空海が修して有名な虚空蔵求間持をさす。この
つぶさ    ぶつせつこくうぞうほさつのうまんしよがんさいしようしんだら・にぐもんじほう
法を、具には「仏説虚空蔵菩薩能満諸願最勝心陀羅尼求聞持法」という。
しかし、わたくしがこのたびこの本で発表する求聞持聡明法は、これらのいずれでもない。わたくしが独白に創成した求聞持法で、わたくしはこれに、だとによい
駄都如意求聞持聡明法と名づけた。
この駄都如意求聞持聡明法は、真言密教につたわる求聞持法とはまったくちがうものである。
二つの特徴がある。
それは、
一、クンダリニー・ヨーガのチャクラを覚醒して、超人的千不ルギーを発生させる。
二、その超人的干1 ルギーを、中国・道教につたわる導引・気功の持つ生気ルートに
のせて、体の各要所、要部にめぐらせ、行きわたらせる。殊に、大脳の中枢である間脳・視床下部に送りこむ。
この二つの方法を、独特の方法で完成したのである。これは、前人未踏の領域であるといってよいであろう。わたくしは、半生を、というより、一生をこの法の完成に注いだ。いまから約二〇年前に発行した『変身の原理』以来、わたくしの著書はこの本で四〇冊になるが、それらの著書のすべてが、この法の完成に至る道のりをあらわしたものであるといってよい。
わたくしは、この本で、わたくしの得たほとんどのものを、出来るかぎり、明らかにした。クンダリュー・ヨーガも、道教の導引・気功も、いずれも超人的能力を獲得するための
最高の法である。この世界にこれ以上の超能力開発法ぱない。この二つの法の欠陥を補正して融合させ、さらにあらたな創案をくわえて完成したこの駄都如意求聞持聡明法は、ヒ
トにおける究極の超能力開発法であると自負するのである。
もちろん、。後世おそる、べし”という諺の通り、今後、これ以上の超能力開発法も出るかも知れないが、しかし、それも、クンダリュー・ヨーガと導引・気功を融合させたこの駄
都如意求間持聡明法のライン以外のものではないであろうと確信している。
この法を、指導通りに修行するならば、確実に、ヒトの知能は二倍に、体力は三倍に飛躍強化されるであろうことを断言する。

天才は不老長寿でなければならない

求聞持聡明法は、たしかにヒトを天才にする。
しかし、いくら天才になっても、そのために、病弱になったり、若死にしたりしたのでは、なんにもならない。天才は、いつまでも若々しく、健康で、世のため、人のため、その才能を発揮するもの
でなくてはならない。(寝たっきりの天才など、まっぴらである)
求聞持聡明法修得をこころざしたわたくしは、つねに、四十八歳という惜しむべき短命に終わった興教大師党員上人が念頭にあった。上人は、おそらく、過酷な求間持法修行のため、法は成就したものの、体を痛め、寿命を損じたのにちがいなかった。
このことは、年少、結核を病んで何年も病床に伏した苦しい経験を持つわたくしにとり、その恐れの念が特に深刻であった。
しかし、この憂慮は、幸いにして杷憂におわった。
道教の導引・気功の秘法をとり入れたことが、この心配を吹きとばしてくれたのである。
すなわち、道教の導引・気功は、仙道の流れを汲むものである。そして仙道の理想は、不老長寿、生きながら神仙に化することを目標とする。
駄都如意求聞持聡明法は、特に不老長寿を目ざすものではなかったのだが、結果はそうなってしまったのである。
期せずして、仙道の理想が実現されることになったのだ。
神仙に化することだけはちょっとむずかしいが、不老長寿はかならず達成される。 わたくしぱ断言してよい。仙選の秘法がとり入れられているこの駄都如意求聞持聡明法
は、二十歳代の人ならば、三歳から五歳、中年以上の人ならば、十歳から十五歳、若返ることができるであろう。

あなたが高年者として修行に入り、年齢のために天才になれなかったとしても、いつまでも若々しい肉体と、そして決してボヶることのない求聞持脳だけは獲得できるであろう。
『求聞持聡明法秘伝』平河出版社刊。まえがき”より

「等価変換展開理論」

そんなことがほんとうにできるのか? いったいどうやってそんなことができるのだ、と。
それもたしかにもっともなことで、私自身、身をもってこの密教の秘密に挑戦し、自分でこの
技術を解明するまでは、ぜったいに信ずることができなかった。私は単身、五〇〇〇年の間秘密
のヴェールにつっまれてきたこの不思議な技術にいどみ、その秘密を解いた。それは、信ずるこ
とのできないほど精緻微妙な生化学に立脚したおどろくべき技術の応用であった。
たとえば、
さきにもちょっとふれたが、市川亀久弥博士は、最近の著作のなかマ(≒柚計器)お得意の
「等価変換展開理論」にもとづき、イモ虫からサナギヘの変化を例にして未来社会への脱皮を説
いておられる。この理論はまことにみごとで、まさにほれぼれするほどあざやかである。こと
に、イモ虫がサナギに変身する理論的うらづけは、近来しきりに輩出する未来論のなかで、まさ
に出 色のものであるというべきである。
ただ、まことに残念なことに、それは理論と説明と期待にとどまり、それをいかにヒトに応用
して実現させるかという方法を示していない。それは、もちろん、氏自身、同書のはしがきのな
かで、これは、″単に人類のあるべき未来社会に関するソフトーウェアの主張の範囲にとどまる
ものである”とことわり、この。ソフトーウェアに対するハードーウェアの具体的な提唱″は
″旺い将七に公長する~定である″ということであるから、われわれはまさに刮目してそれを待、ぐに、その″ソフトーウにアに対するハード・
ウェアの具体的な技術″を持っているのである。密教は、その持つ技術のひとつに、この市川理
論の「イモ虫からサナギヘの脱皮」技術を持っていて、数千年も前から、それをヒトの変身技術
に応用、実践していたのである。
密教は、現代の創造理論の大家が提唱する未来に関する花形理論を、とうに実践していたので
ある。五〇〇〇年も前にI。
地を這いまわることしか知らぬ生物であるイモ虫が、サナギになり、そして、空を舞う生物に
変身することは、二次元の世界に生きる生物が三次元生物に変化したことを意味するものだ。密
教がおなじ技術をもってヒトを変身させることは、三次元生物であるヒトをそれより上の次元に
飛躍させることを意味する。密教の変身技術はそれなのである。その生物の次元を変えてしまう
のだ。
しかも、それは、今までいわれてきたように、ただ神秘的、神がかり的なアイマイな方法でな
く、適確な生化学の技術をもっておこなうのだ。そうしてそれは密教の持ついくつかの技術のな
かのひとつに過ぎない。
いったい、どんな智恵がそれをなしとげていたというのであろうか? 密教の技術を神秘とい
うのなら、その点をこそ神秘というべきだろう。しかし、それは、それこそまさに数千年生え出
現した超・ヒトが、孤独にたえつつ、その持つ人類最高の智恵「照明智」を駆使してつくり上げ
た未来人のためのカリキュラムにほかならぬのだというよりはかないであろう。

さて、それでは、密教の技術に関係のある市川理論「等価変換展開理論」とはどんな理論か?
それがどのように密教の技術と関連があるのか?
それを説くまえに、もう少し知っておいていただかねばならぬことがある。
ここで、私は、密教とヨーガという二つのことばについて述べておかねばならぬと思うのだ。
拙著「変身の原理」で、私は、密教についてっぎのように述べた。少し長いが引用してみる。
『真言宗という宗派仏教と、密教すなわち秘密仏教とは、ふかいつながりかおる。だが、それは
どこまでもふかいつながりという関係であって、普通考えられているように、密教即真言宗、真
言宗即密教というものではないのである。
真言宗とは、インドにおいて発生し、大成した密教を、ああいう独白の形に体系化し、組織化
したものであって、密教そのものではないのである。密教のひとつの体系ではあるけれども、密
教そのものではない。
それは、それまでにほぼ完成していたけれども、分派し、多様化していたインド密教を日本密
教の開祖空海が、独自の見識と叡智によって、ひとつの体系につくりあげたということである。
おなじように、天台宗においても、天台密教というひとつの密教体系を組織完成しており、こ
れもまた、密教のひとつの流れということである。
そういうわけで、密教というものを正しく理解するためには、どうしても、]度、密教の原点
に立ちもどって考えてみなければならないのである。
密教は、最初、ひとつの手法(技術)であった。
けっして、最初から密教というひとつの宗教があったわけではない。
ゴータマーブッダがあらわれて、仏教というあたらしい教えを説きはじめるはるか以前、バラ
モンの時代から、インドには、入に超能力をあたえるひとつの手法があった。そういう手法が完
成されて、一部の人たちの間につたえられていた。それは、精神と肉体のきびしい錬磨から得ら
れる神秘的な力で、彼らは、それを、ひとつの技術にまでっくりあげていた。
われわれは、その流れのひとつを、現在、ヨーガのなかに見ることができる。(ただしそれは、
いまの日本で行なわれているアクロバティックな体操のヨーガではない。ヒマラヤの奥地の聖者
たちの間に伝承されている正統ヨーガである)
ヨーガは、その手法のひとつの流れである。この超能力を開発する技術は、仏教があらわれる
以前においてはバラモンにとり入れられ、仏教があらわれると、仏教もまたこれをとり入れた。
ゴータマーブッダは、かれ自身、この手法をまなんで、これにより超能力を持ったが、弟子た
ちにはこれを学ぶことを禁じた。なぜかというと、この技法によって多少の力がつくと、かれら
はすぐにそれがブッダのいう「ホトケ」という境地に達したものと考えてしまい、修行のさまた

げになるからであった。
ただし一部の、素質のきわめてすぐれた弟子たちには、ひそかにこれを許した。
ゴータマーブッダは、普通、神秘的な力を信じたり、修行者がそういう力を持つことを願った
りするのを全く禁じたというように、仏教学者や仏教者は信じているようであるが、それは間違
いで、ブッダ自身、神足({乱石の教理、すなわち、仏道を完全に成就するためには超自然的な
力が必要であるとし、超人間的な能力開発の訓練法を説いているのである。これは、パーリ文献
によって容易に証明することができるのである。(略)
それによると、それは、″四神足“または、″四如意足″ともいわれる超能力開発法である。
ブッダは、菩提を成就するためには、単に、知性や理性をみがくだけでは不十分であると考
え、知性や理性の限界をうち破る力が必要であると考えた。
そのために、彼は、そういう力を開発するための行法をつくりあげた。それは、彼が学んだ超
能力開発法を加えて編成したものと見てよいであろう。
それは、三十七種の技法から成り立つもので、四神足というのは、その中心になる技術であ
る。神通、如意を得るための定を、四種類の手法に分けて説明している。
欲神足(願望、理想、創造のためのアプローチ)
勤神足(体と心のトレーニング法)
心神足(潜在意識のトレーニング法)
観神足(深層意識のトレーニング法)
きづまりを打破するために、大乗仏教のなかにとり入れられて体系化され、密教と呼ばれになったのである。いうわけで、密教は二つの面を持っている。
一つは、超能力の開発技術
一つは、大乗仏教の教義
この二つである。
この二つのものがむすばれることにより、大乗仏教よりさらに高度の教義が完成されて、「金
剛大乗」と呼ばれる新しい仏教が誕生した。これが密教である』
-との引用の文章でわかるように、「変身の原理Lにおいて語られている「密教」というコ
トバは、「秘密仏教」という意味での「密教」である。仏教のなかにとり入れられた、いわゆる
真言密教、あるいは真言宗密教の密教である。
しかし、本書において私がいう「密教」は、それらの密教、「変身の原理」のなかで使われて
いる密教とは全くちがうものであることを、読者はご承知ありたいのである。

本書における「密教」とは、真言密教以前、いうならば仏教にとり入れられる以前の、いや、
バラモンにさえもとり入れられる以前の、引用文でいえば4  R教は最初、ひとつの手法(技術)であった。ゴータマーブッダがあらわれて、仏教というあたらしい教えを説きはじめるはる
か以前、バラモン時代から、インドには、入に超能力をあたえるひとつの手法があった。そういう手法が完成されて、一部の人たちの間につたえられていた。それは、精神と肉体のきびしい錬磨から得られる神秘的な力で、彼らは、それを、ひとつの技術にまでっくりあげていた。と
あるその「技術」、つまり、いうならば、″古代マーガ″と″真言密教″と、この二つを結合したものであると承知していただきたいのである。即ち本書でいう密教とは、ヨーガと真言密教と、
この二つをむすびつけて生まれた新しい技術であるということである。
なぜ、そういうことをしなければならなかったのか、というその理由を語ることはそのまま、密教の法を解説することにもなるので、読者はここのところをよく知っておいていただきたいのである。
引用文のなかにしるされているごとく、行きづまった大乗仏教は、ヨーガの技術にその打開の道を求めた。さきの頃で述べたごとく、精神の高度の飛躍は、その前提に、感覚器官の高度の増幅がなければならぬ。しかし、大乗仏教には教えだけあって、なんの技術もない。大乗仏教という教えであり、教えをあきらかにするだけのもので、技術というべきものはなんにもない。つい
に行きづまることは当然であり、やがてヨーガの技術に救いをもとめるのはさらに当然というべ
きことであった。
かくして、金剛大乗、真言密教が生まれた。ヨーガには、さきにあげた通り、ジョルジューオリヴィエ教授の表現を借りていえば、五つの能力開発技術がある。それは、①第四次元の理解、合複雑な全体をとっさに把握する能力、③第六感の獲得、④無限に発展した道徳意識、⑤とくに
われわれの悟性には不可解な精神的特質、というものであるが、これらの能力開発の技術は、それがそのまま大乗仏教にとり入れられたわけではない。おのずから、ひとつの偏向傾斜があった。
それは当然のことで、大乗仏教の指導者たちは、この技術を彼らの信奉する仏教教義とその目的に沿って取り入れた。一般的でないと思われる技術は捨てられ、あるいはごく一部の指導者にだけつたえられ、あるいは変形された。こうして秘密仏教というあたらしい教義と体系が完成した。しかし、多くのすぐれた開発技術は、この仏教教義を完成させるための補助的技術に変容さ
せられてしまった。あるいは形骸だけがとどめられた。これが、秘密仏教の「行法」であった。
これを究極的に完成したのは、日本密教、すなわち真言宗の開祖空海であった。秘密仏教がインドから中国につたえられ、そのころ中国にわたった空海がそれに接した時点において、秘密仏教はまだ完全にはできあかっていなかった。その混沌たる素材を取捨選択して、これをいま見る
真言宗というかたちにまとめ上げ、整然たる宗教にしたのは空海であった。それはまさに大天才のみがなしとげることのできる偉業であったが、同時に、秘密仏教はあまりにも整然と様式化された日本的なものになってしまった。それまでかなり残っていた密教的な部分はほとんどかげにかくれ、一-法」は、様式化された宗教儀式になってしまった。
しかし、それは、当時の目本の国情や、文化水準を背景にしたとき、やむを得ないことであったのである。というよりもむしろ当然であったというべきだろう。そうしなければ宗教として存
立することができなかったのである。
だが、そのために、いまいった通り「法」はその力を失った。宗教的に様式化され、儀式化されてしまった「法」では、真の能力開発は困難である。というよりもそれは絶望に近い しかし、それはそれでいいのだ。真言密教というものが、宗教であって能力関発の技術ではな
く、仏教という信仰のワクのなかで教えを説き礼拝をつづけているだけでよいなら、それはそれでいいだろう。それに、ほとんど儀式化された「法」であっても、天分のある才能が懸命の努力を集中するなら、「法」の成就も不可能ではない。やってやれないことはないのである。けれども、それは何世紀にひとりというような稀有の才能を必要とするのではないのか。そういうすぐれた頭脳によれば、様式化された法のあとをたどって、ついにその源泉に到達し、そのなかに秘められた法の技術を発見し、体得することもできよう。あるいはまた、頭脳ではなく、熱烈な信仰が、そこへ導いていってくれることもあるかも知れぬ。だが、それは、万人に期待できることではない。
要するに、真言密教成立の当時と全く時代が変ってしまった現在、真言密教が、他の宗教と根本的にちがうその本来の任務をほんとうに果たそうと思うならば、真言密教は大吝く変わらねばならぬ。真言密教はナみやかにその原点に立ちもどり、「法」を技術としてシステム化しなければならぬ。そうして、だれでもが平易にまなべる体系を編成ナることである。
それは決して「法」を解体し、「法」を壊滅してしまうことではない。むしろ、そうすることによって法が生きるのである。また、それは決して宗教の解体ではない。
法によって高い知的能力を得たならば、人はおのずから高い道徳意識、倫理観を持つものである。

人が宗教的教えを必要とナるのは、知的能力が低いからである。要するに、愚かだからである。人の道徳意識が低いのは、知能、精神能力が低いからだ。ほんとうに知能が高くなれば、人は、いま人類の持っている程度の宗教意識などけるかに超えたもっと高い倫理観を持つ。オリヴイエ教授のいう「無限に発展した道徳意識の保有」である。
教え(宗教)による人類の道徳意識の開発は、すでに限界に達してしまっている。
見よ。

地上にあまねくくりひろげられている人類のこの大愚行を。殺し合い、奪い合い、罵り合い。
どこに「知恵あるヒト」のおもかげがあるか? 「大愚人類」そのものではないか?
要するに、バカにいくら結構な教えを説いてもだめなのだということだ。
もっと忌憚なくいわしてもらうならば、(これは私がいうのではない。みんな密教の神サマが
おっしやるのであります)ちっとましなバカが、しょうのないバカに一心に教えを説いているというのが、いまの宗教のすがたというものではないのか?
宗教だけではない。科学と技術だってそうではないか。見さかいなくいい気になっていろんなものをつくり出し、あとで公害だ有害物質だと困っている。こういうおろかなことは、もう少し人類の知能が高くなったら、そんなバカなことはたのまれなくともしなくなる。要するに知能が低いからだ。
政治も、経済、思想も、みんなそうだと、あなたは真実思わないか?
要するに、すべて、″ヒトの知能が低い″ことに原因があるのである。
この世界を住みよく、たのしいものにするのには、革命ごっこよりもなによりもまず、ヒトの知能を高めることだ。そう、あなたは思わないか?
さて、話をもとにもどそう。
教えの限界とはヒトの知能の限界だ。
密教はその限界をうち破るのである。
技術によって超能力をあたえ、いっきょにヒトを改造して、宗教などという低い次元をいっぺんに飛び越し、想像を絶する叡智を持った、高い倫理的生物をつくり出そうというのだ。
それが、密教だ。
求闘持法《明星》の秘密

私はこのことを念力の護摩の修得に際してさとった。
先年、私は、念力の護摩法の伝授を受け、悉地成就の修行に入った。けれども、その行法の次
第を、何十ぺん何百。へんくり返しても、念力の火は出なかった。煙さえたちのぼる気配はなかっ
た。私かそのままその法の次第を忠実にくりかえしていたら、永久に念力の火は出なかったであ
ろう。出るはずがないのである。念力の護摩法の次第を、いくらくりかえしたって火は出ない。
そんなことで出るのだったら、今日までに、何百人、何千人の阿闇梨が念力の護摩を焚いていた
だろう。真言密教の念力の護摩法だけでは、ぜったいに火は出ない、それは、密教の技術によっ
て、サマーナ気を克服したとき(274頁参照)、はじめて肉体から火焔を発することができ、念力の
護摩は完成するのである。絶望した私は真言密教をはなれ、身を転じて古代インドの秘密経典に
むかった。
私はそこでインドの聖典、バガヴァットーギータを続み、そこに念力の護摩の秘法がかたられ
ていることを知った(口絵写真参照)。そこから、ギータと不二の関係にあるヨーガに入った。ヨ
ーガに本当の念力の護摩があることを知った。ヨーガにおける私のいのちがけの修行がはじまっ
た。ヨーガの技術でなければ念力の火は出ないことがわかったからである。真言密教の念力の護摩法次第は、ほんの心おぼえ程度のものに過ぎず、これでは、だれがどうしたって火の出るはずがなかった。いや、この肉体が火となるための「法」としては心おぼえ程度のものですらなく、むしろ、バガヴァツトーギータの聖句のほうが、はるかに示唆に富んでいるといえた。ヨーガの念力の護摩は、ただ単なる観想の羅列ではなく、どの生理器官をどのように統御しどのように動かすという現実的具体的な「技術」があった。この技術によってトレーニングすれば、多少なりと素質のある者だったら、必死の修行によって念力の火を出すことは不可能ではない。真言密教の念力護摩法次第だけでは、大天才といえども不可能にちかい難事である。この秘密を知らずして、古来、いく人の密教修行者が、念力の護摩の次第と秘伝を前に、血と汗の絶望をくりかえしたことであったろう。思えばツミな″次第″である。
これと全くおなじことが、真言密教につたえる「求聞持聡明法」についてもいうことができる。求闘持とは、古書に、『見聞覚知のことを憶持して長く忘れず、師なくして天地の感応を待つ、これを″求″といい、教なくして真如妙理を覚る。これを″聞″といい、一度覚るとながく忘れない、
これを″持″という』とあるように、求闘持法とは、ヒトの大脳を強化して、博覧強
卸、比類なき記憶力と聡明さをあたえる秘法であるが、これをなん十。へんなん百ぺん行法の次第通りに修行したところで、その結果は、おそらく念力の護摩とたいしてかわらない結果におわるであろう。生命を賭して修法すれば、多少の効果はあろうが、宗祖が体験を以て示したような霊験を得ることはまず難い。なぜならば、真言密教の「虚空蔵菩薩求聞持法」には印信観想による
精神集中の「法」はあるけれども、現実に生理器官である大脳皮質そのものを動かす「技術」を持っていないのである。ヨーガの「聡明法」は、どの器官をどう使ってどのように大脳皮質を動かすかという「技術」がある。また、それだけではない。根本的にちがうものがあるのである。
’それは、まったく根本的にちがう。
拙著「変身の原理」で求闘持聡明法についてかたって以来、私は、十指を越える真言僧侶、阿閉梨がたから、手紙あるいは直接、この法の修行について相談をうけた。そのほとんどは、自分も一度ないし数度にわたって求聞持法を修したが、いっさい効験がみられなかった。修法の行じかた、あるいは心構えに越法のところがあったのであろうかというのであった。また、何度か修してみて、あの行法にそんな神秘的な力がひそんでいようとは思われぬというものがあった。なかにはお気の毒にも健康を害してしまって、再起不能になったと訴えてきた阿閉梨もおられた。
お気の毒であるが、当然なのである。
真言密教の阿開梨がたが、いくら求闘持法をくりかえしても、成就できないのは当然なのである。もちろん、絶対に、とはいわない。万人に秀いでる天才、英才であったら、その極に達することができるかも知れぬ。しかしまず、不可能にちかいというべきだろう。
私か発見した密教の「求闘持法」でなければ、まず不可能にちかいといってよいであろう。こ
の法については章をあらためてくわしく書くが、ここで、求聞持法の秘密の一端を明かそう。まず、最初、真言密教の求聞持法を述べてみる。
『比の法を修するには、東南西三方の晴れたるところを最上とする。東方のみでも悪くはない。

道場の東壁に小窓をつくる。これは虚空蔵の似沢である明星の光を道場にさし入れるためである。また、朝日夕月の光を本尊にあてる意もあり、あるいは小窓に絹を張り、黄色の種字の字を書いて、そこから、明星の光をとおして本尊にあてるためでもある』
とまず場所を制定し、つぎに、さだめられた本尊の印明を百万べん、五十目あるいは百日に読誦するのであるが、日蝕または月蝕の時に結願するよう開白(はじめること)しなければならぬとある。
けれども、密教の求聞持法では、べつに場所はえらばぬのである。静かな場所でありさえすればよい。また、いつはじめてもよいのである。明星を拝するのも、行のはじめに際して、あるひととき、星と月に対すればよいのである。
また、これこそが密教のもっとも奥義とするところなのだが、弘法大師空海は、求聞持法の成就の体験を、
『―阿国大滝の岳にのぼりよじ、土州室戸の崎に勤念ナ。谷響を惜しまず、明星来影す。
言々』
と語っている。すなわち、阿波の大滝にのぼり、土佐の室戸岬でこの法の修行にはげんだところ、谷はこだまし、明星があらわれるなど、法にいわれている通り現証があり、法が成就した、
というのであるが、これは、空海のひとつの表現であって、これをそのまま鵜呑みにしてしまうからいけないのである。これはどこまでもひとつの表現なのだ。
伝にいわく、
『明星来影す、とは、結願のときに、香に火を置き、明星を拝するに、四方が暗く明星が見えねば悉地就成ではない。暗くても星が現ずれば下品の成就であり、四方が少々晴れて星が現ずれば中品、天に暗なく、ことごとく晴れて星現ずれば成就、四方が晴れても星現ぜざれば悉地成せざるなり』
とあるが、これがちがうのである。まるっきりちがう。
こういう口伝や奥伝をたよりにいくら修行しても、気の毒だが、求聞持法は成就しない。
明星とは現実の明星ではないのである。
大脳のある部分をある方法で刺激すると、目の前に光が見えるのである。
その光は、かたちも色も大きさも、いろいろに見えるが、意識を記憶の座に向けて沈静させる
と、つめたい、やや黄色みを帯びた白銀色になって、しずかに目のなかでまたたく。それはちょうど明星そっくりに見えるのである。
これが明星なのだ!
268頁をもう一度、読みかえしていただこう。
″頭のかかの光明に日を向けるならば″
とある。これがそれなのである。
ある特殊なトレーニングにより、この部位(大脳の視床下部のあたり)の刺激が、目のなかに光を浮かばせるのである。目をある角度に向けると、目を開けていても閉じていても、ポッカリと光が浮かんで見える。
この光が見えるようになると、記憶の座が自由にあやっれるようになるばかりでなく、さまざまな、奇蹟としか思えぬような力がついてくる。
これが、「求聞持法」の明星の秘密である。大空を百年ながめて空中の明星を見つめていても、ムダだ。明星はわが大脳のなかにあるのだからI。
このことは、密教五〇〇〇年の歴史に、私がはじめてっかんだ秘密である。私以外にこれを知る者はついになかった。求闘持法の秘密を私はついにつかんだ。私はそれを誇りに思う。
これをもとにして、私は、私の「求闘持聡明法」を編成した。これは、今までの「法」などというアイマイなものではない。生化学と生理学をもとにした「技術」である。正しい指導のもとに訓練を積めば、必ず、だれでもできるようになる技術である。
本来ならば、こういうことは私の、「太極秘伝」として、ごくかぎられた者だけにひそかにつたえてゆくべきものなのだろう。だが、私はこれをひろく公開する。なぜならば、私は、世界中の人びとがこの法によって知能を高め、いっさいの愚行-殺し合い、奪い合い、罵り合い、にくみ合いから遠ざかってほしいのである。
求聞持聡明法は、人の知能を三倍にナる。
しかし、その半分でもよい。人類の知能が今の水準より平均一・五倍飛躍したら、この世
から、犯罪も戦争もいっさいなくなる。そういうものがあるのは、人間が愚かだからだ。求闘持法によって知能指数が倍加したら、そういうものがいかに愚かで馬鹿々々しいことか、大人が子
供のヶンカが馬鹿々々しくて見ていられないように、いっさい、しなくなる。
私や、私の周囲のごく一部の者が、この法によっていくら賢くなろうとも、それがなにになろう。世界の大勢にどれはどの影響があろう。よしんば、私か、この法によって、古今無比の大聖者と仰がれるほどの力を持とうとも、世界のどこかで、権力を握っている馬鹿が、核バクダンのボタンをひとつ押したら、それっきりなのである。世界中はふっ飛んでしまう、古今無比の大聖
者もいっしよに!
まあ、古今無比の大聖者ともなれば、事前にそれくらい察知して、安全な所に待避してしまうであろうが、世界中が壊滅して、助かった者も核の灰に汚染されて半死半生ばかりという世のなかに、自分とごく少数の一族だけが生き残ってなにになろう。ノアの方舟の時とは状況が全くちがうのである。
このままでゆけば、核戦争がはじまるのはぜったい確実である。私にははっきりそれがわかる。この大愚行だけはやめさせなければならぬ。
革命よりも、階級闘争よりも、人種闘争よりも、なによりも、いま、人類に必要なのはこれだ。これが根本的に人類を救う道だ、とそう私は思う。ヒトの知能が二倍になったら、いま、人類がかかえているあらゆる問題はすべて解決してしまう。そう、あなたも思わないか?
私か、この求聞持法を惜しげもなく公開し、ひとりでも多く、一目でも早く、修得してほしいとねがうのは、そのためなのだ。
さて、はなしが少々よこにそれたが、この大脳の部位のことは、インドのヨーガの指導者も知っており、ヨーガのほうでは、この部位のことを、
「頭のなかの光座の座」
とか、
「梵の座、梵の裂け目」(brahma randhro
とか、
「サハスララーチャクラ」
と名づけ、頭の中の光明がかがやいている部分であると考えている。しかし、これも解釈がちがっている。
頭のなかに光明がかがやいているのではない。私の発見した求闘持法とおなじ原理である。大脳のある部位を、あるエネルギーで刺激すると、あるひとつの物質が分泌され、それが脳の神経組織を刺激して、目に光を感じさせる。                  『- それが、頭と目の微妙な角度のちがい、刺激の相違で、目のなか、目の前、および、頭のなか、というように、光の浮かぶ場所がちがうのである。
求聞特法の湯合は、目の前の、やや上方、ニメートルから三メートルくらいのところに浮かんでみえる。目の角度と、瞳孔の絞りかたによっては、はるか遠くの空に小さくかがやくように
(ちょうど明星のように)見えないこともない。もし、人里はなれた山のなかであったら、明けの明星のように見えることもできるだろう。私の経験では、目のななめ上方一メートル内外のところに見えるようにするのが、一番、″上品″のようである。
目を閉じて、目の奥の上方、つまり、ヨーガでいう”梵の座”のあたりに、光明を感じさせる
技術は、頭の角度と、脳の刺激する揚所が、求聞特法と少しちがう。したがって、これは、求聞持法ではなく、ちがう力を発現する。また別な法である。この法については、またあとで別に章をもうけて説明しよう。

(サマーナ気統御の技術》と《護摩法》の合体
おなじような例がいくっもある。
たとえば″五相成身観”である。
これは、真言宗徒がかならずおさめねばならぬ金剛界法という法のなかにあり、密教門でもと
くに重要な観法とされる行法である。
凡夫がホトヶという超能力者になるまでの過程を五つに分け、修行者は、ひとつひとつその境界を体験してゆくのであるが、これが、いずれも密教の重要な修行課目になっており、あきらか
に密教から出たものであることがわかる。
しかも、真言密教では、印と観想の二つからなる”観法″であるが、密教においては、観法だ
けではなく、特殊な技術による鍛 練によって生理的器官を動かし、実際に五つの境界に対応す
る力をつける訓練となっている。
また、真言密教においてもっとも重要とされる金剛界九会マンダラもそうである。金剛界九会
マンダラは、凡夫がホトケになる九つの段階と、ホトケというものの力、ホトケのはたらきを図
像にえがきあらわしたものであるが、要するに、ホトケの説明である。
もっとも、真言密教は、このマンダラにもとづいて、前記した金剛界法という行法を編成し、
。観法″によってこれを修行者に体得させようとする。これは、一般仏教、顕教が、その修行方
法として、ただ、経典の読誦と、念仏、唱名題目しか持だないのに対し、一段と進歩したすぐれ
た修行方法であるというべきだが、しかし、これも、真言密教が″観法”だけであるのに対し、
密教は、九会マンダラにあらわされた九つの力を実際に体得させる訓練技術を持っている。
例をあげれば、微細会マンダラがそうである。これは九会マンダラのなかの東南方に位するマ
ンダラで、ホトケの微妙幽玄にして不可思議なる智恵の力とはたらきをあらわすものである。
密教には、実際にこの力を生ぜしめる訓練がある。
真言密教では、ただ、。観想″による″観法″しかない。現実にそういう″力″を持たせると
ころの″技術″がない。
276頁を見ていただこう。
。あきらかに、微細会マンダラは、ヨーガのこの訓練から出ている。ナくなくとも、この訓練に
よって得られる力を背景にしたものであることは間違いない。
これは、密教の技術で、胸の部分の或る部位に力を集中することによって得られる力である。
-こうしてみてくると、真言密教がとるべき道は、おのずから明らかであるといわねばなるまい。真言密教の行法は、密教の技法をとり入れることにより、本当の力が生ずるのではないのか?
そういうと、密教がそんなにすぐれたものであるというなら、密教は真言密教をはなれて、密教独自の道を歩んだらよいではないかという意見が出るかも知れない。その通りである。それでもよいのだ。そういう道もあると私も思う。
しかし、それにもかかわらず、私か真言密教にある価値を見出すのは、その表現様式である。おもしろいことだと思う。
様式だけになってしまっている(と私が思う)真言密教の、その様式が、なかなか貴重なのだ。
私が体得した密教の秘奥の技術を、さて、どのように表現しようかと、その様式を考えてゆくと、結局、真言密教の様式がいちばん便利なのである。たとえば、私の体得創案した「求聞持法」は、ヨーガの技術から発見したもので、真言密教の「求聞持法」とは全然ちがう。そのことは、前の項でおわかりになったことと思う。

より 「等価変換展開理論」

求聞持聡明法秘伝』平河出版社刊。まえがき”より

「等価変換展開理論」

そんなことがほんとうにできるのか? いったいどうやってそんなことができるのだ、と。
それもたしかにもっともなことで、私自身、身をもってこの密教の秘密に挑戦し、自分でこの
技術を解明するまでは、ぜったいに信ずることができなかった。私は単身、五〇〇〇年の間秘密
のヴェールにつっまれてきたこの不思議な技術にいどみ、その秘密を解いた。それは、信ずるこ
とのできないほど精緻微妙な生化学に立脚したおどろくべき技術の応用であった。
たとえば、
さきにもちょっとふれたが、市川亀久弥博士は、最近の著作のなかマ(≒柚計器)お得意の
「等価変換展開理論」にもとづき、イモ虫からサナギヘの変化を例にして未来社会への脱皮を説
いておられる。この理論はまことにみごとで、まさにほれぼれするほどあざやかである。こと
に、イモ虫がサナギに変身する理論的うらづけは、近来しきりに輩出する未来論のなかで、まさ
に出 色のものであるというべきである。
ただ、まことに残念なことに、それは理論と説明と期待にとどまり、それをいかにヒトに応用
して実現させるかという方法を示していない。それは、もちろん、氏自身、同書のはしがきのな
かで、これは、″単に人類のあるべき未来社会に関するソフトーウェアの主張の範囲にとどまる
ものである”とことわり、この。ソフトーウェアに対するハードーウェアの具体的な提唱″は
″旺い将七に公長する~定である″ということであるから、われわれはまさに刮目してそれを待、ぐに、その″ソフトーウにアに対するハード・
ウェアの具体的な技術″を持っているのである。密教は、その持つ技術のひとつに、この市川理
論の「イモ虫からサナギヘの脱皮」技術を持っていて、数千年も前から、それをヒトの変身技術
に応用、実践していたのである。
密教は、現代の創造理論の大家が提唱する未来に関する花形理論を、とうに実践していたので
ある。五〇〇〇年も前にI。
地を這いまわることしか知らぬ生物であるイモ虫が、サナギになり、そして、空を舞う生物に
変身することは、二次元の世界に生きる生物が三次元生物に変化したことを意味するものだ。密
教がおなじ技術をもってヒトを変身させることは、三次元生物であるヒトをそれより上の次元に
飛躍させることを意味する。密教の変身技術はそれなのである。その生物の次元を変えてしまう
のだ。
しかも、それは、今までいわれてきたように、ただ神秘的、神がかり的なアイマイな方法でな
く、適確な生化学の技術をもっておこなうのだ。そうしてそれは密教の持ついくつかの技術のな
かのひとつに過ぎない。
いったい、どんな智恵がそれをなしとげていたというのであろうか? 密教の技術を神秘とい
うのなら、その点をこそ神秘というべきだろう。しかし、それは、それこそまさに数千年生え出
現した超・ヒトが、孤独にたえつつ、その持つ人類最高の智恵「照明智」を駆使してつくり上げ
た未来人のためのカリキュラムにほかならぬのだというよりはかないであろう。

さて、それでは、密教の技術に関係のある市川理論「等価変換展開理論」とはどんな理論か?
それがどのように密教の技術と関連があるのか?
それを説くまえに、もう少し知っておいていただかねばならぬことがある。
ここで、私は、密教とヨーガという二つのことばについて述べておかねばならぬと思うのだ。
拙著「変身の原理」で、私は、密教についてっぎのように述べた。少し長いが引用してみる。
『真言宗という宗派仏教と、密教すなわち秘密仏教とは、ふかいつながりかおる。だが、それは
どこまでもふかいつながりという関係であって、普通考えられているように、密教即真言宗、真
言宗即密教というものではないのである。
真言宗とは、インドにおいて発生し、大成した密教を、ああいう独白の形に体系化し、組織化
したものであって、密教そのものではないのである。密教のひとつの体系ではあるけれども、密
教そのものではない。
それは、それまでにほぼ完成していたけれども、分派し、多様化していたインド密教を日本密
教の開祖空海が、独自の見識と叡智によって、ひとつの体系につくりあげたということである。
おなじように、天台宗においても、天台密教というひとつの密教体系を組織完成しており、こ
れもまた、密教のひとつの流れということである。
そういうわけで、密教というものを正しく理解するためには、どうしても、]度、密教の原点
に立ちもどって考えてみなければならないのである。
密教は、最初、ひとつの手法(技術)であった。
けっして、最初から密教というひとつの宗教があったわけではない。
ゴータマーブッダがあらわれて、仏教というあたらしい教えを説きはじめるはるか以前、バラ
モンの時代から、インドには、入に超能力をあたえるひとつの手法があった。そういう手法が完
成されて、一部の人たちの間につたえられていた。それは、精神と肉体のきびしい錬磨から得ら
れる神秘的な力で、彼らは、それを、ひとつの技術にまでっくりあげていた。
われわれは、その流れのひとつを、現在、ヨーガのなかに見ることができる。(ただしそれは、
いまの日本で行なわれているアクロバティックな体操のヨーガではない。ヒマラヤの奥地の聖者
たちの間に伝承されている正統ヨーガである)
ヨーガは、その手法のひとつの流れである。この超能力を開発する技術は、仏教があらわれる
以前においてはバラモンにとり入れられ、仏教があらわれると、仏教もまたこれをとり入れた。
ゴータマーブッダは、かれ自身、この手法をまなんで、これにより超能力を持ったが、弟子た
ちにはこれを学ぶことを禁じた。なぜかというと、この技法によって多少の力がつくと、かれら
はすぐにそれがブッダのいう「ホトケ」という境地に達したものと考えてしまい、修行のさまた

げになるからであった。
ただし一部の、素質のきわめてすぐれた弟子たちには、ひそかにこれを許した。
ゴータマーブッダは、普通、神秘的な力を信じたり、修行者がそういう力を持つことを願った
りするのを全く禁じたというように、仏教学者や仏教者は信じているようであるが、それは間違
いで、ブッダ自身、神足({乱石の教理、すなわち、仏道を完全に成就するためには超自然的な
力が必要であるとし、超人間的な能力開発の訓練法を説いているのである。これは、パーリ文献
によって容易に証明することができるのである。(略)
それによると、それは、″四神足“または、″四如意足″ともいわれる超能力開発法である。
ブッダは、菩提を成就するためには、単に、知性や理性をみがくだけでは不十分であると考
え、知性や理性の限界をうち破る力が必要であると考えた。
そのために、彼は、そういう力を開発するための行法をつくりあげた。それは、彼が学んだ超
能力開発法を加えて編成したものと見てよいであろう。
それは、三十七種の技法から成り立つもので、四神足というのは、その中心になる技術であ
る。神通、如意を得るための定を、四種類の手法に分けて説明している。
欲神足(願望、理想、創造のためのアプローチ)
勤神足(体と心のトレーニング法)
心神足(潜在意識のトレーニング法)
観神足(深層意識のトレーニング法)
きづまりを打破するために、大乗仏教のなかにとり入れられて体系化され、密教と呼ばれになったのである。いうわけで、密教は二つの面を持っている。
一つは、超能力の開発技術
一つは、大乗仏教の教義
この二つである。
この二つのものがむすばれることにより、大乗仏教よりさらに高度の教義が完成されて、「金
剛大乗」と呼ばれる新しい仏教が誕生した。これが密教である』
-との引用の文章でわかるように、「変身の原理Lにおいて語られている「密教」というコ
トバは、「秘密仏教」という意味での「密教」である。仏教のなかにとり入れられた、いわゆる
真言密教、あるいは真言宗密教の密教である。
しかし、本書において私がいう「密教」は、それらの密教、「変身の原理」のなかで使われて
いる密教とは全くちがうものであることを、読者はご承知ありたいのである。

本書における「密教」とは、真言密教以前、いうならば仏教にとり入れられる以前の、いや、
バラモンにさえもとり入れられる以前の、引用文でいえば4  R教は最初、ひとつの手法(技術)であった。ゴータマーブッダがあらわれて、仏教というあたらしい教えを説きはじめるはる
か以前、バラモン時代から、インドには、入に超能力をあたえるひとつの手法があった。そういう手法が完成されて、一部の人たちの間につたえられていた。それは、精神と肉体のきびしい錬磨から得られる神秘的な力で、彼らは、それを、ひとつの技術にまでっくりあげていた。と
あるその「技術」、つまり、いうならば、″古代マーガ″と″真言密教″と、この二つを結合したものであると承知していただきたいのである。即ち本書でいう密教とは、ヨーガと真言密教と、
この二つをむすびつけて生まれた新しい技術であるということである。
なぜ、そういうことをしなければならなかったのか、というその理由を語ることはそのまま、密教の法を解説することにもなるので、読者はここのところをよく知っておいていただきたいのである。
引用文のなかにしるされているごとく、行きづまった大乗仏教は、ヨーガの技術にその打開の道を求めた。さきの頃で述べたごとく、精神の高度の飛躍は、その前提に、感覚器官の高度の増幅がなければならぬ。しかし、大乗仏教には教えだけあって、なんの技術もない。大乗仏教という教えであり、教えをあきらかにするだけのもので、技術というべきものはなんにもない。つい
に行きづまることは当然であり、やがてヨーガの技術に救いをもとめるのはさらに当然というべ
きことであった。
かくして、金剛大乗、真言密教が生まれた。ヨーガには、さきにあげた通り、ジョルジューオリヴィエ教授の表現を借りていえば、五つの能力開発技術がある。それは、①第四次元の理解、合複雑な全体をとっさに把握する能力、③第六感の獲得、④無限に発展した道徳意識、⑤とくに
われわれの悟性には不可解な精神的特質、というものであるが、これらの能力開発の技術は、それがそのまま大乗仏教にとり入れられたわけではない。おのずから、ひとつの偏向傾斜があった。
それは当然のことで、大乗仏教の指導者たちは、この技術を彼らの信奉する仏教教義とその目的に沿って取り入れた。一般的でないと思われる技術は捨てられ、あるいはごく一部の指導者にだけつたえられ、あるいは変形された。こうして秘密仏教というあたらしい教義と体系が完成した。しかし、多くのすぐれた開発技術は、この仏教教義を完成させるための補助的技術に変容さ
せられてしまった。あるいは形骸だけがとどめられた。これが、秘密仏教の「行法」であった。
これを究極的に完成したのは、日本密教、すなわち真言宗の開祖空海であった。秘密仏教がインドから中国につたえられ、そのころ中国にわたった空海がそれに接した時点において、秘密仏教はまだ完全にはできあかっていなかった。その混沌たる素材を取捨選択して、これをいま見る
真言宗というかたちにまとめ上げ、整然たる宗教にしたのは空海であった。それはまさに大天才のみがなしとげることのできる偉業であったが、同時に、秘密仏教はあまりにも整然と様式化された日本的なものになってしまった。それまでかなり残っていた密教的な部分はほとんどかげにかくれ、一-法」は、様式化された宗教儀式になってしまった。
しかし、それは、当時の目本の国情や、文化水準を背景にしたとき、やむを得ないことであったのである。というよりもむしろ当然であったというべきだろう。そうしなければ宗教として存
立することができなかったのである。
だが、そのために、いまいった通り「法」はその力を失った。宗教的に様式化され、儀式化されてしまった「法」では、真の能力開発は困難である。というよりもそれは絶望に近い しかし、それはそれでいいのだ。真言密教というものが、宗教であって能力関発の技術ではな
く、仏教という信仰のワクのなかで教えを説き礼拝をつづけているだけでよいなら、それはそれでいいだろう。それに、ほとんど儀式化された「法」であっても、天分のある才能が懸命の努力を集中するなら、「法」の成就も不可能ではない。やってやれないことはないのである。けれども、それは何世紀にひとりというような稀有の才能を必要とするのではないのか。そういうすぐれた頭脳によれば、様式化された法のあとをたどって、ついにその源泉に到達し、そのなかに秘められた法の技術を発見し、体得することもできよう。あるいはまた、頭脳ではなく、熱烈な信仰が、そこへ導いていってくれることもあるかも知れぬ。だが、それは、万人に期待できることではない。
要するに、真言密教成立の当時と全く時代が変ってしまった現在、真言密教が、他の宗教と根本的にちがうその本来の任務をほんとうに果たそうと思うならば、真言密教は大吝く変わらねばならぬ。真言密教はナみやかにその原点に立ちもどり、「法」を技術としてシステム化しなければならぬ。そうして、だれでもが平易にまなべる体系を編成ナることである。
それは決して「法」を解体し、「法」を壊滅してしまうことではない。むしろ、そうすることによって法が生きるのである。また、それは決して宗教の解体ではない。
法によって高い知的能力を得たならば、人はおのずから高い道徳意識、倫理観を持つものである。

人が宗教的教えを必要とナるのは、知的能力が低いからである。要するに、愚かだからである。人の道徳意識が低いのは、知能、精神能力が低いからだ。ほんとうに知能が高くなれば、人は、いま人類の持っている程度の宗教意識などけるかに超えたもっと高い倫理観を持つ。オリヴイエ教授のいう「無限に発展した道徳意識の保有」である。
教え(宗教)による人類の道徳意識の開発は、すでに限界に達してしまっている。
見よ。

地上にあまねくくりひろげられている人類のこの大愚行を。殺し合い、奪い合い、罵り合い。
どこに「知恵あるヒト」のおもかげがあるか? 「大愚人類」そのものではないか?
要するに、バカにいくら結構な教えを説いてもだめなのだということだ。
もっと忌憚なくいわしてもらうならば、(これは私がいうのではない。みんな密教の神サマが
おっしやるのであります)ちっとましなバカが、しょうのないバカに一心に教えを説いているというのが、いまの宗教のすがたというものではないのか?
宗教だけではない。科学と技術だってそうではないか。見さかいなくいい気になっていろんなものをつくり出し、あとで公害だ有害物質だと困っている。こういうおろかなことは、もう少し人類の知能が高くなったら、そんなバカなことはたのまれなくともしなくなる。要するに知能が低いからだ。
政治も、経済、思想も、みんなそうだと、あなたは真実思わないか?
要するに、すべて、″ヒトの知能が低い″ことに原因があるのである。
この世界を住みよく、たのしいものにするのには、革命ごっこよりもなによりもまず、ヒトの知能を高めることだ。そう、あなたは思わないか?
さて、話をもとにもどそう。
教えの限界とはヒトの知能の限界だ。
密教はその限界をうち破るのである。
技術によって超能力をあたえ、いっきょにヒトを改造して、宗教などという低い次元をいっぺんに飛び越し、想像を絶する叡智を持った、高い倫理的生物をつくり出そうというのだ。
それが、密教だ。
求闘持法《明星》の秘密

私はこのことを念力の護摩の修得に際してさとった。
先年、私は、念力の護摩法の伝授を受け、悉地成就の修行に入った。けれども、その行法の次
第を、何十ぺん何百。へんくり返しても、念力の火は出なかった。煙さえたちのぼる気配はなかっ
た。私かそのままその法の次第を忠実にくりかえしていたら、永久に念力の火は出なかったであ
ろう。出るはずがないのである。念力の護摩法の次第を、いくらくりかえしたって火は出ない。
そんなことで出るのだったら、今日までに、何百人、何千人の阿闇梨が念力の護摩を焚いていた
だろう。真言密教の念力の護摩法だけでは、ぜったいに火は出ない、それは、密教の技術によっ
て、サマーナ気を克服したとき(274頁参照)、はじめて肉体から火焔を発することができ、念力の
護摩は完成するのである。絶望した私は真言密教をはなれ、身を転じて古代インドの秘密経典に
むかった。
私はそこでインドの聖典、バガヴァットーギータを続み、そこに念力の護摩の秘法がかたられ
ていることを知った(口絵写真参照)。そこから、ギータと不二の関係にあるヨーガに入った。ヨ
ーガに本当の念力の護摩があることを知った。ヨーガにおける私のいのちがけの修行がはじまっ
た。ヨーガの技術でなければ念力の火は出ないことがわかったからである。真言密教の念力の護摩法次第は、ほんの心おぼえ程度のものに過ぎず、これでは、だれがどうしたって火の出るはずがなかった。いや、この肉体が火となるための「法」としては心おぼえ程度のものですらなく、むしろ、バガヴァツトーギータの聖句のほうが、はるかに示唆に富んでいるといえた。ヨーガの念力の護摩は、ただ単なる観想の羅列ではなく、どの生理器官をどのように統御しどのように動かすという現実的具体的な「技術」があった。この技術によってトレーニングすれば、多少なりと素質のある者だったら、必死の修行によって念力の火を出すことは不可能ではない。真言密教の念力護摩法次第だけでは、大天才といえども不可能にちかい難事である。この秘密を知らずして、古来、いく人の密教修行者が、念力の護摩の次第と秘伝を前に、血と汗の絶望をくりかえしたことであったろう。思えばツミな″次第″である。
これと全くおなじことが、真言密教につたえる「求聞持聡明法」についてもいうことができる。求闘持とは、古書に、『見聞覚知のことを憶持して長く忘れず、師なくして天地の感応を待つ、これを″求″といい、教なくして真如妙理を覚る。これを″聞″といい、一度覚るとながく忘れない、
これを″持″という』とあるように、求闘持法とは、ヒトの大脳を強化して、博覧強
卸、比類なき記憶力と聡明さをあたえる秘法であるが、これをなん十。へんなん百ぺん行法の次第通りに修行したところで、その結果は、おそらく念力の護摩とたいしてかわらない結果におわるであろう。生命を賭して修法すれば、多少の効果はあろうが、宗祖が体験を以て示したような霊験を得ることはまず難い。なぜならば、真言密教の「虚空蔵菩薩求聞持法」には印信観想による
精神集中の「法」はあるけれども、現実に生理器官である大脳皮質そのものを動かす「技術」を持っていないのである。ヨーガの「聡明法」は、どの器官をどう使ってどのように大脳皮質を動かすかという「技術」がある。また、それだけではない。根本的にちがうものがあるのである。
’それは、まったく根本的にちがう。
拙著「変身の原理」で求闘持聡明法についてかたって以来、私は、十指を越える真言僧侶、阿閉梨がたから、手紙あるいは直接、この法の修行について相談をうけた。そのほとんどは、自分も一度ないし数度にわたって求聞持法を修したが、いっさい効験がみられなかった。修法の行じかた、あるいは心構えに越法のところがあったのであろうかというのであった。また、何度か修してみて、あの行法にそんな神秘的な力がひそんでいようとは思われぬというものがあった。なかにはお気の毒にも健康を害してしまって、再起不能になったと訴えてきた阿閉梨もおられた。
お気の毒であるが、当然なのである。
真言密教の阿開梨がたが、いくら求闘持法をくりかえしても、成就できないのは当然なのである。もちろん、絶対に、とはいわない。万人に秀いでる天才、英才であったら、その極に達することができるかも知れぬ。しかしまず、不可能にちかいというべきだろう。
私か発見した密教の「求闘持法」でなければ、まず不可能にちかいといってよいであろう。こ
の法については章をあらためてくわしく書くが、ここで、求聞持法の秘密の一端を明かそう。まず、最初、真言密教の求聞持法を述べてみる。
『比の法を修するには、東南西三方の晴れたるところを最上とする。東方のみでも悪くはない。

道場の東壁に小窓をつくる。これは虚空蔵の似沢である明星の光を道場にさし入れるためである。また、朝日夕月の光を本尊にあてる意もあり、あるいは小窓に絹を張り、黄色の種字の字を書いて、そこから、明星の光をとおして本尊にあてるためでもある』
とまず場所を制定し、つぎに、さだめられた本尊の印明を百万べん、五十目あるいは百日に読誦するのであるが、日蝕または月蝕の時に結願するよう開白(はじめること)しなければならぬとある。
けれども、密教の求聞持法では、べつに場所はえらばぬのである。静かな場所でありさえすればよい。また、いつはじめてもよいのである。明星を拝するのも、行のはじめに際して、あるひととき、星と月に対すればよいのである。
また、これこそが密教のもっとも奥義とするところなのだが、弘法大師空海は、求聞持法の成就の体験を、
『―阿国大滝の岳にのぼりよじ、土州室戸の崎に勤念ナ。谷響を惜しまず、明星来影す。
言々』
と語っている。すなわち、阿波の大滝にのぼり、土佐の室戸岬でこの法の修行にはげんだところ、谷はこだまし、明星があらわれるなど、法にいわれている通り現証があり、法が成就した、
というのであるが、これは、空海のひとつの表現であって、これをそのまま鵜呑みにしてしまうからいけないのである。これはどこまでもひとつの表現なのだ。
伝にいわく、
『明星来影す、とは、結願のときに、香に火を置き、明星を拝するに、四方が暗く明星が見えねば悉地就成ではない。暗くても星が現ずれば下品の成就であり、四方が少々晴れて星が現ずれば中品、天に暗なく、ことごとく晴れて星現ずれば成就、四方が晴れても星現ぜざれば悉地成せざるなり』
とあるが、これがちがうのである。まるっきりちがう。
こういう口伝や奥伝をたよりにいくら修行しても、気の毒だが、求聞持法は成就しない。
明星とは現実の明星ではないのである。
大脳のある部分をある方法で刺激すると、目の前に光が見えるのである。
その光は、かたちも色も大きさも、いろいろに見えるが、意識を記憶の座に向けて沈静させる
と、つめたい、やや黄色みを帯びた白銀色になって、しずかに目のなかでまたたく。それはちょうど明星そっくりに見えるのである。
これが明星なのだ!
268頁をもう一度、読みかえしていただこう。
″頭のかかの光明に日を向けるならば″
とある。これがそれなのである。
ある特殊なトレーニングにより、この部位(大脳の視床下部のあたり)の刺激が、目のなかに光を浮かばせるのである。目をある角度に向けると、目を開けていても閉じていても、ポッカリと光が浮かんで見える。
この光が見えるようになると、記憶の座が自由にあやっれるようになるばかりでなく、さまざまな、奇蹟としか思えぬような力がついてくる。
これが、「求聞持法」の明星の秘密である。大空を百年ながめて空中の明星を見つめていても、ムダだ。明星はわが大脳のなかにあるのだからI。
このことは、密教五〇〇〇年の歴史に、私がはじめてっかんだ秘密である。私以外にこれを知る者はついになかった。求闘持法の秘密を私はついにつかんだ。私はそれを誇りに思う。
これをもとにして、私は、私の「求闘持聡明法」を編成した。これは、今までの「法」などというアイマイなものではない。生化学と生理学をもとにした「技術」である。正しい指導のもとに訓練を積めば、必ず、だれでもできるようになる技術である。
本来ならば、こういうことは私の、「太極秘伝」として、ごくかぎられた者だけにひそかにつたえてゆくべきものなのだろう。だが、私はこれをひろく公開する。なぜならば、私は、世界中の人びとがこの法によって知能を高め、いっさいの愚行-殺し合い、奪い合い、罵り合い、にくみ合いから遠ざかってほしいのである。
求聞持聡明法は、人の知能を三倍にナる。
しかし、その半分でもよい。人類の知能が今の水準より平均一・五倍飛躍したら、この世
から、犯罪も戦争もいっさいなくなる。そういうものがあるのは、人間が愚かだからだ。求闘持法によって知能指数が倍加したら、そういうものがいかに愚かで馬鹿々々しいことか、大人が子
供のヶンカが馬鹿々々しくて見ていられないように、いっさい、しなくなる。
私や、私の周囲のごく一部の者が、この法によっていくら賢くなろうとも、それがなにになろう。世界の大勢にどれはどの影響があろう。よしんば、私か、この法によって、古今無比の大聖者と仰がれるほどの力を持とうとも、世界のどこかで、権力を握っている馬鹿が、核バクダンのボタンをひとつ押したら、それっきりなのである。世界中はふっ飛んでしまう、古今無比の大聖
者もいっしよに!
まあ、古今無比の大聖者ともなれば、事前にそれくらい察知して、安全な所に待避してしまうであろうが、世界中が壊滅して、助かった者も核の灰に汚染されて半死半生ばかりという世のなかに、自分とごく少数の一族だけが生き残ってなにになろう。ノアの方舟の時とは状況が全くちがうのである。
このままでゆけば、核戦争がはじまるのはぜったい確実である。私にははっきりそれがわかる。この大愚行だけはやめさせなければならぬ。
革命よりも、階級闘争よりも、人種闘争よりも、なによりも、いま、人類に必要なのはこれだ。これが根本的に人類を救う道だ、とそう私は思う。ヒトの知能が二倍になったら、いま、人類がかかえているあらゆる問題はすべて解決してしまう。そう、あなたも思わないか?
私か、この求聞持法を惜しげもなく公開し、ひとりでも多く、一目でも早く、修得してほしいとねがうのは、そのためなのだ。
さて、はなしが少々よこにそれたが、この大脳の部位のことは、インドのヨーガの指導者も知っており、ヨーガのほうでは、この部位のことを、
「頭のなかの光座の座」
とか、
「梵の座、梵の裂け目」(brahma randhro
とか、
「サハスララーチャクラ」
と名づけ、頭の中の光明がかがやいている部分であると考えている。しかし、これも解釈がちがっている。
頭のなかに光明がかがやいているのではない。私の発見した求闘持法とおなじ原理である。大脳のある部位を、あるエネルギーで刺激すると、あるひとつの物質が分泌され、それが脳の神経組織を刺激して、目に光を感じさせる。                  『- それが、頭と目の微妙な角度のちがい、刺激の相違で、目のなか、目の前、および、頭のなか、というように、光の浮かぶ場所がちがうのである。
求聞特法の湯合は、目の前の、やや上方、ニメートルから三メートルくらいのところに浮かんでみえる。目の角度と、瞳孔の絞りかたによっては、はるか遠くの空に小さくかがやくように
(ちょうど明星のように)見えないこともない。もし、人里はなれた山のなかであったら、明けの明星のように見えることもできるだろう。私の経験では、目のななめ上方一メートル内外のところに見えるようにするのが、一番、″上品″のようである。
目を閉じて、目の奥の上方、つまり、ヨーガでいう”梵の座”のあたりに、光明を感じさせる
技術は、頭の角度と、脳の刺激する揚所が、求聞特法と少しちがう。したがって、これは、求聞持法ではなく、ちがう力を発現する。また別な法である。この法については、またあとで別に章をもうけて説明しよう。

(サマーナ気統御の技術》と《護摩法》の合体
おなじような例がいくっもある。
たとえば″五相成身観”である。
これは、真言宗徒がかならずおさめねばならぬ金剛界法という法のなかにあり、密教門でもと
くに重要な観法とされる行法である。
凡夫がホトヶという超能力者になるまでの過程を五つに分け、修行者は、ひとつひとつその境界を体験してゆくのであるが、これが、いずれも密教の重要な修行課目になっており、あきらか
に密教から出たものであることがわかる。
しかも、真言密教では、印と観想の二つからなる”観法″であるが、密教においては、観法だ
けではなく、特殊な技術による鍛 練によって生理的器官を動かし、実際に五つの境界に対応す
る力をつける訓練となっている。
また、真言密教においてもっとも重要とされる金剛界九会マンダラもそうである。金剛界九会
マンダラは、凡夫がホトケになる九つの段階と、ホトケというものの力、ホトケのはたらきを図
像にえがきあらわしたものであるが、要するに、ホトケの説明である。
もっとも、真言密教は、このマンダラにもとづいて、前記した金剛界法という行法を編成し、
。観法″によってこれを修行者に体得させようとする。これは、一般仏教、顕教が、その修行方
法として、ただ、経典の読誦と、念仏、唱名題目しか持だないのに対し、一段と進歩したすぐれ
た修行方法であるというべきだが、しかし、これも、真言密教が″観法”だけであるのに対し、
密教は、九会マンダラにあらわされた九つの力を実際に体得させる訓練技術を持っている。
例をあげれば、微細会マンダラがそうである。これは九会マンダラのなかの東南方に位するマ
ンダラで、ホトケの微妙幽玄にして不可思議なる智恵の力とはたらきをあらわすものである。
密教には、実際にこの力を生ぜしめる訓練がある。
真言密教では、ただ、。観想″による″観法″しかない。現実にそういう″力″を持たせると
ころの″技術″がない。
276頁を見ていただこう。
。あきらかに、微細会マンダラは、ヨーガのこの訓練から出ている。ナくなくとも、この訓練に
よって得られる力を背景にしたものであることは間違いない。
これは、密教の技術で、胸の部分の或る部位に力を集中することによって得られる力である。
-こうしてみてくると、真言密教がとるべき道は、おのずから明らかであるといわねばなるまい。真言密教の行法は、密教の技法をとり入れることにより、本当の力が生ずるのではないのか?
そういうと、密教がそんなにすぐれたものであるというなら、密教は真言密教をはなれて、密教独自の道を歩んだらよいではないかという意見が出るかも知れない。その通りである。それでもよいのだ。そういう道もあると私も思う。
しかし、それにもかかわらず、私か真言密教にある価値を見出すのは、その表現様式である。おもしろいことだと思う。
様式だけになってしまっている(と私が思う)真言密教の、その様式が、なかなか貴重なのだ。
私が体得した密教の秘奥の技術を、さて、どのように表現しようかと、その様式を考えてゆくと、結局、真言密教の様式がいちばん便利なのである。たとえば、私の体得創案した「求聞持法」は、ヨーガの技術から発見したもので、真言密教の「求聞持法」とは全然ちがう。そのことは、前の項でおわかりになったことと思う。

 

Hirakawa Publishing Co., Ltd. From “Foreword”

“Equivalent transformation expansion theory”

Can you really do that? How can you do that?
That’s certainly true, and I myself challenged the secrets of this esoteric Buddhism myself, and this myself.
Until I clarified the technology, I couldn’t believe it at all. I’m alone, a secret for 500 years
I stumbled upon this mysterious technique that had been caught in the veil of the world, and unraveled its secret. It’s a belief
It was a surprising application of technology based on the delicate biochemistry that could not be achieved.
for example,
As I mentioned earlier, Dr. Kikuya Ichikawa is good at Ma (≒ Yuzu Keiki) in his recent writings.
Based on the “equivalent transformation expansion theory”, the theory of molting to the future society is explained by taking the change from hornworm to sanagi as an example.
I’m here. This theory is truly spectacular and just as brilliant as it should be. matter
In addition, the theoretical envy that the hornworm transforms into a pupa is truly in the future theory that is constantly being produced.
It should be said that it is a color that appears in.
But, unfortunately, it remains a theory, explanation and expectation, and how to apply it to humans.
It does not show how to make it happen. That is, of course, the preface of the book himself.
So, this is “just within the scope of software’s claims about the future society that humanity should be.
“This is a concrete advocacy of hardware for software.”
Since it is “to be the chief of the savage Shoshichi-it is fixed”, we just take a look at it and wait for it.
Esoteric Buddhism has one of the techniques of esoteric Buddhism.
We have the technology of “molting from hornworms to sanagi”, and we have been using it for thousands of years as a human transformation technology.
It was applied and practiced in.
Esoteric Buddhism was finally practicing the flower-shaped theory of the future advocated by the landlord of modern creative theory.
be. I. 500 years ago.
The hornworm, a creature that only knows to crawl on the ground, becomes a pupa and becomes a creature flying in the sky.
Transforming means that the creatures living in the two-dimensional world have transformed into three-dimensional creatures. Dense
Transforming humans with the same technology by teaching brings human beings, which are three-dimensional creatures, to a higher dimension.
It means to make a leap. That is the transformation technique of esoteric Buddhism. Change the dimension of the creature
It is.
What’s more, it’s just a mysterious, divine, and mysterious way, as it has been said.
It is done with appropriate biochemical technology. And that’s some of the techniques of esoteric Buddhism
It’s just one of them.
What kind of wisdom did it do? The technique of esoteric Buddhism is called mystery
If so, that point should be called mystery. But that’s exactly what happened for thousands of years.
The super-human beings who have emerged are lonely and created by making full use of the best wisdom of humankind, “lighting wisdom”.
It is more than a curriculum for future people.

By the way, what kind of theory is the Ichikawa theory “equivalent transformation expansion theory” related to esoteric Buddhism technology?
How does it relate to esoteric techniques?
Before I preach it, there is something I need to know a little more.
Here, I think I have to mention two words, esoteric Buddhism and yoga.
In my book, The Principles of Transformation, I described esoteric Buddhism like a sword. It’s a little long, but I’ll quote it.
“There is a connection between Shingon Buddhism, a denominational Buddhism, and esoteric Buddhism, that is, secret Buddhism. But that’s
It is a relationship of forever fluffy connection, and as is usually thought, esoteric Buddhism Immediate Shingon Buddhism, Shin
It is not a esoteric Buddhism.
Shingon Buddhism is the systematization and organization of esoteric Buddhism that originated in India and was completed in the form of such a monologue.
It is not the esoteric Buddhism itself. Although it is a system of esoteric Buddhism, it is esoteric
It is not the teaching itself.
It was almost completed by then, but it was split and diversified from Indian esoteric Buddhism to Japanese esoteric Buddhism.
It is said that Kukai, the founder of the religion, created a system by his own insight and wisdom.
Similarly, in the Tendai sect, one esoteric Buddhist esoteric Buddhism system called Tendai Esoteric Buddhism has been completed.
This is also a flow of esoteric Buddhism.
Therefore, in order to understand esoteric Buddhism correctly, it is absolutely necessary to] degree, the origin of esoteric Buddhism.
You have to go back and think about it.
Esoteric Buddhism was initially a technique.
By no means, there was no single religion called esoteric Buddhism from the beginning.
Roses long before the Gotamer Buddha appeared and began to preach the new teaching of Buddhism.
Since the days of Mon, India has had one method of giving psychic powers. Such a method is complete
It was made and was sung among some people. It comes from the rigorous training of the mind and body
With mysterious power, they turned it into a technique.
We can now see one of those trends in yoga. (However, it is
It is not the yoga of acrobatic gymnastics that is practiced in Japan today. Himalayan hinterland saint
It is an orthodox yoga that has been handed down among us)
Yoga is one of the methods. Buddhism appears in the technology to develop this supernatural power
Previously it was incorporated into the Brahmin, and when Buddhism appeared, Buddhism also incorporated it.
Gotamer Buddha himself was a disciple, although he himself had supernatural powers by following this technique.
He forbade learning this. The reason is that when this technique gives some power, they
Immediately thought that it had reached the state of “hotoke” that Buddha called, and he was trained.

It was because it was a mess.
However, he secretly allowed this to some of the most talented disciples.
The Gotama Buddha usually believed in mysterious powers and wished that the practitioners would have such powers.
Buddhist scholars and Buddhists seem to believe that they have forbidden to do anything, but that is a mistake.
Then, Buddha himself, Godfoot ({Random stone doctrine, that is, supernatural to fully fulfill Buddhism)
He says that power is needed and preaches a training method for superhuman skill development. This is the Pali literature
Can be easily proved by. (Omitted)
According to it, it is a supernatural power development method also called “Iddhipada” or “Iddhipada”.
Buddha thinks that simply brushing intellect and reason is not enough to fulfill the bodhi.
Well, he thought he needed the power to break the limits of intellect and reason.
To that end, he created a method for developing such powers. It’s the super he learned
It can be seen that it was organized by adding the capacity development method.
It consists of thirty-seven kinds of techniques, and Iddhipada is the central technique.
NS. Jintou explains how to get the decency by dividing it into four types of methods.
Desire foot (desire, ideal, approach for creation)
Work God’s foot (body and mind training method)
Mind god foot (subconscious training method)
Kanjin foot (deep consciousness training method)
In order to break the stalemate, it was incorporated into Mahayana Buddhism and systematized, and became known as esoteric Buddhism. So esoteric Buddhism has two sides.
One is the development technology of supernatural powers.
One is the doctrine of Mahayana Buddhism
These two.
By combining these two things, a higher doctrine than Mahayana Buddhism was completed, and “Kim”
A new Buddhism called “Go Mahayana” was born. This is esoteric Buddhism. ”
As you can see in the text quoted as “-“, “Esoteric Buddhism” spoken in the principle of transformation L
Toba is “esoteric Buddhism” in the sense of “secret Buddhism.” The so-called incorporated into Buddhism
Shingon Esoteric Buddhism, or Shingon Buddhist Esoteric Buddhism.
However, in this book, “esoteric Buddhism” as I say is used in those esoteric Buddhism, the “principle of transformation”.
Readers want to know that it is completely different from the esoteric Buddhism that exists.

“Esoteric Buddhism” in this book means before Shingon Esoteric Buddhism, so to speak, before it was incorporated into Buddhism.
Before even being incorporated into Brahmin, in terms of quotation, 4R religion was initially a method (technology). Gotama Buddha appears and begins to preach a new teaching called Buddhism
Earlier, from the Brahmin era, India had one method of giving psychic powers. Such a method was completed and was sought after by some people. It is a mysterious power that comes from the rigorous training of the mind and body, and they have turned it into a technique. When
Please be aware that a certain “technology”, that is, “Ancient Marga” and “Shingon Esoteric Buddhism”, is a combination of the two. That is, the esoteric Buddhism in this book is yoga, Shingon esoteric Buddhism, and
It is a new technology created by connecting these two.
Readers should be familiar with this point, as it also explains the law of esoteric Buddhism, as it is to explain the reason why we had to do such a thing.
As the quote says, Mahayana Buddhism, which had come to a standstill, sought a way out of yoga technology. As I mentioned earlier, the high leap of the mind must be premised on the high amplification of the sensory organs. However, Mahayana Buddhism has only teaching and no technique. It is a teaching of Mahayana Buddhism, it only makes the teaching clear, and there is nothing that should be called technology. unintentionally
It is natural to get stuck in, and it is even more natural to seek salvation from yoga technology in due course.
It was a big deal.
Thus, Kongo Mahayana and Shingon Esoteric Buddhism were born. As I mentioned earlier, yoga has five skill development techniques, in the words of Professor Georges Olivier. It is (1) understanding of the fourth dimension, ability to grasp the complicated whole at once, (3) acquisition of the sixth sense, (4) infinitely developed moral consciousness, (5) especially.
It is a spiritual characteristic that is incomprehensible to our enlightenment, but these skills of skill development were not directly incorporated into Mahayana Buddhism. Naturally, there was one deflection slope.
Not surprisingly, Mahayana Buddhist leaders adopted this technique in line with their belief in Buddhist doctrine and its purpose. Techniques that appear to be uncommon have been abandoned, or have been addressed or transformed by only a few leaders. In this way, a new doctrine and system called secret Buddhism was completed. However, many good development techniques have been transformed into auxiliary techniques to complete this Buddhist doctrine.
I was forced to do it. Or only the skeleton was kept. This was the “law” of secret Buddhism.
The ultimate completion of this was Japanese esoteric Buddhism, the founder of the Shingon sect, Kukai. By the time Secret Buddhism was sung from India to China, when Kukai, which spanned China, came into contact with it, Secret Buddhism was not yet complete. Select the chaotic material and see this now
It was Kukai who put together the Shingon sect and made it an orderly religion. It was a feat that only a great genius could accomplish, but at the same time, secret Buddhism became too orderly and stylized Japanese. Most of the esoteric part that remained until then was almost hidden, and the “one-law” became a stylized religious ritual.
However, it was unavoidable in the context of the national situation and cultural standards of the book at that time. Rather, it should have been natural. Otherwise it exists as a religion
I couldn’t stand.
However, because of that, the “law” has lost its power as it is now. True capacity development is difficult in the religiously stylized and ritualized “law.” I say

 駄如求聞持明法 memorization ability and intelligent system

 

 

駄如求聞持明法 memorization ability and intelligent system

それによると、それは、″四神足“または、″四如意足″ともいわれる超能力開発法である。

ブッダは、菩提を成就するためには、単に、知性や理性をみがくだけでは不十分であると考え、知性や理性の限界をうち破る力が必要であると考えた。

そのために、彼は、そういう力を開発するための行法をつくりあげた。それは、彼が学んだ超能力開発法を加えて編成したものと見てよいであろう。
それは、三十七種の技法から成り立つもので、四神足というのは、その中心になる技術である。

神通、如意を得るための定を、四種類の手法に分けて説明している。

欲神足(願望、理想、創造のためのアプローチ)

勤神足(体と心のトレーニング法)

心神足(潜在意識のトレーニング法)

観神足(深層意識のトレーニング法)

きづまりを打破するために、大乗仏教のなかにとり入れられて体系化され、密教と呼ばれになったのである。いうわけで、密教は二つの面を持っている。

一つは、超能力の開発技術
一つは、大乗仏教の教義この二つである。

 

 

人が宗教的教えを必要とナるのは、知的能力が低いからである。要するに、愚かだからである。人の道徳意識が低いのは、知能、精神能力が低いからだ。ほんとうに知能が高くなれば、人は、いま人類の持っている程度の宗教意識などけるかに超えたもっと高い倫理観を持つ。

オリヴイエ教授のいう「無限に発展した道徳意識の保有」である。

教え(宗教)による人類の道徳意識の開発は、すでに限界に達してしまっている。

見よ。

 

地上にあまねくくりひろげられている人類のこの大愚行を。殺し合い、奪い合い、罵り合い。どこに「知恵あるヒト」のおもかげがあるか? 「大愚人類」そのものではないか?

要するに、バカにいくら結構な教えを説いてもだめなのだということだ。

もっと忌憚なくいわしてもらうならば、(これは私がいうのではない。みんな密教の神サマがおっしやるのであります)ちっとましなバカが、しょうのないバカに一心に教えを説いているというのが、いまの宗教のすがたというものではないのか?

宗教だけではない。科学と技術だってそうではないか。見さかいなくいい気になっていろんなものをつくり出し、あとで公害だ有害物質だと困っている。こういうおろかなことは、もう少し人類の知能が高くなったら、そんなバカなことはたのまれなくともしなくなる。要するに知能が低いからだ。

政治も、経済、思想も、みんなそうだと、あなたは真実思わないか?

要するに、すべて、″ヒトの知能が低い″ことに原因があるのである。

この世界を住みよく、たのしいものにするのには、革命ごっこよりもなによりもまず、ヒトの知能を高めることだ。そう、あなたは思わないか?

さて、話をもとにもどそう。
教えの限界とはヒトの知能の限界だ。
密教はその限界をうち破るのである。
技術によって超能力をあたえ、いっきょにヒトを改造して、宗教などという低い次元をいっぺんに飛び越し、想像を絶する叡智を持った、高い倫理的生物をつくり出そうというのだ。
それが、密教だ。求闘持法《明星》

 

According to it, it is a supernatural power development method also called “Iddhipada” or “Iddhipada”.

Buddha thought that simply brushing intellect and reason was not enough to fulfill the bodhi, and that he needed the power to break the limits of intellect and reason.

To that end, he created a method for developing such powers. It can be seen as an addition to the psychic development methods he learned.
It consists of thirty-seven kinds of techniques, and Iddhipada is the central technique.

He explains Shinto, the rule for getting the will, by dividing it into four types of methods.

Desire foot (desire, ideal, approach for creation)

Work God’s foot (body and mind training method)

Mind god foot (subconscious training method)

Kanjin foot (deep consciousness training method)

In order to break the stalemate, it was incorporated into Mahayana Buddhism and systematized, and became known as esoteric Buddhism. So esoteric Buddhism has two sides.

One is the development technology of supernatural powers.
One is the doctrine of Mahayana Buddhism.

 

 

 

People need religious teaching because of their low intellectual ability. In short, it’s stupid. People’s moral awareness is low because their intelligence and mental abilities are low. If the intelligence is really high, one will have a higher ethical sense that goes beyond the religious consciousness that human beings have now.

This is what Professor Oliveyer calls “the possession of an infinitely developed moral consciousness.”

The development of human moral awareness through teaching (religion) has already reached its limit.

Behold.

 

This great folly of mankind that is spread all over the earth. Killing, scrambling, and swearing. Where is the essence of “wisdom humans”? Isn’t it the “great fool” itself?

In short, no matter how much you teach a fool, you can’t.

To be more frank, (I’m not saying this, everyone is esoteric god Sama), a sardine idiot is preaching to a sardine idiot. But isn’t it the shape of the current religion?

It’s not just religion. Isn’t it the case with science and technology? I feel good about it and create various things, and later I am in trouble that it is a toxic substance that is a pollution. Such stupid things will not be uncommon if human intelligence becomes a little higher. In short, it has low intelligence.

Don’t you think it’s true that politics, economy, and thought are all the same?

In short, it’s all due to “low human intelligence”.

To make this world livable and enjoyable, first and foremost, to enhance human intelligence, rather than playing a revolution. Yeah, don’t you think?

Well, let’s get back to the story.
The limit of teaching is the limit of human intelligence.
Esoteric Buddhism breaks that limit.
They are trying to give supernatural powers by technology, remodel human beings together, jump over the low dimensions such as religion at once, and create highly ethical creatures with unimaginable wisdom.
That is esoteric Buddhism. Fighting possession method “Meisei”

 駄如求聞持明法 memorization ability and intelligent system

 

駄如求聞持明法 memorization ability and intelligent system

 

 

求聞持聡明法の秘密

空海と覚と私

私は定に入っていた。

ひたすらふかい制に入っていた。

修するは求聞持聡明法。 三度目の修法であった。

最初は真言宗密教の行法に掘った。完全な失敗であった。それは集中力を高めるという効果は あったが、それ以上のものではなかった。 つぶさにこの行法を検討して、私は、しょせん、真言 宗教の求聞持明法に、大脳皮質の構造を一変するごときシステムはないとの結論を得た。す くなくとも、従来のままの行法に、それだけの力はない。求聞持明法を成就して、悉地を得た 弘法大師空海は、あとにのこしたこの行法以外に、必ず、 なんらかの秘密技術を体得して いるのに相違なかった。彼ののこした求聞持法の行法は、その秘密技術のヒントになるべきもの のみをつらねたに過ぎず、その秘密技術はおそらく、自分自身の訓練努力によってみずから 見せよとつきはなしているのにちがいなかった。 それを発見するだけの努力をし、発見でき るだけの質のあるもののみがそれをわがものとする資格があるのだ、と、つめたく未来を見すている不世出の知性の目を、私は行法次第のなかに感じた。それゆえにこそ、宗教者としてゆ たかな天分を持つ興教大師覚が、七たびこれを修して失敗し、八度目にしてようやく悉地成就 を得たという解の行法となっているのである。そうでなければ、覚ほどの才能が、なんで七 たびも失敗しようか。

しかも、これを成就したという覚は四十歳代にして没している。 これを体得した私の経験 からいえば、この法を成就した者は、自分のからだを自由自在にコントロールして、欲するなら ば、百歳、二百歳の長寿もけっして不可能ではなくなるのである。しかるに、どうして求聞持法 を体得した覚が四十歳代という短命に終ったのか。覚が求聞持法を体得したというのはウソ であったのか?私は、彼がこの法を成就したことは真実であったと思う。 では、覚が夭折し たのはなぜであるか? 私は、求聞持明法の行法次第のなかにかくされた秘密をさぐり出すた めの血のにじみ出るような、いや、私をしていわしむれば五体から血の吹き出すような辛苦 が、彼のいのちをちぢめたのであろうと思う。 彼は八度目にしてついにこの秘密の技術を体得し たが、その時までに彼の生命力は消費しつくされ、再起できなかったのであろう。私は、この三 一度目の修法で持法の秘密を解き、悉地の成就を得るのであるが、それでは、私は、興教大師 覚上人よりも密教者としてすぐれているというのであろうか? そうではないのである。私 は、非常にしあわせなことに、弘法大師空海とおなじ立場にあったのだ。

それはどういう意味か?

空海と覚愛の相違、それは、空海は海外からのナマの技術に接したのであり、

こしたヒントのみによった、ということである。私は、空海が持法の最後の跡を体得した 海外に出て、外地の技術に接してからであると確信する。 その資料と思われるものも二、三 持っているが、彼は最初、外からもたらされたナマの技術(それは幼稚なものであったが) 自分でして半ば完成し、のち、外地にわたってすべての秘密を解いた、と私は考え

空海は彼の地でサンスクリット語を自由にあやつった。彼は、古代ヨーガの超技術を知って いたのに相違なかった。 彼ほどの天才がサンスクリット語を読み、書き、語りながら、密教の原 点であるヨーガにふれなかったとしたら不思議である。 彼の求聞持明法には、古代ヨーガの技 がひそんでいるのに相違なかった。けれども、野や来の山奥で、ひとり法を修する覚に はかなしいことに、古代ヨーガの技術はまったく無縁であった。 わずかに真言宗の行法のなか に見えかくれするものを必死に追いもとめ、自分の頭脳でこれを綴り合わせてゆくという至難以 上の作業に没頭せねばならなかった。彼の頭脳はついにこれを解いた。しかし、 その極に達していたであろう、と私は心から同情にたえない。

私は空海とおなじ立場に立つ。いや、千年の時代の流れは、私に空海以上の便宜をあたえてく れている。彼の何倍もの資料を私は居ながらにして手に入れている。 二度目の修法に、私は、古 代ヨーガの技術をとり入れた。 ひしひしと感待するものがあった。五〇日のその行で、持法成就はみられなかったが、私の考えのまちがいでなかったことがよくわかった。 この方法で、 持法はかならず成就する。 つよい確信を得た。この技法を積みかさね、延長してゆけばよ い。 これしかない。 ぜったいの自信を得た。

この、私の技法によれば、従来のごとく、山にこもって五〇日ないし一〇〇日、明星を拝しつ づける必要がなかった。 常住座、閑寂の部屋ならば、時ところをえらばなくてもよいのであ った。ただ、最初の三日ないし七日間、して明とあい対し、これをふかく脳裡にとどめて おけばよかった。あとは、三〇日、五〇日、一〇〇日、よしんば一〇〇〇日かかろうとも、日常 生活 のうちにトレーニングを積みかさねてゆけばよいのであった。この発見はすばらし いものであった。これでなくては、法はついに民衆と無縁のものになってしまう。五〇日、10 〇日、特定の山にこもらねば成就しないというのでは、ごくかぎられた人たちのみしか参加する ことはできない。民衆と無縁になってどこに法の存在価値があろう。私は、このシステムによっ この法を完成せねばならぬ。 法のために、民衆のために、どうしても。

そして、三度目の必死の修法に私は入っていた。

それは、ほぼ一〇〇日目、私の法のシステムでいって百度目のトレーニングのときであった。 真言宗に伝わる求聞持法の種の印明、それに、古代ヨーガに伝わる特殊な呼吸法 古代ヨーガ の秘法から私が創案した特殊な手印とポーズ、この三つによるトレーニングで、私のからだと大 脳皮質と脳髄は、微妙な変化をおこしつつあることが感じられていた。 チャクラの開発も順調に

すすんでいた。機が熟しつつあることを、私の六感は感じていた。

まろんだような感じであった。しかし、ねむりではなかった。 いかの感覚であった。かる 心、めまいに似ていた。忘我の一瞬であった。その私は苦痛の叫びをあげていた。脳の一角に電流がながれた感覚が走った。落雷があったと 感じた。目の前を電が走った、つぎの瞬間、駅前でフラッシュをたかれたように、私の視野は 真っ暗になった。失明! という考えが、チラリと脳裡をよぎった。と、そのときであった。 頭の内、深部にポッカリとあかりがともったのだ。そして、それは、私のとおなじリズ ムで、しずかに、しずかにまたたきはじめた。ちょうど、この修法をはじめる数十日まえ、山に こもって見つめたあのときのけの明星のようにそれはつめたく、黄ばんだ白さでまたたい た。

私は力いっぱいをたたいた。

「そうか! これが明星だったのか!」

私は目をみはって叫んだ。私はついに明星の秘密を発見した!

 

ている。

ている不世出の知性の目を、私は行法次第のなかに感じた。それゆえにこそ、宗教者としてゆ たかな天分を持つ興教大師覚が、七たびこれを修して失敗し、八度目にしてようやく悉地成就 を得たという解の行法となっているのである。そうでなければ、覚ほどの才能が、なんで七 たびも失敗しようか。

しかも、これを成就したという覚は四十歳代にして没している。 これを体得した私の経験 からいえば、この法を成就した者は、自分のからだを自由自在にコントロールして、欲するなら ば、百歳、二百歳の長寿もけっして不可能ではなくなるのである。しかるに、どうして求聞持法 を体得した覚が四十歳代という短命に終ったのか。覚が求聞持法を体得したというのはウソ であったのか?私は、彼がこの法を成就したことは真実であったと思う。 では、覚が夭折し たのはなぜであるか? 私は、求聞持明法の行法次第のなかにかくされた秘密をさぐり出すた めの血のにじみ出るような、いや、私をしていわしむれば五体から血の吹き出すような辛苦 が、彼のいのちをちぢめたのであろうと思う。 彼は八度目にしてついにこの秘密の技術を体得し たが、その時までに彼の生命力は消費しつくされ、再起できなかったのであろう。私は、この三 一度目の修法で持法の秘密を解き、悉地の成就を得るのであるが、それでは、私は、興教大師 覚上人よりも密教者としてすぐれているというのであろうか? そうではないのである。私 は、非常にしあわせなことに、弘法大師空海とおなじ立場にあったのだ。

それはどういう意味か?

空海と覚愛の相違、それは、空海は海外からのナマの技術に接したのであり、

こしたヒントのみによった、ということである。私は、空海が持法の最後の跡を体得した 海外に出て、外地の技術に接してからであると確信する。 その資料と思われるものも二、三 持っているが、彼は最初、外からもたらされたナマの技術(それは幼稚なものであったが) 自分でして半ば完成し、のち、外地にわたってすべての秘密を解いた、と私は考え

空海は彼の地でサンスクリット語を自由にあやつった。彼は、古代ヨーガの超技術を知って いたのに相違なかった。 彼ほどの天才がサンスクリット語を読み、書き、語りながら、密教の原 点であるヨーガにふれなかったとしたら不思議である。 彼の求聞持明法には、古代ヨーガの技 がひそんでいるのに相違なかった。けれども、野や来の山奥で、ひとり法を修する覚に はかなしいことに、古代ヨーガの技術はまったく無縁であった。 わずかに真言宗の行法のなか に見えかくれするものを必死に追いもとめ、自分の頭脳でこれを綴り合わせてゆくという至難以 上の作業に没頭せねばならなかった。彼の頭脳はついにこれを解いた。しかし、 その極

に達していたであろう、と私は心から同情にたえない。

私は空海とおなじ立場に立つ。いや、千年の時代の流れは、私に空海以上の便宜をあたえてく れている。彼の何倍もの資料を私は居ながらにして手に入れている。 二度目の修法に、私は、古 代ヨーガの技術をとり入れた。 ひしひしと感待するものがあった。

 

The Secret of the Inquisition and Knowledge

Kukai, Satoru and I

I was in.

I was in a deep system.

To fix is to seek wisdom. It was the third repair.

At first, I dug into the practices of Shingon sect Esoteric Buddhism. It was a complete failure. It helped me concentrate, but nothing more. After examining this practice in detail, I have come to the conclusion that there is no system in the Shingon Religious Gumonjimyoho that would completely change the structure of the cerebral cortex. Even without him, the conventional method of conduct does not have that much power. Kobo Daishi Kukai, who had attained all the land by fulfilling the Gumon Ji Ming Law, must have mastered some secret technique other than this practice that he left behind. The practice of the Kumon Niho that he left behind was nothing more than a hint of his secret technique, and the secret technique was probably to be shown by himself through his own training efforts. They must have been talking. The eyes of an unparalleled intellect staring into the cold future, that only those who make the effort to discover it, and whose quality is sufficient to discover it, are entitled to possess it. , I felt in the course of action. It is for this very reason that Kogyo Daishikaku, who possesses a high degree of genius as a religious person, has failed in this practice seven times, and finally attained perfection on the eighth attempt. There is. Otherwise, how could someone as talented as Satoru fail seven times?

Moreover, the fact that he had achieved this goal passed away when he was in his forties. From my own experience of this, I can say that a person who has attained this Dharma can control his or her body at will, and if he wishes, he will live a long life of 100 or 200 years. of. However, why did Satoru, who mastered the Gumonjiho, live so short a period of his forties? Was it a lie that Satori mastered the Kumonji Dharma? I think it was true that he achieved this Dharma. Then, why did Satoru die so young? If I may say so, I think that the hardships that caused blood to spurt from all of his bodies must have shortened his life. He finally mastered this secret technique on the eighth time, but by then his life force would have been exhausted and he would not be able to recover. In this thirtieth practice, I will unravel the secrets of the Dharma and achieve perfection in all areas, but am I a better esoteric Buddhism than Kakushonin? It is not so. I was very fortunate to be in the same position as Kobo Daishi Kukai.

what does that mean?

The difference between Kukai and Kakuai is that Kukai came into contact with raw technology from overseas,

It is said that it was based only on the hints that were given. I believe that it was only after Kukai learned the last traces of the law that he went abroad and came into contact with foreign technology. I have two or three materials that I believe to be the materials for this, but at first he did it by himself and semi-completed the raw techniques brought in from outside (although they were childish), and later transferred them to other countries. I think I’ve unlocked all the secrets

Kukai freely manipulated Sanskrit in his land. He must have known the super-techniques of ancient yoga. It would be strange if a genius like him read, wrote, and spoke Sanskrit, but did not come into contact with yoga, the origin of esoteric Buddhism. There was no doubt that ancient yogic techniques were hidden in his teachings. However, in the remote mountains of Noyarai, he sadly had no connection to the techniques of ancient yoga. I had to devote myself to the extremely difficult task of desperately searching for what he could see and hide in the Shingon Buddhism practice and putting it together with my own brain. His brain finally figured this out. But he would have reached that extreme, and I sincerely sympathize with him.

I stand in the same position as Kukai. No, the passage of a thousand years has given me more convenience than Kukai. I have many times more materials than he does while I am here. In my second practice, I adopted ancient yoga techniques. There was something I was really looking forward to. In that practice on the 50th, I didn’t see any fulfillment of the Dharma, but I understood well that I was not mistaken in my thinking. In this way, the Dharma is sure to be fulfilled. I got a strong conviction. If you accumulate this technique and extend it, he is. only this one. I gained a lot of confidence.

According to my technique, there was no need to stay in the mountains and watch the morning star for 50 or 100 days, as in the past. If it was the Jojuza, a quiet room, then there was no need to choose a time and place. All he had to do was meet Ming for the first three to seven days, and keep this in his mind. After that, even if it took 30 days, 50 days, 100 days, or even 1,000 days, all I had to do was accumulate training in my daily life. This discovery was a wonderful thing for him. Without this, the law would eventually become irrelevant to the people. If only a very limited number of people participated in the project, it would be impossible for him to achieve success if he stayed in a specific mountain for 50 or 100 days. What is the value of the existence of the law when it has nothing to do with the people? I believe that by means of this system he must complete this law. For the law, for the people, by all means.

And I was in the third desperate ritual.

It was almost the 100th day, the 100th training in my legal system. Indications of the seeds of Gumonjiho passed down in Shingon Buddhism, special breathing methods passed down in ancient yoga, and special hand marks and poses that I created from the secrets of ancient yoga; It was felt that the cerebral cortex and spinal cord were undergoing subtle changes. Good chakra development

I was progressing. My senses sensed that the time was ripe.

I felt like I was mellowing. But it wasn’t sleep. What a feeling it was. The heart was like dizziness. It was a moment of forgetfulness. I was screaming in pain. I felt an electric current run through one corner of my brain. I felt that there was a lightning strike. Electricity ran in front of me, and the next moment, my field of vision became pitch black, as if a flash had been fired in front of the station. The thought of blindness flashed through my mind. It was then. A light suddenly lit up deep inside my head. And it began to blink softly, softly, in the same rhythm as mine. Just a few dozen days before starting this ritual, it was cold and yellowed white, like the morning star that he stared at in the mountains.

I hit with all my might.

“I see! Was this the morning star!”

I opened my eyes and cried. I finally discovered the secret of the morning star!

 

ing.

I could sense the unparalleled intellect that was watching me. It is for this very reason that Kogyo Daishikaku, who possesses a high degree of genius as a religious person, has failed in this practice seven times, and finally attained perfection on the eighth attempt. There is. Otherwise, how could someone as talented as Satoru fail seven times?

Moreover, the fact that he had achieved this goal passed away when he was in his forties. From my own experience of this, I can say that a person who has attained this Dharma can control his or her body at will, and if he wishes, he will live a long life of 100 or 200 years. of. However, why did Satoru, who mastered the Gumonjiho, live so short a period of his forties? Was it a lie that Satori mastered the Kumonji Dharma? I think it was true that he achieved this Dharma. Then, why did Satoru die so young? If I may say so, I think that the hardships that caused blood to spurt from all of his bodies must have shortened his life. He finally mastered this secret technique on the eighth time, but by then his life force would have been exhausted and he would not be able to recover. In this thirtieth practice, I will unravel the secrets of the Dharma and achieve perfection in all areas, but am I a better esoteric Buddhism than Kakushonin? It is not so. I was very fortunate to be in the same position as Kobo Daishi Kukai.

what does that mean?

The difference between Kukai and Kakuai is that Kukai came into contact with raw technology from overseas,

It is said that it was based only on the hints that were given. I believe that it was only after Kukai learned the last traces of the law that he went abroad and came into contact with foreign technology. I have two or three materials that I believe to be the materials for this, but at first he did it by himself and semi-completed the raw techniques brought in from outside (although they were childish), and later transferred them to other countries. I think I’ve unlocked all the secrets

Kukai freely manipulated Sanskrit in his land. He must have known the super-techniques of ancient yoga. It would be strange if a genius like him read, wrote, and spoke Sanskrit, but did not come into contact with yoga, the origin of esoteric Buddhism. There was no doubt that ancient yogic techniques were hidden in his teachings. However, in the remote mountains of Noyarai, he sadly had no connection to the techniques of ancient yoga. I had to devote myself to the extremely difficult task of desperately searching for what he could see and hide in the Shingon Buddhism practice and putting it together with my own brain. His brain finally figured this out. However, the extreme

I have full sympathy.

I stand in the same position as Kukai. No, the passage of a thousand years has given me more convenience than Kukai. I have many times more materials than he does while I am here. In my second practice, I adopted ancient yoga techniques. There was something I was really looking forward to.